黄昏にふたりは


 空を夕陽が染め始めていた。にわかに会場を騒がせたふたりも今しがた城に戻り、その庭を歩いていた。しかし、一言も喋らない。

 数年前ならば、これも普通の光景だったが、今は違う。

 それなのに、沈黙が続いていた。

 だから、業を煮やした夕陽に背中を押されるようにして、フィンがトニカに謝った。

「先ほどは申し訳なかった」

 先日のことを持ち出され、リマにいなされたのもあり、先程よりもずっと落ち着いているのも、もちろんある。反省もしている。

「しかし、どうして私だけが、トニカと名前を呼ぶのだ。やはりおかしいであろう?」


 トニカがフィンとの会話の中でリマのことを『リマ』と呼んだという些細なことがきっかけだったのだ。リマは自分のことを『リマ』と呼べと言ったからが理由ならば、自分も『フィン』と呼んで欲しいと催促したら、無理だと即答された。

 ショックだった。しかし、さすがに、あのままあの場所で、ずっと押し問答を繰り返すわけにもいかず、フィンの腹に引っ込めたままになっていたのだ。それでも、やはり納得いかず蒸し返しさずにはいられなかった。

 それほどにフィンはショックだったのだ。


 少なくともフィンは、元々トニカと自分は同列だと思っていた。そこは、父フレデリックに感覚が似ているのかもしれない。さらには、正式に婚約がなされたトニカの家は、正式に侯爵位となった。だから、トニカは、フィンと同じだとも言えるし、そうなれば、彼女が『殿下』と呼ぶこともなくなるだろうと思っていた。

 それなのに、リマのことはリマと呼べるのに、どうして、自分だけ名前で呼ばれないのか、納得できなかったのだ。


 そう、フレデリックと違い、フィンは、だからと言って、「まぁ、良い」と面白がって割り切れるだけの懐の深さはなかった。

 だから、距離を覚えてしまった。だから、叫んでしまった。暗い表情になってしまったトニカを見て、悲しくなった。あんな言葉、もう二度と言わないと思った。

 もし承諾されてしまったらと、初めて不安になった。トニカがこのまま離れてしまうのが怖いと思った。

 だから、謝った。

 それなのに、トニカは今も口を閉ざしたまま、フィンと目を合わそうともしない。


「……」

 リマに言われた。この間のことを持ち出して。『フィン様は、一足飛びに事を運ぶことをお嫌いになるのでしょう? では、もう少し、落ち着かれてください』

 だから、『恥ずかしい』と言ったトニカの気持ちを慮り、譲歩案を持ち出す。

「では、……いつも呼んでおる『殿下』の上にフィンと付けるだけでも……」

「……」


 確かに、いつもと違う呼び方は、呼びにくいのかもしれない。諦めるべきなのだろうか。そう思いながら、気持ちがずんと重くなるのを、フィンは感じていた。

「無理なのか……」

 鈴の音が聞こえた。

「にゃん」


 小さく鳴いたイブリンがトニカの足元に纏わり付いていた。そろそろ夕餉の時間だ。イブリンもお腹を空かせて待っていたのだろう。フィンの視線がイブリンに移ると、トニカがそのイブリンを抱き上げた。トニカもイブリンを見つめている。トニカはリマの言葉をずっと考えていたのだ。

 『表情も言葉も乏しい子なのですけど、フィンは意外と傷つきやすくて甘えたさんなの。だから、先ほどはあんな場所でごめんなさいね、伯母として謝罪するわ』

 フィンが人の言葉と態度を敏感に感じ取ることは、トニカも知っている。だから、フィンが悪くないことも知っている。


 だけど、口に出そうとすると言葉が喉に痞えて出てこなくなる。

 だけど…………。

 私の方が年上で、でも、殿下の方が目上の存在で、でも、私はその彼の婚約者で。

 確かにお名前で呼んだ方が、失礼ではないのかもしれないのだと思うのだけれど。殿下なんて、他にもいらっしゃるわけだし……。

 そして、久し振りに聞いた「婚約破棄」は本当に胸がずきっと痛んだ。割って入ってくれたリマが神様に見えたし、挨拶の時は笑顔を保っていたけど、本当は苦しくて泣き出しそうだった。


 どうして、呼べないんだろう……。

 しっかりしなくちゃならないのに。それなのに、最近はなんとなく、こと二人でいる時は、それが逆転しているように感じるのだ。

 私の方が見守られているような。

 とても穏やかで。木漏れ日の中にあるような。イブリンが気持ちよさそうに目を細めるのが、とてもよく分かる。


 なにより、フィンの隣はとても自由だ。出しゃばらないように気を付けてはいるが、私が出しゃばったことを言ってしまっても、受け止めてくれる。そんなとても大切な存在だ。

 イブリンなら、じゃあ、フィンって呼べば良いのね、と可愛く言えるのだろうけど…………。

 イブリンがもう一度短く鳴いた。


 まるで「何で言えないの? 変なの」と言っているように、思えた。

 表情も言葉も乏しいとリマには言われているが、トニカはその凪のような雰囲気に安心を覚えるし、自分よりも他人を立てようとするところも、頼りないと言われようとも人の意見を蔑ろにしないところも好きなところである。

 なによりも、トニカはフィンの寂しい顔が見たい訳ではない。ただ、本当に、ただ、ドキドキする。

 きっと、……慣れの問題なのだ。きっと。きっと大丈夫。

 このよく分からない緊張に慣れなくちゃ、ならない。

 目標が決まれば、トニカは努力する。


「…フィン……様と、お呼びしてもよろしいでしょうか」

 トニカの細い声が朱い光の中に溶け込んだ。朱い夕陽がトニカの頬を染めている。しかし、視線はイブリンのまま。トニカはイブリンに視線を落としたまま、優しくその背を撫でている。

 だから、イブリンの背にあったトニカの手を、フィンがしっかりと握りしめた。

「もちろん、構わない」

 バランスを崩したイブリンが「にゃん」と抗議をし、今度はフィンに飛び移り、そのまま腕に抱かれる。フィンの腕の中からイブリンがトニカを見つめていた。なんだか、イブリンに名前を呼ばれた気がした。

 青い瞳がトニカを促す。


「フィン様、……」

「トニカ、本当に申し訳なかった」

 フィンが謝る理由についてトニカは、あまりよく分からなかった。フィンはいつも通りだっただけで、トニカが取り乱しただけで……。

 そして、言葉にして言ってみれば、何のこともなかった。フィンの温かな手を握り返すと、その大きな手に優しく包まれるのを感じた。ドキドキするが、大丈夫だった。苦しくない。

 見つめるイブリンに心の中で声を掛ける。


 ねぇ、イブリン、フィン様は温かいのですね。

 そうよ、あたしのフィンは、あったかくてぬくぬくなのよ。だから、だいすきなの。


 そんな風にイブリンが喋るはずもないのに、……自分が可笑しくなった。胸の痞えが取れると空腹を思い出してしまう。

「……フィン様はお腹が空いてませんか? 私はお腹が空きました」

 挨拶ばかりしていて、結局何も食べられなかったのだ。見上げたトニカにフィンの視線が降りてくる。

「そうだな。空腹だ。厨房に何か作らせよう」

 いつもと同じお顔とお声。だけど、ほんの少し笑ってらっしゃる。大丈夫、変わらない。

 そんな不器用なふたりをイブリンが見上げて、心配そうにもう一度鳴いた。


「大丈夫よ、イブリンのご飯は先に用意しますからね」

 それならいいわ。


 満足そうなイブリンに、微笑み合ったふたりは、互いの温もりを感じながら、そのまま歩き始めた。


「トニカは、何が食べたいのだ?」

「フィン様のお好きなものを食べたいと思います」

 小首を傾げるフィンに、トニカが微笑んだ。

「料理長のお食事はみんな美味しいですものね。迷いますわね」

「そうなのだ、料理長は腕がいいからな……デザートはババロアが食べたいのだが……作ってくれるかのう」

「フィン様は、ババロアが好きですものね。食事は着くまでに考えましょう」

 微笑むトニカに、フィンが「そうだな」と肯いた。



 太陽と月が混じり合う、そんな刹那のひととき。イブリンの欠伸に気付かない程、ふたりはおしゃべりに夢中になっていた。



(おしまい)

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例えばこんな婚約破棄、許されますか? 深月風花 @fukahuka

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