始まりは戦災孤児の二人。
二人はまだ子どもだったから、無垢なるその心でただただだ敵を滅ぼしてきた。でも争いは一向になくならなくて、自分のやっていることが無意味だと気がついた。
ここまでの流れがまた……。気づくまでに長い時間が掛かりすぎたと言いますか、でもゾーニャはそれが間違いだということに気づけた。一方のラスは……。
作者からの返信
少し見る角度を変えると、彼女らのした行為は、前例のない世界規模の社会実験とも言えるものなので、むしろ三千年は早く切り上げすぎた、とも言えてしまうかも知れませんね。
例えば現実の地球でも民主主義という思想が実現してから2600年経ち、これが人類をどういう未来へ導くのかという、壮大な社会実験ともいえる状態が現代でも続いています、が。
未だに多くの社会矛盾を抱えており、悲劇は堂々巡りで繰り返され、人々が夢見るような理想的な社会は実現せず、日々、改良が重ねられてる状態ですからね。
その改良と思ってしていることすら、進歩なのか後退なのかすら、手探り状態。
じゃあ、これ未だに理想社会を実現できてないし、同じ過ちを繰り返してるから、間違いでしたか? 失敗でしたか? 止めますか? って言ったらそうはならないわけで。
そういう意味で、たかがだ三千年で世界規模の社会実験を切り上げてしまうのは、早計とも言えちゃうかも知れません。
民主主義がそうであるように、規模がでかいだけに、本当に正解だったか、間違いだったかの答えがでるのは、千年単位の時間程度ではとても足りないんですね。
でも、ゾーフィアたちの場合、人間一人が抱えるにはあまりに大きな罪を背負うことになって、耐えられなくなってしまい、自分たちがしていることを間違いだと答えをだしてしまいました。
そこが人間一人が出来ることの限界だったとも言えます。
アメリカは、「原子爆弾のおかげで戦争が終わった」という理由付けをしていますが、日本人としては腹立たしい理由でしかない。
けど、戦争が終わったきっかけは、確かに原爆だった。
あの時、多くの犠牲者を出さないためにはどうすれば正解だったのか。
戦争には、答えがあって無いもの。
繰り返してはならないものですが、人間が存在する限りは不可能なのでしょう。
と、この話を読んで考えてしまいました。
めずらしく、真面目なことをコメントしてしまった。
このままでは、私らしくありません。
というわけで、今からカクヨム運営にBANくらってしまうような強烈な放送禁止用語を言います。
せーのっ!!
『ピンポーン♪』
おっと、誰か来たようだ。
作者からの返信
命の選択というやつですね。
誰かを犠牲にして誰かを救おうとする場合、命を失う本人が望んでいないのにそれを他者がしてしまうと、どんな大義を掲げていても、一方的な正義による殺人でしかなくなってしまうんですよね。
でもだからといって、それをやらない場合、さらなる悲劇が確定しているならどうするべきなのか?
そして、それを出来るのが自分しかいないなら?
世界の誰よりも力を持ってしまう、というのはそういう問題に直面する立場になってしまうということですね。
原爆を例に出していただいたので、現代の覇権国たるアメリカを例にすれば、90年代のソマリア問題なんかはまさに、この問題に直面してました。
ライバルだったソ連が崩壊して、世界情勢をコントロールする覇権国がアメリカ一国になってしまった時代です。
ソマリアの民族紛争を放置すれば虐殺が蔓延するのは目に見えていて、これを止められるのはアメリカしかいませんでした。
でも、そこで武力介入して現地人と戦うことになるのは、アメリカ軍が虐殺の肩代わりをしているようなものでは? というのがジレンマだったんです。
介入すれば確かに犠牲者は減らせるはずではあるんですね。
なのに見て見ぬ振りをするのは、それはそれで罪なのでは?
という二者択一でした。
世界でもっとも力を持った立場になると、こういうジレンマに捕らわれちゃうということですね。
放送禁止用語じゃなくてだじゃれくらいにとどめておけば良かったのにw
そうか、血の繋がらない姉弟だったんですね。なまじ魔術に長けていたおかげで、子供心に抱いた復讐心と、戦争を憎む気持ちに手段を与えてしまったんですね……。
何もかも引き受けた魔王ことラスの気持ちを考えると、切ない気にもなりますね。彼はきっと姉のことを大切に思っていたと思うので。
作者からの返信
世界は悲劇にみちており、自分にはその世界を変えるかも知れない、という状況におかれてしまったわけですね。
彼らには選択肢として、悲劇をほおっておいて自分達だけ平穏に暮らすこともできたでしょうが、それを良しとできなかった。
そうして善意の責任感から出発した旅も、行き着いた先は新たな悲劇だったということですね。
こんな長い時間子どもの思想のままだったのだろうか? 三千年も経たなければ解らなかったのだろうか。 自分たちが受けた苦しみを何倍にもして返して、訪れるであろう平和の形も解らずに、それ模索しながら殺し続ける不毛な人生。 足元には自分たちの殺した人たちの魂で血塗られている。 そこに人の平和を築けるなんて本気で考えていたのだろうか?
人間は愚かで解っていても罪を犯すもの、争いを行うものだ。
何故なら人の心には標準装備として備わっているからに他ならない。 罪の意識も争いの種も、誰もが持っている。 働き蜂の法則が成り立つのは、そう言った性質を持ち合わせているからだ。 人のカーストを無くしたとしても人は必ず優劣をつけてマウントをとろうとするもの。そうでなければ人間社会は成り立たない、非常に面倒くさいものだ。
まあ、子供のまま最強だった為に彼らに教えられる様な人間は存在しなかったのでしょう。 彼らは自らの思うままに生きて、その中で学び、答えを出し、間違え、それを繰り返してきたのでしょう。
そんなゾーニャとラス。英雄と魔王とは立場が違えば逆も然り。ハレヤさんの罪の意識の深さにも頷けます。
そして今、初めてそのアンタッチャブルに触れるロジオンこそ、彼らの新しい風となり、ゾーニャが次のステージへ踏み出す切っ掛けとなるのでしょう。
また、自分の罪は自分では裁けず、許しを請うこともままならない。 ロジオンがこの映画を完成させて、その反響こそがその裁きとなるのでしょう。
なんて壮絶な背景をお作りになられるのでしょう。 この映画を観て、人がどう感じて、どう思うのか。 人間の醜さを憂うのか、はたまた彼女らの様な異端を怪物として排除する事で自分たちを正当化するのか、不謹慎ですが、面白いですね。
作者からの返信
彼らが三千年も迷走したのは、一重に自分達がしていることが成功か失敗かを判別できるような比較できる事例が存在しないからでしょうね。
今は上手くいっていないように見えるけど、大きすぎる世界を変えるのは一朝一夕で出来るわけがないと考えるでしょうから。
じゃあ500年後、1000年後、2000年後3000年後まで続ければどうなるか、成功するかもしれない、あるいはその逆かも、というのが、比較できる事例がないので判別できないですからね。
今まで他の誰もやらなかったことなので、結局のところ自分達でとことんまでやってみるしか、その結果が分からないやつですね。
この辺りは現実の世界史における各種の革命なんかにも同じことが言えますね。
現代人たる我々はその結果を知ってるから後知恵でいろいろ評論することはできても、じゃあ当時に生きてた人たちはどうかといえば、少なくとも実行した本人たちは本気で成功すると信じてやってるわけですからね。
始まりは悪意ではなくただ純粋に戦争を止めて平和な世界を作りたかっただけ。
何とも悲しいお話で……。
自分がしてしまった大罪,ハレヤさんの言っていた苦悩とはこのことだったのか。
作者からの返信
自分がなくしたいと思っていた物事に、いつのまにか自分自身がなってしまっていた、というやつですね。
それだけに、自分自身への憎しみも骨髄なのでしょう。