双子

@ninomaehajime

双子


 山で鹿を追っていた。

 親とはぐれたのか、たった一頭だけだった。まだ薄い栗色に斑点を散らした仔鹿で、鬱蒼うっそうとした木々のあいだで草を食んでいる。

 私は姿勢を低くし、火縄銃を構えた。最近まで降り続けた豪雨のせいで土がぬかるんでいる。空気が湿り気を帯びており、火の点きが悪かった。それでも火縄はどんどん短くなり、焦げた臭いがした。しっかりと狙いを定め、引き金を引いた。

 銃声が響き渡る。樹上で鳥が飛び立つ羽音がした。命中した、という確信があった。なのに、仔鹿は音そのものに驚いて逃げてしまった。

 外したのか。連日の雨で狩りから遠ざかり、勘が鈍ったのかもしれない。ともかく、私は鹿を追った。久しぶりの獲物を逃がすわけにはいかない。草鞋で滑りやすい斜面を慎重に下りた。

 木立に見え隠れする栗色の矮躯わいくを追跡した。蹄の跡を辿ると、川音が聞こえた。近くの村落で氾濫が起き、死者も出たという。豪雨が過ぎ去った後とはいえ、私は用心しながら谷間の川筋に近づく。

 木々のあいだからあの仔鹿の後ろ姿が見えた。どうやら泥の色をした川縁にいるらしい。気配を気取られぬよう、火縄銃に火薬と弾丸を詰めた。火蓋を開いて、発射する準備を整える。今度こそ外さないために、確実に銃口を獲物に定めた。

 川の流れと自分の息遣いが聞こえる。集中し、引き金に指をかける。銃声が響くより先に、私の鼓膜に異音が触れた。目を凝らすと、木の幹に紛れていた影が見えた。あれは――人か。

 慌てて射撃を取り止める。仔鹿との距離が近すぎるため、誤射の恐れがあった。自分と同じ猟師かと思い、すぐに違うとわかった。その後ろ姿は子供のもので、長く濡れた髪と白い着物を着ている。履き物は履いておらず、足の裏は茶色く汚れていた。

 かような山中で、子供が一体何をしているのか。何より不思議なのは、仔鹿が寄り添ったまま離れないことだ。野生の動物が人に懐くなど、滅多にあることではない。私は興味を引かれ、その子供がしゃがんだまま何をしているのかを確かめようと近寄った。

 仔鹿の耳が反応する。その眼が私を捉え、怯えて後ずさった。ただ逃げるまでには至らず、代わりに髪の長い子供が振り返った。

 その娘の目は白濁していた。どうやらめしいている。ますます奇妙だった。山中に盲目の子がいるなど、明らかに尋常ではない。親に置き去りにされたか、それとも物の怪の類か。銃身を強く握り締めた。

「もう撃たないでください。この子が怯えています」

 黒髪の娘が言った。七つほどの見た目にしては、しっかりとした口調だった。先ほどの銃声を聞いていたのか、こちらを見透かしたような口振りである。

「娘、このような山の中で何をしている」

 問いかけながら、娘の手元を覗いた。彼女の手は土で汚れており、穴を掘っていたことがわかる。雨を吸って柔らかくなっているとはいえ、十にも満たない子供が素手で地面を掘って何をしようとしているのか。その答えは彼女の傍らに横たわっており、その溺死したらしい亡骸は、酷い損傷を除けば黒髪の娘と全く同じ年格好をしていた。

「私を埋めています」

 白濁した瞳を向けて、娘は言った。



「双子か」

 ようやく絞り出したのはその一言だった。時折、全く同じ姿形をした子供たちが生まれてくる。畜生腹から生まれるとされ、忌み子として忌避された。片方は殺されるか、里子に出されることが多いという。

 自分と同じ容姿を持つ遺体を見下ろし、首を振った。

「私に姉妹はいません」

「ならばその亡骸は何だ」

 鼻を寄せてくる仔鹿の首筋を撫でながら、娘は答えた。

「わかりません。でも、せめて埋めてあげなければ報われないと思ったんです」

 話を聞けば、娘は荒れ狂う川を鎮めるために神に捧げられたのだという。つまり人身御供だ。迷信深い村が近くにあるとは聞いていたが、かような慣習が残っているとは思わなかった。

 娘はまた素手で地面を掘り出した。見れば爪が剥がれ、土の中に血が混じっている。痛みを感じている様子はなく、無表情で手を動かす。

 明らかに尋常な娘ではない。神の供物として捧げられた少女であり、関わり合いになるべきではなかった。

「どけ」

 どうして娘の手助けをする気になったのか、自分でもよくわからない。土を掘る道具を携帯していなかったから、獲物を捌いたりするための山刀で地面を掘り返した。黒髪の娘は、その傍らで少し驚いた表情をしていた。

 供儀くぎの娘と仔鹿に見守られながら、長い時間をかけて人一人を埋めるには足る深さの穴を掘った。もう狩りどころではない。己はどうしてしまったのだろうと自問しながら、亡くなった遺体を抱き上げる。冷たく濡れ、死臭を放っていた。盲いた瞳は虚ろだった。

 穴の底に横たえ、土を被せた。娘も微力ながら手伝った。か細き手で土を掬い上げ、自分と同じ顔をした亡骸を埋めていく。どういう心境だろうか。その横顔からは何も読み取れない。

 少女の亡骸を埋め、盛り土をした。仔鹿が匂いを嗅いでいた。獣に掘り返されるかもしれない。墓石でも乗せるべきか思案していると、黒髪の娘は深々とお辞儀をした。

「ありがとうございます。私一人では、埋めてあげることもできなかったかもしれません」

 白濁した瞳で私を見つめた。

「だけど、どうして手伝ってくださったのですか」

 その問いにすぐには答えられなかった。己にも明確な答えはなかったからだ。その盲いた眼差しから顔を背けた。

「さてな。……私も、憐れに思ったのかもしれぬ」

 私は銃を抱え直し、立ち上がった。もう潮時だ。獲物もなしに帰るのは口惜しいが、これ以上ここにいるべきではない。どうにも人間が立ち入る場所ではない気がした。ある種の禁域に足を踏み入れた感覚があり、一刻も立ち去らなければならない。

「さらばだ。達者でな、娘」

 この山中に盲目の少女を置き去りにするのは見殺しに等しい。だが私に目を患った娘を養う余裕はなく、村の衆も決して歓迎しないだろう。山は神域であり、あり得べからず者を連れ帰るべきではない。山の神に類するものであれば、その祟りを恐れるだろう。

「ありがとうございます。お達者で」

 こちらの心中を知ってか知らずか、娘は立ち上がって深々と頭を下げた。長い黒髪が地面まで垂れる。お辞儀する少女を一瞥して、そこから去った。山の斜面を上り、もう一度だけ振り返った。

 薄い斑点の仔鹿を従えた黒髪の娘は、まだ頭を下げたままだった。



 しくじった。

 奇妙な娘と出会ってから、何度か山に入った。獲物を追い、撃った。どのような形であれ、盲目の少女と出会うことはなかった。

 その日の狩りの獲物は猪だった。体躯が大きく、得られる皮と肉は生活を大いに助けるだろう。欲に目が眩み、日が傾き始めているのにも関わらず深追いした。

 火縄銃を構え、撃った。その一発は猪の脇腹に命中した。山中にけたたましい悲鳴が響く。仕留めたと確信したとき、腹から血を流しながら猪は駈け出した。脂肪が厚くて致命傷にまでは至らなかったのだろう。私は銃を担ぎ直した。

 暮れなずむ山中で、手負いの獣に追いすがる。鬱蒼とした山林を駆け抜けた。長年狩人として生きてきた自負が、油断を招いたのだろう。まだ土がぬかるみ、草履の底が滑った。その下は急斜面で、私の体は激しく滑落した。

 意識が戻ると同時に、激痛に呻いた。私の腹から木の枝が生えていた。連日の大雨で根ごと滑り落ちた木に衝突し、鋭利な枝が運悪く腹を貫いだのだ。口から血が溢れ、体を動かす気力もない。もう助からないことを悟った。

 これが私の最期か。随分と呆気ないものだ。あるいは年端も行かない少女を見捨てた報いかと思い、自嘲した。迷信に縋り、自らの行いを正当化した人間が何と見苦しい。

「あなたは、もうじき死ぬのですか」

 朦朧とした意識の中で、聞き覚えのある声を耳にした。霞んだ視界に、あの黒髪の少女が佇んでいた。傍らにはあの仔鹿が寄り添っていた。

 死に間際の幻覚かとも思った。あれから随分と経つ。まさか生きているはずがない。息も絶え絶えに、思ったことを口にした。

「お前、生きて、いたのか」

 盲目の娘は頷いて、尋ねた。

「私に、何かできることはありますか」

 その問いに考え、私は弱々しく首を振った。この娘が村の場所を知っているはずもなく、助けを呼べたとしても間に合わぬ。

 そうですか、と娘は仔鹿の首筋を撫でた。鹿はその手を舐める。そのやり取りに口元から笑いがこぼれた。私は獣を狩り、この娘は獣とともに生きている。正反対の生き方をした者に看取られることになるとは、因果なものだ。

 腹に響き、血を吐いた。娘の白装束を少し汚してしまった。

「死に水を、取ってくれ」

「わかりました」

 私の願いを、娘は快諾した。立ち上がり、少し困った表情をした。

「水をどこから――」

 ただ看取ってくれるだけでいい。そう言おうとして、信じ難いものを目の当たりにした。娘の胸元に切れ目が入り、重ねた人形の紙が剥がれ落ちるように穴が空いた。その中から暗い水が渦巻く深淵が覗き、白魚のような手と艶やかな黒髪が伸びてきた。

 その腕と髪に抱かれ、意識が呑まれる前に娘の声を聞いた。

「ああ、神さま。そこにいらっしゃったのですね」

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