第10話

 表面上はなにごともなく過ぎていく。茜西中学校の波乱含みの一学期は終業式をもって幕を閉じ、美世にとって中学生となって初の夏休みがやってきた。例年なら長期休みは家に来る様々な流派の人との交流を深めるチャンスなのだが、今年はそうもいかない。

 七月のコンクールをもって三年生は引退し、二年と一年の新体制となった吹奏楽部は、早くも次のコンクールでの入賞を目指し、夏休みも土日を除くほとんどの平日で練習する予定となっているからだ。旅行など家の都合で部を休むことも許されてはいるが、周囲の部員、特に先輩方に特別配慮をしないと後々面倒なことになるらしい。部活を休むつもりのない美世にはあまり関係のないことではあったが。

 赤野家自体も今年は例年よりも活気を失くしてしまう理由があった。原因はもちろん玉美の不調だ。疲れやすく立つのもやっとなようで、玉美は人々の前に姿を現すことがめっきり減ってしまった。それでも以前から赤野と交流のある舞や和楽器、生け花や書道などの各流派の方々が見舞いに来たり玉美の師事を願うことがぽつぽつあるが、玉美自身が断ることもあるようで、赤野に立ち寄る人の数がかなり減った。夏には赤野家に数日滞在する客も幾人かいたのだが、今年は一人もいない。皆、玉美に気をつかっているのだと春子さんが溜め息交じりに教えてくれた。辛うじて地域の方々と食事を伴にする機会は数日に一度のペースで維持しているようだが、以前より和気あいあいという雰囲気が損なわれているのだという。

「玉美様も不在ですし、子どもたちもいませんからね」

 と、春子さんはさみしそうに笑っていた。確かに美世たちは中学生になってから集まる機会が激減していた。そしてこれから増えることもないだろう。

 あの日以来、ささめとまともな会話をしていない。ささめは晴豊とも接触を避けているようだ。ずっとささめの味方だった、修でさえも同じような目に遭っているらしい。修は日に日に元気をなくし、夏休み中も自室にこもっていると、旅行のお土産を持ってきてくれた修の母が言っていた。家族旅行にもついてこなかったと。

 晴豊は、何をしているのか正直よく分からない。夏休みに入る前に会った時には山に行ってみるつもりだと言っていた。へのへのもへじや額に腕を生やした化け物の無事を確認したいと。どういう訳かあの日以来あちらへ行くことができなくなってしまったから、手がかりを探してみると言っていた。晴豊の姿勢は三人の中ではもっとも前向きだと言っていいだろう。美世は自分が逃げるように部活にのめりこんでいることを自覚している。

 それでも何かに打ち込めるということに救われた。現実は、自分の力では何一つ好転できないような気がしていたから。

 ライアンはあの日の翌日何食わぬ顔で登校してきた。三人の誰もがライアンと話をしようとは思えなかったし、ライアンも三人に接触してこなかった。ただ、ささめとは親し気に会話する様子が校内で見られたらしい。ライアンが特定の誰かと親しくすると必ず相手の見た目や学力や家柄のことまで調べ上げる連中がいて、相手のことを悪しざまに噂するそうだが、彼らをもってしてもささめを貶すことはできなかったらしい。二人は溜め息がでるほどお似合いの二人だと、羨望のまなざしを向けられる程度に済んでいる。

 もう一つ、粟見から失われるものがある。夏祭りでのお手玉奉納だ。

 もともと高齢化による人手不足や原材料費が馬鹿にならないことが問題視されていた。それでも地域が一体となる貴重な行事としてお手玉の奉納は特別な地位を保っていた。しかし、今年、雨の中で子どもたちだけで山の中にお手玉の山を運ばせたのはいかがなものかという声が上がったらしい。誰から発せられたのか、どのくらい賛同者がいたのか、何も定かではないが、ともかく来年から祭りの翌日にお手玉を山奥へ運ぶという行事は禁止された。お祭りでお手玉を作ったり飾ったりすることまでは禁止されていないが、奉納されないとなると老人たちのモチベーションは明らかに下がるだろう。来年の祭りはそれ以前のものとは意味合いが変わっていくことは間違いない。

 粟見にある、あちらという世界への緩やかな信仰が、急速に失われつつある。ライアンの思惑通りに。美世には果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかも分からない。

 自分たちの生業に、誇りを持っていた。自分たちにしかできない崇高な使命を果たしていると。それになにより美世は歌うことも踊ることも大好きだった。

〝あぁ、本当に君が一番可哀そうだ。やりたくないことをやらされなければ存在意義がないかのように刷り込まれている〟

 ライアンのその言葉が、美世に己が信じていたものへの疑いの目を向けさせる。

 晴豊が、たぐいまれな能力を持ちながらも本心で荒事を避けたがっているのを知っていた。でも晴豊は自分があちらに行くときには必ず一緒に来てくれた。傍から見ればこれは強要だったのかもしれない。美世は、自分が行ってきたことが正しいと言えるだけの根拠を持っていなかった。

 最早自分たちは望まれていないのならば、粟見のあちらという存在が今を生きる誰にも必要とされていないのなら、終わりにするのは仕方のないことなのかもしれない。

 美世は鬱々とした気持ちを抱えたまま、今日も部活の練習に行くためにバスに乗る。

 夏休み、晴豊はほとんどの時間を山で過ごした。へのへのもへじやあの化け物の手がかりが、わずかでも山のどこかに残ってやしないかと探したからだ。晴豊にとって、いや粟見の人々にとって、故郷の名そのものである粟見連峰はやはり特別な場所なのだろう。晴豊はここに何らかの痕跡が残るはずだと固く信じていた。

 美世と夏休みが始まる前に何度もあちらへ行こうと定番の文言を定番の場所で唱えても、何も起こりはしなかったが。

 夏の高い日差しの下で、日が沈むまでの長時間、山の中での探索活動は普通なら厳しい作業と言えそうだが、晴豊にとっては気づいたら日が傾き始めるくらいに熱中する作業だった。水筒とおやつの入った袋を腰に下げて山に分け入るのは島にいたころから変わらない。晴豊は今年も真っ黒に日焼けした。

 一度熱中しすぎて、夜になってもまだ山の中にいたことがあった。距離的に美世の家の方が近かったので、晴豊は一度家に連絡するためにも美世の家にお邪魔した。春子さんが呆れながらも晴豊に夕食を用意してくれた。

「美世は自室で勉強しているようですよ」

「じゃあ無理に呼ばなくていいや。ご飯食べたら帰ります」

「もう遅いから泊っていきなさい。玉美様もあなたと話がしたいようですよ」

 晴豊は家にいる父に連絡を入れた後、玉美が待つという縁側へと向かった。

 開け放たれた縁側に、腰掛ける凛とした姿があった。

「よく来てくれましたね、晴豊」

 その声が以前よりか細くて、晴豊は胸が締め付けられるように痛んだ。生きる力は存外に声に出る。老人を幾人も見送ったことのある晴豊は知っていた。

 隣に座るとまだ玉美の方が背が高かった。しかし首筋も手のひらも、晴豊よりも細く骨ばってしまっている。

「こ、こんばんは。今夜は涼しいですね」

 晴豊はややぎこちないが、玉美は笑って頷いた。

「ええ、過ごしやすくてありがたいです。あなたは日中は毎日山にいると聞きました。疲れているのに時間をもらって申し訳ないわ」

「い、いいえ。めっそうもない」

 晴豊は最近覚えた言葉を使ってみた。多分合っているはずだ。

「あなたをここにつきあわせたのはね、下らない昔話を聞いて欲しかったからなの」

 玉美は静かに切り出した。

「私が今のあなたくらいの年の頃、いいえ、もう少し年上だったわね。顔にへのへのもへじを貼り付けた、おかしな人に出会ったのは。本当にふざけた人だった」

 玉美の口からふざけた人などという言葉が出るのも意外だが、本当に面白そうに笑うのも意外だ。頬にほんの少し赤みが差し、表情が若々しくなる。

「私は本当はお稽古のすべてが嫌いで、やめてしまいたいといつも思っていました。立場が立場でなければ、とっくにやめていたことでしょう。でも周りの人たちは皆いい人たちでね、一度教えてしまったら教えた側を凌ぐ技量を持ってしまう私をやっかむ人などほとんどいなかった。私はお稽古は好きではなかったけれど、粟見の人は好きだったの。ですから本当のことを口にしたことがなかった。私の本心を知っていたのは、範守とあのふざけた人だけ」

「のりもりって、果泥の奴ですか?」

「ええ、そうです。果泥の最後の当主。歴代の果泥のなかでも有数の実力を持っていながら、私と同じように自分の生業が嫌いだった男です。私たちは似た者同士だったから、お互いの気持ちが手に取るように分かった」

 晴豊は以前水族館で見た男の姿を思い出そうとした。小柄で目つきの鋭い男だった気がするが、もうほとんど思い出せない。今思い返せば、あの時感じた敵わないという感覚は、ライアンと対峙した時と似た感覚だったような気もする。

「範守は、私のためにこんな馬鹿なことをしたのだと言いました。粟見のすべてを裏切ってでも、私を役目から解放すると」

「え?馬鹿なことってなんですか?」

 薄々聞いてはいたが、実際に何があったのかを聞くのは初めてだったので、晴豊は躊躇わずに訊ねた。

「粟見の禁忌と手を組むことです。それは言わば亡者の塊。はじめは一人だったのかもしれませんが、一人また一人と取り込むことで、何者も敵うことのない巨大な死そのものとなった存在。あなたも実際に目にしたのでしょう?」

 晴豊は頷いた。確かにあれは集団だった。

「普通はあんなものに取り込まれたら自我を失います。しかし範守はたぐいまれな猛者だったので、一時支配権を手にしていました。その状態で、私に一緒に逃げようと言ったのです。後先考えない愚行でした。でも私は、嬉しかった。本当は一緒に落ち延びていきたいほど、嬉しかった」

「…ってことは、だけど、一緒に行かなかったんですよね?今ここに玉美さんいるし」

「私は範守よりも粟見を選んだのです。この身に不釣り合いなほどの能力を分け与えられた私を、受け入れてくれた粟見を、捨て去ることなどできなかった。ですが私一人だけだったならば、範守を追い出すことなどできなかったでしょう。そのとき初めて、あのふざけた人と出会いました。私たち生者を助けに来てくれたのです」

「なんなんですかね、あいつは」

「さぁ。自分はうんと前にあちらにきて、そのまま帰りそびれたのだと、私にはそう教えてくれました。あとはただ、大丈夫だと。お前の大事なものは、何一つ失われないと。こいつは俺がなんとかするから、仲間のところへ帰れ、と。私はそのまま、事情も分からず動転する仲間を連れてあちらから去りました。以来その人とは、出会っていません」

「じゃあ、範守がどうなったかも、知らなかったんですか」

「ええ。あなたたちの話を聞いて、やはりあの方が範守を助けてくれていたのだと確信しました。そしてあなたたちに、私たちの因果を引き継がせてしまったのだということも。晴豊、あなたたちが無事に戻ってこられて本当に良かった。この先もう二度と誰もあちらへ足を踏み入れることができなくなったとしても、あなたたちの誰にも責任はありません。私たちの代から、こうなることは分かり切っていたのです」

「…なんかしっくりこないなぁ。だって、それじゃあさぁ、ライアンのことも、へのへのもへじ先輩のことも、中途半端で終わって良しになっちまう」

「力の及ばない物事というのは、いつの時代も必ず存在するのだと私は思っています。力の無いものは、引き際を見極めることが肝要です」

玉美の言い回しは難しいが、言いたいことは分かる。

「もう関わるなってことですか。粟見のあちらには」

「私があなたになにかを命令することはできません。ただ、かつてあちらに行くことを勧めた私が言うことではないのでしょうが、私を含めあなたの身を案じる人々が現実にいることを、忘れないでくださいね」

 二人の間に、沈黙が流れる。しかし夜の山というのは、存外に静かではない。二人が押し黙るとかわりに喋りだすように、虫の声が聞こえてくる。

 その虫の声に紛れるような小さな声で、しかし揺るがない決意を持って、晴豊は言った。

「俺は、このまま知らないふりをして、生きていくのは嫌です。身の程知らずだろうがただの雑魚だろうが、あいつらを探しに行きます」

 晴豊は立ち上がり、正面に玉美を捉えてから、再び腰を下ろすと頭を下げた。それから玉美の方を見ることなく縁側を後にする。

 玉美は、去っていく晴豊の姿を、いつまでも目で追っていた。

 夏休み明けの茜西中学校に、ささめの姿はなかった。それどころかライアンの姿もない。二人とも、九月から新年度が始まるパブリックスクールに転校したのだという。二人はこのことを誰にも打ち明けていなかったらしく、生徒たちは驚きと喪失感の入り混じったあまり中身のない噂話を繰り返している。美世にとって二人の行動はあまり違和感のないものだった。目的を果たしたライアンが、この地に留まる必要はない。ささめにとっても稲取家にとっても、高度で洗練された教育を受けに行くことはメリットでしかないだろう。心配なのは修だ。

 稲取家はもちろん実の娘が使わなくなったからと言ってバスの手配を取りやめることは無かった。しかも朝練に行く生徒とそうでない生徒のために登校の便を分けて手配してくれる細やかさを持ち合わせているので、朝練で早い便に乗る美世は修とほとんど顔を合わせることがない。(自転車通学は朝練が始まった段階でほぼ諦めた)学校ですれ違うことはあるが、美世が声をかけても力の無い返事が返ってくるか稀に返ってこないときもあるくらいだ。それにいつ見かけても一人でいる。とても新たに友達を作るような心境にはなれないのだろう。でも一人でいる心細さは、いじめられっこだった美世には痛いほど察せられる。修は自分ほど一人が苦ではないのかもしれないが、幼馴染として何とかしてあげなければと義務感のようなものがふつふつと湧いてくる。しかし三組から七組は遠い。

「このままでは学校に来なくなるのも時間の問題だと思うんだ」

 テスト期間で部活から解放された美世は、放課後に晴豊を家のリビングに呼び寄せて相談した。

「そのうち部屋にこもりきりになって、僕たちとも会ってくれなくなるかも」

 深刻な表情の美世とは裏腹に、晴豊は暢気におやつのせんべいをぼりぼり食べる。

「考えすぎな気がするなぁ。修が本当に耐えきれなくなったら、俺はともかく美世には相談しに来るよ」

「いや、僕ではささめのかわりにはなれない」

「ささめのかわりになればいいとは言ってねぇよ」

「でもかわりが必要なんだよ。修が生きていくのに必要なんだ」

「うーん…今の修ってそんな、すがるものが欲しいって感じか?ただ考えてるだけって感じがするんだけど」

 二人が熱意に落差のある議論をしていると、リビングのドアを開けて入ってくる人がいた。美世はその人には無関心だったが、晴豊は目が釘付けになった。

 地味な色のスウェットを身に着けていても、目を見張るほどの美人なのだ。

 その人はぼさぼさのショートヘアをぼりぼりと片手で掻きながら、もう片方の手で冷蔵庫を開けて中身を物色する。絵にかいたようなだらけたしぐさでも美人がするとドラマの一コマのようだ。

「よっしゃ、ラスイチ見っけ」

 その人はやけに澄んだ声で冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出した。その場で瓶を開けて一気飲みをする。瓶の中身を飲み干したその人と、晴豊の目が合った。

「あれ?お弟子さんにしては若すぎるね。まさか美世の友達?」

「あ、初めまして。青野晴豊です」

「あぁどうもお世話になってますぅ。美世の母です」

「えぇえ?お母さん?」

 その人は晴豊の反応に気を悪くすることなくカラカラ笑った。

「美世ぉ、イケメンじゃんこの子。いつから仲良くなったの?」

「うるさい。晴豊は女の子だ。これ以上失礼なことを言う前に部屋に戻れ」

 美世は手にした英語の教科書から目も話さずに言い放った。

「えぇ?女の子なのぉ?」

 美世の母にまじまじと見つめられ、晴豊は若干居心地が悪くなる。

「…まぁなんでもいいや。美世と仲良くしてくれてありがとうね」

 美世の母は一方的に晴豊の手を掴んでぶんぶんと振り回し、頭をなでるとリビングから出て行ってしまった。

「無礼な母でごめんね。あの人は仕事に全能力を振り切ってしまっているから人として最低限の礼儀しか持ち合わせていないんだ」

「…何の仕事してるか聞いてもいいか?」

「看護師だよ。救急担当で普段は病院の近くにアパート借りて住んでいるからなかなかこっちに戻ってこない」

「初めて知った」

「言ってなかったっけ?まぁ普段はいない人だから」

「寂しくなかったのか?」

「別に。おばあさまもおじいさまもいるし。春子さんもいるし。他にもいっぱいここには人がいたから」

 君もそうだったんじゃないか、と美世は口に出しそうになってやめた。自分より晴豊の方がよほど寂しかったんじゃないかと思ったからだ。

「へぇ~、そうかぁ…あ、ごめん、修の話だったよな」

 晴豊が申し訳程度に取り出した数学の問題集を鉛筆でつつきながら話を戻す。

「結局美世は修にどうなって欲しいんだ?」

「どうなって欲しいというか…ささめはもう、粟見には戻らないかもしれないし、戻ったとしても、今までよりずっと遠い存在になると思うから…それに慣れて?欲しいのかも」

「ふぅん…美世はもう諦めてるのか。ささめと仲直りすること」

「仲直りも何も向こうが僕たちを切り捨てただけだろう」

「許せないか、ささめのこと」

 美世は、英語の問題集を進めていた手を止めた。しかしそのまま問題集からは顔を上げない。

「許せない。でも、僕たちが今まで行ってきた粟見とあちらとの橋渡しにちゃんと意味があったとも言い切れない。いつかささめと話し合える日が来るとしても、それはずっと先のことになる気がする。それこそ何十年も先だ」

「そっか。美世は気が長いなぁ」

「悪い?」

「悪いんじゃねぇよ。良いことだ、多分…ところでこれマジで意味わかんねぇんだけどどういうこと?」

 晴豊が美世に見せた問題は、応用には程遠い基礎の基礎的な問題だった。

「晴豊…中学生は勉強を疎かにしすぎたら進級できないって知っている?」

「ウソ、マジで?」

「嘘だよ」

野外で活動するのが厳しい季節になってきた。日が沈むのが早くなれば、それだけ活動できる時間も減る。多少夜目が効くとはいえ、晴豊は夜の山で長時間ウロウロするほど迂闊ではない。今日も何の手がかりも見つけられぬまま、晴豊は追い立てられるように粟見の山を越えていた。今日は晴豊が飯当番だから急がなければ。

飯当番はこの十一月から急に始まった当番制だ。週ごとに、晴豊と父で交代に晩御飯を作る。中学生になっても野山に入り浸りな晴豊を心配した、父の策略なのかもしれない。父は凶暴な風貌とは裏腹に料理が上手い。晴豊は先週の初当番で、その恐ろしい腕前を発揮した。やったこともないのに揚げ物に挑戦し、豚肉を真っ黒こげにして提供したり、ご飯の水の分量を間違えたり、餃子を作ろうとして皮に中身を詰めすぎ、破裂させたりした。父はどれも文句も言わずに食べてくれたが。しかし今週の晴豊はひとあじ違う。なぜなら先週の週末に美世の家で春子さんの厳しいお料理教室を受講してきたからだ。二日間、朝から夕方まで、調味料の測り方、火加減調節、具材の切り方など、基本をひたすら教えてもらった。春子さんは厳しいが、言葉や動作で晴豊に丁寧に教えてくれた。作った料理を美世や玉美、美世の祖父にも食べてもらい、美味しいと言ってもらえた。おかげで晴豊は自信に満ちている。

そう言えば美世の声、やけにガラガラ声だったな。風邪でも引いたのだろうか。

吹き下ろす冷たい風は、晴豊に急げ急げと促すように声を上げる。夕日はすでに、山の向こうに沈んでいた。自転車のライトは少々頼りないながらも、懸命に前方を照らしてくれている。晴豊は視覚と感覚を頼りに、日中と同じようなスピードで山を駆け下りた。

風が、唸り声を上げて、追いかけてくる。

…ぐぐぐぁぁぁぁううぅぅぅ…

まるで本当に誰かの叫び声のような音に、晴豊は思わずつんのめるようにして自転車を止めた。この声を、どこかで聞いたことがある。

晴豊は自転車を降りて後ろを振り返った。暗闇の中を目を凝らして見つめてみる。辛うじて見えるのは騒めく木々や舞い落ちる枯葉ばかりで、生き物の気配は感じられない。

 晴豊は、大きく息を吸い込んだ。

「待ってろよ!いつか絶対、会いに行くから!」

 木枯らしばかりが吹きすさぶ山の中から返事はなかったが、晴豊は再び自転車に乗り、全速力で走りだす。

 再来月には自分たちは先輩になる。美世にはそれが少し信じられないような気がしていた。もう、中学の一年目が終わるなんて。

 信じられない気がすると言えば、先日の二月十四日だ。バレンタインデーとかいう自分とは縁の遠そうな行事に、今年は強制的に参加させられた。

 所属する吹奏楽部は女子部員が多く、先輩や先生の目を盗んで頻繁にチョコレートの交換が行われていた。美世はハナから参加する気がなかったので、チョコレートなど作っていなかったのだが、同級生からも先輩からも多くのチョコレートを受け取ってしまった。

 幸いにも一喜も同じような目に遭っていたので、来月二人で協力してお返しの品を集めることにした。

「でも、僕と美世君合わせてお返しするのでは割に合わない子もいるね」

 と一喜に申し訳なさそうに言われ、美世は自分がもらったチョコレートの中にやけに張り切ったラッピングや見た目にこだわったチョコレートが混じっていることに気が付いた。

「なんで受け取る人によって中身やラッピングを変えたりするのだろうね。義理ならまとめて同じものにすればいいのに」

「美世君、それ本気で言ってるの?」

 一喜が呆れたように言った。

「君がもらったものの中には、明らかに義理ではないものが含まれているってことじゃないか。もらったときの相手側の反応を覚えていないの?」

 言われてみれば、確かに何かを期待するような眼差しでチョコレートを手渡してきた子たちも何人かいた気がする。プラスな反応が欲しいのかと思って「ありがとう」や「おいしそうだね」などと言ってみたが、なんとなくどの子もがっかりしているようだった。

 そうか。気の利いた言葉が欲しかったのではなくて、好意が欲しかったのか。

「…そういえば、クラスの女の子たちからも手紙のようなものが入ったチョコレートをもらってしまった…まだ読んでないけれど…」

「なるほどね。周りの目もあるし限られた時間の中で思いを伝えるために手紙を入れたんだね。中身は告白かもしれない」

「気が重くなることを言わないでよ」

「どうして?嬉しくないの?」

「…嬉しくはないなぁ。期待に応えられる気がしないし」

「へぇ、誰とも付き合う気はないんだ。他に好きな子でもいるの?」

「そういう訳では…今は部活や勉強や、自分のやりたいことに時間を割いているから、他のことができないだけだよ」

 事実、美世は一日のわずかな空き時間をほとんど歌や踊りの稽古に費やしている。玉美は今ではほとんど自室から出てこないので、一人で動きを確認したり録りためた映像を見ながら動いてみるばかりだったが。幼いころから稽古場で体を動かすのが習慣だったので、稽古は美世にとって生活の一部なのだ。一向に回復しない玉美の体調のことを考えないようにするためにもこのルーティーンを保ち続けているのかもしれない。

「そうなんだ。それじゃあやっぱり分かりやすいように僕と義理のお返しをするのが無難かなぁ。期待させるわけにはいかないけれどかといって好意を無視するのも失礼だろうし」

「そうだよね。男子二人でかわいいお菓子を買うのは勇気がいるけれど、義理は果たさなければ」

「美世君はしゃべらなければ女の子に見えなくもないよ」

 それは何のフォローにもなっていないと、美世は思うのだった。

 髪が伸びてきて重い。いっそ角刈りにでもしてすっきりしたいのだが、短くすればするほど、髪を切る手間が増える。昔は父がよくバリカンで髪を刈ってくれたのだが、中学生になるときにこれからは自分で散髪屋へ行けとお金を渡されるようになった。粟見に唯一ある散髪屋は老夫婦が経営する小さな床屋で、晴豊はそこでも全く構わないのだが、店は地域の老人たちでいつもそこそこ賑わっているしなんとなく自分がいると場違いのような気がして一度行ったきりもう行っていない。一久は粟見の山を越えてオシャレなヘアサロンにわざわざ足を運んでいるらしい。紹介してやろうかと言われたこともあるがカット代が晴豊の予想の倍以上高かったので遠慮しておいた。という訳でずるずると髪を伸ばし続けてしまい、今では胸のあたりまでの長さがある。前髪も含めていつも雑にひとまとめにしているのだが、かえっていかつさが強調されるようで、進級して新しいクラスになると「武士」というあだ名がつけられた。またしても同じクラスになった一久などはにやにやしながらこのあだ名で呼んでくるので、少しイラっとする。

 美世と修とは、別のクラスになってしまったが、二人は同じ四組なので晴豊はなんとなくホッとした。きっと美世も同じように思っているだろう。

 春らしい陽気が続きクラスメイトの中には花粉症でマスクが手放せない子も何人かいるが、全く花粉が気にならない晴豊は今日も山で探索活動を続けていた。春の山は生き生きとした生命の香りにあふれている。もう半年以上探索して、何の手がかりも見つけていないのに、晴豊はなぜか何かを見つけられる予感を失くさずにいられた。春の陽気が、晴豊に希望を持たせてくれているのかもしれない。

 いつも自転車を降りるのは、奉納舞をしたあの少し開けた楕円形の広場の入り口だ。晴豊はここから日によって粟見側に行ったり反対方向に行ってみたり、回り道をしながら崖を登ったりはたまた崖下へ降りたりしている。今日はどこへ行ってみようかとあたりを見回すと、崖の僅かな足場に根を張る山桜が、花びらを散らしているのが目に映った。その薄いピンクは、鮮やかな山の中でもひときわ目立つ。

 ふと、あの木に乗ってみたいなと、晴豊は思い至った。

 晴豊は山桜の真下へと足を運び、崖に登れそうな足場があるか確認した。手足をかけられそうなとっかかりはあまり多くはなさそうだ。もっと登りやすそうな場所を探したほうがいいだろう。晴豊は崖の周りを歩き出す。春に浮かれて囀る鳥の声が、頭の上から降ってくる。

 崖が少しなだらかになり、先ほどよりは自分が登りきるイメージができそうな場所を見つけたのは、山桜からはだいぶ離れたところだった。もちろん山桜はもう崖の陰に隠れて見えなくなってしまっている。晴豊ははじめは軽快に次の足場へと体を持ち上げながら崖を登り、頂上に近づくにつれて慎重に手足を運んだ。足元を見たらあまりの高さに背筋が粟立つ。それは晴豊にとっては恐怖というより、心地よい緊張感だった。

 崖の頂上は決して広いとは言えないが、崖下に広がる絶景が晴豊を出迎えてくれた。粟見の山は未だ植物たちのものだった。山裾にある粟見の集落も反対側の粟見よりはるかに開けた市街地も、今の晴豊にはずっと遠くにあるように感じられる。うっかり崖を登った理由を忘れそうになったが、目の端に桜の花弁が飛んでいって晴豊は目的を思い出した。

 山桜は、崖の頂上を少し下った足場にある。正直降りる方が難しいので、本番はここからと言ってもいいのかもしれない。晴豊は山桜のある足場への距離と、その間にとっかかりがどの程度あるのかを確かめた。百七十三センチのこの身長でもってしても、最後のとっかかりから山桜までは長さが足りなさそうだ。

 それなら踏ん張れないほど小さなとっかかりから目指すのではなく、ここから一息に降りればいいか。

 晴豊は山桜の幹に狙いを定めた。下手に枝につかまれば、折れた枝とともに崖下へと投げ捨てられる。幹につかまらなければ。

 美世が見ていたなら、血相を変えて止めただろう。しかしここには晴豊以外誰もいなかった。晴豊は驚くべきほどあっさりと、頂上から身を翻した。この落下するときに感じる風が、心地よい。

 上々だ。幹と枝の接着部分に右足をかけ、左腕を幹に巻き付ける形で着地できた。しかしここからどうしよう。木に乗ってみれば何か考えが湧くものだと思っていたが、先ほど見た景色と大差ない光景が目に映るだけで、何の考えも湧かない。自分にはこういう考えなしの行動が目立つということを、改めて知るばかりだ。それが無性におかしく思えてしまって、晴豊は苦笑してしまった。そんなに大声を出したつもりは無いのだが、山が晴豊の声を拾っていつまでも耳に笑い声が残る。その笑い声を目で追うようにあたりを見回したら、ひどく見覚えのある巨木が目に入った。しかしそれは、以前見たときとはひどく姿を変えていた。晴豊はそこに行かなければと強く思った。

 やはり晴豊の行動は常軌を逸している。断崖絶壁と言っても過言ではないこの崖を、ためらうことなく飛び降りた。晴豊が選んだのは崖の脇に生える樹齢の若そうな細い木で、猿のように上手く木の幹を腕に巻き込んで高地から飛び降りた衝撃を外に逃した。いきなり幹にぶらさがってきて、この木にとっては甚だ迷惑だっただろう。

 晴豊はするりと木から降りて、巨木の方へとひた走る。なぜ、今までそこに行かなかったんだろうと、気持ちが昂るのを止められない。まるで引き寄せられるように、晴豊は一直線に巨木の前へと辿り着いた。

 自分たちが文言を口にしてあちらへと招かれていた、あの巨木の前へ。

 最後ここに来たのはいつだっただろう。なぜ自分は、無意識にここを避けていたのだろう。あちらへ行くと言えばここに来るのが当たり前だったのに。

 巨木は、雷に打たれたかのように、真っ二つに亀裂が入っていた。根本のあたりでぎりぎり繋がっているだけの状態だ。

 その裂け目に、何か細長いものが横たわっている。晴豊は恐る恐るともいえるような慎重さで、ゆっくりとそれに近づいた。心臓が痛いほど鳴っている。

 巨木の裂け目には、晴豊があちらで甲冑の武者から受け取った刀が、鞘に収まった状態で置かれていた。

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青い彼女と赤い僕 中学生編 @sonohennohito

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