打ち捨てられた孤島にて
う、と呻いた自分の声で目が覚めた。頭と首の付け根の辺りが痛みを発している。熱を帯びたような痛みの原因を思い出そうとしながら首をさすり、腕に力を込めて身体を起こそうとした瞬間、刺すような冷気が背筋を撫でて覚醒した。
瞬時に、そこが湖に存在する孤島であることを理解した。古びた石造りの建物に囲まれた中庭であることを理解すると同時に、ゆらりと立っている幽鬼のような白い背中に気づき、名を呼ぶ。
「……ヘレン、」
見知った背中は
「不出来な生徒を持ってしまったものだよ」
そう言って、彼の視界を遮ったのはよく知る姿だった。腰まで届きそうな白髪を黒いリボンで結わえ、常に穏やかな物腰で品がよく、静かに佇む麗人。
「……先生。」
狼の遠泣きが二重になって聞こえた。ひとつはいつかのヘレンのもので、ひとつはかつての家庭教師のものだ。同じ名前と同じ身体を持つ
「俺と同じ魔性の名を迂闊に呼んじゃいけないと、君には何度、伝えればいいだろうか」
遠い昔、テラスで日向ぼっこをしながら勉学に励む彼に、家庭教師は悪魔の名を呼んではならないと告げた。何の脈絡もなく言われた言葉にきょとんとしていると、家庭教師は柔らかく微笑んで、魔性のものは自らの意思で境界をまたげないから名前を呼ぶと招いてしまうのだ、と寂しそうに言った。
家庭教師は彼の悲運を予感して、忠告したのだろうか。それとも、誘導したのだろうか。ヘレン、という名前が混沌の化け物たる人狼のものであることは教えなかったのに。
「それに触るな、下郎」
前を向いた家庭教師が、その口から発せられたとは思えない言葉と低い声で唸る。
「俺の残穢の分際で」
黒いリボンがはらりと解けて落ちた。朽ちた狼の灰色の
亡者が犇めいているのか、地の底から湧き上がるような呻き声がする。それはそよ風の中にも混じり込み、不吉な予感を焚きつける。ここにいてはいけない、と本能が警告する。死ぬこと能わぬ身体ではあれど、長居することは確かに良くない影響をもたらすだろう。
「あの神父からは腐臭がした」
と言って、白い狼が家令の姿に変わる。
「だからガキを喰ってもいいかと聞いたのに、相変わらず鼻が利かない狼だ」
あの村には既に、この島に汚染された何者かがいるのだと家令は告げた。それは神父や農夫、子どもといった村人の姿を取りながら、島に住み着く悪霊へと捧げる贄を探しているのだという。もちろん、神父や農夫、子どもたちを含めて村は実在しているものの、霧が出るたびに紛れ込んでは贄を捧げる。そうすることで、かつて化け物が作り出した地獄を延命させているらしい。
図らずも家令の手を借りて立ち上がりざま、彼はその手を振り払った。恩知らずを嘲るように家令が口角を持ち上げる。
「小オンディーヌに逢いに行くかい」
予期せぬ提案に家令を睨めつけながら、
「彼女はまだ眠っているのか」
問うと頷きが返ってきた。
リヴ・ヴォールト式の荘厳な礼拝堂の中は腐敗と黴、長年の埃の匂いで
「ここだ」
家令が地下への階段を示し、どんな魔術を使ってか爪先に火を灯した。その明かりを頼りに地下へと進む。夏場なのにひんやりとしていた孤島の空気より更に一段と冷たい空気が首筋を撫でて身震いする。まるで死の世界へ下っているようだと思いながら家令の背中について行った先には、奇跡があった。
彼女が横たわる棺は子ども用と思しき大きさで、そこに横たわる身体は遺骸ではなく、つい先刻まで呼吸していたかのような生々しさを保っていた。どこぞの聖女に起こった奇跡のようだ。まるで眠っているかのような魔女の姿に感嘆の息をつく。家令が過去を振り返りながら語ったように、確かに彼女は麗しかった。聖母像に肉付けしたらこんな顔になるかしら、というような面持ちをしていて、初めて目にしたような気がしない。
「俺が地獄を作り出したのは好奇心だが、もうひとつの理由はこれだ」
島に迷い込み、捧げられる幾多の命を糧として、干からびたミイラから生身へと変貌を遂げている途中なのだと家令は言った。
「俺は魔女と仲がいい」
今にも起き出してきそうな少女の身体を見下ろす家令の声は、どこか懐古を含んでいた。いつかの寝物語に聞いた、原初の世界を語る声とよく似ていた。
【1312 A.D.-了】
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