4-α 我思う故に我あり

 私はどうして私なのだろう。あなたでも、彼でも、彼女でもなく。

 私はそれをずっと考えていた。十年くらいの間、ずっと。今の私には、それくらいしかできることがなかったから。考える、ということだけが、私に残された、たったひとつの自由だ。

 あなたが今のあなたとなってから、私は誰にも知られずにいなくなった。けれども、それは表向きの話。私はずっと変わらずここにいた。

 自分の意志で体を動かすことも、声を出すこともできないけれども。それでも、あなたの見ているもの、聞いているものは、何となく伝わっていた。まるで浅い夢の中でまどろんでいるかのように。

 そんな不確かなものでしかない私の存在は、確かに在ると言えるのだろうか。

 コギト・エルゴ・スム。コギト・エルゴ・スム。

 遠い昔の哲学者が残した言葉。これを知ってから、私はことあるごとに、この言葉を唱えることにしていた。我思う故に我あり。だからたぶん、私はちゃんとここにいる。いや、そうであって欲しいと願っている。

 そうして、私は私のことを自覚していたが、あなたの方はどうだろう。私の存在など知らずに生きてきたあなたは、すべてを知ったそのときに、拠りどころとする何かはあるのだろうか。

 思い悩むあなたを見ながら、私はそんなことを考える。

 私はどうして私なのだろう。私はあなたでも、彼でも、彼女でもない。それって、とても不思議なことだと、私は思う。私という存在は唯一無二。私はあなたになれないし、あなたは私にはなれない。この地球上にいる誰一人として、私以外に私たり得る者はいない。

 だからあなたは、決して私ではない。



 何はなくとも、夜は明ける。

 朝になり、いつもなら家を出ている頃になっても、あなたは学校へ向かうこともなく、自室でただぼうっと過ごしていた。

 たとえ今から全速力で走って行ったとしても、遅刻を免れることのできる時間はとうに過ぎている。父はすでに家を出てしまった後だから、それを咎める者もいなかった。

 昨夜のあなたは、鳩村翼に電話をかけた後、どうやら一睡もできなかったらしい。あんな話をした後では、それも仕方がないのかもしれないが。

 とはいえ、このまま家でぐずぐずしているわけにもいかないだろう――と私は思う。思っているだけだけど。

 そのうち、あなたは覚悟を決めたのか、ようやく動き始めたようだ。かと思えば、何を考えているのか、私服に着替えて家を出てしまった。どこへ行くのだろうか。

 私はあなたをただ見守っていることしかできない。

 とはいえ、あなた自身もどこか行く当てがあるわけではないらしく、お昼過ぎまでは特に目的もなく町を徘徊し、やがては近所にある河川敷へとたどり着いた。

 土手の遊歩道はとても見晴らしがよく、広い川面は日の光をきらきらと反射している。川辺には野草が茂っていて、ところどころ露草や捩花が咲いていた。

 遠くにかかっている橋の上を、がたごと音を立てながら電車が走って行く。

 特に何もない場所だったが、今のこの時期、一日を過ごすには快適なところではあるだろう。犬の散歩やランニングなどで常に人が行き交っているので、活気もある。今日は特に天候もいいし、絶好のお散歩日和だ。学校をサボって、ここに来ていることを問題にしなければ。

 あなたはしばらくの間、そこにあるベンチに座って、ただ風に吹かれていた。何を考えているのか、私には知る由もない。

「金谷さん?」

 ふいに名前を呼ばれて、あなたは声の方を振り向いた。

 そこにいたのは同じ年頃の少女がひとり。線が細く、長い黒髪の――誰だっけ?

 私は目の前の人物に覚えがなかったが、あなたの方には見覚えがあったらしい。目にした途端、はっとした表情を浮かべた。クラスメイトだっただろうか。

「何をしているの? こんなところで」

 見知らぬ誰かは、そうたずねた。あなたは驚きのあまり声も出せないようだが、相手は何の気兼ねもなく、あなたの側へと近寄って来る。

 学校をサボってここにいる気まずさからか、追い詰められたあなたは妙なことを口走った。

「自分探し……かな」

 相手はきょとんとした顔で、あなたのことを見返した。居たたまれなくなったのか、あなたは彼女から、そっと目を逸らしている。

「何でもない。忘れて」

 あなたは慌てて、そう言い直す。

 そのときふと、私は目の前にいる少女のことを思い出した。

 あなたが通っている学校の教室には、常に空いている席がひとつある。新学期が始まった頃、そこには一人の少女がいた。クラス替えによって今の組に振り分けられたあなたは、中学三年生の始業式の日、そこで初めて彼女と知り合っている。

 しかし、五月のゴールデンウィークを迎える少し前くらいだろうか。彼女はぱたりと学校に来なくなってしまっていた。それが、今そこにいる少女――たちばな綾乃あやの

 これは知り合った後に知ったことだが、彼女はもともと学校を休みがちだったらしい。前の学年のときも通常の授業はほとんど受けずに、ずっと自宅で学習していたのだとか。

 彼女が学校に来なくなった直後こそ、そうした噂話をよく聞いたものだが、時が経つにつれて、クラスメイトたちが彼女を話題にすることはなくなっていった。私も彼女のことをすっかり忘れていたくらいだ。あなたはどうやら、覚えていたようだけれど。

 そうして今、まるで昨日別れた友人のように、橘綾乃はあなたに声をかけている。あなたは相手の余裕に気圧されながらも、どうにかこう問いかけた。

「橘さんこそ、ここで何してるの?」

 相手は怯むことなく、にこりと笑い返した。

「ずっと家にいると、腐ってしまうから」

 その答えに、あなたは思わずといった風に顔をしかめる。

「何が?」

「脳が」

 橘綾乃の返答に対して、あなたはいぶかしげに首をかしげている。私も少し呆気にとられていた。変わった子だと思ったからだ。

 そんな反応など意に介すこともなく、彼女はうれしそうにこう話す。

「同じ場所にいると、どうしてもね。だから、少し気分転換してみようと思って」

 あなたは、はあ、と気のない返事をした。

 橘綾乃は思いがけずあなたと会ったことを楽しんでいるようだったが、あなたは彼女と居合わせたことをあまり歓迎してはいないようだ。そうして困っているあなたのことを、彼女は興味深げに見つめている。

 どうにも居心地が悪いのか、あなたはさらに、こうたずねた。

「学校、行かないの?」

 自分のことは棚に上げた発言だったが、橘綾乃はそれを指摘することもなく、かといって悪びれる様子もない。そして、何でもないことのようにこう答えた。

「私、体が弱いから――っていうのは言い訳だけど。小学生の頃から休みがちで、そのせいか休み癖がついちゃったの。行けないこともないけれど、まあいいかなって。行く必要も感じないし。今年度でもう最後だから、多少は頑張ろうとも思ったんだけど」

「そうなんだ」

 あなたは拍子抜けしたような表情で、そう返した。しかし、橘綾乃の方は、今度はそちらの番だとばかりに、黙ってあなたのことを見つめている。

 沈黙に耐えかねたのか、あなたはふいに口を開いた。どうして学校をサボったのか。その理由が聞けるかと思ったのだが――

 あなたから出てきた言葉は、私が期待していたものとは違っていた。

「私、橘さんを怒らせたことがあったでしょう。それで学校に来なくなったのかもって思ってた」

「いつ? そんなことあったかしら」

 橘綾乃はそこで始めて、虚を突かれたような顔をした。

 とはいえ、これは私にとっても思いがけない内容だ。そんなこと、あっただろうか。いろいろと思い返してみたのだが、全くもって覚えがなかった。

 そう思っているのは橘綾乃も同じらしい。相手が覚えていないくらいなのだから、それは大したことではなかったのかもしれないが、先ほどからどこか様子がおかしかったのは、どうやらそのことをあなたが気にしていたからだったようだ。

 蒸し返したことが裏目に出ることを恐れるように、あなたはもごもごと答えを濁している。橘綾乃の方は、ふうん、と反応しただけで、それ以上追及することもない。

 あなたはどこか申し訳なさそうにうつむいている。

「ごめん。私、今は自分のことしか考えられなくて」

 あなたがそう言うと、橘綾乃は思わずといった風にくすりと笑った。

「おかしなこと言うのね」

 あなたは戸惑ったような視線を彼女へと向けている。しかし、橘綾乃は気にすることなく、こう続けた。

「自分のことしか考えられない人が、誰かを怒らせたかもしれないなんて、気にしないと思うけど」

 彼女の指摘にも、あなたは首を横に振る。

「たぶんそれは、本当にあなたのことを心配しているからじゃない。他人が自分のことをどう思っているかを、気にしているだけ」

「へえ、正直ね。いいと思う。人なんてみんな、自分のことしか考えないものでしょう」

 橘綾乃はそう言って、意味深な笑みを浮かべている。しかし、それ以上は何を言うこともない。ただ、ふいに腕時計に目を向けたかと思うと、もう時間だから、と告げて、あっさりとこの場を去って行った。

 あなたは呆然としてそれを見送っている。

 空は雲ひとつない晴れ模様。川の流れは穏やかで、それだけなら何ひとつ憂うことなどないようにも思えてくる。

 それでも、あなたは何かを考え込んだまま、どこか遠くを見つめ続けていた。



 今の季節だとまだ日は高いが、時刻はそろそろ学校が終わる頃。あなたは顔見知りの生徒に会わないうちにと、ある場所へと向かっていた。

 そうしてやって来たのは、母が入院している病院だ。

 普段の放課後にも、あなたは大抵この場所に足を運んでいる。予定がなければ、休みの日だってそうだ。部活に入っていないのも、おそらくは母のことがあるからだろう。

 母が病に倒れたのは、私が記憶を失ったとされる事故が起きてからしばらく経った頃のこと。体調を崩したことで検査を受けたところ、膵臓に癌が見つかったのが始まりだ。

 そのときは手術で取り除くことができたが、やがては再発し、各所に転移していることが判明する。それからは主に薬での治療を行っているが、今では一進一退の日々を送っている、というのが現状だった。

 いつものように病室を訪れたあなたは、音を立てないようゆっくりとベッドへ近づいて行く。母が眠っているかもしれないからだろう。

 昨日に会ったときには、思いのほか長く話すことができたが、それも近頃では稀なことになっていた。十分に眠れないことも多いらしく、母は疲れた表情を見せることが多くなっている。

 この日の母はやはり眠っていた。せっかく寝ているところを起こすのも悪いと思ったのか、あなたはその顔をただじっと見つめている。

 いや――あるいは、そうではないのかもしれない。

 母を前にして、あなたは何かを迷っているようだった。もしかして、昨日に話していたことを打ち明けようとしているのだろうか。しかし、そうすることが、心労の多い母にとって、正しいことなのかどうか――

 そのときふと、ベッドの上の母が目を覚ました。

「理子」

 かすかな声。あなたは慌てて母の枕元へと近寄る。

「お姉ちゃんと仲良くしてね」

「どうしたの、急に」

 本当に、突然何を言い出すのだろう。驚いた顔をするあなたと同じように、私もまた、母の言葉をいぶかしく思っていた。

 嫌な予感でもしたのだろうか。あなたの視線が動いて、近くにあるナースコールの位置を確認している。

 不安を隠しきれてはいなかったが、それでも努めて普段どおりに振るまいながら、あなたは母に向かって話しかけた。

「どうかな。仲良くするよりも、私の方が自立しないといけないかも。お姉ちゃんには、その――甘えすぎてるみたいだから」

 姉に嫌われている事実を母に話すことはためらわれるらしく、あなたはそんな風に答えを濁した。そのことに気づいているのか、いないのか、母は笑みを浮かべている。

「そうね。お姉ちゃん、強がりだから。でも、これからは姉妹で助け合ってね。お母さんからのお願い」

 あなたは思わず顔をしかめた。母の声は今にも消え入りそうで、それだけでも心配なのに、どうしてこんな話をするのだろうと、内容よりもそのことで気が気でないようだ。

 途切れ途切れになりながらも、母はこう続けた。

「それに……お父さんのことも。あの人、仕事ばかりして、忙しくて、少し痩せ気味だから、理子からも、気をつけるように言ってちょうだい」

 母はどこか遠くを見つめている。起き抜けで意識が朦朧としているのかもしれない、と思ったが、それでいて母がこんな話をすることはなかったから、何だか不安になってくる。

 それでもあなたは、ただうなずくことしかできないようだ。とはいえ、こんな母にいったいどう声をかければいいというのだろう。

 母は細い腕を伸ばして、あなたの手をそっとつかんだ。

「お友だちを大切にね。理子はもう、好きな人はいるの?」

「そういうのは、その――」

 あなたは戸惑ったような声を上げた。それを聞いた母は、ふふ、と笑っている。

「いいのよ。いつかそんな人ができたなら、お母さんも会いたかったのだけれど」

 どうしてそんな言い方をするのだろう。母はもう先が長くはないことを悟っているかのようだ。そう思ってしまったことに、私は自分でも愕然としていた。

 そんな風に考えてしまったのは、あなたも同じだったのだろう。慌てたように話を逸らしている。

「あのね。お母さん。冬になったら、ふたご座を見よう。昨日、話していたでしょう。十二月にはね、流星群もあるんだよ……」

 母はその言葉には何も言わない。ただ、あなたの声に耳を傾けている。

「あのね。お母さん」

 あなたは何かを言いかけたが、何も言わずに口を閉じてしまった。それでも、母はその先の言葉を待つように、じっとあなたのことを見つめている。

 ――お母さん。大丈夫かな?

 私は心の中で思わずそう問いかけた。この声が聞こえたのか、あなたがはっとして身を強張らせている。

 そうだ。今なら声が届くかもしれないんだ。それなら。

 ――お母さんのこと、大好きだよ。

 私はありったけの力を込めてそう叫んだ。自分でも、どうやっているのか、いまいちわからないのだけれど。事故のときだって、私の声は他の人にも聞こえているのだから、やってみる価値はあると思っていた。すると――

「お母さんも、理子のこと大好きよ」

 母は確かにそう応えた。

「私……私は――」

 あなたはそう言って肩を震わせると、揺らぐようにその場で一歩後ずさった。何かを振り払うように首を横に振ると、それきりうつむいてしまう。

 どれくらいそうしていただろう。ふと病室にある時計に目を向けると、あなたは慌ててこう言った。

「そろそろ帰らないと。お母さん。また、明日来るから」

 あなたは母と視線を合わせると、逃げるように病室を去って行った。寂しげな母の視線が、じっとあなたを追っていることにも気づかずに。



 家に帰る気にはなれないらしく、あなたはその後も、帰路とは逆の方向へと歩いていた。

 そうしてたどり着いたのは山の上の神社。鳥居をくぐったあなたは、上へと続く階段をゆっくりと登り始める。

 時刻は夕日が沈んでいく頃合いで、照り返る光や空は、あざやかな赤に染まっていた。その分、落ちる影は黒々として暗い。神社の参道は左右を生い茂る木々で挟まれているので、ざわざわと音がするたびに、そこに何かがいるかのように思われた。

 小さな頃はこの辺りでよく遊んだものだ。虫などのおもしろい生きものがたくさんいたし、木の実や変わった草花を見つけては、それでいろいろな遊びをした。そんなことを、ふとなつかしく思う。

 拝殿までたどり着くと、あなたは手を合わせてから、それを横目に通り過ぎて行った。その先には、狭く控えめな石段がさらに上へと続いている。

 それは自然石を組み合わせて作られた階段だった。角度は急だし、木の杭にロープを渡したような柵しかない。苔むした岩の隙間からは、野草があちこちに伸びていた。

 険しい山道を登って行くと、そのうち少し開けた場所に出る。そこにあるのは、山中にぽつんとある巨石――御神体だ。五人くらいが手をつないでやっと囲えるくらいの平たい岩で、注連縄が巻かれたそれは、山の上から堂々と町を見下ろしていた。

 御神体の近くに誰かが座っている。その人はあなたのことに気がつくと、立ち上がりながら衣服についた砂を手で払った。

 あなたを待っていたのは、黒いスーツ姿の男――鳩村翼だ。

「来られるのではないかと、思っていましたよ」

 そう言って意味深な笑みを浮かべているわりには、そこにある彼の姿からはくたびれた印象を受ける。あなたを見て、どこかほっとしているような気もした。本当に来るかどうかは、自信がなかったのかもしれない。

 あなたは鳩村翼と向き合い、立ち止まる。どうしてこの男がここにいるのか――知っていたわけではないだろうけれども、あなたはそのことを驚きもしない。

「さて。あなたは自分が誰なのかを知りたい――と、そういうお話でしたね」

 あなたはその言葉にうなずいた。彼は珍しく神妙にうなずき返す。

「正直に申し上げますと、あなた自身を調べたわけではありませんので、私にも確かなことは言えません。ただ――」

 鳩村翼はそこで、ちらりと御神体の方を見やった。

「あなたの話を聞いてから、私もいろいろと調べてみたのですよ。それで、ひとつわかったことがあります」

 鳩村翼はそう言うと、あなたを無言で見つめ続けた。こちらの反応を期待しているのだろう。あなたは渋々と口を開く。

「……何がわかったんですか」

「テンコウさまの正体です」

 あなたの問いかけに、彼はすぐさまそう答える。

「テンコウさま?」

 あなたがそう問い返すと、鳩村翼はうなずく代わりに小さく肩をすくめてみせた。

「というより、気づいたときには、どうしてすぐにわからなかったのだろうかと頭を抱えましたよ。何せ」

「何ですか。もったいぶらないで、教えてください」

 鳩村翼の言葉をさえぎって、あなたはそう詰め寄った。

 しかし、彼はあくまでも悠然としている。そうして、ふいに人差し指を天に向けたかと思えば、鳩村翼はそれを高々と頭上に掲げた。

「その名によって、すでにそれが示していた、ということですよ。テンコウ――それはすなわち、天から降りたもの。天降テンコウとは、すなわち隕石です! この地にあった予言する何かの正体は、天より来たるもの、だったのですよ!」

 あなたはぽかんと口を開けながら、鳩村翼の指差す方へと目を向けた。彼の発言に圧倒された、というよりは、どちらかというと、その突拍子もない内容に呆れている顔だ。

 あなたは気を取り直すと、あらためて鳩村翼の背後にある巨石に目を向けた。

「まさか、この御神体が隕石だというんですか」

 鳩村翼は残念そうな表情で首を横に振る。

「違いますよ。こんな大きさの隕石が落ちていたなら、もっと大変なことになっています。そもそも隕石の組成とは違うでしょうし。ただ、この岩についてはどこか別の場所から運ばれて来たことは間違いないでしょう。この辺りで採れる岩石ではないので」

 けげんな顔をするあなたに向かって、鳩村翼はどこか得意げに、こう話し始めた。

「隕石がないのに、なぜそう断言できるのか、とか思っていらっしゃいます? 隕石といえども落ちてしまえばただの石ですから、他の石に混じってしまえば、それとわからない、ということはよくあるのですよ。ですから、そのときの隕石がどうなったかまではわかりません。ここに落ちたものは、それほど大きくはなかったでしょうし。とはいえ、火球を見ていたならこの辺りに落ちたことはわかるでしょうから、ここに予言するものが現れたとして、それと関連づけたことについてはおかしくないと思いますよ」

 あなたはいかにもうさんくさげに彼のことを見返している。鳩村翼は少しだけ不服そうに口を尖らせた。

「信じてませんね? この神社で保管されている古い文献にも、それらしいことが記されていたんですよ。隕石だと書かれていたわけではありませんが。ともかく――その隕石によって、この地には予言するものが現れた。だからこそ、この山は祭祀の場になったのでしょう。御神体となった巨石も、そのためにはるばる遠くから運ばれて来たのです。依代とするために。そうして、テンコウさまは長い間、ここで予言を行っていました。本来であれば、テンコウさまは儀式によって一時的に寄坐に宿るだけの存在だったはずですが――何らかの異変により、あなたの中に留まった。そんなところではないかと」

 あなたは何も答えない。鳩村翼はそんなあなたの反応に少しばかり勢いを削がれつつも、こう続けた。

「まあ、そういうわけでして……私にわかるのはそれくらいです。その隕石がどこから来たのか、だとか――太陽系外からなのか、そもそもそんなところから来られるのか、とか――そういったことはわかりません。専門外なので」

 鳩村翼がそう言い終えると、あなたは呆れた顔でこう問いかけた。

「それで? 隕石はともかくとして、テンコウさまそのものについての正体は、わからないんですか?」

 鳩村翼はけげんな顔をしている。

「隕石とともに飛来したなら、それはやはり地球外生命体なのではないですか? なおさら私では専門外ですよ。一応、身内にひとり、そういうのを対象に研究している変わり者がいますが。今は海外なんですよね。連絡とってみます?」

「けっこうです」

 あなたはすぐさまそう返した。

 この男に変わり者呼ばわりされるなんて、その人もよほどの変わり者に違いない。あるいはその逆で、実はまともなのかもしれないが。

 何にせよ、地球外生命体も未確認動物も似たようなものだと思っていたから、今さら専門外だと言われても何だか釈然としなかった。

 それでも、彼にしてみれば、それは全く違うものなのだろう。心なしか、今までよりトーンダウンしているのは、専門外であったことを残念がっているからかもしれない。

 あなたは大きくため息をつくと、無言のまま、すっかり暗くなってしまった空を見上げた。どこからか雲が流れて来たのか、星の光はあまり見えない。

 天より来たるもの。あなたが誰なのか、という問いかけに、鳩村翼はそんな答えを提示した。

 それがあなたの求める答えだったかどうかはわからないが、それはあなたという存在を知る上での、可能性のひとつではあるのだろう。とはいえ、あなたにとってはこんなこと、滑稽な夢物語のようにしか思えないかも知れないが。

 けれども、私の考えは違っていた。

 だって私はここにいたから。

 私がこんな風になったのも、何か飛び切り奇妙な理由があるはず――私はずっと、そう考えていた。そんなわけだから、その正体が流れ星に乗って現れた何かだという話になっても、それほど抵抗なく受け入れられていた。それが真実かどうかは別にして。

 もちろん、あなたにとっては、そんな単純な話ではないだろうけど。

 今まで何も知らずに生きてきたあなたにしてみれば、自分の正体がそんなわけのわからないものだなんて、素直に受け入れられるものではないだろう。アンデルセン童話のみにくいアヒルの子だって、たとえ他のアヒルたちとは違っていたとしても、自分のことをアヒルの子だと固く信じていたのだから。

 長い沈黙に耐えられなくなったのか、鳩村翼はふいにこう話し始めた。

「しかし、残念ですねえ。当初にお話していたとおり、それが応声虫であったなら、もっといろいろと私からアドバイスすることもできたのですが。それに、ちょっと楽しみにもしていたんですよね。応声虫の姿が見られるの。見たことないんですよ。角のあるトカゲのような姿をしているそうなんですけど」

 鳩村翼はそんな奇妙なことをさらりと言った。

「…………虫じゃなかったんですか?」

 さすがに気になったのか、あなたは彼にそうたずねる。鳩村翼は、しれっとこう答えた。

「文献にはそうあるのですよ」

 あなたは顔をしかめたが、すぐに気を取り直すと、あらためてこう問い質した。

「ともかく――結局のところ、私が何なのか、ということについて、確証はないということですね」

 鳩村翼な平然とうなずいている。

「そうですね。今のところ、あるのは状況証拠だけ、といったところでしょうか」

 あっさりとそう返した鳩村翼に向かって、あなたはさらにこう問いかける。

「それで、あなたの言う状況証拠からすると、その――本当の金谷理子はどうなったんだと思われますか」

 鳩村翼はふむとうなりながら、しばし思案しているような顔をしていたが、それまでと変わらない軽い調子でこう答えた。

「私が直接声を聞いたわけではありませんので、何とも。あなたのおっしゃることを信用するなら、自我はあるのではないでしょうか。あなたの方から話しかけてみては?」

 逆にそう問い返されてしまったが、あなたは何も答えない。

 私は恐る恐る、おーい、と呼びかけてみたが、当然のように、あなたからの反応はなかった。聞こえていないのか、無視されているのか。とはいえ、この状況で気軽に応える気にはなれないのかもしれない。

 あなたは大きくため息をつく。

「私がそんな――得体の知れない存在だとして、あなたは私を捕まえたりはしないんですか。強制的に研究施設とかに連れ去ったりは」

「どうして、私がそんな非人道的なことをしなくてはならないんです。そもそも、何なんですか。その、研究施設って。映画か何かの見すぎでは?」

 鳩村翼はそう言いながら、心底驚いたといった風に目を見開いている。彼のそうした反応に、あなたは苦々しい表情を浮かべた。

「だって、私は人ではないんでしょう」

 それを聞いた鳩村翼は、急に真面目な顔になる。あなたのひとことが、どこか投げやりなように思われたからかもしれない。

 彼は少しだけ気づかわしげになると、こう話し出した。

「私はね、新しい生きものを探しているだけのただの研究者ですよ。あなたのことを強制的にどうこうするつもりはありませんし、できません。別にあなたが悪事を働いているわけでもないですし。まあ、どうしてそういう状況になったのかはわかりませんが、あなたにどうにもできないなら、今は誰にもどうにもできませんよ。現状を受け入れるしかないのでは?」

 あなたは釈然としない様子でこう返す。

「そんなことで、いいんですか」

「いいんじゃないですか? こうして話をした限りでは、あなたは普通のお嬢さんのようですから。応声虫ではないなら、私はあまりお力にはなれないと思いますが、何か変わったことがあれば、いつでもご相談に乗りますよ」

 鳩村翼のそんな言葉には、あなたはやはり、うなずきはしなかった。



 鳩村翼が去った後も、あなたはしばらく御神体の前に立っていた。

 しかし、ふいに踵を返したかと思うと、拝殿へと続く石段を下り始める。帰るのだろうかと思ったが、途中で道を外れて、そのまま山中へと分け入ってしまった。どこへ行くのだろうか。

 その答えはすぐにわかった。

 たどり着いたのは、古い石垣のようなものがあるところ。あなたが記憶を失ったとされている場所――つまりは、私が落ちて頭を打ってしまった場所でもあった。

 そうした事故があったからか、ここには他のところよりはしっかりとした柵が設けられている。小さな子どもでは入れないかもしれないが、大人なら難なく通ることができる程度だが。

 あなたはそこに入り込むと、私が落ちたところを上からのぞき込んだ。ちょっとした段差になっていて、無理をすれば飛び降りることもできそうだったけれども、小さな子どもではやはり厳しい高さだろう。

 あなたは近くにある木の幹をつかみながら、端の方から身を乗り出した。

 ――危ないよ。

 私は思わずそう声をかけてしまったが、あなたは何の反応も示さない。何を思ってこんなことをしているのだろうか。

 そのとき、運悪く鞄から携帯端末スマホがするりと抜け落ちた。伸ばした手も虚しく、それはそのまま段差の下へ。そうして、草むらの中に埋もれると、全く見えなくなってしまった。

 あなたはどこからか降りられはしないかと思ったのか、辺りを見回しているが、適当な場所は見当たらない。仕方なく、遠回りをして下へと向かうようだ。

 私は――そして、おそらくはあなたも――落とした端末は、すぐに見つかるものだと思っていた。

 しかし、そこは人が足を踏み入れるような場所ではなかったらしい。腰の辺りにまで伸びた雑草が生い茂っていて、それをかき分けながら探すはめになってしまった。

 鋭い葉は腕のあちこちに傷をつけるし、辺りには嫌な羽虫が飛び交っている。腕を百足が這ったときなどは、さすがの私も心の中で悲鳴を上げてしまった。

 今は境内からの灯りでかろうじて周囲が見えているが、それだけではいつまで探し続けられるかわからない。明日にでも、あらためて探した方がいいのではないだろうか――

 そう思ったそのとき、ふいにどこかで電子音のメロディが鳴った。音を頼りにたどっていくと、草の影から何かが光を発しているのを見つける。

 着信を知らせる光。ほっとした様子であなたがドクダミの群生をかき分けると、探していた端末がようやく姿を現した。

 手に取って確かめてみたが、どうやら壊れてはいないようだ。操作して動作を確認してみる。

 画面に表示されたのは、大量の着信とメッセージの通知。どうやら遠回りをしている間にも、誰かから電話があったらしい。

 あなたは新しいメッセージに目を向ける。

 そこに記されていたもの。

 それは母の危篤の知らせだった。



 急いで病院にかけつけたあなたを、無表情の姉が出迎えた。

 ひとことも言葉を交わさず、ただ視線を交わしただけで、姉はくるりと踵を返してしまう。あなたはすがりつくように、それについて行った。

 向かう先は母のいる病室。扉を開けてベッドに横たわる母の姿を見た途端、あなたは思わずたじろいでしまった。

 重い病を患うということは、底のわからない穴の中に落ちていくようなもの。穴に転げ落ちて、もう戻れない、と思った後にも、実はまだ先があって、本当の底につくまで延々と落ちていかなくてはならない――

 母の姿を見ていて、私はずっと、そんな印象を抱いていた。そして、今そこには明らかに、深い深い穴の底に横たわる、暗く冷たい死の影がある。

 そこにある母の姿に、私はひと目でそんな印象を抱いてしまった。夕方に会ったときには、ここまでひどくはなかったのに。

 そう思ったのは、あなたも同じだったのだろう。あなたは震える声で姉に問いかけた。

「ねえ。お姉ちゃん。お母さんと話せる?」

「見ればわかるでしょ」

 苛立たしげな姉の返答。あなたは真っ青な顔で、ただうつむいた。

 ――お母さん。大丈夫だよね?

 私は思わずあなたにそう問いかけたが、その声は誰にも届かない。

 父と姉とあなたと私。言葉少なに静かな病室の中で一夜を過ごした。やがてまんじりもしない夜が明け、辺りが明るくなってくる。

 そうして朝日が昇る頃、母は静かに息をひきとった。

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