5-β 閑古鳥のヒナ

 私はどうして私なのだろう。あなたでも、彼でも、彼女でもなく。

 いつからか、私はそんなことを考えるようになっていた。本当のことは何もわからず、自分のことすら信じられないこの状況では、何もかもが――それは、私という存在ですら――確かなものとは思われなかったからだ。

 もしも私というものが、本来あるはずの誰かを押し退けてここにいるのだとしたら、本当の私はいったいどこにあるのだろう。

 今ここにある私は、ここにあるはずだとして寄り集められた幻にすぎない。そんな不確かなものでしかない私の存在は、確かに在ると言えるのだろうか。

 ――――

 私にはわからなかった。拠りどころにできるような何かもない。すべては偽り。家族も過去も記憶も。私自身ですら。

 私の中にいるはずの、本当の私であったはずのあなたは、そのことをどう思っているのだろうか。

 私とあなたが入れ替わった、その始まりの地である石垣に立ち寄ったとき、危ないよ、というひとことが聞こえたきり、あなたの声は聞こえなくなった。ためしに心の中で呼びかけてもみたのだが、声が返ってきたことは一度もない。

 怒っているのだろうか。しかし、それも仕方がないかもしれない。知らなかったとはいえ、私はあなたの何もかもを奪いここにいるのだから。

 あなたの心情を推しはかりながら、私はそんなことを考える。

 私はどうして私なのだろう。私はあなたでも、彼でも、彼女でもない。そのことが、とてつもなく恐ろしいことのように思われた。

 私は確かにこうしてここにいるが、ここにいるのは本当ならばあなたの方だったはず。

 それでも、何も知らない私にその異変をどうにかする術はなく、こんな不安定でよくわからない存在として、私は私でいるしかない。

 だから私は――



 通夜に葬儀にと周囲が慌ただしく動いている中にありながら、私はそこから遠い場所にいるかのように静かな時を過ごしていた。

 父と姉はいろいろと取り仕切るのに忙しそうで、私とは話している暇もない。そんな中で私が唯一負った役目というのが姪のお守だ。

 私は姪の望むがままにお絵かきやらおままごとやらにつき合っていたのだが、こちらが上の空だとわかるのか、小瑠璃はすぐに飽きてしまう。仕方なく私の本をいくつか持ち出すと、その中にあった星空の写真集がお気に召したようで、それを見て小瑠璃はひとり大人しくしていた。

 何をするでもなくぼうっとしていると、すべてが夢のように思えてくる。

 いや、違う。今起こっているできごとに現実感がないわけではない。そう思ってしまうのは、結局のところ、私自身が考えることを拒否してしまっているからだ。

 これが現実だと思いたくはなかった。まさか、こんなにも唐突にすべてが失われてしまうなんて思ってもいなかったから。

 もはや目覚めることのない母を家族で取り囲んだときも、その後に執り行われた通夜や、さっきまでの葬儀の場でだって、私は何も考えず、ただ言われたことだけをこなしていた。今もまだ、無情に過ぎていく時間を前にして、私は姪にかまうことすらしていない。

 そんなことを考えていると、小瑠璃がふいにこう問いかけた。

「ねえ、りこちゃん。おばあちゃんどうしたの?」

 私は言葉を失った。何と答えればいいか、わからなかったからだ。

 今の私には、幼い子どもに死の概念を伝えられるほど心に余裕があるわけではない。ましてや、これは母の死で――その事実は私にとっても、どうして、と問いたくなるほどに受け止めがたいものだった。

 私が何も言えないでいると、小瑠璃はけげんな顔をしながらも、特にこだわることなく目の前の本へと視線を戻してしまう。

 姪の素っ気ない反応を、私は少しだけ残酷だと思ってしまった。こんなとき、小瑠璃とは悲しみを共有することもできないのか、と。

 子供は無邪気だ。無知ゆえの無邪気。それはときに、思いがけない形で人を傷つける。

 姉の呼ぶ声がしたので、私は小瑠璃の手を引いて部屋を出た。どこへ行くの? と首をかしげながらついて来る姪のもう片方の手には、ちゃっかりと私が渡した本が抱えられている。

 指示されたとおりに、私たちは義兄の車へと乗り込んだ。車はこれから火葬場へ向かうらしい。義兄が気をつかって何度か声をかけてくれたけれども、私はろくに返事もできなかった。

 車はやがて目的地へと到着したが、施設には思っていたよりも人の姿が多くにぎやかだ。こういう場所だから、もっと静かなものだと思い込んでいたから、私は何だか落ち着かない。

 それでも時間は刻々と流れていき、やがて母との最後の別れのときはやって来た。

 読経と焼香が終わると、同じく棺を取り囲んだ家族と共に、私はそこに収まった亡骸をあらためてのぞき込んだ。そこにあったのは穏やかな母の顔。

 そうして、棺がいよいよ炉に入れられるときになってからようやく、私は母がいなくなったことを実感した。

 ――ごめんなさい。お母さん。私はあなたの本当の娘ではないのです。いつの間にか、この体の中に住みついた、自分でもなんだかよくわからないものなのです。

 そんなことを、声には出さずに、ただ心の中でだけ考えていた。

 人に聞かれたなら、きっと笑われてしまうに違いない。あるいは、頭がおかしくなったとでも思われるだろうか。

 それでも私は悔いていた。私はあのとき、どうして母にそのことを伝えなかったのだろうか、と。だって、今となってはもう、どんな言葉も伝えることはできない。これからも、ずっと。

 とはいえ、こんな馬鹿げたことを考えてしまうのも、今さらそんなことは不可能だとわかっているからだ。もしも、今の私があの日あのときに戻れたとしても、このことを告げられたとは思えない。

 閉じられた棺を見送ってから、また長くも思える時を待った。そうして指定の時間になってから、再び炉の前に集まる。

 そこにあったのは、白い骨と灰になった母の姿だ。係の人から拾骨の箸を渡されるけれども、私はおろおろとするばかりで、小さな骨をひとつ拾うのがやっとだった。

 どうして、私はここにいるのだろうか。何も知らないふりをして。まるで、本当の家族であるかのように。

 そう思った途端、自分の足元が音を立てて崩れていくような気がした。

 無知は人を傷つける。

 私は何も知らなかった。何も知らずに私が傷つけてきたもの。それは亡くなった母や家族なのではないだろうか。

 今からでも、私が知ったことを明かすべきなのかもしれない。そんなことを考えもするのだが、それでも私は、父や姉にそのことを話す気にはなれないでいた。

 話してしまえばきっと、私の居場所はなくなってしまうから。

 今の私には、その重みに耐えることはできない。ただでさえ、母の死という現実が重くのしかかっているのに。

 そんな自分本位のことばかり考えていることに気づいて、私は私というものに失望してもいた。結局はすべてを打ち明けるという考えも、単に自分が楽になりたいだけなのかもしれない。

 すべてが終わった後、骨壺に収まった母を渡された私は、それを抱えて帰宅した。

 その日の夜。いろいろな考えが頭の中を巡り、私はなかなか寝つけなかった。それだけならまだしも、どうにも気分がすぐれない。

 こんなことが、いつまで続くのだろうか。

 この秘密を抱えている限り、ずっと?

 ふと、誰かに話さなければならないと思った。こんな気持ちを、私ひとりで抱え込むことはできない。今の私にはすべてを吐き出せる相手が必要だ。

 ――でも、誰に?

 真夜中に鞄の中をかき回して折れ曲がった名刺を見つけ出すと、私は大きくため息をついた。




 待ち合わせに指定されたのは小さな喫茶店だった。

 看板が出ているから営業はしているのだろうけれども、いざ入ろうとするとためらってしまうような、そんな目立たない店だ。中学生には少し場違いな気もするが、ここならクラスメイトに見られる可能性は低いだろうから、そういう点では安心かもしれない。

 私は恐る恐る店の扉に手をかけた。

 開かれた店内は薄暗く、流れている音楽はゆったりとして穏やかだ。外観がそうであるように、内装やそこにある調度品もずいぶんと古めかしい。どこか重々しい空気の中、室内に満ちた濃いコーヒーの香りに圧倒されながらも、私は待ち合わせの人物を探して周囲を見渡した。

 カウンター席で新聞を読んでいる老人が一人。明るい窓側の席でおしゃべりをしている年配の女性が二人。目当ての人物は、店の奥まったところにある席にいた。

 突飛な発想と共に、私の思考を散々に引っかき回してくれた人物――鳩村翼。

 葬儀があった次の日、私は彼に電話をした。相談したいことがあると伝えると、こちらの都合に合わせてすぐに決まる。そうして指定されたのが、この場所だ。

 鳩村はこの日もまた、初めて会ったときと同じ服装だった。黒のスーツに大きなビジネスバッグ。他所よそから来ているようなことを言っていたが、ちゃんと着替えているのだろうか。

 そんな余計なことを心配しながらも、私は彼の方へと近づいた。しかし、そこにあるものに気づいた私は、この場に来たことをひどく後悔することになる。

「おや。思ったよりもお早いお越しでしたね」

 このまま逃げてしまおうか、と考えていた矢先に気づかれてしまった。仕方がないので、私は平静を装いながら向かいの席へと座る。

 しかし、視線はどうしてもそこにあるものに釘づけになった。イチゴがたくさん盛りつけてある大きなパフェに。

 店員がやって来たので、私はアイスティーを注文する。その間にも、目の前の男は一心にアイスクリームやイチゴを自分の口へと運んでいた。

 成人男性が中学生の前でひとりパフェをむさぼっている。どういう状況だ。

 器から落ちそうになっていたアイスクリームをひとまず始末すると、鳩村は私に向かってようやくこうたずねた。

「で、ご用件はなんでしょう? 恋愛相談? それとも進路相談?」

「どうしてそうなるんです」

 私は苛立ちを隠すこともなくそう言った。

 本当に、どうしてこんなところに来てしまったのだろうか。私は内心で大きくため息をつく。

 そうでなくとも、今の私の中にある混乱は、そもそもの始まりからして、無責任に話したいことだけを話して去って行った、この男のせいではないか。そう思うと、さらに苛立ちが増してしまった。

「どうして私のことを放っておくんですか。私が普通の人ではないと知っているなら、無理にでも調べればいいじゃないですか。もしかしたら、危険かもしれないでしょう? 害があるとわかってからじゃ、遅いんじゃないですか」

 そんな八つ当たりのようなことを、私は一方的にまくし立てた。

「何ですか? 人生相談ですか?」

 私の形相に気圧されて、鳩村は大きく目を見開いている。彼は右手に持ったスプーンをゆらゆらと揺らしながら、しばらくうーんとうめいていたが、そのうち、あらたまったように姿勢を正すと、こう話し始めた。

「言ったじゃないですか。そんなあやしげな研究施設なんてないんですよ。そうでなくとも、私は別に、あなたについて害だの何だのといった心配はしていません。あなたが故意に何かをしたわけではなさそうですし、今のあなたにこれ以上の危険があるとも思えませんし。そう焦らなくてもいいと思いますけどね」

 私は釈然としないまま黙り込んだ。鳩村はこれ幸いと、もりもりとパフェを貪り始める。

 そうしているうちにも注文したアイスティーが運ばれてきたが、私はそれに手をつける気にはなれなかった。パフェを粗方平らげてから、さすがにこれで終わるわけにはいかないと思ったのか、鳩村はこう問いかける。

「あなたは、カッコウをご存知ですか?」

 突然のことに、私は思わず首をかしげてしまった。

「かっこーかっこーって鳴くやつです。鳥のカッコウですよ。閑古鳥かんこどりとも呼ばれますね。カッコウはまったく違う種類の鳥の巣に卵を産みます。生まれたヒナは早くに孵化して周囲にある卵を落としてしまう。そうやって別の鳥に子育てをさせるんです」

 それが何を示しているのかは、私にもすぐにわかった。

 私はカッコウのヒナだ。無遠慮に他人の巣に入り込んで、ヒナを落として成り代わった。確かに存在したひとりの少女を、無意識にせよ何にせよ、表から消してしまったのはこの私だというのだろう。

 とはいえ、鳩村は何を考えてそんな話を持ち出したのだろうか。私は恐る恐るこうたずねた。

「……どうしてそんな話を? 私がカッコウのように残酷なことをしているということを言いたいんですか?」

 鳩村は肩をすくめてこう答える。

「カッコウは、別にあやしげな研究施設に隔離などされてはいませんよ。他の生物の生態を人の基準に当てはめるなんてナンセンスです。カッコウの話をしたのは、あなたを見ていて、ふと思い出したからでして。カッコウはね。ただそうあるだけなんです。ですから、あなたも鷹揚にかまえていればいい。自然の中にあるものは可能な限りそのままにしておく、というのがうちの方針でもありますから」

 私が釈然としていないことに気づいたのか、鳩村はこう続ける。

「もちろん。何か困ったことがあるなら、こちらもできる限りのご協力はいたしますよ。うちはそういったことには慣れていますので」

 そういえば、この男はそもそも消えたテンコウさまを調べるということで、この町にやって来たのだった。どうしてそんな話がこの男にもたらされたのかは知らないが、宮司からの依頼だと言うし、唐突に応声虫など持ち出すし、とにかくこの人が常識外れだということだけはよくわかる。

 とはいえ、そんな鳩村に問題ないとお墨つきをもらったところで、納得などできるはずもなかった。

 確かに、カッコウであれば、生まれたばかりのヒナが他の鳥の卵を落としたとしても、生物の生存本能という話で済むのだろう。しかし、私の存在はそう単純なものではないはずだ。

 そう思って、私はこう言い返した。

「私はカッコウとは違います。私は――私のことすらわかっていません。今このときにでも、私はあなたの体を乗っ取ってしまうかもしれませんよ」

 私がそう言うと、鳩村はおもしろそうに瞳を輝かせた。私がうろんな目で見返すと、鳩村は苦笑する。

「それはそれで、おもしろそうですけどね。できないんでしょう? まあ、そうなったとしても、そのときはそのときですよ」

 鳩村はそんな無責任なことを言う。私はむっとしてこう言い返した。

「あなたは、こんな得体の知れないものを野放しにしておけるんですか? 世間に公表するとか――専門外かもしれませけど、私はある意味、あなたの探している新しい未知の生きものではあるんでしょう?」

 鳩村はけげんな顔をする。

「世間に公表? 何を公表するんですか。まだ何も調べていないのに」

 そう言ってから、彼は珍しく困ったような表情を浮かべると、こう続けた。

「しかし、お若いですねえ。世の中、わからないものはわからないものとして、棚に上げておくのも、ひとつの手ですよ?」

 調子のいい彼の発言に、私は思わずむっとする。

 そんなことが言えるのは、きっと彼が当事者ではないからだ。彼は私の中にある声を聞いてはいない。あまつさえ虫だと思っていたのだから、それを哀れむということもないだろう。

 無知は人を傷つける。しかし、彼の場合はおそらく無知でも無邪気でもなく無神経なのだ。

 私は思わずこう言った。

「それでも私は、あのとき母に語りかけたあの声を、そのままにしていいとは思えないんです」

 母と最後に言葉を交わしたとき、確かに聞こえた声のことを思い出す。

 彼女の存在が心の通わない空虚なものだとは思えない。だとすれば、彼女はきっとまだここにいるはず。

 そのとき私はふと気づいた。考えることが多すぎて、自分のことばかりになってしまっていたが、この状況で何より気づかうべきは彼女の方ではないだろうか、と。

 どれだけ後悔したとしても、過去は変えられない。今の私にできることは、私の中にまだいるかもしれない彼女を、本来あるべき形に戻すことなのかもしれない。たとえ、そうすることで私が消えてしまったのだとしても。

 とはいえ、どうすればいいかについては、見当もつかないのだけれども。

 何にせよ、知ってしまったからには、何も知らなかった頃の自分に戻ることはできない。鳩村の目を見据えると、私はあらためてこう切り出した。

「このまま何も知らないふりをして生きていくなんて、私にはできません。ですから、家族にだけでも、このことを話しておいた方がいいと思うんです」

 鳩村はどこか呆れたような声でこう言った。

「なるほど。相談というのは、それですか? いいじゃないですか。話さなくても。今のところ、どうにもできないことなんですから。黙っていることが悪だとしても、どうしてすべてを明らかにすることが良いことだと思われるんです? とかく人は秘密を知りたがり、話したがるものかもしれませんが、秘密を知れば幸せになれるというものでもないでしょう」

 私はすぐさま、こう言い返した。

「でも、それって――無責任じゃないでしょうか。真実を知っているのに、それを隠しているというのは」

 鳩村はやれやれと肩をすくめながらも、諭すように問い返した。

「真実だからと言って、何も考えずに話してしまうのは無責任ではないのですか?」

 この男がそれを言っても何の説得力もないのだが。それでも言っていること自体には一理あると思ってしまったので、私は何も言い返せなかった。

 何だか、うまくやり込められているような気もする。今さらながら、私は彼に会いに来たことを後悔し始めていた。

 また後悔だ。後悔ばかり。これだと決めたときには、それ以外にはないと思っていたことも、いざ現実に直面してみれば、どうしてあのときああしなかったのだろう、他に方法があったのではないか、と思い悩んでばかりいる。

 黙り込んでしまった私を前にして、鳩村は平然とこう話した。

「誰かに打ち明けることについて、私は止めはしませんよ。まあ、納得させられるかどうかはあなた次第ですけどね。私が言うもの何ですけど、このことを信じてもらうのは骨だと思いますが。何の確証もないわけですし。私に説明しろ、と言われてもお断りしますからね。変人扱いされるのがオチだ」

 彼自身、自分の言動がおかしいという自覚はあるらしい。こちらとしても、この男の言うことを信じてもいいのか、というところからして疑問ではあるのだが。

 私は段々と腹が立ってきた。

 とはいえ、この苛立ちが目の前の相手に伝わっている気はしない。案の定、鳩村は呑気にパフェの器をのぞき込んでいる。

 そうして他人ごとのように振るまっているが、そもそもの話、すべてはこの男が言い出したことが始まりではないか。専門外だか何だか知らないが、当初は調べるだの何だのと息巻いていたくせに。

 そう考えたそのとき、ふとあることが気になった。

「もしも――私の中にいたのが、応声虫だったなら、あなたはどうしていたんですか?」

 鳩村は虚をつかれたような顔をしてから、こう答えた。

「そうですね。まずは観察するところからでしょうか。仮にそれがテンコウさまであったのなら、予知の方も気になりますし。それから、千年以上同一の個体だったのかとか、あるいは世代交代があったのかとか、あったなら、どんな風に――例えばプラナリアのように分裂したのかとか。いろいろと知りたいですね」

 そんな風に話をする鳩村は何だか楽しそうだった。やはり変わった人なんだな、と私はあらためて思う。

「それから、できれば捕まえたかったですねえ。まあ、応声虫なら、体から追い出すことはそれほど難しくないでしょう。特効薬がありますから」

 鳩村の言葉を聞き咎めて、私は思わず問い返した。

「特効薬?」

 鳩村は何の衒いもなくうなずいた。

雷丸らいがんと申しまして。材料は竹に寄生するキノコの一種です。あなたに効くとは思えませんが」

「そう――でしょうか。ためしてみなければ、わからないのでは?」

 本来あるべき形に戻すために、今の私はどんな可能性も見過ごすわけにはいかない。

 しかし、鳩村は苦笑した。

「どうでしょうね。あれは別に、魔法の薬などではないですよ。ただの漢方薬です。ましてや、あなたは未知の知的生命体でしょうし、普通の薬で対処できるとは思えませんが――ためしてみるつもりでしたら、身内にいい薬師がいますよ。ご紹介しましょうか。口は悪いが腕はいい」

 私はその薬を飲む自分の姿を思い浮かべてみた。イメージの中での私の正体は角の生えたトカゲだ。それが吐き出される光景を思い描いてしまって、私は思わず顔をしかめる。

 少しだけ迷った末に、こう答えた。

「けっこうです」

 鳩村は、でしょうね、と言ってうなずいた。

「私は専門外ですから何とも言えませんが――あなたの言うとおりに、あなたがその体を乗っ取っているのだとしたら、あなたがいる場所はやはりここ」

 そう言いながら、鳩村は自分の頭を指差す。

「ではないかと思いますけどね。おそらくは、目に見えないほどに微細な脳寄生体といったところでしょう」

 角の生えたトカゲから、さらによくわからないものにされてしまった。私はもはや言葉もない。

 鳩村は気にする素振りもなく、こう続ける。

「しかし、あなたは思ったよりも危なっかしいですねえ。思い詰めて、その体ごと太陽の果てまで飛び去ったりしないでくださいよ」

「何ですか。それ……ギリシャ神話ですか?」

 囚われの身であったイカロスは蝋で作った翼で脱出したが、太陽に近づきすぎたせいで落ちてしまった。なぜかそのことが思い浮かんだのだが、鳩村は意味深な笑みを浮かべている。

「いいえ。これはむしろ、『たったひとつの冴えたやり方』ですよ」

 首をかしげる私に苦笑を浮かべながらも、鳩村は名残惜しそうにからになった器とスプーンを手放した。そして、ぽつりとこう呟く。

「結局のところ、命あるものは、己を生きることに真摯であればそれでいいのです」

「……真摯?」

 私がそう問い返すと、鳩村は深々とうなずいた。

「そうです。真摯というところがミソです。命にはそれぞれ別の真理があります。それにひたむきであれば、お互いにぶつかることもあるでしょう。そういうものです。そして、それでいいんですよ」

 良いことを言っているような気はするが、私は素直にうなずけない。鳩村は淡々とこう続ける。

「もしも、どうしても今のままではいられないとお思いでしたら、またご連絡ください。研究施設ではありませんが、私の故郷へとご案内しましょう。うちは奇妙な生きものには寛容ですから」

 鳩村はそう言い終えると、テーブルの端にあるメニュー表をちらちらし始めた。まさかまだ何か食べるつもりだろうか。呆れた私は、そろそろ席を立つことにする。

 私の中にある迷いについては、何ひとつ答えは得られなかったが――それでも、ぼんやりとあった焦りのようなものは、少しだけ和らいだ気もする。

 彼と話したことがどうこうではなく、思ったことを好きに吐き出せたのがよかったのだろう。

 鳩村に対するお礼はそこそこに、それでいて、アイスティーの代金だけはきちんと支払った。おごりますよと言われたが、この男にはあまり貸しを作りたくはない。

 そうして、鳩村が店員を呼び止める声を背中で聞きながら、私はひとり店を出た。



 帰宅してすぐ、私が向かったのは仏壇の前だった。

 そうして、ひとりでぼうっとしていると、喫茶店でのことが思い返されてくる。

 私はいったい、何がしたかったのだろう。誰かに話して、どうにかなるものでもないのに。

 私はきっと、ただ母に許してもらいたかっただけだ。私がここにいることを。

 角の生えたトカゲだろうが、目に見えないほど小さな生物だろうが、それでも私は母の娘なのだと、そう言って欲しかった。本当のことを打ち明けることで、それを認めてもらえるのだと、そう信じたかっただけだ。

 しかし、その機会は永遠に失われてしまった。

「あんた、どこ行ってたの?」

 うなだれていた私に話しかけてきたのは姉だった。落ち込んでいるところを見られてしまったようだ。どうにも、ばつが悪い。

「その。ちょっと、そこまで……」

 力なくそう言うと、さすがに姉も気をつかったのか、ふうんとだけ言って、どこかへ行ってしまった。

 母が亡くなる以前も姉とは仲良く話をした覚えもないが、葬儀を終えてからも、私たちはほとんど会話をすることもなかった。どちらかというと私が避けていたからではあるのだが。

 そもそも、あの人だって私にとっては本当の姉ではないのだ。この家にいる誰も、本当の意味では血のつながった家族ではない。

 もしも私が私でなかったなら、姉妹の仲はこれほど剣呑ではなかったのだろうか。そう思うと、なおさら居たたまれなくなってくる。

 今の私は、母の死より何より、自分の存在の危うさを恐れていた。私は本当に母の死を悲しんでいるのだろうか。本当に悲しめているのだろうか。そんなことが急に不安になってくる。

 やはり私は、こういう風にしか生きられない。誰かのふりをして、こうあるべき、という姿を追うことでしか。

 二階にある自室へと戻ると、私は何とはなしに室内を見回した。ここにあるものは、そのほとんどが、この十年ほどの間に私自身が手にしてきたものだ。そこにはまぎれもなく、私だけの思い出がある。

 その中でも、目の前の本棚に並んでいる本は、私が選んだ私のための物だった。

 ひとつひとつ、手に取ってみる。そうしているうちに、幼い子ども向けの図鑑や本がいくつかなくなっていることに気づいたが、おそらく姉が勝手に持ち出したのだろう。小瑠璃のためだろうから、特に文句はない。

 手に取った一冊を持って、私はベッドで寝転びながら、ぱらぱらとページをめくり始めた。

 美しい天体の写真が次々と現れてくる。満天の星に、空を流れる天の川。夜空で一番明るい恒星すばる。そして、ふたご座の輝く冬の夜空……

 そうしているうちに、私はいつの間にか、眠ってしまったようだ。

 奇妙な夢を見た。

 私は鳥の巣に並んでいる卵のひとつ。周囲にある別の卵からは、次々と鳥のヒナが孵っている。

 しかし、殻を破って現れた私の姿は、角の生えたトカゲ。私はぎょっとして、樹の枝を伝って巣から出て行った。周囲の目から逃れるように。

 やがて枝の先端までたどり着くと、もはや行く当てのない私は空へと昇って行く。そうして、頭上にある星を目指して、私は宇宙を漂い始めた。

 天の道しるべである北極星まで、地球からは光の速さで約四百年。そうやって普通では決してたどりつけないほど遠くまで意識を広げていくと、自分がぎゅっと小さくなってしまったように思われた。私が広がっていくような、それでいて私はどこにもいないような――

 そのとき、私はふと目覚めた。

 姉が私を呼んでいる。夕食の支度ができたらしく、私が返事をしないので、たいそうお冠のご様子だ。部屋の壁時計に目を向けると、明らかにおかしな時刻で止まっていた。

 私は慌てて階下へと下りて行く。

 誕生日プレゼントにもらった腕時計は、私の左手首で変わらず時を刻んでいた。

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