まぼろし

真花

まぼろし

 情事が終わると裸のまま、僕は仰向けになって左腕を横に開く。

「ひっつき虫だよ」

 由佳ゆかは声を跳ねさせながら、僕の左腕を枕にしてこっちに体を向けてくっつく。まるで最初からそこに由佳の頭が入るように設計されているかのように、ぴったりとフィットする。日曜日の午後、何もかもが弛緩するような時間。

「そんなにいいの? そこ」

「もう最高」

「僕は別にくっつかなくてもいいと思うんだけど」

「いいの。私の場所だから。ここは」

 由佳の頭の重みを愛おしいとは思わない。絡められた足や僕の腹の上に置かれた手をかけがえのないものとも思わない。だが、由佳がそうしたいと言うのなら巻き付かれてもいいか。くっつきたいと思うのが男女の差なのか個人の問題なのか、考えてみたが意味がないと思ってやめた。由佳はそうだし、僕は違う。だがくっつく。言うことを聞くのは由佳が年上だからではない、そうすることで由佳が幸せそうだからだ。

 由佳は寝息を立て始める。いつか腕の上が一番安心する場所だと言っていた。

――私、だいぶお姉さんなんだ。

 由佳の頭が僕の体に蓄えられた記憶を押し出した。その日は二回目のデートで、まだ付き合うかどうかが不確定だった。水に浮いた花のようにどっちの未来にでも流れられた。由佳はきっと年齢のことを秘密にしたままこれからを選択するのがアンフェアだと思ったのだろう。同時に、それが二人でいることを否定する道を選ぶ根拠になることも理解していて、それでも私は君といたい、と震える目をしていた。

――それは分かっているよ。具体的に、何歳なの?

――三十六歳。ちょうどひと回り年上。

――なんだ。大したことないね。

 由佳は目を瞬かせてから、春風に吹かれたように笑った。だがその花は決して散らない。僕にはそう見えた。その日の内に正式に交際をすることに決めた。

 由佳は最初はおっかなびっくり、だがすぐに全身で僕に甘えるようになった。その極致が今の腕枕だ。

 由佳の寝息は規則的で、静かだ。


 まどろみから目覚めたのは、左腕が痺れたからだった。

「由佳、ごめん、痺れた」

「あ、うん。ごめん」

 由佳はころりと仰向けになって、体を起こす。僕は左手が麻痺していないことを確かめてから同じように起きて、ベッドの上に座る。

「シャワー浴びよっか」

「そうだね」

 風呂場に一緒に行き、お湯を出す。

「何か話があるって言ってたけど、どうしたの?」

「うん。それがね、仕事で、転勤することになった」

 僕は言葉に殴られたように顔を歪めた。

「転勤? どこへ?」

「ニューヨーク」

 もう一撃、僕に入る。

「遠くない?」

「遠い。すごく遠い」

「断れないの?」

 由佳は困った、本当に困ったと言った顔をする。

「断ったら今の仕事は辞めないといけなくなる。それに、キャリアアップとして大チャンスなんだ」

 僕は返事をせずに脱衣所に出て、体を拭く。ベッドに戻って腰掛けて、煙草に火をつける。まさか遠距離恋愛になるとは予測していなかった。僕の世界では由佳はずっと東京にいて、僕と会って、セックスをして、くっついていた。それがニューヨークに行きたいと言う。それはつまり、僕といることよりも仕事の方が大事だと言うことに他ならない。僕はこれから捨てられるのだ。結論が見えているなら、さっさと済ませたい。

 由佳もベッドに来る。煙草に火をつける。

「じゃあ、別れるってこと?」

 由佳は小動物のように首を振る。弱々しくて簡単に潰せそうだ。

「違う。別れたくはない。遠距離になるけど、恋人でいたい」

「でも、無理があるんじゃない? 週末に会うとか不可能でしょ?」

「それは、そうだけど」

「由佳はキャリアのために仕事のためにニューヨークに行きたい。同時に僕をキープもしたい」

「キープじゃない。ちゃんと恋人でいたい。遠くても想いがあれば繋がっていられる、はず」

「僕は付いて行くことは出来ない。僕だって別れたくはないけど、現実的にはお終いだと思う。スカイプだけで気持ちを保てるとは思えない」

「ねぇ、やってみないと分からないでしょ?」

「何年行くの?」

「三年以上」

「いや、無理でしょ」

「お願い、試して」

「何を? 愛を?」

「うん。愛。ダメだったら、そのときはきっぱり別れるから」

 確かに、決めつけるのはいけない。これじゃあまるで僕が別れたいみたいだ。そんなことはない。ただ予測しているだけだ。遠距離では愛は摩耗して消えるって。その予測に怯えて、強硬な口調になっている。由佳を悲しませたい訳じゃない。

「ごめん。あまりのことに少し混乱していたみたいだ。僕だって別れたくはない。……分かった。愛を試そう」

 三ヶ月後、由佳はニューヨークに行った。

 時差は残酷に、二人が連絡を取り合う頻度を奪っていった。僕達の愛は試され続けた。


 日曜日、由佳はいないから、僕は一人で過ごす。

 ソファに横になって、小説を読んでいた。集中していたはずが、視線が活字の上を滑るようになり、いずれ動かなくなり、僕はうたた寝に沈んで行った。

 意識と夢の境目にある水面みなもに落ちたり戻ったりしながら、頭の中に浮かぶとりとめのない事柄を味わっていた。カラスが二羽飛んだり、下北沢の街を歩いていたり、イメージだけがあっちこっちに飛んで、ふと、左腕に重みを感じた。

――なんだ、由佳、いるじゃん。

 僕は今まで感じたことがないくらいに安心して、その重みを身に受ける。口許が緩む。

 その姿を見ようと首を左に傾けた拍子に目が覚めた。

 そこに由佳はいなかった。だが、重みの余韻は残っている。

「ひっつき虫」

 言った声が部屋の中を反射して僕に戻る。

 全てが弛緩した時間。僕は一人、由佳のまぼろしにまた会いたくて、目を瞑る。


(了)



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