幕間-2
「先生、」
と、彼は縋るような声で言った。
「先生、こんなになっても、先生はぼくのこと、好きだと言ってくれますか」
瞼の裏に鮮明に焼き付いた家庭教師の姿は儚げに微笑むだけで、答えなかった。
目が覚めた。
あらゆることで父の代わりを務めるようになってから、身体は痩せる一方だった。家令やマークトたちに見守られながら食事をしたとしても、数時間後にはすべて吐き戻してしまう。冷たい水を飲んでも喉が焼けるように熱くなり、二口以上は受け付けない。
母親に似て麗しく、父親に似て理知的だと褒めそやされてきた絶世の美貌は今や窶れ果ててしまって、傍目には痛々しく見えることだろう。それでも、彼には重荷を捨てる選択などできなかった。勇気も覚悟も持てない臆病者かも知れないが、父の不義を疑って床に伏せった母も、忽然と失踪してしまった父も、家に仕える使用人たちも、彼が大事に守りたいと願うものであることに変わりはない。
ここは地獄の底だ。糞尿と硫黄の匂いばかりが立ち込める希望のない世界。それでも、どうにか踏ん張って立ち上がるしかないのだ。彼の唯一の希望は消えてしまった。夢の中でしか逢えなくなった姿に救いを見出しながら、血反吐にまみれて生き続けるしかない。ここにあった幸福を永遠に失わないために。かつて彼を満たしていた幸福を過去にしないために。
パチパチと音がする。木材や布が燃えるきな臭さが嗅覚を覆っている。灼熱感を帯びた痛みで気が遠くなりそうだ。とにかく熱くて痛いということ以外、なにもわからない。鉈を受けた腕はくっ付いているだろうか。身体はまだ無事だろうか。肩口に負った深手から血が失われていくためか、どくどくと脈打つ不穏な感覚が微かにある。
──先生。
ひゅう、と喘鳴に喉を鳴らしながら、彼はそっと夢の中の幻影を呼ぶ。いつだって儚げに、優しく微笑んでいた家庭教師。上質な絹糸を思わせる
──先生。
こぷ、と音を立てて喀血する。折れた骨がどこかを傷つけているのかも知れない。
──いつだって優しくて、いつだって微笑んでいて、すべてを愛しそうに見守るあなたが好きでした。困らせるために我儘を言ったわけではないけれど、決して拒まなかったあなたが大好きでした。追いかけていれば良かったと思う日もあった、あなたと一緒に行きたいと泣き喚けば良かったと後悔もした。だけど、ここには守るべきものがあるし、私ではたぶん先生とは釣り合わない。最期に一目、逢いたかったけれど、いつまでもあなたの幸せを祈っています。どうか、どうか、その深い愛で、私のように傷つき果てた人を包んでくれますように。どうか、同じくらいあなたを愛する人と出逢えますように。どうか、父のご加護があなたに永遠に降り注ぎますように。
「……ヘレン、」
血や炎で真っ赤に染まる視界を見つめて、彼は幽く呟いた。最期の吐息で呟いて、薄っすら開けていた目を閉じた。いつまでも残る聴覚が、炎の燃え盛る音を聞いていた。
やっと、終わった。
はずだった。
「三度目のお目覚めだな、眠り姫」
寝台で目覚めた彼を見下ろして、白髪の男がにんまりと笑った。
この男と目線を合わせて少し話したことまでは覚えているが、どうやらぱったりと気絶してしまったらしかった。それもそうだろう。人間の身体では実現しようはずもない死からの再生と復活を遂げたのだ。気力も体力も底をついてしまったに違いない。
「……ヘレン」
彼は仰向けになったまま、傍らの男の名を呼んだ。かつての優しい家庭教師であり、不死の化け物である
人狼の双眸は満月色だった。髪色や顔立ちなどは家庭教師とまったく同じ姿なのに、纏う雰囲気や表情はまるで別人だ。
「どうして私を生かした」
彼は真っ直ぐに人狼を責める。
彼が十五──成人を迎えた日、失踪していた父が突如として帰ってきた。しかし様子がおかしく、誰との会話も成立しない。奥方だけではなく当主までも気が狂ってしまったのかと、使用人たちが片隅で話しているのを聞いてしまった。その夜だ。父が使用人を惨殺した。瀕死の状態のマークト長が知らせに来たときには既に遅く、彼が母の寝室に駆けつけたときには、寝台の敷布は赤黒く濡れていた。
父は薪を割るための鉈を持っていた。鋭利に研がれた刃の色さえわからなくなるほど血に濡れた凶器は、彼の肩と腕、腹を抉った。
燭台が倒れたために母の寝室は火の海だった。重傷を負って焼け死んでしまうはずだった彼はこうして、望まぬ命を得た。
ようやく終われると思ったのに。
「死にたかったのなら、どうして俺を呼び入れた」
人狼の言葉を受けて彼が怪訝に眉を寄せると、
「魔性のものは境界を自らの意思で越えられない、だから何があっても招き入れてはならないと伝えたよ」
家庭教師の面影を宿す人狼が
はっとして息を飲む。家庭教師と座学をしている最中、事あるごとに聞かされた台詞だ。けれど、別れ際、家庭教師はこうも言った。寂しくなったら呼んで欲しい──矛盾した言葉は、契約を意味していたというのだろうか。
「お前は……っ」
「わかりやすく選択肢を与えたんだ、ニール」
咄嗟に起き上がって反論を試みる彼の言葉を遮り、人狼がニタニタと笑う。
「呼ばれなかったらお前の勝ち、呼んでしまったら俺の勝ち」
そんな理不尽なことはない。けれど言い返せないのも事実だ。唇を噛む彼に寄り添うように、人狼は膝を折って目線を合わせる。
「賭けの対価はお前自身、これで納得したか」
彼は悪魔のように笑う人狼を睨み据えた。睨み据えながら、人狼の目が限りなく愛しそうに細められていることに気づく。そこにあるのは親子の情で、恋人への執着で、伴侶への愛だ。
「失せろ」
しかし、彼は人狼を拒絶した。使ったこともない強い言葉を舌に載せた瞬間、身を切られる切ない痛みが左胸を刺した。
「顔を見せるな」
人狼は言葉で答えず、とろりと寝室の闇に溶けた。それきり、廃墟にはなんの気配もなくなった。
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