『青の中で』

羽瀬川由紀

第1話

『青の中で』


一番最初に見た色は、突き抜けるようにただ、ただ青い空の色だった。


風が僕の横を通り過ぎていく。

今は6月に入ったばかりの梅雨と呼ばれる季節らしい。人の世界ではそう呼ばれるようだ。僕は田んぼに囲まれている民家の庭の片隅で生まれた。人は僕のことを薔薇と呼ぶ。


僕の薔薇という名前は、この庭の持ち主が教えてくれた。少し痩せていて、背の高い25歳の青年だ。仕事は絵本作家とバイトの掛け持ちをして、生活をしている。質素だが、なんだか楽しそうに暮らしている。


青年の名前は良く知らない。

誰かと話しているのをあまり見ないから。窓越しに電話で話しているのを見掛けるが、声はよく聞こえない。


彼は遠出する時は、車を使っているが、基本は自転車だ。時々、自転車越しに僕の姿が映る。薄めの黄色い、どこか頼りない、やせっぽっちの薔薇。


雨の匂いがしてきた。もう夕立はそこまで来ていた。


ポツリ。ポツリ。


大きめの粒が、空から降りそそぐ。


体中に流れては、土に戻っていく。


冷んやりしていて、気持ちいい。


雨雲は静かに去っていった。どこからかぬるい風が吹いてきて、濡れた部分を乾かしていく。


白い猫が草むらから、タッタッタッと歩いてきた。ヌシだ。僕が勝手に呼んでいるだけだが、あいつはいつもこの庭の主のように、やってくる。そして、僕の隣りに来て何故だか、うたた寝をする。


今日は僕の隣にやってきて、僕の顔を赤い舌でペロリと舐めた。くすぐったい。やめろ。ヌシは花びらに付いた雨粒を飲み干すと、ぐるるっと喉を鳴らして、にゃーおと呟いた。


そして、またいつものように、眠りにつく。暇人だな。いや暇猫か。


クスクスと笑い声が聞こえた。

「今日も仲がいいのね。」

あっ。そこ笑うなよ!僕がツッコむと庭で咲いている百合がまた笑った。

ここの庭には、百合、マーガレット、ラベンダー、ニチニチソウ、かすみ草達が居た。


みんなそれぞれ個性的だ。


百合は優雅な感じで、佇んでいる。


マーガレットはみんなに光を与えるみたいにいつも笑顔だ。


ラベンダーは涼しそうな顔で話しをする。どこかクールな感じだ。


ニチニチソウは可憐な感じで、ハキハキしていて、賑やかな感じ。


かすみ草は、ふんわりと笑って、みんなを包むように、優しい。


夕暮れが、そこまで来ていた。


青年が仕事から帰ってきた。自転車を駐車場に停めた。雨が降ったからだろう。青年は僕達に水やりをせず、家に帰っていった。


また電話で話している。

人間はあんなにもよく喋ることがあるんだな。


夜はじわじわと、すぐそこまで来ていた。

紫色から群青色へ空は染まる。

隠れていた星は瞬く。


ガヤガヤしていた庭は、段々と落ち着き、みんな寝静まったようだ。


ゆっくりと時間が過ぎていった。

陽が昇る前の静かな朝。まだ誰も触っていないような、まだ誰のものでもないような真っ白な空気が、辺りを包んでいた。


風が吹く。向こうから自転車が走ってきた。緩やかなカーブを描きながら、車輪が前へ進む。


大学生ぐらいの女の子だった。

僕と目が合った気がした。びっくりした。彼女は僕を見るとふんわりと笑った。

初めてだった。誰かと目が合った事に驚いた。驚きと共に、胸の奥がぎゅっと痛くなった。


なんだろう。なんかドキドキする。


一瞬の出来事だった。


気づくと彼女は遠くの方に行っていた。


その日は一日中大変だった。

彼女の姿が頭から離れない。風が強くても、横殴りの雨が降っても

彼女の笑ってる姿が浮かんでは、消える。


今、何をしてるのだろう。


その日から朝と夜に彼女の姿を見るのが日課になっていた。


家から青年が出てきて、これから自転車に乗ってどこかに出掛けるようだ。青年が自転車を押して、道路に出た時だった。


『わぁ!危ない‼︎』

金属と金属がぶつかった時の、甲高い音がした。


彼女の乗った自転車が、青年の自転車にぶつかったようだ。


「ごめんね。大丈夫かい?」とあの青年は彼女に声を掛けていた。


「大丈夫です。こちらこそ、前をよく見てなくて、すみません。あの。お怪我は無いですか?」


「ありがとう。僕は大丈夫だよ。急いでいたみたいだけど、時間は大丈夫かな?」


「あっ!!そうでした!これから学校があるので、失礼します。」

女の子は焦った様子でぺこりとお辞儀をして、自転車に乗り走って行った。


青年はその姿を見送って、自転車に跨がり、漕ぎ始めた。


僕はその様子を見ていた。二人とも怪我が無さそうでほっとした。


「にゃぁーーお」ヌシが鳴き声をあげて、こっちに近づいてきた。


暇だから構えと言わないばかりに擦り寄ってくる。


「ヌシ!!待て、待て!あんまり近づいてくると僕の棘が刺さるぞ。」


そう注意するものの、ヌシは気にする素振りを見せず、器用に棘の無いところにスリスリと身体を擦り寄せる。


僕は仕方ないなと思い、なされるがまま、ヌシのふわふわの毛並みに撫でられていた。


野良猫なのになんでこんなに毛並みがふわっふわなんだろうと疑問が頭を過ぎったが、柔らかい白い毛並みの撫で心地が良くて、もうどうでもいいような気がしてきた。


ふわふわの毛並みが気持ち良くて、なんだか眠たくなってきた。


ふわぁ。欠伸が出てきた。眠りの淵に落ちてしまえば、あの子への胸が締め付けられるような苦しい想いから逃れられるのかな。


そんな思いが浮かんできたものの、寄せては返す波のように眠気がやってきた。


瞼を閉じるとあの子がふんわりと笑っている姿が浮かんできた。


あぁ。僕はまたあの子の笑っている姿が見たいんだな。


遠のく意識の中で僕はそう思った。

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『青の中で』 羽瀬川由紀 @yuki024

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