あの日の、サイダーの味。
@puroa
十年間、遅れてごめんね
文化祭が賑わっている校門を駆け抜けて、なつ美は学校の内側へと入った。
完全に開かれた校門は、保護者をはじめとするたくさんの人たちに開かれた門扉であるが、彼女だけは受け入れられた心地が無かった。
浮足立っているのは高揚感ではない。こういう生きた心地がしない感覚を、何というのだろうか。癖付いた感覚は、もう幾度目かの体験であるハズなのに、ちっとも学習しない。
音楽の楽譜みたいに、すっと頭に入ってくれば良いのだが。
「おい、何してんだ! もうすぐ始まっちまうぞ‼」
唐突な男の声に、なつ美がビクッと肩を揺らす。
だがその声は彼女に掛けられたものではなく、声を上げた男子生徒の友人に向けたものであったらしい。友人に向けている視線は、明後日の方向へと向いている事からも、明らかだ。
こんな精神状態になった原因は自分にあるとしても、嫌なものは嫌である。そのことが分かって、ほっと一安心するなつ美。
しかし次の瞬間、男子生徒の視線がなつ美を射抜き、彼女は再び身体を強張らせることになる。
「……!」
頭の中を見透かされるような恐怖に苛まれた。
怖いことなんてない、彼に起こられる理由なんてない、と自分に言い聞かせて、その時間が終わるのを待つ。
なつ美と男子生徒が意味もなく見つめ合っている。意味なんて無いと分かっている筈なのに、どうしようもないほど耐え難い。
そんな気まずい時間が、数秒間続いた。
「はぁ、ふぅ。ごめんごめん。あれ、どうした。ソッチになんかあるか?」
男子生徒に呼ばれていた友人の到着を以て、その時間は終わりを告げる。
ぷつんと途切れたようになつ美の肩から緊張がほどけ、すとんと胸を下ろす。一時しのぎでも、抱え込んでいた重いものが外れたような感覚に、なつ美は見当違いな癒しを覚えて。
「……いや、何でもない。行こうぜ」
その癒しも結局、男子生徒の低い声によって塗り潰された。
なつ美は釘付けになったように、駆けていった二つの背中を眺める。あの方向は、確か講堂のある方向。恐らくは、文化祭の催しの見物に行くのだろう。
恐らくこの時間は落語研究部だったか。彼女もさすがに、自分の通う学校の文化祭のスケジュールを忘れたりはしない。そう言い切れないのが、今のなつ美であるが。
再び歩き始めた彼女は下駄箱を通り過ぎ、靴を履き替えずそのまま正面玄関へと向かう。高校生になってしばらく経つが、正面玄関から学校の中へ入る経験はなかなかレアなのではないだろうか。
まぁ使うとなれば、大体はロクな理由ではないだろうが。正にそんな理由を抱えた少女が、開け放たれた扉のサッシを跨いで中へと入り、わきにある窓口へ話しかけた。
「……ごめんください」
何となく、すいませんというのが嫌でこんなセリフになってしまう。
なつ美が声を掛けたのは事務室である。連絡用の窓口から声を掛けることで彼女が学校に来たことを教師たちに伝え、約束の時間に間に合ったことを証明する。
隣の扉から出てきた事務員に案内され、ある部屋に通される。何となく察した顔の女性が手で示すのは、なつ美も来たことがない部屋。
頭上の壁から迫り出すプレートには 『生徒指導室』 と書かれていた。
恐る恐る中へ入ると落ち着いた薄暗い照明に、どこの商談に使われるのかと思うほど高そうな、シックな机が置かれている。
机が豪奢な分、用意された丸椅子が彼女の身の程を物語っている。
向かいの、少なくとも背もたれが付いている分、なつ美のものより豪華に見える椅子に座っている女がこちらを見て口角を吊り上げる。
口元は笑っているが目元がまったく笑っていない。というより、顎を突き出して見下ろし、なつ美のことを小馬鹿にするような姿勢に、なつ美は身を縮こませた。
教師としていつも教壇で見せる姿とは、似ても似つかぬ雰囲気である。
「やぁ。よく来たねなつ美。というより、よく来れたね。サボり魔のくせにこういうところはキッチリするんだ」
緩やかに唇を開く。その口調は透きとおるようで、何処か粘着質。チクチクと刺さる言葉の裏で、お前が悪いんだぞと叱責されているような気分である。
それも、仕方のない事である。世の中には許されることと、許されないことがあるのだから。彼女は今回、ついにその境目を越えてしまったのだ。
「さぁ言い訳を聞こうか。キミが……文化祭をサボった理由を」
この日以降、なつ美はクラス中の反感を買った。
***
昔からそうなのだ。この、水名なつ美という人間は。
役割を貰ったとき、人から何かを任せてもらったとき。最初ばかりは少なからず奮闘するのだが、ある一定のタイミングで飽きてしまう。
そんなのだから、ある程度付き合いが長くなってくると、誰からも信用されなくなる。
今日の文化祭に参加するはずであったなつ美の店番も、ぼっちである彼女に配慮されたものになっていたのである。
付け加えると、サボったのは今回だけじゃない。通算で三度目になるサボりで、初めてのガチ説教をされたのが今回という話だ。
正直、言い訳できる立場でないのは、自分でもよく分かっている。
なつ美の担任である桑澤という教師は、呆れ半分で椅子にふんぞり返っている。厚みのある机の天板を挟んだふたりの間には、重苦しい空気が流れる。当然、空気の向きは桑澤→なつ美の方向であるが。
「……で、なんで?」
無言の圧が張り詰めた部屋に、女の低音が響いた。生まれて初めて聞く教師のマジギレに、元々引っ込み思案だったなつ美は震えあがる。
自分の責任だと言われても、重圧にたじろいでしまう。
そもそも、なつ美自身のなかでも理由なんて確固たるものではないし、今までの教師にここまで怒った人はいなかったから。
「えと……その」
分かりかねていながらも、なつ美は口を開いた。どうにもならなくたって、何か返事をしなければ。
自分自身でもどうしようもなくなった気持ちを持て余して少女の瞳が揺らぐ。この感情を表に吐き出してしまえたら、どんなに楽であろうか。
「何でサボったんやって、聞いてるんだけど。あんまり待たせないでくれる? 怒られてる内が華だよ」
「……ぅ」
だが開いた口もその重圧に簡単に押し黙らされた。
なつ美のことを見る桑澤の視線は、冷たく乾ききっている。目に光を宿さず、なつ美のことなんて、何にも期待していない目線。
答えられない。そんな視線で見られたら、誰だって委縮するだろう。だが、彼女にそんな言い訳は通じない。彼女がサボった事によって、様々な人に迷惑が掛かったわけだし。
クラスの人にも。彼女が所属する、軽音部のメンバーにも。
「おい」
そうして無言でいると、また桑澤の声が低くなった。地の底から響くような声で眼前のなつ美に鞭打ち、彼女から理由を引き出そうと扱く。
そうまでして理由を引き出そうとする裏には、何があるのだろうか。教師的に減点か何かでもあるのだろうか。
減点といえば、小さい頃に通っていたピアノ教室を思い出した。幼少期の贔屓目に見ても、あの教室はスパルタだった。
今だったら絶対にパワハラで訴えられそうな厳しさ。一度ミスしたら今のなつ美のように叱責され、時には追い出された子もたくさんいた。
(今思えば、あそこだけはなぜか続いたんだよね。どうして違ったんだろう……)
そして高校に入り、中学の頃にはなかった軽音部に入った。そんなにスパルタな雰囲気はなくて、譜面を間違っても、怒られるようなことはない。何なら、弾きたい時に弾けばいいよね、と言って簡単にサボれるような部だった。
なつ美にとってはほぼ初めての友達も出来た場所。幼少の頃からずっと続けてきた音楽ならば、途中で飽きずに続けられると思ったのだが。
とにかく思ったことを声に出そうとして、なつ美は話し始めた。彼女が口を開くのと桑澤の携帯が唸ったのはほぼ同時だったのが惜しいところである。
「け、軽音部の練習でちょっと――」
「あ」
手のひらをこちらに向けてスマホを耳にあてる。『待て』 の合図に、また彼女の口は閉じられてしまう。
こんな事になるなら、もっと早めに喋っておくんだったと見当はずれの後悔を始める。
「はい」
『あ、先生スカ? いま野球部の出し物終わったんで、片づけしてるんスけど。ちょっと人手足りないんで、手伝ってもらっても……』
電話を始めると、暗く重たかった生徒指導室の雰囲気が一気に明るくなった気がした。電話をするときには雰囲気をつくって話すというが、まさかここまで明るくなるとは。電話をする相手がいないなつ美は知らなかった。
スマホから男子の声がして驚いた。電話のスピーカー機能がオンになっていたのである。設定の切り忘れなのか、彼女がなつ美に見せつけるためにわざとしているのか。
いずれにせよ、学校に入ってからずっと人の目が気になってしまう彼女にとっては毒でしかない。
「あー朝言ってたやつか。公開試合のヤツ? ごめん。今ちょっと、な」
そう言いながら、なつ美の方をちらっと見てくる。これが答えだ。
男子の方も一拍の空白を開けた後、何かに察したような声で答える。
『……あ~、分かったっす! お疲れっす!』
そう言って電話を切った。そして役割を終えたスマホをもとの胸ポケットにもどす。また二人だけに戻った生徒指導室という空間は、鉛のように重い雰囲気が再びのしかかって来る。
何事にも飽き性で友達の居ない学校生活。今の男子生徒との会話が、彼女とクラスの人たちとの距離感である。
そしてそれは今日の文化祭において、さらに開いてしまった。
「――聞いてたか? まぁ、お前とクラスのみんなの距離感なんてこんなもんだよ。それもこれも、お前が裏切ったのが原因だけど」
まさに桑澤の言う通りだろう。クラスの出し物として企画されていたクレープ屋。そもそも当日に無断で学校をサボった彼女が、計画されていたシフトに出られる道理はない。
要となるホイップクリームは、当日の朝に彼女が持ってきて職員室の冷蔵庫を借りる予定だったのだ。
「……昔から、こうなんです」
「はぁ?」
何もかも遅すぎたタイミングで、ようやく話すことになる。
「最初はみんなと一緒に気合入れてやるんですけど、途中で全部気が抜けちゃうんです。」
最初からこうすることが出来ていたら、なつ美の人生はどんなに楽だっただろうか。
「そんなの、みんな一緒だろうよ。嫌なことも辛いことも、一生懸命やったから、こんだけ文化祭も盛り上がったんだよ。途中で飽きたなんて言って、抜け出したのお前だけだよ? 我慢してやれよ。常識だろ」
教師の口から放たれる正論。極めて真っ当な意見である。なつ美がどんなに言い訳を重ねても、結局その根底にあるのは 『飽きっぽい』 の一点なのだから、そりゃそうなるだろう。
「子が子なら親も親だね。私も二年前に子どもが産まれたが、お前のようになる教育はしない。指導が入っても同行してこないだなんて……まったく、非常識な親だよ」
どうして私はみんなと違う? どうして私は普通に生きられない?
自分の行いで身を滅ぼした少女の自問が、無意味にどん詰まった心に溶けていく。どんなに問いかけても、答えが返ってくることはない。
ぼちぼち死にたくなってきた折、教師は面倒くさそうに胸ポケットに手を入れる。先ほど話し終わった時、携帯を入れていた場所だ。
「……チッ。まただ」
そう言って耳に撮り出したスマホを寄せる。眉を顰めた顔を元に戻し、先ほどまでなつ美を圧していた雰囲気がまた軽くなる。
だが今度は違ったようだ。スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だったから。
『はいは~い。センセー、落研終わったんで、今から軽音部の発表ですけど、来ます? メンバー一人抜けの型落ちユニットですけど、練習は全員で頑張りましたからね。なはは!』
軽音部。なつ美が今まで練習し、そして本番の土壇場でサボってしまった彼女ら。軽音部の練習は、クラスの出し物を決める段階より、ひと月早く始まっていた。恐らく、準備期間だけで言えば今日一番の被害者だろう。
だが、そんなメンバーの声は、今日会ってきた誰よりも裏表のないものだった。明るく屈託のない声は、まるでなつ美のことなど忘れてしまったように明瞭としている。
「その抜けたメンバーの説教をしてるんだよ。残念だけど、今年は無しかな」
『……』
でも、それが当然でもある。電話の向こう側にいる彼女も、なつ美の行動を予測していたのだろう。それがたとえ、小学校時代からの友人だったのなら猶更。
この友人もなつ美に愛想を尽かして消えるだろう。仕方のない事。理由は全て、なつ美が作ったのだから。
『ですよね~。ったく、連絡くらい寄越せよ。お前が今まで、どんな努力をしてきたのか思い出せよ』
電話の相手は、それだけ言うと先生の返事を待たずにブツリと切ってしまった。いきなり切られた桑澤は、スマホの画面を見つめて訝しんでいる。
今までの努力。
忘れかけていた大切な記憶を、その一言で思い出した。なつ美の意識は、過去へと遡っていく。
***
十年ほど前の、いつのことであっただろうか。蝉の声が煩かったから、夏休みであっただろうことは記憶している。親友との思い出だから、最低でも小学校低学年くらい。
昼下がりの公園に歯切れのよい打音が響いた。
何を打ったのかというと、投げられたボールだ。その日は地域の子ども会での、ソフトボール大会の日だったのだ。
「あ~! また打った! お宅の子、スポーツも得意なの。出来が良いのね!」
「おまけにピアノもやってるんでしょ。何でも出来て羨ましいわ~」
公演の脇では、眺めている母親たちが、子どもについて談笑している。夏場の猛暑のなか彼女たちが肌を出している面積は極めて少ない。
日傘に、帽子にアームカバーの完全装備。日光や紫外線を避けるためにつけたそれらは、揃いもそろって黒一色。日常に潜む異質さは、まるでどこかの宗教勧誘のような雰囲気がある。
和気あいあいと喋っている母親たちは、先ほどから一切目が合わせていない。
「うぅん、そんなことないのよ。この前通ってたピアノ教室は何だか合わなくって。教師の感じが悪くって辞めちゃったの。それを言うなら、お宅の娘さんだって……」
字面だけ見れば普通の会話であるハズなのに、マウント合戦に聞こえてしまうのは卑屈であろうか。
傍から見た黒づくめの集団を木の影から見つめる、一人の少女がいた。スポーツをしている皆の輪に入らず、母親たちの所からも少し離れた人気のないところで、一人でポツンと座っている。
広場を取り囲む植木に思いきり入ってしまっている所でも誰も心配してあげないのは、大人としての配慮か、距離を置かれているからか。
「あらあの子。あんなところに一人で。せっかくの子ども会なんだから、みんなと一緒に遊べばいいのに。あんなところにいたら危ないじゃない」
「気にしなくていいのよ。あの子は昔からあぁなの。なんていうか、感情が希薄って言うの? 親の仲が悪くて、誰に話しかけられても逃げちゃうんだって。うちの子も絡みがなくて良かったわ」
急にそっけなくなった口調は、容赦なく幼き日のなつ美の心を突き刺した。子どもだからって、何にも聞こえてやしないと思ってるのだろうか。
別にやりたくもないソフトボールに同年代の子どもたちが興じているのを、その後もずっと見つめていた。夏が暑い。そんなことしか考えていなかった。
「……」
そんなこんなで、イベントは終わった気がする。
「は~い。運動頑張った良い子たちは、此処から好きなジュース取ってってくださ~い!」
みんなで運動した後に、冷たいジュースが配られた。如何にクーラーボックスと云えど、夏の日差しには勝てず微妙に生ぬるい。けれどもその中から出てきたジュースたちは、汗を流した後の最高の一杯になるだろう。
なつ美はほんの少し頬を緩めて、クーラーボックスに近づいていく。
「え、あの子も取るの? 今日だって何にもしてないじゃん」
「もう、そんなこと言っちゃダメでしょ?」
背後で誰かにそう言われたのが聞こえて、なつ美の足が止める。そう言われると、そんな風に思われていると考えると、急に足がすくんで動けなくなってしまったのである。
そんな子供を窘める母親の声も続けて聞こえてきて、周囲はそれらを茶化す笑いに包まれる。
なつ美を見る人がみんな、ゲラゲラと笑っていた。十年後の文化祭と同じ、自分に責任があるから仕方ないという奴だ。
長く伸びたオレンジ色の影がトボトボ歩く、独りの帰り道。
その時、俯いた視界の隅っこから、女の子が飛び出してきた。自分と同じくらいの年齢の女の子。子ども会だと同級生で行動することが多いから、何となく顔だけは憶えていた。
「んね、なつ美ちゃ。こっちこっち」
「え、だれ?」
顔を覚えているだけで、名前は知らない彼女が、なつ美の小さな手を取った。なつ美の手を引っ張る少女の手は泥んこ塗れで、だけどとても暖かかった。
こういう時になんて言ったらいいのか分からず、されるがままに付いていく。
小学生の短い脚で駆けて行った先は、昔ながらの駄菓子屋さんだった。
表通りを逸れた裏道にポツンと隠れるように建てられた駄菓子屋、軒先で鳴る風鈴の音に、大して長く生きてもいないなつ美の心に、昭和生まれのノスタルジーを宿す。
どうしたらいいのか分からず、お店の前にあった丸椅子に座る。その椅子はとても座り心地が良くて、路地裏を掛ける風が気持ち良かった。絶妙に夏の西日を避ける庇の下で、足をプラプラさせる。
何の時間だ、これは。
「はい、これあげる! あたしのオゴリ!」
その声と同時に、なつ美の首筋に冷たいものが押し当てられ、ひゃ、と声を漏らす。振り返ると、ここにつれてきた少女がサイダーを両手に持っている。
最近だと見なくなった、瓶に入ったサイダーである。
なつ美が疑うような眼で少女を見る。明らかに奢りという言葉を使いたかっただけのようにも見えるが、人からもらったものを口にするなんて、生理的に出来ないし。
ちなみにこのサイダーが本当は奢りではなく、駄菓子屋の御婆ちゃんの優しさだったことを、彼女は知らない。
「い、いらない」
「えー、なんで? 美味しいのに」
怪しんだなつ美が嫌がるの聞いて、少女もまた不満の声を上げる。年相応に肩を揺らして地団駄を踏む少女の手の中で、サイダーがチャポンと鳴らし、なつ美はゴクリと唾をのんだ。彼女の首筋から一筋の汗が伝う。
さっきの子ども会のときも結局ジュースを貰ってない。夏に数時間も外にいれば、何もしていなくても喉くらい乾くだろう。
「だってわたし今日、何もしてないし……」
言った途端にしまった、と思った。
人から貰ったものを生理的に無理なんて言えないし、とりあえず思い浮かんだ適当な言い訳を口にしたのだ。穏便に済ませたいなら、炭酸飲めませんと言っておけばよかったのに。
「んまー。でも、頑張ってたからいいじゃん」
そんななつ美の思いなどつゆ知らず、グイグイと押し付けてくる。今ではもう見なくなった瓶のサイダーは夏場の猛暑に晒されてもまったく温くならず、キンキンに冷えたガラスが気持ちいい。
「え……頑張ってなんかないよ。だって私、いつもみたいに遠くから見てるばっかりで」
「うんうん! 友達になるために話しかけるタイミング伺ってたよね? 人に好かれるために努力した人を、どうしたら嫌いになれるのさ」
それにしたって遠すぎると思うけどね? と付け加えて笑った。ゲラゲラと笑った。
なつ美がしてきた努力。みんなは文化祭や目の前の目的に向かって一丸と頑張るなか、彼女は常に友達になる事ばかり考えてきた。みんなと一緒にやれば、きっと仲は深まるだろうと。
けれど見据えるものが違うから結局、意見の食い違いが出てくる。自分の言葉を反対されて口論になっても、言い返して嫌われるのが嫌で、何も言えなくなる。
結果、お前もういいわとなって、なつ美はいつも一人になっていた。
だけど目の前の彼女は、違う。
どんなに邪険に扱われようと、何度断られようとずっとついて来てくれた。あの日のサイダーの味は忘れない。だって、生まれて初めてできた友達が、私にくれたものだから。
そしてその親友は軽音部の部員として、今も講堂でなつ美を待っている。
『先生、行ってきます』
そう言ったのは回想のなつ美じゃない。現代の、今この瞬間のなつ美である。
***
「は? 行くってどこに。帰るったって、そうはいかない。まだ指導は終わってないんだよ」
座っていた丸椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、そのまま生徒指導室の扉を開けた。桑澤の話を全く聞いていない。
外を見ると、多くの生徒たちが講堂に流れていっている。今ならまだ間に合う。
「……まさかと思うが、軽音部に戻るつもりはないよな? 一度みんなの信頼を裏切ったんだから、もう誰も演奏なんてもう誰も聞いちゃくれないよ? 無駄なんだよ」
言い訳なんて、胸の奥に腐るほど貯め込んである。そんなに聞きたいのなら、たっぷり聞かせてやろうじゃないか。演奏が終わった後で。
「何なんだよ! これだから嫌いなんだ! 不良の相手をするのはさぁ‼」
不良上等。もうピアノ教室のイイ子はいない。大人たちにこうあるべきと押し付けられた価値観は、サイダーの味に比べて美味しくなかった。
今の彼女は、軽音部のロック女子だ。教師の怒声を廊下に置き去りにしたまま、なつ美は行動に向かって駆け出した。
あの日の、サイダーの味。 @puroa
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