原初の世界

 波の音がする。寄せては返し、海岸線を舐めていく。超大陸パンゲアのどこかの原生林で、子どもはぼんやりと海を見ていた。髪も肌も透けるように白く、無垢な印象の子どもは闇を湛える瞳を虚空に投げて、花緑青はなろくしょうの空と海を見つめていた。

 ────。

 誰かに呼ばれた気がして原生林の奥を振り向いたものの、そこには何かあるはずがない。

 燃え盛る大地が膨大な量の水と雨によって冷やされ、どこからともなくやって来た緑が芽吹き、太古の森を作った。森の中で先だって目覚めたばかりの子ども以外に生ける命の気配はしないのだ。孤独も何もない、無だけが

 しばらく海を見つめていた子どもはふらりと海辺を離れて歩き出した。やがては切り離されてしまう超大陸の奥を目指し、何かに引き寄せられるように。

 旋律が聞こえる。子守唄のように優しく、誰かを想う小夜曲セレナードのように切なく、夜想曲ノクターンのように叙情的な旋律が。

 どれだけ歩いたのかわからなくなる頃、旋律に導かれた子どもはある洞穴に辿り着いた。洞穴の前に立った瞬間、旋律は音ではなく声なのだとわかった。子どもの到着を待っていたかのように、ひとりの女が姿を現わした。

「こんにちは」

 と、彼女は言った。虚ろに見上げる子どもを最初から知っているかのような顔で。

「お名前は?」

 膝に手を当てて前屈みになり目線を合わせながら女が聞いた。女の瞳に茫洋とした自分の顔が映るのを見て、子どもは一度だけ瞬きをした。

「あら」

 と、女が瞬きを返した。

口が利けないのね、世界の礎さん」

 女の瞳に映った自分の姿は覚えているのに、女の顔立ちはまるで記憶にない。そこだけが霞んでしまって仮面のようだ。

「わたしはアダムとリリトの娘の■■■■、名前なんて覚えなくていいわ、千年紀ミレニアムの到来まで地上で人々の堕落を待つ魔女、と思っておいてちょうだい」

 しかし、彼女が比類なきほど美しかった感覚だけは、しっかりと焼き付いている。

 魔女は世界が始まって六日目に創られた最初の男女から生まれたそうだ。リリトは女であるのに男のアダムに跨って最初の性交をしたものだから、楽園から追放され、荒野から硫黄臭に満ちた地獄へ下ったそうだ。地獄で生まれた魔女はインキュバスとして人間の男──特に羊飼いや使徒たち──の精を搾り取る役割を持って地上へやって来たそうだが、そうなるまでにはまだまだ時間が掛かるので、こうして母の代わりに地上を偲んでいるのだという。

「あなたは創世記の第零日に生まれているの」

 と、魔女は木の皮で籠を織りながら言った。

最初はじめに言葉ありき、と預言者は記すだろうけれど、あなたはそれよりも前に存在しているのよ」

 そうして魔女は空を仰ぐ。

「ほら、ご覧なさい」

 緑青から紺色に変わりつつある空には、白銀に輝く巨大な満月が浮かんでいる。まさに、東の空から昇ったばかりだ。

「この世界から分かれた衛星、人はそれを月と呼ぶわ、あなたの中には

 空を見上げる子どもの胸の真ん中を指して、彼女は言った。

「月は満ちたり欠けたりして、人に大きな影響を与えるわ、だからこそ無尽蔵の魔力を持っている、あなたにも同じものが備わっているの」

 彼女を振り向いた子どもの瞳は、真の闇から黄金の満月色に変わっていた。

太陽スコルハティの禁断の婚姻で生まれたあなた、世界の父であって母、はじまりであって終わり──そうね、あなたはとんでもない混沌ばけものよ」

 魔女がそう告げた瞬間、子どもの身体は稲妻に打たれたかのようにビリビリと痺れた。それまで焦点を持たず、茫洋としていた表情と瞳が意思を持っていく。子どもは大きく三度、まばたきをした。美しい形の唇から吐息に紛れて微かな声が漏れた。

「あなたは創世主であると同時に破滅の申し子なの、やがてソロモン王が従える七十二柱の悪魔の十倍を配下にして煉獄を闊歩し、羊飼いたちが主と呼ぶ父と御子とすべての聖霊をかしずかせるの」

 魔女が静かに微笑んだ。

「人はやがて、あなたの無数にあるうちのひとつの姿を見て、人狼ライカンと呼ぶでしょう」

 黄金の満月色の瞳の中で、仮面をつけたように霞んだ顔の女が美しい声で囁く。

「あなたはヘレン、光の中の闇、闇の中の光」

 子どもは声もなく唇を動かして、その名前を復唱する。

「人々に希望を与えて奪う、暴虐のけだもの」

 子どもは魔女の瞳の中にすべての未来を見た。人々が歩む進化の過程と、やがて迎える終末の光景を。その中でひとりだけ、無垢すぎるほどに無垢な魂を見つけた。純粋であるゆえに運命に苦しむ非業を背負いながらも、決して堕落してしまうまいとする健気な魂。子どもは、あの子が欲しい、と強く思った。地獄の底のような日々を生きながら、政略結婚した相手に毒殺されてしまう命に触れて、我がものにしたいと思った。満月色をした化け物の瞳を見つめ、綺麗だと言った少年のすべてを喰らいたいと。骨片や血の一滴も残さずに。

「その子は遠い未来のわたしの息子なの」

 子どもが彼女の瞳の中になにを見たのか、すべてを知っている口振りで魔女が言った。

「そしてあなたの息子でもある」

 予言の魔女はそうして、艶やかに笑った。

「どうぞよろしくね」









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