ウルラアーラの魔法使い

白ノ光

ウルラアーラの魔法使い

 教室で、かりかりとペンを紙に走らせる音だけが響く。教師と生徒、二人だけが広い教室を使っている。

 椅子に座っている生徒の男は、机の上の解答用紙にくまなく目を這わせ、自分の導き出した答えにミスがないか、時間いっぱい確認していた。

 男の顔は真剣そのものだ。この紙一枚に自分の未来が懸かっているのだから。必然、細かい古傷ばかり目立つ指先にも、力が入る。

 教壇に立つ教師は、傍に置かれた時計の、砂が落ちきる様を観察していた。教師にしては奇妙な見た目だ。山羊の頭骨を自分の頭としていて、残りの身体を黒い外套で覆っている。まともな存在でないということは一目で分かるが、外套が付ける紫色の腕章は、彼がこの学院の教師であるという証左。

 「時間だ。どれ、預かろう」

 砂時計が役目を終えたと同時に、彼は人差し指の骨を折り曲げ、何かを持ってこさせるような仕草をした。すると、生徒の手元にあった紙がひとりでに動き出し、教師の手骨の中に納まる。

 教師は解答欄を上から下へ、一度だけ流し見する。第三者からは、虚ろな眼窩で燻る光が揺らめいたようにしか見えない。

 「ウォルター」

 地の底から響くような、重い声色で自分の名を呼ばれ、生徒は襟を正し彼の方を向く。

 喉が鳴った。緊迫の時だ。

 「おめでとう、合格だ。筆記試験はこれにて終了。君は、上位クラス編入の条件をひとつ満たした」

 ウォルターの顔が、ぱっと明るくなる。

 彼は勢いよく立ち上がると、綺麗に腰を曲げた礼をした。

 「ヴァニタス先生、ありがとうございます!」

 「感謝の必要はない。これは、君の学力が規定された水準を満たしている、というだけのことだからね。授業中の態度からしても、君なら問題はないと私は踏んでいた」

 それよりも、と教師は付け加える。

 「君にとっての戦いはこれからだろう。上位クラス──マギへの編入要項、二つの昇格試験のうちもう片方、実技試験。これは筆記試験のような絶対的評価でなく、既に在籍している生徒との相対的評価となる。即ち、決闘だ」


 観客(ギャラリー)は、ほどほどに集まっていた。

 決闘の舞台を囲む席が、満杯といかずとも大部分が埋まっている。

 昇格試験に挑む者自体が少ないのに、筆記試験を超え、実技試験まで辿り着く生徒というのはそういない。娯楽に飢えた学院の生徒であれば、授業と時間が被っていない者は、こぞって観に来るだろう。彼らの顔は皆、一様に興奮を隠しきれていない。

 そういった身なりのいい生徒とは別に、心配そうな様子の生徒たちもいる。彼らは数少ない平民出身だ。同じ平民出身の魔法使いが、昇格試験に挑むということで、その成り行きを観に来た。

 完全屋内のアリーナは、大型の魔法灯により昼間と変わらぬ明るさを保ち、その中心に長方形のコートを備えていた。客席はアリーナの二階からなので、観客はコートの様子がよく見える。

 コートに立っているのは三人のみ。決闘する二人の生徒と、その監督者である教師。

 「ウォルターは決闘が初めてだったな。改めてこの場で、決闘のルールを説明しよう」

 ヴァニタスはその大きな体躯で、ウォルターを見下ろした。

 「制限時間二分以内に、先に攻撃を当てた者の勝ちだ。一本先取。防護魔法により攻撃は相殺されるから、相手を怪我させる心配はしなくていい。時間を過ぎても決着しない場合、防護魔法をかけ直すため、仕切り直しとなる。杖は用意されたものを使うこと。それ以外の道具は持ち込み禁止、事前にドーピングなどするのも同じく禁止だ。ああ当然、魔法以外の攻撃は違反になる」

 ウォルターは短い杖を握りしめながら、決意を秘めた視線を、対戦相手に向ける。

 彼が戦う相手は、対照的に、余裕のありそうな笑みを顔に浮かべていた。

 「ウォルター。そして、ホラティ=トゥル=ホスティリ。この決闘でウォルターが勝てば新たなマギが生まれ、代わりにひとり、マギから落第することになる。ホラティが勝てばウォルター、君の昇格試験は不合格となり、また筆記試験から受け直してもらうぞ」

 教師の言葉に両者は頷き、ホラティと呼ばれた少年は、開いた瞼から碧い眼を覗かせる。赤と白の礼服がよく目立ち、姿勢の良い立ち姿からだけでも、育ちの良さが見て取れる少年だった。

 身に着けている腕章の色は、赤。三年生を意味する。

 「聞いたな。我が名はホラティ=トゥル=ホスティリ。マギランク27にして、ホスティリ家の嫡男である。本来、君のようなどこの馬の骨とも分からぬ平民と言葉を交わす立場ではないのだが、抽選により、私が決闘の相手として選ばれてしまったのだから仕方ないと割り切ろう。しかし、残念なことだ──」

 ホラティは短い金髪をかき上げながら、杖の先端をウォルターに突き付けた。

 その物言いは不遜でありながらしかし、威風堂々とした態度だ。

 「平民だてら夢を追い、この学院に入学し、上位クラスにまで手をかけた。だが、ここで君は、残酷な現実を知ってしまう。本物の“魔法使い”とはどのようなものか。私と君との間にある、隔絶した実力の差というものを。そして、今まで自分がやってきたことがただの“手品”だったと理解し、夢から醒めるのだ」

 嫌味な言い方をされようと、ウォルターの表情は変わらない。

 「俺はウォルターです。よろしくお願いします、先輩」

 「ほう……」

 挑発を一礼で返す男は、黄色の腕章を付けている。一年生だ。

 その色に似合わない年齢、かつ、継ぎ接ぎだらけの安ローブを着ているウォルターに対し、ホラティは憐みすら覚える。

 ウォルターの年齢は二十四。まだ若い魔法使いだが、この学院に在籍しているのは、大半が十代半ばから後半。その中において彼は、かなり年を取っていると言える。

 ホラティは十八歳。年の差は実に六年分、しかし学院では、ホラティが上級生だ。

 「人間、生まれたときの環境で既に、将来の明暗がはっきりしている。君にはまともな稼ぎを持つ親すらいなかったようだね」

 ウォルターの眉が、ぴくりと動いた。

 「──プリムアルマ」

 ヴァニタスは白い指先で二人の生徒をそれぞれ指すと、青白い光が生徒の身体を包み、すぐに融けて見えなくなっていく。

 「話はそこまでにしてもらおうか。防護魔法はかけ終わった。両者とも、互いに背を向けて、五十歩離れなさい」

 二人は何も言わず、教師の言う通りにする。所定の位置に着いても対戦相手から背を向けたままなのは、戦いの前に、邪視などによる妨害を防ぐ為だ。

 観客たちは、これから始まる劇の、その内容をほとんど予測できていながらも、静かに沸き立っていた。

 「プラエスティ、ウォルター。マギ、ランク27、ホラティ=トゥル=ホスティリ。これより、両者の決闘を始める」

 アリーナにいる、全観客に聞こえる声でヴァニタスが宣言し、右腕を大きく上げ、そして振り下ろす。

 「──エンゲージ!」

 ウォルターとホラティ。平民と貴族。同じ学院で学びながら、違う世界を生きる二者。

 彼らが振り向いたのも、杖を振りかざしたのも、魔法を唱え始めた速度も、ほぼ同時。

 「サギトゥス!」

 ウォルターの詠唱が僅かに速かった。言葉に合わせて魔法が発動する。

 周囲の空気中から、光が矢の形を成して飛んで行く。正確には、軌跡を描いて飛ぶ結晶のような礫が、矢のように見えている。それが複数同時に、規則的な感覚で発射された。

 「ハストゥス」

 ホラティの魔法はその矢を迎撃するように飛ぶ。こちらが形成するのは、矢でなく、槍──

 即ち、矢より遥かに重く、大きく、威力に優れる。

 「くっ──!」

 正面からぶつかり合った魔法は、より密度の高く強力な方だけが残る。

 槍の雨に晒されたウォルターは咄嗟に回避行動をとった。槍はいずれも、彼を刺し貫くことはない。槍と衝突し、儚く消えた矢の魔法がごく僅かに、それの軌道を変えていたこともある。

 代わりに、アリーナの壁や床に槍が突き立つ。時間の経過で、槍は魔力を失って消えるが、跡には傷も残らない。アリーナの建材は魔法に対して強力な耐性を持つ木材であるため、戦闘の余波にも耐えうる。

 それでも、この一度の攻防で、決闘の趨勢は目に見えて明らかになった。

 槍の魔法は、矢の魔法の上位にあたる。破壊力に長け、しかし詠唱の遅さや魔力消費の激しさから、乱用ができないのが特徴だ。

 だがホラティは今、ウォルターとほぼ同じ詠唱速度で、同じ量の弾幕を形成した。それは、二人の術者の、力量の隔たりに他ならない。

 「サギトゥ──」

 「ハストゥス」

 今度は、ホラティの方が速かった。回避に専念していたウォルターは、対応が間に合っていない。槍が再びウォルターを襲い、彼は敗北を覚悟する。

 が、槍は全て、ウォルターを囲むように並ぶ。またしても一本として当たらぬ槍だが、今度は避けられたわけでも防がれたわけでもない。

 「どうかね諸君、私の魔法の腕前は。中々のものだろう」

 観客席からは、拍手、そして笑い声に、いいぞと囃し立てる声が響く。

 ホラティは決闘の最中にも関わらず、両手を広げ、観客の視線を集めており、自身に送られる称賛に満足していた。

 「よろしい。では、平民に最後の稽古をつけてやろう。我が一族が代々継いできた特別な魔法で、な」

 悦に入った貴族が高らかに杖を掲げると、光が集まり、巨大な槍を形作る。これまでのものとは、比較にならない魔力の収束。数はたったひとつであれど、それは家を象徴するのに相応しい、荘厳な大槍だ。

 観客は大きくどよめいた。普段決して見ることのできぬその魔法に、ある者は感嘆の、ある者は尊敬の視線を向ける。

 「──ハストゥス・グランディス」

 防護魔法の砕けた、ガラスのような破片の中。腹を穿たれ、衝撃のままに回転しながら、敗者が床に何度もぶつかった。

 ウォルターは、アリーナに響く歓声に、この決闘の意味を悟る。自分はただ、見世物にされていたに過ぎなかった、と。

 生徒が見に来る決闘という舞台を、ホラティは利用した。ただ格下を屠るだけでは、面白みに欠ける。どうせなら、大勢の前で自分の実力を示してやりたい。

 あえてウォルターに魔法を当てず、抵抗させ、無様な姿を晒させる。その後に、自慢の魔法で決着させてやれば盛り上がるだろう──

 つまるところ、ホラティにとってウォルターは、決闘の対戦相手などではない。ただの引き立て役だ。

 「そこまで! 勝者は、ホラティ=トゥル=ホスティリ。ウォルターには、更なる研鑽と、またの挑戦を期待する。解散──」

 喧騒の波が引いていく。一時の享楽を得た生徒たちは、見世物に満足して席を立った。

 平民出身の生徒たちは、肩を落とし、つまらない結果に言葉もなく去っていく。ウォルターと知り合いというわけではないが、同類として、仲間意識は多少なりともあった故の落胆。

 ウォルターは、天井の魔法灯を見上げることしかできなかった。

 魔法の鎧は、攻撃魔法を相殺できても、吹き飛んで転がったような物理的衝撃は防げない。加えて、ホラティの大技は並大抵の威力でなく、直撃が避けられてなお、全身が痺れたように動かなくなる。動けない理由は、肉体の痛みだけでないのだが。

 「平民の癖に、マギを目指そうなどと。思い上がったな」

 もうひとり、そこには残っていた。勝敗が決したときから、いや決闘の始まったときから、ホラティはその場に立ったまま一歩も動いていない。

 「君の親は、財産ばかりか、才能すら君に与えられなかったというわけだ。いや、君だけがそんな人生じゃあない。平民というのは得てしてそういう、持たざる者だ。君のように無駄に年齢ばかり重ね、しかし、実をつけるどころか何の花も咲かせない。仕方がないさ、種が悪かった。土壌が悪かったんだ。恨むなら、貴い血を流していない、自分の親を恨むんだな」

 ホラティは貸与された杖を床に投げ捨てると、そのままウォルターに背を向け、出口へと歩を進める。

 ウォルターは何も言わない。言えない。自分があまりに無力であったことを痛感し、また、残留した痛みで口を開くことさえ叶わない。

 「マギは諦めろ。君じゃ無理だ」

 最後の捨て台詞にも、ウォルターは奥歯を噛んだまま、拳を固く握っていた。


 魔法学院ウルラアーラ。

 元々、深い森であった土地を切り拓いて造られた学び舎には、現在三百人ほどの生徒が在籍する。全寮制であり、街からは遠い。

 学院の方針は徹底した実力主義であり、入学要項に、年齢や種族の規定はない。規定がないというだけで、十代の人間がほとんどなものの、遠い地方からも集まった生徒たちの顔ぶれは多種多様だ。難関な試験に合格し、入学できた生徒たちは、三年間をこの学び舎で過ごすことになる。

 また、家柄で入学が左右されることもないのだが、生徒の大半──九割以上は、貴族の名を持つ生徒で占められている。ただ勉学に励むだけでも、家の豊かさがものを言う。単純で残酷な、世界の縮図だった。

 大人数が収容される教室の隅で、講義を受ける少女。彼女もまた、生徒のひとり。

 巨大な三角帽を被り、マントを羽織る。長く伸びた金髪は彼女の左目を覆い隠し、座った姿勢であるが、後ろ髪は床に触れそうだった。

 まだ幼さの残る顔。それでも、腕章の色は白。二年生だ。

 学院は、クラスや学年によって受ける授業を制限しない。この教室には今、一年生から三年生までが混在し、同じ部屋の講義に参加している。

 講義の内容は、魔力操作と応用。教師が杖を振り、向こうの景色が見えるような薄い魔力の膜と、同じ膜でも密度の高く鈍い光沢を持つものを作り出す。それらが組み合わさると、膜の中に、左右の反転した教室と生徒たちが映り込む。

 教室の中には、友人と思しき生徒同士で隣り合った席を取る者もいたが、彼女の隣席は、終始空いたまま。彼女はそれを都合よく思い、空いた席の上に、荷物の入ったポーチを置いている。

 少女は適宜、手元のノートに教師の説明をメモしながら、鐘の音と共に、講義の終わった教室から出て行った。

 昼休み。生徒と教師の行き交う学内の中庭を、少女は歩く。

 花が咲き誇る庭の中心には、噴水と、日よけのテラスが置かれており、休憩には適したスポットとなっている。庭の外周に沿って道が敷かれているのだが、校舎の壁に囲まれた一角には、魔法の練習をするための、小さな練習場もあった。

 今、そこにあるかかしに向け、ひとりの男が魔法を連打している。

 青い光が紡ぐ魔法の槍は、何度も何度もかかしにぶつけられ、外れたいくつかはかかしを通り過ぎ、壁にぶつかった。かかしは練習用の的だけあって、魔法の攻撃に傷一つ負わない。練習場に面した学院の壁には、アリーナに使われた建材と同じものが追加で張り付けられており、やはり壊れることはない。

 男は、何かに取り憑かれたかのように、一心不乱に魔法を乱射する。それを、幾人かが遠巻きに見ていた。

 「お前、この前の決闘で負けたヤツだろ。何やってるんだ。まさか、かかしに八つ当たりしてるのか? ははは、滑稽だな……」

 「違います。見ての通り、練習してるんですよ。次こそ勝つために」

 男を囲む生徒たちは、堪えきれないといった様子で、次々に笑い出す。

 「何かおかしいことを言いましたか」

 「そりゃおかしいさ! “次こそ勝つ”って、またやるつもりかよ! あれだけ恥をかかされておいて、よくそんなことが言えるなあ。俺だったら恥ずかしくて、もう退学してるね。お前もそうしろよ、恥晒し」

 「俺は、マギになりにこの学校へ来ました。退学はできません」

 「無駄な努力だ。平民が背伸びして学院に入学しただけでも滑稽なのに、マギになるだと? しかも、その年で? そんな話、聞いたことないね。マギの席は三十しかない。マギになるってことは、この学院で、上位三十に入るって意味だぞ。一年生の分際で……」

 「前例がないからって、マギにはなれないと、誰が決めましたか」

 「ばーか、現実見ろよ。才能がないって分かんねーのか? 貧乏人。ジジイなんだよ、お前はさ」

 生徒のひとりが、男に足を引っかけた。

 地面に尻もちをついた男の様子に、生徒たちはまた笑ったが、何か別のものに気を取られたようだ。

 「おい、あいつ……」

 「げっ、魔女様じゃねえか。絡まれる前に行くぞ」

 ひそひそと囁き、その場から去っていく。

 男は起き上がり、土を払うと、何事もなかったかのように魔法の練習へ戻った。

 一部始終を、少女は見ている。

 マギの席を巡る決闘の結果にも、他者を貶めることでしか自分の立ち位置を確認できない輩にも、興味はない。

 次の授業に遅れないよう、教室へ向かわなくては。庭の植栽から外周部の通路まで伸びたツタには、まだ開かぬ蕾が首をもたげていた。


 日の沈んだ時刻になって、少女はようやく、学院の敷地内にある自分の研究室から外に出た。

 今日の講義を全て終えた後、研究室に籠り、講義の課題や自分の研究を進めていたが、没頭するあまり時間の感覚が失われることも多い。

 少女にも、自分の寮がある。寮に門限はなく、研究室で夜を明かしてもいいのだが、向こうの方が設備が整っている。特に、浴場の有無は大きい。

 少女は、すっかり静まり返った校舎を横目に、寮まで中庭を歩く。何度も往復した道を、迷うことはない。途中、昼間の出来事を思い出した頃、青白い魔法の光が、視界の隅に散った。

 奥まった練習場に、男がひとり、倒れている。

 「ここは……?」

 男が目を覚ますと、天井が見えた。

 中庭の、噴水の傍にあるテラス。テラスの内周に沿った円形のベンチの上に、男は寝かせられていた。

 「魔力切れによる昏倒と、脱水症状。しばらく休んだ方がいい」

 同じベンチの向かいから、少女の小さな声が聞こえる。男は、その言葉が自分に向けられたものだと理解するのに、やや時間をかけた。

 少女は魔導書を読んでいたが、男が目を覚ましたことに気付くと本を閉じ、隣に置いたポーチの中から薬瓶をひとつ取り出す。

 「魔力補給の栄養剤。飲むと楽になる」

 「あ、ありがとう、ございます……」

 わざわざ自分の下まで歩いて、薬瓶を渡しに来てくれた少女に感謝しながら、男は一口にそれを飲み干した。

 「──げほっ!」

 口の中から胃の腑にまで広がった、強い甘味と酸っぱい刺激に、思わずむせ返る。吐き出すことはしなかったが、飲用に耐えうる味とはとても言い難い。

 男の言いたいことを察してか、少女が先に口を開く。

 「私のために、私が作った。だから味を考慮してない」

 「材料は、何ですか……?」

 「ニンニク、ベラドンナ、白檀、冬虫夏草、牛の睾丸、マンドラゴラ」

 「……ありがとうございます」

 まだ刺激の残る喉をさすりながら、男は空の瓶を少女に返す。

 そのとき、互いの手と手が触れ合った。少女の手は、男より遥かに小さい。子供の手だった。

 「俺はウォルターといいます。クラスはプラエスティです。お名前を窺ってもいいですか、後でお礼がしたいので」

 「私は、セレン=テミス=トリウィア。マギ。お礼はさっき、薬の試し飲みをしてもらったから要らない」

 「マギ──!」

 「身体の調子はどう? 変なところは?」

 ウォルターは、自分の両手を開いては握り、その場で立ち上がってみる。

 効き目は確かなようだ。消耗した魔力は、急速に回復を始めていた。

 「大丈夫です。ちょっと、身体が熱いぐらいで。それより、セレンさんはマギなんですか。すごいですね」

 「まあね。重篤な副作用はなし、と……」

 セレンはウォルターの感想をメモに書き込んだ。いつの間にか、彼女の薬学実験に参加させられている。

 片手間な返事であったが、どうやら彼女はマギらしい。もとより侮るつもりなどないが、見た目などやはり、当てにはならないなとウォルターは思い直す。

 「あの。改めて、ありがとうございます。俺を介抱してくれて。マギになるため、二週間後の決闘に備えてたんですけど、いつの間にか倒れてたんですね、俺」

 「昼間も練習してたのを見た。もしかして、昼からさっきまで、ずっとやってた?」

 「はい。ハストゥスを使いこなすために、研究してました。相手が使っていたので、俺もやらなくちゃと思って」

 「ハストゥス……対戦相手はじゃあ、ホラティ=トゥル=ホスティリ?」

 「は、はい。その通りです」

 「だろうね。どうしてそこまで、マギなんかに拘るの。一年生のマギなんていないよ。来年から頑張ってもいいんじゃない」

 「来年は、来年は駄目なんです──!」

 ウォルターは、込み上げる想いを抱えきれないように、吐き出した。

 「来年になれば、また授業料が必要になります。ウルラアーラの授業料が非常に高いことは、ご存じでしょう。払う金は、俺と、両親の稼ぎです。汗水垂らし、俺が十年働いた稼ぎ、それを使い果たすのは構わない。でも授業料のもう半分は、父と母が、俺に期待して持たせてくれた稼ぎです。贅沢を我慢し、自分のために使わず、息子の将来にと取って置いてくれた、かけがえのないものです。二年分も払いたくありません。俺は、俺を学院に送ってくれた両親に、報いたい。だから──」

 強い、意志宿す瞳。

 セレンはつい、ウォルターのそれに魅入っていた。

 「マギになれれば、授業料が減額されます。上位ランクなら、無償みたいですね。しかも、卒業した後は、宮廷魔法使いになれると聞きました。小さい頃からの憧れなんです。宮仕えともなれば、故郷の暮らしもずっと楽になるだけの給金が入るでしょう」

 「そうだね。宮廷魔法使いは、官僚の中でも指折りの高給取り。授業料なんて三倍にして返せる」

 「だから俺は、次の決闘に勝つため、努力しなくちゃいけません。どうしても勝ちたい。俺の不出来で、両親を馬鹿にされたままでいることにも、堪えられない──」

 「でも、それは無理。君は次も負けるから」

 残酷に、きっぱりと。

 少女は確信しているように言い切る。

 「君がいくら努力しようと、そのやり方ではマギに在籍する天才たちに追いつけない。何故なら、彼らもまた努力するから。簡単な話。同じ速度で走って、前の人を追い越せるわけがない」

 「じゃあ、努力の量を増やせば──」

 「それも無駄。君が加速して、一時、天才より早く走れたとしても、限界を超えた走り方は長く続かない。いずれ今みたいに転んで動けなくなる。そして、起き上がった頃にはもう、埋めた距離以上に周りから離されている」

 ウォルターは奥歯を噛みながら、石造りの床に視線を落とす。

 「あなたも、努力なんて無駄なものだって言うんですか。無駄だ、意味がないって。平民は貴族に勝てない。才能のない凡人は、生まれたときから負けだって」

 「────」

 「違う。そんなわけない。誰だって、努力次第で上にあがれる。望むものに手を伸ばしていい。努力した分だけ報われる。生まれや育ちなんかで、人生が決まったりしない。金がなくたって、才能がなくたって、貴族の血を引いていなくたって、夢のひとつ、叶えていいはずだ──!」

 それは、自分自身に言い聞かせるような、慟哭。現実がそうでないことを知っていて、しかし認められぬ男の、虚しい抵抗。

 ウォルターの手は震えている。このまま何も為せず、学院を出ていく未来に怯えている。

 二十四という年齢は、本来、この学院をとっくに卒業していておかしくない。自分は既に出遅れているという事実を抱えたまま、年下に無様な敗北を喫し、傷つかないでいられるほど、男は大人になりきれていなかった。

 唯一縋った、努力という幻想。それさえも失われてしまえば、一体何を信じ生きればいいのだろうか。

 「ウォルターさん」

 セレンの声に、はっとウォルターは顔を上げた。

 「私は、あなたの努力が無駄なんて、一言も言ってない。あなたの努力の仕方が、無駄だとは言ったけど」

 「え……?」

 「あなたがこの学院にいるのは、努力して入学試験に受かったから。あなたが決闘に挑めるのは、努力して筆記試験に受かったから。あなたの努力は確かに、あなたの実になってる」

 「────」

 「でも、ハストゥスの練習だっけ。それは止めた方がいい。まるきり無駄。天才の真似するのはいいけど、その真似した天才相手に、付け焼刃の同じ魔法で勝てると思う?」

 「ぐっ」

 「そもそも、決闘は一発当てれば勝ち。魔法に威力なんて必要ないから、下位のサギトゥスで十分。それでもハストゥスを使う魔法使いが多いのは、上位の魔法を使いこなしてるアピールがしたいだけ。あなたは? 自分の力を誇示するために決闘してるの?」

 「違います。俺は、マギになれればそれでいいんです」

 「努力にも方向性がある。自分より強い相手と戦うなら、工夫という努力が必要。羊飼いが巨人を倒した話は知ってる? 彼は、剣を取って巨人とは戦わなかった」

 セレンはテラスを出て、噴水の縁に腰掛けた。長い金髪が夜風に乗って広がり、月光を浴びて、妖しく輝く。

 まるで魔女だと、ウォルターは思った。それも、物語の中でとっておきな悪役の。

 「私はあなたに、“勝つための努力”を教えてあげられる。前を走る天才を抜かす、とっておきの走り方をね。ただそれは、あなたの、魔法使いとしての誇りを傷つけるものかもしれない。少なくとも、宮廷魔法使いとは程遠いやり方だから。どうする? 私の講義を受けてみる覚悟はある?」

 「受けます。教えてください、勝つ方法を」

 一も二もなく答え、ウォルターはテラスの外へ足を踏み出す。そして、泉の傍に座る少女の、足元に跪いた。マギに対する力を、同じマギに求めるのは、合理的なはずだ。

 大の男が、年端も行かぬ子供に教えを乞うことの恥ずかしさ、悔しさを、捨ててはいない。捨ててはいないが、時には胸の痛みを、堪えて進まねばならぬこともある。

 「分かった」

 セレンは頷き、軽くペンを走らせた紙を一枚、隣に置いて立ち上がる。

 「明日から、授業が終わった後でいい。この場所に来て」

 「はい! ……うん?」

 セレンの後ろ姿を見送り、ウォルターが紙面を確認すると、そこには四角の枠線と、離れたところに小さい丸だけが書かれていた。誰がどう見ても、地図でなく、記号の集合である。

 書き主はもう、そこにいない。男はひとり、夜の闇の中に取り残される。


 翌日、セレンは研究室の窓越しに、沈みゆく夕日を見つめた。

 森の中にある小屋が彼女の研究室であり、マギに与えられた特権である。

 授業が終わった後でいいとは言ったが、忙しいのだろうか。それとも、やる気をなくしてしまったか──

 待ち人に対して思案していると、丁度、扉がノックされる。

 「セレンさん、ここですか?」

 「ん」

 セレンは扉を開け、外へ。

 ウォルターが立っていた。セレンの背丈は、彼の胸元までしかない。大きな三角帽の先端が、ウォルターの顔に当たる。

 「遅かったね」

 「その、地図があまりに大雑把で……」

 「大雑把?」

 「四角と丸しか書いてないじゃないですか。四角が学院の校舎というのは何となく分かったんですけど、方角も書いてないので、行き先が全く分からなくて。敷地内でも、森はすごく広いですし。どうしてこんな書き方を? もしかして、俺を試したんですか?」

 「────」

 セレンは一呼吸置き、

 「そんなところだと思うよ。まあ、辿り着けたんだからいいでしょ。それよりも、決闘の練習するんだよね」

 「は、はい」

 「まず、決闘は、相手の魔法を受け流す手段が必要。十分な魔力があれば、盾を使って防ぐなり、自分の魔法で相手の魔法を打ち消したり、やりようはあるけど──」

 セレンの瞳に顔を覗かれ、ウォルターは、自分の奥底まで見透かされた気分になった。

 「うん、今の君じゃ無理そう。二週間だっけ。練習するなら、やっぱり、これだ」

 セレンが自分の杖を掲げると、魔法の槍が一度に十本以上、空中に生成される。

 彼女の杖は先端が三つに枝分かれしており、水晶を掴んでいた。学校指定のものとは別の私物、見るからに歴史のありそうな逸品だ。

 対してウォルターのものは、ただの学校指定の短杖。生徒の証として、入学したとき、無償で配布される。

 「ウォルターさん。杖はしまっていいよ、使わないし」

 「そうですか。練習というから、てっきり」

 「あなたをここに呼んだのは、森が広いから。狭い場所だと他に迷惑がかかる」

 「何をするつもりですか……?」

 「今から私が、あなたに攻撃する。使うのはハストゥスだけ。加減はするけど、当たると痛いから、頑張って避けて」

 「うわっ──!?」

 あまりに唐突で、無茶苦茶な通告だったが、講義はもう始まっている。

 絶え間なく飛んでくる槍を、ウォルターは、死に物狂いで躱していく。

 「防護魔法をかける時間をください」

 「一発当たる度にいちいちかけ直すのが時間と魔力の無駄。私の力加減を信じてみない?」

 流れ弾となった槍が一本、木にぶつかった。着弾点は樹皮が剥げ、中身までえぐれている。

 思わず身体を竦ませてしまったウォルターの、腹に一発、槍が刺さった。

 「がはっ──」

 鈍痛に呻き、土の上を転がる。確かに血こそ出ていないが、下手すれば骨にヒビが入りそうな威力だ。

 「魔法で防げない攻撃は、避け躱すしかない。決闘に慣れてないと、難しいよね。普通、人と魔法を撃ち合う機会なんて他にないし」

 セレンの杖、先端が、小さく円を描いて揺れる。再び二十本以上の槍が、魔力で模られ宙に浮く。

 夜空に浮かぶ星々の煌めきが、そのまま飛んでくるようだった。ウォルターは、槍の魔法がこれほど同時に展開されるところを始めて見た。

 「躱す動きが大袈裟で、無駄が多いかな。槍をちゃんと見た方がいい。最小限の動きで避けられるようになれば、疲れにくくなって、反撃の機会も生まれるから」

 「簡単そうに言いますけど──」

 槍は飛び続け、ウォルターも、息つく間すらなく動き続ける。

 容赦のない講義は陽が完全に落ち、空が星で満ちる時間になるまで行われた。

 あれから、ウォルターは二十回以上槍に当たっている。手にぶつかれば手が、足にぶつかれば足が、痺れたように重くなり、痛みは累積してまたミスに繋がる。

 「終わり?」

 大の字に倒れた生徒を前に、月下の魔女は、眠そうな顔で杖を降ろす。

 木々には小さな穴がいくつも空き、平らだった地面は、槍の雨で削れでこぼこになっていた。休みなく、これだけ続けたのだ。そろそろウォルターも限界だろうと、セレンは推測している。

 だが。

 彼女の想定以上に、男の執念は強かった。

 「まだ、やれます」

 疲れで震える身体を引きずりながら、ウォルターは、擦り傷の付けた顔でセレンを見つめる。

 瞬間──

 まるで煌めく流星のように、何かが、空を切って飛んだ。

 ウォルターの瞳はそれを確かに捉え、上体を僅かに仰け反らせることで、魔法の槍を躱すことに成功する。

 「無詠唱の不意打ちだったんだけど。うん。慣れてきたみたいだね。でも、今日はここまでにしておいた方がいいと思う」

 紙一重の回避でバランスを崩したウォルターは、そのままよろけて、土の上に座り込む。

 「そう、ですね」

 休憩している間、セレンは、研究室の軒下に置いておいたポーチから、薬瓶を取り出し飲んだ。昨夜、人に飲ませたものと同じものだった。

 「明日も来ていいですか」

 「来てくれないと、教えられないよ。今日は軽い運動。講義はまだ、始まってすらいない」

 「分かりました、ありがとうございます。でも、どうしてそこまで、俺に親身になってくれるんですか? 学年も違うのに……」

 薬瓶の口から唇を離したセレンは、呟く。

 「私はね、他人の努力を笑う人が、嫌いなんだ」


 筆記試験には、一週間前に合格している。出題が異なるとはいえ、同じ難度の試験には合格した実績があり、これは問題なかった。

 されどもウォルターには懸念があった。実技試験の相手は、マギランク20以下から抽選のため、同じ相手と戦えないのではないかというものだ。

 これは、セレンのアドバイスに従い事なきを得た。挑戦者側から対戦相手のマギを指定し、マギ側の了承があれば、抽選を省略して決闘できるというチャレンジシステムがある。決闘を拒まれればそれまでだが、セレン曰く、ホラティは決闘を拒んだことがないという。

 ──よって、舞台は整った。

 「驚きだよ。君がまだ、ここに立つ気概を残していたとはね」

 アリーナの観客は、前回より少ない。平民の勝利に期待していた客が消えている。

 ここにいるのは、ほとんどが、貴族による蹂躙劇を見に来た客だ。ただひとり、前回はいなかった、三角帽の少女を除いて。

 「しかも、再びの決闘に私を指名するとは。私の魔法が、それほど気に入ったのか?」

 「ホラティさん」

 礼服を着こなす貴族の前に立つのは、擦り切れたローブを纏う若い男。

 「今度こそ俺が勝って、マギになります。あなたに席を空けてもらいたい」

 「────」

 「加えて、前回の謝罪を要求します。あなたが俺の両親を貶したことについて。これは、絶対です」

 「大層な口を利く。平民に、誇るべき血があるのか──!」

 平民の無礼な態度に、貴族は感情を露にする。

 「──プリムアルマ。二人とも、時間だ。さあ配置につけ」

 決闘は予定通りに、規定通りの文言で進行する。

 「プラエスティ、ウォルター。マギ、ランク27、ホラティ=トゥル=ホスティリ。これより、両者の決闘を始める。──エンゲージ!」

 「ハストゥス!」

 ホラティは前回と同じく、振り向いて即座に魔法を放つ。だが彼の予想に反し、向こう側から矢の魔法は飛んでこなかった。

 「────」

 相手の動きをつぶさに観察したウォルターは、放たれた八本の槍のうち、自分の顔面に当たりそうな一本のみ、首だけを傾けて避けた。

 ホラティがすぐに決闘を終わらせるつもりがないことは知っていたし、前回と同じように動くなら、あえて槍の狙いを外してくるであろうことも、予測できている。

 「サギトゥス」

 回避運動に時間と体力を使わなければ、反撃の機会が生まれる。

 ウォルターの杖先が、倒すべき敵を指し示し、魔法の矢が飛んだ。相手の攻撃と時間差をつけることで、衝突を免れる。

 「何だと──!?」

 この展開を予想だにしていなかったホラティは、ただ一瞬だが、狼狽える。

 相手の矢が先に飛んでいる以上、槍の魔法は見てからの詠唱が間に合わない。ならば──

 「レウィスクトゥム!」

 長方形の青い障壁が、ホラティの正面九十度に展開。穴を開けられながらも、矢を全て凌いだ。

 盾の魔法──強度の高いものではなく、簡単な魔法を数発防ぐだけで役目を終える障壁だが、展開の速さから使い勝手はいい。だが決闘では時間制限があるため。試合を間延びさせる盾の魔法は使われない傾向にある。

 苦し紛れに放ったような、あまり見栄えのしない魔法を、ホラティが決闘の場で使ったのは初めてだった。

 「よくも、この私に盾を使わせたな──!」

 ホラティが感情を露にし、客席がざわめく。どちらも、ウォルターの様子がおかしいことに気付いたのだ。


 「──セレンさん。勝つための努力って、敵の攻撃を避けることですか?」

 夜、研究室の前で、その日の練習を終えたウォルターが訊いた。

 「結局、攻撃しなきゃ決闘には勝てません。俺の矢は、あの人に当たるでしょうか」

 「無理だね。魔力の質でも量でも負けていれば、魔法で撃ち合っても勝てないよ」

 「じゃあ、どうすれば──」

 「攻撃は、しない」

 「え?」

 「とっておきの走り方を教えると、そう約束したね。同じ道を走ることに固執するから、追いつけない。こと追いつくべきものが決まっている状況ですべきなのは、愚直な直進でなく、自分だけの近道を探すこと。誰も分け入らぬ獣道が、存外、相手の先へ行く道かもしれない。──回避の練習はもう十分。これから教えるのは、正統な魔法使いなら絶対に使わない、異端の魔法」

 セレンは杖を振りかざすと、幾層の魔力を重ねた、ひとつの膜を生み出す。膜は数秒保持され、霧散した。

 「これは……?」

 「矢でも槍でもいいから、この私に向かって魔法を撃ってみて。威力は、怪我しない程度の方があなたのためになる」

 やや奇妙な言い回しだったが、ウォルターはセレンの言う通りに、矢の魔法を放つ。

 矢の着弾に合わせ、セレンが再び魔法を発動させると、力の向きを真逆に変えた矢がウォルターの腹を撃った。

 「うぼっ!」

 「この魔法は、受けた魔法を跳ね返す。たった一度、ごく僅かな時間だけ輝く鏡。でも、決闘の切り札にするには十分」

 「実演のためとはいえ、俺に俺を撃たせる必要ありましたか? でも、こんな魔法を見たのは初めてです」

 「魔法使いは決闘に誇りを持ち、一族で探求した魔法で勝つことに、大きな意味を見出す。それは、他人より自分が優ることの証明であり、積み重ねてきた努力の肯定になる。だから、自分の魔法でなく、相手の魔法を利用するこれは、己の──ひいては一族の研鑽を否定するものとして嫌われる。あなたの誇りを傷つけるとは、こういうこと」

 「分かりました。俺に、自分の魔法を捨てろと、そういうことですね。構いません。やり方を教えてください」

 セレンは、彼の割り切り方を好ましく思ったのか、珍しく口元を綻ばせた。

 「次は私が撃つから、ほら、こんな感じに……」

 セレンに手ほどきを受け、ウォルターが同じように魔法を発動させてみるも、膜は一秒も持たず消える。タイミングを合わせて魔法を反射できても、それは、セレンに向かって飛んで行かない。

 三層に重なる膜はそれぞれ、下地になる強固な魔力の層と、光を反射させる層、限りなく平面かつ薄い魔力の層に分かれる。下地が安定しなければ、敵の魔法を受けて膜が破壊されてしまう。魔力は光に似た性質を持つため、光の反射率が高くなければ、跳ね返した魔法の威力も減衰してしまう。最も外にある層は、平面でなければ狙った方向への反射が行えず、薄くなければやはり、受け止めた魔法の威力を落としてしまうのだ。

 これらの精密な魔力操作を、戦闘中に行う。研鑽を否定する魔法、という文句とは裏腹に、術者の高い技術を要求する魔法だった。だからこそ、使われない。異端たる魔法の習熟に時間を割こうなどと、誰も考えない。それこそ、異端の魔法使いでもない限りは。

 「全然上手くいきませんけど、本番までに形になるでしょうか」

 「そこは君の努力次第、じゃないの?」

 「……そうですね、その通りです。俺の魔法じゃマギを撃てない。なら、マギにマギを撃たせてみせる。この鏡で」

 「仕組み自体は単純で、学院の授業でも習う範囲。でも、彼らは知らないんだ。上手に反射させるのにも、コツが要るんだよ──」


 ホラティが怒りと共に放つ槍の魔法。今度の狙いは正確だ。挑戦者を確実に、ここで始末しようとしている。

 ──でも、少し遅いな。

 ウォルターは心中で、セレンの放つそれと比べながら、身ひとつで全てを躱していく。彼女の魔法はこれより三倍は多く、速く、またそれぞれの発射感覚が僅かにずらされていた。対してホラティこれは、些か単調な攻撃にすら思える。彼の魔法が悪いわけではない。ただ、最上を知ったことで、それ以外が全て劣るように見えているだけだ。

 自慢の魔法が全く当たらないことに業を煮やしたホラティは、前回の決闘にあった余裕が、もはやどこにもない。眉間にしわが寄り、険しい顔つきになる。

 「ホラティさん。時間切れで仕切り直しになる前に、互いの魔法の一撃で、試合を決着させませんか。“手品”じゃない、本物の魔法を見せてくださいよ」

 「平民風情が、この私に要求ばかり……だが時間も、残り三十秒とあるまい。貴様の言葉に乗せられたわけではないが、今一度、敗北をくれてやろう。今度は二度と挑む気にならないよう、徹底的にな!」

 魔法の槍が、ウォルターの左右、逃げ道を塞ぐように三本ずつ刺さった。

 ホラティは短杖を天高く掲げ、魔力の渦を巻く。同時に、ウォルターも杖に魔力を籠める。

 「太祖ホスティウスよ。大神ユピテルよ。私の行いし探求、ホスティリが秘奥の魔法、天を穿つ大槍をご照覧あれ──」

 凄まじい魔力の集積だ。眩い光に加え、溢れ出した魔力の一部が雷と化し、コートの上に迸る。対面するウォルターは当然、観客でさえも、肌に痺れるものを感じた。

 「──ハストゥス・グランディス!」

 魔法の大槍は、螺旋状に巻かれた魔力から成り、最後部からはまるで推進剤のように、煌めく魔力の粒子が飛び散っている。

 その魔法の巧緻であって、美しいところは、ウォルターも認めていた。規格外の魔法を扱うために、一生のどれほどを、研鑽に費やしているのだろうか。

 自分にはこれほどの魔法を扱う技術も、才もない。恐らくは一生手の届かない領域にある魔法。己と相手の差を改めて思い知らされ、自分が欲しかった力を羨望してしまう。

 己の家柄と才能にかまけず、努力したからこそ、ホラティはマギにいる。マギとはつまり、そのような者の集まりだ。

 それでも、とウォルターは杖を槍の先端に向ける。羨んで、夢のままに終わらせてしまうのは簡単だろう。だが、男が欲しいのは夢じゃない。夢を叶えた、現実だ。

 ウォルターの顔には、青い痣が残っていた。ホラティに、その痣の意味は分からない。それが、自分を倒すためだけに特訓してきた男の、努力の結果だと知らない。

 凡才な平民が、天才的な貴族に劣らぬ、唯一のもの。それは勝利への渇望。男は弱者であるからこそ、このひと試合、ただひとりを超えるためだけに、自ら誇りを投げうった。その覚悟はまさしく、マギにも比肩するだろう。

 「──レクスタリオ」

 報復が行われるのは、ほんの一瞬の間だけ。決闘までの期間練習してなお、ウォルターが鏡を展開できる時間は、およそコンマ五秒。

 僅かにでも機会を逃せば、槍は反射できてもホラティの方へ飛ばないか、壁にぶつかることになる。最悪、鏡が粉砕され、槍がそのまま直撃するだろう。顔の痣は、練習の過程に、そうして出来た。

 だからこそ、ホラティの誇りと演出を利用し、彼の最大の切り札にタイミングを合わせたのだ。これ見よがしに魔法を詠唱する彼の動きが、一番読みやすい。

 「な、に」

 突如、槍の行く手を遮るように生まれた鏡に、ホラティは見入る。そこに映るのは、誇り高き自分の姿。

 次の瞬間、その尊容は、胸を衝く一撃により砕かれた。視界が揺れ、白く染まる──

 「そこまで! 勝者はウォルター。マギへの移籍を許可し、ランク30を与える。なお、ホラティ=トゥル=ホスティリはマギから除籍処分とする。以上だ」

 客席は大荒れだ。信じられないことが起こっている。

 一年生が、三年生に決闘で勝つ。それだけでも青天の霹靂だが、事はそれに留まらない。学院の歴史の中で、最後にマギになった平民は、何百年前のことだったろう。新たな歴史の創生に、アリーナが戸惑いのどよめきで満ちてゆく。

 ホラティは床に倒れ、天井を仰いだまま、死んだように目を見開き固まっている。名のある家柄でありながら、三年生になり、マギから落ちた。マギのまま卒業できない可能性があるとなれば、それは、まさしく死に匹敵する衝撃になるだろう。

 「おめでとう。素晴らしい精度の魔法だったよ、ウォルター。今後も弛まず研鑽を怠ることなかれよ」

 「ありがとうございます、先生」

 ウォルターはお世話になった先生に一礼し、客席の方を横目で見たが、三角帽子の影は消えている。

 「貴様ッ! なんだその魔法は! 貴様には誇りというものがないのか!? こんな勝利の、どこに意味がある!?」

 現実を理解し、起き上がってきたホラティが、傷だらけの恰好のままにウォルターへ詰め寄った。

 「この私を挑発し、あえて奥義を使わせた。それまで鏡の魔法を見せなかったのは、私に警戒させないため。ハストゥス・グランディスを反射してみせれば、自分の一発芸を、観客に印象付けられるとでも思ったか! なんと不遜な行いを……! よりにも、よりにもよって、ホスティリの──!」

 「前回の決闘から、学ぶものは多かったです。俺も、伊達に年を取っているわけではありませんから」

 「ふざけるなよ、平民の一年生が……! あり得ん、実力では、全てにおいて私が勝っていた! 再戦だ、再戦すれば今度こそ──」

 憤懣やるかたないといった様子のホラティだが、

 「ホラティ=トゥル=ホスティリ。この決闘の勝者はウォルターだ。次回は、君の挑戦を期待する」

 ヴァニタスの、炯々と揺らめく眼光にひるみ、彼は押し黙る。

 「ホラティさん、約束です。俺の両親への侮辱を撤回してください。俺に謝罪しろとは言いません、ただ、無関係な両親だけは馬鹿にしないでいただきたいんです」

 「チッ──! 私はまだ負けていない! 卑怯な手段で貶められただけだ! 次に勝つのはこの私だぞ!」

 結局、謝罪することなく、ホラティはアリーナから出て行った。

 立ち尽くすウォルターの肩に、骸骨の手がそっと乗る。


 「セレンさん!」

 アリーナを背に歩く少女に、男が声をかける。

 「ありがとうございます。お陰様で、勝てました」

 「そう。お疲れ様」

 「授業料が全額免除されるのは、マギランク15以上からです。俺は、これからそこを目指します」

 「うん。頑張って」

 「これから何処へ行かれる予定ですか。授業ですか」

 「研究室」

 「研究室なら、反対の方角ですけど」

 「む」

 「よければ、ご一緒しましょう。俺も今日は、授業を入れてないので」

 「好きにすれば」

 彼女が実は、方向音痴の類でないのか。ウォルターは薄々と勘づいていながら、何も言わない。マギでありながら完全無欠であらず、そうした欠点を持つことに、どこか安心感を覚えていた。

 「セレンさんって、マギランクはおいくつでしたっけ。今度からは、マギの中で順位を競うことになりますね」

 「1」

 「──え?」

 セレンの立てた人差し指一本の意味するところに、ウォルターの開いた口が塞がらない。

 「ランク1──!? し、知りませんでした。これからは先輩と呼びます」

 「やだ。先生みたいな年の人に、先輩なんて呼ばれたくない。名前でいい」

 「先生みたいな年の人──」

 「知らずに私の教えを受けてたとはね。学院でも目立つ方だと思うんだけど、私。嫌われ者だし」

 「す、すいません。嫌われ者なんですか、セレンさん」

 「ただのやっかみ。この年でマギランク1だから、嫉妬はよく買う。あと、たまに人の心がないとか言われたりもする」

 「は、はは……」

 自分より若い者が上の立場にいるという気まずさは、ウォルターにも理解できる。後者についても、心当たりがあるような気がした。

 「あなたは私に、嫉妬しないの? 小娘がランク1とか生意気、みたいに思わない?」

 「羨ましいとは思いますけど、だからといって攻撃的にはなれませんよ。ただ尊敬です。貴重なお時間で俺に魔法を教えて頂き、本当にありがとうございました」

 「……皆がみんな、あなたみたいだったら楽だけどね」

 大きな背を折り曲げて、綺麗な礼をするウォルターを前に、セレンは独り言つ。

 「さっき、”この年で”なんて言ってましたけど、セレンさんはおいくつなんですか? 俺からすれば皆さん、若い人ばかりです」

 「十四だけど、あなたは?」

 「……二十四です。俺ってやっぱり、ジジイなんですかね」

 「そうだね」

 ウォルターは肩を落とす。くすり、とセレンは笑みを浮かべた。

 事実だが、それはそれとして、言われれば傷つくこともある。尤も、自分の傷はそのうち忘れてしまえるのが、この男の長所だ。

 隣を歩く少女は、若い。幼いと言う方が適切だろうか。最盛期を終えようとしている男と比べ、花を咲かせたばかりといった瑞々しさを持つ。だからこそ、この二人が並ぶと、外見的な差が著しく目立った。

 「私にお礼してよ。マギに入れてあげたでしょ」

 「はい、もちろんです。俺にできることなら、何でも」

 「また、新薬の実験に付き合って。人間の検体が欲しかったんだ、好き勝手弄れるやつ」

 「分かりました。それで恩義を返せるのなら、お好きにしてください」

 「やった」

 子供らしい悪戯な笑顔は、とても、この学院で最も優秀な魔法使いのものだとは思えない。言葉の中身は、まるで子供らしからぬものなのだが。

 それは実力であったり家柄であったり、身長はもちろん、年の差すらも激しい二人は、月と亀ほどに住む世界が隔絶している。その、本来決して出会うことのない二人を繋いだのは、ただ強きを求める学院という坩堝ならではの奇縁か。

 空は青く澄んでいる。伝書鳩が飛んでいた。

 マギになったことを、両親に報告する手紙を書こう。

 ウォルターは軽い足取りで、セレンと、花の咲いた中庭を歩く。

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ウルラアーラの魔法使い 白ノ光 @ShironoHikari

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