嬉鬼と破顔え

一齣 其日

本編

序 激昂れ──イカレ

 喧しい雷雨が去った後の雑踏は、息一つするにも煩わしい湿気と熱気を孕んでいた。 

 大気が肌を撫でるだけでも、汗がじわりと落ちていく。

 自分とその周りを厚い壁で隔たられているような感覚があった。

「こりゃ、確かにいい日だな」

 皇牙は、大きな体をゆさゆさと揺らしながら歩いていた。

 雑踏を歩く人の流れに合わせていた足は、突如向きを変える。

 路地裏に入った。

 男が歩けば歩いていくほど、人気はどんどん少なくなっていく。

 飲み食いの喧騒もだんだんと遠くなっていき、辺りを照らす街頭も数を減らしていった。

 人は、人気のない場所にはどうしたって寄り付かない。不気味さに背中をつつかれ、見て見ぬ振りをして去っていく。

 もし、足を踏み入れてようとするなら、きっとそれは好奇心を疼かせた者か、よほどの馬鹿ぐらいなものだろう。

 どちらにせよ、己の手で背中を押したのだ、そこで起こった事柄は全て己の責任としか言いようがなかった。


「────宝城皇牙、だな」


 野良猫の気配くらいしかない路地裏をだいぶ行ったところだった。

 皇牙は振り返る。

 闇の向こうに男がいた。

 短い髪を掻き上げた、筋肉質な男だった。

 胸の厚みではち切れそうになっているタンプトップが印象的だった。

 タッパはある。皇牙には多少劣るが、常人から見れば十分見上げてしまうくらいの大きさだ。

 小さいが鋭い目が皇牙を真っ直ぐに捉えていた。


「もう隠さなくてもいいぜ」


 皇牙は口角を上げた。

 奴の瞳の奥に、隠そうとしても隠しきれない灯火を見た。

「俺を狙ってきたんだろ。じゃなけりゃあ、わざわざこんなとこに来やしねえよ」

 皇牙の言葉に応えるかのように、男の周りに大気とは異質の熱が立ち込め始める。

 枯葉なんぞが近づけば、途端に焼けて煤と化しそうな熱だった。

 触れるには危ないが、退屈な日常を埋められるくらいには刺激的だった。


「闇討ち……じゃあないな。闇討ちにはいい日だったんだが、アンタはそうしなかったと見ると──」

「ああ。俺はアンタに借りを返しに来た、正々堂々とな」

「借り、か」


 正直言って、借りを返される覚えはたくさんあった。

 元々、皇牙は総合格闘家だった。だが、それに飽き足らずストリートファイトや地下格闘技も渡り歩いていたとなると、より余計に。

 あの世界は、どこでどんな恨みを買っているかわからない。

 勝敗、マッチメイク、ファイトマネー──血の気の多い男たちの集団だ、些細なきっかけで大きな恨みを買うことだって多い。

 だから、今更詮索なんて皇牙はしなかった。

 今こうして快感を覚えそうな殺気を当てられていることが、全てだ。

 それに正々堂々といういい響きに、歯が剥き出しになりそうだった。


「リングも降りて、行方知れずになっていたアンタをようやく見つけられた。今夜は、付き合ってもらえるんだろうな」

「悪いが、俺は右目をやっちまってね、格闘技とかストリートファイトからは足を洗ったんだ」


 そう言って、皇牙は自分の右目を指で指した。

 網膜剥離だった。

 試合の最中に、目を何度も殴られてしまったのがいけなかったらしい。今はほとんど見えておらず、ドクターストップががかかってしまった。

 目が使えないとなると、格闘技界からは即引退だ。レジェンド的ボクサーの中にも網膜剥離で引退した者は少なくない。

 皇牙も、例に漏れなかった。


「嘘だな」

 

 キッパリとした語気だった。

「アンタが格闘技からもストリートファイトからも足を洗っただって? 洗えるのか、アンタのような男が。一夜で五十人を、百人を相手にして勝っても負けても戦いを楽しんでいたなんて話もあるアンタが、戦いから足を洗えるものか。今もそうだろ。本当に足を洗っているんだったら、俺のことをわかっていてこんなところに足を運びやしないだろう、宝城皇牙」

「──よおくわかっているじゃねえか」

 皇牙の顔が、喜悦の色に染まり上がる。

 戦いから逃れようとする男の顔ではなかった。

 そもそも、体自体がそうか。

 引退をしたという男にしては、体から衰えは感じられなかった。

 腕も、足も、首も丸太じみた太さだった。

 肉も厚い。四肢の肉が締まり上がって皮を張っているのは、日頃から鍛錬を怠っていない証だった。

 胸の大きさにシャツは幾度も耐えきれなかったのか、補修跡が多ければ、その補修跡も悲鳴をあげている始末だ。

 うねり上がった黒髪は獅子の立髪を想起させる。

 が、そう思わせるのは、男が漂わせる肉食獣じみた血生臭さのせいか。


「やっぱ、たまには人相手に戦うのもいいかもな──なんてな」

 

 ゴキ、ゴキと拳を鳴らす。見た目は岩肌のようで、人を殴り慣れた形をしていた。

 皇牙はその拳から一本指を立てると、クイとかかってこいと言わん仕草を見せた。

 男は、タンクトップを脱ぎ捨てた。

 皇牙の鼻を異様な獣臭がつんと突いた。

 一瞬、男の顔が獣のそれに見えた。

 真っすぐに前しか見やしない、猪のようなその顔。

 そんな錯覚から覚めると、男は既に構えを取っていた。

 足幅は広く、重心が低い。

 軽くステップを前後に取っている。

 総合格闘技によく見られるような構えだった。

 距離はやや遠い。

 拳や蹴りを届かせるにはもう少し間合いを詰める必要があった。


 熱気と湿気を孕んだ大気に、緊張感が徐々に混じり始める。

 大気に撫でられて落ちるものとは異質の、冷たい雫が頬を伝う。

 呑気に二人の様子を眺めていた野良猫どもも、いつの間にか陰に隠れて息を潜めてしまっていた。

 わずかに届いていた喧騒も、もう二人の鼓膜には届いていないだろう。

 

 ぽたりと、排気口から水滴が落ちた。

 

「──ゥゥッ!」

 男が飛び出た。

 俊足の突進で、間合いが一気に詰まる。

 拳の連打が奔った。

 勢いに任せ気味だが、疾い。

 皇牙の頬が、顎が、腹が一瞬のうちに弾ける。

 続け様に太ももが盛り上がると、弧を描いた蹴撃が皇牙の右側頭部を刈った。

 皇牙の見えない右目では、右半身がほとんど死角になっていた。

 びりっとした衝撃が脳髄を叩く。

 心地いい感覚だった。


「へぇ、いいねェ」


 皇牙が、笑う。

 ノーガード。腕で防ぐそぶりも見せなかった。

 男の眉間に皺が寄る。

 蹴り足が地に着く。

 同時に、皇牙の顎目掛けて縦拳のアッパー。

 流れるようなコンビネーションだった。

 が、先に跳ね上がったのは男の顎の方だった。

 高く上がった、皇牙の右足。

 跳ね上げた前蹴りが、先に男の顎を跳ね上げていた。

 間髪入れずに、踵が落ちる。

 鼻骨が砕ける音がした。

 男の顔からねっとりとした赤い雫が滴っていく。

 ただ、目だけは真っ直ぐに、皇牙を捉えて離さなかった。


「嫌いじゃあねえぜ、そういう目はよッ」


 皇牙の拳が大きく振り上がって、男を撃つ。

 男の拳なんて生ぬるく感じさせる、固めたガードをも弾く激流の如き拳だった。

 ほころんだ両腕の隙間を縫って二発目が男の顔をまた叩く。

 くふっ、と呼気が漏れた。

 堪えた顔を見せたが、すぐにその表情は歪んだ。

 皇牙の鋭い拳が、空いた横っ腹を突き抜いていた。

 男の意識が下に向いた時、また顔面に痛撃。

 上下左右、意識を散らす乱打が男の全身をくまなく叩き続ける。

 一度火を噴いた拳は相手を喰らい尽くすまで止まらない。

 反撃に構えた拳すら、皇牙の連打は呑み込んでいく。

 拳一つ一つに、芯が篭っていた。

 肉を撃ち抜き骨の髄まで叩く一打一打に、悶絶。

 折れた歯が血と共に吹き飛んだ。

 膝が落ちた。

 体が沈む。


 ────瞬間だった、男の頭突きが皇牙の鼻先を打ったのは。

 

 叫びと共に落ちた膝を跳ね上げて、飛び上がるように突進。

 これは皇牙も読めなかった。

 不意を突かれて、痛みと同時により大きな愉悦が込み上げた。

 その皇牙の頭を男の両腕が回った。

 愉悦を加速させる寒気が首筋を走る。

 反射的に前蹴りで男の体を突き飛ばした。

 男は倒れない。

 体をくの字にして退け飛ばされながらも足でブレーキをかけるや、一歩二歩と踏み込む。

 そして、地を蹴って前へと飛び込んだ。


 飛び膝蹴り。


 人体で特に硬い箇所が勢いをつけて、顔面に迫る。

 皇牙は思い出す。試合開始早々、跳び膝蹴りで決着のついた試合のことを。

 受けた相手は拳一発も繰り出すことなく、リングに沈んで起き上がらなかった。

 自分がKOされたということにも気づいていない顔に、戦慄を覚えた。

 それが今、自分に迫って来ている。


「──ハッ」


 ごッ、と鈍い音がした。

 骨と骨とが当たる音だ。

 クロスして固めた皇牙の腕に、男の膝が深々と刺さっていた。

 脂汗の流れる痛みが腕に走った。

 骨にヒビが入ったかもしれなかった。

 わずかにクッションのようにして受け止めなければ、折れるどころか砕かれていたかもしれない。

 愉悦の加速は、もう止まらなかった。

 一瞬の直感。

 一瞬の判断。

 一瞬の一手。

 どれか一つでも誤れば腕の一本二本を持ってかれるだろうこの緊張感に、喉がごくり鳴った。


 ──だァから戦いは、やめられねェンだ


 男の膝が離れる。

 飛び下がって、間合いをとろうとしていた。

「悠長なもんだッ」

 男の膝が離れた瞬間に、皇牙は動いていた。

 大きな体が風を巻く。

 間合いを潰して蹴りを抜いた。

 足先が地に着くか着くまいか、自由の効かない宙にあった男の体を丸太のように太い脚が抉り打った。

 肉を潰す感触をつま先で感じながら、振り切る。

 ヘビー級に近い体が、風でチリが舞うように軽々と吹っ飛んでいた。

 路地の壁が大きな音を立てる。

 男の体と共に、積まれていた廃材がガラガラと落ちた。


「あ、がァァ、あ……ッ」


 奴の内蔵は今焼けるような痛みに苛まれているのだろう、腹を抱えてのたうち回る。

 大きく開いた口からは蚊の鳴くような声と唾液とが落ちていた。 

 しかし、無様な姿を長くは晒さなかった。

 男は歯を剥き出しにすると、怒りに満ち満ちた形相で痛みを食いしばる。

 ぎん、と眼光が迸った。

 ふしゅうううッ、と歯茎から息を鳴らしながら上体をゆっくりと起き上がらせる。

 時間をかけながらも男は自身の両足で、皇牙の前に再び立ってみせた。

 全身の毛を逆立たせたような、異様な気が漲っていた。


「────宍戸純也、だったな」


 皇牙は、呟く。

 男──宍戸純也は、思わず殺気に溢れつつあった目を丸くした。

 まさか、だったのだろう。自分の名が覚えられているなんて、夢にも思っていなかったに違いない。次にその目は訝しげなものに変わっていた。

「お前の拳や蹴り、あとさっきの膝蹴りだな……そいつらを喰らったときに思い出した。確か二、三年前だったな。ストリートファイトで一回、総合のリングで一回戦ったな。どうだ、俺の記憶に間違いはないか」

 無言。

 とはいえ、瞠目に固まる表情は肯定を語っているようなものだった。

「いい戦い方だったな。呼吸をおかずに次々と攻め手を繰り出す猪突猛進っぷりと詰めの甘さは変わらないが、昔とはキレが違った。正直途中の頭突きは目を見張ったよ。そんで、首相撲から膝蹴りを喰らったらどうなってたか。肝を冷やしたぜ」

 首の後ろに手を回されかけた時のことを言うのだろう。

 首相撲から体勢を崩されて喰らった膝蹴りは、人体に大ダメージを及ぼす。下手をすれば一撃必殺にもなりかねない。

 初めはノーガードで拳を味わうように戦っていた皇牙でも、一撃必殺の技までは喰らいたくなかった。

「成長したな、宍戸純也。ありがてえよ。こうして強くなって俺の前に現れてくれたおかげで、いい戦いができている。ありがてえ」

 白い歯をみせて、皇牙は笑んだ。


「ふッッざけるなァッッッ!」


 宍戸が、吼えた。

 路地を漂う大気は激昂でびりびりと震えていた。

 気持ちのいい笑みをした皇牙とは裏腹に、男の顔は瞳孔を見開きワナワナと歯を鳴らさずにはいられなかった。

「何がッ、何が成長しただッ! そんな俺を今楽々と蹴り飛ばしたのは誰だッ! お前だろッ、宝城皇牙ァ!」

 宍戸は目を血走らせながら、皇牙に指を指す。

 指先が戦慄いていた。

「お前は強いよ、宝城皇牙。初めてストリートファイトで戦ってから、今の今までお前は強いまんまだった。その気になれば、俺なんか一蹴できるだろうが。分かってんだよ、まだ俺がアンタに届かねえって事くらい。何になんだよ、最初のプロレスじみた喰らい方は! 実力を測ろうだなんて真似される、こっちの身にもなれよォッ!」

 胸の内に相当な濁流があったのか、堰を切ってしまった男の顔は原型も忘れてしまいそうになる程ぐちゃぐちゃに歪んでいた。

 瞳には数多の雫が込み上げて、いっぱいに頬を濡らしていた。


「俺は……誰にも負けたくなかった。だのに、どれだけトレーニングをしても、どれだけ試合を重ねても、アンタに勝つビジョンが見えなかった! 大きな壁だった…‥アンタはッ。総合で戦った時、アンタは俺を何秒で倒したッ! たったの三十秒足らずだッ! ストリートで負けてから、血の滲むような努力をした俺を、だ! 何だよもおおおッ、なんなんだよお前は……お、まえ、はァァ、ッ……!」


 ────ドクンッ

 と、心臓を大きく叩く音が響いた。

 宍戸の中からだった。

 爆発させた感情が四肢を四散させるのでは、などとすら思わせる叩きっぷりだった。

 だが、次に鼓動が心臓を叩いた瞬間、奴の背肉は一気に膨張した。

 皇牙は目を見開かずにはいられなかった。

 皮の中で沸騰するようにぼこぼこと何かが爆ぜ、体が形そのものを変えていく。

 剥き出しになっていた歯は、獣の牙のように──いや、もはや狂暴な獣の牙そのものだった。

 身体中から突き出してきた幾千もの毛は、肉を深く刺しそうなほど硬く刺々しい形をしていた。

 皇牙にわずかに届かなかった体躯は縦にも横にも皇牙を遥かに超えている。

 それでいて、脂肪の塊などではない。全身が筋張った密度の濃い筋肉の鎧と化していた。

 一回り二回り大きくなった鼻腔から、荒々しい鼻息が噴き出る。


 ───猪。


 いや、猪の形を模った、異形にやむはなっていた。

 人と猪とが無理矢理に混ざり合ったかのような出立ちだった。

 猪の図体に不似合いが過ぎる、やたら巨大化した人のものの両腕両足が生えている。

 顔も獣のそれと化しているが、かろうじて鋭く小さな目に宍戸の面影があった。

 一際目を引くのは、両こめかみから禍々しくそそりたった二本の角。

 骨と血液とが凝固したような、赤黒く生々しい色合いをしている。

 歪み、曲がり、しかし易々とは折れないだろう頑強さがあった。

 ギョロリと異形の瞳が皇牙を向く。

 憎悪と殺意と妄執とが渦巻いた、化け物らしい度し難い眼光だった。

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