やさしくなる練習

明滅する川

やさしくなる練習

 


皆、自分より惨めであわれなやつって好きだと思う。少なくとも俺は大好き。あることをするのにとても簡単だから。


小学三年生の時、樹希(じゅき)はある同級生に"マジでつまんなくてウザい奴"と称された。体育の終わり際に投げかけられたそれは樹希を大いに傷つけた。 彼はその場で突っ立ったまま声もなく泣き、その同級生は馬鹿にしたように笑いながら、人間の不在を願う小学生が使うに相応しい言葉の羅列を口ずさみ校庭から去っていった。残された俺と樹希はそこで初めて会話したのだと思う。

「お前もそう思う?」

「え?」

「お前もおれがウザくてつまんないやつだと思う?」

 震える声。俯きながら言われたそれは馬鹿みたいに広い校庭なのによく響いて聞こえた。

「……つまんなくはないんじゃないの」

 俺は完全に否定してやればよかったんだろうけど、転入したてだ。何もわからなくて、とりあえず言えることを言った。……つもりだったが樹希は何故かもっと泣いた。ぐすぐす泣きながら言葉を重ねた。

「な、なら消えろとか、し、しねとかは……お前もそう思う?」

 それで、その通り。僕は消えるべき人間ですと思って何かいいことがあるのか?ない。あるわけがない。

「えー……わかんねーけど」

 けどこの時俺は濁してしまった。 そして案の定、樹希は泣き止むことはなかった。

 転入初日の体育の終わり際、俺は途方に暮れて、さっきの同級生が口にした「ウザい奴」という台詞に脳内で頷きかけたが、ぐっとこらえてまだ体操着が届いていないおかげでポケットに入っていたハンカチを渡した。



 母親の都合で越してきたE県H市K町は一言で言えば片田舎だ。スーパーマーケットもでかいドラックストアもあるがその他に店という店はない。周りを海に囲まれ家々よりも畑が辺りの面積を占め30分歩けば海岸に面した道の駅がある。くそ田舎ではないが地方都市とは言えないし都会だなんてとても言えない。元々母さんは穏やかな海ぐらいしか良いところのないこの町の出身らしいから母さんから見れば戻ってきた、と言えるのかもしれない。だが同級生たちは俺が以前いた小学校のひとクラス半分ほどしかおらず、みな小さい頃からの顔見知り。そこにぽっと出の俺は余所者扱いがぬぐえない転入生だった。それでも樹希よりクラスに馴染んでいたのではないかと思う。

「ねえ、中村くん。富岡君とあんまり話さない方がいいよ」

 隣の席の女の子は転入して数日後隙をみて神妙そうな顔で教えてくれた。

「富岡樹希。あいつ、キモいからみんなに嫌われてるんだ。喋りすぎるとよくないものがうつるって」

 また一週間後のある日、理科の実験ワークで一緒になった男子が教えてくれた。

「樹希?僕も嫌いだよ。大人はみんなあいつにへらへらするんだもん」

 一ヶ月後、箒に顎をつきながら掃除の時間にも誰かが教えてくれた。こんなにも素直に親切に大切な情報を教えてくれるんだから、あいつよりなじんでるって言ってもいいだろう。他人からこんなに邪険にされている人間を見たことがなかったので俺は樹希がなぜ嫌われているのか気になってあいつを観察した。

 周りの話に耳をそばだてるうにちわかってきたのは、どうやら樹希がこの辺り一帯の地主、富岡家の直系の息子でなかなかな立場であること。正直、地主が何かよくわからないし、だからどのように樹希が偉いのかも謎だが大人は樹希を見かけると大抵わざわざ立ち止まり挨拶をしたし、なんか話し方がやたら丁寧だった。

 しかし彼はそれを威張り散らしたり振りかざす才能は持っておらず、代わりに周りの人間と自分に薄い壁を見たり感じたり疎外感を持ったりする才能を持っていたこと。

 樹希の卑屈な態度は周囲を不快かつ得意にさせた。樹希の顔立ちのはっきりした丸い目に自信なんて欠片もない。意味もわからずオドオドしてるすぐ泣く奴をいじめたくなるのは当然でしかなかった。偉ぶれない、持てる力を使えない奴を舐めてかかるのは摂理だ。

 これに一番困ってるのは担任の先生だった。クラスのみんなは樹希を悪く言ったり邪険にするが若く愛嬌があって元気な美代子先生の前では自重する。出来上がるのは注意できないぐらいの意地悪をしつくすクソガキ達とひとり浮く色々気を遣う男の子である。幸い、樹希の両親は放任主義のようで何かを言ってくるわけではないが、先生達は問題を起こすなよという圧を美代子先生にかけたことだろう。年若い先生にこれは荷の重い問題だった。 そこに転入してきた俺を彼女がどう見るかなんて明白だ。

「中村君、この前の体育で樹希君と組んでくれてありがとう」

「いつもは私とやってるからかな。先生とやるより楽しそうだった」

 と明るく笑いながらわざわざ言う必要のないお礼を伝えてきた時点で察するものがある。

  それから俺は先生に樹希君に話しかけてとあげてとしきりに言われたり授業でペアにならなきゃいけないものは大抵一緒にされた。体育、給食、遠足、下校。もう是が非でも樹希がひとりにならないように裏で色々俺に言って気を遣うのである。

 どうやら俺のことをお手軽に現れた救世主だと考えたらしい。俺がそれを了承することによって得た対価はご褒美のシール、お菓子、テストの加点、通信簿のコメント他。「中村君は本当に優しいわね」

「あいつに優しくできるとかまじソンケーする。オレなら絶対無理やもん」 

 そして先生のお気に入りというポジションと同級生からの反感だった。こうして富岡樹希と俺のふたりぼっち状態は中学にあがる頃にはほぼ完璧で盤石なものになった。


「富岡さ、ほんとなんでいっつもおどおどすんの?」

 放課後の会話も中学にあがり定例めいてきた。結局どんな形であれつるめば遊ぶし話すのである。人がよく通る場所で長々話すと良い悪いにかかわらず町の奴に話しかけられるのでそれは人があんまり通らない海岸の胸壁を降りてすぐの場所だった。

「え?ごめん。はるくん、聞いてなかった」

 樹希は目の前にある寄せては返す波を見るのに夢中になっていたらしい。石畳に座り込んで見る海は筆でひと書きしたように平らかで視界一面に広がっていて目を凝らせば本州の島が見えた。夕方前の中途半端な位置にある太陽は雲に遮られた淡い光になって俺たちに降り注ぎずっと眺めるには最適で穏やかな輝きだ。でも眩しくてもぼーっと樹希が波を見ている光景が脳内ではっきり浮かび俺はため息を吐いた。

「だからさ、俺何回も言ってるじゃん。もっと堂々としてたらあいつらお前のこと悪く言わないしハブんないって」 

「お、おれには無理だよ。堂々とできるところなんかないし」

「意味なく堂々とできるのが人間のいいところだって俺の母さんの彼氏が言ってたしいけるよ。それにお前は胸を張れるもの持ってるじゃん」

 え、と目を丸くして驚いている樹希に俺は胸を張って微笑んだ。

「権力、つまり親の力!もうこれも何回と言ってるけどこれが富岡はクラスいち、いや町いちばんのトップティアなんだよ!ウルトラスーパーレア!」

  樹希ははあと長く息を吐いてから言った。

「お父さんがすごい人なのは、まあ、そうかもしれんけど別におれには何もない。こんなの目立つばっかでいいことないよ」

「いや、もっとうまく親に泣きついたり大人を味方につけてれば富岡は最強だったね。お前が学校を牛耳るガキ大将だった」

「それってカケルくんみたいな奴ってこと?ただの嫌な奴にならない?」

  中学で有名なヤンキーの名前を樹希は出す。

「誰もカケル先輩だって言ってねーよ……嫌な奴でも強かったら誰も文句も何も言わない」

「それはそうだけど……先輩が強いのって『喧嘩が強い』の『強い』って聞くけどほんとなんかな。姉ちゃんがあの人は口だけだって。本当だったとして、それってまじの『強さ』って言えるん?」

「あ、そうじゃん!富岡の姉さんって二個上だろ?なんてゆうか、風格ある人だし守ってもらえばいいのに」

「......そんなの頼めないよ」

  頼みたくない。と言って樹希は黙った。姉さんと仲が悪いわけではなかったはずだ。彼にも意地があるらしい。

「変なプライド持つなよ。今日泣いてたのどこのどいつ?」

 呆れて目を細めて樹希を見ると、彼の顔はこわばった。腕にぐっと力を入れて更に膝を抱え低く溢した。

「お前ってほんと優しくない」




「はるくんは、本当にこんなおれにもいつも優しくて、もう申し訳なくて……」

  死にたいくらいと樹希は言った。海の胸壁のじめっとした影で俯きながら陰鬱に陰鬱を重ねられたようなシンプルな言葉にまた始まったと俺は思った。

  調子のいいときは大丈夫だが、彼の死にたいと口に出す病は年々悪化していくようだった。ときどきふとした時に何かあったときにそういう部類の言葉を出しては自分さえいなければと己を追い込み縮こまるのが得意になっていった。 

 それは依然変わらない同級生の態度のこともあるが中学にあがって美代子先生とおさらばすることになり、それでやっと俺が先生に頼まれてあれこれ樹希に関わっていたとわかったらしい。中学生になってから気づくって鈍すぎないか?と思うがこれは非常にまずい。

 このままこいつに死なれたら葬式で一番前くらいに座ることになりそうだし、今死なれたら死んだ理由に俺との喧嘩を疑われて色々言われて責められそうだし、そしたらこれから生きていく先ずっと悪夢を見そうだ。……すごい。俺って自分のことしか考えてない。

  死にたいと思ったことのない俺には死にたいやつの気持ちはよくわからなかった。「なに。またなんかあったの。誰かに重めの悪口言われた?テストの点低かった?親に怒られた?腹減った?」

「……違う」

「じゃあなに。いつもは言うじゃん」「............」

 樹希は無言で立ち上がり波打ち際まで歩いた。慌てて後を追い俺も立ち上がる。彼はそのままずんずん進み学校指定の白いスニーカーが砂にまみれついに波に足首が浸かったあたりで立ち止まった。俺はそれを見てから濡れないぎりぎりのラインにしゃがみ波に右手を触れた。今は六月後半。太陽を浴びれば心地よいと言えるぐらいの余裕がある暑さだったが海水はまだ十分冷たい。 

 海水浴するなら夏休みぐらいがいいよなと水面を見つめながら言おうとした時、樹希はやっとこさ口を開いた。

「はるくんのことを、優しくないって言われた」 

 感嘆した。俺は感嘆して息を呑み顔を上げた。限りなく正解に近いそれをまるでひどく言い難いことのように樹希が言ったからだ。「......それ言われて死にたくなるって何?」「だってはるくんは優しいから」

 さっきから似たようなことを彼は前を向いたまま言う。と同時にごおっと風が吹いたが彼の声はその音に紛れなかった。厄介なことに樹希にしては力強い口調で声だったから。 俺は思わず頭を搔きむしる。めんどくさがってのばしっぱの髪が煩わしい。

「え、もしかしてだけどさ、それ言われたとき俺のことしか言われてなかったりする?つまり、富岡はなんにも悪く言われてなかったり……」

 樹希は何も言わなかった。つまり俺の言葉は正解なのだ。俺は立ち上がって足が濡れるのも厭わず進んだ。いらいらした。

「他人がどうこう言われたやつに何まじで落ち込んでるんだよ」

 彼はしっかりと沈黙をつくってから振り絞るように言う。

「おれ言い返せなかったんだ。そんなことないってわかってるのに。はるくんは俺と普通に話してくれて励ましてくれて、なのに、言い返せなかった自分が恥ずかしい」

 恥ずかしくて死にたいくらいとまた彼は言った。こいつは何回死にたいって言えば気が済むんだろう。死にたいって言われたそれにじゃあ死ねばって言ったらどうなるんだろう。今まで樹希と話す度何回も心に浮かんだ疑問がその瞬間強く浮かんだ。まずい。

 そう思って俺は何か言ってしまう前に勢いに任せて彼の背中を右足で蹴った。  

「うっわあ!?」と樹希は素っ頓狂な声をあげて斜めに転んだ。俺は当然あがる水飛沫の音に慌てて我に返り頭から海に突っ込んだ樹希を抱き起した。浅瀬なのもあって樹希の上半身は砂まみれになってしまった。そのまま寄せては返す波間の中に座る。もう全身ずぶ濡れだった。足しか濡れてない俺は気まずくて無言で彼と一緒に冷たい波の中に座る。ーー危なかった。それだけは言っちゃいけない言葉を言ってしまうところだった。何故言ってはいけないのか?どうなるかわからないからだ。俺はそれだけは怖くて言えない、ということにしたい。何故怖いのか。それはやっぱりどうなるかわからないから。こいつにいなくなられると困る、という気持ちだけは確かにある。でもそれはさみしいからとかつらいからとかそんな理由じゃない。もっと打算的で利己的だ。つまり、俺は


「俺もお前とこのまま一緒に死ぬのは恥ずかしいよ」


 だって俺はお前を助けてやろうと思ったことなんて一回もないんだよ。お前はいい奴だ。先生の言うこと聞いて授業は全部起きてるし飯は残さないし字は綺麗だし俺がひどいこと言っても怒らないし樹希は俺をひとりにしない。けど俺はお前を馬鹿だと思って笑ったし可哀想だと思って笑った。お前を助けてやろうと思ったことなんてない。俺はただ父さんと別れた母さんに迷惑かけたくなくて先生の言うことを全部聞いた。面倒なことになりたくなかったからお前がクラスでなじられても止めなかった。それでもちゃんと学校に来るお前をすごいと思った。でもそれから何かしたかって何もしてないよ。そんな俺のせいで死んだら恥ずかしいし、樹希だけいなくなったら俺が恥ずかしいよ。目を閉じればいつだって潮の匂いと波の音が聞こえそうなくらい一緒に海を見た時間はあるはずなのに、俺と樹希は遠いんだ。今まさに隣で、その中で、響く音と重みを感じるのに。 

 俺がやさしいなんてそんなことない。俺はどうしたら樹希にとって本当に真の意味でやさしくなれるんだろう。時々考えるけどわからない。いや、度胸がない。本当に心から優しい人が樹希の傍にいたらよかったのに。 

 そう思って俺は横にいる樹希の頭を乱暴になでた。そうしていちはやく海岸からあがって俺はいまだに座り込む彼を見下ろし手を差し出す。彼は海水にずぶ濡れでひどく不格好だ。髪は顔に張り付いて制服は砂まみれで悲惨以外の何ものでもない。浜辺でこけた、こけさせられた無様でかわいそうなやつに向かって自分を棚にあげ、やさしくするのは簡単だった。

「ごめん。でもそんなこと言うなよ。俺ここで樹希と話すの好きだよ」

 簡単で大好きだ。これで綺麗に笑う簡単なお前が。

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