第3話 奇跡を抱えて

「それから、ガイアス——そう名付けたドラゴンの背に乗って、ここまで送ってもらったんだ。フィリーがいる、この病院まで」


 色とりどりな美しい光景が、映像という形で狭い病室を埋め尽くす。数十の映像がフィリーの眠るベッドの周囲に広がり、ルークはその一つ一つを、面白おかしく語っていく。


 その冒険譚に、美しい絶景に、相槌を打つ声はなかった。

 成長したフィリーは、ベッドの中で目をつむる。少女から女性へと成長した美しい、けれどひどくやせた女性。落ち込んだ眼窩、つやのない髪、生気のない青白い肌。フィリーは静かに、眠っていた。けれどまだ、生きていた。


『寝たきりになってから半年——生きていることが奇跡だよ』


 今この時間は、「奇跡」なんだと。

 医者の言葉を噛みしめながら、ルークは空元気で話し続ける。


 少年の面影を失った、精悍な顔立ちのルークは、フィリーへと笑う。笑っている、つもりだった。


 ルークが家を飛び出してから四年。余命半年未満と言われていたフィリーは、奇跡的に生きていた。

 病的に白く、骨と皮だけのような躰。腕に刺さる点滴、無機質に心音を刻む音が響く、静寂に満ちた病室。


 フィリーは生きていて、けれど死んでいるようなものだった。


 泣き笑い、それが、ルークにできる限界だった。

 つぅと、涙が頬を伝わる。決壊した涙腺によって景色が滲む。


 だめだ、泣くなと、ルークは己に言い聞かせる。


 面白おかしく旅を語ろうと、そう決意したじゃないか。

 間に合うことだけを求めて、必死に歩を進めたじゃないか。

 つらいのはフィリーだ。旅をできず、たった一人、冒険の旅を誓った幼馴染は裏切るように姿を消して。


 辛かったのは、フィリーだ。


 だから、自分が泣いちゃいけないんだ————


 ルークは眠り続けるフィリーの体を抱きしめる。そこには確かな温もりがあって、けれどフィリーは目を覚まさない。好奇心に輝く紫の瞳が、ルークを捉えることはない。


 目じりににじむ涙をこぼさないように胸の奥にこらえながら、ルークは叫ぶ。

 虚無が、心をいざなう。

 見て見ぬふりをしてきた無力感が牙をむく。


「うぁ、ああああああああぁぁぁぁああああッ」


 腕の中の女性は、何の反応も返さない。眠り続ける彼女はおそらくもう、目を覚まさない。


 血がにじむような思いをして集めて来た景色は、フィリーには、届かなかった。


 ぽたり、ぽたりとしずくが落ちる。

 決壊した涙腺は、もはやとどまるところを知らなかった。






 少女の頬を涙が照らす。西日が、部屋を包み込む。


 もう一度、とルークは願う。

 もう一度、奇跡を起こしてくれと。魔法を、授けてくれと。


 けれど、どれだけ敬虔な神の信者であれど、二つ目の魔法を授かった例などなくて。ルークの祈りもむなしく、あの日のように夜のとばりが落ちる。


 四年前、フィリーの死を実感して絶望した時とは違い、夜が訪れた病室に面会終了を告げる声が届くことはなく、そして部屋には無数の光が灯っていた。


 いくつもの映像が、変わらずそこで流れ続ける。美しい光景が、人の営みが、大自然の神秘が、移り変わっていく。


 制御されぬルークの魔法は、辛い日々をも映し出す。


 食糧不足に喘いだ日々。魔物の攻撃で傷つき、激痛に悶え続けた夜。盗賊団に狙われた際の逃走劇。美しい眼下の世界を見るための、数週間以上にわたる苦難に満ちた登山。山の中で迷いさまよい続けた恐怖の日々。


 集めた美しい景色の裏には、多くの試練があって、苦難があって。フィリーに見せるつもりがなかった光景が、ひとりでに病室に流れる。それに気がついたルークが、魔法を操作し、美しい世界を見せようと映像を変えようとして——


 ジジジ、と異質な音が病室に響く。断続的に続くそれは宙に広がるいくつもの映像から響くもので、やがて映像そのものが揺らぎ、景色が捻じ曲がる。


「どう、して———」


 のどからせり上がった驚愕に、ルークはフィリーを掻き抱いたまま一つの映像に見入った。視線の先、にじんだ映像の中で、一人の少女が笑っていた。他の場所にはない、深い青の葉を茂らせた森の中で、旅先の森の景色の中で、成長途中の少女が目を輝かせていた。

 フィリーが、病室で寝ていたはずの大切な人の姿が、そこにあった。


 映像に呼応するように、ルークの頭に記憶が流れ込む。

 フィリーと旅立ち、世界を巡った記憶。

 金銭を奪われ、街を飛び出して草原で野宿したこと。魔物に襲われ逃げたこと。薬草を拾い集めてお金を稼いだこと。生きるために戦いの訓練をしたこと。森で迷った先で、高くから飛沫を上げて流れ落ちる滝と、それにかかる虹を見たこと。辛い登山を、お互いに励まし合いながら達成したこと。湖を渡る中で船が襲われ、投げ出され溺れかけた自分を、フィリーが助けてくれたこと。漂着した先の砂浜を二人で歩いたこと。砂漠の先にあるという伝説にフィリーが目を輝かせ、広大な砂漠を彷徨い、水不足に喘いで、その果てに秘宝と呼ばれるアイテムを入手したこと。秘宝を望むドラゴンに、それを対価に背に乗せてもらって空を飛んだこと。


 様々な記憶に、冒険に、フィリーがいた。フィリーと過ごした記憶が、日々がそこにあった———そんなはずがないのに。そんな事実は、なかったのに。

 笑う顔、困ったように眉を下げる顔、唇を尖らせて拗ねる顔、泣く顔、怒る顔、寂しがる顔、照れる顔——表情を二転三転させるフィリーが、その全ての表情が愛しいフィリーが、確かにそこにいた。


「フィ、リー?」


 淡い輝きが、腕の中で生じる。春の陽気のような温もりを帯びた金色の光が、ルークが抱くフィリーの体から立ち昇っていた。


『楽しい思い出を、ありがとう——』


 ルークの頭の中に、声が聞こえた。待ち望んだ、懐かしい声。少し大人びた、落ち着いた響きのある声は、聴き間違えるはずのないフィリーの声。


「フィリー、フィリーッ!いくな、置いて、いくなよ——」


 ルークの腕の中から、重さが消える。強く抱きしめた手が、空を切る。淡い光となって、フィリーの体は消えていった。


 ピー、と心拍の停止を意味する音が響く。


 慟哭が、病室に轟いた。






 あの日、病室で起こった奇跡は、きっとフィリーの魔法。


 四年という日々を生き続けるだけでなく、フィリーはルークの魔法に干渉するという二つ目の奇跡すら起こして見せたのだ。


 畑に鍬を振るルークの中には、記憶がある。フィリーと一緒に、四年という日々を過ごした冒険の記憶が。


 その記憶が、事実なのか、現実にあったことなのか、ルークには分からない。けれどわかろうとも、真実を見出そうとも、思わなかった。

 ルークの中にはその愛おしい記憶があって、そして魔法を発動すれば、まばゆいほどの笑みを浮かべるフィリーが、美しい光景の中に、確かにいた。


 過去に、その旅路に、きっと少女はいたのだ。それが事実でなくとも、ルークにとってはその奇跡だけで、生きていく理由になった。


 新しい景色が映し出されることのない魔法の映像の中で、今日も少女は笑っている。





 少年はもう世界を記録に残さず、その奇跡の光景を胸に、今日も世界を生きていく。

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願いの魔法 雨足怜 @Amaashi

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