約束の記憶
サトウ・レン
そこには間違いがあった。
僕は間違えてばかりだ。道の方向も、選択も、人生も。
例えば高校受験の日、僕は親戚の叔父さんから、「助けてくれ。死ぬかもしれない」と電話を受けて、受験会場に行かず、叔父さんの住むアパートに向かった。そこには大量の缶ビールと叔父さんの姿があり、事情を聞くと、長く付き合っていた恋人に振られて、自棄になっていたそうだ。
「もういい、俺の人生なんてくそだ。死ぬ。死んでやる」と騒ぐ叔父さんの背中をさすって、落ち着かせながら、あぁこんなことで受験の失敗が決まる僕の人生も大概だなぁ、と思ったのを覚えている。もともとあまり両親から好かれていなくて、僕が叔父さんの家に入り浸るのを苦々しく思っていたこともあり、両親はこの一件で叔父さんと縁を切ることを決めたそうだ。
「なぁ、好きな子はいるのかい?」
叔父さんが、そんなことを聞いてきたのは、僕が高校二年生の頃だ。つまりは両親が絶縁を決めようとも、僕は足繁く叔父さんの家に通っていたわけだ。わだかまりのあった両親への反抗の側面は否定しないけれど、純粋に叔父さんと一緒に過ごす時間が心地良かった。
「いないよ。そんなの」
「あぁ、その顔は嘘をついてるな。俺に嘘はいけないぞ」
「振られてばっかりの男が恋愛のことを知ったように言わないでよ」
「振られてる、ってのは、その数だけ恋をしてる、ってことさ」
僕が叔父さんについて本当に知っていることは案外すくない。叔父さんはいつも嘘ばかりついていたからだ。小説家だ、と名乗っていたけれど、小説を書いているところは一度も見たことがない。嘘でしょ、と言うと、「嘘をつくのが小説家だ。ならば小説家だと嘘をつく俺もまた小説家なのだ」と意味の分からない言葉が返ってくる。
でもきっと、こういうやり取りが好きだったのだ。
「失敗のない人生なんて目指すな。失敗がどうでもよくなるような魅力ある人生を目指せ。まっ、俺は失敗なんてしたことないけどな」
自分の選んだ道を後悔してばかりの僕に、叔父さんはそう言った。失敗を否定しないでいてくれるひとは、あの頃の僕にとって、特別だったのだ。
そんな叔父さんとも、高校を卒業してからは、僕自身の忙しさもあり、関わる機会は減っていった。だから、叔父さんが死んだ、と聞かされた時にはもう、何年も会っていない状態で、自分でも驚くほど、悲しさを感じられないでいた。叔父さんが死んだ時、僕は二十七で、最初によみがえった記憶こそが、あの日の、
「なぁ、好きな子はいるのかい?」
という叔父さんの言葉だった。
あの頃、僕は確かに嘘をついていて、ひとりの女の子に恋をしていた。叔父さんの死とともに思い出した最初の記憶が、叔父さんとは別の人物というのは、叔父さんに対して大変失礼な話ではあるのだけど、思い出してしまったものは仕方がない。もしも二十七という年齢じゃなかったら、思い出してなかったかもしれない。僕は同時に、かつて交わした約束をおぼろげに思い出していたからだ。
「きみは本当に、大事なところで、よく間違えるよね」
彼女と出会ったのは高校二年の春で、進級とともに同じクラスになったひとだ。でも会ったばかりの時の印象は薄い。同じクラスにいる女子のひとり。それ以上でも以下でもなかった。叔父さんのせいで入ることになってしまった滑り止めの私立高校で、スポーツはそれなりの強さだがあくまでもそれなりで、学力はそんなに良くもない。僕と同じように、これと言って特別なところのない学校だった。
彼女と出会ってすこし経つまでは知らなかったのだけれど、彼女は元々バドミントン部で、スポーツ推薦でこの高校に入っていた。僕が知り合った時にはもう辞めていて、彼女からその話題が出ることもなかった。たぶん言いたくなかったのだろう。一度だけその話をしてくれた時、「怪我をして辞めたんだ」と教えてくれた。
「怪我をする、って分かってたら、進学校でも行って、もっと良い大学でも目指してたかもね。でも未来は分からないんだから、仕方ないよね。色々と間違えても。きみのように」
と冗談めかして笑っていた。実際、彼女の学力は学年でもトップクラスで、行こうと思えば、県内で一番の進学校だって行けていたかもしれない。
「間違えて、人生を回り道ばかりだ」
「全然、後悔してるようには見えないけど」
「何も後悔してないよ。間違えたから、きみに出会えたんだから。間違えたからこそ得られるものにも、幸せはちりばめられてるんだよ」
恥ずかしくなって、何も言い返せなかったのを覚えている。
彼女と出会ったのも、僕の失敗が原因だった。つまりはあの失敗にも、彼女と出会う、という幸せがあったわけだ。
僕の通っていた高校の近くに、同じ会社が経営する同じ名前のコンビニがあった。なんでこんな近くに建てるんだ、とよく思っていて、そこの片方に、クラスメートの友人と待ち合わせすることになったのだ。僕たちはお互いの勝手な判断で、『待ち合わせするなら、こっちの店だろう』というのがあり、逆のコンビニで待つことになってしまった。
僕が間違えたコンビニの前で、彼女がアイスを食べていたのだ。いまの季節とは真逆の暑い夏に、首にタオルを巻いた彼女が。
「あれ、えっと。うん、ごめん。名前、覚えるのが苦手なんだ」
「クラスメートの名前くらい覚えてよ」
「アイスでも買いに来たの?」
「いや違うけど。ちょっと待ち合わせをしてて」
「そっか」
こんな他愛もない会話だった。それ以上は特に会話も続かず、彼女は黙ってアイスを食べていた。彼女のこめかみあたりからつたう汗がやけに記憶に残っている。
そして友人から連絡が来て、待ち合わせ場所が違っていたことに焦る僕を見て、彼女が、くすり、と笑った。
「まぁ、いいじゃない。人生なんて間違えるくらいがちょうど良いよ」
叔父さんみたいなことを言うんだな、というのが、僕の彼女への第一印象だった。それからだ。彼女が、よく知らないクラスメートから、興味惹かれる存在に変わったのは。放課後、彼女がよく寄るそのコンビニに行き、話すようになった。約束をしたわけではない。教室ではめったに話すことはなかった。周囲の目が気恥ずかしかっただろう。
彼女とは恋人だったのだろうか。
悩んでしまうのは、はっきり言葉にして、互いの気持ちを確認したことがなかったからだ。なんとなく一緒にいて、デートめいたことをして、肌を重ねたこともある。だから恋人と言ってしまっていいのでは、と思うが、断定するのは怖かった。「間違っているよ」といまはもう会うことのなくなった彼女に、そう笑われそうな気がして。結局、自信がないのだ、僕は。僕自身に。
明確な言葉のやり取りもなく一緒になったふたりだから、離れる時も曖昧だった。気付けば、自然消滅のような形で、関わりはなくなってしまった。仲が悪くなったわけでもないのに。
明確な言葉があれば、僕たちの関係はまだ続いていたのだろうか。
だとすればこれもまた、間違い、だったのかもしれない。そして間違って代わりに得たものはなんだろうか。考えても分からないから、きっと考えるだけ無駄なのだろうが、それでも考えてしまうのが、悲しい人間の性だ。
そしてそんな思い出が遠い昔になった僕はいま、叔父さんの住んでいたアパートにいる。
僕が遺品整理をすることになったのだ。これでも勤め人なのだが、何故か暇だと思われているのと、たぶん僕が一番、叔父さんと関係が良好だった親戚だったからだろう。たとえ疎遠になっていたとしても。とても悲しい話ではあるのだが。
業者に頼む、という方法もあるにはあるのだが、叔父さんはそんなに物を置いておくほうではなく、すっきりした部屋だったので、僕ひとりでも問題はなさそうだった。雰囲気はずぼらなので、意外と言えば意外ではある。
叔父さんの性格を考えれば、あまり遺したい物も見つからない。
そんな中で、僕はキャビネットから大量の紙の束を見つけた。
黒い文字の羅列が並んでいる。
あぁそうか、叔父さんは本当に小説を書いていたのか。お金を得られる職業としての小説家だったのかは分からないが、すくなくとも小説を書いていた叔父さんの、『嘘をつくのが小説家だ。ならば小説家だと嘘をつく俺もまた小説家なのだ』はただの照れ隠しだったのかもしれない。
捨てずに持って帰って、読んでやろうかな、とも思ったが、やめることにした。
顔の見える相手には絶対に読まれたくない。きっと叔父さんなら、そう考える気がしたからだ。
数日掛かった遺品整理が終わり、アパートを出ると、冬の空に、夕闇が広がっている。塗りつぶしたような黒が、徐々に緋色をのみ込んでいくような。感傷的に空を眺めてしまったのは、叔父さんの小説を見つけてしまったからだろうか。
着信音が鳴る。スマホを取り出すと、知らない番号だ。
いつもなら無視するのだが……。
「はい、もしもし」
『さて、私は誰でしょう?』
声には聞き覚えがあるが、誰かはまったく分からない。
「えっと、イタズラなら切りますが」
『あぁ、待って、待って。言い方を間違えた!』
やけに『間違えた』という部分を強調するその声に、僕はいままで回想していた女性の姿を重ねる。おそらく間違いないだろう。だけどなんで彼女がいきなり、こんなタイミングで……?
「名前は」
『私だよ、私』
「オレオレ詐欺の亜種ですか?」
『そういうところ、変わらないね』
彼女がくすりと笑って、自身の名前を告げる。
「久し振り。十年振り、かな」
『うん、十年振り』
「どうして、急に」
『同窓会のために、こっちに戻ってきてたの。なんで来なかったの』
「行ったら、変だよ……」
三年生の時、彼女とは別のクラスだった。だから僕がその同窓会に呼ばれてるはずなんてないのに、分かってて言っているのだ。
「なんで僕の番号を」
『ちょうど同窓会に、いまのきみの連絡先を知っているひとがいたから』
彼女がその人物の名前を言う。だけど名前を聞かなくても、すでに誰か分かっていた。僕のいまの連絡先を知る同級生なんて、彼くらいしかいないから。それはあの時、逆のコンビニで待ち合わせることになってしまった、僕たちの共通の友人だった。
『……こっちに戻ってきた理由、別に同窓会だけじゃないんだよ』
「なんだよ、改まって」
『ねぇ、まだ結婚してない、って聞いたけど』
「あいつから?」
『うん。ねぇ、誰かお付き合いしているひと、とかは?』
「いないよ。誰も」
『そっか』ほっとしたように吐いた息が、電話越しから伝わってきた。『あの、さ。久し振りに会えないかな。すごいむかしの約束なんだけど覚えてる』
約束という言葉に、僕が二十七という年齢に彼女と繋げた記憶がよみがえってくる。
「覚えてるよ」
だけどその記憶は曖昧模糊としている。
『本当に』
笑う彼女の声は、どこか震えている。
「うん。『十年後、またここで会おう』って約束だろ」
『本当に覚えてたんだ。あんな冗談みたいな約束』
その時にまだお互いに気持ちが残っていたなら、そんな含みを持った約束だ。
だけどその場所がどこかまでは覚えていない。まるで僕のそんな心を見透かしたかのように、彼女が、
『じゃあ、そこで待ち合わせしようか。あっ、場所は言わないよ。覚えてるみたいだから、ね』
と言った。
困ったな。
僕は改めて、彼女との記憶を心のうちでたどることにした。青春を回想すると、いつだって最初に、彼女と叔父さんの姿が浮かんでくるのは、僕の十代において、それだけ特別な輝きを放っていたからだろう。たとえ一緒にいた時間が多くはなくとも。
学校近くの公園、すこし遠出をして向かった植物園、彼女の家近くの図書館にふたりで行ったこともある……、いや学校で約束した可能性だってある。彼女と一緒に行った場所は思い出せるのに、なんで言葉と場所を綺麗に繋げることができないんだろう。
まるで記憶は僕に、間違えろ、とでも言うかのように。
電話をして聞こうかとも思ったけれど、彼女の性格を考えれば、間違えたとしても、自分で選ぶほうがいい気がした。仮に間違えたとしても、何か得られるのが人生なのだから、とあのふたりならば。
小雪の舞いはじめた空を眺めながら、僕は歩を進めることにした。
そして僕が選んだのは学校近くの公園だった。噴水がトレードマークのすこし大きな公園だ。ふたりでよく行くことがあったから。理由はただそれだけだ。
公園灯に照らされて、そこに彼女はいた。
「やっぱり間違えてる」
と笑って。
僕は間違えてばかりだ。
そして彼女の言う通り、間違えることでしか得られないものは確かにあったようだ。
約束の記憶 サトウ・レン @ryose
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