樹上の蜥蜴座(ラケルタ)

速水涙子

1-β 唄を忘れたカナリヤは

 遠くから聞こえてくるのは重く響く太鼓の音。一定の間隔で打ち鳴らされるそれは、あたかも鼓動のように私の体を揺るがした。

 何気なく見上げた夜空には、ちらちらと小さな光が瞬いている。今の時期、この時間なら探しやすいのは、こと座のベガだろうか。わし座のアルタイルと、はくちょう座のデネブと共に、それらは空に大きな三角形を描く。黒く切り取られた山の端の近くには、さそり座の赤いアンタレスも見えた。

 この日は新月だったので、星の輝きはひときわ明るく、それをさえぎる雲の姿もない。梅雨の時期ではあるが、この町では毎年、なぜか決まってこの日だけは必ず晴れるらしい。

 それが本当かどうかはわからないけれども。少なくとも私の知るここ十年ほどの間は、この日に雨が降ったという記憶はない。

 音の出所に近づいて行くうちに、それに合わせて笛の音色が混じり始めると、周囲にはいよいよ祭りの空気が満ちていく。

 ここまで来ると行き交う人の姿も多く、すれ違う子どもたちは綿菓子やりんご飴、お祭りのときくらいしか見ないような音の出る奇妙なおもちゃを持って、楽しそうに笑っていた。そろそろ時間も遅いから、小さな子どもたちは家路につく頃なのだろう。

 周囲の熱に浮かされて、歩調は無意識のうちに早くなっていく。そのうち待ち合わせ場所に友人たちの姿を見つけると、私は小走りでかけ寄った。

 小柄な少女が私のことに気づき、となりにいる眼鏡の少女の肩を叩いている。どちらも中学校で同じクラスの友人だ。

 この日はすでに学校でも顔を合わせていたので、あらたまったやりとりはしない。ただ、お待たせ、と声をかけて彼女たちと合流すると、人の波に流されるようにして鳥居の下をくぐった。

 神社の本殿へと続く参道には、提灯やのぼりがずらりと並んでいる。暗い中で煌々と灯る屋台の光は、それだけで何か特別なもののように思えた。

 可愛らしい浴衣を着た女の子たちが、すぐ横を通り過ぎて行く。華やかな姿を目にしてしまうと、せっかくのお祭りの日にいつもどおりでしかない自分の姿が少し惜しい気もした。とはいえ、この日の計画を思えば、浴衣を着ることはあまり現実的ではないのだが。

 祭りの光景を目の前にしたからか、友人のひとりがはしゃいだ調子でこう言った。

「何食べる? あっちでたこ焼き売ってるよ。クレープもいいなあ」

「今回の目的が何なのか、忘れてるんじゃないでしょうね」

 別の友人が、冷ややかにそう釘を刺す。彼女の視線の先にあるのは、祭りの予定が書かれた立て看板だ。

 夜の十時から拝殿の前で神事が行われる予定だった。これが変わったものらしく――といっても、他所よその神社のお祭りをよく知らないから、そもそもどう変わっているのかわからないのだが――一部では奇祭として有名らしい。

 今日の目当ては、その神事だ。ただ、それが行われるのは、私たちくらいの年だと、そろそろ帰りなさいと怒られるような時間帯で――そのため、私たちはある計画を立てていた。

 とはいえ、神事が始まるまでにはまだ時間がある。私たちは屋台のグルメを楽しんでから、あざやかな原色のドリンクを手に、祭りの空気から遠ざかっていった。

 神社は小高い山の中にあって、背後には頂を背負っている。そこには注連縄しめなわがかかった巨石があり、それがこの神社の御神体だった。

 普段なら近くまで行くこともできるのだが、祭りの間は立ち入りが禁止されている。しかし、その周辺に広がる道なき山中に、境内を見下ろすことができる場所があるのだという。

 そんなところに入り込んでいることが知られたら余計に怒られるのでは、と心配したのだが、この情報を提供した友人によると、通れないのは御神体から拝殿までの道だけで、その周辺に関しては侵入が禁じられているわけではないらしい。

 そもそも、そこまで行ったとしても神事を間近で見られるわけでもなく、無理して入り込む者もいないようだ。特別な事情がなければ、わざわざ訪れる人などいないだろう。

 そんなわけで、私たちは自分たちだけの特等席を目指して険しい道のりを進んでいた。遠くからの明かりだけが頼りの山中は、生い茂る木々のせいでより暗い。

「こんなとこ来るの、小学生以来だよ」

 飛び交う虫を払い除けながら、先行く友人がそう言った。

「小学生のときだろうと、私にはそんな思い出ないけどね。それにしても、これ、思ってたよりもきつくない? 子どもでも大丈夫だって話だったじゃない」

 私の後ろを行く友人は、息切れまじりの声でそうぼやいた。それとは対照的に、前方から応える声は平然としている。

「小さいときとか、男の子たち引き連れてよく秘密基地とか作ってたけど。この辺りの子どもなら、ここは定番の遊び場だって。理子りこちゃんはどうだった?」

 友人の問いかけに、私は思わず顔をしかめた。

 実のところ、この神社にはいい思い出がない。祭りや初詣は別にして、普段は近づくこともなかった。

 その理由を、友人たちにどう話したものか。考えた挙げ句に、私は――と答えかけた、ちょうどそのとき、後ろからこんな声が上がった。

「あ。ほら、そろそろ始まるみたい」

 友人が指差す先にあったのは、松明の赤い炎。茂みの向こうにある石段を、ゆらめく光の列がゆっくりと下って行くのが見える。

 そのうち目当ての地点で足を止めた私たちは、並んで神社の境内を見下ろした。拝殿の周囲には神事が目当てと思われる人たちで、すでに人だかりができている。

 祭りのお囃子は止んでいて、今は人々のさざめく声だけが聞こえていた。御神体の方から山を下りて来た神官や巫女たちは、順に拝殿の前へと並んでいく。

 その中心には、ひとりだけ奇妙な面を被っている人が立っていた。他では見かけたことがない少し変わった面で、それは恐ろしくもなければ、ひょうきんでもない――のっぺりとして、いかにも古そうな面だ。

 この人がテンコウさまといって、神事の中心となる寄坐よりましだった。本来なら子どもの役目らしいが、さまざまな事情で今は氏子うじこのうち若者の中からくじで選んでいるらしい。

 太鼓の音が何度か打ち鳴らされると、境内はしんと静まり返る。ここからは、神事が終わるまで音を立てることは禁忌だ。屋台の灯も、このときばかりは消すことになっていた。

 境内には、松明の炎だけが火の粉を散らしながら赤々と燃えている。

 時間になると、寄坐を中心にして、その周囲を巫女たち舞い始めた。何となく、かごめかごめを思い起こさせる動きだが、その足並みはかなり速い。見ていると、こちらまでぼうっとしてくるくらいに。

 そんなことを思っていると、私の頭の中には、ぼんやりと見知らぬ光景が流れ込んできた。

 ごうごうと、うなるような音を立てながら、逆巻く渦の幻が見える。

 その中で、幼い少女が泣いていた。

 ひとり声を上げながら。

 この子は、どうして泣いているのだろう。

 辺りは暗く、激しい雨が降っているようだ。

 場所はおそらく、この神社。

 これは遠い過去の記憶か。それとも――

 ひときわ澄んだ鈴の音が響いたので、私は現実へと引き戻された。

 いつの間にか、寄坐がうなだれているのが見える。さっきまで舞っていた巫女たちは寄坐を取り囲むようにしてひざまずいていた。

 そこへ歩み出た神主が、寄坐に近づいて耳を傾ける仕草をする。そうして聞いているのは未来の吉凶――ようするに予言なのだそうだ。

 とはいえ、それを語る寄坐の声は、私たちはもちろんのこと、周囲を取り巻く人々にも聞こえはしない。あとは神主が代わりにその内容を告げて、この神事は終わるのだが――

 そのときふいに、どこからか声が聞こえた気がした。

 ――どんな未来が見えたのかな。

 どことなく、楽しげな声。私は思わず周囲を見回した。友人たちではない。しかし、空耳とも思えなかった。近くに誰かいるのだろうか。

 誰、と小さく呟くと、となりにいた友人が厳しい表情で人差し指を口に当てた。静かに、という意味だろう。私は慌てて口を閉じる。

 そんなやりとりをしている間に、私は神主の言葉を聞き逃してしまった。

 神事が終わった途端、境内にあった張り詰めた空気は和らいでいく。人々は散り散りに去って行き、屋台の照明も徐々に点灯していった。

「もう。神事の間は声を出しちゃダメだって言ったでしょ。ここは遠いから、聞こえないだろうけど……」

 山を下りながら、友人は私に苦言を呈した。もっともなことだったので、私はしおらしくこう返す。

「ごめん。でも……さっき、声が聞こえなかった? 私たちじゃない誰かの」

「何それ」

 友人たちは、そろってけげんな顔をしている。足を止めてまでしばし顔を見合わせたその後で、そのうちのひとりは呆れたような表情で肩をすくめた。

「あたしには聞こえなかったけど?」

「理子ちゃんって、たまにそういう怖いこと言うよねえ」

 友人たちは口々にそう言うと、どこかおもしろそうに笑っていた。

 とにかく、これで目的は達成したことになる。いろいろと話したいこともあったが、私たちは早々に帰ることにした。私はともかくとして、他のふたりはあまり遅くなるのもいけないだろうから。

 そうして、鳥居の下で友人たちと別れて、私はひとり家路についた。




 これはおそらく夢だろう。

 その光景のただ中にあって、私の意識はふと、そのことに気がついた。

 幼い少女が、山の中をかけ回って遊んでいる。木によじ登ったり、岩の上から飛び降りたり。神社の周辺に広がる森は、子どもたちにとって恰好の遊び場だ。

 そういえば、誰かとそんな話をしていた気がする。そのせいで、こんな夢を見ているのだろうか。

 幼い頃、確かに私もあの場所で遊んだことがある――あるはずだ。でなければ、こんなことにはなっていないだろうから。

 夢の中の少女はひた走る。険しい山道を。危ない崖など、ものともせず。もしも大人がこの光景を見ていたなら、きっと怒られていたに違いない。

 とはいえ、子どもは案外、自分なりの用心をしているものだ。もちろん、それが万全かどうかは、また別の話なのだが。

 ともかく、これは私が見ている夢に違いなく、それを確信したのは、この場面に見覚えがあったからだ。どうやら私は今、遠い過去の記憶を夢の中で思い起こしているらしい。

 そのことに気づいてしまったからだろうか。たとえそれが夢だとしても、私にはその行きつく先の結末を変えられはしなかった。

 山中をかけていた少女は、ふいに足を滑らせる。そして、崖下へと落ちていった。声を上げることもなく、急な斜面を真っ逆さまに。

 助けを求めて、手を伸ばすような余裕もない。落ちる、と思ったそのときには頭が真っ白になり――

 気づけば、山中で幼い私が泣いていた。

 ひとり大声を上げながら。

 それは始まりの記憶。今ここにある私はそこから続いている。

 そのことを、今はっきりと思い出した。見ている光景を、これは夢だ、と気づきながら。

 そのとき。

 ――ほら、時間だよ。

 そう声が聞こえた気がして、私はまどろみから目を覚ました。自室の机に向かっていた私は、いつの間にか、うつらうつらと舟を漕いでいたらしい。

 慌てて時計に目を向けると、針はちょうど二十三時五十三分を指したところだった。頭に浮かんだ、誕生日おめでとう、の言葉に、ありがとう、という心の声が返ってくる。意味のないひとり芝居に、私は思わず苦笑いを浮かべた。

 かちかちと音を刻みながら時計の針は回る。そうして一歩ずつ動いていく秒針が再び十二の数字を過ぎて行かないうちに、私は目の前に並べた自分宛ての誕生日プレゼントへと、ようやく手を伸ばした。

 私――金谷かなや理子りこは、十五年前のこの日この時間に生まれた――はずだ。要するに、今日は私の誕生日だった。

 この時間まで待ったことに意味はない。強いて理由を挙げるとすれば、ここにあるものは十五歳の私へ贈られたものだから、そうなるまでは何となく自分のものではないような――そんなことを思ってしまったからだ。

 祝ってくれる家族がいれば、そんなことは考えなかったかもしれないが、しんとした家の中には、今は私ひとりしかいない。つい先ほどまでにぎやかなお祭りの場にいたこともあって、この静けさはひとりきりであることをよりいっそう物悲しくさせていた。

 そうした状況も相まって、私は自分の誕生日に何か特別な意味を持たせたかったのかもしれない。

 誕生日といっても、豪華な夕食が用意されていたわけでもなく――そもそも、屋台で散々買い食いをした後だ――冷蔵庫にあった誕生日ケーキ、もとい冷凍で売られている安いカットケーキは、一部がまだ凍っていたものを特に感慨もなく平らげている。両親がいないのはいつもことだったし、姉が薄情なのもいつものことだった。

 姉が結婚して家を出てからは、たとえ誕生日だろうとひとりで過ごすことがほとんどだ。父は仕事で忙しく、母はほとんどが病院での生活。

 姉はここから歩いて数分という近場に住んでいるので、会いに行こうと思えば行けるのだが、自分の誕生日だからと言って押しかけることができるほど、私たちの姉妹仲はよろしくない。とはいえ、たまに帰って来ては家事を手伝ってくれているのだから、姉の存在はありがたいと思うべきなのだろう。

 三年前までの誕生日は、姉と二人で過ごすことが多かった。とはいえ、そのときでさえ、いつもの夕食に誕生日ケーキとプレゼントが追加されるくらいだったけれども。その上、私が生まれた時間が深夜だったこともあって、おめでとうの代わりに、この時間にあんたはまだ生まれてないんだけど、などと姉から余計なことを言われるのがお決まりだった。

 この時間まで待とうと思ったのも、もしかしたらそのことが印象に残っていたからかもしれない。

 ともかく、そんな感じで少し寂しい境遇ではあるけれども、私は何不自由ない生活をしていた。私自身も、何の変哲もない、いたって普通の中学生だ。

 しかし、それはそれとして、今日くらいは自分のことを特別に思っても許されるのではないだろうか――とも思っていた。なぜなら、今日は私の誕生日なのだから。

 今年のプレゼントは両親から贈られた小さな箱がひとつと、姉夫婦から届けられた小包みがひとつ。学校で友人たちから受け取ったプレゼントは、とうに送り主たちの前で開けられていて、今は机の上に置かれている。実用的な文房具とかわいらしいヘアアクセサリーは、どちらもそれぞれの友人らしい選択だ。

 あとは家族からのプレゼントを残すのみなのだが、いざ開けようとすると、楽しみなような不安なような――そんな気持ちになってしまって、それを手にすることを、私は少しだけためらっていた。とりあえず、ここは小さい箱から開けてみようか。おとぎ話じゃないけれど、大きな包みには何が入っているかわからないから。

 きれいな夕焼け色の包装紙を破らないよう丁寧に広げていくと、中からは黒い箱が姿を現した。つやつやとした素材に金の箔押しの文字。何だか高そうだ、と気圧されながらも、私はその箱をそっと開けてみる。

 中に入っていたのは革ベルトの腕時計だった。紺色の文字盤には星図の意匠――私の星座の双子座だ――が施されていて、一等星の位置には煌めくラインストーンが嵌め込まれている。

 ひと目見て、すぐにその腕時計が気に入った私は、さっそくつけてみることにした。それは私の手首にしっくりと収まると、その細長い銀の針で静かに時を刻み始める。

 しばらくは嬉しさのあまりじっとながめていたのだが、そのうちふと、短針が十二時を過ぎていることに気づいて、私はすぐさま我に返った。慌ててそれを手首から外し、元通りに箱の中へとしまい込む。

 明日も学校があるのだから、いつまでもこんなことをしてはいられない。

 今日はこの辺りで切り上げて、いい気分のまま眠りにつこうか。そう迷いながらも、私はもうひとつの包みを開けてしまうことにした。

 こちらのプレゼントは正直言ってあまり期待はしていない。今まで姉から贈られてきた品々を思い返してみても、いい思い出がないからだ。

 とはいえ、ここに放っていておくわけにもいかないだろう。

 そうして、誕生日プレゼントらしくもない簡素な包装紙を破くと、何やら誕生日プレゼントとは思われない箱が姿を現す。それが何かということに気づいた途端、私は思わず固まった。

 鍋だ。どう見ても鍋――なんで鍋?

 そういえば、いつのことだったか、私は家にある手頃な鍋を焦がしてしまったのだった。たまに家まで来ておかずを作り置いてくれている姉は、そのことをよくぼやいていた――ような気がする。いつものことだと思って、私は軽く流していたけれども。

 両親があまり家にいなかったこともあって、かつては家事のほとんどを姉が一手に引き受けていた。それに比べて私がしてきたことは、せいぜいが子どものお手伝いといったところだ。出来のいい姉に比べると、私は明らかにダメな妹だった。

 そもそも、私たち姉妹は単純に仲が悪い。というより、姉は私のことを一方的に目の敵にしていた。

 理由はよくわからない。何が気に食わないのか知らないが、姉は昔から何かにつけて私の失敗をあげつらい、何をするにしてもいちいち余計な口出しをしてくる。それが嫌で何もしないでいると、それはそれで私のことを責め立てるのだからたまらない。

 いつからか、私は姉の顔色をうかがいながら日々を過ごすようになっていた。そうなると、主体性も何もあったものではなく、結局はぐうたらな妹にならざるを得なくなったというわけだ。

 姉が結婚して家を出ると知ったときには、さすがに私も焦りはした。しかし、いなければいないでどうにかなるもので――というより、私は今でも、たまに帰って来てくれる姉に甘えているのだと思う。

 こうなると、姉の中にある、甘やかされたどうしようもない妹、という評価は、どうしたってくつがえることはないのだろう。姉は姉で、私のことを嫌いはしても、家を荒れるに任せておけるような性格ではない。そうした事情もあり、私たちは決して仲のよい姉妹ではなかったけれども、お互いに牽制しつつも共存していた。

 姉の意図を汲むなら、この鍋は私への誕生日プレゼントではなく、この家への寄贈品といったところだろう。もちろん姉自身が使うための。この鍋を使って作られた料理が私の口に入るのだとすれば、私には何も言うことはない。

 これ以上、鍋とにらみ合っていても仕方がないので、さっさと台所に片づけようと私がそれを手に取った、そのとき――外箱に白い封筒が貼りつけてあることに気づいて、私はひとまず動きを止めた。

 手紙だろうか。外側には何も書かれていない。封筒を剥がして中を確かめてみると、そこには図書カードが一枚入れられていた。

 さすがに姉にも人の心があったのだろうか、と思うより先に、姉の夫――つまり義兄の顔が目に浮かぶ。気の強い姉とは対照的な、やさしく温和な男性だった。

 おそらくは、私のことを哀れに思い密かに用意してくれたのだろう。その気苦労を思って、私は涙を禁じ得なかった。

 よく見ると、封筒の中にはもう一枚、かわいらしい星のイラストが描かれたカードが同封されている。

 しかし、私にはそこに何が書かれているのかを判別することはできなかった。それ以前に、どちらを上にして見るのかすらわからない。

 しばらく四苦八苦した末に、私はそれを理解することを諦めた。これはおそらく、姉の娘であり、三歳になる私の姪からのメッセージだろう。その気持ちだけ、素直に受け取っておくことにする。

 字だか絵だかわからないそれをながめているうちに、私はふと、自分が三歳の頃はどんな子供だったのだろう、と思い返していた。

 十五年の時を生きてきたからには、当然、自分には三歳の頃があったはずだ。しかし、私にはその記憶がない。十五年の時を生きてきたはずなのに――


 それは、私が六歳の誕生日を迎えた次の日のことだった。神社の境内で遊んでいた私は、あやまって崖から落ちてしまったらしい。

 らしい、という表現なのは、単にそのことを覚えていないから、というわけではない。私はそのとき、自分や家族の名前も含めて、それまでの記憶を全て失ってしまったからだ。

 幸いなことに怪我の方は大したこともなく、病院で行われた検査でも特に異常は見つからなかった。記憶についても、そのうち思い出すでしょう、などと少々無責任なことを医者から言われながらも、私は早々に家へと帰されている。

 それ以前のことは全く覚えていない私だが、初めて――少なくとも私の認識ではそう表現して差し支えないと思うのだが――自分の家に足を踏み入れたときのことは、確かな記憶として残っていた。そのことが、私が思い出すことのできるもっとも古い記憶でもある。

 とはいえ、そのときの真っ白な私にとっては、知らない場所で知らない人たちに囲まれていた、というくらいの認識でしかなく、思い返してみたところで、よみがえってくるのは困惑の感情ばかり。新しく与えられたあらゆる情報を処理しきれずに、ただ呆然としていたことだけを覚えている。

 家族の方はというと、その頃はまだ、医者の言うとおり記憶もそのうち戻るのだろう、とそこまで深刻には考えていなかったようだ。しかし、それは甘い考えだった。しばらくは能天気に日々を過ごしていたのだが、いつまで経っても記憶が戻る気配はなく、家族は徐々に焦りを覚え始めたらしい。

 いつからか、私は思い出の場所とやらに連れ回されるようになっていた。近所の公園。通っていた保育園。ちょっと遠方にある祖母の家。何度も遊びに行った遊園地。ときには、あの神社にも――

 休みのたびにあちこち連れ出されては、親に手を引かれながら、あのときはこうだった、ああだった、と私の中にはない思い出を熱心に話して聞かされた。何がきっかけで記憶を取り戻すかわからないから、ということらしいが、私にとって、それらはどこもかしこも見知らぬ土地でしかなく、語られるのも私の知らない少女の物語でしかない。

 しかも、その少女の影がちらつくせいで、どこに行くにしても、何をしていても、私は楽しめたためしなどなかった。

 今にして思えば両親の思惑は理解できるし、その行動をありがたく思わないでもない。しかし、当時の私にしてみれば、それはありがた迷惑でしかなく――思い出話をされるたびに、何だか責められているような気がして、幼心にも徐々にいたたまれなくなっていった。

 家族が私の中に見ていたのは、私の知らない少女だ。それでいて、私はどこにもいないような気がした。

 そうして考えてみると、あの頃の無力感が、今の私の原点でもあるのだろうと思う。

 私はいつしか、家族が語る思い出話から私という人物像を拾い上げて生きていくようになっていた。とはいえ、そんなことがうまくいくはずもなく、そうしてできあがったのは、不和をさけ、周囲の顔をうかがうような主体性のない人間だ。そう思うと、姉が私のことを嫌う理由も何となくわかる気がする。

 私とて、記憶を取り戻せるものならそうしたい。たとえ今の自分がいなくなってしまったとしても。そして、皆の望む者になりたかった。

 しかし、どんなに強く望んだとしても、その願いはかなわない。

 そのうち、母の病が明らかになったことで、家族は私だけにかまっているわけにもいかなくなった。

 私に対する違和感は後回しになり、記憶喪失という課題は残されたまま、私は私となっていく。当然、記憶が戻るということもなく、私はあのときより前の記憶を持たないままに、今へと至っている。

 私が記憶を失ったという事実は、まるで始めからなかったかのように忘れ去られていった。失われた年月は、新しく過ごした日々で上書きされていった。

 それでいい、と私は思う。

 失くしてしまったものを、いつまでも私の中に求められ続けるのはつらい。家族だって、あるはずのものが、いつまでも見出だせないのはつらいだろう。

 ただ、このできごとは私の中の深いところに、ずっとわだかまりとして残り続けていた。

 今でも、私は周囲の顔色をうかがうことで何かを判断することが多い。そうしていないと、どうにも不安になってくるからだ。

 時が過ぎて、記憶を失った直後のことすら忘れようとしている今であっても、ちょっとしたことで顔を出す少女の影に、私はずっと怯えていた。

 ふと、頭の中で声がする。

 お誕生日おめでとう。

 おめでとう? ありがとう。

 自問自答のような意味のないやりとり。何となく実感が湧かなくて、その言葉をくり返してみたけれども、その声は、けれども、本当のあなたはまだ十五年も生きていないでしょう? と笑っているように聞こえた。

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2024年12月6日 22:00
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2024年12月20日 22:00

樹上の蜥蜴座(ラケルタ) 速水涙子 @hayami_ruiko

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