第9話

 失踪した子たちが同じ日に見つかったこと、その誰もが失踪中もその前後も何をしていたのかを覚えていないことは、茜西中学校で大きな話題となった。マスコミが取り上げてもおかしくはないほどの不可思議な事件だが、失踪した子のどの親も自身の子が顔も知らない大勢に晒されるのを避けたがったので表面上はあまり大事にはなっていないらしい。それも失踪者が全員無事に見つかったからこそなのだろうが。

 事件のあらましはただ噂話となって学校のあちこちでくすぶっている。あと数年も経過すれば、原形を無くし真偽不明の学校の七不思議となって残っているだけになるのかもしれない。

 晴豊としては、ともかく三人が無事に戻ってこられて良かったの一言に尽きるのだが、粟見のあちらとこちらを行き来する者としては、無事に解決したとは言い難いようだ。

 あの日戻ってきた三人をじっと見ていたライアンの目。それに敵意とも言えるようなものが込められていたことは晴豊にも分かっている。そしてそのすぐ傍にいたささめ。

 ささめがライアンを呼んだのは間違いないだろう。もしくは予め四人が来ることを伝えていたのかもしれない。ささめが何を考えているかなど晴豊には分からないが、それが粟見のあちらを行き来するたった四人の仲を壊してしまわないように願うばかりだった。きっと美世も修も同じように思っている。あれ以来四人で集まることはまだ無いのだが、明日の粟見の夏祭りには一緒に花火を見る約束だ。晴豊はそれが楽しみなような、恐ろしいような心地がしていた。

「ウチ去年もそっちの祭り行ったことあるんだー」

 給食の時に、席が近い戸崎恵里佳が話しかけてきた。失踪時、晴豊に声をかけられたことなどすっかり忘れているようだが、戻ってきてからは以前より晴豊に親しみを感じているようでよく話しかけてくる。もちろん晴豊は何を話したのかを覚えているが、それをわざわざ蒸し返す気などさらさら無い。

「屋台で食べ歩きしてお手玉作った。夕方になる前に帰っちゃったんだけど、本当は夕方の踊りとか花火がメインなんでしょ?」

「うーん、別に見なきゃいけないわけじゃ無いと思うけど。でも花火キレイだったから見られるなら見た方がいいかもな。踊りは俺は去年踊る方だったから見た方がいいのかは分からん」

「え?晴豊も踊ったの?一久も踊ったんでしょ?」

「うん、あの時はちょっと色々あったけど、踊り自体は成功だったんだと思う」

「ふぅん。今年も踊るの?」

「いや、踊るのは小学生だから俺たちはやらない。かわりに中学生はお客さんの道案内とか店番とか手伝うんだってさ」

「マジ?じゃあ遊べないじゃん」

「店番もお客さんと話すのも結構面白いらしいぜ?茜西の中学生なら粟見の人じゃなくても手伝い来てもいいって言ってたし戸崎も来れば?」

「えぇ~どうせバイト代とか出ないんでしょう?」

 とか言いつつ戸崎は乗り気のようだ。きっと一久に相談しに行くだろう。戸崎が一久を特別に意識していることはひどく分かりやすい。

 放課後になり粟見へ戻ると、祭りの最終日とあって準備は大詰めを迎えていた。粟見小のあちこちからやれガムテープが無いだのマーカーはどこへ行っただのそういえばあの話はどうなったのかだのと無駄に慌てる人々の声がする。晴豊は去年と同じく校庭で舞台の設置を手伝ったりテントを組み立てるのを手伝ったりしていた。力仕事は男性比率が高く、(もちろん平均年齢も高めである)そんなもんよりこっち手伝えだのぼさっとしてんならこれやっとけだのと校舎の中よりやや乱暴な言葉が飛び交っている。

 テントの設置がひと段落ついて、グラウンドのほぼ中心に設置途中の舞台の方へと手伝いに行くと、手前に一際目立つ後姿があった。その人は振り向きざまに晴豊に気づくと、初夏の日差しよりも眩しい笑顔を見せた。

「やぁ、晴豊!」

 このあいだとは随分違う雰囲気だ。

「君もこっちの手伝いに来ると思ったよ」

 まるで以前から自分も手伝いに来ているかのような言い方だ。もしかしたら晴豊が知らなかっただけでそうなのかもしれない。しかしライアンが手伝いに来ればあのイケメンは誰かと噂話にでもなりそうなのに。

「イベントスタッフも何人か雇っているみたいだけどほとんど住民主体で準備しているんだってね。人々の静かな熱気が伝わってくるよ」

「静かか?」

 そこそこ怒号が飛び交っているのだが。

「手を動かす量に比べたら断然静かだよ。真面目な人々が多いのだろうね」

 どうやら自分とライアンでは見える景色が違うらしい。

「なんで手伝いに来ようと思ったんだ?」

 粟見に縁も所縁もなさそうなライアンが粟見を気にかけるのが不思議で、晴豊は訊ねた。

「僕は粟見に特別な思い入れがあるんだ」

 晴豊の聞き方に気を悪くした様子はなくライアンは答えた。

「粟見に来たことでもあるのか」

「いいや、実際に足を踏み入れたのはほんの数日前からだ。そのずっと前から粟見に興味を持っていた」

 なぜか、と聞く前に、運搬車から舞台の骨組みを運ぶおじさん連中がだらだらとしゃべる二人を見つけた。

「おい、おめぇらも手伝え!」

 二人はおしゃべりを中断し、次々と舞台の一部を運んでくる運搬車から中身を運び出す作業に追われた。

 晴豊が聞きそびれた理由は、そう時を措かずに聞くことになる。

 川の向こうから打ち上げられた花火が、夜空で咲き誇っている。晴豊はラムネの瓶を傾けながら花火に見入っていた。淡い炭酸の風味と甘ったるさが口に残る。

 人々で賑わうグラウンドから離れた校舎の屋上は、地上の喧騒がさざ波のように遠のき、静けさと夜の闇が支配していた。弱い風が浴衣や甚平を着る各々の裾をたなびかせ、汗を冷やしてくれるので湿度は高いが涼しいくらいだ。

 四人は屋上に来てからなぜか誰もしゃべろうとしない。露店で食べ物を買うときには周囲に負けないように声を張り上げ、校舎に入るときには晴豊を先頭にして暗い怖いと怯えながらもはしゃいでいたのに。屋上へ来た途端、ぴたりと口を閉ざしてしまった。

 それは四人の誰もが本題を切り出すことを躊躇っていたからに他ならない。

 沈黙を破ったのは修だった。

「今年も粟見の夏祭りは目標以上の収益を上げることができたそうだよ。経費を差し引いた純利益は校舎の一部を増改築する費用に割り当てられるらしい」

「一体どこからそんな情報拾ってくるんだよ。大人でも知ってる奴少ねぇだろ」

「修は今年経理部門の手伝いをしていたのよ。一回聞いたらすぐ収益表の入力の仕方を理解したって大人たちが褒めていたわ」

「校舎を増改築するほど粟見に子どもが増えているのか。このまま人口が増え続けたら粟見に中学校ができるかもね」

「その話も上がっているみたい。もし実現するとしても私たちが中学を卒業してからになるでしょうけれどね」

 まるで中学生らしくない話をしながら、四人は本題に入るのを避けている。

「晴豊、その甚平やけに似合っている」

 続いて話を切り出した美世も、本題からは的外れな感想を述べる。

「いいだろ?イネさんの旦那さんが着てたお古をもらったんだ」

 大きな花火が打ちあがったのと同時に、晴豊は三人に甚平を見せびらかした。瑠璃色の生地にトンボ柄が白くかたどられた粋なデザインだ。

「着る人がいないから丁度良かったんだってさ」

「反応に困る言い方だね」

 リンゴの皮のようにひとつながりに切られたポテトフライを器用に食べながら修が言った。

「美世の浴衣もキレイだな」

 晴豊に言われて美世も満更でもない気分になったようで、柄にもなく袖を持ち上げて涼し気な浅黄色の生地に派手に描かれた赤い牡丹とともにポーズを決めてみせた。

「僕も晴豊と似たような理由だよ。この浴衣はおばあさまのお下がりなのだけれど、着る人もいないし僕だっていつ着られなくなるか分からないから今のうちに着ておこうと思ったんだ」

「その簪も?」

 さすがささめは美世の長い髪をまとめるべっこうの簪にも注目していた。

「うん、おばあさまのお下がりだ。これからは部屋の飾りとして使おうかな」

「すぐ着れなくなるみたいな言い方するなよ」

「するよ。嫌でも変わっていくしかないのだから」

 美世のその言葉が、晴豊にはやけにガツンと来たのだ。

 そう四人にはわかっている。明日にでも何かが変わってしまうかもしれないのが。

 だからこの花火は、やけに美しく、名残惜しく感じられるのだ。

 祭りの翌日は未明から降り出した雨がしとしとと降り続いている。しかしお手玉をあちらへ還すという現代化された祭りに隠された真の伝統はどんな天候だろうと行われなければならない。四人は雨合羽に長靴を履き、霧がかった山の中を普段より慎重に歩きながら目的地へと向かっていた。しかも安全を考慮し、四人は合羽のフードの中にヘルメットを被っている。梅雨時にこの装備はもちろん暑い。しかし晴豊の開拓した通学路ほどではないが、目的地までは足場の危うい箇所もいくつかあるので、この装備は決してやりすぎではないのだ。

 例年通り底付きの木枠に山と積まれたお手玉は、雨に濡れないようにと透明のビニールで覆われている。それを素手で運ぶ晴豊の手は、雨で冷たくかじかんできた。美世たちからせめて軍手ぐらい着用してはと言われたが、晴豊はかさばるものが好きではない。ヘルメットも本当は脱ぎたい。合羽だって無しで良いと思っている。

 去年よりも来場者が多かったせいでお手玉の量も増えた。当然四人が山の中を往復する回数も増える。まったくいい迷惑だ、来場者なんてもうそんなに増えなくていいと、修はぶつぶつ文句を言いながら運んでいる。ささめも美世も疲れて何も返さなかったが、同じように思っているようだった。

 やっとお手玉を運び終えたのは午後五時過ぎ。修が腕時計を確認して時間が分かった。雨は変わらず降り続いている。ちょっと一息ついて座りたいところだが、雨宿りできるような庇も無いし、余計に疲れるだけだろう。四人は疲れた体を奮い立たせ、運んだお手玉とともに巨木を囲むといつもの文言を唱えた。すると今回は降りしきる雨が信じられないほど勢いを増して四人の頭上から降り注ぎ、目も開けられぬ事態となった。息もできなくなるような雨に打ちつけられる感覚が無くなった四人が目を開けると、山形に盛られた土の上に、鏡餅が乗るような台座が置かれ、その四方を松明が囲んでいるのが見えた。自分たちとお手玉はそれらを囲むように輪を作っている。

空には先ほどの大雨など微塵も感じさせないほど数多の星々が瞬いていた。

「これはまるで去年奉納舞で見た景色だ」

 美世の呟きに、三人は頷いた。

「でも、人の声がしないな」

 晴豊が言うようにあたりは四人のほかに誰もいない。人の気配すらない。建物だって見当たらない。松明の周りは今やってきた四人とお手玉の山以外には何もなく、不自然なほど雑草の一つも生えないのっぺらぼうな地面が広がるだけだ。

 松明の火が、ぱちぱちと爆ぜる音だけが、静寂を打ち破る。

「やっぱり三方の上にあるのは稲穂か」

 盛られた土に近づいた修が、中身を確認して言った。警戒しているのか松明の内側にまでは足を進めなかったが。あの鏡餅が乗っていそうな台のことをさんぽうと呼ぶのを、晴豊は今知った。

「おかしいな。お手玉がまだ還らない」

 美世が言うように、四人とともに松明やってきたお手玉の山は、形を保ったまま沈黙を続けている。まるでこの不気味なほどの静けさに手を貸しているかのようだ。

 ザッ、ザッ、ザッ、と誰かが歩いてくる音を、晴豊の鋭敏な耳は聞き取った。それは自分たちの正面、三方もお手玉の山も越えた先の闇から聞こえてくる音だった。

「誰か来る。みんな、離れるな」

 晴豊は自分が息も忘れるほどの緊張感に覆われていくのを感じた。それは野生の勘とでも呼べそうな、自分では太刀打ちできない相手を察知する能力だった。晴豊の緊張感にあてられて、他の三人もまばたきを忘れて晴豊の見つめる方を見遣る。

「やぁ、やっとこっちで会えたね」

 暗がりから現れた人物は、まるで不意に道端で出会って挨拶するかのような気軽さで話しかけてくる。

 しかしそのいで立ちはとても普段着とは呼べなさそうだ。

 何の柄も装飾もない真っ黒な着流しに、真っ赤な帯。履いているのは紺色の鼻緒の下駄。肩にかかる明るい茶色の髪が、やけに白々しい。

 そしてなにより左手に引きずるようにして持っている、赤黒い棒っきれが、ライアンの正体を物語っていた。

 去年運んだお手玉の山からこぼれ落ちたあの異質な赤黒いお手玉。それを割って出てきたあの人影を、晴豊も他の三人も忘れてはいない。

「お前、あの時の人影だったのか」

「あぁ、去年は失礼したよ。名乗る前に君に斬られてしまったから、自己紹介もできなかった」

「いいや、果泥と名乗ったはずだ。僕が覚えている」

 三人を庇うように立つ晴豊の背後から、美世が進み出て言った。恐怖で体は震えるが、晴豊の隣に並び立つ。

「どんな手段を使ってここに来たのですか?」

 一応先輩の手前、美世は敬語を使ったが、ライアンへの不信感は爆発的に跳ね上がっていた。

「もちろん招いてもらってやってきたのさ。君だって誰が手引きをしたのかくらい、見当がついているだろう?」

 だれもささめの方を振り向いたりしなかった。だがライアンは無情にも微笑みながらささめのほうへと歩み寄り、自分の持つ刀をささめの前に差し出した。

 晴豊は、美世も、修だって、ライアンを止めることなどできなかった。

「さぁ、自分が今何を信じているのか、彼らに見せてやるといい」

 ささめは血の気が引いたような真っ白な顔をしていたが、震えてはいなかった。そしてライアンから刀を受け取ると、肩が上がるほど息を吸い込んだ。

「もう、お越しでしょう?私が仕えるあなたさまは」

 ささめは自分が手にした刀から目を離さずに、そう大きくはない声で尋ねた。

 ささめの背後で、空中に女の姿が浮かび上がった。

「ええ、もちろん」

 金銀の簪をいくつも挿し、赤紫の上等そうな打掛を纏った女は、以前と同じようにささめにだけ微笑みかける。

「だめだ、ささめ。それだけは」

 ライアンがささめに何をさせようとしているのかをいち早く察した美世が叫んだ。

 しかし、無駄だった。

 ささめはその刀を、女の懐へと突き刺した。

 女が打掛の中に着ていた白い着物が、赤く染まる。

 女が紅く塗った口から血を吐いた。

 それでも女は、笑っている。

「いいのよ…分かっているわ…」

 女の声は弱々しく、姿も薄れていく。女の流した血だけが、赤黒いまま地面をゆっくり這っていく。

 女が最後に手を伸ばした。ささめの髪に優しく触れたその手は、すぐに消えていった。

「くっ、ははっ、あははははははははははっはははははは」

 ライアンが狂ったように笑っている。悪夢のような光景に、美世は今すぐにでも気を失いたい気分だった。

「ふざけんな。なに笑ってんだよ」

 笑いすぎてあふれた涙を拭っているライアンを、怒りを込めた目で晴豊が睨みつけた。

「なぜ君が怒る必要があるんだい?君だってその腰に括った刀で人らしきものをいくつも斬ってきたのだろう?少なくとも君にだけは彼女を責める権利はないなずだ」

 ライアンの言葉は、四人の中で唯一反抗しようとした晴豊を確実にその場にくぎ付けにした。そして微動だにしないささめから半ば奪い取るように刀を取り上げ、木の枝でも拾ったかのように振り回す。刀についた血が、あたりに飛び散る。

「むしろ晴豊。君こそが罪深い粟見の厄介者だ」

「違う…違う!」

 怒りの声を上げたのは、美世だった。

「晴豊が戦ってきたのは武辺者として試練を負わされたからだ!あなたはささめを騙して仕えるべき御方を殺めるように仕向けた!あなたこそが…あんたが果泥だから!」

「そう。僕は果泥だ。この世界で最強の一族。だったらしいね?」

 ライアンはにたりと笑うと、血まみれの刀を無造作に振った。

 すると空に亀裂が走り、裂け目から何か赤味のある液体が流れ出てくる。まるで空が血を流しているようだった。

「やばい…ケタ違い過ぎるだろ…なんだよアンタ…果泥って消えたんじゃないの…」

 呆然とする修の口から言葉がこぼれでる。

「僕の祖父がね、果泥と名乗っていたらしい。彼は移民が多い僕の母国では、ありふれた故郷に帰ろうにも帰れない移民の一人だったらしいのだけれど」

 その世間話でもするかのような口ぶりとは裏腹に、ライアンは刀を振り続ける。

 空には裂け目がいくつも浮かび、次から次へと血を流す。

「彼は非常に働き者でね。土地と財産を持つ一族の娘だった僕の祖母に非常に好かれたらしい。そして僕の父が生まれ、また僕が生まれた。まぁこれだけだったら僕がこの国に、粟見という地域にここまで興味を持つことにはならなかっただろう。祖父は長年の移民生活のおかげで現地の言葉をほとんど完璧に使えるようになっていたし、故郷の話をすることもほぼ無かったから」

 空を切り刻むことに飽きたライアンがふらふらとお手玉の山に近づき、刀を突き刺した。山を構成するお手玉のすべてが中身を吐き出して崩れ落ちた。

「いい祖父だったよ。賢くて周囲に優しい。尊敬できる人だった。でも彼は、死が近づくにつれて故郷の幻想に頭を支配されてしまってね。何十年とともに連れ添った家族たちのことさえ忘れて、この粟見に戻ってしまった。あ、戻ったというのはもちろん比喩的表現さ。彼自身はもう死の半年前からほとんど自室のベットで一日を過ごすようになっていたからね。あー…そう!〝心ここにあらず〟って表現が一番近いかな?この言葉ってなんか面白いよね。ああ、今はその話はいいか。ともかく祖父はもう粟見のことしか話さなくなってしまったんだよ。〝あちら〟の景色、〝果泥〟の役割、自分の技や野望について…。正直うんざりしたよ。孫の僕はこの程度の反応で済んだけど、人生の大半を伴に過ごしてきた祖母が哀れだった」

 日本語を習得して間もないとは思えないほどライアンは淀みなく話し続ける。並行して刀でお手玉の山を破壊することもやめない。大量にあった山は、もう残すところ一つになってしまった。ライアンは最後の一山の頂上にあるお手玉を何個かちぎり取ると、自らがかわりに座った。

「きっと一番哀れだったのは祖父本人だ。故郷を捨て、見知らぬ地で幸せになれたのに。死ぬ間際になって粟見に連れ戻されてしまった。一体粟見にそこまでの魅力があるのか?僕たち家族を捨てるほどの?それこそふざけるなって話だ。君たちもそう思うだろう?」

 趣味の悪い玉座から四人を見下ろすライアンが、笑顔の裏に激しい怒りを抱えていることが、四人に痛いほど伝わってくる。

「僕は思ったよ。この愚かな妄想から祖父を解放することはできなかったけれど、せめて現地の人々が同じようなことに苦しまなければいいと。だからここに来た。予想以上に粟見の妄想は君たちを支配していた。しかも君たちのような若年層がより妄想を強固にするために危険な冒険をしなければならないなんて。愚かで、哀れだ。誰かが救わなければ」

「言わせておけば自分勝手で幼稚な解釈にもほどがある。あなたの祖父のことは残念だったのかもしれないが粟見そのものとも言えるあちらを破壊するのは話が飛びすぎている」

 黙って聞いていられなくなった美世が口をはさんだ。

「飛躍も跳躍もしていないさ。この話は結局粟見から一歩も出られていない。だから僕が粟見のこちらをぶっ壊す。そしたら粟見は真にひとつの村になれる。よそ者にはわからない古くからの慣習が無くなれば、新興住宅に住む住民と古くから住む住民との間の壁もずっと低くなるだろう。晴豊、君もずっと生きやすくなる」

 ライアンに笑いかけられた晴豊の背筋が凍りつく。

「君の身体能力は随一だが、根が優しすぎる。本当は刀を振るうなんて、やりたくないんだろう?」

 本音を言い当てられたと言っても過言ではない。晴豊はそう分かっていても、どうしてもライアンに頷くことができなかった。ライアンは、それすらも見越しているような、同情的な表情を浮かべて見せた。

「あぁ、本当に君が一番可哀そうだ。やりたくないことをやらされなければ存在意義がないかのように刷り込まれている」

「そんなことない…そんなつもり、ない…」

 美世の声は先ほどに比べて大きくもなければ自信に裏打ちされてもいなかった。

なんで、また美世に答えさせてしまうのだろう。なんで、俺はなにも言い返せないんだろう。

「もう苦しまなくていい。今日ですべて終わりだ」

 ライアンが手にした刀を、槍のように構えて大きく振りかぶった。無駄な動きのない、美しささえ感じさせるような、見事な投擲フォームで、松明に守られた三方に向かって刀を投げる。

 晴豊の身体は、刀が投げ飛ばされる直前に、ようやく動いた。

 鞘から刀を抜きはらい、目にもとまらぬ速さのそれを、己の全霊をもって弾き返した。晴豊の耳に高く澄んだ音が聞こえた。親父が作業場で鉄を打つときにする音とよく似ていた。 

  高く弾き飛ばされた赤黒い刀は、回転しながらライアンの座るお手玉の山へと落下した。刺さったお手玉の山が赤黒く染まる。ライアンは山が崩れる前に刀を抜き取って飛び降りた。その顔に先ほどまでの浮かれた表情は消え失せている。

「負けると分かってて戦うつもりか?君はもう少し賢い人間だと思っていた」

晴豊は刀を正面に持ち直し、改めてライアンに対峙した。今までに感じたことのないプレッシャーと、殺意のこもった目に、心臓が太鼓を打ち鳴らすかのように躍動し、全身を震えが走った。それなのに、自分のしたことに後悔など微塵も持たなかった。

ライアンが斬りかかってくると分かったのと、刀に衝撃を感じたのがほとんど同時に感じるほど、ライアンの切込みは早く、晴豊は受けた刀もろとも切り裂かれそうだった。押し返すなど、到底できそうにない。

ならばとひっかけようとした足は即座に払われ、しかしバランスが崩れたのをこれ幸いと晴豊は身を翻すようにしてライアンから離れる。しかしライアンはすぐに次の一撃を繰り出してくる。晴豊は頭上から振り下ろされた刀を間一髪で後ろに退いてよけ、ライアンのわき腹に回し蹴りをする。晴豊の足の甲はライアンの腹に確かに一撃を与えた。晴豊のこの動きは、以前対峙したあの額から腕の生えた化け物の動きと一致することが、美世にだけは分かった。あの化け物は踊るようにして足を繰り出し続けていたが、現状の晴豊にそこまでの真似はできなかった。

足の甲だけでなく、足全体が衝撃をいなすことができず痛い。わき腹を強烈に蹴り上げられたライアンも、攻撃を繰り出す手が止まる。蹴られた左脇を右手で抑え、左手に持った刀を杖のように地面に突き立てた。

「臆病者の君らしい。どうしても僕に刀を向けたくないのだろう?」

 うつむき髪に覆い隠されたその顔から、晴豊を嘲る言葉が漏れ出てくる。

「そうだよ。もうやめようぜ。こんなこと」

 晴豊はライアンを蹴った左足を庇うように、右足で片足立ちをしたままそう答えた。

「いいや、途中で諦めるくらいなら、最初からしていない」

 ライアンが刀を曲芸のように回転させながら持ち直し、斬りかかってくる。晴豊は咄嗟に負傷した足を後ろに下げて一撃を受けてしまった。後ろ足がふんばれず晴豊はのけぞるように倒れこむ。辛うじて刀は握ったままだったが、刀を握る右手首をライアンの足が踏みつける。晴豊は痛みのあまり刀を手放した。それをすかさずライアンが蹴り上げる。

 刀は耳に痛い高音を上げながら晴豊の見えないところへと飛んで行ってしまった。

「僕はこれを振るうことに何の躊躇いもない」

 ライアンが刀を振り上げる。自分の首を切ろうとしている。晴豊は冷静すぎるくらい冷静に、現状をよく分かっていた。それどころかやっぱりな、と妙に納得さえしていた。

 何をどうしようにも、やはり自分の力ではライアンには敵わない。

 当然のように振り下ろされる刃を、晴豊の首を掠める直前の刃を、止める者がいた。

「あっぶねー奴だな。こいつがここで死んだらお前殺人者だぞ」

 刀を素手で握り、飄々と嘯くその人は、相変わらず詰襟の学生服の下にフード付きのパーカーを着こんでいる。晴豊の位置から顔は見えないが、どうせライアンにも人相は分からないだろう。その顔はふざけたへのへのもへじに隠されているに違いない。ライアンの怪訝そうな表情を見れば一目瞭然だ。

「これも幻覚かな?」

「いいや、俺はお前たちの先輩さ」

 その男は、素手で刀をへし折った。そしてライアンの端正な顔に拳を叩きこむ。ライアンは拳をモロにくらい、手で顔をおさえてよろけた。

「いつまで寝てんだ晴豊。とっとと起きろ」

 男は晴豊が起き上がるのには手を貸すつもりはないらしい。のろのろと起き上がった晴豊は、顔面を片手で抑えるライアンの背後に異形なものを見た。

 おびただしい数の手が、恨みがましそうにこちらに手を伸ばしている。手だけではない。目だ。いくつも目が、ライアンの背後の闇の中に浮かんでいる。

「なんだよ、あれ」

「粟見の禁忌だ。お前も聞いたことあるだろ。あんまり目を合わせるな。狙われるぞ」

 忠告はすでに遅かった。晴豊はいくつもの目と目が合ってしまった。色も形もバラバラの腕が、晴豊を捕らえようと襲いかかる。

「チッ、馬鹿が」

 男は晴豊の襟首をつかみ、人形でも放るかのようにぶん投げた。晴豊が先ほどまでいたところには、数多の腕が獲物を掴み損ねて地面に這いつくばっている。

 晴豊は地面から離れて、やっと地面が変に色づいていることに気が付いた。いや、色づいているのではない。暗色の液体が流れてきているのだ。それをもっと観察する前に、晴豊は何者かに服の首周りを掴まれた。息が狭まり視界がブレる。しかしその状態は長くは続かず、晴豊はぐらぐらする板の上に降ろされた。はじめは自分の平衡感覚が失われてぐらぐらしているのかと思ったが、そうではなく船のようなものに降ろされたようだと次第に分かった。

「案ずるな。刀は儂が拾っておいてやろう」

 晴豊を拾い上げて船に乗せたのは、額から腕の生えたあの巨大な化け物だった。

「おい、待って、何するつもりだ」

 晴豊は大いに焦った。化け物が三本ある腕全てで船のヘリを持ち、いかにも船出を手伝おうとする素振りをしているからだ。

「晴豊!お前は残りの三人連れて逃げろ!誰も置いてくんじゃねぇぞ!」

 今や暗色の液体の中に沈んだへのへのもへじが、そう晴豊に叫んでいる。男に言われてはじめて晴豊は美世や修やささめが自分の傍にいないことに気が付いた。

「心配すんな!近くにいないなら漕いで行きゃあいい!」

 男の指さす方角に小高く盛られた山が見える。晴豊の目には、そこに避難する三人が確かに見えた。

「じゃあな、晴豊」

 男は次々と襲い来る手を目視もしないで躱し、晴豊に手を振る余裕さえ見せた。

「ちょっと待ってマジで」

 待ってはもらえなかった。化け物が渾身の力をこめて船を小さな山へと押し出す。晴豊の乗った小さな船は、水面を切り裂くようにして走り出した。しかしその威力だけでは山には届きそうにない。晴豊は船の両脇に括りつけられていた櫂を、全力で漕ぎ出した。島で生活していたときに、手漕ぎ船には何度も乗ったことがある。まさかこんなところでその経験を生かすことになるとは思ってもみなかったが。

 船が小山に近づいた時には、もう山のほとんどが液体の中へと沈んでいた。わずかな足場で身を寄せ合う三人に、晴豊は叫んだ。

「乗れ!」

 晴豊の言葉に最初に反応したのは美世だった。晴豊としっかり目を合わせると、すぐさま片足で跳ね上がる。美世は華麗ともいえる身のこなしで見事に船に着地した。

「修!ささめ!」

 美世の呼びかけに、修は頷いたがささめはうつむいたままだ。修はそんなささめに何ごとかをささやき、片手にささめの手を握ったまま跳躍した。もともと運動は苦手なくせにそんなことをしたのだから、当然船に届くことなくささめもろとも水没した。晴豊が櫂を必死に伸ばし、二人を水底から引っ張り上げようとする。

 修が櫂の細い部分を片手でつかんだ。

 晴豊は一気に櫂を自分の方へ引き寄せ、修の手を自分でつかむと、渾身の力をこめて引っ張った。修の半身が船に乗りあがる。修はもう片方の手で握っていたささめの白い手に船のヘリをつかませた。すかさず美世が、その白い手を持ち上げる。

 波がなかったことも幸いし、四人全員が船に乗ることには成功したが、ささめは意識を失っていた。

「大丈夫、息はある」

 修がささめを自分に凭れ掛からせるようにして呼吸音を聞き取った。

「なぁ、あれは?塗るとあちらから出られるやつ」

 晴豊は以前修を贔屓にする方からもらった、ひとたび固形物に塗れば元の世界へ戻れる便利すぎるアイテムのことを聞いた。確か美世があちらにわたるときには必ずもってきていたはずだ。

「落とした。もうどこにもない」

 美世らしからぬミスだ。相当慌てていたのだろうか。

「もう、帰ってこないのかと思った。晴豊はどんどん沈んでいくのに気にしないし、ささめは何を言っても反応しないし、このままみんなバラバラになるのかと…」

 美世の声が鼻声混じりになっている。久しぶりにものすごく心配させてしまったかもしれない。晴豊は後ろめたさを隠すためにもやけに明るく大声を出した。

「やべぇだろ、やばすぎだろ!なんだよこれ意味わかんねーよ!」

 なぁ?と櫂を漕ぎながら三人を見回す。残念ながら誰とも目が合わない。

 晴豊は空元気を続けた。

「あーあ!もうヤケクソだ!美世、なんか歌ってくれ!」

「歌えって…なにを?」

「なんか元気になるやつだよ!」

 美世はしばらく逡巡した後、低い声音で歌いだした。

「あした浜辺を さまよえば」

 浜辺の歌だ。晴豊も知っている。島にいたころよくお婆さん連中と歌っていた。元気になるかはちょっと議論の余地があるが。

「「むかしのことぞと しのばるる」」

 晴豊も一緒に口ずさみだす。二人は不思議なほど、息を合わせて最後まで歌い切った。するとまた、どちらからともなく浜辺の歌を歌いだす。あまりに何回も繰り返し続けたからか、次第に修まで口ずさみ始めた。

 明かりのない、薄暗がりの世界であてもなく船に乗っているだなんて、正気に返ったらとてもまともではいられなかっただろう。三人は深く考えることを諦めるかのように歌い続けた。

 寄する波よ 返す波よ

 月の色よ 星のかげも

 歌っていくうちに、晴豊はランナーズハイのような気分になっていった。歌いながらだったらいつまでだって漕ぎ続けられる気がする。

 たとえもう朝が来ないとしても。

「朝…朝日だ」

 美世が進行方向を見てつぶやく。櫂を持つ晴豊は振り向かなければそれが見えない。しかし背中に柔らかな暖かみを感じる。それだけで晴豊はもうここから出られるような予感がした。

「修、ささめをしっかりつかんでやってくれ」

 修はささめの肩を手で支えながら頷いた。

 晴豊は櫂を漕ぐ手を止め、祈るような気持ちで振り返る。

 眩しすぎる朝日が四人を包んだ。

 雲の切れ間から差し込む光が、眩しい。晴豊は日差しから目を守るために、手をかざした。腕を持ち上げると痺れるような痛みが走る。

「修…今何時だ?」

 晴豊の声は疲労でガラガラに枯れていた。

「午後五時十二分四十三秒。僕たちがあちらを渡る前から六十秒と経っていない」

 四人はお手玉と一緒に囲んだ、あの巨木の前に戻っていた。今までの戻り方を考えれば、随分とお行儀の良い戻り方だ。あちらに行く前と変わっているところと言えば、山と積まれたお手玉がきれいさっぱり消えていることぐらいだろう。

「嘘だろ…おれ一晩船を漕いだ気がするんだけど」

 晴豊は少々疲れを盛ってツッコんだ。深刻な状況になればなるほど、ふざけずにいられなかった。

 だんまりを決め込んでいたささめが、無言のまま下山路の方へと歩き出した。

「どこへ行くつもり?」

 氷よりも冷たい声で美世が問う。

「あの人を探さないと。絶対戻ってきているはずだから」

 こちらを振り向きもせず美世に返すささめの声に、震えも恐れも入っていない。

「つまりそういうことでいいんだね?僕たちとは完全に袂を分かつってことで」

 袂を分かつの意味など晴豊は知らないが、自分たちとささめの間にもう修復不可能な亀裂が刻まれてしまっていることは、嫌でもわかった。

「…ええ、もちろんよ」

 ささめは、行ってしまった。三人をおいて。一人で降りて行ってしまった。

 雨はあがったというのに、三人はどうしようもなく湿っぽい心情に支配された。

 これからどうなるのか、どうすればいいのか、誰にも皆目サッパリ分からない。

 一先ず美世が提案した。

「…とにかく、おばあさまに報告しよう」

「ささめが粟見を裏切りましたって?」

 修の声にはひどく皮肉が入り混じっている。美世の表情があからさまにイラついた。

「ありのままを伝えるしかないじゃないか。修がいくらささめを好いていたって彼女が起こしてしまった事実は変わらない」

「ささめのせいじゃない。悪いのはあいつだ」

「そのあいつを引き込んだのはささめだろう?」

「引き込んだんじゃない。騙されたんだきっと」

「同じじゃないか。騙されたささめに非がある」

「あるわけないだろ」

「あーうるせぇ!こんなとこでモメたって仕方ねぇだろ!」

 晴豊に怒鳴られて美世と修が水でも浴びせられたかのように押し黙る。二人とも怒られることなんて滅多にない常日頃まじめな人間なので、可哀そうなくらい落ち込んでしまった。

「…今日は帰って飯食って寝よう。考えるのは明日からだ」

 晴豊は先頭を切り、どんよりと落ち込む二人がしっかりついてきているか確認しながら帰路に就いた。心情的には落ち込む二人を引きづって赤野家へと連れて行くような心地だった。

 夏休みは来週からだが、粟見の長い冬はこの日をもって始まったようなものだったのだと、三人は後に知ることになる。

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