6-α 知らざるを知らずとなす
楽しいときにも終わりがあるように、たとえどれほど辛いことがあったとしても、前に進まなければならないときはやって来る。
忌が明けると、学校はもう夏休みに入る時期だった。しかし、あなたにはそれより前に、新たに向き合わなければならないできごとが待っている。
それは、あなたの進路について話し合う三者面談だ。
今年度のあなたは受験生。近頃は突拍子もないできごとに心惑わされているあなただが、目下には高校受験という現実的な問題が立ち塞がっていた。
とはいえ、あなたの進路はもうすでに決まっている。無難に地元の公立高校へ進むつもりようだ。
将来に具体的な展望があるわけではないようだし、同じような生徒のほとんどがその進路を選んでいる。あなたのことだから、あれこれ悩むよりは周囲と足並みをそろえる方が楽だろう。
そうでなくとも、今のあなたにとっては進路どころではないのかもしれないけれども。
母の死は私にとってもつらいできごとではあった。これからもしばらくは、ふとしたときに、ぽっかりと心に穴が空いたような気持ちを味わうことになるのだろう。
しかし、いつまでも落ち込んではいられない、とも思う。幸いなことに、私は亡くなる前の母と言葉を交わすことができていた。たったひとこと――しかし、届くはずのない声を母に伝えられたことが、私にとっての支えになっている。
気がかりなのは、あれ以来、私の声があなたに届かなくなってしまったことだ。魔法がとけてしまったのか、そもそもただの気のせいだったのか。
もしもこの声が聞こえていたのなら、あなたと共に母の死を悼むこともできたかもしれないのに。こんなこと、あなたが私のことを知らなかったときには、考えもしなかっただろうけれども。
何はともあれ、三者面談だ。
しんと静まり返った校舎の誰もいない廊下で、あなたは指定の時間が来るのを待っていた。他の教室でも面談が行なわれているのか、いつもの放課後とは少し違った雰囲気だ。ほどなくして担任の先生が現れると、あなたとはひとことふたこと話をしてから、先に教室へと入って行った。
指定の時間のちょうど五分前。次に現れたのはスーツに身を包んだ姉だ。あらためて見ると、少しやつれているようにも思える。疲れているのだろう。無理もない。
姉はあなたを一瞥すると、ひとことも声をかけずに教室の扉をノックしてしまった。かと思えば、中からの、どうぞ、という声を受けて、姉は早々に中へと入って行く。あなたは慌てて、それに続いた。
三人での話し合いはつつがなく進んだ。事前に記入した進路希望の用紙を見ながら、先生があらためてあなたの意志を確認する。姉の方は、この子にすべて任せていますので、と若干冷淡だ。
先生に、この進路なら今の学力を維持すれば問題ありません、というお墨つきをもらってしまえば、これ以上話すこともない。話題は結局、母のことへと移っていった。
突然のことであったから、先生としても、あなたのことは心配だったのだろう。とはいえ、軽く話せるような内容でもない。
だからというわけではないだろうが、先生はあなたに、大丈夫か? とだけ問いかけた。しかし、そんなことを聞かれたって、大丈夫ですと答える以外にあるだろうか。
面談の時間も終わる頃、先生は最後にこうたずねた。
「他に何か聞いておきたいことは?」
ここで誰も何も言わなければ、話はこれで終わっていたのだろう。しかし意外なことに、今まで口数の少なかったあなたが、そのときふいに、こう切り出した。
「あの、私、何か人の役に立てるようなことがしたいんですけど」
突然のことに、先生だけでなく、姉まで目を見開いている。
私にも、その問いの意味するところがよくわからなかった。何を言っているのだろう。どういう心境の変化だろうか。
「具体的には?」
「何か。とにかく、人の役に立てるようなことです」
曖昧なあなたの答えに、先生も意図をはかりかねているようだ。困ったような表情で首をかしげている。
「人の役に立つ、なあ……例えば、アルバイトをしたいとか?」
あなたはその言葉に、はっとしたような表情を浮かべる。
「そういうことは、考えてなかったんですけど……それもいいかもしれません。私も、その――いずれは自立しなければならないので」
先生はその答えに少しだけ顔をしかめた。
「いろいろと事情がありそうだな。ご家族とは、そういった話は……」
先生はそう言いながら姉にちらりと目配せをしたのだが、姉の方は余計なことを言うなと言わんばかりに鬼の形相になってしまっている。先生はその剣幕にそっと目を逸らした。
「まあ、受験勉強には余裕がありそうだからな。部活には入ってないんだったか。しかし、この時期にアルバイトを始めるのはな……何か打ち込めるようなことが欲しいなら、もっと勉強の気晴らしになるようなことがいいんじゃないか」
「いえ。その、そういうのじゃなくて。何と言いますか。こう、奉仕というか」
あなたは自分のイメージを伝えようとするのだが、それが形にならなかったのか、その先を言い淀んだまま口をつぐんでしまった。まだ考えが固まっているわけではないようだ。
先生もいろいろと思案しているようだが、すぐには思い浮かばないらしい。しかし、しばらくしてから、先生はこう提案した。
「奉仕なら、菅原に相談してみたらどうだ? 友達だったろう?」
「菅原? 憂ちゃ……菅原憂に?」
どうしてだろう。私はあなたと同じように内心で首をかしげていた。
面談の終了予定時刻はとうに過ぎている。これ以上延ばすことはできないのだろう。こちらからも話しておくから、という先生のひとことでその場はお開きになった。
家に帰る道すがら、姉はあなたにこうたずねた。
「さっきのあれ。何?」
あなたはすぐには答えない。しばらくは姉の後ろをついて歩いてから、ふと立ち止まったかと思うと、こう呟いた。
「私、このまま生きていていいのかなって、思っちゃって……」
「はあ?」
頓狂な声を上げながら、姉はあなたの方を振り向いた。辛辣なことでも口にしそうな勢いだったが、あなたの沈んだ顔を目にしたからか、姉はこれ見よがしにため息をつくだけにとどめている。
「まあ、いいけど。進路だって、もう決まってるんだし。あんたの学力なら、そんなもんでしょ」
そう言うと、姉はあなたを残して先に行ってしまった。ちなみに、希望している高校は姉の母校でもあるのだが。
あなたはそんな姉に対して、怒るよりむしろ呆れたような表情を浮かべている。そうして、ひそかにため息をついてから、自分のペースで歩き出した。
夏休みに入った最初の日曜日のこと。
本日の天気は晴天。七月ともなると太陽の日差しはじりじりと焼けるように熱く、当然のように気温の方も高くなる。今はまだ朝も早い時間なので涼しい方なのかもしれないが、これからさらに暑くなるのだと思うと気が重い。
この日、あなたがやって来たのは町の公民館だ。手にした用紙を確認しながら、あなたはそこに記された集合場所へと歩いていた。紙面には大きく太字で、ボランティア、という単語が記されている。
指定の時間までには少し早かったが、周囲にはもう、まばらに人が集まっていた。エントランスではスタッフ然とした人たちが忙しく立ち回っているのが見える。
三者面談があった次の日、菅原憂から嬉しそうに手渡されたのが、このボランティアを案内するリーフレットだった。そこには集合の日時と場所、その他いろいろな注意事項が、こと細かに書き連ねてある。
なるほど。先生が言っていたのはこういうことだったか。しかし、納得したと同時に新たな疑問も湧いてくる――それにしても、どうして彼女が?
どんな服装が適しているだとか、必要なものは何だとか。珍しく真面目な話をする菅原憂に気圧されて、そのときのあなたは素直にうなずくことしかできなかった。どうしてそんなにくわしいのか、たずねることもしていない。意外な展開に、あなたも困惑していたのだろう。
このボランティアには菅原憂も一緒に参加する予定だった。知らない人たちばかりのようだから、あなたにとっては何よりも心強いに違いない。ちなみに、平賀千代も誘いはしたのだが、あたしはパス、とすげなく断られてしまっている。
何はともあれ、そうした経緯であなたはこの日を迎えていた。
昨夜はそわそわとして落ち着かなかったあなただが、当日になってしまえば腹も据わったのか、気持ちにいくらか余裕ができたようだ。なりゆきで参加してしまったようなものだけれども、あなたが何かをしたいと考えているのなら、私は心の中で応援しようと思う。
集合場所に着くと、そこにいた菅原憂がすぐにあなたのことに気がついた。あなたはあからさまにほっとした表情を浮かべている。
しかし、彼女の二の腕にスタッフのものだろう腕章があることに気づくと、あなたは途端に目を見開いた。
「気になることがあるんだけど」
「なあに?」
「よく来るの? こういうボランティア」
あなたの問いかけに、菅原憂は何の屈託もなくうなずいた。
「そうだよ。うちのお母さんがうるさくて。どうしても手伝えってさ。正直言うと、面倒なときもあるんだけどねえ」
なんだ、そういうスタンスなのか。人は見かけによらないものだと思っていたのだが。
菅原憂はにこにこしながらあなたの手を取ると、さっそくスタッフの控え場所まで引き入れた。
「今日は初めてなんだし。気楽にやってくれていいからね」
そんなことまで言い始める。想像していたものと違ったからか、あなたは拍子抜けしたような表情を浮かべていた。
「いいの? そんな感じで」
菅原憂は笑いながらこう返す。
「いいのいいの。どうせ暇な人しか集まってないから。みんなでお散歩しながら、ゴミ拾いするだけだよ」
今日の予定は町の清掃ボランティアだ。
とはいえ、参加者を暇な人と断じてしまうのはどうなのだろう。まさか町の美化にそこまで入れ込んでいる人もいないだろうが、かといって、彼女の発言はいささか気楽すぎるような――
そんなことを思いもするが、当の本人はどこ吹く風。スタッフ用らしき折りたたみ椅子を勝手に持ち出すと、適当な場所に並べ始めた。
「理子ちゃんは何も心配しなくていいから。今日は私が一緒だからね」
集合の時間まで、ここで過ごすつもりだろうか。しかし、菅原憂が目の前の椅子をあなたに勧めた、ちょうどそのとき。遠くの方で誰かが彼女の名を呼んだ。
菅原憂は後ろを振り返ると、その声に向かって不満そうに返事する。それから、あなたにごめんねと断ると、彼女のことを呼んだスタッフの元へと走って行った。
会話の内容は聞こえなかったが、その人に何かを指示されたのか、菅原憂は心底嫌そうに、えーと叫んでいる。そんな反応にも相手は一方的に拝むような仕草をするだけで、すぐさま忙しそうにその場を去ってしまった。
菅原憂は頬を膨らませながら、あなたのいるところへと戻って来る。しかし、あなたを目にした途端、その表情はしゅんと萎れてしまった。おそらく何かしらの役割が与えられたので、あなたとは一緒にいられなくなったのだろう。
申し訳なさそうに縮こまっている菅原憂に向かって、あなたは苦笑いを浮かべながらこう言った。
「私はひとりでも大丈夫だから。行っておいでよ」
ごめんね、と再び謝る彼女を見送って、あなたはその場にひとり残された。
こうなってしまうと、いつまでもスタッフの控え場所に居座っているわけにもいかない。あなたはひとまず、参加者らしき人たちが集まっているところへ向かうことにしたようだ。
受付をすませて、しばらくその場で待っていると、そのうちスタッフによる説明が始まった。その後は適当なグループに振り分けられる。お年寄りか、大学生くらいの人が多いだろうか。
やがて開始の時間になると、ばらばらと人々が動き始めた。おのおのゴミ袋と挟みを持ちながら、商店街を中心にグループごとに町を回って行く。
年が近いからか、元から知り合いだったのか、他の人たちはすぐに打ち解けていったようだ。周りが和気藹々としているのに、あなたはひとり黙々と作業を続けている。
今さらになって菅原憂のありがたさに気づいたところで、突然グループ内がさわがしくなった。何だかよくわからないが、揉めているらしい。
さわぎの中心に近づいて様子をうかがっていると、だいたいの事情がつかめてくる。どうやらゴミの分別で言い争っているようだ。
初めての参加だからか、それとも年が若いせいか、ここでのあなたの存在感はないに等しい。あなたはどうすることもできず、困ったような表情を浮かべて、他の人と同じようにその争いを取り巻いている。
それならば、もういっそのこと周りのことは気にせず自分の仕事にだけ集中すればいいとも思うのだが、あなたはそれもできないらしい。こういうとき、スタッフが近くにいたならば仲裁を頼むこともできたのだろうけれども、タイミング悪く、辺りに腕章をつけた人は見当たらなかった。
あなたがそうしてまごまごしているうちに、どこからともなく女性がひとり近づいて来た。同じグループだったような気もするが、すぐにどこかへ行って姿が見えなくなった人だ。
「何か揉めてるねえ」
今になってひょっこりと現れて、どこか呑気に話しかけてくるものだから、あなたは唖然とした表情を浮かべている。
年の頃は三十代くらいだろうか。ボランティアには慣れているようだけれど、どこか飄々としているからか、あなたとは違った意味で浮いている。
それでも、この人はあなたよりは年長者だろう。ある意味では渡りに船。そう思ったかどうかは知らないが、あなたはその人にこう話し始めた。
「その……燃やすゴミと燃やさないゴミの分別らしいんですが、規則ではもっと細かく分別しなくちゃダメらしくて。それで、そんな説明は受けてないって人と、そんなの常識だって怒っている人がいて、それでさわぎが大きくなってるみたいなんです」
「そんなの適当にやっとけばいいのに」
あなたの説明は、そのひとことでばっさりと切り捨てられてしまった。
あなたはぽかんと口を開けているが、相手は気にする様子もない。やれやれとぼやきながら、揉めている人たちの方へと近づいて行く。かと思えば、いったい何と声をかけたのやら、あっさりとその場を収めてしまった。
集まっていた人たちも、おのおの持ち場に戻って行く。女性が戻って来たので、あなたはほっとしたように声をかけた。
「よかった。解決したんですね」
「うん。よくわかんなかったけど、適当に言っといた」
適当に言っといた?
不安になるような発言だったけれども、争いが収まったなら、それを蒸し返すわけにもいかない。そう思ったかどうかは知らないが、あなたはそれ以上追及しなかった。
そのあとは、なりゆきでその女性と一緒に作業することになる。何でもない世間話をぽつりぽつりと話したくらいだが。それからは大きなトラブルが起こることもなく、終了の時刻になるまで、そうして街中を歩き回った。
しかし、公民館に戻りゴミを回収するという段になって、再び問題が持ち上がる。
「あれ? これ、ちゃんと指示どおり分別できてないですよ?」
スタッフのひとことに、すぐに周囲がざわついた。やっぱりそうじゃないか、と鬼の首を取ったようにさわぎ出す人もいる。
そのうち、ひとりがこう訴え出した。
「でもあの人が、それで問題ないって……」
視線を集めたのは件の女性だ。スタッフは呆れたような顔で彼女へと詰め寄った。
「適当なこと言わないでくださいよ。四月から規則が変わったって、始まる前に説明したじゃないですか」
「あれ? そうだっけ。ごめんごめん」
あの人だけが責められていて、何だか貧乏くじを引いてしまったようだ。スタッフの注意を聞いていなかったのは他の人も同じなのに。かく言う私も覚えていなかったのだけれど。
「ちゃんと説明書きにも書いて……ないですね」
周囲の人たちも一緒に確認するが、配られた案内には確かにその件については書かれていなかった。おそらく改定以前の説明が流用されたまま、変わっていなかったのだろう。
「すみません。こちらにも不手際があったようなので、今回はこれで大丈夫です。ありがとうございました」
そんな感じで有耶無耶になってしまった。参加者も疲れているのか、それ以上文句を言う人もいない。
あなたは釈然としない顔だが、だからといって何ができるわけでもない。帰って行く人の波に逆らって、スタッフが集まっているところへと足を向けた。
ゴミ袋が集められた場所で、あなたは菅原憂の姿を見つける。彼女はそこで袋の中身をあらためてはゴミを分別し直しているようだ。
「ごめんね。憂ちゃん。私のいたグループが間違ってたみたいで……」
あなたがそう声をかけると、菅原憂はすぐさま顔を上げた。
「あ。理子ちゃん。こっちこそ。一緒に行こうって言ってたのに。分別のことなら、いつものことだから気にしなくていいよ。どうせ最後には確認しなくちゃならないんだし」
「そうなの?」
驚いた顔であなたがそう返すと、菅原憂は苦笑しながらこう言った。
「そうなの。みんなけっこう適当だから。真面目にやってる人でも、間違いや勘違いはあるし。ひとりひとりに注意できればいいんだろうけど、それはそれで大変でしょ。だから、気づいたときに直せれば、それでいいの」
菅原憂の言葉に、あなたは何かを考え込みながら、ぽつりとこう呟いた。
「そうなんだ。でも、気づいたときには、ちゃんと直さなきゃダメだよね……」
そのとき、ふいに誰かが近づいて来た。
「お。憂ちゃんじゃない。なあんだ。ふたりはお友だち?」
そう言って、よいしょ、と近くのゴミ袋を手に取ったのは、例のさわぎを収めた女性だった。菅原憂は彼女に向かってこう声をかける。
「あれ? アトリさん来てたんだ」
どうやらこの二人、知り合いだったらしい。
スタッフでもないだろうに、アトリと呼ばれた女性がゴミの分別を始めたので、あなたもそれを手伝うことにしたようだ。そして、彼女のことをちらりと見ると、おずおずとこう話しかける。
「その、大丈夫でしたか? あのあと、誰かに責められたりとか……」
「ん? 大丈夫、大丈夫。心配性だねえ」
彼女が明るくそう答えるので、あなたは拍子抜けしたような表情を浮かべている。責められたことなど、少しも気にしていないようだ。
そのうち他の仕事を終えたスタッフもぞくぞくと集まって来て、ゴミはみるみるうちに仕分けされていった。最後のひとつを確認し終えると、あなたはその作業からようやく解放される。
うーんと背伸びをしてから、アトリがふいにこう言った。
「しかし、ねえ……そうか。憂ちゃんのお友だちだったか。それなら、人生の先輩が若人の働きを労って上げましょうかね。ふたりとも、このあとは空いてる?」
突然の問いかけに、あなたと菅原憂はふたりそろって顔を見合わせた。
ボランティアが終わった後、三人が向かったのは近所の喫茶店だった。
古めかしい雰囲気の小さな喫茶店だ。あなたは数日前に、とある人物と会うためここを訪れているが、そのせいであまりいい思い出はないだろう。しかし、このときは菅原憂のたっての希望で、ここに来ることになってしまった。
「この店のパフェ有名なんだよ。雑誌にも紹介されてるし。こういうレトロな感じのお店が今は流行ってるんだって」
「…………そうなんだ」
わずかに顔をしかめたあなたが何を思ったのか、何となくわかるような気もするけれども、今は忘れた方がいいと思う。
あなたと菅原憂はそれぞれにパフェを、アトリはアイスコーヒーを注文する。ひと息ついたところで、アトリがこう切り出した。
「それにしても若い身空で珍しいねえ。どうして参加しようと思ったの?」
おしぼりで手を拭きながら、アトリはそんなことを明け透けにたずねてくる。当然、初めてボランティアに参加したあなたに対してだろう。
あなたはためらった末にこう答えた。
「私はせめて、何か社会の役に立つことをしなければならないと思ったんです」
アトリと菅原憂は、きょとんとした表情であなたのことを見つめている。自分の答えに自信がなくなったのか、あなたは話を逸らすようにこう問い返した。
「えーと……アトリさん、の方は?」
「私? 私はそんなたいそうな理由はないなあ。あえて言うなら、いろいろな人を見てみたいから、かな。人間観察が趣味なもので」
人間観察? ボランティアの参加理由としては、少々不謹慎な気もする。
菅原憂といい、この人といい、ボランティアに参加する人って、けっこうひねくれていたりするのだろうか。それとも、このふたりが特殊なのか。
その辺りのことはあなたも何かしら思うところがあるのか、彼女の答えに対して戸惑ったような顔をしている。
そのとき、テーブルに注文の品が運ばれてきた。いろいろなフルーツが盛られたパフェを前にして、菅原憂は喜びの声を上げている。しかし、あなたはどこか心ここにあらずといった感じだ。
そんな様子が気になったのか、アトリはコーヒーにミルクだけ入れながら、あなたのことをじっと見つめていた。視線に気づいて、あなたは取り繕うように笑う。
「ボランティアに参加するような人って、みんな誰かのために何かをしたいって思っているものだと思ってました。何て言うんでしょう。こんな言い方でいいのかわからないんですけど、もっとこう、いい人っていうか」
あなたのそんな言葉に、向き合ったふたりは顔を見合わせて、どうかな、どうだろう、などと言い合っている。
「まあ、いろいろな人が来るからね。今日みたいなトラブルなんかも、たまに起きたりするし。大抵は平和なんだけど」
アトリは苦笑しながらそう言った。アイスコーヒーを飲んでから、さらにこう続ける。
「でも、これはボランティアに限った話じゃないから。人が集まるところってひとりやふたり、変わった人はいるものだよ。良くも悪くも」
グラスのふちまで氷が入れられたコーヒーを、手にしたストローでぐるぐると無意味に回しながら、おそらく、その変わった人のひとりであるアトリはそう言った。菅原憂もパフェを食べながら、うんうんと相槌を打っている。
あなたはそんな二人のことを複雑な表情で見返した。彼女たち自身は、自分が変わっているという自覚はあまりなさそうだ。
「私は、その……そう。進路で悩んでいて。私が誰かのために役に立てることって何だろうって考えて、それで参加することにしたんです」
そんな風に、あなたは自分がボランティアに参加した理由を言い直した。
「でも、これも結局、自分のためだったのかもしれません。私がそんな風に思っていたってことは、私もただ、いい人って思われたかっただけなのかも」
あなたはパフェに乗ったアイスが溶け始めているのを見て、ようやくそれに手をつけた。アトリはあなたのことをじっと見つめながら、こう話し出す。
「まあ、それはそれでいいんじゃないかな。何も悪いことしているわけじゃないんだし。誰だって自分が一番大事でしょ」
さらりと放たれたアトリの言葉に、あなたはすぐさまこう返した。
「そうでしょうか」
アトリは深々とうなずいている。
「要は考え方次第だよ。自分をどこまで広げていけるかっていう」
「自分を広げていく?」
「そう。自分にとって自分は一番大事な存在。それは大前提。だって、自分は世界の中心なんだから」
「それは……」
どうなのだろう。ともすれば、自己中心的だと思われそうな発言だが、アトリはそんなことは気にしていないかのように平然としている。
「当然でしょう? そもそも私という存在がいなければ、今ここで、こうして話している私はないんだから。他の誰かの役に立つこともできない。自分は大事。すべてのことは自分のため。それでいいのよ。その上で、自分が大事なら、例えば家族は大事だって思うことにもなる。もちろん、友だちも大事。何だったら、みんなが住んでいるこの町が大事。そうしたら、この世界が大事ってことになるでしょう」
「最後はずいぶん大きく出ましたね」
あなたが笑うと、アトリもにやりと笑い返した。
「他人のためっていうのは、結局は自分のためでもあるのよ」
「情けは人のためならず、ってやつだね」
菅原憂が得意げに、そう口を挟む。
彼女たちの話に耳を傾けながら、私はいろいろなことを考えていた。
残念なことに、今の私は世界とのつながりが途切れてしまっている。もうこれ以上、広げることはできない。
とはいえ、周囲から隔たれてここにいることは、ある意味ではとても安定しているのかもしれなかった。その代わり、少し退屈ではあるけれど。
誰かの役に立つってどういうことだろう。あなたはどうしてそれを望むのか。もしも、それがここにいる私のためなのだとしたら、ちょっとズレてるなあと思わないではない。
あなたには、私と違って広い世界がある。あなたはこれから、どうやって自分を広げていくつもりなのだろう。
「よくわかんないけど、今日は理子ちゃんが来てくれて、私うれしかったんだ」
菅原憂がパフェを食べ終えると、内緒話でもするかのようにそう言った。そして、珍しく苦笑いを浮かべながら、こう続ける。
「小学校の頃にさあ。クラスメイトにバレて、馬鹿にされたんだよね」
「馬鹿にする? 何を?」
あなたがきょとんとして問い返すと、菅原憂は声を上げて笑った。
「ボランティアだよ。昔から、お母さんにはいろいろなところに連れ回されてて。それでなんかさ、いい子ぶってるとか。陰口をたまたま聞いちゃって」
あなたが驚いて何も言えずにいると、菅原憂はさらにこう続けた。
「私はお母さんみたいにボランティアに命かけてるようなことはないんだけど。それでも、それ自体はそんなに嫌いじゃないんだよね。いろいろな人に会えるし、いろいろなことができるし。だから、そうしている私のことを笑われたのは、ものすごく嫌だった」
彼女のそんな告白に、あなたは戸惑ったような顔をしている。そんな様子を見て、菅原憂はいたずらっぽくほほ笑んだ。
「そんなことがあったから、理子ちゃんにもひらっちょにも、ボランティアのことは話してなかったんだ。でも、理子ちゃんが興味を持ってくれて、私うれしくって……今日は来てくれて、ありがとうね。そのことを伝えておきたかったの」
くるくる変わっていく彼女の表情を見ながら、私はあなたと同じように、今まで知らなかった彼女の内面に驚いていた。
あなたは少し自信なさげに、こう問いかける。
「でも、このボランティアに参加したのは、単に私のためってだけなのかもしれないよ?」
「それでいいんだよ。無理につき合いで参加してもらうより、全然いいって」
そう言って、菅原憂は楽しそうに笑っている。
「せっかくだから、理子ちゃんの話も聞きたいなあ。理子ちゃんって、休みの日とか何してたの?」
菅原憂が何気なくそうたずねると、あなたは難しい顔で黙り込んでしまった。
彼女の問いに対する答えはわかっている。しかし、今はそれを答えるような心持ちにはなれないのだろう。
あなたはずっと、時間があれば母の元を訪れていたからだ。しかし、今はもうそうする必要もない。
「私、何してたかな。何だろう。今はちょっと、思い出せないかも」
「ふーん? じゃあ、思い出したら聞かせてね」
菅原憂の言葉に、あなたは、いつかきっと、とうなずき返した。
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