第8話

 梅雨の最中だというのに、三日目の快晴だ。世間からは空梅雨を心配する声も聞こえてきそうだが、自転車で山の中へと向かう四人にとってはまさに恵みの雨ならぬ恵みの晴れである。

 晴豊と美世は登校時から自転車に乗ってきたが、修とささめはささめの家のお手伝いさんに放課後学校近くまで自転車を届けてもらっていた。ささめがどう言いくるめたのかは不明だが、ともかく四人とも自転車で現地に向かうことはできそうだ。

「それじゃあ行こうか」

 と自然に先頭を走りだそうとする晴豊を美世が止めた。

「君は後ろを置いてけぼりにする可能性がある。僕が先頭で君が最後尾にしよう」

「そんなことしねぇのに」

 修もささめも微妙に笑うだけで晴豊に同意はしなかった。

 四人はもう夏の気配に満ち満ちている粟見の山へと自転車を漕ぐ。背の高い、線の細い木々が四人の背中に影を落とすが、白い夏服が時折零れる日の光を反射して、最後尾の晴豊にとっては眩しいくらいだった。自転車を漕ぐたびに感じる風も、生温くて夏がすぐそばにいることを感じさせる。

「…このあたり、だったよね?」

 自転車を止めた美世に晴豊が頷くと、ささめと修は分かりやすくホッとしていた。二人とも肩が上下するほど息が上がっている。

「少し休憩しようか」

 美世が少々済まなそうにそう言うと、二人は自転車を崖のすぐ傍に止め、通学カバンから水筒を取り出して細長い広場のほぼ真ん中に座った。運動の習慣のない二人にとっては過酷な道のりだったのは間違いないらしい。

「晴豊、どうかした?」

 そわそわとあたりを見回す晴豊を不審に思った修が声をかけた。

「うーん…何か他に誰かいるような気がするけどしないような」

 ついに先輩とやらが姿を現す気になったのだろうか。そう思った美世は、ささめと修をはさんで晴豊と背中合わせになる位置へと自然と動いていた。

「晴豊、刀は?」

「あ、カバンの中だ。大丈夫だよ、こっちに来る気はないっぽいから。ただのタヌキとかウサギだったかも。ごめん」

「君は小動物の気配も察知できるのか」

 感心と呆れ半分に修が言った。

「いや、俺が変に警戒してるだけかも。刀持つの久しぶりだし。ビビってる」

 晴豊は自転車の籠に無造作に入れた通学カバンまでのんびりと刀を取りに行った。それを見て美世も警戒を解く。

「僕も怯えていたよ。今日突然持ち物検査でもあったら晴豊は中学校始まって以来の危険人物に認定されていたかもしれない」

「いや、さすがに検査する方もまさか本物の刀が入っているとは思わないだろう。模造刀をうっかり持ってきてしまった痛いヤツで誤魔化せないかな」

 修が多少の笑い声を含んで言う。

「修みたいなこだわりの気質が晴豊にあったらそれで納得されたかもしれないけど」

 美世の言葉の結論は晴豊が引き取った。

「…まぁ無理だな」

 晴豊が刀を腰に巻き付けて戻ってくると、四人はいつもの並び順をとった。

「声に応じて我らは来たり我らを呼ぶは粟見なり」

 手を繋ぎいつものように一糸の乱れもなく声をそろえてそう言うと、四人の声はあたりの木々や切り立つ崖に吸い込まれてしまった。四人はまばたきもせず、何かが起こる瞬間を待った。

「…何も起きないね」

 美世がそう決定づけると、四人を包んでいた緊張感が消えて変わりにぬるい失望が漂った。

「ごめん」

「修のせいじゃないわ。何が起こるかなんて予想できなかったもの」

「そうだよ。ここで何かが起こるってのはそんなに間違っていない気がするし」

「君のは根拠のない直感だろう?」

 美世がバッサリと切り捨てる。

「いや、僕にだって確固たる根拠なんてなかった。晴豊を馬鹿にはできない」

 修の言葉に微妙な悔しさが入り混じっている。

「いったい何がダメなのかしらね」

 ささめの声に答えられる声はない。それぞれがそれぞれの物思いに耽る。そうしていると、山の声だけが聞こえてくる。風がふるわせる木々の騒めき、巻き上げられた砂や小さな石粒が山肌とぶつかるささやかな衝突音、どの生き物かも分からない微かな鳴き声…。

 晴豊がそれを声と認識すると、すぐさまそれは晴豊の知っている言葉を発しはじめた。

 遠くからの、我らの声が、

「遠き粟見に、届きたる」

 続きの言葉がするりと晴豊の口から零れた。

「あぁ、それって祭りの声だね」

 さすが美世は去年の夏祭りの舞のことを覚えていた。

「いる。多分そいつらが。ここにいるんだ」

「はぁ?」

 修にはさっぱり話が読めない。美世は修やささめにも分かるように、晴豊の考えを言葉にした。

「つまり、晴豊はここで奉納舞をしてみたらあちらへ行けるかもしれないと思っているのだろう?」

「うん。いつもどおりのあちらかはわかんねぇけど。あの時俺たちを連れて行った奴らがそばにいるんだ。多分」

「うーん…かなり危険な賭けだね。下手すれば四人とも帰ってこられないかもしれない。あの時だっておばあさまが助け舟を出してくれたから戻ってこられたのだから」

 美世は晴豊のやりたいことは分かるし可能性も感じているが、リスクを考えると諸手を挙げて賛成という訳にもいかなかった。

「…それなら四人のうちだれか一人が残って三人で奉納舞をしてみるというのはどうだろう。例えば制限時間を決めておいて、その時間になったら残った一人が何かしらの合図をする、とか」

 そう、修が提案した。

「なるほど。去年の舞と同じ現象が起こるとしたら僕たちの体はここにとどまっているはずだからね。効果はありそうだ」

「僕は、だれか一人が残らなければならないなら、ささめにお願いしたいと思っている」

 修がきっぱりとそういった。もちろん晴豊と美世に異議などない。

「そうだな、ささめは頼りになる」

「僕たちの中で一番落ち着きも冷静さもある。本人が納得してくれるなら是非そうしてもらいたいね」

 三人の視線を受け、ささめはふぅと小さなため息をついた。

「えぇ。ご期待に沿えるように努力するわ」

 さっそく晴豊、美世、修の三人は輪を作って並び、その外側、崖のすぐ近くにささめが立った。

「念のため聞いておくけど、踊り方が分からない人はいないよね?いたら今のうちに教えるから言ってくれ」

「去年踊ったから俺は大丈夫」

「僕も以前踊ったことがあるし、単調な動きだったから覚えている」

「よし、それなら始めよう。僕が合図するから、せーので手を打ち鳴らして舞を始めるよ」

 晴豊と修が頷いたのを見ると、美世は静かに息を吐き、目を瞑った。それだけで、他の三人にも舞が始まる前の静謐な空気が伝わった。

「せーの」

 腹の底から出す、しかし決してうるさすぎない美世の声で、晴豊と修は導かれるように手を叩いた。三人の拍手は寸分狂わず同じタイミングで打ち鳴らされる。頭の上に掲げられたその手を仰ぎ見てから腰を落とし、稲を植える動作をしてから一歩、また一歩と歩く。同じ動作を十回繰り返したらまた立ち上がって手を打ち鳴らし、田植えの動作に戻る。三人はこのくるくると円を描く動作を繰り返すが、いかんせん三人しか舞手がいないので輪の回転が速い。踊りに特に不慣れな修はすぐに目が回り、足もとがおぼつかなくなってきた。

 落ち着いて。足元の地面をよく見ればあまり酔わずに済むよ。

 美世はそう伝えたかったが、舞の途中に声をかけるわけにもいかない。そんなことに気を取られていたからか、右足が一歩踏み出して地面に着地した瞬間にぐにゃりと不確かなものを踏んだとき、悲鳴を上げそうになった。慌てて視線を足元に戻すと、足首から数センチ上の高さまで水を張った、田んぼの景色が薄く重なっている。

 まさかこんなに早く呼ばれているのか?

 美世が自覚するとさらに異質な光景は鮮明になる。

 足元にあるのは、もう乾いた地面などではない。

 自分の手はまだ薄い緑の弱々しい苗を握っている。

 苗を地面に植え、腰に括りつけてある籠の中からまた新しい苗を手にする。

 植えたら一歩下がり、また植えては一歩下がる。

 いつのまにか本来の舞とは違う方向に歩いてしまっていた。でもそれがあまりにも自然すぎて、美世は一向にやめる気になれなかった。

 心に残っているのはもはや、田植えができる喜びと収穫への期待ばかりになってしまった。自分が一体何をしに来たのか、誰といたのか、急速な勢いでそれがどうでもよくなってしまう。だって自分は今、田植えをしているのだから。

「おーい、そろそろ休憩にしようや」

 誰かがすぐ近くでそう言うものだから、美世はやっと腰を上げた。

「ってちゃうやろ。お前は田植えに来たんじゃない。連れ戻しに来たんだろう?」

 自分の正面、植えたばかりの苗をまたいで立っているのは、ズボンを膝上まで捲し上げ、初夏の陽気にも関わらず真っ黒な学ランを身に着けた男だった。ふざけたことに顔にはへのへのもへじと描いた紙を貼っている。

「あなたが…先輩ですか?」

「そうだよ。まったくお前は集中しすぎると周りが見えなくなるから苦労したぞ。他の二人はとっくに正気に返っている」

「え?二人はどこですか?」

 美世があたりを見回すと、自分と同じように田植えを続ける人々が見えた。無地で素朴な着物を身に着け、無心に作業を続けている。その中に異質な姿の人が混じっていた。

「違う。そいつらはお前たちが連れ戻したい奴らだ。お前のツレはあっちだ」

 先輩が指さしたのは、田んぼのふち、坂になっている畦の方だった。足を投げ出すようにして座り、暢気に手を振るセーラー服の人物と、その隣に体育座りをするワイシャツ姿の人物が見える。美世は苗を踏まないように気を付けながらも、バシャバシャと普段の素行からは考えられないような粗雑さで二人に近づいて行った。なにせ田んぼは歩き辛い。足を素早く回さなければ泥が余計に絡まって動けなくなってしまう。泥が跳ねてシャツや腕や顔にまでこびりついたが、とても気にするような余裕はなかった。

 畦のすぐそばまで来ると二人が美世の手を片方ずつ持ち、引っ張り上げた。美世は畦を四つん這いになって登ると、寝っ転がって空を仰いだ。こちらの必死さが馬鹿馬鹿しくなるほどよく晴れた綺麗な青空だ。

「な?あいつに頼んで良かっただろ?」

「そうだね。君は気づいていなかったと思うけど、僕たちここに辿り着いてから何度も君に呼び掛けたり肩を叩いたりしたんだよ。でも何回やっても無反応で、困っていたらあの先輩がやってきたんだ。俺が何とかするからお前たちは早く上がれって言ってさ。僕はいまいち信用できなかったんだけど、彼女が任せた方がいいって言うから先輩の指示に従ったんだ」

「なるほどね、君たちが暢気そうに様子を見ていた理由が、分かったよ」

 美世は息を整えながらも、つい皮肉を込めてそう言った。

「ほら、やっぱり怒らせた。せめて近くで見守っていた方が良かったんだよ」

 修に責められるような眼差しを向けられ、晴豊はバツが悪そうな顔をした。

「悪かったよ。でも三人そろって共倒れするよりマシだろ?動ける奴は先に動いて体力をとっておかないと」

「…別に怒っていない。それより彼女たちをどうするかが問題だ」

 美世は起き上がってシャツやズボンについた泥を叩き落としながらそう言った。しかしなかなか落ちない。もう少し水分が抜けてからの方が取れやすいかもしれない。

「それな。もう残り時間は少ない。取り込まれた奴は三人、お前たちも丁度三人だ。それぞれが説得しに行くのがいいだろう。実質チャンスは一回きりだ。よく考えて決めろよ」

 水田を平坦な道を行くように歩いてきたへのへのもへじが、まるで三人のリーダーであるかのようにそう言った。美世の怒りは今度はこちらにぶつかった。

「根本的なことが納得できません。彼女たちはなぜここに来てしまったのですか?あなたが彼女たちを誘拐したのですか?もしそうではないと言うのなら証拠を見せていただきたい」

 美世にきつい言葉と猜疑の目を向けられても、当たり前だがへのへのもへじは表情一つ変えない。

「疑り深い奴だな。扱いづらいったらないぜ。だからお前の前には現れたくなかったんだ」

 へのへのもへじ、もとい先輩は三人の背後に回ってしゃがみ込んだ。そよ風に顔に着けた紙がはためいている。

「話せないなら僕はあなたを信用しません」

「はいはい話すよ。でもお前たちに理解できるかは保証しないぜ?まずあいつらが何で取り込まれたかだが、まぁ隙があったからだな。現実に嫌気がさした多感な時期の奴ほどこっち側に引き込まれやすい。それくらいはお前たちでもわかるだろ?プラス今は粟見の危機だ。お前たちをここに呼んだ声。あれがいつもよりお前たちの近くで鳴いているんだよ」

「声…そういえば結局僕には聞こえなかった。気が付いたらここにいて」

「えぇ?俺には割とすぐに聞こえてきたんだけどなぁ。声がしたからここの景色が見えたって感じ」

「僕も同じだ」

「お前たちは単純だからな。以前この動作をしたら、見たら引き込まれたってのを覚えていたから前と同じようにここに辿り着いたんだろ。こいつは疑り深いくせに直感で理解できるから、一足飛びに来ちまったんだよ。馬鹿とも真面目とも言えん奴だな」

 こいつ、と自分に指をさされ、しかも馬鹿とまで言われるなんて。美世は目眩がする思いがした。

「つまり俺はあいつらを引き込もうとしたわけでもなければ、ここにいつまでもいさせようなんてことも考えていない。むしろその逆で、こいつらの命があるうちに早く帰ってほしいと思っている。だから探しに来たお前たちに協力しようとしている。協力できるかどうかはお前たちしだいだ。こうしている間にもあいつらの肉体は消耗している。もうそっちでは二日、三日過ぎているんだろう?早いとこ戻してやらねぇと体が腐って帰れなくなるぞ」

「めっちゃ怖いこと言うな。でもさぁ、俺たちがさぁ帰ろうって言ったとしてさぁ、どうやって帰るんだよ?」

「そこは簡単なんだよ。お前たちがあいつらを説得さえできれば、すぐにでも現実に帰れる。帰りたいと思えばいつだって帰れるんだ、ここは。お前たちだって多少時間はかかってもいつも帰ってこられただろう?でも帰りたいと思ってないやつは無理だ。いつまでもここに居続けることになる。あいつらはここに来てから一度も帰りたいって思ったことがないんだよ。そんな奴らを説得しなきゃいけねぇんだから、誰が誰を連れ戻そうとするかが重要になる。俺の話はここまでだ。ハイ何か質問ある人~?」

 先輩は最後ふざけたようにそう言った。つくづく美世は神経が逆なでされるような心地がする。美世は先輩のペースに呑まれないように、発言する前に深く息を吸ってからはいた。

「結局あなたが犯人ではないという証拠は一つも出ませんでしたが、あなたが言うことすべてがデタラメだと断言することも難しい。彼女たちが刻一刻を争う状態なことは間違いないのでしょうし…」

「つまり?」

 へのへのもへじのへの字の口が、にやりと間延びした。気がする。

「各自で説得に行く、というのに賛成します」

 フゥーッと先輩が奇声を上げた。どうやらテンションが上がったらしい。

「お前たちもそれで文句ないだろう」

 先輩に話を向けられた晴豊と修の二人も首を縦に振った。

「えぇっと、多分あそこで一生懸命苗植えてるのが俺と同じクラスの子で、あの端っこの方で植えたそばから苗を引っこ抜いてるのがお前と同じクラスの子で、あっちの坂でぼーっとしてるのがみっ、じゃなくてお前の部活の先輩だと思う」

 持ち前の視力の良さを生かして、晴豊が田んぼのあちこちを指さしながら美世と修に伝えた。実は晴豊は同じクラスの木崎恵里佳しか顔を知らなかったのだが、消去法で残りの二人を特定して言った。しかし誰のことも名前で呼ばないようにするのが地味に面倒だ。

「あ、お前たちが昔からしてるその習慣、意味ないぞ」

 さらっと先輩がとんでもないことを言う。

「…そうだとしてもいきなり習慣を変えるのも抵抗があるしそこまで鵜呑みにできるほどあなたを信用していません」

 修がそう言うのでじゃあ名前で呼んでもいいかと一瞬思った晴豊は気を引き締められた。

「お互い少しは素性が分かる人が説得に行くのがいいのではないかな。だから僕が先輩のところへ行って、君たちはそれぞれのクラスメイトを説得するのはどう?」

「うん、分かった」

「自信はないけど、それが順当だね」

「じゃあ俺はお前たちを見守ってやるから。それぞれベストを尽くして頑張ってな」

 いや何様のつもりだよ。

 三人は脳内でまったく同じようにツッコんだが、誰もこれ以上会話を長引かせるつもりはなかったので何も言わずにそれぞれの説得する相手のもとへと歩いて行った。

 美世は歩きながら自分の説得相手である橋京子の情報を頭の中で羅列した。まずは相手のことを多少だとしても理解しなければ。相手に刺さる言葉なんて言えるはずもない。

 茜西中学校二年六組在籍出席番号三十番。吹奏楽部所属。学校での交友関係は狭く同じクラスに行動を常に共にする友人が二人。部活動では同じフルート担当の同級生が三人。しかしこの三人とはソリが合わないようで必要最低限の会話しかしない様子。家と学校の距離が近く徒歩で通学。自宅はそれなりに裕福な人々が住む地区にあり、兄弟はいない。友人たちは普段の何気ない会話から家族仲は良好なようだと思っていたようで、実際橋京子が行方不明になってから両親は必死に捜索を続けている。

 何か著しく問題があったとすれば先輩たちや部活仲間との関係で、練習場所の準備や片付けが先輩たちから見て遅く感じられると叱責を受けていた。橋京子は真面目で練習も常に集中していたようで技術は先輩たちにも引けを取らず、次のコンクールでの出場有力候補とみなされていた。生来の優しい性格から控えめで、大勢の意見に流されることが多く、自主的な発言や行動が少ないことから一部ではとろいなどと陰口を言われることもあり、本人に直接誰かが言っていたというのは確認できなかったが、本人に言われている自覚はあったようだ。

 部活での人間関係でノイローゼ気味になっていたようで、失踪する一週間ほど前から登校しなかったり登校しても保健室までしか来られなくなったりしていた。

 脳内の情報を反芻しただけで美世はもう彼女の半径三メートル以内に足を踏み入れていたが、橋京子は何の反応も示さない。ただ目の前を眺めているだけのようだ。その目の下にクマがある少し窶れた横顔を無遠慮なほど見つめてみたが、正直見覚えはない。部員数自体が大人数で、しかも扱う楽器の違う先輩の顔などとても覚えていられないというのが美世の正直な感想だ。もっと口悪く言ってしまえば、特徴が少ないというか、同じ部活の先輩や同級生たちによくある髪型と雰囲気なのだ。それだけに、彼女が標的となったことに残酷さが感じられる。

 誰でもよかったのだろうな、と。

「こんにちは。僕はあなたと同じ吹奏楽部に所属する一年生です。あなたを現実に戻したくてここまで来ました」

 橋京子は微塵も反応しない。美世の心は若干折れかけた。

「決して怪しいものではないのですが、ここには独特のルールがありまして。名を名乗るとここから戻れないと言われているので名前を言うことができないのですが」

「名前なんて言わなくてもいいよ。君は有名人だから」

 こちらには目もくれずに、彼女は美世の言葉を遮った。

「なんで私なんかを連れ戻そうとするの?」

 家族や友達たちがあなたを心配していますとか、同じ部活の後輩としてとか、もっともらしい理由はいくつか浮かんできたが、それは美世の本心では無かった。

 今、橋京子が求めているのは本心からくる言葉だ。

「僕の生業なんです。こちらに来て、この世ならざる方々に芸能を届けるのが。ここは人ならざるものの住処で、ヒトがここにずっと居つづけることは幸せなこととは思えません。だからあなたたちを連れ戻すために、一緒に帰るためにここに来ました」

「じゃあ私もこの世ならざるものになればここにいていいのかな」

「どうしてそんなに戻りたくないのですか?いえ、無神経なことを言ってすみません。あなたの悩みはあなたにしか分からないでしょうね。でも、もしそれが学校生活で起こっていることなら学校なんて行かなければいい。あなたの両親はそんなことで怒ったりしないのでしょう?」

 自分は両親との関りが希薄なことはさて置いて、先輩相手にまるで大人が子どもを諭すような口調で美世は言ってしまった。早く帰りたいという苛立ちが、口調に多分に含まれている。

「うん、ウチの親は学校行かなくたって怒んない。心配してくれると思う。でも、学校行かなくてもよくなったって、何にも変わんない。私が私のままだから。今までずっとそうだった。幼稚園行ってた頃も小学生の時も、いつも私が目をつけられた。トロいとかどんくさいとか、言われるのすごく嫌だけど本当のことなんだろうなって思う。大人になっても、多分ずっと言われ続ける。誰かの機嫌を悪くしないように一生懸命生きていくのが、もう嫌なの」

 橋京子の顔は心境を話していくうちにどんどん下がっていき、遂には膝に額をくっつけるようにして一切表情が見えなくなってしまった。まるで外の世界を拒絶するかのように縮こまった体育座りをしている。しまった。自分の言動で彼女はより頑なになってしまったのかもしれない。

 しかし困った。自分とはあまりにも違いすぎる。一体どんな言葉をかければ帰ろうと思ってくれるのか見当もつかない。彼女は自分自身に深く失望しているのだから。

 …あれ?もしそうなら、僕とそんなに違わないんじゃないか?

「…僕も小学生の頃、いじめられていました。こんな見た目なのに男だったからです。僕は変にプライドが高くて、誰かに助けてほしいと言えなかった。だってそんなこと言ったら僕の負けが確定してしまう」

 美世はしゃがんだままの彼女の隣に座った。

「ずっとこのままだと思っていました。自分を変えるつもりはないし、好き勝手言われて生きていくんだろうなって。でも、全然想像していなかったところから全然想像してなかった人がやった来たり起こったりして、気づいたら全然変わっていたのです。周りから見たら分からないかもしれないけれど、僕の気持ちは変わっていた。こんな風になるなんてとても予想できなかった。だからこれからもきっと、そういうことが起こるのだろうなって思ったのです。良いことも悪いことも。きっとあなたもそうだと思います。だから一緒に帰りましょう。いつまでもここにいるのは、もったいない」

 美世は言い終えた後もずっと彼女を見つめていた。彼女が顔を上げてこちらを見てくれるまで、いつまでも待とうと覚悟を決めた。人一人絶望から救えなくては、あちらで芸能を披露する者だなどととても胸を張って言えない。

「…本当に?本当に私にも何かが起こると思う?」

 美世の傾けた首が痛みを通り越して痺れるほど時間が経過してから、彼女が小さな声で問いかけた。

「はい」

 その小さな声に、美世は自信をもって答えた。

「あなたが変えてくれる?」

「きっかけになれるかもしれません」

 橋京子が顔を上げた。疲れが色濃く残る顔に、少しだけ笑みが浮かんでいる。

「そんなこと言っちゃえるんだね。赤野君、絶対モテるでしょ」

 名前を言われてしまった焦りより、彼女が笑ってくれたことの方が美世は何十倍も嬉しかった。

「帰りましょう。あなたを待つ人たちのところへ」

 橋京子は頷いた。

「よし、決まったな。さぁ帰るぞ」

 背後から割り込んできたのは案の定あのふざけたへのへのもへじだ。橋京子の表情が引きつっている。あからさまに不審者を見たときの顔だ。

「大丈夫です。怪しいですが、今のところ害はありません」

 いや全然大丈夫じゃないな、と言っておいて美世は思った。

「安心しろ、俺は優しくて頼りがいのある先輩だからな。お前たちに帰り方を教えてやる。前を見ろ」

 二人は同時に前を向き、同時に声を上げて驚いた。先ほどまで複数人が田植えの作業をしていた田んぼには誰もいなくなり、それどころか苗も消えて不自然なほど真っ青になった水がのっぺりと二人を見つめ返していたからだ。

「お前なら分かるだろう。あの水に飛び込めば帰れる。どうせなら景気づけに思いきり助走してから飛び込め」

 橋京子が苦笑いを浮かべて美世を見る。この人何言ってるんだろうと表情が物語っている。その気持ちは分かる。自分だって急にそんなこと言われたら素直に従うとは思えない。だからこそ自分が説明しなければ。

「助走する必要は無いけれど、あれに飛び込めば帰れるというのは多分本当です。僕たちは似たようなことをして現実に戻ったことが多々あります」

「…どうしても飛び込まなきゃダメ?」

「今考えられるもっとも確実で早く帰れる可能性が高い手段です」

 橋京子は絶句したのち、クスクスと笑いだした。

「私、そんな馬鹿馬鹿しいこと一度もやったことない」

 そうか。普通の常識を持っている人から見れば自分たちのやっていることが馬鹿馬鹿しく感じられることがあるのか。美世ははっきりそう言われたことが地味にショックだった。橋京子は美世の様子には気づかずに笑い続けている。

「あはは、そうだね。どうせなら思いっきりジャンプしよう」

 先ほどまでの陰鬱な雰囲気など微塵も感じさせない笑顔で、橋京子は立ち上がった。

「行こう、赤野君」

 それはこちらのセリフだが、ひとまず乗り気になってくれてよかったと思いながら美世も立ち上がる。

「せーので行くよ」

 美世はその号令がかかる一瞬だけ前に、へのへのもへじに目をやった。紙に覆われた顔が一度だけ大きく頷いた。

 そして美世と橋京子の二人は、青い水たまりの中へと大きくジャンプしたのだった。

 中腰を続けたせいで腰と太腿のあたりが痛い。美世はこわばった背筋をゆっくりと伸ばし、両腕も伸ばして大きく伸びをした。

「あー、疲れた。なんかずっとこの姿勢だったような気がする」

 美世の後ろで晴豊が暢気に声を上げる。

「本当に。ひどい目に遭った」

 美世の前にいた修が呟くような声で同意する。修が振り返ると、そのひどい有様が良く分かった。左頬が腫れあがり、一部紫色に変色している。髪も強風に巻き上げられたかのようにぐちゃぐちゃで、ワイシャツにも不自然にシワが寄っていた。

「どうした修。ケンカでも売られたか」

 晴豊が心配して修の顔を覗き込む。

「買う気もなかったのに売りつけられたんだよ。こんな時代に殴り合いのケンカだなんて馬鹿馬鹿しい」

 修は自分の負傷よりも眼鏡に負傷がないかを気にしている。

「他にケガしたところは?絆創膏貼るか?あ、俺絆創膏持ってねぇ。ささめなんか持ってるか?」

 動揺しささめに助けを求める晴豊につられて美世もささめを見遣ると、ささめの隣にここにいるはずのない人物が立っていることに気が付いた。隣の晴豊も、短く息を呑む。

「なるほど。非常に興味深いものを見せてもらったよ」

 口調に棘はないが刺すように鋭い目つきで、ライアンが三人を見渡していた。

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