終末の世界
寝台の敷布や木製チェストの脚を炎が舐めて灰にしようとしている。夜陰に屋敷全体が沈む中、燃え盛ろうとしている炎の明かりに照らされた影から巨大な
「ニール、」
仔馬ほどの大きさの狼は瞬く間にヒトの姿を取り、倒れ伏したまま動かない少年の傍に寄った。
肩が抉れて骨が見えている。片腕は皮一枚で辛うじて繋がった状態だ。腹部の出血がおびただしく床を黒く濡らしている。見るからに遅かったとわかる状態の少年にそっと触れて、人狼は錆色をした不吉な満月の瞳を背後に向けた。
そこには、少年の父の姿をしたなにかが立っている。
「貴様、俺の息子を殺したな」
人狼が地鳴りのような声で唸ると同時に、室内の空気が大きく揺らいだ。人狼を中心とした突風がすべての炎を鎮火させ、辺りを闇に沈める。
「この俺の子を……!」
少年の父だったものは焦点をどこにも持たぬまま、不思議そうに首を傾げた。闇の中で仄白く浮かび上がる人狼の姿を見つけ、瞳を失った目でにたりと笑う。血に濡れた鉈が人狼に向かって投げられた。鉈は人狼の左目の辺りを直撃し、眼球に突き刺さって視野を奪う。人狼は痛みなど感じていない様子で、立ち上がりざま鉈を抜き取って遠くへ捨てた。その手で潰れかけの眼球を掴み出して捨てると、自らの素足でもって踏み潰す。
「俺が誰だか知らないな、痴れ者め」
「塵になったら他の七百有余の悪魔どもに聞くといい」
少年の父だった男は、首を百八十度、下に──つまり顎先が天を向くように──傾げた。人外の動作に狼狽えることなく、人狼は静かに、白い身体を闇へと溶かした。
「万物の本当の創造者は誰か、とな」
噎せ返るような腐敗と硫黄の匂いが部屋を満たし、六百六十六匹の獣と六百六十六匹の蟲が男へと襲いかかる。それぞれが身体を無惨にも引き裂くものだから、男の肉体は八つ裂きより更に細かく刻まれた末、跡形もなく消えてしまった。獣も蟲も一陣の風のように掻き消えたあとには異臭など欠片もなく、辺りは真夜中の静謐に戻る。
「……ニール。」
再び姿を現わした人狼は倒れたままの少年の傍らに膝をつき、事切れた冷たい遺骸を優しく抱き寄せた。痛みも苦しみもない無の世界へ旅立った身体は生前の重みを失っている。こんなに細かっただろうかと思いながら、人狼は少年の左手首を取った。成人を迎える歳頃にしては、その身は残酷なほど痩せていた。
「どうして俺を呼ばなかった、俺はいつだってお前の傍の影に潜んで、機会を待っていたのに」
あんなに艶やかだった黒髪も今では枯れ草のようにハリがない。誰もが絶賛した美貌は痛ましいくらいに窶れていて、少年が耐え忍んできた苦難の過酷さが伺える。
魔性のものは境界を越えられないなんて、嘘だ。家庭教師として寄り添いながら吹き込んだ言葉は、少年に人狼の名前を呼ばせるための建前だった。本当はいつでも躍り出ることができたし、少年を傷つけようとする者の頭を何度、噛み潰したいと歯噛みしたか知れない。けれど、もう何もかもが手遅れだ。少年の息吹は遠ざかってしまった。死の間際、心から愛しそうに名を呼ぶだけ呼んで逝ってしまった。名前を呼ばなかったのは少年が自らに課した重い枷だったに違いない。家庭教師に甘えてばかりだった頃には戻れないのだと、戒め続けていたに違いない。
少年の頭を掻き抱いた。
「お前を死なせないためだったのに、これじゃあ意味がない──」
少年が歩む本来の人生では、別の苦労が彼を待ち受けていた。少年が十歳のときに父が早世し、祖父にあたる侯爵家の援助を受ける代わりに公爵家との縁談を結ばされ、政略結婚することになる。少年は十二歳で政略結婚した歳上の妻に毒殺され、遺体は屋敷内の池に捨てられてしまう末路を辿るのだった。
「……クロノス」
人狼は最も信頼している眷属を呼んだ。
「タナトスとともにニールの行く先を追え」
時間と死を司る二柱の気配が了承を伝えるように消えた。
人狼を「せんせい」と呼んだ、あどけない薔薇色の唇。「きれい」と瞳に見入った美しい
人狼は少年の遺骸を抱いたまま、自らの手首を深く噛み切った。太い血管が傷ついたために溢れる血液を少年の乾いた唇に宛てがい、
「飲め」
命じる。
少年の遺骸はぴくりとも反応しなかった。事切れて時間が経っているのだから当たり前ではある。
「飲め、ニール」
けれども人狼は命じ続けた。僅かに開いた少年の唇の隙間に血液が滴ってゆく。真円の満月色の瞳が闇にぼんやりと浮かぶ。
「飲んでくれ、俺の愛し子」
人狼は永すぎる命の中で初めて、祈った。死んでしまったはずの少年の喉が、こく、と音を立てた。
少年が確かに血液を飲み下した刹那、全身を支配する痛みにか、微かに呻く声が唇から漏れた。肉体を離れ、永遠の遊行に出ようとしていた魂が戻ってきたのだ。二柱の眷属の気配がする。どうやら間に合ったらしい。
「おやすみ、ニール」
冷たい額に口付けて、人狼は囁いた。
「お前が負った傷は俺の血が癒す、お前が望まない永遠を与える」
今にも絶えてしまいそうな呼吸が戻っていることを確認し、人狼は静かに、少年の身体を抱いて立ち上がった。
「お前はもっと望むといい、この世界はお前が思うより無慈悲で美しい」
使用人を含めた一家の遺体が発見されたのは、それから数日後のことだった。辺境伯領の領主一家が賊に襲われ全員が死亡した事件に、領内の町や村は動揺した。領主の遺体は見つからぬまま、雨の中、一家の葬儀が行われているのを、人狼は黒い森の木立の中から見つめていた。参列するのは峻峰の麓の町の神父と役人が数人という、寂しい葬儀だった。
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