第2話昨日の出来事

 本編

 坂上という男が、夜道を千鳥足で歩いている。仕事終わりに同僚と飲むのが、彼の人生において唯一の楽しみなのだ。半ば強制的に付き合わされた同僚たちは、歩いて帰ると言い張り、せっかく呼んでやったタクシーを無下に追い返そうとした坂上を鼻白み、配車したタクシーには自分たちが乗って、さっさと帰ってしまった。

「加茂の河原にーー、秋長けてーー、肌に夜風がしみーーわぁたぁるぅ」

 坂上は随分と古風な歌を口ずさみつつ、ゴソゴソとスラックスに手をかける。

「おっと」

 ひょうきんな声をあげたと同時に、カン、コロコロと、小瓶がコンクリートの上を転がっていく。足元には散らばった僅かな花束、革靴に水が掛かっている。ちっ、と短い舌打ち、坂上は目線を上げ、自分を見下ろす電信柱に片手をついた。

 にんまり笑い、言葉にならない呻き声をあげたあと、チャックを下ろして小用を足した。静まり返った夜道に坂上の排泄音だけが響く。げっぷを一つすると、器用に体を揺らし、チャックを上げた。フラフラと歩きだしたその時、ポケットからスマホが落ちた。バン、と派手な音で、坂上が振り向くと、いつの間に現れたのか、坊っちゃん刈りの少年が立っていた。少年は、電信柱の影で、転がった小瓶と、散らばった花束に顔を向けてから、スマホを拾い上げた。坂上は目をこするが、少年の顔は暗がりでよく見えない。

 と――、少年が急に走り出した。坂上は追い越していった背をぼんやり眺めてから、はっとして、叫びながら追いかけた。

「待て、待てぇーー!」

 思うように進まない足をバタつかせながら、目で追うと、少年は細い商店街の入口に立って手招きしている。口元が笑っているようだ。

「ふざけやがってぇ」

 一度転びながら必死で少年の入っていった商店街の前まできた。見上げると、椿井市場つばいいちばと書かれている。店はどこもシャッターを下ろしていて、人の気配はない。吹き抜けてきた風に、思わず身震いした。

 坂上はこの辺の者だが、ここに来たことがなかった。いや正確に言うと、意識することなく、いつも前を通りすぎていたことに気づいた。

 少年の姿を探して、奥へ目を細める。シャッターに手をつきながら、天井の蛍光灯を頼りに進む。タイル敷きの道が、年季の入った緑色のマットから、所どころひび割れた継ぎはぎだらけの道に変わる。呼応するように商店の様子も別の時代へ移ろう。虫食いだらけの看板に、むき出しの配管、蔦の絡まった壁面……。

「墨で書いたような字だなぁ、へえ、砂糖に味噌、うなぎ屋もあったのかぁ」

 大きな独り言が口をつく。さっきから誰かに見られているような気がして、硝子の引き戸に映った自分の姿に飛びのく。かかとで地べたに積まれた発泡スチロールの箱を蹴飛ばしてしまう。尻餠をついて、しかめ面を上げると、真っ赤な社が鎮座していた。

「ったく……冗談じゃねえ」

 坂上は社の隣の花広場に、少年が立っていないかちらと見て、誰もいないことになぜか安心感を覚えた自分に苛立ちながら立ち上がった。今にも頭上に落ちてきそうな誘導灯をくぐり、やっとの思いで商店街を抜けた。左右に目をはしらせるが誰もいない。向かいには住宅が並ぶが、少年らしき姿は見えなかった。

 振り返ると、そこが商店街かどうかもわからない面構えで、坂上の口からフッと笑いが漏れた。

 と――、商店街の奥で、ガシャンと音がした気がした。

「誰かいるのかぁ!」

 坂上は入口の一歩手前から声を張り上げる。

「いるならいい加減出てこい!」

 しかし、しばらく待っても返答はない。だが、スマホを諦めるわけにはいかない。はああ、っと深い溜息をつき、来た道を戻ろうとして、何もない場所で躓いた。そのまま商店街の入口に顔からダイブする。

「いってぇ!」

 咄嗟に顔は腕で庇えたが、右手をひどく擦りむいた。

「おい、今時分から酒かい? いい身分だな」

 男の声がする。男? 誰もいなかったはずだが……。声のほうへ顔を向ける。鉢巻を締めた地下足袋の男が、かまぼこと書かれた看板の店先から、呆れたような顔で見下ろしていた。

 愕然として目を見開く。周囲が明るくなっており、どの店も賑わっている。それだけでも十分な異変だが、行きかう人が着物や袴を着ていたり、店の看板が綺麗に蘇ったうえ、店先に並ぶ木箱に山盛りの乾物が量り売りされていたり、電光掲示板やのぼりの代わりに暖簾がはためいていた。

「あら、その方どうしたの?」

「酔っぱらいだ、近寄らないほうがいいよ」

「粋な洋装だねえ、まあ、この方怪我してるわ。ちょっとうちにおいでなさいな」

 赤い着物の女性は、坂上にひょいひょいと手招きして、歩いていく。カランカランと下駄が鳴る。ふらりと立ち上がった坂上は、膝についた土を見やる。舗装されていたはずの道は、自然な姿を見せていた。手で払い、女性の背を追いかけると、後ろで「ほっときゃいいのに」と男が扉を閉める音がした。

 赤い着物の女性は生花店へ入っていき、坂上に奥の座敷を指し示した。坂上が上がり框に腰かけると、女性はくるりと外へ出ていった。そして、店内に貼られた、夫人が花束を持って微笑む絵のポスターから、今がいつかを知って坂上が眩暈を起こしたころ、帰ってきた。

「カネボウさんから救急箱借りてきたわ。あら、どうしたの? 頭も打った?」

 坂上はなんとか取り繕った笑顔で、「いえ……、どうも」と礼を言い、博物館に展示されていそうな救急セットで処置を受けてから、改めて「ありがとう」と言った。

「ずいぶんお飲みになったのね。生卵、飲む? まだ三分の一ほど残ってるわ」

「え、いえ、もう醒めましたから」

「あら、遠慮することないじゃない? 梅干しもあるけど」

 強引だが人情味のある声で言うと女性は畳に上がり、奥の水屋から出した湯呑に生卵少しと、小皿に梅干しをのせて持ってきてくれた。

「ねえ、あなた、どこからいらっしゃったの?」

「はあ、実はこの辺の者なんですが」

「ええ? ほんと? 見ない顔だけどねえ。なら、あの子は? ひょっとして息子さん?」

「は? あの子、というのは?」

 女性ははす向かいの店を顎でしめす。首を伸ばすと、何やら騒がしい。よく見ると大人達に囲まれて、あの少年が俯いている。

「あの餓鬼……」

 坂上は掠れた小声で呟いたが、「可哀想にねぇ」という女性の声でそれ以上の言葉をのむ。

「カネボウさんから聞いたけど、頭から血流していたみたいよ。どうしたの、って皆が聞いたら、車に轢かれた、ですって。宮様ならともかく、この辺に車なんか走ってないんだから、そんなわけないでしょ、って言ってるけど、聞かなくてね」

「あいつにスマホ盗られたんで、ちょっと行ってきます、ご馳走様でした」

「え? あ、ちょっと、何? スマホって……」

 坂上は大股で人垣に近づき、「おい!」と声を張る。なんだ、なんだと人が左右に分かれて振り返り、怪訝な目で坂上を見上げた。そういえばここの連中は背が低い。坂上は腕を組み、鼻息荒く少年に詰め寄る。

 少年は朱と桃色の縞柄の着物を着た女性から処置を受けており、額に当てられたガーゼを照れ臭そうに見つめていた。坂上に気づき、はっと顔をこわばらせる。思ったより童顔のいたずらっぽい表情だ。少年は弾けるように、あっかんべーー、と舌を出すと、人垣を押しのけ走り出した。

「あ、コラ! スマホ返せ!」

 坂上も走り出す。少年の背中を追い、土を蹴り上げる。もうあまりふらつかない。髪を結った女性の驚いた顔や、山高帽を被った男性の眉をひそめた表情が流れていく。

「おい、止まれえーー!」

 商店街を出るすんでのところで、あと一メートルほど先を走る少年の短パンのポケットから、スマホが飛び出た。あ、落ちる! と、坂上が右腕を突き出し、キャッチしようと試みる。視線を下に向けて、商店街を出た瞬間、ぐわん、と頭に鈍い衝撃を感じた。出していた腕を引っ込め、頭を押さえる。

「っつ、なんだ、一体……」

 閉じていた目を少しずつ押し上げると、静かな宵闇が広がっていた。

 そっと振り向くと、蛍光灯が誘う細い夜道に、椿井市場の看板が見下ろしていた。

 靴に硬い感触があり、足元に目を向けると、街灯を反射したスマホの画面を見つけた。


 次の週の休み、坂上は妻と椿井市場へ出掛けた。途中、電信柱の下に花束とジュースが供えられている場所を通った。

 明るい時間に訪れた椿井市場は、想像以上に賑わっていて、野菜や鶏肉が売られていたり、店のカウンターに座って談笑する人や、コーヒーを飲む人の姿が見られた。

「へえ、レトロでいい雰囲気じゃない」

 妻は物珍し気に崩れかけたアーケードを眺めている。坂上もつられて見上げるが、その瞳に映る光景はをうつしてはいない……。

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昨日の出来事 昼星石夢 @novelist00

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