第2話 歩くように楽しむ ♪︎刺繍の日記帳

もう一度、と振り返ることは、足跡を確かめるためかもしれない。

どんな寒さの中でも、暗闇の中でも――いつだって、子どものようにはしゃぎながら足を進めるあなたの姿を、忘れられるはずがない。

まっさらな白の上に、足跡が続いていく。

何度でも聞きたい・まだ見ぬものが、この世界に溢れている限り。



○ 

鼓動のように繰り返される、空気の震え。

時折、ぴり、と身体の輪郭をすり抜けて、鋭く重い音が内側まで響いてくる。

「マスター。どうか、私から手を離されませんように」

「……ええ。お祭りなんて、久しぶりだわ~。色んなところから楽しそうな音が反響していて、賑やかねぇ」


そこら中から聞こえる人だかりの喧騒と、食欲を刺激する煙の匂い。その両者をかき分けながら、従者が傍らの“音”の魔女に声を掛ける。互いの存在を周囲に掻き消されないよう、意図的に強く発せられたその声に――普段とは違う新鮮さを感じたのか、“音”の魔女は微かに微笑んでいた。


そうして、その間に彼としっかりと手を繋ぎ、場の空気を楽しみながらも慎重に歩いていた。


――間もなく。ぱしゃん……と、遠くから星が落ちる音がした。

無数の光が水面の上に飛び込んで、休みなく水飛沫を上げる。――荒々しく、力強い。そして、何よりも美しい……刹那のきらめき。人々は、一生の内に再び同じものを目にすることは二度とないだろう……と水面の光が見える場所へと押し寄せ、感嘆の声をこぼしながら立ち尽くしている。


「……帰りましょうか」

従者に向けられた“音”の魔女の声が、か細い蝋燭の炎のように揺れる。つい先ほどまで、色とりどりの飴玉のように転がっていた明るいものとは、違った。何よりも尊いその炎が闇の中で消えないように、従者は繋いでいた手にぎゅっと力を込めると、出来る限り人のいない方へ導く。


――“音”の魔女には、わかるのだ。

誰かの願い事が、沈んで音を立てたのだと。


ぶわり、と熱を帯びる空気の中、“音”の魔女と従者だけが、無数の光から遠ざかるように歩みを進めていく。この場で二人だけが、異世界に居るようだった。


○○ 

「もしもし……?」

「こんにちは。私は、“音”の魔女よ。……随分遠くからのお電話ね~」


電話が鳴ったのは、二人が館に戻り、一息ついた後だった。受話器の向こうから聞こえるのは、ひとりの女性の声。“音”の魔女は声に混じって他の“音”も聞き取ったのか、少し驚いた様子で答える。


「“彼”のメモの中に、見慣れない番号があったものだから……そう、魔女さんの電話番号だったのね」

不本意に見つけた小さな謎が解けて、ほっとしたのだろう。女性の声が一気に滑らかになった。


「“彼”は、一緒に住んでいるひと?」

「ええ。今、仕事に行っていて不在なの。それで」

「――“彼”には内緒にしましょう。せっかくだもの。お話を聞かせてくれる?」

秘密の電話は、秘密のままに。“音”の魔女は、何処かいたずらっぽく提案した。


「ありがとう。あのね……わたし、とっても忘れっぽいの」

女性はくすり、と一度笑った後、空から小雨が降り始めるかのようにぽつぽつと……心の奥底から絞り出すように呟いた。


「特に、約束が苦手でね。待ち合わせや交換はまだしも、サインを書くことすら億劫になってしまって」

「そうなのね。ひとと会うのは緊張する?」

「ん~……緊張もあるのだけれど、いざそこへ動こうとすると、忘れてしまうの。【わたし】が何者で、何をするためにそこに居るのか」


女性の方、電話口の向こうから、賑やかでいてやさしい音楽が流れる。窓の外で、楽器を片手に歌い踊る若者や子どもたちの姿が浮かんでくるようだ。そして、コーン……コーン……と続くように響くのは、鐘の音だ。きっと、時刻を知らせるものだろう。鮮やかな花々と斜めに射す昼の光が、町を包み・新しく塗り替えていく。


女性がしばし口をつぐんでいる――きっと、彼女も窓から外の景色を眺めているに違いない――間に、“音”の魔女は、人々や自然の織り成す風景の美しさに耳を傾け、まどろんでいた。


少しして鐘の音が遠退いてくると、シャッ……と無造作な音が景色を遮った。女性が、窓辺のカーテンを閉めたのだろう。それまで届いていた心地よい光や人々の営みは、一瞬にして舞台袖の暗がりに消えていってしまった。


「“彼”はわたしにとても良くしてくれるし、付き合ってくれるの。でも、それもきっともう……」

「……どうして?」

「“彼”が、いつもわたしの居ないところで泣いていて、本当はとても怒っているんだ……って、わかるから。“彼”のこと、大好きよ。大好きだけど、“彼”が私のことで苦しい思いをしているのは……嫌」


ゆっくりと丁寧に波打つ女性の声は、頬を掠める静かな海風に似ていた。潮が満ちては引き、きらめく水面を均等にならすように広げ――美しい層の重なりを形作っている。そうして、一見見つからない・海底に散りばめられた小さな秘密を、波に乗せて陸へと打ち上げる。ごつごつとした岩椅子に腰掛けて、もの悲しげに歌う人魚のように。


○○○

かちゃ、と机の上に何かが置かれると、女性はティッシュで数回鼻をかんだ。――丸くかわいらしい眼鏡を外して、涙をぬぐっているのだ。


「あなたは……色々な繋がりが、“糸”のように見えるのね。その“糸”が、“彼”を繭玉の人形のように縛っている」

「!」

「そして、繋がりの“糸”が、目に見えない言葉・目に見える言葉の剣によって断ち切られる瞬間さえも、わかってしまうの……どんなに胸が痛むかしら」

“音”の魔女が、一息に――清廉と落ち着いた声音で告げる。


「……魔女さんは、占いが得意なのね? 私が見ているものが、ぴたりとわかってしまうんだもの」

“音”の魔女が当然のように自分の“秘密”を言い当てるので、女性は苦いコーヒーを一気に飲み下したように、薄く笑った。そして、「もう降参よ」とわざと・しょんぼりと口を尖らせると、“音”の魔女は「意地悪した訳じゃないわ」と微笑ましそうに笑った。


「私は、目の自由が効かないの。その代わり――耳がとても良いから。身体で受け取った“音”や触れた感触から、万物を想像するのよ~」

受話器を持っていない方の手で、同じく塞がれていない耳に触れながら“音”の魔女はにこやかに答えた。


「目に見えるものだけが、全てじゃないもの。形も実体もない――けれども大切なものが、この世には溢れているから」

大切な約束の言葉を口にするかのように、“音”の魔女はゆっくりと言葉を紡ぐ。緩やかな曲線を描く髪が耳元で揺れ、小さな妖精が囁いているようにも見えた。


「……」

女性の背後で、ぱち、と暖炉の薪が火の粉を纏って弾ける。ゆらゆらと揺れ動き、芯まで熱を帯びる炎の姿は、今の女性の心中を体現しているかのようだ。


「――今、とても悩んでいるの。私が“彼”に伝えたいのは――どんな言葉なのか」


一度“音”を立ててしまえば、どんなに小さな存在でも無視できなくなる。考えないように意識を反らそうとしても、またいつか・何処かで“音”を立ててしまう。

知らぬ間に生まれた名前のない感情を、きれいに消し去ることは難しいのだ。灯された火が熱と煙を帯び・燃えて、灰の山を残すように。


「私に、お手伝いさせて? ――あなたの“音”を届けるために」

“音”の魔女は女性にそう言うと、静かに電話を切った。思ったよりも長く話していたのか、館はすっかり寝静まっていて、月明かりが微かに窓辺を白く照らしている。


「――温かいわ」

“音”の魔女の唇から、やわらかな笑みがこぼれる。傍らのローテーブルでは、従者の淹れたラベンダーティーが温かな湯気を立てていた。


○○○○

翌日の早朝は、山の方から霧がかかっていた。“音”の魔女は、少しかじかむ両手に息を吹きかけ・擦りあわせると、遥か頭上の空を仰いだ。――煌々たる朝焼けの光がもたらす熱を、ぼぅ、と肌に感じるために。


「おはよう、お魚さん。世界のあちこちで、【今日】が始まったわ」

【おや珍しい。君が早起きするなんて――大切なお客様が来るのかい?】


いつものように“音”の魔女が池の前で発声練習代わりの一曲を歌い終えると、大小様々な魚たちが、ぷくぷくと拍手の泡を出しながら集まってきた。


“音”の魔女がにこにこと笑顔を振りまいていると、「ええ。館に直接お客様がいらっしゃるのは、久しぶりですね」……と、ハーブ園に居た従者が戻ってくる。


【その、棘の束のようなものは何だい?】


魚たちはぶくぶくと訝しげに泡を吐き、従者が持つ編みかごの方を水中から覗いた。その隙に“音”の魔女は従者へ近付き、「クッキーを焼くのね?」と耳打ちした。細長いローズマリーには朝露が付いていて、その瑞々しい冷たさも“音”の魔女の心を踊らせた。


その様子を後ろで見ていた――従者に案内されて来ていた女性が「ごきげんよう」と、内緒話を始めるように“音”の魔女に挨拶した。


水滴のように軽やかな声は、シャボン玉のように“音”の魔女の方へと飛んでいく。縦縞のサマードレスを纏った女性は、すらりと背が高い。丁寧にまとめられたブロンドの長髪に、細やかな花飾りの付いたリボンが揺れていた。


「“音”の魔女の館へようこそ。待っていたわ~」

女性の声を受け取って、“音”の魔女もふわりと微笑んだ。


「あなたには――【刺繍の日記帳】を贈りましょう」

宝物庫から戻った従者の手には、四角い包みが抱えられていた。“音”の魔女の指が、花びらの花弁に触れるように繊細に動く。――開かれた布の蕾の中から木箱が現れ、【日記帳】は大切に仕舞われていた。


「……きれい」

箱に眠っていた【日記帳】を前に――女性のゼニスブルーの瞳が、水面のように煌めく。吸い寄せられて、惹き付けられて――離せなくなるほどに、美しかった。指先が、無意識に【日記帳】の白い表紙をなぞる。ネモフィラ、カスミソウ、カタバミ、カンパニュラ、ベニバナ……刺繍の小さな花々が身を寄せあうように咲き重なり、大きな輪――花冠を形作っている。


「でも……」

アルバムいっぱいに並んだ写真を眺めるようにじっと止まっていた女性は、現実に無理矢理意識を戻そうと否定の言葉を呟いた。彼女は、今も悩んでいる。記憶に残っている大切なひとときと、これから生まれる新しい思い出。その両方を自分の腕に包み、抱え――受け取るだけの資格と覚悟が、自分には本当にあるのだろうかと。


過去を振り返ろうとすれば、そちらに吸い込まれて動けなくなりそうで。手を伸ばしても、どこかこぼれ落ちていくような“目の前の光”……“彼”の姿を目で追いかけて、近くにいるならばと触れることすらも怖くなっている。“彼”がそれまで大切に積み上げてきた【宝物】を、自分が壊してしまうのではないか――と。


「あなたに受け取ってほしいの」

“音”の魔女の手が、【日記帳】の上にあった女性の手に重ねられる。手と言葉を通じて、何かを念じるかのような重み――真っ直ぐとした熱が伝わってくるようだった。


「“音”は、触れるまで姿がわからない。あなたが触れて感じたものが、“音”の姿を決めるの。そして……“音”は受け取るだけのものではなくて、あなた自身の中にもある。あなたが他者の存在に触れたときに生まれる、言葉では現せない感情や、確かに感じる温もりが――時計の秒針のように鼓動を刻み、世界を作り……鮮やかに動かしていくでしょう」

「……魔女さん、」

「あなたは決して、全てを忘れているわけではなくて。小さくても大事なことを――覚えていると思うわ」


その日、館を去る女性の腕の中には【日記帳】と、小袋の茶菓子――小さなローズマリーのクッキーが抱えられていた。




……………………


00/00

『これから毎日、日記を書くことに決めた……と夕食後、彼に話した。すると、【それは、とても素敵だね。僕のことも書いてくれるかい? 君の日記に、どんな登場人物たちが出てくるのかとても興味があるよ】……と彼はわくわくしているみたいだった。彼に見られるのは気恥ずかしい気もするけど……例えば、ふと眠れない夜に、一緒に読み返してみるのは面白いかもしれない』


00/06

『いつも使っているペンが無くなってしまった。慌てて探していたら彼が帰ってきて、どうしたんだい、と一緒に探してくれた。数十分後、リビングのソファの隙間からペンを発見・鮮やかに救出した彼は、まさしくヒーローだった。【君が覚えていなくても、僕が覚えているよ。もし僕も忘れていたら、一緒にヒントを探そう】……って、彼は探偵のように笑っていた』


00/08

『【良いことがあったら、紙に書いて冷蔵庫に貼っておこう。何度でも良い気分になれる】……って彼がウィンクしていた。気が早いわたしたちは、すぐに実行した。そうしたらみるみる内に、冷蔵庫がレンガの屋根みたいに鮮やかになったわ!……いっぱいになったメモが剥がれそうだったから、記念に、こっそりここに貼っておくの』


00/20

『今日は、下町のパン屋の前でダンスを教えてもらった。それが、ひどいの。何度も繰り返しやるんだけど、段々、パンの良い匂いがするから……余計にお腹が空いてくるの。もちろん、帰りにいつもより多く買っちゃった』


『あまりにぎこちなくて、何度か足を捻りそうになったけど……とても楽しかった。上達したら、“彼”と踊ってみたいわ』


01/100

『この日記帳、とっても不思議。書けば書くほど、少しずつページが増えていくの。魔女さんの“魔法”のせいかしら?』


『魔女さんとまたお話してみたいけど、電話番号を忘れてしまったみたい。でも、いいの。魔女さんは、わたしの秘密の共犯者であり……秘密のお友達だから』


01/210

『わたしの薬指に、お星さまが輝いている。もし寂しくなったら、お星さまにキスをして、彼が怪我なく家に帰ってきてくれるように……って願い事をするの。そうしたらきっと、雨の日も少しだけ安心して眠れるわ』


01/700

『わたしの家に、天使さんがやって来た。とてもふわふわで……彼女、とてもあたたかいの』




「これ、何の本? 辞書?」

小さな声の主が指差しているのは、ある女性の愛読書が並んだ本棚の一角だった。


「表紙はかわいいけど、随分分厚いね」

小さな指が、分厚い【日記帳】の表紙――少し色褪せているが、かわいらしい花輪の刺繍が施されている――をなぞる。


「ふふ、それはね……お母さんの【宝物】なの」

小さな温もりを後ろからそっと抱きしめながら、女性と、その後ろの男性は微笑んでいた。


「ひとつひとつ、1日1日。繋がって重なると、とても素敵な“音”が聞こえてくるわ。触れる時間が、愛しくなるほどに」

指でハンカチの縫い目をなぞっていた“音”の魔女は、傍らから香る紅茶の匂いに目を細めていた。



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宝物庫の魔女 なでこ @Zzz4sheep

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