急 破顔え──ワラエ
────宝城、皇牙……ッ
宍戸は、瞠目した。
先ほど与えたはずの傷がすっかり癒えて、二本の足で堂々と歩み来る姿に──では、ない。
それは、紅蓮に揺れていた。
獅子の立髪を思わせた髪が、今じゃ火花を散らし業火の様相と化している。
額には、ツノでも想起させるような黒炎が二つ、煌々と灯っていた。
体格は宍戸に及ばないが一回り以上大きくなっていた。
肉の厚さどころか、質も密度も先のと比べるべくもない。皮を破って剥き出しになろうとしている筋繊維の一本一本が鋼じみていた。鋭く鍛えた刃でも、並の使い手では通すことも叶わないだろう。
尋常ではなかった。
しかし、その尋常じゃあない体躯で白い歯を見せて凄絶に笑んだ皇牙の姿は、文句の一つもつけられないほどお似合いだった。
プレッシャーも半端じゃない。皇牙との間合いが詰まるだけで、体にのしかかる重力が二倍にも三倍にもなりそうだ。
「何故だ……」
宍戸の拳が、鳴る。
「なんで、テメェまでこっちに立ってきやがンだ、宝城皇牙ァアアァッ!」
衝動に突き動かされるまま、皇牙に向かって巨躯が突っ込む。
振り上げた怒り滲む拳を勢いに乗せてぶち込む、はずだった。
「……へェ」
刹那、形容し難い代物が異形の全身を劈いた。
飛び退って一気に距離を取った己に宍戸が気づいたのは、それから数秒経ってからだった。
皇牙は笑んだだけだった。
なのに、激しく身体が戦慄く。
全身に球のような冷や汗も浮かび上がっていた。
この姿になってから常にあった全能感が、どこを探しても今の宍戸には無かった。
代わりに突きつけられているのは、すっかり忘れていた劣等感だ。
舌でひと舐めするのだって嫌な、あの苦々しい劣等感が舌の根に張り付いていた。
宍戸は、馬鹿ではない。
実力をまともに測ることができるくらいには経験値を積んできた男だった。
積んできたその経験値が、今は恨めしい。
たったひと笑みだ。
奴がうかべたひと笑みで分かってしまった、己と奴との雲泥の差を。
脳裏に過った、奴にどてっ腹を貫かれた己の姿。あのまま拳を振り抜いていたら、きっと現実になっていただろう。
届かない。
追いついたどころか、果てまで追い越したと思った背中が、またずっと遠くに行ってしまった。
いくら目を擦っても、宍戸には皇牙の姿が実際以上に大きく見えてしまっていた。
二度の戦いで刻まれた、この姿になってようやく忘れることができたと思った敗北感が、ありありと蘇る。
皇牙の放つプレッシャーを前にして、己が一層小さく感じさせられてしまう。
始めの攻防でも思い知らされた。
同じ土俵の上ではどう足掻いたところで、敵わない。
雲泥の差に膝は折れかけてしまっていた。
「どうした、歯噛みするような顔でもしちまってよ」
不敵な顔で、皇牙は言う。
「気に入らねえのか、俺が”鬼”の力を使っちまってるのが。それともなんだ、怖気づいてでもいるのかい?」
「お……い、いやッ、俺は怖気づいちゃあ──」
「だったら、かかってこいよ。宍戸純也」
恐ろしくドスのきいた、低い声だった。
目を見開いたままな宍戸をよそに、皇牙は距離を詰めてくる。
「俺を倒したくて、努力したんだろ。それこそ必死によ、そんなバケモンの姿になっちまうほど、俺を倒したかったんじゃあなかったのかい」
宍戸の眼前近くまで、皇牙の顔が迫ってきていた。
瞳の奥に、赤々とした炎が轟々と唸っているのを宍戸は見た。
その皇牙が、胸ぐらを掴みぐいとひったくった。
「だったら全部だ、全部俺に見せてみろ宍戸純也。戦いもしねえで膝を折ってんじゃあねえ。てめえがンな姿になるまで俺を倒してえと手にした力、執念、てめえが持てるモン全部振り絞ってきやがれッてンだッ!」
皇牙の脚が、異形の体を蹴り飛ばす。
ハンマーをぶつけられるのに似た衝撃が宍戸を大衆の面前に二、三と転がせた。
鋭かった。
腹の中にあった空気が迫り出された。
言葉に気を取られていたせいもあるが、あまりの鋭さに蹴りの軌道が見えなかった。
穿たれた腹から血がぼたぼたと落ちていった。
だが、すぐに傷は塞がれていった。
力や姿だけではない。生命力もまた、異形らしい域にいる、ということなのだろうか。
皇牙の体に圧倒されていたが、宍戸の体もどうやら尋常のなさでは負けていないらしい。
それに、あんなふうに言われっぱなしで終わりたくなんかは、ないッ────
宍戸は、立つ。
鼻息を荒くして、真っ直ぐに皇牙を見据えた。
眼光がギンと瞬く。
憎悪と劣等感に満ちていた目は、今や純粋な闘志の色になっていた。
いつかの感情を、宍戸は思い出す。
こうやって正々堂々、本気の宝城皇牙を自分は倒したかったのだと。
奴は今、正真正銘本気を見せた。
奴と二度戦って、二度とも圧倒的な敗北を喫した時に捨ててしまったこの思い──今また男は、拾い直してしかと抱いた。
巨大な拳を握り、いつでも地を蹴れるよう足を構えて、皇牙に狙いを定めた。
宍戸の周りを漂う大気に闘気が滲んでいく。
騒然としていた群衆も、息を呑んで非日常の世界を見守っていた。
「それでこそ、祭りは愉しいってもんだ」
皇牙は、喜悦の顔を浮かべた。
「知ってるかい、俺たちゃ心臓か脳髄を潰さにゃあ死なねえらしいぜ。つまりは、とことんってことだな」
異常な肉の密度を見せる拳を鳴らして、牙を剥く。
紅蓮がさらに激しく狂喜した。
「──バケモン同士、とことん闘ろうぜェ……宍戸純也ァッ!」
口火は切られた。
皇牙が吼える。
宍戸が駆け出す。
振り上げた一撃が、大気を裂いた。
ついで、ぶつかり合ったインパクトに、轟と熱風が唸り上がる。
頬を打ち抜く宍戸の拳。
胸を蹴り上げる皇牙の脚。
一息も置かず拳が奔る、蹴りが唸る。
打撃の応酬、一歩も譲らない闘志が大通りの空気を苛烈な熱気へと変えていく。
肉と骨とを打ったとは思えない硬い音が鳴り響く。
からぶった拳がビルを叩けば、鉄骨が激しく悶えるような軋みを立てる。
振り上げた踵が地に落ちれば、地響きを立ててアスファルトが砕け散る。
常人の目じゃ追いきれないスピードで、幾つもの拳が駆け抜けていく。
この光景を少しでも残そうと馬鹿がスマホのカメラを向けても、奴らのスピードにシャッターが全く追いつかない。
路地にこだまする打撃音は、全て拳に置き去りにされてばかりだ。
だが、この化け物同士の戦いは、拳や蹴りだけで終わらない。
応酬の最中、鋭く強靭な牙が皇牙の肩肉に喰らいつき、豪快に噛みちぎる。
刃よりも鋭利な足刀が宍戸の目元を走り、瞼寸前の肉を抉った。あと少しズレていれば、宍戸の眼は持っていかれていたであろう。
化け物同士の戦いにルールなんてあったものじゃあない。
使える武器は全部使う。
狙える場所は全部狙う。
リングの上では決して拝めない攻防だった。
ついには砕けた建物の瓦礫まで投げ合い出し、大通りは戦場以上の戦場へと変貌を遂げていく。
災害同然の様に、悲鳴と狂騒が波を打っているが、化け物二人の耳にはもう届かなかった。
人間という括りを遥かに凌駕した者たちは、もう常識という狭い領域では測れない。
容赦も手加減もいらない戦いはさらに熾烈を極めていった。
二匹の異形は、猛り続ける。
皇牙の強烈な乱打に続く回し蹴りのコンビネーションに圧倒されながらも、宍戸は振り絞った力で顎を開く。
諦めを許さない牙が、首の皮一枚まで掠めていった。
皇牙の目線が牙へと向く。
そこに生じた一瞬の隙を、宍戸は見逃さない。
掬い上げるように抜き打った拳が、皇牙の体をものの見事に撃ち上げた。
衝撃に背中が破られ、淡い色の内臓が弾け飛ぶ。
一瞬、意識も飛んだ。
気づくと思いもよらない高さにいた。
血が飛沫をあげて雨のように地に降っていく。
渾身の一打で宙へと舞い上げられた皇牙は、しかし、愉快な笑みを絶やさなかった。
「────全く……最高ってのはこン時のためにある言葉なんだろなァ」
痛快な展開に、皇牙の歓喜はますます加速する。
出逢えて良かったと改めて思う。
なって良かった、と心から思う。
網膜剥離になってから、ろくに戦う相手も場所もなくなって、皇牙の世界は酷く退屈になった。
生まれる時代を間違えた──そうとしか言いようがないほど、昔から喧嘩にプロのリング、地下試合までありとあらゆる闘争に明け暮れていたのが皇牙という男だった。
いつから闘争に心を惹かれていたのか、皇牙にもわからない。
生まれながらなのかもしれない。そういう星のもと生まれてきた男だ、と言った方が筋が通るような気がした。
路上喧嘩でムショに入れられても懲りることはなかった。
漫画や小説、テレビを見ていると、いつの間にかそこに登場しているキャラクターと戦う自分を妄想すらしてる。
飯の味よりも口の中を切って沁みた血の味の方が馴染み深くさえあった。
もはや異端の域だというのに、網膜剥離だというだけで、今やどの団体も相手にしちゃくれない。路上喧嘩をするにも、皇牙は強くなり過ぎた。
まともに戦える相手と場所を奪われたということは、男にとって生きがいを奪われたも同然だった。
「だからよ、感謝しても仕切れねえな、ホント……“鬼“ってえ奴らとよ」
男は出逢うことができた、”鬼”という規格外の存在と。
男は立つことができた、”鬼”という存在と同じ土俵に。
もう網膜剥離なんて関係なかった。この姿になれば、普段は見えない右目もすっかり良く見える。
鬼──そう呼んだ奴等のことを皇牙は実は、よく知らない。聞いた話程度の知識しか無かった。
ただ、人という括りでは味わえない常識外の戦いは、皇牙に新たな生き甲斐を与えた。
それで十分過ぎた。
きっと、奴──宍戸純也も同じ存在なのだろう。こめかみから突き出るように生えたツノが何よりの証拠だった。
どうしてそうなったか見当もつかないが、皇牙はそんなことどうでも良かった。
愉快で痛快な戦いを、ただ愉しむだけだった。
ゴングもレフェリーもいない化け物同士の戦いは、どちらかが倒れるまで終わらない。
吹っ飛ばされ、叩きつけられ、榴弾じみた衝撃を数えるのも億劫になる程受け続けようと、立てる限り拳を振い続ける。
宍戸との戦いは、そういう戦いなのだ。
この数分間は、かけがえのない時間となった。
なればこそ、最後の最後、どちらかが命が尽きるその時まで楽しまなきゃ損だというものだった。
「なぁそうだろ──宍戸純也よ」
喜悦が、皇牙の体に力を漲らせる。
宙を舞う内臓を掴んで腹に収めれば、あっという間に破れた穴を肉が塞いでいく。
吹き飛ばされた先で無理矢理体勢を立て直すや、何もないはずの空を蹴り打った。
地に向かって皇牙の体が加速する。
加速と重力とが重なった拳は拳を超えた。
激甚、轟く。
凄絶の拳が宍戸ごと大地を割った。
急転直下に降ってきたショックはものすごい勢いだった。
口から血の塊が盛大に噴かされる。
筆舌に尽くしがたいインパクトが筋肉の壁を貫いて、内臓という内臓を劈いていった。
だが、宍戸の目から光は失われちゃいなかった。
続けて振ってきた拳を腕で受け止めるや、カウンターのアッパーを皇牙の鳩尾へと撃ち抜いた。
今度は、皇牙の体が回転して廃墟と化したビルへと叩きつけられる。
が、土埃が烟る中、男は悠然と立ち上がった。
さっきの一方的にやられていた姿が嘘のようにタフだった。
挑発的に指をたてて、宍戸を煽る。
──そんなものかい? もっと出せるだろ
首の骨をゴキっと鳴らしながら見せた笑みは、ますます獰猛さを増していた。
獰猛さを増しているのは、宍戸も同じだった。
空けられた穴を塞ぎ切って、殺気のこもる視線を皇牙にぶつけて、吠えた。
「……舐めるなよッ、宝城皇牙ッ!」
猛々しい咆哮と荒々しい鼻息を鳴らして、地を蹴った。
煽られた闘争本能はさらに熱烈さを増して、皇牙に襲い迫る。
拳に蹴り、牙、時には頭突きまで交えた攻めっぷりは、猪突猛進の字がよく似合う。
自身にある闘志全てを放出せんばかりだった。
怒涛の如くとめどない攻勢は、しかし、宍戸に悉く手応えを与えなかった。
どんな攻めもいなされる。
放った攻撃が軌道を変えるように流され、真正面にぶつけても僅かに打点をずらされ威力を削がれた。
途中で牙を交えても、瓦礫ごと蹴り上げても、皇牙は紙一重で見切っていく。
遂には、意識外からのカウンターが宍戸の腹を撃った
肉の壁がまた破られて、内臓を掴まれて引き出される。
経験したこともない痛みに悶絶の声をあげる間も無く、豪快な蹴りで頭を刈られた。
虎よりも強靭だったはずの牙が折れて、くるくると飛んでいった。
強い。
純粋に、強い。
化け物としての能力はきっと大して変わらない。むしろ、宍戸の方がまだ上を行っているかもしれない。
だが、同じ土俵に立った時の地力は、やはり皇牙の方がずっと上だった。
技のキレも、勘の良さも、嫉妬してしまいたくなるほど上をいかれていた。
動作からして、宍戸の動きを一手二手先を行かれているのは間違いない。
宍戸は次第にひしひしと感じさせられていた、自身が押されつつある現実を。
撃ち抜いた拳はまた躱し抜かれ、皇牙が懐に潜り込む。
全身の毛が怖気立つと同時に、顎が蹴り上げられた。
二本目の牙が折れた。
幸い骨格は猪のものだ。顎は急所になり得ず脳にまでダメージは入らないが、反撃が叶うことはなかった。
腕を取られ、今度は宍戸の方がボールでも放るように投げ飛ばされた。
叩きつけられた幾枚のコンクリートの壁がぶち抜かれ、無様に転がり倒れる。
敵わない。
もう傷一つつけることができていなかった。
されど、宍戸は立った。
異形の体でファイティングポーズを取って、駆け出した。
諦めることはもうやめたのだ。
音など上げていられない。
拾った思いはもう二度と捨てやしない。捨てるものは弱音一つで十分だ。
筋肉、細胞、神経──全てを焼き切っても構わない。
出せる力を出しきって、宝城皇牙という壁を越えてみせる。
人生の全てを捧げてでも、この男の先を行く。
「──そう、決めた……決めたんだよッ! 宝城皇牙ァアァアッ!」
執念、迸る。
拳が大気をぶった斬って、皇牙の動きを1秒だけ超えた。
鮮烈に描かれた弧は、流し切ることができないと固めた皇牙の両腕を紙屑同然に粉砕した。
肘から先が、跡形もなかった。
血肉を撒き散らかしてあらぬ方へと腕が飛ぶ。
すぐに再生が始まるとはいえ、一瞬にして元通りというわけにはいかない。
今この時に限っては、皇牙を守る障壁はどこにもなかった。
向いた潮目を逃すなッ
目の前にチャンスに、手を伸ばせッッ!
腰を捻り上げた拳をさらに皇牙の顔面にぶち込んだ。
吹っ飛ぶとともに血飛沫が舞った。
倒れこそしなかった。
が、吹っ飛んだ拍子に額から流れた鮮血に目が濡れ、まばたきしたのを宍戸は見た。
脳髄に、烈火が疾った。
鮮烈なまでの怖気が皇牙の背筋を奔る。
一瞬眩んだ後の視界にあったは、颶風を巻いた飛び膝蹴りだった。
異形の猪は全身をバネにして跳んでいた。
起こりも予備動作もないのに、フルスロットルのトップスピードだった。
執念は男を一皮剥けさせた。
刹那、雷鳴じみた唸りと共に爆風は噴き上がった。
地に裂け目がいくつも走る。
煙と土埃とが一気に路地を包み込んだ。
最中に、宍戸は背筋に強烈な寒気を覚えた。
膝の向こうを確かめず、異形は振り返る。
「流石に、今のは喰らえなかった」
煙は裂かれた。
視線の先には、飛び上がって踵を大きく振り上げた一匹の鬼の姿。
皇牙は迅雷を躱し抜き、宍戸の後ろを取っていた。
咆哮が心臓を叩く。
見舞い落としたは加速の止まらない歓喜を灼熱に換えた、絞り尽くせるだけのありったけだった。
世界を全て置き去りにした踵が穿ち抜いたのは、宍戸の頭蓋だった。
いくら肉が裂かれようと、骨が砕けようと修復していくのが鬼である。
だが、頭蓋の中にある脳髄と、心臓だけは例外だった。
骨が砕けた音がした。
皇牙の頬に血混じりの肉片が飛ぶ。
どお、と土をついたのは宍戸の膝だった。
指一本まともに動かない。力無く開いた口からは涎がだらあと垂れていっていた。
対する皇牙も笑みを張り付けた顔に、冷や汗が吹き出るように浮かんできていた。
鼓動がけたたましく鳴る。
今更になって、恐怖がはらわたをいっぱいに満たしつつあった。
一瞬、死だって連想した。
二度喰らっていたのが幸いだった。
もし、今のが初見だったら──らしくもないたらればを考えて、鳥肌が立つ。
「やっぱ、経験って大事だよな……めちゃくそ痛えのも喰らっておくもんだ」
「や……っぱ……イかれてる、な……」
宍戸に、皇牙の目が向く。
砕けた頭蓋から、脳髄の淡い色が顔を覗かせている。
だが、奴の目はまだ死んでなどいなかった。
確かな光を帯びて皇牙を捉えていた。
満身創痍の巨躯が、立ち上がる。
膝は子鹿のように震えて頼りない。
腕もだらんと力無く落ちている。
しかしだ。
血濡れた獣のツラは皇牙に向かってまっすぐに、必死に対峙しようとしていた。
不思議と笑みが浮かんでいた。
「やろうぜ、宍戸純也」
「やる」
即答だった。
語気には、精一杯の力強さがあった。
力無く開いた手は、ままならない指をかすかに握り込もうとしているのが見て取れた。
皇牙にはそれが立派な拳に見えていた。
「いい祭囃子が聞こえらァ……!」
皇牙が拳を握り込む。
ファイティングポーズを改めて取った。
呼応するように宍戸の咆哮が上がる。
皇牙に向かって異形の猪は駆けた。
力はもう無かったがなおも猛々しく戦わんとする様に、握る拳が強くなった。
紅蓮の凄絶が、戦煙で爆ぜ散った。
────
「その宍戸純也ってヤツが鬼になったのは、この近くに祀られてた祠を彼が壊しちゃったから……って可能性が濃厚ね」
ボリュームのある癖っ毛を大きく二つに束ねた女は、パソコンを打ちながら言った。
だいたい二十歳を超えているかいないかだろうか。真っ白な髪をしているのに、毛先は黒く染まっているのが印象的だった。
「あの祠、どうやらこの地域の田畑を荒らしていた暴れ猪を祀っていたもの、って感じらしいわ。仕留めた人が猪が恨み募らせ悪霊にならないようにって感じで作った……なんて言われてるけど」
ディスプレイに映っていたのは二枚の写真だ。
一枚目は、まだ健在であった頃の祠だ。正直、祠と言われないときづかないほどに小さく、手入れもろくにされていなかったのか雑草が無造作に生えていた。
もう一枚には、その祠が無惨に壊されている姿が映し出されていた。祠に立っていた小さな塔が倒されて砕けてしまっている。蹴り倒されたようだった。
「アンタが言う宍戸純也って男が多分、何かの拍子に祠を壊しちゃった。それをきっかけに、そこに祀られていた猪の念が宍戸純也に乗り移って猪鬼の完成、ってところが妥当ね……って、おい、犬っ、聞いてんの?」
女がキーボードを叩いている傍ら、皇牙は話そっちのけで本を開いていた。新書サイズの動物図鑑だった。
随分と読み古していたようで、表紙には焼けが目立つ。開いているページには、猪の写真が載っていた。
「また動物図鑑なんか読んでる……アンタがそんなもん読んでる姿、ほんと意外なんだけど〜?」
「本はいいぜ、ヒミカ。昔言われたんだよ、本を読めば読んだだけ世界が広がるってな。実際そうだったし」
「アンタの場合は戦う相手が増えるってだけでしょ」
「間違いねえ」
ヒミカは呆れ混じりのため息を吐く。
「というか、アンタ鬼と戦う前から恨み買うようなこともしてたわけ? 古今東西生きながらにして鬼になるって話は時々聞くけど、やっぱり相当の執念よ、鬼になってまで襲いかかってくるなんて」
「いいじゃあねえか。おかげで俺も楽しかったし、宍戸純也も満足して成仏できたろ」
宍戸の最後を、皇牙は思い出す。
渾身の拳に頭蓋を割られ、路地に伏した宍戸の顔を。
いい顔をしていた。
奴の中にあったであろう憎悪も、劣等感も、闘志も、全て一緒くたに燃やし尽くした、いい男のツラをしていた。
「全存在を懸けてぶつけてもらえる機会なんて、そうあったモンじゃあねえ。幸運だよ、俺は」
思い返せば夢のような時間だった。
一度っきりしか見ることは許されない。
二度とは拳を交わせない男との短すぎたひととき。
「宵夏や、兵どもが夢の跡──ってね」
図鑑にある猪の写真をまじまじと見る。ただの猪相手の妄想では、もう二度と満足できそうにもなかった。
「な〜に言ってんだか、この犬はもう……というか、今回の戦いの被害どんなもんか分かってんの〜」
「知ったことか。配慮を無碍にしたのは奴の方だ。奴に文句を言ってくれ」
「アンっタねえ……」
ヒミカから、またため息。
初めて会ってから今の今まで、理解が追いつかない面が多い。多すぎる。
ほんと、とんでもない男を選んじゃったもんだな、と思わずにはいられなかった。
──数ヶ月前、雪がちらちらと舞う夜にヒミカと皇牙は出逢った。
ヒミカを追う鬼の前に、躍り出てきたのが皇牙だった。
鬼からすれば赤子にも等しい生身の身体で皇牙は戦った。
途端に腕があらぬ方向に折れて、膝から先が消し飛んだ。
逃げろと叫んだ
生身の人間が敵う存在じゃないと必死に止めた。
見ず知らずの女相手に命なんて捨てるものじゃないと、頬を引っ叩いた。
皇牙は、止まらなかった。
むしろ、恋人にも勝る好敵手を見つけたかのように、血濡れた瞳はぎらぎらと輝いていた。
ヒミカは折れた。
止める代わりに、とっておきをくれてやることにした。
鬼の血肉から作った丸薬──鬼珠。
それを一飲みすれば、鬼にも匹敵する力と姿をものにできる。
だが、当然副作用もある。いずれは鬼の本能に理性が喰われてしまうだろう。
『アンタがアンタでなくなるかもしれない。ただの獣畜生になるかもしれないのっ。それでもいいの、アンタはっ?』
震える声で言ったヒミカに、皇牙はこう返した。
『奴らと互角に戦えるようになるんだろ? やっとこさ退屈から逃れられそうなんだ、迷うかよ』
皇牙は、躊躇いもなく鬼珠を一呑みした──
あの日襲ってきた鬼は、皇牙との熾烈な戦いの末、蹴散らされた。
それから、皇牙はヒミカの用心棒じみた立場になった。
ヒミカ曰く、飼い犬。とにかく首輪をつけておかないと、この犬は何をやらかすか分からない。
実際、ちょっと逸れただけで鬼とひと騒動起こしていたのだ、全くもって放って置けない。
皇牙自身は、ヒミカがなぜ鬼に追われているのか、鬼とどんな関わりがあるのか全く聴こうともしなかった。
ただ、戦いにありつけそうだ、と言う理由で飼い犬に甘んじているのだろう。そう、ヒミカは思っている。
時には、鬼に狙われているヒミカをダシにするようなことまで平気でするから、頭を抱えずにはいられなかった。
「もう、ほんっといい加減にしてよね。アンタが死んだら、私どうしていいのかわかんないンだから」
「死にやしねえよ」
皇牙は、キッパリと答えた。
それまで開いていた動物図鑑をパンっと閉じた。
「命差し出す覚悟で戦いはやってるがよ、死んじまったら二度と戦うこともできやしねえ。もったいねえ」
「まーたそう言う……ほんっとジャンキーね、犬っ」
「ジャンキー結構。だがね、それともう一つ」
ぴっ、と一本指を立てる。
「退屈になっちまった俺に、アンタはとんでもねえ愉しみをくれたんだ。その恩を返すまでは、どうしたって死ねねえな」
溌剌な笑みがヒミカに向けてニッと浮かんでいた。
もうため息も出なかった。
恩だなんて言ってほしくない。
皇牙を人でなくしたのは、自分のためだ。
自分が生き残るために、人外魔境の世界に引き入れただけなのだから。
そんなことを言っても、皇牙はきっと変わらないことを言うのだろう。
この男を止められるヤツなんてきっと世界のどこにもいないのだと、そうヒミカは思った。
「もうわかったわよ! 気障ったらしいこと言うなっての。そこまで言うんならじゃあ、せいぜい私を守ってちょうだいよねっ。それを守れたら好きにやっていいわ。わかった、犬っ! いいっ?! 返事は!」
「へいへい。楽しくやらせてもらいます、ってな」
「ちっとは犬らしい返事をしろい、犬ーっ!」
「わんわん、ってか」
口うるさいヒミカに取り合わずぐいっと起き上がると、吊り下げられているサンドバックに向かって皇牙は徐に歩み出す。
昨晩散々やり合ったのに、もう沸々と湧き上がるものがあった。
軽く構えて、湧き上がったものごと拳を握る。
颶風が唸るや、綺麗な拳痕のできたサンドバックがぎしっと大きくその身を揺らした。
皇牙は嬉々と破顔っていた。
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