名もなき村の賢者

sousou

第1話

 辺りは春の嵐だった。にもかかわらずシモンがその日、馴竜(シュンロウ)にまたがり、都に向けて飛び立ったのは、出来あがった絵画を王立展覧会に出品するためだった。締め切りは一週間後に迫っており、悪天候だからといって飛行を見送る猶予はなかった。


 衝撃が走ったと思った瞬間、メイスが苦しげな声をあげ、高度を急激に下げはじめた。シモンは視界の片隅で、彼の馴竜――メイスより一回り大きい馴竜が、飛び去っていく姿を見た。それで初めて、あの馴竜と衝突した、と理解した。


 彼らが不時着したのは、深い森のなかだった。メイスは翼に傷を負っていたため、再び飛ぶことは難しかった。そのためシモンとメイスは五日間、森のなかをさまよい歩くことになった。そうしてやっとたどり着いた人里が、手持ちの地図にも記載がない、百人ほどが暮らす小さな集落だった。


 シモンが最初に出会った村人は、リリーだった。彼女は家畜番をしながら、木陰に腰かけ読書をしていた。人の近づく気配に気づくと、紙面から視線をあげたが、その体勢のままじっと、シモンがやってくるのを待っていた。彼は少女に挨拶し、事情を説明した。


 リリーが立ち上がったとき、彼女の右脚が悪いことにシモンは気づいた。彼女は杖を使いながら器用に歩き、「ついてきて」と言った。


 リリーは祖父と二人で暮らしていた。両親は都会に出稼ぎに行き、兄弟は寄宿制の学校に入っているとのことだった。事情を聞いた祖父が、メイスの怪我の具合を診てくれた。シモンの応急処置は間違っていなかったようで、「治癒に一カ月、元通りに飛べるようになるまで、さらに一カ月だ」との見立てだった。シモンはほっと一息ついた。


「絵の出品はどうするの?」


 とリリーが尋ねた。シモンは眉尻を下げ、首を横に振った。


「今年は諦めるよ」


「……そう。でも、この子に大事なくてよかったわ」


 丸太椅子に腰かけたリリーは、メイスの傷ついた翼を、じっと見つめていた。


 シモンはメイスが飛べるようになるまで、リリーの家に世話になることになった。寝床として用意してもらった部屋で、画材の整理をしていると、戸を叩く音がした。杖をつく音がしたので、リリーが来たのだと分かった。


「調子はどう?」


「順調に回復しているよ。今朝は雑穀をたくさん食べたんだ」


 メイスのことじゃなくて、とリリーは言った。


「あなた、とても衰弱していた。森ではろくなものを食べなかったんでしょう?」


 シモンは少し顔を赤らめた。彼は都育ちである上に、まだ十六歳だった。森で自活できるような知識も経験もなかった。大丈夫だよ、と言うと、リリーは目を細めた。それから、床に広がった画材に目を留めた。


「見てもいい?」


 シモンが頷くと、服が汚れるのも構わず、彼女は床に腰を下ろした。顔料が入った小瓶を一つ、手に取った。


「きれいね。顔料なんて初めて見た」


 小瓶をかかげ、陽光に透かした。それを見てシモンは、彼女の瞳がはしばみ色であることを知った。リリーが髪をひとふさ、耳にかけた。その金髪もきれいだった。


「今年、出品しようとしていたのはどんな絵?」


 我に返ったシモンは、壁に立てかけていたキャンバスのうち、一枚を指さした。朝焼けを描いた絵だった。リリーが膝をずって、キャンバスに近づいた。


「どこの景色?」


「ロゼ諸島だよ。ほら、この岩壁の形を見れば分かるだろ?」


 リリーがおかしそうに笑った。


「知らないわよ。都会ではそれ、常識なの?」


「そうだと思うけど」


 シモンはたじろいだ。ロゼ諸島は人気がある観光地の一つだ。都では島の風景を描いた絵はがきが、たくさん売られている。


「リリーは都に行ったことがないの?」


「うん。わたしが行ったことがあるのは、村から一番近い町だけ。でも、この絵はきれいね。空に金盞花が咲いているみたいで」


 その言葉でシモンは気づいた。リリーは脚が悪いから、遠出ができないのだ。無神経な自分が恥ずかしくなった。


「気に入ったのなら、あげようか。滞在のお礼にぼくがあげられるものなんて、絵くらいだし」


 シモンは財布の中身を、手の平にひっくり返してみせた。銅貨が数枚、あるだけだった。リリーは声をたてて笑って、「おじいちゃんもきっと気に入るわ」と言った。


 リリーは毎日、家畜番をしながら本を読んで過ごしていた。本を読んでいないときには、村人に囲まれていた。彼女の存在はまるで、祭の夜に、広場に焚かれる篝火だった。人びとは大人も子供も関係なく、彼女を中心に車座になると、何かお話を聞かせて、とせがんだ。するとリリーは、もう亡くなった村人から伝え聞いた昔話や、本から得た知識や、自分で考えた物語を、彼らに語り聞かせるのだった。


 このような小さな村に暮らしていながら、限りない想像力を発揮させるリリーを、シモンは不思議に思った。同時に、彼女にこの狭い世界は不釣り合いである、とも思った。もし彼女にその気があるのなら、脚が悪かろうと、広い世界を見て回ることができるのに。


 そう思ったシモンは、メイスが短距離の飛行訓練をはじめたころ、リリーに提案した。


「ねえ、メイスに乗ってみない? 馴竜を使えば、脚にさほど負担にならずに、活動範囲が広がると思うんだ」


 矢車菊を籠に集めていたリリーが、手を止めた。


「……わたしの脚が悪くなったのは、幼い頃に、馴竜から落ちたからなの。だから、今でも馴竜に乗るのが怖くて」


 シモンはうなだれた。リリーの前では、格好つかないことばかりだ、と思った。


「ごめん。そんな事情があったとは知らなくて」


「ううん」


 彼女が微笑み、矢車菊を一本つんだ。


「わたしが馴竜に乗れなくても、お兄ちゃんや弟が乗れるからいいの。たまに帰ってくるときには、外の土地の話を、いろいろ聞かせてくれるのよ。それに、この村にいるだけでも、興味深い出来事はたくさんあるし」


 リリーはしばらく、矢車菊の、放射状に広がった花弁の造形を、真剣に見つめていた。と、思いついたように、シモンを振り返った。


「よかったら、シモンが旅してきた土地のことも、聞かせてくれない?」


 そうしてシモンは残りの滞在期間、これまで見てきた土地のことを、リリーに語って聞かせるようになった。シモンは画家として生計を立てることを目標としていたから、世界の「絵になる」土地のほとんどを訪れていた。ロゼ諸島もそのうちの一つで、多くの画家が絵の題材にしていた。まだ見ぬ土地の話に耳を傾けるリリーは、傍から見ても楽しそうだった。だから、彼女はいつか、馴竜に乗り外へ出る勇気を持つべきだ、とシモンは思った。




 メイスが長距離を飛べるようになると、シモンは村人たちにお礼を言って、都に帰った。帰って早々にしたことは、王立展覧会の会場へ足を運ぶことだった。競争相手である他の画家たちがどんな絵を描いているのか、観て回りたかったのだ。


 シモンが予想した通り、その年は風景画の作品が主流だった。近年、庶民にも馴竜が身近な存在になったことから、王国では空前の旅行ブームが起きていた。そのため、主要な旅先の景色を描いた絵が、人びとに好まれる傾向にあった。


 ひと通り絵を観たシモンは、アトリエに帰り、自分が出品するはずだった、ロゼ諸島の朝焼けを描いた絵のことを思い出した。描きあげたときには、自身の最高傑作だと思ったが、今思い返すと、さほど良い作品だとは思えなかった。展覧会では、惹きこまれる作品と、そうでない作品があった。両者の違いは何なのだろうか。悶々としていると、リリーが言っていた言葉が、ふと思い出された。


「世界の広さを知る方法は、遠くに出かけること以外にもある。知ったつもりになっている身近なものを、よく注意して見るとね、実はその半分も知らなかったということに、ある日とつぜん気がつくのよ」


 秘密はリリーが握っている、とシモンは思った。そこで、彼女に関するあらゆることを思い返した。彼女のはしばみ色の瞳、よく読んでいた本、つぎあてが施された前掛け、杖を使って器用に歩くさま、笑い声、村人に語り聞かせるときの身振り手振り、手に持った矢車菊、愛用していたコップ、くたびれた長靴、干し草の匂い、生成りのリボンで結わえられた髪。気づくとシモンのスケッチブックには、リリーに関するあらゆるものが、いっぱいに描かれていた。


 シモンは一念発起すると、メイスを、馴竜を欲しがっていたアトリエ仲間に譲った。その画家はさっそくメイスにまたがり、絵の題材を求めて旅立っていった。他のアトリエ仲間たちも、王立展覧会の結果が発表されると、もはや都には滞在不要とばかりに、次々と旅立っていった。シモンは一人アトリエに残り、黙々と絵を描きつづけた。来年の展覧会に出品する絵の構想が出来あがると、規定サイズのキャンバスを買い、絵を描きはじめた。


 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。シモンはその年、都から一歩も外に出なかった。春になると、王立展覧会に絵を出品するため、アトリエ仲間たちが、馴竜に乗って都に帰ってきた。メイスを譲った画家が帰ってきた日、シモンは自室で旅支度をしていた。部屋の前を通り過ぎようとした画家が、足を止めた。


「シモン。どこかに行くのか?」


「うん。出品はもう済ませたからね」


「でも、馴竜は? おれに譲ったから、おまえのはいないだろう」


 シモンは荷造りの手を止め、肩をすくめてみせた。


「自分の足があるよ」


 そうして、荷物を背負ったシモンは、都を出発した。リリーに会って、伝えたいことがあった。


 野山を歩き慣れていないシモンは最初、一日歩き通すと、身体のあちこちが痛くなり、次の日には動けなくなる始末だった。しかし少しずつ体力をつけ、火の熾し方や、水源の見つけ方を覚えていった。そのおかげで、道沿いに民家がないときでも、心身への負担なく野宿ができるようになった。休憩中には、そこから見渡せる景色をスケッチした。


 都を出立して三カ月近くが経ったころ、シモンは村にたどり着いた。村はずれの牧草地に行くと、木陰に座って、読書をする少女がいた。シモンが手を振って呼びかけると、最初、リリーは怪訝な顔をした。


「シモン?」


 目を丸くすると、本を脇に置き、シモンのそばまでやってきた。リリーは破顔して、シモンの手を握った。


「日焼けしていたから、別人かと思った! それに、前よりたくましくなったみたい」


 それから、きょろきょろと辺りを見回した。


「……メイスは? 一緒じゃないの?」


 シモンは頷いた。


「ぼく、気づいたんだよ。いたずらに世界を旅すれば、物知りになって、魅力的な絵が描ける、というわけではないんだ」


 シモンはいったん言葉を切ると、赤面しながら、おずおずと続けた。


「だから、ぼくは旅をやめることにした。どこかに出かけるより、リリーのことや、この土地のことをもっと知りたいんだ」


 そのころ、王立展覧会では、《名もなき村の賢者》という題名の絵画が話題になっていた。それは、昨今の風景画ブームのなかでは特異な、人物画の作品だった。絵のなかには、丸太椅子に腰かける金髪の少女がいて、瞑想するようにその瞳を閉じている。物と物との境界があいまいで、コップや花瓶に挿された花などが、今にも混ざり合って一つになりそうである。新しい表現を探りながら描かれたと思われる作品で、ただならぬ魅力が宿っていた。やがて、その年の最優秀賞が発表されたが、その結果は誰もが納得するものだった。

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名もなき村の賢者 sousou @sousou55

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