余話

余 ヒミカと本屋

 なんで本屋なんかに来ているんだろう。

 特に興味もないタイトルがずらっと並ぶ本棚を眺めながら、ヒミカはため息をついた。

 一緒にやって来た相方は、すでにヒミカを置いていっていろんな本棚を巡り巡ってしまっていた。

 本屋に来たことはそう多くない。本を読むという習慣がヒミカには無かった。

 いいや、そもそも読書に耽るなんて、ヒミカにとって贅沢も贅沢だった。

 鬼に追われ、戦い、逃げてを繰り返す毎日に、本を開く時間なんてあるわけが無かった。

 一つ、適当に本を手に取ってぱらっと開いてみる。

 ページ一面にずらっと並ぶ活字を見ただけで、うげっとなった。文字の濁流に呑まれるような錯覚さえ覚えてしまっていた。

 二十歳になるまでまともに活字に触れてこなかった頭は、もはや一ページの文量でさえも受け止め難くなってしまったらしい。

「あンの犬、よく本なんて読む頭があるわ……」

 筋骨隆々で胸の厚い、バトルジャンキーの姿を思い出す。

 戦いを目にすると嬉々とした笑みで拳を握る姿ばかりよく見て来たので、正直本屋に行きたいなんて言い出した時は面食らった。ギャップにも程がある。

 ついで、

「お前は本読まねえのか? 面白いのに勿体ねえな」

 などと言われた時は、無性に腹が立って仕方がなかった。


 何も知らないで勝手言ってくれるんじゃないよ、犬がっ。


 喉から出かかった文句は、しかし、自分から自身の事情を話している訳でもなかったので、ぐいっと飲み込んだ。

 何の事情も聞かず迫り来る鬼の手先から守ってくれる彼には、それ相応の恩義を感じている。

 バトルジャンキーっぶりには頭を抱えさせられてしまうが、見返りもなくヒミカのために戦う姿を思うと、文句を言う資格はないと思ったのだ。


 ──それはそれとして、やっぱり腹に据えかねるけども、さ


 パタン、と本を閉じる。

 表紙は今時の中高生が読みそうな、青春ジュブナイルテイストなイラストが描かれている。暖かい陽光と吹いた風に揺れたセーラー服の少女が印象的だった。

 眩しすぎて、目が眩みそうになる。

 思い出してみれば、学校に行くどころか、セーラー服に袖を通したこと指で数えるほどしかない。

 青春を謳歌するなんて夢のまた夢、闇に紛れて影に隠れて鬼と丁々発止を繰り返すばかりだった。

 世の中には異世界転生だとか、伝奇物の小説だとかの世界観に憧れる人が数多くいるが、クソッタレと反吐を吐きつけたくなる。

「一つ誤れば真っ逆さまに死へと転がり落ちてしまう世界のどこがいいんだ。自分たちの日常がどれだけ幸せなのか、ちゃんと噛み締めろい」

 怒りをそのまま、ぎゅっと本を本棚に戻す。

 今日何度目かの溜息をついて、そのコーナーから足を離した。

 結構大きな本屋である。チェーン店らしい規模だ。

 文庫本に雑誌コーナー、教養書、新書と、見渡す限り本、本、本。

 地平線の彼方まで続く本の山に、頭が痛くなってきそうだった。

 特に面積を占めるのは、漫画コーナーだ。日本を代表するカルチャーだから、その量はいくら日数をかけても到底読み切ることのできない量があった。

「漫画、ねぇ……」

 人気漫画の特設コーナーには、今月アニメになったばかりの漫画がずらりと置かれていた。

 ダークファンタジー物だった。

 妖や妖を操る者たちと戦う、筋書きだけ見ればよくある漫画らしい。ただ、癖がありつつも魅力的なキャラクターと、彼らが織りなすジェットコースターのような展開に、子供のみならず大人の心も掴んでいるというらしい。

 怒りのゲージがまた溜まる。

 モノホンを知らずに書いている作者にも。

 勝手な想像で描かれた紛い物でキャッキャしてる読者にも。

 どうにも本屋という場所は、嫌いなものばかり目について仕方ない。

 過酷な世界をファンタジーだなんて言って目を逸らしている奴らの巣窟だ、なんて考えが脳裏をよぎる。

 

 分かっているよ──こんな怒り、私のわがままだって

 やりようの無さからちっちゃな子みたいに駄々を捏ねているだけだって


 熱いものが目頭に込み上げてくる。

 ホイホイついてくるんじゃなかったと、ひとしおの後悔が襲いかかる。

「犬の、ばかぁ……」

「誰が馬鹿だって?」

 後ろから落ちてきた声に、びくんと肩を震わせて振り返った。

 たくさんの本を抱えた大きな男──皇牙がそこに立っていた。

「どうした、涙なんて溜めて。なんか感動できる本でも見つけたか?」

 さっきとは別の種類の熱いものが、今度は耳まで込み上げる。

 熱の勢いに駆られて、思わず出たのは足だった。皇牙の脛めがけてスニーカーの爪先がゴツんと当たる。

 けれど、戦いに次ぐ戦いでもっと激しい痛みに慣れっこの皇牙にとっては、ヒミカのつま先など小石に当たった程度のものらしい。顔色一つ変えなかった。

「なんだ、なんか不機嫌にさせるようなことでもしたか?」

「知らないっ。犬にはどうせわかんないよ、犬並みの知能しかないからねっ!」

「へいへい……と、そいや漫画はまだ見てなかったな」

 思い出したように、皇牙は漫画コーナに目をやった。

 ああ、こいつもあの人気漫画の虜なのかな、などと諦めたような眼差しでヒミカは見やる。

 しかし、皇牙は件の特設コーナーを一瞥もせず素通りしていった。

「はれ?」

 驚きが声に出る。

 唖然とするヒミカをよそに、皇牙は人気雑誌に連載されている漫画コーナまでも素通りして行った。

 ようやく立ち止まったそこは、四コマ日常系の漫画が並ぶ本棚だった。

「あ、アンタ……そんなの読むの?」

「あん? 何読んだっていいじゃねえか、こういうのも好きなんだよ。ジムにいた時、休憩室に何でか置かれてたのを読んでな、これが意外と面白くてよ、今でも時々読むんだ」

 一冊取り出すと、慣れた手つきでペラッペラとめくる。

 時折クスッと笑う姿が、何だか不思議な光景に思えてならなかった。

 あの戦いばかりしか知らないような奴が、こんな本まで読むなんて。

 気づけば、ヒミカは皇牙の漫画を読む姿に釘付けになっていたらしい。

「なんだ、ヒミカも少し読んでみるか?」

 視線に気づいた皇牙が、読んでいた漫画を閉じてひょいとヒミカに漫画を手渡す。

 断る間もなく、受け取ってしまった。

 表紙には、間抜けそうなサラリーマンがデカデカと描かれていた。

『ノーテンキくん』、タイトルがまずおかしかった。

「な、なによこれ……」

 手が勝手にページを開く。

 ノーテンキの名の通り、能天気な主人公が能天気に過ごした結果周りを巻き込んだひと騒動を次々と起こしていく──といった内容だった。

 これが荒唐無稽で、時にはそんなわけあるかいと突っ込みたくなる内容もあって、次が気になって一ページ、また一ページと捲る手が止まらなくなっていた。

 だから、ヒミカはきっと気づいていない、自分の口から吹き出た笑みに。

「気に入ったか?」

 ずい、と迫ってきた皇牙の顔に、びっくりしてまた体が跳ねる。

 どうやら随分と夢中になっていたらしい。時計を見ると二十分も時間が過ぎていた。

「随分釘付けになってたなあ。そいつまだ俺買ってなくてよ、買ったら読むかい?」

 ニンマリと笑う皇牙が勝ち誇っているように見えて、これがまた無性に腹が立つ。

 でも。

 だけれど。

「……読む」

 抗えなかった。

 この四コマには、さっきのような苛立ちや怒りといったものを感じることはなかった。

 むしろ、次々と押し寄せる面白おかしい荒唐無稽さに、さっきまで胸の中をぐつぐつと煮立たせていた熱はすっかりとっぱわられてしまっていた。

「そんじゃあ、会計行ってくるからよ。このシリーズだったら家に結構あるから、帰ったら読もうぜ」

 え、あ、とヒミカが返事を躊躇ううちに、皇牙はたくさんの本を持ってレジへと向かっていった。

 相変わらずせっかちな男──なんて思いながら、彼の大きな背中を見送る。

「……でも、まさかこの私があんなくっだらない漫画に夢中になるとは」

 正直な話、本当にくだらない内容だった。

 中身がなく、テーマもない。さっきページを開いた小説や特設コーナーを陣取る人気漫画と比べると、内容には天と地の差があるだろう。

 だけど、その面白おかしい荒唐無稽さの波は、羅列された活字の波に比べるとよっぽど息がしやすかった。

 さっきまで読んでいた一ページが頭に浮かぶ。

 しょうもないオチがヒミカのツボをついたのか、また口から笑いが噴き出てしまった。

「……あっぶな。犬に見られたら恥ずかしいったらありゃしないわ……」

 恥ずかしさに顔を覆いつつ、けれど、皇牙の家にあるというその漫画のシリーズのことを考えると胸が疼くものがあって。

「罪よ、皇牙の罪。こんなもの教えたあんたが悪いんだからね……あんたがこんなもの教えなければ、私がこうすることもなかったんだからね……」

 ブツブツと呟くヒミカの思考は、皇牙の家に居座る計画を着々と組み立てていた。

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嬉鬼と破顔え 一齣 其日 @kizitufood

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