橙の灯が落ちるまで
とづきこう
第1話 ミナコさん
蒸し暑い夏が終わり、日が短くなってきたこの頃。
朝夕は少し肌寒く、外に出ると土や草木の匂いが鮮明に感じられ、1年の中で最も空気が澄んでいる。深呼吸をすると、自然と一体になるこの感覚。この地だからこそ感じられる、特別な匂いが好きなのだ。
私の1日は、朝6時から本殿や境内の掃除をし、朝拝と祝詞を上げることから始まる。実家の神主業を継いでから1年、毎日欠かさずにおこなっている。
この日も朝のおつとめを終えて家に戻ろうとすると、1人の女性に声をかけられた。
「おはようございます。お参りしてもよろしいですか?」
「おはようございます。もちろんですよ。朝早くからありがとうございます」
初めて見る女性だった。
私より少し年上で、穏やかな笑顔を浮かべるその女性は、お参りを済ませると再び私に声をかける。
「私、ミナコっていいます。最近引っ越してきたばかりで、この辺のことはよく分からないんですけど、散歩中にこちらの神社を見つけたんです。素敵な神社ですね。それに、久し振りのこの空気感。清々しい気分です」
「初めまして。私はこの神社で神主をやっている、
「そうなんです。実はそこで、カフェを開こうと思ってるんですよ。1階をお店にして、2階を住まいにしてるんです。あ、そうだ。神主さんであれば、開店前にご祈祷をお願いすることはできますか?」
「はい。私で良ければ承りますよ。それにしても……こんな田舎でカフェですか?確かに、最近は古民家カフェが流行ってはいますけど、麓の町からはかなり距離がありますし……。すみません、余計な心配を」
「ふふっ。いいえ、カオリちゃんの言う通りです。こんなところまでお客さんが来るかと言われれば、来ないかもしれません。でも、それでもいいんです。田舎でカフェをやるのは私の夢でしたし、この場所だかこそ、私にとって意味があるんです」
「そう、ですか。でしたら、私はお客さんがたくさん来てくれるよう、しっかりとご祈祷させていただきますね」
「ありがとうございます」
ミナコさんは優しく微笑んで、一礼をして去っていく。穏やか話口調で、ふわふわとした空気感をまとっているミナコさんは、話しているとこちらまで気分が安らぐ。今まで出会ったことがないような、不思議な女性だった。
私の住んでいるこの地域は、山奥の小さな村。近くには小さな商店があるものの、日用品や食品などは、車で1時間半の麓の町まで買い出しに行かなければならない。バスも1日4本のみ、病院へ通う年配の人たち専用となっている。
私は高校卒業後に短大に進学した。神主である父は「好きに生きなさい」と言ってくれたので、神職の道に進むことはないと思っていた。しかし、一人娘で跡を継ぐ人が誰もいない家系で、もし父になにかあった時には、私が成り代わらなければならない。400年も続くこの神社を、誰かが守らなければならないのだ。幼い頃から遊び場として駆け回り、いつでも私を見守ってくれた神様に恩を尽くしたい。そう思った私は、短大卒業後に仕事をしながら、神職養成所の通信教育で階位を取得した。
それから5年が経つ頃に、父はくも膜下出血で倒れた。命に別状はないのだが、重症であったため、数ヵ月の入院を余儀なくされる。仕事を辞めた私は、父の入院する病院に通いながら、神主として神職をまっとうすることに決めたのだ。
「カオリちゃんがお父さんの跡を継いでくれるなんて、嬉しいよ。隣町の神主がここを掛け持つって話もあったんだけどよ、やっぱり三摩さんちにやって欲しいんだ。ここいらにはさ、もうみんな年寄りだけど氏子もまだいるんだ。この神社があって神様がいてくれるから、俺たちは今もこうやって平穏に暮らしていられる。三摩さんちが代々、神様を守ってくれたおかげだよ。なにか分からないことあったら、いつでも頼ってくれよ」
そう言ってくれたのは、隣近所に住んでいるシゲさんだ。70代のシゲさんは奥さんと2人暮らしで、最近、足を悪くしたらしい。それでも毎日参拝に訪れる。
「ありがとうね、シゲさん。だけど、シゲさんも無理しないでね。足を引きずっているようだけど、病院には行ったの?」
「病院なんて行かないよ。俺は生まれてから病院にかかったことがないからな。それだけは自慢させてくれ。毎日参拝してりゃ、足も治るかと思ったんだ。まぁ、ただ痺れてるだけだし、たいしたことないんだよ」
「信仰心はありがたいけど、神様だって管轄外なこともあるかもよ。なにか別の病気が隠れてる場合もあるし、バスで病院行くのが大変なら、車で送っていこうか?」
「いや、大丈夫だ。心配してくれてありがとうな」
シゲさんの病院嫌いは相変わらずだが、本人がいいと言っているなら無理強いはできない。
こんな不便な山奥でも、この場所を好んで住んでいる人たちが多くいる。だから私は、心の拠り所となっている神社を父の代わりに守っていきたいと思った。
しかし、そんな気合いとは裏腹に、心の奥底では不安を抱えていた。近所の人たちや、氏子さんは本当にいい人たちばかり。だからこそ、期待に答えられるか、神主として認めてくれるのか。1人で成さなければならないプレッシャーと孤独感でいっぱいだった。
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