Ushers《アッシャーズ》

ナマケモノ

暴れ牛 その1

慶応3年4月14日--

その日の夜は彼にとって、いつもより穏やかで静謐な夜であった。

いつもの彼であれば芸者や太鼓持ちを呼び、三味線でも弾いて詩でも読み、朝になるまで酒を飲み干していただろう。

しかし、今となればそれも叶わない。なぜなら彼は、今まさに命の灯火が尽きかけているからだ。


彼の名は高杉晋作。かつて長州で奇兵隊を立ち上げ、幾度となく長州を危機から救った志士である。

彼は先の通り傍若無人の性格の持ち主であるものの、その実病弱な体であったのは有名な話。そして、当時不治の病として扱われていた労咳、今で言う肺結核によって体を蝕まれていたのである。


「東行庵」と呼ばれる小家にて、晋作は息も絶え絶えに床に臥していた。かつて「暴れ牛」と呼ばれていた面影はどこにもなく、ただ息を吸い吐くことに精一杯だ。


「ゲホッ…!!ゲホッゲホッ…!!」


口から血が流れる。意識が朦朧としているからか、あるいは迫る死を悟ってなのか、もはやそれを気にする余裕など無かった。


そんな彼に代わり、そばに居た野村望東尼のむらもとにが口元を拭いてくれた。彼女はかつて肩身の狭い攘夷志士達のために密議の場や食事などを提供し、サポートしていた。高杉もそんな彼女に助けてもらった志士の一人であった。


「すまんのぉ、望東もとさん…」

「お気になさらず。あなたに助けて頂いた身分。当然の役目ですよ」

「ハハ…。なぁに、こちらこそ…アナタにはワシも…仲間も助けて頂いた。お互い様じゃ…」


自らの藩から追われる身になり、九州の寺院で匿ってくれた彼女は高杉にとってもう一人の母親同然であった。また流刑の身で投獄された後、命を張って助けてくれた彼を望東尼は恩人として看病していた。


「…高杉さん。我々に、奇兵隊に何か言い残すことはありますか?」


咳払いをし、口火を切った男の名は山縣狂介やまがたきょうすけ。後の日本で陸軍元帥、陸軍創設の父として知られる男・山縣有朋やまがたありともである。彼は奇兵隊の副官として共に戦っていたが、高杉とは違い用心深く慎重な性格の持ち主だ。だからこそ、奇兵隊を率いていた高杉の後釜を誰が引き受けるのか、気が気でない様子だ。


「相変わらず小心者じゃのぉ…狂介は…。そんなだから皆から『味噌とっくり』と言われるんじゃぞ」

「…高杉さんは床に臥しても手厳しいですな」


山縣は苦笑いを浮かべつつも、名残り惜しそうな目で高杉を見ていた。二人の関係は決して仲が良いと言えるものではなかった。前に出て攻める高杉に対して、後ろへ下がって様子見する山縣。真反対な性質の二人がぶつかることは間々あったが、それでも最後には山縣も彼について行った。これまでの思い出が駆け巡るが、今はその時ではないと山縣は頭を晴らした。


「今が長州藩の踏ん張りどころ。ここで勢いが弱まれば、我らの行いが水泡に帰す。なればこそ、高杉さんから言葉を聞きたい。奇兵隊は誰を仰げば良いかを…。」


病体を鞭打ちする様な言葉だが、この時の日本は江戸幕府将軍・徳川家茂が病で倒れ、後継者として徳川慶喜が置かれて日は浅かった。長州藩への征伐が無くなったとはいえ、次いつ幕府が攻めてくるのか油断のできない状況である。長州藩にとって奇兵隊は最前線で戦う軍隊であり、最後の砦でもあった。高杉もそのことは十二分に理解していた。


「大村を…仰げ」

「大村?村田蔵六ですか?」


村田蔵六ーーー

またの名を大村益次郎と呼ばれる医者であり、兵学者であり、政治家である類稀なる才能を数多に持つ人物だ。

後の日本では彼が現代の陸軍の戦略や軍制の基盤を作ったとされている。高杉は彼のその才を見抜き、今後の長州ひいては日本に必要な人材であることを見越していた。


「あの『火吹き達磨』がいるなら…ワシがいなくてもやっていける。じゃが…お前も気を抜くな、狂介。何かあればお前が…奇兵隊を支えろ。」


死に体でありながら、山縣に語りかけるその眼光には戦場で見せた刀のきっさきの様な鋭さが残っていた。

山縣はその目を見据えながら、託された言葉を飲み込み、ただ尊敬すべき指導者に一礼した。


高杉の臨終に立ち会っていたのは、両親に妻の雅子、先程話した望東尼や山縣含めた数人の奇兵隊隊士、そして奇兵隊の創設に携わった豪商・白石正一郎。

皆顔を揃えて涙を浮かべたり、何もできない自分達を悔しがったりと陰鬱な雰囲気だ。高杉としてはもっと派手で面白いものを望んでいた。本来なら戦場にて華々しく散るのが一番だろう。病に倒れた今でさえ芸者でも呼んでどんちゃん騒ぎの中、自分はポックリ逝くくらいが良いとも考えていた。


酒を飲みたい…歌を詠みたい…この目で日本の変革を見たい…

欲望の渦が高杉を覆い尽くさんとしていたが、その渦中で最も一番思い浮かんだ欲望はーー


ダンッ!!


突如、奥の襖が開かれる。部屋にいた全員がその扉の先にいた人物に度肝を抜かれた。何故ならはこの場に相応しくないと皆から説得され、遠い寺院へと送られていた筈だったからだ。高杉にとっての欲望それが向こうからやってきた。


「おうの…か?」

「だ…旦那はん…」


彼女の名はおうの。元々は芸妓として生きていたが、高杉に気に入られ、藩から追われるのを契機に共に過ごし始めたという、いわゆるめかけだ。

着物がはだけ、整えていた髷も乱れており、裸足で走ってきたのか指や踵は血で滲んでいる。息も荒げ、体はフラフラと揺れ、疲労と悲哀に満ちながらも高杉に近づいていく。


「待ちなさい」


しかし、それを阻むのが一人。高杉の妻・雅子まさこである。

彼女こそ、おうのを説得した人物であった。


「おうのさん、お伝えしたはずですよ。アナタはこの場に相応しくないと。奇兵隊の方々はどうか知りませんが、少なくとも旦那様のご両親はアナタを良くは思っていません。」


たった今、高杉のために疾走してきたに対し、雅子は冷たくも真っ当な事実を淡々と突きつける。


「アナタがここにいれば、旦那様の面目が立ちませんし、アナタだって自分の立場が危うくなるのですよ。アナタは十分旦那様に尽くしてくれました。しかし今は、ここを去るのが旦那様のためです。だからーー」


言葉を紡ぐ雅子。しかし、その言葉を出し切る前におうのは返答する。


「嫌です…!」


雅子は目を見開いた。怒りからではない。その言葉が返ってくると予想すらしていなかった驚きからである。


「奥様…お雅さんには悪い思うてます。旦那はんのご両親方にも…。妾の私がここで何か言えるような人間じゃないことも分かってます。…でもーー」


ポタポタと雫が落ちる音がする。小雨が降り始めたかの如く畳に水滴が染み渡る。おうのは拳を握りながら、自身の心を吐いていく。


「ウチは旦那はんが大好きやから!分かってても体が動いてしもうたんです!せやから…せやから…」


おうのは従順な性格の女性だ。右を向けと言われたら、そのままずっと右を向いているような自分を持たない人間だ。皆からそう思われていた彼女が見せた初めての反論。反論と言うにはあまりにも幼稚な言葉であったが、その言葉に誰も文句は言えなかった。


泣き崩れるおうの。彼女の言葉を聞き、雅子の頬にも涙が流れる。もう何も言うまいと雅子は彼女に近づき、子供のように泣きじゃくる彼女の背中をさすっていた。


「ハ…ハハハ…」


皆がその光景を静かに眺める中、たった一人弱々しくも笑う者がいた。


「人が死にかけてるっちゅうに…本当にお前らは…騒がしゅうのぉ…。」


高杉は笑った。それは雅子とおうのが彼を看病していた時によく見ていた日常であった。雅子が真面目に看病する中、おうのがふざけて高杉を笑わせようとする。その後喧嘩する二人を見て、呆れるも楽しんでいる高杉。彼が見たかったものを最後に見ることができた。


「望東さん…前にワシが書いた詩。アレの返しをまだ聞いてませなんだ。…どうか、聞かせちゃくれんかのぉ」

「…わかりました」


懇願する高杉に対し、悟った望東尼は彼が以前詠んだ詩を言い綴る。その詩は以降、彼にとっての辞世の句として語り継がれることとなる。


面白き こともなき世を おもしろく

        すみなすものは 心なりけり


高杉の意識が遠のく。彼の目に映った者達は様々な様子を見せていた。泣きじゃくる者、顔を伏せる者、ただじっと見据える者、手を合わせ拝む者。共通していたのは皆が彼の名を呼んでいたこと。それを聞いた彼は満足気な顔を浮かべていた。


(満足じゃ…ワシはワシのやれる事をやり遂げた…。ワシのような「暴れ牛」にこれ程多くの者がついて来てくれた。ワシは…それだけで…)


力が入らない。口も動かせない。音は遠のき、視界が黒く染まっていく。まるで裸体で冷たい海底へと打ち捨てられるような感覚で高杉は静かに落ちていく。


(……………ああ、でもーー)


心の声だけは海底に響く。


(日本の『明日』をこの目で見たかった)


そんな届かぬ筈の声に波紋し、暗い底に光が見える。


光は大きくなり、高杉の意識を飲み込まんとしていた。



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