3-β 赤い鳥はなぜなぜ赤い

 そうして、私は誰もいない部屋にひとり取り残された。

 鳩村とかいう――嵐のようなあの男は、私の心を散々に荒らしはしたが、去ってしまえば、むしろあまりに現実感がなく、いっそ今までのこともすべてが夢だったかのようだ。残されたものがあるとすれば、私が手にした一枚の名刺と机の上の炭酸飲料くらいだろうか。

 喉の渇きが無性に耐えがたくなって、私は目の前のペットボトルを手に取った。フタを開けてすぐさま口をつけてみたが、その独特の刺激に私は思わず顔をしかめてしまう。それでも自棄ヤケになって一気に飲み干した。

 携帯端末スマホがメッセージの受信を通知している。私は空になったペットボトルを片手に、この部屋を出ることにした。

 廊下に立って周囲を見回してみたが、鳩村の姿どころか誰の姿も見えない。それでもエントランスがある方へ近づいて行くと、徐々に人とすれ違うようになった。そうして受付の辺りまで来ればもう、何ということはない日常の風景にたどり着く。

 その中に立って、私はようやく現実に戻れたような気がしていた。いろいろとおかしな話ばかり耳にしたが、混乱して曇っていた思考の一部が少しだけ晴れたかのような……

 しかし、ペットボトルを捨てようとゴミ箱に手を伸ばしたとき、無意識に握りしめていた紙片の存在に、私はあらためて気がついた。

 鳩村から受け取った名刺。思わず握りつぶしそうになるが、私はどうにかそれを思い止まる。そうして逡巡した挙げ句、その名刺を鞄の中へとしまい込んだ、そのとき――

「りこちゃん!」

 幼い声が私の名を呼んだ。小さな少女は、ぱたぱたとかけてくる足音と共に近づいて来たかと思うと、私の脚に抱きついて止まる。

「るりちゃん……?」

「るりじゃない! こるり!」

 そう言って、少女は小さな頬を膨らませた。三歳になる私の姪は、小瑠璃という今どきの小洒落た名の少女だ。姉に似て、なかなか気が強い。

 小瑠璃の後を、慌てた様子の男性が早歩きで追って来ていた。メガネをかけた少し気の弱そうなその人は、姉の夫――つまり私にとっての義兄だ。

 彼は小瑠璃に追いつくと、彼女の頭を撫でながら小声で叱った。

「ダメだろう、小瑠璃。病院では静かにしなきゃ。走るのもダメ」

 小瑠璃は私の脚にしがみついたまま少しの間ぶうたれていたが、そのうち気が変わったのか、ごめんなさいと呟きながら、今度は父親に甘え出した。

 ほほえましく思いながらも、私に義兄に向かって頭を下げる。

白石しらいしさん。あの、すみません。わざわざ迎えに来ていただいて……ありがとうございます」

 白石は義兄の名字だが、私は彼のことを普段からそう呼んでいた。今はもう、姉も同じ名字なのだけれど――何となく、この呼び名が定着してしまっている。

 義兄は小瑠璃を軽々と抱き上げると、気づかわしげな表情で、私にほほ笑みかけた。

「知らせを聞いたときは驚いたよ。大事がなくてよかったけど……本当に大丈夫かい?」

 いらぬ心配をかけまいと、私はすぐさまうなずいた。それを見て、義兄はほっとしたようにうなずき返す。

「そうかい。それじゃあ、行こうか。亜衣沙あいさも心配していたよ」

 亜衣沙は姉の名だ。心配――していただろうか。私は内心、それはないだろう、と思いながらも、曖昧に笑ってごまかした。

 病院を出てから、駐車場に止めてあった義兄の車へと乗り込む。運転席に座った義兄とチャイルドシートに収まった小瑠璃が何か楽しげに話をしているが、私の耳には入らない。

 そのうち車は走り出し、私を見知らぬ場所から連れ出した。車窓から流れる景色を見るともなしにながめていると、先ほどまでのできごとが無意識のうちに思い出されてくる。

 とはいえ、特別におかしなことが起きたわけではない。ただ、おかしな人と話をしたというだけのことだ。

 それでも私の中には、なぜか嫌な予感のようなものがずっと渦を巻いていた。ぐるぐると巡る思考の中では、あのときの鳩村との会話が何度もくり返されている。

 姪に話しかけられたので、私は眠ったふりをすることにした。義兄は、疲れているようだからと、そっとしておくよう小瑠璃に言い聞かせてくれる。

 しばらくは親子の会話を耳にしながら、走る車の揺れに体をゆだねていたのだが、やがてはどこかに停止したようだ。私は心ここにあらずといった風にぼうっとしていたが、起き抜けだと思われているのか、声をかけられることもない。

 車から降りると、私たちは連れ立って歩き出した。ぐずり始めた小瑠璃を義兄が抱き上げたので、私はその後をとぼとぼとついて行く。

 目の前にある白い建物の中に入ると、独特な空気がすぐさま私の体にまとわりついた。リノリウムの床、手すりの張り巡らされた廊下。そうしたものは、どこも似たり寄ったりなのかもしれないが、それでもここは、先ほどまでいた場所と違って勝手知ったる何とやら――つまり、ここは母の入院している病院だった。

 何度となく歩いた廊下をたどって、母のいる病室までやって来る。扉を開けると、すぐに姉と母の話し声が聞こえてきた。内容まではわからなかったが、そこにある和やかな空気を感じて、私は何だかほっとする。

 ベッドに近づいて行くと、その傍らに座っていた姉と父が、私たちのことに気づいて顔を上げた。体を横たえていた母もこちらを振り向くと、私の姿を見てやさしく笑う。

 以前よりだいぶ痩せたかな。そう思って、私は少しどきりとした。こんな風に、ふいに母の衰えを意識してしまうと、どういう顔をしていいかわからなくなる。そんな考えは決して気取られないよう、私は無理にでも母に笑いかけた。

 母は私にこう問いかける。

「理子。お姉ちゃんから話を聞いて、驚いた。大丈夫だった?」

 母の声はかすれていて、いかにも弱々しい。顔をしかめてしまう前に、私は慌ててこう答えた。

「全然たいしたことないの。ごめん。驚かせて」

「そう。よかった。でも、残念ね。今日はどこかへお出かけの予定だったでしょう?」

 私は返答の代わりに苦笑を浮かべた。自分のことで母を心配させたらしいことに、今さら罪悪感を覚えてしまう。

 窓からは、カーテン越しに赤い夕日が差し込んでいる。ふと視線をそちらに向けると、その光を背景にして、無言で私のことをにらみつけている姉と目が合った。

 怒っているのだろうか。少なくとも心配していたようには見えないが――いや、もしかしたら、どちらでもないのかもしれない。常にこんな顔なのだ。私の姉は。

 しかし、見ようによっては、やはり怒っているようにも思えた。仲の悪い姉妹だという自覚はあるが、こういうときくらいは、やさしくしてくれてもいいのではないだろうか。と、私は他人事のように思ってしまう。

 父は立ち上がりながら気づかわしげに私の肩に手を置くと、義兄にこう声をかけた。

「迎えに行ってもらって、ご苦労だったね。小瑠璃ちゃんも。何か飲むかい?」

 そう言って、父は小さな冷蔵庫の中から缶ジュースをひとつ取り出した。小瑠璃は満面の笑みでそれを受け取ったが、自力では開けられなかったのか、頬を膨らませながら、それをぐいぐいと義兄に押しつけている。義兄は苦笑しながら缶を受け取ると、プルタブを開けてから小瑠璃に手渡した。

「気にしないでください。理子ちゃんに大事がなくてよかったですよ。ほら、小瑠璃。ちゃんとお礼は?」

「おじいちゃん、ありがとう」

 小瑠璃はそう言うと、ジュースをおいしそうに飲み始める。

 姉は私にはひとことも声をかけることなく、母と近況について話し始めた。そうして、小瑠璃がジュースを飲み終える頃には、姉は鞄を手に取りながら立ち上がる。

「それじゃあ、私たちはおいとまするわ」

 姉はそう言うと、小瑠璃を連れた義兄と共に病室を出て行った。母に軽く声をかけてから、父も見送りのためそれに続く。

 母とふたりきりになったことで、室内は途端に静かになった。

 私は母を前にして黙り込む。たくさんのことがありすぎて、何を話していいかわからなかったからだ。まさか鳩村のことは話せないし、こんなところで事故の話をするのもどうかと思うし……

 そうして私があれこれ考えているうちに、母はふいにこう呟いた。

「それ、似合ってる」

 私が首をかしげると、母はその細い腕を上げて私の左手首を指差した。その先にあるのは、誕生日プレゼントとして両親から贈られた腕時計。

 私はすぐにはっとして、それを握りしめた。

「うん。ありがとう。このデザイン、すごく気に入った」

「よかった。ちょっと変わっているでしょう。喜ぶかなと思って。その星座は、ここからだと、どの辺りに見えるの? 見られるかしら」

 とっさに、何のことだろうと思ったが、母の視線を追っていくうちに、腕時計にある意匠のことを言っているのだと気づいた。

「ふたご座のこと?」

 私はそう問い返す。母がうなずくのを見て、私は思わず顔をしかめてしまった。

「十二星座は、太陽のある位置の星座なんだよ。だから今の季節は見られない……かな」

「そうなの?」

 驚く母に向かって、私は苦笑いを浮かべた。

「そうだよ。ふたご座は冬の星座だから、今は太陽の向こう側」

 そう言って、私はカーテンを透かし見るように、窓辺へ視線を投げかけた。今はもう日も落ちてしまったらしく、辺りもだいぶ暗くなっている。

 ふいに母がくすくすと笑い出した。私はぎょっとして、母の顔をのぞき込む。

「何かおかしかった?」

 母は笑いながら、首を横に振った。

「ごめんなさい。そうじゃないの。理子は本当に星のことが好きなんだなって思って……それで、あなたが小さかった頃のことを思い出したの。図書館でよく、星の本を借りていたでしょう? ずいぶん難しそうな本で、読めもしなかったけど、写真がとてもきれいだからって。気に入ったのか、何度も何度も同じ本を借りてきて、また同じのを借りたの? って言っても、これがいいって譲らなくって」

「そうだっけ」

 そんなこともあったような。おぼろげではあるが、それは私の中にも確かにある記憶だった。

 母はどこか楽しそうに、こう続ける。

「お父さんとも話していたのよ。理子は星のことが好きだから。だから、その腕時計、絶対気に入ってくれるだろうって。それにしても、不思議なものね。小さいときには、あなたは星なんて見向きもせずに――そうね。カマキリとかダンゴムシだとか、そんなものばかり探していたのに」

 それはおそらく、記憶を失う以前の私のことだろう。私は何も言えずに、口をつぐんだ。

 私にはない記憶。何か嫌な予感がする。それがただの予感ではないことを示すように、ふいにどこからか、知らない誰かの声がした。

 ――覚えてる。なつかしいな。

 私の中で響く声。

 なつかしい? どういうことだろう。

 声を発しているのは得体の知れない虫か。あるいは――

 あなたは、誰なの? 私は心の中でそう問いかけた。答えなどあるはずもないと思いながら。しかし。

 ――小さな頃にね。お母さんの誕生日にプレゼントを用意したの。仕切りのある箱に虫を一匹ずつ入れて。それで、お母さんをびっくりさせちゃった。

 誰だかわからない声はそう語る。何の話だろう。そう思いつつも、よせばいいのに、私はそれをたずねずにはいられなかった。

「昔、お母さんにプレゼントしたことある? 箱の中に虫を入れて……」

 私がそう言うと、母は大きく目を見開いた。

「覚えてるの? 理子」

 母の反応を目にした私は、その問いに答えることも、うなずくこともできずに固まった。

 これはいったい、どういうことだろう。

 私の中にいる何か――そもそも、そんなものはいるはずがないと、今も思っているのだが――その何かは、なぜか失ったはずの私の過去を知っているらしい。私自身は、それを思い出せずにいるというのに。

 そのとき、私の中で何かが壊れたような気がした。

 何か。今までは、どうにかつないでいた私という存在。それが、たった今示された記憶の矛盾によって、再び揺らぎ崩れていく。

 記憶を失っていても、私は新たな私を手に入れたはずだった。しかし、それは本当に正しいものだったのだろうか――

 私が何も言わないでいると、母は記憶をたどるように、こう話し始めた。

「確かに、あったわね。誕生日プレゼントだっていうから、どきどきしながら開けたら、虫が飛び出して来て。私、びっくりして箱を落としちゃって、部屋中に虫を逃がしちゃったの。お姉ちゃんは悲鳴を上げるし、あなたは泣き出すし、大変だった」

 母はそう言って笑っていたが、私は笑い返すことができない。その代わり、私はどうにか口を開いた。

「あのね、お母さん――」

 母は続きを待っていたが、その先はいつまで経っても、私の口から出てくることはなかった。何かを言おうとは思うのだが、何を話していいかわからない。私は一度口を閉じてから、何でもない、とだけ言って首を横に振った。

 病室に戻って来た父と一緒に、私は家へ帰ることになる。私は母に、また明日来るから、とだけ声をかけた。



 家に帰った私は、自室でひとり考え続けていた。私という存在について。

 私はいったい、誰なのだろう。

 どうしても思い出せなかった過去。記憶を失う以前の私との相違。

 幼い頃、私は記憶を失った。私はずっと、そう思い続けていた。しかし、そうではなかったのかもしれない。

 私はどうして記憶を失くしてしまったのか。

 失くしたんじゃない。私には始めから、そんなものはなかったんだ。私の知らない過去を私の中にいる何かが知っているのなら、それこそが記憶を失う前の私ではないのか。

 そんな疑念が生じてから、私はそれを否定することができずにいた。

 だからといって、私の中にいるかもしれない、もうひとりの私に対して呼びかけるような気にはなれない。そんなことをすれば、余計に頭がおかしくなりそうだからだ。

 考えた末に、私は声のことを知っている唯一の人物に連絡をとることを決意する。

 鞄の中をかき回して、私は折れ曲がった名刺をどうにか見つけ出した。番号が間違っていないことを何度も確認してから発信する。

 三度目の呼び出し音が鳴り終わる前に、電話はつながった。

「はいはい」

 おざなりな相手の応答に、その時点でめげそうにもなったが、私は意を決してこう問いかけた。

「鳩村さんですか?」

「そうですよ」

 鳩村はいかにも眠そうな声でそう答えた。日をあらためた方がよかったかもしれない、と後悔しながらも、私はこう名乗る。

「金谷理子、です」

 今の私は、そう名乗ることが正しいことなのかすら、自信が持てない。しかし、その名を耳にした途端、鳩村は急に生き生きとした声になった。

「ああ。応声虫の! もう気が変わられたんですか?」

「違います。いえ……何というか、お聞きしたいことがありまして」

 勘違いされる前に、と私はすぐさま否定する。鳩村は、かまいませんよ、と鷹揚に答えた。

 とはいえ、この人を相手に何から話し始めればいいのか。いろいろと考えていたはずなのに、その場面になった途端、すべてが吹き飛んでしまっていた。

 私は思いつくままに、自分の疑念を口にする。

「その、私は本当に私でしょうか?」

 何の返答もないのは、鳩村がその問いかけをいぶかしんでいるからだろう。さすがに唐突すぎたか、と思って、私はすぐさまこう言い直す。

「その……応声虫、でしたか? それが、例えば――寄生した人の体を乗っ取る、なんてことはあるのでしょうか。例えば、ですけど」

 鳩村はふむとうなってから、淡々と話し始めた。

「応声虫が、ですか……寄生虫が宿主を操ることは――まあ、あることですね。ご存知ですか? ハリガネムシは宿主となる虫を水辺に導いて溺死させるんです。それから、人に感染するという話なら、トキソプラズマとかでしょうかね。感染者の人格などに影響を及ぼすことがあるのだとか。いずれも、ある程度脳に影響を与えるだけで、自我によって乗っ取った、とまでは言えないかもしれませんが」

 私は思わず顔をしかめた。応声虫の話はどこへいったのだろう。一般的な寄生虫の話が私に当て嵌まるとは思えないが――それとも、そうではないのだろうか。

 とはいえ、応声虫自体がそもそも荒唐無稽な話ではあったし、私の中にいるものがそれだと断定されたわけではない。だとすれば、こだわる意味もないのかもしれない。

 私は迂遠な問いかけをしてしまったことを反省しながら、あらためてこうたずねた。

「もしも私が私でなくて、その――乗っ取った虫の方だったとしたら、私はどうすればいいでしょう」

 鳩村は無言だ。さすがに、そんなことをたずねられるとは思っていなかったのだろう。私はこう続ける。

「私には幼い頃の記憶がないんです。私はそれを、記憶を失ったせいだと思っていました。でも、それは違うのかもしれません。だって、私の中にある声は、私の知らない過去を知っていたんです」

 鳩村が返してきたのは、うめき声だけ。私はなおもこう言った。

「それに、私の性格も、記憶を失う前と後では違っているみたいなんです。好きなものとかも、全然違うし――」

 私が言い淀むと、そこでようやく鳩村からの反応があった。

「記憶を失くした人間の性格が変わる、といったことは他でも報告されていますよ。記憶を失くさなくとも、事故などで脳を損傷した場合、人が変わってしまったという例はあります。ですから、人の性格なんてものは、案外不確かなものでして。そもそも、人の思考それ自体も、網のように張り巡らされた神経細胞と、それを走る電気信号と科学物質でしかありませんから」

 私はひとまず黙り込んだ。しかし、私の抱いている違和感は、彼の指摘で納得できるようなものではない、とも思う。

 鳩村はこう続ける。

「ですから、性格が違うというだけでは、あなたがおっしゃっているようなことが起こった、と断定することはできません。記憶についても――本当に思考できる存在があなたの中にいるのだとすれば、それが何らかの方法であなたの記憶を読み取っただけなのかもしれませんし」

 私はその可能性についても検討してみた。しかし、私の中にいる何かはそのことを、なつかしい、と言っていた。他人の記憶になつかしさなど覚えるものだろうか。

 私が考え込んでいると、鳩村はさらにこう言った。

「何にせよ、それだけでは私には何とも言えませんよ。しかし、興味深いことには違いありません。許可さえいただければ、こちらでくわしく調べ」

 鳩村が最後まで言い切る前に、私は通話を切断した。これ以上の情報を、彼から得ることは難しいだろう――そう思って。

 私は、今も私の中にいるかもしれない、もうひとつの思考する存在のことについて考える。もしも、それこそが本当の私――いや、本当の金谷理子なのだとすれば。

 たとえ記憶をなくしたとしても、家族がいて、帰る家があって。そこには確かに私の居場所があるのだと思っていた。しかし、それが真実ではなく、本当は何のつながりもないのだとすれば、私はどうすればいいのだろう。

 そうなってしまえば、私にはもう何もない。あるのは、私がニセモノだったという事実だけ。

 私はいったい誰なのだろう。これから、私はどうすれば――

 電話の呼び出し音が鳴っている。鳩村からだ。折り返しかけてきたものらしい。

 しつこいな、と思いながらも、私はそれに応答する。そして、苛立ちまぎれにこう言った。

「私を調べたら、あなたは私にそれを教えてくれますか? 私にはわからないんです。私はいったい誰ですか」

 切実な思いで、私はそう問いかけた。

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