【短編】野良猫のエサ
cubeべぇ。
野良猫のエサ
最初の記憶は壁の汚れだった。騒がしい三匹の猫たちと、四方の壁に囲まれた狭い場所に閉じ込められていた。そもそもこいつらが誰なのか、名前もわからない。自分の名前すらわからない。母親の記憶もまったくなかった。
壁は高く天井がない。青い空に白い雲が浮かんでいた。ぎゅうぎゅう詰めの狭い空間から抜け出したい。壁を登ろうと掴みかかってもずり落ちる。弾力があって跳ね返される。思い切りぶつかって壁ごと倒そうとしても、力が足りず転ばされた。
兄弟らしき他の連中は背後でみゃーみゃーと大声で鳴き始めた。うるさい! 黙れ! と怒鳴ろうして振り返ると、三匹とも空を見上げて必死に何かを訴えている。
いままでと違った様子なので、俺も見上げてみると、空を覆うほど重なり合うたくさんの巨大な顔がこちらを覗き込んでいた。巨人の瞳から放たれる視線が足をすくませる。
巨大な手が伸びてきた。俺は恐ろしさで身体が震えて尻もちをつく。その手は隣の猫の頭を撫で始めた。撫でられた兄弟はいままでと違うみゃーみゃー声で喜んだ。
つづいて俺の身体の腰から下に力が入らなくなる。突然宙に浮きはじめた。巨人に両脇を掴まれて持ち上げられたのだ。兄弟猫たちの姿がみるみるしぼんでゆく。いままで閉じ込められていた壁の内側の世界が、足の下へ小さく縮んで見下ろせた。俺と兄弟たちは箱の中に押込められていたのだ。
壁の外には他にも巨人がたくさんいて、俺は巨大な顔を寄せて撫でられたり、他の巨人に渡されたり、手足の肉球を触られたりした。
初めて見る人間たちに、この後何をされるのか恐ろしくなり、俺は下腹部の緊張が解けて漏らしてしまう。俺を持っていた人間が陰茎の放水に気づき驚いて手を離したので、箱の兄弟たちの上に落とされた。俺も痛かったが、兄弟たちも痛かったらしくお互い声を上げて泣いた。俺は物心ついて始めて涙が出た。
箱の中の俺たちを覗き込む新たな巨人が現れる。いままでの人間と違い、皺が刻まれた顔、白くて細い髪や眉、太くかすれた声、目の周りの落ちた肉。高齢の女だった。
我々を最初に発見し、はしゃいでいたのは、人間の子供だったのだ。
しばらく子供たちと婆さんがしゃべったり、こちらを眺めたり、触ったり、騒いでいると、空があかね色に染まってきた。広場の隅にそびえる支柱のラッパから音楽が鳴りだす。
婆さんが子供たちに家へ帰るように促し、最後に覗き込んで独り言を言い放つと、いなくなってしまった。
ひっそりとした広場に兄弟たちのみゃーみゃーだけが響くものの、しばらくすると諦めて、みんなおとなしくなった。
陽が完全に落ちて空が暗くなると、兄弟たちは身体を寄せ合う。外灯だけがぼんやりと映し出す薄暗い空間は、目に見えるすべての境界線を曖昧にする。暗がりから恐ろしいモノが出てきそうで、不安で震えが抑えられない兄弟がいた。昆虫の鳴き声や、隣家から漏れる物音や、通り過ぎる人間の会話や、自転車の金属の音に、身体が鋭く跳ね上がる。
どうやら外の世界は人間という巨大な生き物が支配しているようだった。
箱の外には緑色の草木が茂っていて、金属の遊具や椅子があり、さらに外側には四方を囲むように建物がそびえ立っていた。すべて人間が造ったのだろうか。
今日一日いろんなことがありすぎて気が疲れたせいで、俺はいつの間にか眠っていた。
●
騒がしさで目を覚ます。はしゃいでる兄弟たちの姿が見えた。地面を歩き、土をほじくったり、雑草を噛んだりしている。俺は横になったままじゃれ合っている姿を寝ぼけながら眺めていた。
しばらくして、頭が冷静になると、なぜ壁の外の景色が見えているのか、違和感に叩かれ急いで身体を起こした。
箱の壁にたくさんのすき間があって外の景色が見えていたのだ。正確には箱ではなく、太い繊維で編み込まれた巨大な器の中にいた。両脇から上部にかけてアーチ型の持ち手が付いている。器の内底には厚紙とタオルが敷かれていた。籠の上部は開いていたが、さらにその上を巨大な天井が覆っている。遊具下のコンクリートの土台に置かれているのだった。草むらに放置された箱から、われわれが寝ている間に、籠に入れかえられて、遊具下に移動させられていたのだ。
一体誰がこんなことをしたのだろう?
俺は起き上がり、籠の敷居をまたいで外へ出た。匂いがするほうへ向かう。籠の直ぐ隣にあった。白い液体の入ったボウルと、粒状の固形物が山盛りになったトレイだ。最初は怪しく思って眺めていたが、兄弟たちの白い水を飲んだり固形物に食いつく姿を見ていると、俺の口にも唾液が出はじめ、腹がうなりだす。それからは考える暇もなく、食って飲んでいた。
次の日、容器に食べ物や飲み物を持ってきたのは、先日箱の中を覗き込んできた白髪の婆さんだった。タオルを敷いた籠を用意して、遊具下に移したのもこの婆さんだろう。ほぼ毎日エサを持ってきてくれた。来ない日の前には普段よりも多めの量を容器に盛り付けてくれた。
俺を含めた四匹の子猫は順調に育つ。まるまるとした身体つきになり、毛並みも生え替わって艶が出てきた。
大雨が降った日、遊具下のコンクリートの土台は地面より高いので、寝床は無事で、四匹で肩を寄せ合って過ごした。エサを盛っていた容器には雨がしたたり、食べ物が泥のように溶けてしまい、ミルクは雨水で薄まって半透明になっていた。
とりあえずこの日を耐えしのげば、新しい食べ物にありつけるだろう、と俺を含めた四匹は口にせずとも考えていた。
だが、次の日から婆さんは広場に顔を見せなくなった。次の次の日も来なかった。次の次の次の日も来ない。完全に来なくなってしまった。
人間について何も知らない俺たちには理由など知るよしもなかった。いままでの食い扶持を失ってしまっただけだった。
泥のように溶けたエサに蝿や蟻がたかって異臭を放つ。どうしても腹が減るので、ミルクが入っていた容器の水を飲んでみると、腹を下し、便所代わりの砂場に吐き出す。
兄弟たちは、広場のベンチに人間が座ると、目の前に居座ってみゃーみゃーと鳴いて物乞いをするようになった。食べ物を貰えればみんなが飛びつくので、兄弟たちで噛みついたり爪でひっかく争いになった。
次第に以前よりも広場に人間が寄りつかなくなった。砂場に糞や嘔吐、ベンチの周りには包装や食べかす、紙くず、吸い殻が散らばり、どこもかしこもなんらかの匂いを放つようになってしまった。
俺は籠の寝床から離れて、隅にある物置小屋の土台下を根城にしていた。寝床そばにあるエサの容器から漂う匂いに耐えきれなくなったからだ。俺は近所のゴミ捨て場の食べ物をあさったり、地面の水たまりを飲んで飢えをしのいでいた。身体は細くなり、毛繕いも面倒になって汚れたままで、だんだん白い毛が増えてきた。
最近新しく見かける近所のおばさんが広場にやってきた。兄弟たちが鳴いてもエサはくれないが、公園のゴミや落ち葉を見かけると拾い集めたり、砂場の糞を取り除いたりしていた。
だが今日は様子が違った。作業着の二人の男たちを連れて来たのだ。ひとりは金属の檻と輪の付いた長い棒を持ち、もうひとりは箒とバケツを持っていて、どちらもゴム手とゴム靴の装備で物々しい雰囲気をまとっている。
俺は嫌な予感がして素早く物置小屋の土台下に滑り込んだ。
兄弟たちがエサを欲しがってみゃーみゃー鳴きながら近づいてゆくと、作業員にうなじを掴まれ、次々と檻へ入れられる。久しぶりに人間にかまって貰えたのが嬉しいのか、これから食べ物にありつけると思ったのか、のんきに甘ったるい声を上げていた。
俺は息を潜めて自分の存在を殺していた。
ひとりの作業員はビニール袋を広げて、寝床の籠やエサとミルクの容器を放り込んだあと、箒で砂埃を巻き上げるように周囲を掃く。もうひとりの作業員は砂場を小さなスコップで掘り返している。ゴミや糞などがないか確かめているようだ。男たちが会話を交わさず黙々とこなしているのは、普段から同じ作業をして慣れているからだろう。
作業員がいなくなった後、俺は土台下から這い出た。あたりを見渡すと、いままで見慣れていた小さな広場が別の場所のように見えてきた。人間の残したゴミくずは取り除かれ、遊具下に置かれた寝床の籠はなくなり、キャットフードとミルク容器は跡形もない。砂場に生えていた雑草が抜かれ、砂が水平にならされていた。
いままで俺たちが生活していた面影はどこにもなくなってしまった。まるで初めて訪れた場所のようだった。
物音がして振り返ると、さっきのおばさんがまた広場に来るところだった。物置小屋は遠くて、近くに身を隠せる遊具もない。俺はとっさに近くの茶色く枯れた茂みへ飛び込む。
おばさんは辺りを注意深く見回している。ベンチの下、籠のあった遊具の陰、さっきまで俺が潜んでいた物置小屋の土台下など、地面に顔を近づけるほど覗き込んでいた。
明らかに俺を探している。
猫が一匹足りないことに気づいたのだ。檻に放り込まれる自分を想像すると体中の毛がざわつく。
いま隠れている茶色い草むらは俺の身の丈よりすこし高いだけだった。いつ見つかるか分からない。恐怖に震えながら這いつくばる。おばさんはこちらに気づいていない様子だ。いまのうちに移動すればいいのか、じっと草の中でやりすごせばいいのか、他に安全な手段があるのか、全く分からない。いまは息を殺して、聞き耳を立てるしかなかった。心臓の音が体毛の先まで響いてくる。
おばさんは猫の隠れそうな場所を一通り探し終えると、諦めて広場から出て行った。夕暮れに染まる背中を眺め終えて、俺は大きく息を吐き出した。
なんとかしのげたが、子猫が公園に居るという目撃があれば、またおばさんやあの作業員がやってくるのは間違いない。次は確実に捕まえる準備をしてくるだろう。一体どこに連れて行かれるのだろうか? 口数の少ない作業員から恐怖しか感じなかった。
今夜広場から出る決心をした。
●
陽が完全に沈むと家並みの輪郭が夜空に溶けた。外灯だけが周囲を照らし、地面を浮かび上がらせている。小さな広場の境から足を踏み出すと、冷えたアスファルトが肉球に染みこんでゆく。
外の世界はどこまでも道路が延びて、家の軒が連なって、無限にひろがっている。暗闇の向こう側に何があるのか分からない。得体の知れないものに包まれそうで寒気がしてくる。やはり広場から出るのは辞めようか? 何度も引き返そうか迷う。
夜の暗闇よりも、作業服の男たちと近所のおばさんのほうがはっきりとした怖さがあって、俺の足を前に進ませた。
生まれ育った小さな広場に引き返す後悔はしだいに消えていった。
明かりの灯った家から物音が響く。金属の鳴る音、水が流れる音、子供の泣き声、おとなの叱る声。一番耳に届いてくるのは、抑揚のない何度も湧く笑い声だった。人間の声だが、殻のように中身が無く、何度も繰り返される。
俺はわざとらしく作られた声に興味が湧いてきた。塀の縁に登り、窓の奥を覗いてみると、部屋の隅に置かれた光る四角の装置から放たれていた。人間が黙って画面を見つめ、同じ殻の笑い声を浴びている風景は奇妙だった。
塀から下りて、再びアスファルトを歩く。
外灯の光が届かない暗闇の奥に何かがいる。水平に並んだふたつの光がこちらを凝視していた。胃の奥が引き締まる。
猫だ。兄弟以外の猫を初めて見る。しかも一匹ではない。電柱の陰、植木の中、屋根の上。彼らのうなり声が響く。くぐもった轟きは縄張りの主張だった。彼らが仕切っている境界線を踏み越えぬよう警戒しながら俺は走り抜けた。
どれくらい走って、そして歩いただろうか。後ろ脚がしびれてきた。距離も方角も分からない。大きな街道を渡ると、町の家並みが途切れて、広く平べったい建物や、古びたマンションを見かけるようになった。
ひとまず休みたい。人間や野良猫がいない、落ち着ける場所はないものか。
広い敷地を見つける。周囲の金属の壁と杭にロープが張られ、ぶら下がった文字の書かれた板が出入り口に唯一ある黄土色の外灯に照らされている。壁のすき間から中を覗いてみると、奥のほうまでなにもないアスファルトの空き地だった。入り口の柵の傍にある壊れた自販機の横に、空き缶や瓶、コップが山のように捨てられている。
柵のすき間から中に入ってみる。駐車場だった。舗装は古くてゆがんでいて、白線はひびが入り、割れたアスファルトから草が伸びている。敷地の隅は枯れ葉の吹き溜まりになっていた。見える範囲で車は一台も停まっていない。
人も猫も見かけないので、しばらく休むことにした。身体を伏せて地面に顎を置く。
暗闇に目が慣れてくると、駐車場の奥に「巨大な影」が横たわっている事に気づく。家より低いが、俺より何十倍も大きな身体で微動だにしない。影の輪郭は地面に伏せた巨大な猫のようにも見えてくる。胴体のあたりがときどき光を反射させていた。
一気に緊張が増す。「巨大な影」はまだこちらに気づいていないらしい。駐車場に人も猫もいないのは、奴のテリトリーだからか。すぐ逃げ出せるように気配を殺してゆっくりと立ち上がる。
こんな時にもかかわらず、恐怖と警戒よりも、冷静さとともに好奇心が湧いてきた。どんな生き物なのか、一目だけでも確かめたくなる。ゆっくりと忍び足で近づいていった。
暗闇から浮かび上がる「巨大な影」は長い車だった。後で知ったが、たくさんの人間を運ぶバスという乗り物らしい。車体は錆び付き、窓は汚れて、タイヤは潰れて走れそうもない。ガラスやライトに外灯や家の明かりが反射して光っているようにみえていたのだ。車体の外の後部脇にタイヤが積み重ねられ、隣にある金属の棚にはいろんな部品が並んでいる。中身が抜き取られて、骨格だけのバイクが残されていた。
視線を感じる。暗闇にふたつの光が浮かぶ。隣にもこちらを眺める光が現れる。生き物の瞳から反射する光だ。
タイヤの陰から猫が姿を現す。フロントグリルの穴から別の猫が飛びだしてアスファルトへ着地した。窓ガラスの奥に座っていたり、屋根の上で後ろ足で頭を掻いていたり、バイクのシートでじゃれ合う猫も居た。
バス全体からたくさんの瞳が俺へと向けられていた。
気がつくと背後にも数匹居て、こちらをじっと見据えている。すでに俺は完全に取り囲まれていたのだ。
彼らの縄張りのど真ん中に入り込んでしまったらしい。背筋が凍る。よそ者相手に威嚇だけで済まされないかもしれない。
白い猫がこちらに近づいてきた。俺は身構える。
「お嬢ちゃん。ここは初めてか?」
いったい誰がお嬢ちゃんだ!? と俺は語気を強めた。
「三毛なのにオスか。珍しいな」
俺の体毛が三色なのが珍しいのか、オスが珍しいのか、何を言っているのかさっぱり分からない。
だが、白猫の言葉づかいに張り詰めた空気が無いことに気づいた。穏やかさに俺の警戒も解け始める。そういえばバスの猫たちも柔らかな表情でこちらを眺めて、あくびをしたり、尻尾を振ったりしている。
「そんなに気張らんでいい。もしここが気に入ったなら好きなだけ居ればいい。飽きたら出て行けばいいし、戻りたくなったら遠慮なく戻ってくればいい。よそ者を追い出す道理はここにない。ちなみにトイレはあそこの草むらでやってくれ」
白猫はそれだけ言うとバスの中へ消えてしまった。
その後、駐車場の猫たちは、寝転がったり、顔を手で舐めたり、それぞれの暇を潰している。なかにはお互いを眺めたり、気の合う猫同士で番い合うのもいた。
俺のような新参者は物珍しく見られていたが、白猫以外に話しかけられることもなく、追い出そうと威嚇してくる者もいなかった。
俺の緊張は完全に消えた。
しばらくすると、猫たちは廃バスの中や、住宅街に消えてゆく。夜の集会は終わりを告げたらしい。
俺は廃バスの下の隙間で横になると、泥のように眠った。
●
朝の日差しが瞼に突き刺さる。
起き上がると空腹と喉の渇きで身体の中身が空だった。とにかくなんでもいいから飲み物が欲しい。
昨晩は暗くてよく分からなかったが、駐車場は広い土地の一部で、奥には舗装されていない土にシートが被されていた。破れた穴から草が茂っている。近づいてみると糞尿くさい。昨日、白猫が言っていた草むらのトイレがここだろう。
駐車場の閉鎖された出入口にある壊れた自動販売機。くずかごに大量の空き缶や瓶やペットボトルが積み上り、周囲にも溢れ出ていた。地面には透明で細長いプラスチックのコップがいくつか並び、底に少しだけ飲み残しがある。緑黄色で嗅いでみるとかすかに土のような匂いがするが、以前泥水をすすったこともあるので、我慢すれば飲めないこともないだろう。
コップの中に顔を突っ込んでみると、側面が狭く、頬と額がつっかえて止まってしまう。ガサゴソと懸命に舌を出して液体を舐めようとしても届かない。喉を痛めるほど必死に伸ばしても掬えそうもない。
いったん顔をコップの外に出そうとしたら、今度はプラスチックの内側にはまって抜け出せない。首を上げるとコップが逆さになり、土の匂いと雨水の混じった液体を浴びて、勢いよく口と鼻から入り込んでむせる。苦くて飲み込めたものではない。首をもげるほど振り回してもコップがはずれない。頭がクラクラしてきた。呼吸が荒くなり、閉じられた空気が温まり、コップの壁面が曇って意識がぼんやりしてくる。こんなところで死ぬのは御免だと、渾身の力でコップを両手で掴むと、突き立てた爪で破り、穴から液体が流れ出してコップも顔から外れた。咳を繰り返した後、ようやく新鮮な大気を吸えた。
視線を上げると白猫がにやけていた。だまって一部始終を見ていたのか!
「散々だったな。そんなもんを飲むと腹を壊すぞ。俺はいまから飯を喰いに行く。ついてこい」
白猫が駐車場の柵から外へ出てゆく。偉そうな口調がしゃくに障るが、喉の渇きと空腹には逆らえず、昨日着いたばかりで周辺に何があるのか分からないので、とりあえず従うことにした。
このあたりの家は塀が高く、庭が広く、門と車と植木がある。
道路は幅が広く、遠くまで見通しがきく。車や自転車が勢いよく通り抜ける。
数ブロック歩き、緩い坂道を下りていると、生け垣に囲まれた巨大な緑色の広場を見下ろせた。俺の生まれ育った広場より数倍も大きな公園だ。中央に巨大な樹がそびえ立っている。
白猫が公園全体を案内してくれた。生け垣は外側だけでなく、内側にも設けられて、遊び場と運動する場所を区切っている。いたるところにベンチがあり、遊具で子供たちが遊んでいる。柵で囲われた広い運動施設もあった。
飲み物はトイレや水場近くの容器や水道から垂れ出ている水が一番安全だという。飲んでみるとたしかに変な匂いはしない。ようやく喉が潤せた。人工池の水は飲めるが臭いのでおすすめしない、と。
食べ物はどこで手に入れるのか。白猫が指した方向を見ると、ベンチに座って新聞を読みながらパンを食べている背広の男がいた。
「人間の目の前で座っていると、食い物を放り投げてくれる」
ここで見ていろ、と白猫が言い残すと、男の前にまわり込んで座った。
最初は新聞を横目に知らんふりをしていた背広男もしばらくすると、手にしたパンを小さくちぎって白猫の前に放り投げた。足元に落ちたパンくずを白猫は素早く口に入れて、噛みながら俺の所に戻ってきた。
「まあコツは威張らず、媚びらず、愛想良く、だな」
俺も見習ってベンチの背広男の前に座った。新聞から一度視線が離れて、こちらを見たが、いっこうに投げてくれる気配がない。手にしたパンは一口分しか残っていない。おもいきり鳴いてみようかと考えていたら、期待も空しく、パンは男の口へ放り込まれてしまった。
背広男が立ち去った後、背後から白猫に声をかけられた。
「今回は運がなかったな。向こうの広場のベンチでも食事している人がいたから行ってみろ。とにかくめげずにがんばることだな」
広い公園をひとりで回ってみたが、いろんな人間がいる。駆けっこに夢中な子供、本を読んでいる若い女、ベンチにじっと座って宙を眺めている老人、花壇の縁石に座り込んで煙草を吸っている中年男、日陰で運動をしている年増の女、などなど。
俺が食事をしている者に近づき、座ったり鳴いてみても、ほとんど無視されてしまう。誰がエサをくれるのかさっぱり分からない。白猫と俺に毛の色以外にどんな違いがあるのだろうか?
花壇脇の階段に座って弁当を食べていたキャップ帽子の男に近づくと、突然立ち上がり蹴られそうになる。俺は必死に走って茂みに逃げ込んだ。勢いよく踏み込んだ軸足はまちがいなく本気で殺すつもりだった。
しばらく身体の震えがおさまらない。なぜこんな目に遭わなければならないのか。
紺色の猫が遊具そばのベンチにいたスナック菓子を食べている若い男の前に座る。すると、黄色く平べったい食べ物が投げられた。
紺色の猫がくわえて立ち去った後、俺も男のベンチ前に座った。白猫の助言の通りに、威張らず、媚びらず、愛想良くしているつもりなのに、いっこうに菓子をくれる気配がない。何度も目が合っているのに知らんふりだ。菓子袋と口の間を手が動くだけ。食べ終えたらしく、背もたれの後ろに袋を投げ捨てると立ち去った。
ベンチの裏に回り込んで袋の中を覗くと空っぽだった。底に溜まって油ぎったしょっぱい粉粕を舐めていると、みじめな気分になってくる。いつまで食べ物を乞わなければならないのだろうか。永遠にこんな生活をつづけるのだろうか。
落ち込んだ気分で歩いていると、ちぐはぐした足音と気配を視界の外から感じる。よちよち歩きで口の周りを汚した幼児が、つぶやきながら近づいてきた。明らかに俺を捕まえようと早足で迫ってくる。
俺は駆け足で生け垣の下に滑り込む。幼児が這いつくばっても入り込めないすき間なので、さすがに諦めたのか、しゃがんでこちらを覗き込むだけだった。幼児は破れた銀色の包みを手にしているが、握りが強すぎるために、中身のこげ茶色の菓子が折れ曲がり半分飛びだしている。口の周りは菓子と同じ色に染まっていた。手首の袖も同じように汚れている。
幼児の母親が駆け寄って、銀の包みを奪って地面へ投げ捨てた。泣き出す幼児を両腕で抱えて、公衆トイレの小屋へ行ってしまった。
地面に残されたこげ茶色い菓子に俺の視線は釘付けになる。
幼児が途中まで食べていたものが目の前にある。残りを食えばだいぶ腹の足しになりそうだ。近づいて鼻を寄せる。甘い香ばしさの奥に、鋭い金属の匂いがした。鳥肌がたち、口の裏側がざわつく。
違和感を覚えつつも、気のせいだろうと思い直して、銀色の包みから菓子を爪で引っかけて取り出そうとするが、表面が溶けてベタついて、包みがなかなか外れない。
面倒なのでそのまま噛みつこうとした瞬間、横から現れた白猫に勢いよくなぎ払われた。茶色い菓子は砂場を転がって砂だらけになってしまった。
俺の怒りが湧く前に、白猫が大声をだした。
「アレは毒だ!! 喰ったら死ぬぞ!! 人間の子供がよく食べているが、俺たちにとっちゃ食べ物じゃない!!!」
いままで聞いたことのない怒鳴り声だったので、俺の怒りはすぐにしぼんだ。
チョコレートと呼ばれるものらしい。同じように甘い香りのするココアという黒い飲み物も毒だという。
人間の食べ物でも、猫にとっては毒になるものがあると初めて知った。もし食べていたらと思うと首筋が震えてきた。
「ネギ、タマネギ、ニラは猛毒だ。よく嗅げば金属みたいな匂いだから分かる。あとは、生の魚貝と、生の肉、生卵。毒だと知らずに親切で持ってくる奴がたまにいるが、喰わずに無視しろ」
いろんな毒があることに驚いたが、白猫が感情的に訴えたことに一番驚いた。
しばらくひとりで公園を歩いた。
人工池の縁石に座っていた男がひとつまみの豆をばらまくと、木の枝や電線に止まっていた鳩たちが一斉に飛び降りてついばみ始める。俺が近づくと、鳩が飛んで逃げたが、豆はほとんど無くなっていた。一粒噛んでみたが、殻が固くて食いづらい。
池の水を飲んで空腹をごまかし、縁石のほとりで休んでいると、視界の隅で黒い影が動いた。蓋のない側溝から黒い背中だけがはみ出している。手足はもちろん、頭と尻尾も底のほうに隠れているので、いったい何をやっているのか俺の場所からは分からない。ときおり黒い山がすばやく駆け出して、また止まる。黒い稜線がうねって、側溝の陰から主の顔が現れた。飛び上がってコンクリートの外に着地した。
しなやかに動く姿は別の生き物のようだった。黒猫がこちらに近づいて顔がはっきりと見えた。白い毛が混じっているが若い。端正だが口元がゆがんでいる。咥えたものを噛んでいた。口から黒く細い足と羽がはみ出している。ゴキブリだ。側溝の底に這っていた虫を捕まえて食べていたのだ。
「いくら格好つけても、あんな虫食いにはなりたくないねぇ」
俺は傍の声に振り向く。
茶色の縞模様の老いた猫が背中を丸めて座っていた。黒猫にさげすみの目を送っている。
「お前は昨日、駐車場に来ていた新入りだよな。ボス気取りの白猫は面倒なやり方しか教えてくれないだろ? いまからオイラに付いてくれば、簡単に食い物が手に入るぜ!」
縞猫の、早く来ないとエサがなくなるぞ! の声に引っ張られて、俺は彼の後ろを歩きはじめた。
公園から出てアスファルトの道を横切って緑地に入る。公園と同じ敷地のようだが雰囲気がちがった。仁王立ちしても身を隠せるほど雑草が伸びていて、人や猫の気配がまったくない。動物の通った狭い道だけが残されていた。南側にマンションの外壁がそびえ、東西にも背の高い生け垣があり、陽が遮られて涼しい。
獣道を歩いていると、前を歩いていた縞猫が止まり、背中を丸めて座りこむ。
「時間だ。ここでしばらく待ってろ」
何が始まるのかよく分からないまま、俺も身体を伏せて休んだ。
しばらくすると、バケツのような帽子を被った女が緑地に近づいて来る。俺はすぐ逃げられるように腹を地面から浮かせて構えた。縞猫が、動くな、とささやく。
緑地の隅にかがみこんで作業をする音だけが聞えてくる。雑草で視界が遮られてバケツ帽子の動きしか見えない。女はこちらの二匹に気づいていない。
縞猫は振り返り、俺に満面の笑みを見せた。どうやらこれが目的らしい。
去りゆくバケツ女は痩せ細っていて、ビニール袋をぶら下げた皺とアザの刻まれた両腕には、絆創膏がたくさん貼られていた。
縞猫が立ち上がり、獣道を進む。バケツ女のしゃがんでいた場所は、雑草が踏み潰されて開けた空間が出来ていた。プラスチックの皿が並び、キャットフードが盛られて、ボウルにはミルクが注がれている。
「俺がいつも来てる餌場だ。あのおばさん、たくさん盛るから俺一匹では食い切れなくてな。大丈夫、遠慮せずに食え。ただし、他の猫には黙っておけよ」
と縞猫は言い終えると、皿に顔を突っ込んでガリガリと頬張りだした。
俺はエサに鼻を近づけ嗅ぐ。一粒を口に入れてゆっくりと噛んでみる。匂いや味に問題はない。むしろ美味しいので、気がつくとむさぼり食っていた。ミルクは生暖かかった。まともな食事をするのは何日ぶりだろうか。
生まれ育った小さな広場で、ほぼ毎日エサを持ってきてくれた婆さんを思い出す。ある日突然来なくなったのはなぜだったのか。病気になったのか。身体を怪我したのか。エサを買う金がなくなったのか。それとも野良猫の世話に何かしら思い直しがあって辞めたのだろうか。
俺が婆さんの事情を考えてもわかるはずもない。過去を振り返ってもどうにもならない。いまは目の前のエサにありつくことだけだった。
満腹になって腹を地面に付けて寝転がると、瞼が下がってきた。
「こんな所で寝ると人間にもてあそばれるぞ」
と言って縞猫はどこかへ行ってしまう。
物心が付いて目覚めたとき、はじめて見た人間は子供たちだった。撫でたり持ち上げられたりした。あれはもてあそばれたのだろうか。
一緒に過ごした兄弟たちは今頃なにをしているのか。生きて俺より旨いものを喰っているのだろうか。お互い喧嘩せずにすごしているのだろうか。
突然現れた作業員の男たちに兄弟が連れ去られるのを、俺は怖くて黙って見ているだけだった。あっという間の出来事だった。何の言葉も無く兄弟たちを檻の中に収め、広場を掃除する作業員の姿が恐ろしく、足の震えが止まらなかった。
いろんな人間がいる。男女。老人中年成人子供。食べ物をくれる人、くれない人。こちらの存在に気づいてもてあそぶ人、無視する人。連れ去ろうとする人、無視する人。
いい人、悪い人の区別はよく分からないが、とりあえず警戒しながら生活するのがもっとも適したやり方だろう。
眠気と満腹でフラついた身体で駐車場へたどり着く。廃バスのヘッドライトの傍で日向ぼっこをしていた白猫がこちらに気づいた。
「ずいぶんと満足そうな顔をしているな。たくさん食えたようだな。いいエサ場でも見つけたのか?」
たくさん食べ物をくれる人間がいた、と俺は言ったが、縞猫から教えてくれたエサ場のことは黙っておいた。
●
昨日よりも早く雑草広場に着く。誰にも見られないようひとりで忍び込むのは緊張する。
獣道を通り抜けて例の開けた空間に出ると、バケツ帽子のおばさんがすでに来ていたようで、容器に新しいキャットフードと生温かなミルクがあった。
俺がエサにありついていると、縞猫がやって来た。
「ガッついてるな。急いで食うと腹を壊すぞ。他の猫には言ってねぇよな? よし!! もっとよく噛んで喰え」
雑草広場でバケツ帽子おばさんの食にありつく生活が続いた。縞猫と俺の秘密の場所になった。
ある日寝坊をした。バケツ帽子おばさんが配膳する時間をだいぶ過ぎてしまった。俺以外に縞猫しか知らない場所なのでとくに焦る必要もない。いつものように雑草広場へ足を運んでみると、前日に食べ終えたままの状態だった。散らばったキャットフードに蟻が集まり、ミルクは乾いて雑草にシミしか残っていない。バケツ女も寝坊したのかもしれない。草むらの陰で身を隠し、しばらく待ってみたが来なかった。縞猫も現れなかった。
あきらめて巨大な公園に行ってみると、野良猫たちの様子がいつもと違った。満足そうに柔和な顔つきで、寝転んでじゃれあったり、完全に寝ている猫をよく見かける。いつもは少ないエサを取り合うため、必死の形相と四足の構えでいるのだが、今日はみんな緊張感がない。
地面にキャットフードが落ちていた。バケツ帽子おばさんが盛り付けるエサより粒が大きい。俺は注意深く嗅いでみたが、金属のような匂いはしない。だが、様子見のため無視して散策を続けた。
地面へ直に盛り付けられた山盛りのエサ粒を発見する。三匹の野良猫が頭を突き刺して無心で食べていた。戦いに勝った猛獣がようやく餌にありついたようだった。
公園を歩き回ってみると、至る所にキャットフードが盛り付けられていた。人間の目のとどかない生け垣の奥などの地面に大量のエサが盛られている。みんな奪い合いの喧嘩もせず、それぞれ見つけた場所で黙々と食べている。どの猫からも発見されず、手の付けられていないエサ場もあった。
園内のランニングコースを歩く縞猫を見つけた。足取りがやたらと遅い。盛られたエサの食事をすでに終えて満腹だったのだ。
バケツ帽子のおばさんがこっちの公園にエサを盛り付けたのか? と俺は尋ねた。
「たぶんちがうだろう。今朝ここの公園に来たらすでにエサが撒いてあった。いままでこんな大盤振る舞いはなかった。雑草広場には行ったのか? 俺もいつもの時間に待っていたが来なかった。あのおばさん、たまに来ないときがあるから心配するな。それより、こっちのキャットフードが旨くて旨くて、食って食いまくって、腹がパンパンだわ」
縞猫はもう歩けないと呟くと、縁石に身体を寄せて、腹を地面に付けて座り完全に瞼を閉じた。こんな場所で寝ると、人間にもてあそばれるのではないだろうか。
人目を避けるように雑草広場でエサを盛り付けていたバケツ帽子のおばさんが、こちらの公園でキャットフードをばら撒くのは考えにくい。エサの量も多いし、細身の身体で荷物を運ぶのは無理だろう。
誰がやったのかはわからないが、腹が減ったので、地面に散らかったキャットフードを一粒試しに噛んでみた。たしかに旨い。味が上品で濃厚で高級な食材が使われているようだ。盛り付けられた量を食べきっても満足できず、別のエサ場を見つけるとすぐに飛びついた。
こんなにも旺盛な食欲だと直ぐに食べ尽くす、また他のエサ場を探す必要があるかもしれない、他の猫とかち合ったら争いごとになるのではないか、と思っていたら、今度は腹が膨れてきた。食欲が一気にしぼんで、やたらとゲップが出てくる。
どうやら食べ過ぎたらしい。後ろ足がフラついて力が入らない。眠くて横になりたい。しかし公園内や道ばたで寝るのは無防備すぎる。正午を過ぎたばかりだが、今日は寝床に戻ろう。
外の歩道を歩いていると、公園の隅で吐いてる野良猫を見かけた。
駐車場の廃バスは静かだった。他の猫たちの姿を見かけない。みんな公園に撒かれたエサの話を聞いて出払っているのだろう。
俺は寝床にたどり着くと、崩れるように身体をうずめて眠りに落ちた。
●
目覚めたのは夜中だった。
暗闇から低いうめき声が届く。頭の内側を何度も突き刺す恐怖と憎悪が胸をかき乱す。突き上げてくる不快さと、湧きおこる苛立ちと、好奇の混じった感情に動かされて、寝床から立ち上がろうとした瞬間、胸元が震えて吐き気をもよおす。喉の奥から苦い水が大量にあふれ出た。
腹の底と肛門の根元から全身に強烈な痛みが広がる。トイレに行きたいが、脚が震えて力が入らず、膝と腰の関節が痛む。ゆっくりと前へ進むしかない。寝床の傍の嘔吐物の上に、さらに汚物まで出したくはない。
外は冬でもないのに寒く感じた。月が出ているが辺りが暗い。
草むらの脇を通ると、寝そべった猫の尻と尻尾がはみ出ている。糞で汚れていた。自分以外にも腹痛で苦しんでいる猫がいるらしい。何度か見かけた毛の柄だ。廃バスに戻る前にしんどくなって、こんなところで休んでいるのだろう。
トイレ場所になっている未整備の盛られた土に着いて、中腰で排便をしながら腹痛の原因を考えた。といっても、ほぼ決まっている。公園中に撒かれたキャットフード以外ありえない。腐ったものが混ざっていたのだ。
わざと混ぜられていたのだろうか?
考えてみると、いままでは小さな広場でエサをくれたのは白髪の婆さんだったし、巨大な公園で物乞いをするときにも目の前にいる人間から恵んでもらっていたし、雑草公園ではバケツ帽子のおばさんから食べ物を貰っていた。
顔も姿も分からない人間からのエサをはじめて口にしていたのだ。ばら撒かれた食べ物で腹を満たしてしまった。
排便を終えて締まりの悪い肛門を引きずるようにして廃バスへ向かっていると、草むらで寝そべったさっきの猫の尻尾がふたたび視界に入る。
その身体を通り過ぎた瞬間、背中に違和感が走った。無視できない何かが俺の背中を掴んでくる。
まったく変わっていない寝相が、草むらに置きっぱなしにされたゴミのように見えてきた。
声をかけてみたが返事はない。寝ているだけだろうか?
胸騒ぎと共に近づいてみると、草むらにうずめた横顔が見えた。口から吐き出された嘔吐物が乾いて、蝿が集り始めている。見開いた瞳に光は宿っておらず、触るとすでに身体は冷たくなっていた。
生まれて始めて死体に遭遇し、俺の全身が硬直した。
慌てて廃バスに戻り、白猫の寝床へ駆け込んで起こすと、仲間が外で死んでいることを伝えた。
白猫は眠りを邪魔されたのが気に障ったらしく、
「お前なぁ、そんなことでわざわざ起こすな。そいつの死期が来ただけだろ」
と言うとすぐに寝てしまった。
あまりにも冷淡で、俺は呆気にとられた。仲間が死んでいるのに何の気持ちも湧いてこないのか?
外へ再び出てみると、通りすがりに死体を確かめていた野良猫が廃バスへ戻ってくるところだった。死体はあのままでいいのか、とすれ違いざまに尋ねてみたが、俺の言葉を無視して中へ消えてしまった。
俺は自分の寝床に戻っても、死んだ猫の横顔が瞼に焼き付いて寝付けなくなった。みんなの冷めた態度が戸惑いを膨らませる。身近に死体があるのが普通なのだろうか。死の傍で寝るのが日常なのだろうか。死体を放置するのが常識なのだろうか。
なぜみんな平気かと巡らせても分からず、瞼を閉じて考えるのを諦めた。
●
寝ているのか起きているのか曖昧な頭のまま朝を迎えてしまった。目覚めは最悪だった。太陽の日差しが胃のむかつきをあぶり出す。胃と筋肉と関節の痛みは治まっているが完全には消えていない。
重い身体を引きずるようにして外に出ると、廃バスの猫たちが草むらで死んでいた猫を取り囲んで眺めている。死期が近づくと、人目の付かない場所を探して身を隠すのが本来の死に方だが、仲間の傍で息を引き取ったのは、本人にとってあまりにも急だったのだろう。
白猫から声をかけられた。昨日から見かけなくなったり、体調を崩している仲間が何匹もいるという。
「俺は普段から誰がくれたのか分からないモノは食べないようにしている。昔住んでいた公園でも、毒の混ざったエサが撒かれる事件があった。食ったあとに胃が裏返るくらい吐いたよ。今回は警戒したから助かった。みんなに注意してまわっていたんだが、俺の話を聞く奴はほとんどいなかった。昨日はお前とも会わなかったな。最近縞模様の猫とつるんでいるらしいが、あいつからは何も注意されなかったのか?」
注意されないどころか、昨日会ったとき、すでに腹を膨らませて寝始めたのだ。釣られるように俺もたらふく食べてしまった。今頃縞猫も腹を下して最悪の目覚めにいるのだろう。
まだ自分の肛門に締まった感覚が戻らず、ときおり胃が謎の痙攣をして、頭の奥が揺らいで熱を帯びている。食欲はない。どこにも行く気分にならない。
吐いたり、下痢をするだけで済むのだろうか? 草むらに頭を突っ込んで亡くなっていた猫のように、俺も突然地面に倒れて死ぬのだろうか?
不安になって何もやる気が起きない。廃バスに戻って再び寝ることにした。
目覚めると夕暮れだった。あかね色に染まる住宅地の窓ガラスに西日が反射している。
俺はまだ生きているらしい。
寝床から這い出て外へ。腹は減っていないが、喉が渇いていた。近所の古い家の庭に忍び込み、水場のたらいに溜まった水を飲んだ。
駐車場に戻るとあたりは暗くなっていた。野良猫たちの夜の集会が始まる。誰かが呼びかける訳でもなく、自然と集まる我々の本能だ。今夜は数が少ない。
駐車場の入り口に見慣れない野良猫がいた。始めて来た新人らしい。緊張した顔つきであたりを警戒している。白猫が新人に近づいて話しかけていた。かつての自分も身構えていたので懐かしさがこみ上げてくる。
自分の寝床に戻って横になってゴロゴロしていると、いつの間にか眠っていた。
●
日の出前に目覚めた。
身体の痛みも疲れもないが、腹の底によどんだ感覚が残っている。
廃バスから出て朝日を浴びると気分はよくなってきた。そのまま道路へ出て外を歩く。脚のふらつきはなく、膝や腰の関節も痛くない。
公園は一日ぶりなのに、久しぶりに訪れた気がした。
あちこちで見かけたエサ場の跡は無くなっていた。公園の管理人が掃除を済ませたらしい。体調の悪そうな猫や吐瀉物や死体も見かけない。
一昨日の騒動がなかったように静かな時間が流れている。遊具で遊ぶ子供たち、園内の道をジョギングするおばさん、ベンチに座ったまま動く様子もない老人。
そもそも人間たちは毒入りのエサが撒かれたことすら知らないのかもしれない。
しばらく周辺を歩き回っていると、明らかな違いに気づいた。
猫の数が少ない。
一昨日まで公園を歩いていれば、椅子の下や、生け垣の中や、倉庫の陰や、塀の上にいた野良猫たちが、今日はいないのだ。
ライバルがいない分、人間からエサを貰える機会は増えるだろう。だが、今はほどこしを受ける気分になれない。毒を入れる輩がいるのを知ってしまったからだ。人間が疑わしくなってしまった。
でも、あらかじめ知っている人なら信用できる。
公園を出て、アスファルトの道路を横切り、雑草広場に入る。生け垣とマンションの壁に囲まれた草の茂った獣道を進んでゆくと、踏み固められた開けた空間に出る。
しかし、ここも変わっていた。
バケツ帽子のおばさんが置いていたエサとミルクの容器が無くなっていたのだ。キャットフードが一粒も落ちてない。
何かが書かれたプレートが傍の木に貼り付けられていた。字は読めないが、おそらく猫にエサを与えないよう注意しているのだろう。
念のため、しばらく草むらの中に隠れて待ってみたが、バケツ帽子のおばさんも、縞猫も来なかった。
俺が物心ついて小さな広場で、兄弟たちが連れ去られた後、きれいに片付けられて、最初から野良猫が住んでいなかったように変えられてしまった時を思い出す。
俺は捨てられた猫だった。どこでも邪魔者扱いされるのだ。
雑草公園は人の気配もなく、隠れ家のようだと思っていたが、結局公園に管理されているのだった。
人工池のまずい水を口に含んで空腹をごまかす。動き回るとますます腹が減るので、植木の日陰で腹をつけて休んだ。
最初に育った小さな広場で、毎日エサを運んでくれる婆さんがいたのは、今思えばとても恵まれていたのだ。
婆さんが来なくなってから、近くのゴミを漁って飢えをしのいでいた。またあのような生活をしなければならないのか。
体調は戻ったのに、気分が落ち込む。
向かい側の生け垣の傍を黒猫が歩いている。以前、側溝にいたゴキブリを食べていた奴だ。ふいに立ち止まり、何かを狙うように身を低く構えた。全身の毛は土とほこりで汚れ、白毛混じりでみすぼらしいが、獲物を狙う黒猫の瞳は鋭い。どうやら生け垣の花に止まった蝶に全神経を向けている。羽を広げて宙を舞い出す蝶に合わせて、黒猫が全身を伸ばし両手で掴みかかる。一度手元からすり抜けられてしまったが、すぐに蝶が地面に落ちた。彼の爪が羽を削いでいたらしい。黒猫は両手で地面に押しつけると、そのまま噛みつき始めた。口や鼻の周りに土が付いているのもかまわず夢中で食べ続けている。口からはみ出した蝶の羽を舌で絡めながら、ふたたび口の中へ戻し、膨らんだ頬に沈む食べ物が、唾液とともに胃の中へ押し流されていった。
俺と黒猫の目が合う。向こうが視線を外して歩き出したとき、かすかに笑っていた。
今にも死にそうな顔をした俺を見て、優越感が湧いたのだろうか。
生きるために必死で、他の猫への慈悲など消えて、食いっぱぐれる者へかまっている暇はないので、自らエサを捕れない奴はさげすんで当然、という姿勢か。
俺の腹の底から熱気が湧いてきた。生まれ育った小さな広場でエサを運んできた婆さんが来なくなった後、兄弟が食べ物を奪い合っても、俺は遠くから眺めているだけだった。兄弟たちの姿が、醜くて、みすぼらしくて、役に立たない無駄な争いだと考えていた。いままで他のモノを押しのけて食らいつくことはしなかった。待っていれば、いつか、誰かが、俺に与えてくれると信じていたのだ。
いままでは都合が良かった。恵まれていてなんとかなった。
誰からも施しがなければ自分で掴まなければならない。
俺の態度が無駄だったのだ。
見た目を気にしていたのかもしれない。だが、なり振り構ってなどいられない。生きるためならどこにでも手を伸ばして、喰えそうなものは口に入れてやろう。何を喰っても喰わなくても、どんな振る舞いをしてもしなくても、どうせいつかは死ぬのだ。たとえ毒を喰らってもそれまでだ。
俺は立ち上がり、日陰から出て、食い物を探し始めた。
視線を上げると、生け垣の中ほどの高さ、枝のすき間に透明な糸が張られていた。縦横と円形に紡がれた糸の中央に蜘蛛が止まっている。
俺は両足で立ち上がり背をまっすぐにして手を伸ばしてみたが、高さが足りず、爪と肉球に糸が絡まる。危険を察知した蜘蛛がさらに上ってしまった。跳んでみたものの両手で挟むタイミングが合わず、蜘蛛は生け垣の奥へ完全に消えてしまった。
気持ちを切り替えて次の獲物を探す。
足元の一匹の蟻に目が止まり、口を近づけて噛んでみるが上手く掬えず、舌で地面を這わせてみる。乾いた砂や砂利が口の裏側に貼り付いて咳き込む。蟻を喰えたのか、吐き出したのかもよく分からない。
もっと口に入れやすい大きな食い物はないのか。
土の上で脚を広げたセミが仰向けで転がっている。少し前に死んだばかりなのか、まだ蟻は集まっていない。食い物として大きさがちょうどよい。
俺は勢いよくかぶりついた。
セミが暴れ出す。かすれた鳴き声が鼓膜を刺し、ばたつく羽が、俺の顎と頬を何度も叩く。細く尖った脚が口の裏側を突き刺しひっかき回す。顔より口の中が痛くて、吐き出そうか迷ったが、空腹を満たすため、必死に歯を立てて噛む。セミの心音が歯茎に響く。何度も何度も噛みつぶすと、足や羽の動きはゆっくりになって、セミが力を失い全身の筋肉が緩んできた。さらに刻むと固かった胴体を歯が突き抜ける。心臓はすでに止まっていた。苦みと臭みがで口から鼻へ通り抜けて、吐きそうになるのをこらえる。羽は粉々に散らばっていた。口の中で咀嚼していると、セミの尖った足が喉の奥で引っかかったが、他の部位をかみ砕いて飲み込むと、一緒に胃の中へ流し込めた。
味は最悪だった。しばらく経ってもえぐみの匂いが口から漂っている。マズくても、喰えるモノは食わないと俺が死んでしまう。とりあえず水を飲みたい。
腹の底のよどみはすでに消えていた。
(終)
【短編】野良猫のエサ cubeべぇ。 @tkskk
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