2-α 安楽椅子の哲学者

 昨日が私の誕生日だから、今日はあなたの誕生日。本当のところはわからないけれども、誕生日はないよりあった方がいい、と私は思うから、そういうことにしようと思う。

 とはいえ、一年に一度だけ訪れる特別な日も、過ぎてしまえば案外あっさりとしているものだ。そこから先はもう、いつもと変わらない日々が続いていく。

 学校の昼休み。教室に並んでいる机をいくつか寄せ合って、それぞれのお弁当を囲みながら、あなたは友人たちと顔を合わせている。どうやら次の休日の予定について、遊びに行く先を話し合っているらしい。

「だからあ。やっぱり見るなら今話題のやつの方がいいよお」

 ちょっと語尾が間延びしたような話し方をしているのは、どこかふわふわとした少女。名を菅原すがわらゆうと言う。

「あんたがよくても、あたし、恋愛ものはダメだって。すぐ寝ちゃうもの」

 そう言ったのは眼鏡をかけていて、どことなく固い印象を受ける少女。彼女の名は平賀ひらが千代ちよ

 外見からしても、その主張するところからしても、見事に対照的なふたりだ。だからというわけではないが、こうして意見が分かれるのはいつものことだった。

 提案が受け入れられなかったことにふてくされたのか、菅原憂はくせっ毛のある髪をいじりながらこう返す。

「それでいいじゃない。ひらっちょは。ぐっすり眠れるよ?」

 ひらっちょ、というのは眼鏡の少女のあだ名だった。真面目を絵に描いたような少女に、ずいぶんとぼけた呼び名がつけられたものだ。とはいえ、少女というものは、時によくわからないセンスを発揮するものだろう。

 菅原憂の言葉をはいはいと受け流しつつも、平賀千代はあなたの方へと話を振る。

「理子、あんたはどうなの?」

 机の上に広げられた雑誌に目を落とし、考えるふりをしているけれども、あなたの答えはおそらく決まっている。

「どれでもいいよ、二人が見たいもので」

 平賀千代はため息をついてから、呆れたようにこう言った。

「あんたいつもそれよね。決まらないじゃない」

 対照的なふたりに挟まれて、あなたはいつもどっちつかず――いや、友人たちとのやりとりに限らずとも、あなたは常にそうかもしれない。あなたはどうも、何をするにも他人の目を気にしてしまうようなところがあるようだ。

 とはいえ、この教室の中には、同じような制服を着た同じような年の学生たちが、同じような机の前に座って同じような日々を送っている。誰も彼もがこの学校という囲いの中で、学生たれと望まれたとおりにそうであるのなら、あなたが誰かの望みどおりであろうとすることと、どれほどの違いがあるというのだろう。

 周囲に合わせて生きるというと、主体性がないことのようにも思えるけれども、結局のところ、皆何かしら、こうあれという期待に添って生きているのだから。

 ともあれ、そんなあなたの受け身な性格には友人たちも慣れたものなのか、それ以上強いて答えを求めるようなこともない。そうして、特に意見するわけでもなく、提案するわけでもなく、休日の予定がどうなるのかの成り行きを、あなたは静かに見守っている。

 映画なら、この前にテレビのCMか何かでちらりと見かけた中で、少し気になっているものが私にはあったのだけれど――こういうときに関わり合いになれないことを、私は少しだけ寂しく思う。

 ぱらぱらと雑誌のページをめくっていた平賀千代は、ふいにとある映画の見開き特集ページを指差した。

「あたしはこっちの方が気になるんだけど。評判もいいし」

 そこにある映画のタイトルは、私も何度か耳にしていたものだった。紙面にはでかでかと大げさな宣伝文句が踊っている。少なくとも、先ほど話題になった映画よりはおもしろそうだ。

 しかし、菅原憂は乗り気ではないらしく、あからさまに口を尖らせている。

「どうかなあ。ひらっちょが見たい映画って、難しそうだし」

「何よそれ。ただのミステリーじゃない。エンタメよ。エンタメ。これでも妥協してあげてるんだから。こっち推すよりは、ましでしょう?」

 そう言って平賀千代が指し示したのは、いかにもマイナーな外国の歴史映画だった。雑誌の片隅に、タイトルと簡単なあらすじがかろうじて掲載されている程度で、どうしてこの映画に彼女が惹かれているのか、私にはよくわからない。

 菅原憂にもわからなかったようだ。

「え……ひらっちょは、これ、見たいの?」

「だからミステリーの方でいいって言ってるじゃない。ほら。あんたが前に、好きだって言ってた俳優も出てるみたいだし」

 雑誌の紙面にある出演者リストには、確かに人気俳優の名がいくつか並んでいる。しかし、どれが菅原憂の好きな俳優なのかは、私にはわからなかった。彼女の主張はころころとよく変わるからだ。

 ともかく、菅原憂はそれを見て考えをあらためたらしい。まあいいかあ、などと呟いて、ころっと態度を変えてしまった。平賀千代が肩をすくめて目配せすると、黙っていたあなたも苦笑いを浮かべながらうなずき返す。

「いいよ。じゃあ、それで」

 こうして、少女たちの予定は決定した。

 あなたの視線がふと、広げられた雑誌の片隅に吸い込まれていく。そこにあるのは宇宙を題材にしたドキュメンタリー映画の紹介記事で、小さくはあるがきれいな星空の写真が添えられていた。

 見たいのかな? 見たいなら、見たい、って言えばいいのに。まあ、このメンバーでは、ちょっと難しいかもしれないけれど。




 休日の朝。

 待ち合わせの時間に遅れないように、あなたは早めに家を出た。左の手首には、誕生日プレゼントである腕時計を身につけて。

 住宅街を抜けて大通りまで出ると、人や車の往来は多くなる。ここから待ち合わせ場所である駅までは、およそ十分。特に何があるわけでもない、いつも通る道のりだ。しかし――

 あなたはふと、横断歩道の一歩手前で立ち止まった。信号の色は青。それなのに、あなたは呆然としたまま、歩き出す気配もない。何かあったのだろうか。

 こんなとき、あなたの考えが読めればいいのに、と思う。あるいは、私の考えをあなたに伝えることができたなら。

 幸か不幸か、そんなことができたことは一度だってなかったけれども。

 同じものを見て、同じものを聞いていても、他人の心なんて、やはりわからないものだ。しかし、だとすれば、人というものはどうやって他人を理解しているのだろうか。

 ともあれ。

 ――行かないの?

 私は思わず、あなたにそう問いかけた。心の中で、だったけれど。

 しかし、あなたは急にはっとした表情になると、なぜか周囲をきょろきょろと見回し始めた。届くはずがないと思っていたその声が、あたかも聞こえたかのように。

 そのときちょうど、立ち止まっているあなたの横を、小さな男の子を連れた女性が通り過ぎて行った。そのことに気づいたあなたは、戸惑ったようにそのふたりの姿を目で追っていく。すると――

 どこか遠くから近づいて来るのは、唸るような大きな音。それは甲高い音を交えながら、目の前の横断歩道を目指してものすごい速さでやって来る。

 ――危ない。

 私がそう言い終わらないうちにも、突如として現れた乗用車は、道の向こう側にある電柱へとぶつかった。耳をつんざくほどの大きな音を立てて、車はその場で停止する。

 幸いなことに、事故に巻き込まれた人はいないようだ。しばしの静寂の後、小さな男の子は火がついたように大声で泣き始めた。周囲からも、徐々に人が集まってくる。

 目の前で起こったできごとに唖然としていたあなたは、急に力が抜けたかのように、その場で地面にへたり込んだ。



 あなたは今、病院にいる。

 私たちがよく知る病院ではない。わけもわからずに連れて来られた、近くの知らない病院だ。

 あの場でへたり込んでしまったあなたは、周囲の人たちに怪我でもしたのかと思われてしまったらしい。医者に診てもらった方がいいのでは、ということになって、半ば強制的に連れて来られたのだった。

 実際のところ、あなたが負ったのは地面に手をついたときにできたすり傷くらいだ。たまたま事故に行き合っただけだというのに、とんだ大さわぎになってしまった。

 それにしても――

 唐突に起こった、あの事故。その直前、あなたはそれを予見したかのように立ち止まっている。あれはいったい何だったのだろう。

 幸いなことに死者は出なかったようだが、警察の人にはいろいろと事情を聞かれることになってしまった。それでいて、あなたはそこで奇妙な証言までしている。そればかりか、この病院でも――

 あなたがこうして連れて来られたのは、そのせいもあるのかもしれない。どうも、あなたの頭がどうにかなったのではないか、と思われてしまったようだ。

 しかし、診察の結果は特に異常なし。車にぶつかったわけでもないのだから、当然だろう。

 そうしてあなたが行き着いた場所は、病院内にある小さな休憩室のようなところだった。

 折りたたみ式の机にパイプ椅子が並べられているだけの狭い部屋で、本来は何に使う場所なのかよくわからない。病棟の奥まったところにあるせいか、辺りには人気ひとけもなく静かだった。

 事故のことは家族に連絡済みで、あなたはここで迎えを待っている。もちろん、友人との予定は中止。

 直後にはそれこそ混乱していたあなただが、今はどうにか落ち着いているようだ。それでもどことなく戸惑っている風ではあるが、今さら騒いだところでどうしようもないとでも思っているのか、頼りないパイプ椅子の上で大人しくぼんやりとしている。

 ふと思い出したかのように、あなたは鞄から携帯端末スマホを取り出した。この部屋で使用しても問題ないだろうか、と迷う素振りを見せながらも、あなたはそれを操作し始める。

 家族からのメッセージの中に、菅原憂からのメッセージが一件混じっていた。今から目的地へ向かうから、来られるなら直接来るように、とだけある。

 簡素な文章は彼女が発信したものではないだろう。本人からだとしたら、まだ? とか、遅いよーとか、短いくせに絵文字で装飾過多なメッセージがきっと大量に送られている。

 平賀千代は自分の端末を持っていない。菅原憂のものを借りて、代わりにメッセージを送ってくれたのだろう。事情を問い質さないのは、おそらく彼女なりの気づかいだ。

 そのことにほっとしながらも、あなたはあらためて姉からのメッセージに目を通した。仕事ですぐには向かえないので代わりをよこす、という内容だ。

 平賀千代のメッセージも簡素ではあったが、姉の方が妙にとげとげしく感じるのはなぜだろう。あなたも同じように思ったのか、画面を見つめながら大きくため息をついた。そのとき――

 こんこんこん、と室内に小気味よく扉をノックする音が響いた。

 あなたは思わず周囲を見回すが、そこには当然、誰の姿もない。返答にまごついているうちにも、廊下に続いているその扉はあっさりと開かれてしまった。

 部屋の中に入ってきたのは、黒いスーツ姿の男がひとり。その顔に見覚えはない。あなたがぽかんとしていると、男はさっそうと歩み寄って来て、にこやかな笑みを浮かべながら、こう問いかけた。

「どうも、こんにちは。初めまして。どちらがいいですか?」

 男があなたに差し出したのは、ペットボトルの炭酸飲料が二種類。よりによって、どうしてこれなのだろう。炭酸が苦手なあなたは、どちらもいらない、という表情を隠そうともしなかった。

 いや、そういう問題ではない。そもそもこの男は誰なのか。あなたは相手の顔をまじまじと見返すが、当の本人は気にする様子もなく、こちらの出方をじっと待っている。

 あなたは渋々口を開いた。

「けっこうです」

「まあまあ。そう遠慮せずに」

 珍しく明確に示した拒否の意思表示は、事も無げに無視されてしまった。目の前の机の上に選択した覚えのないペットボトルがどんと置かれたので、あなたは思い切り顔をしかめている。

 視線の先では、透明な液体に浮かぶ泡がさらさらと容器の中を流れていた。素直に受け取る気などないのだろう。あなたはそれをにらんだまま、手を伸ばす気配もない。

 謎の男はあなたの向かいにある椅子に断りもなく座ったかと思うと、手にしているペットボトルを開けて、おいしそうに飲み始めた。何なんだ、この人。

 年の頃は三十代くらいだろうか。背格好は中肉中背。顔立ちにも、これといって特徴はない。何か特徴があるとすれば、ずいぶんと大きな黒のビジネスバッグを手にしていることくらいだろうか。

 突然のことに、あなたはしばし呆然としてしまっている。

 しかし、得体の知れない男とふたりきりという状況は、よくよく考えてみるといささか不穏ではあった。早々に去ろうとでも思ったのだろう。あなたは椅子から立ち上がる。が――

「お待ちください。私はあなたにお話があるんですよ。金谷理子さん」

 聞き間違えようもない。呼ばれたのは確かに私の名前だった。

 この場から逃げ損ねたあなたは、間抜けな顔で相手のことを見返している。そんなあなたの反応などおかまいなしに、男はスーツの内ポケットから何かを取り出すと、そこから一枚の紙片――どうやら名刺のようだ――を抜き出して、それをあなたに差し出した。

「私はこういう者でして。それから……そちらについては、お気になさらず。私のおごりですよ」

 男の言う、そちら、は机の上に置かれたペットボトル飲料のことだろう。それについてはひとまず無視することにして、あなたは男から仕方なく名刺を受け取ると、その紙面に目を走らせた。

 すぐさま目に入ったのは、おそらくこの男の名。ハトムラ、タスク――当然、聞いたことなどない。

 それにしても、どうして全部ローマ字で書かれているのだろうか。読みにくいこと、この上ない。併記されている文字列はただの装飾かと思ったのだが、どうやら外国の住所のようだ。電話番号らしき数字の羅列もある。

 うさんくさく思って裏返してみると、反対側には日本語での表記もあった。鳩村翼。住所はない。あるのは携帯電話の番号とメールアドレスだけ。

 名刺を受け取ったところで、何ひとつわかることなどなかった。それでもあなたは、そこに何か重要なことが隠されているのではないか、とでも言う風に、穴が空くほどそれをじっと見つめている。

「少し話が長くなると思いますので、どうぞおかけになってください」

 鳩村翼はそう言って、目の前の席につくようあなたを促した。あなたはどうすればいいかを決めかねて、その場でただ立ち尽くしている。

 病院。静かな部屋。そこで話があると呼び止められるあなた。これでこの男が白衣の医師だったなら、余命宣告を覚悟してもおかしくないところだ。

 しかし、ここにいるのはあくまでも得体の知れない黒スーツの男であって、相対しているのも、ちょっとした事故に出くわしただけの、ただの中学生でしかない。

 もしかして、保険関係の人か何かだろうか。事故について話に来たとか。それならそうと言って欲しいが――

 少なくとも表向きは友好的にも思える相手だからだろうか。あなたはこの男を強く拒絶することも、かといって、素直に従うこともためらわれるらしい。逡巡した結果、あなたは出入り口に一番近い椅子へと座り直した。これなら、いざというときにはすぐにでも逃げ出せるからだろう。

 ひとまずその場に落ち着いてから、あなたは恐る恐るこうたずねた。

「どんなお話でしょう」

 あなたはあからさまに疑わしげな目を向けていたが、相手の方はあくまでも余裕の表情だ。

「いえ、ね。先ほどの医者との会話を、ちょっと小耳に挟みまして。それで、あなたとお話がしたいな、と思ったんですよ」

「小耳に挟んだって、どういうことですか?」

 よりいっそう不信感をつのらせているあなたに向かって、鳩村翼は平然とこう言い放つ。

「あの診察室、となりとつながっているんですよね。あなたがいらっしゃるとき、私はそちらにおりまして。それで」

「それって要するに、盗み聞きしたってことですよね?」

 あなたは非難めいた声でそう問い返したが、鳩村翼は悪びれる様子もない。

「盗み聞き! 盗み聞きとは心外ですね。私はあくまでも、となりにいたというだけで、話を聞いてしまったのはたまたまです。地獄耳、とはよく言われますけどね。私もあなたと同じ患者ですよ。となりで診察を受けていたのですが、医者が途中でいなくなってしまって。どこかへ行ったまま、帰ってこなくなってしまったんです。他にすることもなかったので、ぼうっとしていたという次第で」

 それはいったいどういう状況なのだろう。本人は患者だと言うが、どうにも信じがたい。厄介な人物だったとかで、放置されていただけではないだろうか。あるいは、単に忘れられていただけかもしれないが。

 あなたは呆れてものも言えないようだが、鳩村翼がそのことを恥じる様子はない。むしろ、何を思ったのか、ぶつくさと文句のようなものまで口にし始めた。

「まったく。痛い痛いと訴えている患者を放っておくなんて、どういうつもりなんでしょうね? 確かに、他の重症の方に比べれば、私の怪我など大したことはないのでしょう。一応は歩けますし。とはいえ、いつ悪化しないとも限らないじゃないですか。遠方から乞われて訪れた客人に対して、この町は冷たすぎる!」

 そんなことを言われても困るのだが。この男はあなたにいったい、どうしろというのだろう。

 もはや相槌を打つのも面倒といった風に、あなたはひたすら口を噤んでいる。鳩村翼

の話を聞いているのか、いないのか。聞かなくてもいいような気もするけど。

「いいですか。私はこの近くにある神社の御神体を調査するために招かれたのです。それで、つい先日に行われた例祭を拝見したんですけどね。終わった後に周辺を見て回っていたところ、暗闇の中、足を踏み外して、おむすびころりんすっとんとん、です! 外傷がなかったのはよかったんですが、あれ以来、腰が痛いったらない!」

「あのお祭りのときに、あなたもあの場所にいたんですか」

 おかしな表現も内容もすっ飛ばして、あなたは思わずそう返した。

 それまで沈黙していたあなたがふいに言葉を発したので、鳩村翼は虚をつかれたらしい。しかし、すぐに気を取り直すと、得意げな顔でにやりと笑った。

「ええ。しかも、特別に関係者枠で、です。御神体での儀式も拝見しました。しかし……あなたもあの祭のことをご存知でしたか。それなら、話は早い」

 何が、話は早い、のだろう。これからの話と、何か関係があるのだろうか。

 いぶかしげな表情を浮かべるあなたに向かって、鳩村翼はにこやかに笑うと、あらためてこう話し始めた。

「さて。それでは、そろそろ本題に入りましょうか。これについては、そのお祭りとも無関係な話ではないのですが――ともかく、あなたは診察のときに、奇妙なことをおっしゃっていたでしょう? お聞きしたいのは、そのことです」

 奇妙なこと。その言葉を耳にすると、あなたは途端に複雑な表情を浮かべた。

 鳩村翼が言っているのは、あなたが証言した事故についてのことだろう。

 現場を訪れた警察にも、診察を受けた医者にも、あなたは事故のことをこう話している。壊れた車があったので立ち止まったら、そこへさらに車が突っ込んで来た、と。

 しかし、起きた事故は一度きり。見間違いか、あるいは、事故に出くわした驚きで記憶に混乱が生じたのか――ともかく、事実と異なる証言に、あなたは真っ先に正気を疑われた。

 当初は頑なだったあなたも、何度となくいぶかしげな目を向けられていては、さすがに自信をなくしたらしい。そのうち、そう主張することもなくなった。その結果、その話は今ではなかったことになっている。

 そのことは、あなたにとって苦い記憶なのだろう。思いがけず蒸し返されたことで、あなたはあからさまに顔をしかめた。

「あれは……私の勘違いです。びっくりして、ありもしないものを見たと思ってしまっただけで」

 あなたはそう言い訳するが、鳩村翼はそれをさらりと流してしまう。

「まあ、勘違いかどうかはともかくとして、あなたはそう証言されていたでしょう? 事故が起こる以前に、あなたは事故を目撃した。それから、もうひとつ。声が聞こえた、という話もありましたね」

 その問いかけにも、あなたは苦々しい表情を浮かべている。

 あなたが聞いたという声は、おそらく私が発したものだろう、と思う。発した、というか、伝わった、というか。

 私はあのとき、立ち止まったあなたに向けて、確かにこう問いかけた。行かないの? と。その声が、どうやらあなたには聞こえていたらしい。

 もしもあのとき、あの声に従っていたとしたら、自分は車に轢かれていたかもしれない――と、あなたはずいぶんと怯えていた。あなたの立場からすると、そういう認識になってしまうのだろう。こちらとしては、そんなつもりはなかったのだけれど。

 どこか釈然としない様子で、あなたはこう呟いた。

「確かに、言いましたけど……」

 鳩村翼はあなたの心情を思いやることもなく、ただその言葉だけを取り上げて、思ったとおりだと得意げな顔をしている。挙げ句、こんなことまで言い出した。

「しかも、事故に居合わせた親子は直前に、危ない、と声をかけられたから難を逃れられた、と言っているのだとか。周囲にはあなた以外に声をかけられる者はなく、しかし、あなたはそんなことは言っていない、と」

 そのことについては、私にもよくわからない。私の声は今まであなたにだって聞こえていなかったのに、ましてや他の人にも聞こえていた、だなんて。俄かには信じがたいことだ。

 そんなことを考えていると、鳩村は思いがけずこう続けた。

「もしも、その声があなたの内からのものだとすれば――それは、応声虫おうせいちゅうではないかと思うのですよ」

「……応声虫?」

 首をかしげるあなたに向かって、鳩村翼は大きくうなずいている。

「応声虫とは、要するに、人に寄生する虫のことです。この虫が体内に入ってくると、腹の中から応じる声がするんですよ。それで応声虫」

 鳩村翼は楽しそうにそう話すが、突拍子もない内容に、あなたは言葉を失っている。

「あるいは、古い書物によると、応声虫は寄生した人の腹に、口のようなを生じさせることもあるようです。しかも、その口は話すだけでなく、物を食べるのだとか」

「そんな気持ちの悪いもの、私にはありません」

 さすがにぎょっとして、あなたはすぐさま否定した。しかし、鳩村翼は淡々とこう返す。

「まあ、さすがに口ができる、というのは話を盛りすぎですよね。そうなると、もう人面瘡じんめんそに近いですし。それに、どちらにせよ、あなたの中にいるのがそれだと言っているわけではありませんよ。それに類するものではないか、という話です。オウセイチュウ科だか、オウセイチュウもくだかは知りませんが、とにかく、何かしらの新しい生きものなのではないか、とね」

「……オウセイチュウ科? そんなものがあるんですか?」

 あなたがそう問いかけると、鳩村翼はしれっとこう答えた。

「あるわけないじゃないですか。たとえですよ。たとえ。実際にオウセイチュウ科であるかどうかはわかりません。タヌキだってイヌ科ですし」

 あなたはその答えに閉口していたが、鳩村翼は平然としている。この男、どこまで本気なのだろう。

「で。ここからは、私の考えなんですが……まず、くだんの神社で行われている儀式において、寄坐に宿る存在が何と呼ばれているかを、あなたはご存知ですか?」

 話の流れに戸惑いつつも、あなたは素直にこう答えた。

「確か、テンコウさま、では……」

「そうそう。それです。そのテンコウさまと呼ばれている存在は――その正体はともかくとして――この地域に古くから根差している信仰の名残のようなもの、でして。今となっては、あの神社にも御祭神は別にいるでしょうが――神社にもいろいろありますからね――ともかく、あの神社はもともと、そのテンコウさまを祀る場であり、テンコウさまこそがこの町の守り神だったわけです」

 あなたは何とも言えないような、奇妙なうなり声を発した。おそらく、ついていけなくなっているのだろう。

 しかし、そんなあなたとは違って、鳩村翼は意気揚々と話し続けている。

「まあ、それ自体はどうでもいいんですけど。ともかく、こうして現在に至るまで、その信仰を残しているテンコウさまなのですが――実のところ、ここ十年ほどの儀式では、寄坐による予言がきちんと行なわれていないことは、ご存知ですか?」

 あなたはその言葉に、けげんな顔をした。

「この前のお祭りで、私はその神事を見ましたが……予言が行なわれていないなら、あのときのあれは、何だったんですか?」

 あなたの発言に、鳩村翼はわざとらしく目を見開いた。

「おや? 夜遊びですか? まあ、それはいいとして……あの場では、寄坐が何も言わなければ、つつがなし――つまり向こう一年には災厄なし、ということになるんですよ。先日もそうでした。その前の年も。その前の前の年も、です。どう思われます?」

「そういうものじゃないんですか? 予言できる存在に、今年は問題ない、ってお墨つきをもらうんでしょう?」

 あなたの言葉に鳩村翼は、ほう、と感心したような声を上げた。

 しかし、この答えは純粋にあなたの考えというわけではない。平賀千代からの受け売りだ。そもそも、あの神事を見たいと言い出したのも彼女だった。

 鳩村翼はふむとうなりながらも、こう続ける。

「まあ、形式的なものなら、そんなところでしょう。しかし、テンコウさまに限っては、それには当てはまらないのですよ。十年ほど前まで、テンコウさまは予言をしたそうです。しかし、近頃はそのお言葉をいただけていない。宮司さんは、寄坐が子どもでなくなったことが原因か、と思われているようですが……ともかく、そのことに関連して、私は宮司さんから調査を頼まれましてね。それで、この町までやって来たというわけです」

 あなたは、はあ、と気のない返事をした。そのことが、自分といったいどんな関わりがあるのか、といぶかっている様子だ。

 しかし、そうして戸惑うあなたのことを、鳩村翼は気にする素振りもない。

「さて。ここからが大事なのですが……そもそも、未来を予知をするもの、なんてものは、そうそういないのです。仮にそう主張していたとしても、そのほとんどがまがいものか、ごまかしですから。だからこそ、本当に未来を予見したなら、それは本物に違いない、と私は考えたわけなのですが――」

 そう言って意味深な視線を向ける鳩村翼に、あなたはどうにかこうたずねた。

「つまり、その……それは、どういうことでしょう」

 鳩村翼はにやりと笑い返す。

「ですから。もしかして、いなくなったテンコウさまは、あなたの中にいるのでは?」

 とんでもない発言に、あなたはぽかんと口を開けた。それに対して、鳩村翼はなぜか得意げな顔をしている。

「あなたは二度、事故した車を見ている。それこそが、災厄の予知です。そのときに聞こえたという声も、無関係ではないでしょう」

「ちょっと待ってください。いくら何でも無茶苦茶です。そんなことが、予知だって言うんですか? それに、おかしなものを見たのは、今のところあのときだけです。その――テンコウさまが私の中にいるのだとして、どうして突然そんなことに……」

 慌てるあなたに対して、鳩村翼はどこか楽しげな表情で首を横に振った。

「あなたは、あの儀式をご覧になったというお話でしたよね。でしたら、なおのこと筋が通る。つまり、それを見たことをきっかけにして、あなたの中のテンコウさまは本来の力を取り戻したのです!」

 鳩村翼はそう言いながら、あなたに人差し指を突きつけた。

 あなたが思わずたじろぐと、鳩村翼は満足げにうなずきながら、あらためてこう続ける。

「なぜ、あなたの中にテンコウさまがいるのかは、わかりません。いえ――それを知るためにも、ぜひ、あなたのことを調べさせていただきたい!」

 突飛な提案に対して、あなたは何も答えることなく固まってしまった。おそらく、思考が停止しているのだろう。

 呆然としているあなたに向かって、鳩村翼は訳知り顔でこう話す。

「ご安心を。私はそういった存在には慣れておりまして――というか、そういったものを扱うのが家業でして。専門は隠棲いんせい動物学です。テンコウさまの正体は、他では知られていない、新しい生きものなのかもしれません。ぜひ、あなたの中にいるものを調べさせていただきたい!」

「……隠棲動物学?」

 そこでようやく、あなたはぽつりと言葉を発した。どうしてもそれをたずねなければならなかった、というわけではなく、どうでもいいことだからこそ、何の気兼ねもなく言葉にできたのだろう。

 鳩村翼は気勢をそがれつつも、こう答えた。

「隠棲動物というのは……UMAユーマだの、未確認動物だの――まあ、そういった呼び名の方が、通りがいいんでしょうね。しかし、ただのオカルトだと思われるのは心外です。私はそういった生きものについての実在を、真剣に研究しているのですから。私はね、他の身内とは違って、幻想の生きものを幻想のままにしておく気はないのですよ――と、まあ、それはともかく……」

 鳩村翼はそこで、あらためてあなたに向き直った。

「許可をいただけるなら、この件は私からご家族にもお話しいたしましょう。未成年なら、親の同意が必要ですからね。いかがです? 非人道的なことは行いませんし、ちゃんとお礼もさせていただきますよ?」

「冗談じゃありません! 親にそんなわけのわからないことを言うなんて……」

 動揺するあなたに向かって、鳩村翼は小首をかしげながら問い返した。

「どうしても、ダメですか?」

「ダメです。というか、嫌です。そうでなくたって、私の中にそんな――わけのわからないものがいるとは思えません。まぎらわしいことを言ったことについては、すみませんでした。あれは私が悪かったんです」

 あなたがそう答えると、鳩村翼はしばし黙り込んだ。それでも食い下がるかと思ったのだが――彼はあなたのことをしばらくじっと見つめると、思いがけずあっさりと引き下がった。

「そうですか。まあ、かまいませんけどね」

 鳩村翼はそう言うと、空になったペットボトルと大きなビジネスバッグを手に立ち上がった。はっきりと拒否したとはいえ、あまりに唐突だったからか、あなたは呆気にとられたような表情をしている。

 さっそうと歩き出した鳩村翼は、部屋を出る直前で思い出したように立ち止まると、にこやかな表情であなたの方を振り向いた。

「気が変わるか、あるいは、あなたの身に何か変わったことがありましたら、お渡しした名刺の番号へ、ご連絡いただけると幸いです。あなたは貴重な存在ですから。お気軽に、何でもご相談ください」

 それだけ言い残して、彼はこの場から去って行く。扉が閉められると、室内は何ごともなかったかのように、しんと静まり返った。

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