破 変貌れ──カワレ

 皇牙は、目を見開きこそすれど、それ以上は驚かなかった。

 さっきまで人だったものが、猪を形どった異形の姿を変貌を遂げた──常人なら腰を抜かしてもいい場面なはずなのに、不思議と怖気付きの一つ見られない。

 むしろ、よおく見るとこの男、格好いいロボットにでも釘付けになった子供のように、無邪気に目を輝かせているのではないか。

「その姿、いいねェ。アンタが俺を倒すために手に入れた姿、ってえとこか?」

「……俺も、なんでこんな姿を手に入れたか、よくは分からない」

 宍戸は、異形の体を前傾させながら、大地をしかと踏み締める。

 全身を流れる気が、足に収縮していっているのが分かった。

 皇牙も、もうノーガードではいられない。

 軽く握った拳を体の前に構えて重心を落とす。

「だが、この力ならどれだけ手を伸ばしても届かなかった貴様に、届いた気がする」

 獣らしい鼻息が、二つの鼻腔から吹き荒れた。


「いいやッ、今の俺は貴様なんぞ蝿を叩くように木っ端微塵に殺せるぞッ! 宝ッ城皇牙ァアァアッッ!」


 轟音、大地を裂く。

 次の瞬間、懐でダイナマイトが炸裂するような衝撃が皇牙の全身を射抜いた。

 腹に突き刺さる、異形の巨躯。

 堪えるなどという真似すら許されず、体が吹っ飛び宙を舞った。

 なんというタックルだろう。猪のタックルは時速45キロだというが、奴のそれはそのスピードをゆうに超えていた。

 体がまだ地に叩きつけられていないというのに、次の衝撃が皇牙を撃つ。

 宍戸の拳が、人の発揮できる限界をぶち壊して奔る、疾る、馳しる。

 速さの次元がもう現実で括れるものではない。

 化け物に似つかわしい域に宍戸はいた。

 直感が疾る速さも、宍戸の拳には敵わない。

 大きく振りかぶった動きをわずかに捉えても、皇牙に構えを取らせる前に拳が貫く。

 身体中の肉が波打った。

 着弾した砲弾じみた一撃が次から次へと皇牙を穿ち、肉を破り骨を砕き壊していく。

 地に足をつけることもままならない。宙で風車のように回転を続ける皇牙に乱打の弾幕が襲いかかっていた。

 盤上を完全にひっくり返していたが、奴はそれでも足りないらしい。

 

「宝城、皇……牙ァッ!!」


 皇牙の足を巨大な手ががしッと掴むや、あっという間に体の自由は奪われた。

 縦横無尽に振り回される皇牙の巨躯。異形となった宍戸には、人をヌンチャクのように扱うのも朝飯前であるらしい。

 肥大化した腕力が、皇牙で地を抉り壁を崩していく。

 巻き起こった砂塵の嵐と共に血肉が舞った。

 極めつけに思い切り引きつけたスイングで、皇牙を路地壁へと叩きつけた。

 ぶちぶちと肉が、繊維が千切れていく音がした。

 叩きつけた壁ごと幾多の建物を貫通して、皇牙の体が吹っ飛んだ。

 コンクリートの壁が豆腐と見間違う様で崩れていく。

 仕舞いには、雑踏に大きな衝撃が疾り抜けた。

 日常を突如踏み躙ってきた非日常を目の当たりにして、現実を歩んでいた人々はただただ目を丸くするしかなかった。

 だが、驚愕もただの一瞬しか許されない。

 水面に波が立つように、悲鳴が広がっていく。

 悲鳴を上げない方が無理だった。

 男の鍛え抜かれた体のどこもが、真っ赤に染まり上がっていた。

 四肢のどれもがあらぬ方向へと折れ曲がっている。

 左腕なんぞは捻り千切られて、あるべき場所にはない。真っ白な骨が顔を覗かせていた。

 頭蓋も割れてるのか鮮血は止まらない。かろうじてやっと動くのは右腕くらいなものか。

 トラウマ待ったなしの光景に、胃から込み上げるものを我慢できなくても仕方がなかった。

 もうその大通りに正常な思考など無かった。

 誰も彼もが泣いて、吐いて、逃げ出して、収集などつきやしない。

 悲鳴がまた、別のところから上がる。

 ヤツがいた。

 濁流のようになった人の海に構わず、ヤツが躍り出てくる。

 異形の巨躯だ。

 宍戸は喚き叫ぶ群衆に一瞥もくれない。

 自然とできた道を、一人悠々と進んでいく。

 あくまでヤツの目的はただ一人。

 憎悪に満ちた眼差しは、ひたすらグロッキーの皇牙に向き続ける。

 リングの上であれば、ゴングが鳴って試合は終わっている。

 しかし、ここにはレフェリーもいなければ、試合を止めるゴングもなかった。


「まだ、こんなものじゃあ終わらない……終わってくれるなよな、宝城ッ皇牙ァ!」


 度を越した咆哮と一緒に、皇牙目掛けて宍戸の拳が火を噴いた。

 衝撃波に、近くにいた人々がチリのように吹き飛んでいく。

 奴に渦巻く黒いものが全て乗った拳は、苛烈以外の何物でもなかった。

 殴る、撲る、ぶんなぐる。

 雑踏のコンクリートに次々と刻まれていくのは、いつかの屈辱を握った執念のクレーターだ。

 チリに混じって、赤い血肉と白い破片がそこかしこに飛んでいく。

 グロッキーが相手でも、それが己の仇なら容赦などいう甘いものはいらなかった。

 屈辱を晴らす──それ以外に宍戸が己を取り戻す手段はどこにも無かった。

 ストリートファイトで、たった一発も入れることのできなかったあの時。

 総合のリングで、膝蹴りでの擦り傷しか負わせることができなかったあの瞬間。

 今の自分は、弱かったあの時とは次元の違う場所に立った。

 地に伏した自分では、見上げても全貌を窺うことができなかった男を、今の自分は見下していた。

 いくら強かろうが、手が届かなかった場所にいた奴が相手だろうが、この異形の力を持った自分であればもう怖くなどなかった。

 畏れを越える。

 屈辱を晴らす。

 今、男は積年の壁をぶち壊す。


 ────立ち塞がった大きな壁を壊し越えて、先に進む道を切り拓くッ

 

 乱打の嵐が止んだと同時に、異形はまた皇牙の首根っこを掴み、投げた。

 足がすくんで動けなかった群衆を巻き添えに、大手チェーンの飲食店に皇牙の体が突っ込んだ。

 派手に割れたガラス。

 顔が固まってしまった店員。

 食器を床に落とす客。

 水を打ったようなその静寂は、より大きな狂騒の前振りでしかなかった。

 輪のかかった騒々しさを、宍戸は歯牙にもかけない。

 四肢を地に着けさらに深い前傾姿勢で構える。

 特に、後ろ足はバネを縮めるように深く曲げられていた。

 借りはこれで返すと、宍戸ははじめっから決めていた。

 足と腰とがギチギチと鳴る。

 鼻腔が野生的な息を猛々しく吐く。

 猪の体が纏う圧が、一層強烈になった気がした。

 

 そして、地は爆ぜた。


 激震轟く。

 異形は、自らを弾丸と化した。

 巨躯の膝が凄まじい勢いと速度とで皇牙の喉笛に喰らいついていた。

 一拍遅れてやってきた衝撃は、大通りに先ほどのクレーターとは比にならない爆心地の姿を刻んでみせた。

 皇牙の目はひん剥き、口からは舌が飛びちぎれそうなほどにびぃんと真っ直ぐ伸びて、弾け飛んだ。

 一直線だった。

 宍戸の膝からはらわたに伝った、ごりごりと鳴った快感の音。

 異形は勝利を確信した。

 込み上げるものそのままに上げた雄叫びは、山鳴りのようだった。


 ミサイルでも撃ち込まれたような衝撃に、巻き込まれた不幸な飲食店の中は滅茶苦茶になっていた。

 ばちばちと電飾が落ちていき、瓦礫に巻き込まれて客が声にもならない呻きをあげて喘いでいる。

 皇牙はといえば、店の奥の奥で磔のように壁に釘付けにされていた。

 ずるりと、体が壁から滑る。

 一瞬、地に着いた両足が地面を掴んで踏ん張ったようにも見えたが、呆気なく頽れて地に伏した。

 宍戸に向かって前のめりだった。

 息はあった。首を絞められた蛇のような声が開ききった口から漏れていた。赤黒い血が混じっていた。

 嗚咽のようだった。

 口惜しさからか。

 圧倒的な力を前に、己の非力さを嘆いているのか。

「どうした、宝城皇牙。言いたい事があるンならはっきりと言いな」

 下卑た笑みを浮かべながら、宍戸は耳をそばだてる。

 慈悲でも、興味でもなんでもない。

 ただの好奇だった。

 遠く高みにいた男が地に墜ちて最期を前にした時、一体何を零すのか──そんな好奇に、背中を押された。

 喉を思い切り潰したんだ、ロクな言葉なんて紡ぎようがないだろう、が──

 嘲りを込めた鼻息を吹かしつつ、ぐったりと倒れた皇牙を前に宍戸は腰を下す。

 くたばりぞこないの顔を覗き込んだ。

 余裕と愉悦に満ちた貌は、しかし、途端に一変した。

 

 皇牙は、破顔っていた。


 そこにあったのは、獰猛に上がった口角と狂喜がふつふつと溢れんばかりな眼差しだった。

 ゾッ、とした。

 遅れて、微かだった声がはっきりと聞こえてくる。

 決して、嗚咽などというものではなかった。

 ────哄笑。

 思い切りに潰されたにも構わず、喉はいっぱいに震えていた。

 抑え切れない歓喜に悶えているようだった。

 気管に絡んだねっとりとした血反吐を何度も吐き散らかしながらも、笑いは止む気配を見せやしない。

 これでもかと打ちのめした。

 四肢は砕き、折った肋はいくつもはらわたに突き刺さっているに違いない。全身が痛みでがんじがらめになっていると言っても過言ではないはずだ。

 だのに、皇牙は笑い転げ続けていた。

 何を見せられているのか宍戸にはわからなかった。

 異形の形をした男の方が、気づけば恐る恐る後退りを始めていた。

 奇妙で奇っ怪な光景だった。

「……なんだってンだよ」

 うめくように零れた声は、戦慄いていた。

「貴様はなんだってンだァアッ、宝城皇牙ぁああァッ!」

 宍戸が、吠える。

 散々めったうちにして木っ端微塵にぶっ倒したはずの仇敵に、まるで強がっているみたいじゃあないか。

 今更何を──そう言い聞かせようとする自身の心とは裏腹に、背筋に這いずった冷たいものを振り払う事ができなかった。


「な、んだっ……て、いいじゃあ、ねえ、か……楽しくッてよォ……しゃあねぇ、ンだ、よ……なァ」


 宍戸は顔を歪めずにはいられなかった。

 倒れ伏しているというのに、皇牙が見せる貌には言葉にし難い凄みがあった。

 見下ろしているはずなのに、どうして男がずっと遠く、高みに未だ立っている錯覚さえ覚えてしょうがなかった。


 ────いや、錯覚は現実になろうとしているらしかった。


 宍戸の瞳に映るは、満身創痍以上の体で起きあがろうとする皇牙の姿。

 信じられなかった。

 皇牙が動けば動くほど、赤い雫がぼたぼたと落ちていく。

 わずかでも動けば、内臓に突き刺さっている肋がさらに深く身体を傷つけているに違いない。

 なのに、皇牙は構いやしないらしい。

 喰いしばった歯からは、笑い声に混じって呻きの息が漏れている。

 身体中が生まれたばかりの子鹿のように震えているのに、宍戸に這いずった怖気は未だに拭い取れない。

 ついに起き上がった、皇牙の上体。

 荒い息は絶えない。顔も尋常じゃない脂汗に加え鼻水と涎とで、見るに絶えない姿を晒していた。

 そのくせに、獰猛に上がった口角はそのままだった。

 だが、問題はここからだ。皇牙の四肢は右腕を除いて完全に砕き折っている。先ほども、地に足をつこうとして叶わなかった。

 立てない。

 奴は、立つことはできない。

 確信なんかじゃなかった。れっきとした事実である。

 少なくとも、人体の構造上折れた四肢で立とうなど決してできない。

 皇牙という男がどんなに精神的にタフでも、この事実を乗り越えることは絶対的に不可能だ。

 なのに、異形は固唾を呑んで見守っていた。

 事実だろうがなんだろうが知ったことか。トドメを刺せばこれまで歩んできた道程にケリがつけられるというのに、脳髄の片隅にも浮かばなかった。

 ──まだ、俺は”本当”の宝城皇牙に勝ってはいないのではないか──

 はらわたに湧いてきた疑心が、握った拳をとどめさせていた。


「──宍戸純也……期待を裏切らねえ男だな」


 皇牙が呟く。

 宍戸を真っ直ぐに見据えたその目は、闘志をこれっぽちも絶やしてなどいなかった。


「ちゃんと立つさ。立たなきゃあさァ、せっかく盛り上がって来たこの……楽しい愉しい祭りが終わっちまうじゃあねえかい。ンなもったいねえことはしねえぜ、俺は」


 そう言うと、男はわずかに動く右腕で、自身のポケットから何かを取り出した。

 丸いものだった。

 手のひらに収まるサイズだ。

 見た目は丸薬のようだった。

 異様なのは、臭いだ。微かだが人の死骸にも似た臭いが、猪の嗅覚を持った宍戸の鼻腔をついた。

 ──人の死骸、それよりももっと似た臭いを俺は知っているような

 そんな思考が巡っている間に、皇牙の口が大きく開く。

 唾液と混じって粘ついた血がいっぱいになった口で、一呑みだった。

 ロクに噛むこともせず、喉から胃にごくりと落とし込んでしまっていた。

 訝しむ宍戸に皇牙は再び見据える。

 眼光に、狂暴な獣が潜んでいるのを宍戸は見た。


「期待しろよ、宍戸純也よ。派手にかましてやるからさ、最終ラウンドのゴングってのを」


 戯言みたいなセリフに唖然とした、その時だった。

 バチッ──と、男の肉が膨れる姿を宍戸の網膜は確かに見た。

 刹那、皇牙を中心に肉が焼けるほどの蒸気が迸る。

 嵐以上だった。

 そこらに転がった瓦礫どころか、かろうじて残っていた建物のガラスを全て割り、呻いていた人をゴミのように散らしていく。

 大地を裂き大気を割らんばかりの衝撃は、異形の体躯を持ってしても弾き飛ばされるのを堪えるだけで精一杯だった。

 咄嗟に体の前で腕を固める。

 びりびりとした感覚が身体中を疾り抜ける。

 肌が焼けつきそうな、蒸気にも似た煙が大通り一帯を埋め尽くしていく。

 一体、何が起きたのか宍戸にはさっぱりだった。

 あの丸薬みたいなものはなんだ。

 なぜ奴からこんな体温すら超える高熱の蒸気が巻き起こっているんだ。

 疑問に脳髄が埋め尽くされそうになったが、宍戸は一旦それらを振り切った。

 四方八方が煙で満ちたこの状況、不意打ちの一つがあってもおかしくない。

 皇牙が重症なのは十分以上にわかっていたが、あの不敵な笑みを思い出すと、奴なら何をしてもおかしくないと断言できた。

 肌の細胞から神経に至るまでに意識を集中させる。自身に備わった触覚でわずかな大気の流れ、ついでそこに生じる歪みを読み取ろうとする。

 だが、なんの異変も起きやしない。自身に迫る気配もなかった。

 次第に、煙が風に流され、路地の景色がはっきりしてくる。

 視界が開けてくる中で、宍戸は見た。

 煙る大気を悠々と突き進み、姿を露わにする一人の影を。

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