第7話
七
四人で話し合った翌日、晴豊は宣言した通り自転車で登校していた。自分の数メートル後ろを美世が同じく自転車に乗ってついてきている。美世は昨日まで部活の朝練に参加するために早朝のバスに乗っていたから久しぶりに学校まで自転車で向かうことになっていた。晴豊は普段よりも出発時間をかなり早めて美世の家に迎えに行った。そして今も自分的にはペースを落として自転車を漕いでいるつもりである。時折振り返って美世がついてこられているか確認しているが、今のところ辛そうな様子は見られない。まぁまだ通学路の三分の一程度しか走っていないのだが。
例の先輩とやらと出会った地点はもう少しこの山道を登ったところにある。それまでこの勾配のキツい登り路を駆け上がらなければならないのだが、その分山道を駆け下りるときの爽快感はたまらない。ほとんど飛んでいるような気分を味わえるのだ。
右手を山の斜面、左手を落ちたらタダでは済まなさそうな崖に挟まれながら進んでいくと、右手の斜面が緩やかに後退して足場が広くなる。その楕円形に作られた自然の広場で、晴豊は自転車を止めた。後からやってきた美世も自転車を止める。近くで見ると美世の頬には汗がつたっていた。
「………ここ?」
やっとのことで息を整えた美世が聞く。晴豊は黙って頷いた。あの時のようななにか無視できない、自分たちを凝視する何者かの気配がないかと神経を研ぎ澄ましているのだが、五感のどこにもひっかかるような気配がない。どうやら今はいないらしい、と結論を出すと晴豊は次の行動に出た。
「おーい!また来てやったぞ!帰りにもまた寄るから、待っててくれー!」
山の中を響き渡るような大声でそう叫ぶと、さぁ行こうかとまた自転車に乗る。美世は短すぎる休憩がもう終わったことを理解した。
自分の背後でガサガサと何かが音を立てるのが聞こえたが、多分気のせいだろう。
*
「なるほど、装飾品集めか」
「そう。今年のお祭りのメインテーマが〝山里での共生〟だったから丁度良かったの」
ささめがそう言いながらビニール袋と黒地に赤い線の入った丈夫そうなロープを美世に渡す。ささめはこの昼休みの時間に美世のクラスに来て、美世と晴豊が自転車で中学校と粟見を往復する表向きの理由を伝えたのだった。
「木の枝とか、今は少ないかもしれないけれど木の実とか、落ち葉とか、花とか。飾りつけに使えそうなものを見繕ってもらうことにしたわ。お願いしてもいいかしら」
「もちろん。それなら丸っきり嘘ってことにもならないし、いい理由があって良かった。ありがとう」
「それから、二人にもう一つお願いしたいことがあって…」
ささめの頬が少し赤らむ。美世はなぜがものすごく嫌な予感がした。
「あなたたち二人の手伝いを是非したいって人がいるの。その人も連れて、三人で粟見小まで来てくれないかしら」
*
「なんで断ってくれなかったんだよ」
「だってもう本人が自転車まで用意して僕たちについて行く気満々だって聞いたから。無理矢理ついてこられるよりは一緒にいた方が安全だろう?」
放課後になり駐輪場へと向かう途中でライアンも帰り道に同行すると聞いた晴豊は、美世に不快感を隠せないでいた。
「美世に言っても仕方ないかもしれないけど、関係ない奴が増えたらそれだけ向こうも警戒するかもしれねぇし、ライアンも危ない目に遭うかもしれないぞ」
「もちろんその辺をささめには伝えたよ。でも彼なら大丈夫だって折れなかった。晴豊はまだ知らないかもしれないけれど、ああみえてささめは一度決めたらなかなか覆さない意志の強い女の子なんだ」
二人でごにょごにょと揉めている間に駐輪場に辿り着いてしまい、そこにはヘルメットを装着し自転車を引く準備万全なライアンが待ち構えていた。
「やぁ!今日はよろしく!急について行きたいなんて言ったのに引き受けてくれて感謝しているよ!ありがとう!」
辺りに爽やかさを撒き散らしながらライアンが二人に挨拶をした。ここまで堂々としている本人を目の前にして、晴豊も美世ももう何も言えまいと目で頷き合った。
三人は先頭を晴豊、次に美世、最後尾をライアンにして粟見の山の中へと自転車を漕ぎ始めた。美世は背後のライアンが機嫌よさげに鼻歌を歌っているのが気になってしょうがなかった。音程が外れているからではなく、妙に上手いからだ。
帰り道は登りが緩やかで降りが急な山道となっているので、美世は朝ほど辛い思いをせずに目的の場所へと到着した。それでも息は上がっているが。晴豊とライアンはさほど疲れた様子を見せずに自転車を降りると、しゃがんだり木に登ってみたりして何か飾りつけに使えそうなものはないかと探している。自然と美世は二人が集めたものの取捨選択をする担当になっていた。
「これは大きすぎる。持ち帰るときにどこかにひっかかってしまうかもしれないからもう少し小ぶりなものを探したほうがいい」
と晴豊の持ってきた木の枝を却下したり
「確かに大ぶりできれいな葉ですがよく見るとこの辺りが茶色に変色している。もう少し色が均一なものが良いです」
とライアンのもってきた葉っぱを却下したりしたが、二人ともなるほどそうかと特に文句も言わず他の物を探してくる。ここに来た本来の目的はまだ果たせていないが、素材探しがなかなか楽しくて美世も晴豊も何をしに来たのかを忘れかけていた。
晴豊は崖下へと続く藪の中に、赤い小さな木の実をいっぱいにつけた小枝が突き出ているのを見つけた。手を伸ばしたら届きそうだと思い、崖のふちに寝そべると上半身を崖下へと躍らせた。突如現れた邪魔者が気に入らないのか、髪や耳のあたりを葉っぱやら枯れ枝やらがくすぐってくる。
そのざわめきに隠れそうなほど小さな声が、晴豊の耳に届いた。
「おい…ここだよ…おい…」
逆さまになった世界を必死になってあちこち探すと、遥か崖下に何やらヒト型らしきものが見えた。晴豊の視力をもってしても辛うじて手を振っているような動きをしているということぐらいしか分からない。あんなところに誰かいるとして、ここまで声が届くなんてことありえるだろうか?
「返事は、するなよ、俺が、バレると、まずい」
声と崖下の身振り手振りが連動しているように見える。晴豊の脳内でこのささやきのような声とあの先輩を名乗る者の声とが一致した。
「俺は、そいつの前には、出られない。消されるから」
そいつ?美世か、ライアンか。晴豊は直感的に後者のことを言っているのだと理解した。
「まったくどえらい奴連れてきたな。こりゃああいつの裏切りは確実ってなもんだ」
さっきから何を言っているのかサッパリだが、返事もするなというしただ聞くしかないか。晴豊は自分でもなぜかは分からないがこの男の指示に従っていた。
「いいか、今のお前たちじゃあそいつには勝てない。万が一にも勝てない。だからな、」
「おーい!晴豊君!いつまで逆さまになっているつもりだい?」
その声にあてられたかのように人影も声も掻き消えてしまった。晴豊は慌てて半身を起こす。
「キレイな木の実が見えたんだ。取ろうとしたけどギリ届かなくて」
「へぇ、どこに?」
やや言い訳っぽい言い方になってしまったが、ライアンにはバレなかったようだ。若干引きつった顔の晴豊を見て、美世には何かあったのだろうと察しがついた。
「あー、ちょっと遠いね」
ライアンはそう言いながらも晴豊のように寝そべると、足先だけを残して体のほとんどを崖下へと投げやってしまった。
「ライアン⁉」
「先輩⁉」
晴豊と美世が同時に叫ぶ。しかし二人が手を差し伸べるよりも先に、ライアンは何事もなかったかのように崖の上へと体のすべてを戻していた。筋力と遠心力を使った見事な早業であったが、ライアンの顔や枝をむしり取った指先には無数の切り傷が走っていた。
「これなら美世君も納得してくれるかな?」
ライアンはこともなげに小さな赤い実のついた小枝を美世に差し出す。
「これは…スグリかな?おじいさまが野生で見かけることはほとんどない珍しいものだと言っていました。華やかな実ですね」
「へぇ、この国ではgooseberryは珍しいのか」
そのふとした拍子に出た母国の言葉に、晴豊はライアンが遠くからやってきたことを知らしめられる思いがした。
「そんなことよりライアンあちこちケガしてるぞ。早く戻って手当てしてもらったほうがいい」
「ああ、こんなの大したことないよ。えーと…そう!カスリキズだ!」
「かすり傷だからと油断してはいけません。早く小学校へ行きましょう」
美世は木の実や落ち葉を詰めたビニール袋、晴豊は木の枝を自転車の荷台に乗せ、ささめからもらったロープでそれぞれ荷物を固定した。美世はもともと器用だし、晴豊も島でじいちゃんばあちゃんたちが船を縄で括りつけたり縄を編んで敷物や入れ物を作ったりするのをよく見ていたから最低限の荷物を固定する結び方ぐらいできる。
「わぉ、君たち器用だね。僕にはさっぱり出来そうもないよ」
「先輩はケガもしていますし荷物を固定するのは僕たちに任せてください」
「そうだよ、学校までまだ距離あるけどハンドル握れそうか?」
「本当に大したことないって。君たちは心配性だね」
「そりゃあ心配するだろ。あんなに危ないことするなんて」
「君が言えた義理ではないけどね」
美世がしっかりと晴豊にくぎを刺す。
「僕はできると思ったからそうしただけだよ」
「でも傷だらけになってしまったじゃないですか」
「目的が果たせたらどうってことないさ」
三人が粟見小に辿り着くと、ライアンは真っ先に保健室へと連行され(傷は浅いがなにしろ顔中ひっかき傷だらけなのだ)美世と晴豊は待ち構えていた修とささめにあの屋上手前へと連れていかれた。
「どうだった?先輩とやらには会えた?」
開口一番に修が訊ねる。
「会えたっつーか、見えた?」
「やっぱり君には見えたのか。あの崖下を逆さまになって覗き込んでいたときかい?」
「まぁ、晴豊また危ないことしたの?」
ささめが柳眉をひそめる。
「ちょっと逆さまになっただけだって。それよりライアンの方が危ない奴だったよ。足先だけ残してぐるんと一回転だぜ。ささめ注意してやってくれよ」
「確かにサーカスみたいな動きしていたね」
「あの人が私の言うことを聞くとは思えないわ」
ささめが自嘲気味に笑う。
「そういえばささめはいつからライアンと仲良くなったんだ?」
「仲が良い、という訳でも―」
「その話はまた今度にしてくれ。それよりも先輩と何か話や意思疎通ができたのか知りたい」
修がいつも通りの不愛想さで話を遮る。
「ああ、ごめん。その崖下の方にさぁ、すっげー下の方なんだけどそれっぽい人が見えて声が聞こえたんだ。なんか、そいつはやばい、とか勝てない、とか、あと…」
「あと?」
修がその先を促したが、晴豊は言葉に躓いている。
「あと…なんか言ってたけど、よく聞こえなかった」
あ、嘘ついた。
美世には分かる。
「…やばい、勝てない、か。誰に向かって言っていたのかもあやふやだね。その場にいた美世やライアン先輩のことかもしれないし、全然別の誰かに向かって言ったのかもしれない」
「なんかあんまり意味あることできなかったな、ごめん」
「いや、少なくともやはり粟見の山中に何かがいるということは分かった。しかもあちらではなく現実的にだ。晴豊にだけ接触を図ろうとするところがやはり何か事情があるような気がするね」
修が鼻の下に片手を添えて呟く。いつもの考え事をしているときの癖だ。
「修はどうだった?失踪してしまった子たちのこと、何か分かった?」
美世がそう水を向けると、修は立て板に水のごとく語りだす。
「戸崎さんは家庭関係に、望月君はクラスメイトとの関係に、橋先輩は部活仲間との関係に悩んでいた、ということは周囲の友人たちの話や本人のものと思われる匿名のブログからより強固に確認できた。それから望月君と同様に、戸崎さんも橋先輩も机の隅やノートにへのへのもへじを落書きする様子をクラスメイト達が見ていた」
「匿名ブログなのにどうやって本人が特定できたの?」
「二年の先輩の情報までよく集まったな」
美世と晴豊が感心と恐れの入り混じった声で聞く。
「まぁちょっとネットとかパソコンの構造知っていれば難しいことじゃないよ。それに僕には涼っていう僕とは似ても似つかない明るい性格の姉がいる。見た目はそっくりなんだけどね」
以前修の家で出会ったあのちょっと強引でよく笑う涼を思い出し、晴豊は笑ってしまった。美世とささめもクスリと笑っている。
「三人ともへのへのもへじを描いていたとなると、へのへのもへじと描いた紙を顔に張り付けている先輩とやらは無関係ではないだろう。失踪にどうかかわっているかは相変わらず不明だけれど。だから一つ、提案がある」
「提案?」
美世が問いかける。
「いつもの文言を、その先輩を見つけた地点で、四人揃って唱えてみたらどうだろう」
「いつもの文言って、あのデカい樹の前で言ってるやつか?」
「そう。あれはきっと粟見であちらに行くための強力なワードなんだよ。通学路で越える山だって古くから粟見地方の一端として見られていた訳だし通常通りの効力があると思うんだ。へのへのもへじ先輩が現実にしか存在しないのか、あちらにもいる超越的な存在なのかを確かめられるかもしれない」
「超越的な存在、か。そんなもの、たった一つしか聞いたことがないよ」
「え、それ俺も聞いたことあるやつ?」
全く見当のつかない晴豊が訊ねる。
「以前、おばあさまが粟見から追放した一族があるという話をしたことを覚えている?校外学習で水族館へ行った時のことだけれど」
晴豊もあの奇妙な体験のことならもちろん覚えていた。
「関わっちゃいけないやつに関わっちゃったから追い出したって話だったよな?」
意外と要点を抑えて覚えていた晴豊に驚きながらも、美世は話を続けた。
「簡単に言うとそうだね。その関わってはならないモノだけが、僕たちと同じように現実とあちらとを行き来できる。生きている人間の心に取り憑いてね」
「そうして現実世界に災いを振り撒く。だから絶対に関わってはならないし現実の被害を最小限にするために粟見から追放する。時代によっては追放なんて生易しいものではないこともあったのではないか、とも考えられているね」
美世の話に補足をする修はまるで学者のようだ。
「それが?へのへの先輩ってことか?」
変な略し方だな、と思いながらも美世が頷く。
「果泥の残党か、全く無関係な誰かか。そのどちらにしても現実に悪影響があるのなら絶つのが僕たちの仕事だ」
「じゃあ明日にでも四人で現場に向かうってことで良いかな。本当は今日にでも行って確かめたいけど、今から準備して向かうのでは日没後になるのは免れないし、大人たちが余計に心配する。美世、帰ったら玉美さんに話を通しておいてくれないか」
「うん、そうする」
「なぁ、ささめは?それでいいのか?」
晴豊がささめに尋ねた。修と美世は話に夢中になって気づいていなかったが、ささめがいつも以上に会話に参加せず、ただ流れを見守っているだけなことに晴豊は気づいていた。
「…ええ。みんながそうしたいのなら」
ささめはいつも通りの控えめな微笑み方でそう応えた。
*
「なぁーんか変だったよな?ささめ」
「変だったのは君も同じだ」
粟見小でも作業を終え、夕日に影を長くのばされながら、美世と晴豊は自転車を引いて美世の家へと歩いて向かっていた。晴豊の家は逆方向だが、美世が晴豊もおばあさまのところへ顔を出してほしいと言ったので二人で同じ方向を目指して歩いている。
「嘘を言っただろう。へのへのもへじから何か言われたのかって修に聞かれたとき」
「…やっぱりバレたか」
「僕にはね。修とささめには気づかれてないかもしれない」
「だといいんだけど。へのへの先輩がさぁ、〝まったくどえらい奴連れてきたな。こりゃああいつの裏切りは確実ってなもんだ〟って言ったんだ」
「…なるほどそれはあの場では言えない言葉だったね。ささめを指して言っているも同然だ」
「だろ?まぁあいつの言うことなんか信じなくてもいいんだけどさ。ささめが悲しむかもしれないのが嫌だった」
二人が美世の家に到着したときにはもう日が暮れていて、今日も一階の広間を使って稽古仲間や近所の人たちが夕食をともに食べていた。門前に自転車をとめる晴豊にもその笑いさざめく声が聞こえてくる。美世が玄関の扉を引く前に、中から人が出てきた。
「おかえりなさい。美世、晴豊」
「ただいま。久しぶりだな、春子さん」
春子さんは相変わらず背筋の伸びた凛々しい佇まいをしている。ゴールデンウィークにここに来た時には会えなかったので、会うのは久々なのだ。
「玉美様もあなたに会いたがっていましたよ。ちょうど今から夕食をお部屋に届けるところでした。良かったらあなたも一緒に食べていきなさい」
「え、みんなと一緒に食べてないのか」
「おばあさまの原因不明の不調は続いていてね。最近は皆に心配をかけさせたくないと別室で食事を摂ることもある」
「ふぅん。俺だったら余計心配になるけどな」
「玉美様はいじっぱりなところがありますからね。弱っている姿を見せたくないのですよ」
春子さんの口調には玉美への親しみが込められている。
「それなのに俺が会いに行ってもいいのかな」
「君はおばあさまにとって身内みたいなものだから。大丈夫だよ」
春子さんは晴豊には五段重ねの重箱を、美世には温かいお茶の入ったポットと湯呑を載せたおぼんを渡し、夕食の席を囲む人々の中へと行ってしまった。もちろん食事をするのではない。お皿を下げたらまた追加の料理を持ってきたり食器を洗ったりとやることは山ほどあるのだろう。赤野家で行われる宴席で、春子さんがもてなされる側にいたことなど晴豊どころか美世だって目にしたことがない。本人ももてなす側として参加する方が気が楽なのだとこぼしていたことがある。
二人が二階へ上がるとリビングの明かりが点いていて、開けっ放しのドアの向こうから談笑する声が聞こえてきた。ソファーに腰かける長い銀髪を丁寧に結い上げた後姿と、その隣に座る白髪の丸まった背中が見える。
「おばあさま、おじいさま、夕食を持ってきました。今日は晴豊も一緒です」
振り返った玉美は、やはり以前見たときよりも窶れていた。痩せたせいで目の下が青白く落ち込み、目尻や口元にシワが増えている。晴豊は言葉に詰まってしまった。
「よく来てくれましたね、晴豊」
そう声をかけてくれた玉美の声は、以前のようにハリのある澄んだ声だった。
「ご、ごぶさたしています?一緒にご飯食べてもいいですか?」
慣れない敬語を使わなければならないと思わせるほどの気品も健在だ。玉美はそんな晴豊に微笑んだ。
「もちろんよ。運んできてくれてありがとう」
立ち上がったり歩いたりするのがしんどい様子の玉美を美世の祖父が手助けし、ダイニングテーブルの椅子を引いて座らせてあげていた。その姿から、祖父が普段から玉美の介助をしていることが察せられる。
「やぁ、今日はまた一段と豪華な重箱だね。晴豊君が来てくれたから春子さんたちもよけいに腕を鳴らして作ってくれたらしい」
祖父が弾んだ声で晴豊の持ってきた重箱を広げる。重箱の中には白身魚の天ぷらに梅肉のソースがかかったものや甘辛い照り焼きソースをかけたハンバーグ、赤と黄が美しいパプリカのピクルスにきゅうりとミョウガの浅漬け、こんにゃくのピリ辛炒めやブロッコリーのカニカマ和えなど、美味しそうで見た目も美しい料理が丁寧に盛り付けられていた。重箱の下二段は俵型のおむすびがきっちりと並び、海苔がベルトのように巻いてある。美世が奥のキッチンから取り皿と箸を持ってきて、それぞれに渡した。
「話は食べてからでいいか。遠慮しないでどんどん食べて」
晴豊はその言葉通り遠慮せずにどんどん料理を口に運んだ。玉美と祖父はその食べっぷりを嬉しそうに見ているばかりであまり箸が進まないようだった。いつも心づくしの料理を作ってもらっても残すことが増えた二人にとって晴豊は頼もしい存在だろうと美世は思った。なんせ美世は晴豊のように大食いではないのだ。
とはいえよく食べる人が近くにいるとつられて自分も食べる量が増えるのは確かなようで、重箱が空になるころには美世はもう水一滴ですら口にしたくないほど満腹となっていた。祖父がいただきものの水羊羹があると切り分けて出してくれたが、とても食べようとは思えない。晴豊は美味しそうにつまんでいるが。
「明日、僕たちはいつもと異なる場所からあちらへ行ってみようと思います」
美世はこのとき初めて玉美と祖父の二人に失踪事件のこと、へのへのもへじのことを話した。二人は美世が話し終わるまで、終始頷きながら聞いてくれた。
「…つまり君たちは誘拐犯かもしれない人物のもとへ直接乗り込もうとしているわけかい?」
口調は穏やかながらも、承服しかねるという意思を言外に含ませながら祖父が言う。その心配がもっともなことであるのは、美世も晴豊も分かっている。
「でも、もしあいつがあちらにいるんなら俺たちしか助けにいってやれねぇし」
「必ず四人で行って四人で戻ってきます。危なかったら誰が何と言おうと僕が他の三人を連れて戻ります」
美世の言葉にも祖父の眉間のあいだにできたタテ皺はゆるぎそうにない。
「私は、四人で行って四人で戻るというのなら行ってきても構わないと思っています」
玉美の意外な言葉に、美世も晴豊も目を丸くした。
「その先輩を名乗る方について、少し覚えがあります。生者に害をなす方ではありません。その方と行方不明の学生さん方に何らかの関りがあるとして、犯人だと決めつけるのは早計過ぎます。自分たちの目で直接確かめてから判断しても良いでしょう」
「まぁ君たちが止めても行くというのなら儂らには何もできんしなぁ。むしろ話してくれただけありがたいのか」
祖父が諦めの混じった溜息をつく。
「約束するよ、危なくなったら帰ってくるって。…でも一応預けてた刀貸して、下さい」
晴豊は頭がテーブルにぶつかるギリギリまで頭を下げた。自分でも言っていることが矛盾していると分かっていたので気まずくてなかなか顔を上げられない。
「もちろんそれはお返しします。あなたの唯一の武器ですからね。あなたがこれを人に向けることはないと分かっていますよ。だからこそ、今一度約束しましょう。必ず四人で戻ってくると」
玉美の言葉に、美世と晴豊は力強く頷いた。
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