???? B.C.

幕間-1

 緑青色ろくしょういろの空と海を見たことはあるかい、と、家庭教師は言った。幼い彼はぱちくりとまばたいた。

「うみ、ってなぁに?」

 彼はまだそれを見たことがなかったし、聞いたこともなかった。何故なら、彼が両親や使用人たちと住む屋敷は峻峰しゅんぽうの麓の黒い森に位置していて、遠くへ行く手段がなかったのである。

「湖は見たことがあるかい?」

 寝台に横たわる彼に、家庭教師は小首を傾げた。彼は静かに首を振った。

「森の中に小さな池があるね、あの池を幾つも並べたような大きさの水たまりが湖で、地平の彼方までずっと続いている水たまりが海だよ」

 小さな池は知っている。先日、座学と座学の合間の休憩中にこっそり屋敷を抜け出して、家庭教師と水遊びをしに行ったばかりだ。きらきら輝く木漏れ日に歓声を上げると、家庭教師はくすぐったそうに笑いながら、実はここも君の家の持ち物なんだよと教えてくれたっけ。

 池は彼の足でぐるりと回ること、百歩を超える大きさだった。百以上は数えられなかったので一から数え直したら訳がわからなくなってしまった。ここは森の動物たちの憩いの場で、屋敷に住む人々の息抜きの場所であると家庭教師は言った。池の水に指を浸す彼を見守りながら微笑んでいたことを覚えている。

「じゃあ、とっても、とっても大きいんだね」

 寝る前だというのに目が冴えてしまった様子の彼を見て、家庭教師は困ったように笑った。この話をするべきじゃなかった、と顔に書いてある。

「ろくしょうって、どんな色?」

 彼が続けて問うと、

「庭に錆び付いた牡鹿の像があっただろう、あれの色に少し似てるね」

 家庭教師は柔らかい声で答えた。

 牡鹿の像は庭園の真ん中にあって、風雨で錆び付いてしまっていた。この屋敷はもともと、父方の侯爵家の別荘だったらしいから、きっと像も古くから存在しているのだ。

 錆の色をした空と海を想像してみる。青と緑が複雑に混じり合った綺麗な色の空と海──遮るもののない水たまり──が一面に広がっていて、それを眺めるのは気持ちがいい。

 思わず、ほう、と息が零れた。

「先生は見たことがあるの?」

 いったいどこに行けば見られるのかしらと、彼は家庭教師に聞いてみた。家庭教師は少し考えるふうに腕を組み、片手の指を滑らかな顎の先に添えて、

「原初の世界はそんなふうだったと聞いたんだよ」

 寂しそうに微笑んだ。何かを言いたいけれど言えない、そんなもどかしさを抱えたときの笑みだと彼にはわかった。

「げんしょって?」

「はじまりだね」

「世界のはじまり?」

「うん、はじまったばかりの世界」

 それはどんなところだろう、と彼は思う。

 創世記。第一日目。光あれ、と神は言われた。世界は光と闇に分かれ、昼と夜になった。そこから大地や草花、獣、鳥たちを創りたもうた神様だけが目にしていた世界。錆び付いた牡鹿の身体のような色の空と海。

「……見てみたいなぁ」

 そこは静かな景色が広がるばかりの場所。皆の父の箱庭。できたてほやほやの海岸線で人類最初の男が海を見ている。その姿は白髪と黒い瞳の家庭教師で、儚げに佇む傍らに彼も立ちたいと願った。

「残念なことにね、ニール」

 思いを馳せる彼に家庭教師が言った。

「はじまったばかりの世界では、私たちは生きていられないんだ」

 えっ、と声が出た。

「水も空気も、何もかもが濃すぎてね、息をすることもできない」

 忘れ去られた楽園の想像がひび割れる。家庭教師と二人きりで安らぎの時間を過ごしたいと思う彼の願いは、口にすることなくついえていく。

「限りなく静かだけど、私たちには限りなく残酷な場所なんだよ」

 たぶん、しゅんとした顔をしたのだろう。ピローに背中を預けて俯く彼の髪を冷たく優しい手が撫でる。

「でも、いつか、二人で見たいね」

 髪に触れる指から思いが伝わったかのように家庭教師が微笑んだ。とても優しい先生を見上げて、彼は大きく頷いた。

「うん」

 果てなく続く空と海。地平線の彼方まで緑青色をした静かな場所。誰もいない海岸線で手を繋ぎ、生まれたばかりの世界を二人で眺める。生まれたばかりの海鳥が緑青色の空を飛び、緑青色の海原では魚が跳ねる。何の音もしない静謐の場所で彼は家庭教師を振り仰ぐ。そっと振り向いた家庭教師は慈母のように笑って、心細く感じる彼の唇にキスをする。

 幸せな世界の夢を見ていた。いつか見ようと約束していた世界の夢だ。花緑青のように猛毒の世界で、二人だけが生きていた。そこが神の国でなくとも天国であるなら、彼は死んでしまってもいいと思えた。

「……奥様がお呼びです」

 冷たく凍えるような家令の声で目を覚ます。初老を迎えた厳格な男が寝台の傍らに立っている。幸せな夢の欠片は瞬く間に凍りつき、冷たい炎を上げて燃え尽きてしまった。次の年には成人を迎える彼にとって、夢の中以外は地獄だった。

 嗚呼、また、鈎型に曲がった枯れ枝のような指に背中を掻きむしられるのか。哀れな女が半ば夢現ゆめうつつの状態で叫ぶのは息子の名ではないのに、決して繋がってはいけないはずの母親と父の代わりに契らなければならない。そうでもしないと阿片中毒の母親は老いた熊のように徘徊を始め、下手をすると麓の町まで降りて男を漁る。家の醜聞になってはいけないと彼が相手をするようになったが、使用人たちの視線が突き刺さるようで生きた心地がしない。

 緑青色の海に沈みたいと、彼は夢の中で何度も願った。穢れを知らない透明な水底で貝のように眠りながら、美しい思い出だけを紡いでいたい。

 ──先生。

 去っていく背中を追いかけて、届かぬ手を伸ばしたかった。泣き崩れる彼を心配して、優しい先生はきっと、戻ってきてくれるはずだから。

 一緒に行こう、と言って欲しかった。

 一緒に生きたいと、我儘を言えれば良かった。

「すぐに行く」

 寝台を出た彼が床に足をつけた瞬間から、砂漠の熱波に晒されるような世界が始まる。そしてまた、彼はひとつ罪を犯して、コールタールの奈落の沼へと沈んでいく。底のない沼に頭のてっぺんまで沈んだとき、先生は、彼を見つけてくれるだろうか。あの儚く優しい微笑みを浮かべて、よく頑張ったねと褒めてくれるだろうか。

 ここは地獄の底だ。幸福には程遠い、神に見放された孤独の世界。希望は見えない。だから絶望もしない。ひたすら寒く、凍てつく道が続いている。










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