氷でお祓い

多聞

 先輩の首筋に汗が伝っている。鋭い日差しが陽炎のように揺らめいていた。茹だってしまいそうな気温のなか、どうしてコンビニなんかに行くのだろう。

「そんなん決まってるやろ。氷で祓うためや」

 先輩は得意気に俺の方を振り返った。

「古来から氷が神聖なものとされてたんは知ってるやろ? 初めてかき氷を食べたのは清少納言らしいから、少なくとも平安時代には氷を食べる習慣があったわけや。じゃあここで問題」

 そう言って先輩は立ち止まる。

「冷凍庫もないその時代、人はどうやって氷を作ってたと思う?」

 講義で習った覚えがある。たしか、凍った川の氷を氷室に置いておくのではなかっただろうか。藁かなにかで包んで。

「さすが歴史学部やな。大体合ってる」

 先輩は嬉しそうに笑った。

「じゃあなんでそんな大変な手間をかけて氷を食べるのか」

 言い置いて歩き出す。たっぷり間をおいてから、先輩は口を開いた。

「それはな、穢れを祓うためや」

 どういうことかと目線で問いかけると、先輩はこちらに身を乗り出した。

「鳥肌が立つ感覚、常軌を逸した冷たさ、迫り来る頭痛! いかにも祓うための食べ物って感じするやろ?」

 俺は首をひねった。氷にそんな力はないはずだ。頷きかねていると先輩は前方を指差した。

「そのためにガリガリちゃんが大量に必要なんや。ほら、見えてきた」

 コンビニの看板に向かって子供のように駆け出す先輩を追いかける。先輩は一体何を祓うつもりなのだろう。


 北大路のアパートに帰ってくると、先輩はガリガリちゃんを冷凍庫に入れた。開けっ放しの窓からぬるい風が漂ってくる。

 先輩は床の漫画を拾い上げると、電気を点けることなく読み始めた。目を悪くしないだろうか。

 そういえば初めて会ったときも暗がりでページをめくっていた。大学の食堂の片隅で妖怪ハンターシリーズを読んでいた姿を思い出す。懐かしい。

「集中できん」

 先輩がしっしと手を振った。失礼しました、と俺は視線を窓に移した。もう空が黒い。遠くに山々のシルエットが見える。

 そのとき、東の方に赤い火が一つ点った。あれはもしかして、と目を凝らす。

「送り火やな。もうそんな時間か」

 いつの間にか先輩が背後に立っていた。

「知ってるか? 町中で大文字焼きって言うたら、その辺の京都人が襲ってくるらしいで」

 嘘をついているときの顔だった。疑いのまなざしを向けると、先輩は不満そうな表情になる。

「お前、全然信じてへんな。試しに大文字焼きって叫んでみ? 路地に引きずり込まれてえらい目に遭うらしいで。まあ、おれは心が広い方の京都人やからな。そんなことせえへんから安心してええよ」

 言って先輩は腕を組んだ。

「そもそも呼び方なんてどうでもいいと思わへん? そんなしょうもないことにぐちぐち文句言うなんてよっぽど暇なんやろな」

 嫌味っぽく先輩は吐き捨てる。

「こんなくだらんこと、止めたらええのに」

 先輩のイベント嫌いは今に始まったことではない。祇園祭に誘っても、時代祭に誘っても、節分祭に誘っても必ず断られた。

「大体、霊を迎えといて勝手に送るっていうのが傲慢やないか? 俺やったら絶対送られたくないわ」

 お前は、と問われた気がして俯く。先輩はしばらく俺を見つめていたが、「ぼちぼち始めよか」と台所に向かった。俺は大文字の火を目に焼き付けてから部屋に入った。

 戻ってきた先輩は両手に大量のガリガリちゃんを抱えていた。テーブルの上に積まれるラムネ味。まさか全部食べるつもりなのだろうか。

「これはな、先に周りのサクサクした部分を食べるのがコツなんや」

 先輩は器用にガリガリちゃんを食べだした。中のガリガリ部分を一気に口に入れ、次の袋に手を伸ばす。腹を壊さないか心配だ。

「大丈夫や。訓練してるから」

 袋を破る手を止めずに先輩は答えた。

「ここ最近は朝昼晩ガリガリちゃんしか食べてなかったからな。ちょっとやそっとの量じゃびくともせえへんわ」

 だからか、と俺はひとりごちる。そういえば最後に会ったときから随分痩せたようだった。頬が少しこけていることに今更気付く。

「ちょっと静かに」

 ぽつぽつと滴が屋根に落ちる音が聞こえた。その音はみるみるうちに大きくなり、屋根を叩き付けるほどになった。

「降ってきたな」と先輩は窓に近づく。濡れるのも構わずに先輩はベランダに出た。山は暗がりに沈んでいる。

 大文字は消えてしまったようだった。「あそこも、あの山も点いてない」と先輩は嬉しそうに身を乗り出していた。

「これでお前を送らずに済むな」

 先輩の目は奇妙に輝いていた。もう中に入りましょうよ、と言ってもその場を動こうとしない。

「氷の力はすごいわ。これでお前はずっとここにいることができる」

 ずっとは無理ですよ、と俺は空を見上げる。雨は小降りになっていた。そんな、と言いたげに先輩は部屋に引き返す。ガリガリちゃんの袋だらけの室内。その片隅から先輩はラジオを拾い上げた。

『ようやく雨が弱まってきたでしょうか。今、大文字保存会の方々によって再び松明に火が点されようとしています。伝統を絶やしてはならない、その一心で懸命な作業が続けられています』

「あほくさ」と吐き捨てると、先輩は玄関に向かった。どうやら氷を買いに行くらしい。これ以上食べると本当に体壊しますよ、と声をかけても無駄なようだった。


 北大路の交差点に人の姿はなかった。雨上がりの大文字山が遠くに見える。そのほとんどに火が点っているのを見ても先輩は何も言わなかった。道の先に現れた妙法、左大文字も微かに明るい。「あとは鳥居形だけか」と先輩は諦めたように呟いた。

「……氷は止めや。お前が消えるか確かめに行こう」


 ショッピングモールの屋上には、ちらほらと人の姿があった。

「今から鳥居形に突撃してこよか」

 捕まりますよ、と俺は先輩をなだめる。「そやな」と先輩は笑って遠くを見た。

「にしても送り火保存会はすごいな。なんであそこまでやるんやろ」

 伝統ですから、と言うと先輩は嫌そうな表情になった。

「そんな理由で何千年も続いてるんやったら大したもんやで」

 それだけじゃないと思いますよ、と俺は口を開く。

 これは仮説ですけど、送り火は亡くなった人を思い出す装置なんだと思います。あれ自体に意味はないと思いますよ。

「……あっそ。さすが歴史学部やな。もうちょっとお前の話聞いといたらよかった」

 また来年帰ってきますから、と俺は一歩踏み出す。遠くで火の爆ぜる音が聞こえたような気がした。

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