耳かき動画に癒されて

浮和々 梵天

耳かき動画に癒されて


 男は、ひとり職場で残業している。季節は秋、夜はそろそろ暖房が欲しいところだ。

 部下からメールで送られてきた、明後日の会議用の資料データをチェックする。分かりやすくまとめられているが、最後の最後で誤変換と思われるミスがあった。珍しいなと思いながら、男は修正する。

 今年の春に異動してきた部下は入社3年目。この部署ではやや珍しい女性社員。緩く巻かれた明るい茶髪に強く主張はしないがいつもつやつやなピンクの爪。あまり見せない笑顔。誰よりも真面目に仕事をこなし、ほぼ完璧にやり遂げる誠実さ。残業はほとんどせず、定時になるとすぐに帰っていくその背中は、先輩である男が見ても実に清々しかった。2度ほど飲みに誘った事があるが「趣味が忙しい」と断られた。どんな趣味かと聞くと、ネットに作品を投稿している、と非常に曖昧な答えが帰ってきた。

「自分で何か作り上げて、それを誰かに見せるって結構勇気いる事だよな。すごい」

 何となく思った事を伝えると、部下はぎこちなく笑っていた。

 時計をちらと見れば午後8時58分。仕事は残っているが、急ぎではない。男はパソコンを閉じ、スマホを取り出しイヤホンを付ける。

 動画サイトを開くと午後9時ちょうど。お気に入り登録しているチャンネルから、新着動画があがる。

『【囁きASMR】お疲れなあなたに特別な耳かき』と題され、両手とダミーヘッドマイクのみが映るサムネイル。男は念のためイヤホンを差し直してから動画を再生する。

『……こんばんは。今夜も動画を観てくれてありがとうございます……あなたが今日も癒されますように……』

 少し高めの声で囁きながら、投稿者の細い指がダミーヘッドマイクの耳を撫でる。自分の耳を撫でられたかのように音が響き、背中がゾクゾクする。

『……今日は、竹の耳かき棒で耳かきをします……まずは外側から……』

 薄いピンクに彩られ、照明の光を時折反射する爪で、耳かき棒をカチカチと鳴らす。右手に持ち替え、カリ、カリとマイクの耳部分を掻き始める。

 夜に眠れず動画サイトでおすすめに上がってくる動画をひたすら流し見していた時に出会い、お気に入り登録をしたのが約3か月前。それ以来、寝る前やリラックスしたい時にこの投稿主の動画を再生している。

 1か月前にあがった動画で、このダミーヘッドマイクは100万円以上すると投稿者は言っていた。値段を聞いた時は目を丸くしたが、このマイクで撮影された動画を聴けば聴くほどその値段に納得する。何度聴いても耳触りが心地良く、心が癒されていく。しかし、それはマイクだけのおかげではない。

『……本日も残業していませんか?ほどほどにして、自分の時間を大事にしてくださいね……』

『……コーヒーは飲みすぎていませんか?カフェインの摂りすぎは、身体に毒ですよ……』

 スマホの右上に表示される時刻を確認してから、自分のパソコンの横に積まれた3本のコーヒーの空き缶を見る。ここ最近、動画内で話される話題が、自分の状況と似ているような気がする。そのせいか、よりその囁き声にのめり込む。夜の職場でひとり、しかし家に帰ってもひとり。投稿者の優しく響く囁きと耳かき音だけが、男を癒す。

『……寒くなってきたので、風邪に気をつけてくださいね……』

 男の瞼が段々と重たくなっていく。眠気のせいで内容が頭に入ってこない。5分だけここで寝て、その後晩飯だけ買って電車に乗ろうかと男は考え始める。

「……せんぱい……あの、先輩」

 肩を叩かれ男は飛び上がる。振り返ると、とっくの前に職場を出ていったあの部下が立っていた。

「な、なんで職場にいるんだ。定時で帰っただろ」

「忘れ物を取りに来ただけです。先輩こそ、ここで何してるんですか?」

「何って、仕事の合間に休憩を」

「パソコンの電源を落としてですか」

 確かに、傍から見れば男の今の状況は怪しい。

「ちょっと疲れてな。帰る前に5分だけ寝ようと思ったんだ」

 男がしどろもどろの言い訳をすると、部下はもう、とため息を着く。

「寒くなってきたので、風邪に気をつけてくださいね」

 それだけ言うと、部下はすたすたと出口へと歩き始めた。

「はいはい」

 スマホとイヤホンをカバンにしまいながら、男は先ほどの部下の台詞を頭の中で繰り返す。職場ではない、他のどこかで同じような声で同じ台詞を聞いた気がする。

「気のせいか」

 電車の時間を確認しながら、男は職場を後にした。







「『職場で寝ないでくださいね』は、ちょっと直接的過ぎるかな」

 電車を待つ間、部下はスマホのメモアプリで文章を打ちながら、小さく独り言を言う。

「『座りっぱなしで寝ないでください。ベッドで横になって、ゆっくり休んでくださいね』くらいがいいかな」

 今日も残業していた男を思い浮かべながら、台詞を思い浮かべる。今日だけでなく、かなり前から続けている習慣だ。

 定時で職場を出たあと、機材を見るために電気屋に足を運んだ。その後洋食屋で夕飯を食べ、帰ろうと思い駅に向かっている途中で、定期がないことに気付いた。職場に戻ると、電源が消えたパソコンの前に男がいた。更衣室のロッカーの中に定期を見つけた後、挨拶をしようと近づいたところ、男のスマホに見知った動画が映っていた。

「まさか、私の動画を見てるとは思わなかったな」

 男から1度趣味を聞かれた事がある。ASMR系動画を録音し、動画サイトに投稿していると詳しく話せば引かれ、無いと返せば要らぬアドバイスを聞かされる。そんな経験があり、逃げ場が作れるような曖昧な返答をするようにしていた。いつものように曖昧に答えると、男は勇気がいること、すごいと言ってくれた。ぎこちない笑顔が零れたのは、凝り固まっていた心が少しばかり癒されたためか。

 そこからかもしれない。部下が男を意識し始めたのは。

「私なら、直接耳かきしてあげられるのに」

 動画用にまとめてきた台詞をスクロールする部下の指の爪は、ほんのりピンクに色付いていた。

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