貴方の忘れ物

雨足怜

届かぬメールは、今この手に

 彼が、死んでしまった。


 その連絡がきたのは、夏も真っ盛りの日の、日が暮れようとしているころだった。


 家で晩御飯を作っていた私は、そのあとどうやって病院に向かったのか、何も覚えていない。


 脳梗塞。

 会社で倒れた彼は、けれどその日花火大会の交通整理で救急車が遅れ、間に合わなかった。

 たどり着いた病室で、植物状態になった彼はピクリともせず、ただ静かに眠っていた。

 本当に、ただ、眠っているようだった。


 仕事が忙しくてあまり眠れていなかったせいか、その顔色は悪くて、目の下には隠し切れないクマがあった。

 病的に青白い肌に触れれば、ガラスのように砕けてしまいそうで、手を伸ばしたまま触れられずにいた。


 もっと、しっかりと言えばよかった。そんなに無理をして、体に鞭打って働くなんてしなくていいからって。

 言葉は、もう貴方には届かない。


 今すぐひょっこり起きだして私を抱きしめてくれることはない。あまり感情が表に出ることはなく、いつもむっつり黙っていたその顔が、今は安らかな寝顔ばかりなのが苦痛だった。

 それを思い、そして、ようやく実感が込み上げてきた。


 貴方は、もう、たぶん戻らない――


 まだ、死んだわけではない。可能性は、コンマ以下だとしても、ゼロではない。


 医者の説明は、耳を右から左へと流れて頭に残らない。


 医者が去っていき、個室には私と貴方の二人きり。

 にじむ視界の中、やっぱり貴方は起きだして何かを言うこともなく、そこに横たわっていた。


「……ハルヒト」


 名前を呼んでも、少しだけ目を細めて私を見てくれることはない。

 少し恥ずかしそうに頬を赤く染めて名前を呼んでくれることもない。


 貴方は、私を置いて、体を置いて、旅立って行ってしまう。


 貴方の手を取りながら、私はただ泣くことしかできなかった。





 六か月。

 目安と言われたその日々を、私は彼の病室に通って過ごした。

 仕事はやめた。幸いというべきかお金はあった。

 彼との結婚式のために、結婚生活のために貯めていたお金だった。


 職場の人は理解のある方たちばかりで、大変な時期だから申請して長期の休みをもらいなさいなんて言ってくれたけれど、今はその少し煩雑な手続きを進める気力がなかった。


 少しでも長く、少しでも多く、貴方のそばにいたかった。


「ねぇ、貴方はどんな夢を見ているの? 楽しい夢だといいね。いえ、きっと楽しい夢なのでしょうね。だって、貴方は眠っているときによく、眉間にこーんなしわを刻んでいるんだから」


 のどが渇いて目を覚ました時、横に般若がいるように見えて驚いたものだった。ただ、そのうちに貴方のそんな顔をいとおしく思えるようになった。


 人付き合いが苦手で、不器用な貴方。

 けれどそんな貴方のいいところを、私は知っている。

 貴方が欠点だと思っているところだって、私は愛してあげられる。


 些細なふるまいから私のことに気づいてくれる人だった。

 少し疲れて夕食作りがおっくうな時には、貴方の番ではないのに何も言わずに代わってくれた。

 まるでお姫様かご令嬢みたいに、私を甘やかしてくれた。


 暖房が暑いときには、何も言わずに設定温度を下げてくれた。

 貴方は寒がりなのに。


 仕事で少し嫌なことがあった時には、何も言わずに餃子をたくさん焼いて晩酌に付き合ってくれた。

 貴方は大してお酒に強くなくて、真っ赤な顔をして今にも眠りそうになりながら、けれどずっと私の話に耳を傾けてくれた。

 時々小さな声で相槌を打つその声を聞き逃すまいと耳をそばだてているのが楽しくて、すぐに嫌なことは頭の中からなくなった。


 口数の少ない貴方の言葉は、その一つ一つが私にとっては宝物だった。

 たまに覚悟を決めたような顔でしっかりと告げてくれるそういうところが、たまらなく愛おしかった。


「もう一度、貴方と話すことはできないの?私は待っているから。いつまでも、いつまでも待っているから……」


 けれど、少しずつ時は過ぎていく。

 暑さは過ぎ去り、急に肌寒くなって体を壊した。


 会いに行けないことが苦しくて、こうしている間にも貴方と一緒にいられる時間は過ぎ去っているのだと、そして今というこの瞬間に貴方が亡くなってしまうかもしれないと思うと、自分が許せなかった。


 来る日も来る日も、貴方に会いに行った。

 面会時間の最初から最後まで、貴方と話をした。


 不思議と言葉が尽きることはなかった。思いは後から後からあふれて、言えずにいたこともたくさんあって、貴方はそれをただ黙って聞いていた。


 そうして冬が来て、私の心にもまた冬がきた。

 寒さに身を震わせながら病院に入れば、暖かな空気が出迎える。けれど、私の心はまるで氷ついたように動かなくなっていた。


 貴方は、今日も目を覚まさない。暖かな部屋の中、寒いとも暑いともいわずにただ眠っている。

 その顔つきは、心なしか痩せてしまっている。


 あと、どれくらい時間が残されているのだろう。

 あと、どれくらい貴方と一緒にいられるのだろう。

 あと何回、私は貴方が目を覚ますことを期待して話をするのだろう。


 どれだけ私が言葉を重ねても、目を覚ますことはないのでしょうね。

 そんなことは、わかっている。ようやく、受け止めることはできた。

 それでも諦めきれなくて、けれど言葉を重ねるほどに虚無が体を、心をむしばんでいった。


 無為に時間だけが過ぎていく。

 声は貴方に届かず、握る手から伝わる冷たさが、貴方が死んでしまっているんじゃないかと、私をおびえさせる。


 ねぇ、お願い。

 言葉を返して。

 一人、壁打ちをさせないで。

 相槌だけでもいいから。だから、お願い。


「私を、一人にしないで……」


 その時、枕元に置いてあったスマートフォンが鳴り始める。充電コードを差したまま放置していた、貴方のスマホ。

 まるで貴方が返事をしたように思えて、肩が震えた。


 貴方が目覚めなくなった最初のころは何度か通知があったスマホは、最近ではめっきり音を鳴らさなくなっていた。それが死へのカウントダウンのように思えていたのは、きっと人間社会での貴方の居場所が消えていくことと死が重なったからだと思う。


 充電コードを外して、スマホを手に取る。

 少しだけ迷ってから、私の誕生日をパスワードに入力して開く。

 安直で、けれどだからこそ心に響く。


 時々、自分は本当に愛されているのだろうかと不安になることはあっても、こうした少し乙女なところを目にすれば懸念は吹き飛ぶのだ。


 私は、愛されている。

 そして今もきっと、貴方は夢の中で愛してくれている。


 それが、私の支え。まだ私があなたの病室に足を運んでいる理由。


 愛はすべてを超越するだとか、愛は奇跡をもたらすだとか、そんなことを思っているわけではない。ただ、貴方が好きだから、愛しているから。

 そして、貴方が今も私を愛していてくれていると思えるから、私は今も、ここにいる。


 開いたスマホ、メールを確認すればただの広告だった。

 落胆しながら電源を切ろうとして、ふと、なんとなく指を検索部分にもっていく。


 彼からメールをもらったことは、ほとんどない。

 口下手な彼はメールでも簡素な文章ばかりで、けれどそれらはすべて、しっかりと私のメールボックスに保存されている。


 同じように、彼もまた私からのメールを保存してくれているのだろうか、そんなことが気になって。


 Ayaka@――アドレスを入力して、検索する。


 果たして、私が送った、時に冗長で、時にただ彼とメールの交換がしたくて送っただけの中身のないメールが、たくさん検索ボックスに現れた。


 そして、そんな中に。

 見覚えのないメールの数々を見つけた。


 私が送ったメールと、彼が送った簡素な文面のメールの合間、それらのいくつものメールが存在を主張していた。


 覚えのない件名のついたメールは、下書きボックスに入っていたものだと示されていた。


 下書き――私に届かなかった、彼の言葉。


 自然と、指はそんなメールの一つを押していた。

 そうして私は、そこに彼の忘れ物を見つけた。

 私に届けられずにいた言葉の数々に出会った。


 そこには、私への愛にあふれていた。彼の思いがいっぱいに詰まっていた。


 メールでも口下手なんて嘘だった。演じていただけだった。


 彼は、メールになるとこんなにも饒舌になるらしい。長くつづられた文章。そこに満ちた彼の心の声が、凍り付いていた私の心を溶かしていく。

 その熱で、愛で、包んでいく。


 ずっと乾ききっていた目が潤む。

 ぽたりと、液晶をしずくが濡らす。


 ――愛している。

 ――今すぐ君のもとに向かって抱きしめたい。

 ――今日君と何を一緒に食べるか、そんなことを考えているだけで幸せな気持ちになる。

 ――君と一緒にいることで、僕の人生はどれだけ豊かになっていることだろう。

 ――僕は、君がくれた分以上の愛を、返せているだろうか。


「……馬鹿。そういう言葉は、ちゃんと、届けてくれないと……」


 涙が、後から、後から、とめどなくあふれた。

 そのしずくのいくつかは、彼の腕を濡らした。


 彼は、ただ微笑むように口の端を緩ませたまま眠っていた。

 あるいはそれこそが、本当の彼の寝顔なのだろう。


 ――夜に目を覚ますことが多い君が心配だ。


「心配なのは、私の方だよ」


 隣で起きだす音に目が覚めてしまって必死に眠るふりをする彼の愛が、そこにあった。


 ――お酒はほどほどに。飲むと少し寂しがりになるところが好きだけれど、それで体を壊してしまっちゃだめだよ。


 体を壊してしまったのは、貴方の方なのに。もっと、自分ことを心配してよ。

 私への愛の一部を使ってくれていいから、自分を愛してあげてよ。


「愛しているわ、ハルヒト」


 彼は答えない。けれど、十分だった。

 返事の言葉は、このスマホの中にある。

 メールの文章の中に、貴方が宿っている。





 冬の寒い日、彼は空へと旅立った。


 置いて行かれた私は、けれど立ち止まることはなかった。


 隣に貴方はいない。けれど貴方の忘れ物が、確かにこの胸の中にある。

 書いては遅れずに下書きボックスに残された愛が、私を立ち上がらせてくれる。


 一日、また一日、そのメールを読み返す。ほとんど毎日、私たちが出会ったころからつづられて送れずにいたメール。


 ――こんなメールを送っては、君に幻滅されてしまうかもしれない。君が惚れたのは、寡黙な男だと思うから。


 そんなことないのに。貴方からの愛の言葉が、嫌なわけがない。

 筆まめなことで嫌いになるわけがない。


 もし、このメールを貴方からちゃんと送ってもらっていたら、きっと私はもっと貴方に惚れていたわ。もっと早くに結婚を考えていたかもしれない。

 今頃、貴方の子どもが居たかもしれない。


 メールを見ながら、無数に思いを馳せる。可能性を夢見る。

 過去を思う。


 彼の足跡が、思考が、そこにあった。

 今も確かに、下書きのメールの中に宿っていた。


 映し出された画面にそっと触れながら、私は一日、一日を生きていった。


 内向きな人。いつもむっつり黙っていた人。

 貴方がどれだけ私を思ってくれていたか、それがわかるだけで、もう私は一生分の幸せを手にしていた。


 こんな幸せは、幸福は、きっともう、二度と私の人生に訪れることはないだろう。


 最後のメールを読みながら、私は空を見上げる。

 まばゆい太陽が輝かく夏の青。目に染みるその色をにらみながら、貴方との出会いの日を思う。


 あの日から、四年。

 貴方と死に別れてから、四年。


 読み返し続けたメールは途切れ、私は今日から、本当の意味で貴方のいない日々を生きていく。

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貴方の忘れ物 雨足怜 @Amaashi

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