別れたあとに
鯖缶/東雲ひかさ
別れたあとに
冷蔵庫のドアポケットに不審な空きを見つけた。ケチャップにマヨネーズ。牛乳だったり各種調味料。それらで気持ちよく収まっているドアポケットに隙間があった。
ああ、そうだった。これはあいつの好きだったドレッシングの空きだ。いまはそこだけ不自然に空いている。律儀にドレッシングまで持っていたのかと思うと、清々するどころか嫌がらせにも思えてくる。
「私もけっこう好きだったのに」
冷蔵庫から麦酒を取り出す。そして隙間を横目に閉じた。
部屋は静かだった。リビングのソファにも、テーブルにも、どこにも、誰の姿も見えない。当たり前なのに、やはり不自然だ。
静かであるわけじゃない。もとがうるさかったのだ。どこにいたってあいつはノートパソコンを広げ、カタカタとやっていた。仕事なのは分かるが、私はどうにも慣れずに嫌いになってしまった。
誰もいないソファに身を沈め、アテもなしに麦酒を呷った。
「寂しいな」
呟いて見る前から寂しかったが、呟いて音にしてみると余計に現実味が増してきて、骨身に寂しさが染みてくるみたいだった。
多分だけど寄りを戻すことのある輩というのは、この寂しさがいなくなった相手のための寂しさだと勘違いして、寄りを戻すほかないと思ってしまうのだろう。人は元来、寂しがり屋なのに。寂しいは寂しいが、誰でもいいわけじゃない。あいつでもいればと思わないことはない。ほんの塵ほどだが。けれどダメだったからこうなっているのだ。つくづく自分は寂しがり屋だ。
何かどうぶつを飼おうか。でもどうぶつを飼い始めると、いよいよダメになると聞く。どうダメになるのかは分からないが。人間関係の煩わしさもなしに寂しさが埋められると、もう人と付き合う必要もないかも、と思わずにいられないのかもしれない。何より犬でも猫でも、どうぶつは可愛い。それが人間との違いだ。
どんなに見てくれがよくたって、世の中には可愛くない奴らなんてわんさかいる。人間の中身だけを陳列して、博覧会でも開いてみるといい。残酷でも暴力的でもないのに、目も当てられないような、辱めのような地獄ができあがるはずだ。
「すさんでる」
自分の心模様を冷笑するように呟いた。空になった麦酒を空だと分かっているのに軽く振ってみて、もう一度だけ缶を呷った。雫が私の舌先に落ちた。
次の麦酒を取りに行く。部屋を見渡すと、以前と比べて広くなったように感じるが、別段ものが減ったようには見えない。あいつの持ち物は部屋にほとんどなかったのだろうか。
缶を捨て、麦酒を取り出す。そして寝室に向かう。
ダブルサイズのベッドは二人で寝るのに少し手狭だった。そして一人のいま、お姫様を気取るにはやはり小さい。ダブルサイズが一番半端なサイズだ。
麦酒を飲みながらクローゼットを開けると、服が半分ほどなくなっていた。部屋から消えたのはこのくらいだろう。
「ほんと、あいつのものってほとんどなかったんだな」
ベッドサイドのキャビネットに瀟洒な白い箱を見つける。まさかと思ってそこまで行き、手に取る。
陶器製の箱で、装飾がほどされている手のひらサイズの箱だ。蓋を取ると中には“ゴム”が入っていた。鏡を見なくても自分の顔が歪んだのが分かった。勿体ないとも思わなかった。一箱分くらいあったのをゴミ箱に打ち捨てた。これはあいつが処理すべきだ。ドレッシングよりも早急に。
「嫌がらせに違いない」
また戻ってソファに身を沈める。何もしたくない。麦酒一缶じゃ酔えない。いまならいくら飲んでも酔いはしない。そんな気がする。
空しさがぽっかりと胸に落ちる。
大げんかの果てとか、酷い別れ方をしたわけじゃない。円満からはほど遠かったけれど。つまり緩やかに冷めていって、それが心地よい日常になることもなく、冷えていった。それだけのことだ。
あいつとの思い出を全部いやな思い出だと切り捨てるほど、私は酷い女じゃない。けれど五年という時間は長すぎる。もっと短かったらよかったと言う話でもないけど。
長すぎる時間を受け入れがたく、それをどうにか受け入れるためにあいつはクズだったとか嫌いだったとか、後付で相手をこき下ろす。矛盾しているようだけど、これで案外受け入れられる。受け入れるというよりは他の強い感情で感覚を麻痺させているのだろう。あいつとの思い出を美化すべきか、卑下すべきか曖昧だ。そうやってどうにかしないと、わだかまりがなくなりそうにない。
「嫌いじゃないさ。好きでもないけど」
麦酒を飲む手はいつの間にか止まって、小一時間ぼーっとしていた。
あいつのせいで私は苦しいのか? 多分違う。戻らない時間とか楽しかったこととか嫌だったこととか、それが飲み込めないだけだ。自分の問題で苦しいのだ。
あいつが悪かったとしても五割だ。突き詰めていけば、あいつを選んだ私が悪い。これも最大で五割の過失だが。
あとは運とタイミングだ。結婚がひとつのゴールだとして、反対が破局。そのふたつがそれぞれ乗った天秤がある。何かあるたび、どちらかの皿に重りが載せられていく。最後、傾ききったときに破局か結婚をすることになる。そんな簡単なことではないけれど、確かに小さなことの積み重ねだった。
箸の持ち方とか歩き方、物の置き方とかふとした言葉遣い。あいつが私の細かい所作をどう思っていたのかまでは知らない。けど確実に何かひとつくらいは気にかかっていたのだと思う。そうやって天秤は破局のほうへ傾いていった。
そんなことを考えて、賢しいフリをして誤魔化して、寂しさの解剖をして寂しさを紛らわす。
寂しさに飲まれていって、なりふり構わなくなると、尻軽だとか下品だとか言われるようになる。別にプラトニックでいいのに。弱っている人間には卑しい人間しか寄りつかない気がする。
選り好みしていなければ、自分が傷つくだけになる。運命なんて言葉の意味以外にはなくて、その言葉から外に出てくることは決してない。夢と変わりない。精神的な繋がりがほしいのなら、なおさら誰でもいいなんてことはなくなってしまう。
「愛ってわがままだ」
総括をして、ままならない寂しさに飲まれる。眠れないのに目を瞑る。部屋には誰もいない。すがれる愛の残り香も一切なかった。
別れたあとに 鯖缶/東雲ひかさ @sabacann
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