幕間-3

 渇く。猛烈に喉が渇いて乾涸ひからびそうになる。渇く以上に飢える。麓の町で暮らす人々の姿を見て、森に分け入る人間の匂いを嗅ぐたび、喉笛に喰らいついて貪りたいと思う。思って、彼はそこで我に返る。それではまるでけだものじゃないか。

 どうしても飢えて仕方がないとき、子どもの頃に覚えた簡単な罠を仕掛けて野うさぎを狩った。動けない野うさぎのふくふくとした茶色い毛並みに銀狼ぎんろうの姿で喰らいついたものの、砂を噛むような心地がして食べられたものではなかった。

 甘い肉が喰いたい──町の広場を駆け回る無邪気な肢体が脳裏に浮かぶ。森に分け入る旅人や商人たちの硬い肉でもいい。生きた人間に喰らいつけるのであれば老若男女は問わない。

「野うさぎも鹿も受け付けないぞ」

 寝台で身を縮める彼に宣うのは白い人狼のヘレンだ。

「お前の飢えを満たせるのは人間の肉だけだ、あれはとびきりの甘露に等しい」

 それは悪魔の誘惑だと彼は耳を塞ぐ。身体を縮こめ、自らの腕で抱き竦めていなければ、暴力的ですらある衝動でどうにかなってしまいそうだった。

「失せろ、と何度も言わせるな」

 彼は必死で声を紡ぐ。ともすれば狼のように唸ってしまいそうで怖い。

「失せるとも、だが離れはしない」

 ヘレンがにたりと笑う気配がした。

「俺がお前にするように、俺の肉を喰らえば少しは違うかも知れないぞ」

 彼の身体が人外のものとなってから、ヘレンは何度かその身に喰らいついていた。いつも柔らかな腹腔を貪られ、喰い殺される苦痛を漂ったあと、傷が再生する激痛に苦悶する。死を願っても終わりが来ない。これほどの絶望があろうかと耐え忍んでいるうちに気を失い、目を覚ます。

 人狼の肉はどんな味だろうかと想像しかけて、彼はきつく目を閉じた。食欲をそそる匂いを放つ餌を前に涎を垂らしてサインを待っている犬の気分だ。けれど、その一線を踏み越えてしまったらヒトではなくなる。生きている動物を狩るならまだしも、人間の姿かたちをしたものを狩って喰らうわけにはいかない。

 化け物にはなりたくない。

「お前は何を守ってる?」

 不意に尋ねられて、虚を衝かれた気がした。無意識に息を飲む。

「高潔であれとする侯爵家の末裔の矜恃か、辺境伯領の次期当主としての意地か、家族や使用人との絆か、人間であることに縋っているだけか」

 ヘレンがじっと見下ろす気配がする。

「それがお前の何を守った?」

 痛いところを突かれた気がした。

 彼は果たして自らの意思でそれらを守ろうとしていただろうか。生まれた場所と環境のせいでそうあるべきと思い込んでいただけではないのか。周囲から一方的に期待され、押し付けられてきた役割を背負い込むことで、苦労をせずに生きる道を選んでいただけではないのか。自分が本当はどう生きたいかなんて、どこで生きたいかなんて難しいことは考えずに済むから。

 確かに家柄は彼を守ってくれたかも知れない。辺境伯でも領地運営はしているのだから、資産が潤沢でなくとも貴族階級で育つことはできた。税を納める領民たちのように、明日の暮らしもわからぬほどひもじい思いをしたことがないというだけで、彼が傷ついてきた数々の事象を相殺できるだろうか。

「……生まれる場所は選べない」

 彼が辛うじて反論すると、

「放蕩息子になる勇気がなかっただけだろう」

 ヘレンは更に弱いところを突いてくるから嫌になる。

 名家に生まれてしまったために、爵位や身分、社交界での立場、家柄と品位などに縛られている人々はごまんといる。自由に生きることを許されないのは彼に限った話ではないのだ。そういった人々が臆病者なのだろうか。義務と責務、軋轢、しがらみなんかに翻弄される苦労者たちが、すべて意気地なしだと言うのだろうか。

「なぁ、ニール」

 耳を撫でたのは家庭教師の声だった。同一人物なのだから当然なのだが、ヘレンとあの人では声まで全くの別人のように聞こえる。

「お前が追憶していたのはなんだった?」

 砂粒がついた手でざりざりと背筋を無遠慮に撫でられたようだった。地獄の底のような日々の中、彼に許された唯一の安息を穢された気がした。

「黙れ!」

 これほどまでに強い感情なんて知らない。烈しい憎悪を込めて怒鳴りつける。人の姿をしているのに、狼の姿のときのように全身の毛が逆立つのを感じる。

「なぁ、ニール」

 けれど、ヘレンは口を噤まなかった。

「本当はと一緒に来たかったんじゃないのか?」

 彼がひた隠しにしていた本音に、ヘレンの凍える指先が触れた。胸の内で膨らんだ感情が、パン、と鋭い音を立てて弾け、無数の破片が彼の柔らかい内奥に突き刺さる。けだし、傷はつかなかった。哀しくて寂しくて仕方のないときに、温かい腕に抱き寄せられたような安堵が押し寄せて、舌の根に用意していた言葉を激流が拐ってしまう。

「……せんせい」

 刹那的な奔流が僅かに落ち着くのを待って、彼は家庭教師を呼んだ。声は震え、掠れていた。

「苦しくてつらいだけなら死んでしまいたかった、どうして静かに逝かせてくれなかったんですか」

 体温を持たないヘレンの手が、彼の髪に優しく触れる。遠慮がちに耳の縁をくすぐって、

「緑青色の空と海を見に行こうと約束した」

 そんなことを言うものだから、彼は大きく目を見張った。

「いつか二人で、二人きりの海岸線で、静かなだけの世界を見ようと約束した」

 忘れてしまっていた約束を思い出した。

 原初の世界。緑青色の空と海。普通の人間では辿り着けない毒素の世界。水も空気も濃すぎるあまりに死んでしまう、残酷ながらも美しい世界。あんなの、突拍子もない作り話だと思っていた。子どもの頃は驚きに満ちていた寝物語の数々は、大人になるにつれて現実味を失っていった。彼の中では色褪せてしまった約束が、彼をこの世に繋ぎ止めた。

「……それは狡い、

 呻くように呟いた彼の唇に、ヘレンの右の親指が触れて、そっと撫でる。撫でた親指は彼の唇を割り、緩みかかった歯列を割って、彼の頬の内側に触れた。

 彼はヘレンの親指を噛み切った。









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