無知の考察

春木みすず

無知の考察


 どこか懐かしい、人の声がする。


 でも、僕の知らない人だ。



「○○~、○○です。扉にご注意ください」


 車内アナウンスではっと目が覚める。今電車がいるのは降りる駅の一つ前の駅であることを寝ぼけ眼で認識し、あわてて荷物をまとめる。


「次は、××~、××です。お出口は左側です」


 まだ寝ていたいと訴える体をなんとかひきずり電車から降りる。とたんにむわっとした空気が体を包む。すっかり涼しくなった東京とは大違い。さすが西日本である。


 2つしか改札のないこぢんまりとした駅を抜けると、いた。いつもの場所に路駐したホンダの、ええと、シビック。叔父さんの車だ。


 叔父さんが僕に気づき、車の中から手を振ってきたので軽く会釈をし、車に乗り込む。


「暑い中おつかれ。ほんと久しぶりだなあ、元気?」

「ありがとうございます。……元気です」


 叔父さんの家には数年に一度遊びに行っている。この前行ったのは、確か高校に上がる直前の春休みだった。

 叔父さんは母方の叔父で、母の弟にあたる。自動車部品関係の大企業に勤めているのだが、趣味の写真にも時間と金を惜しまない、非常にパワフルな人である。


 車が発進し、叔父さんは路駐している車の列の間からするっとうまいこと抜け出した。


「どうよ、大学は。楽しいだろ?」

「……ええ、まあ……」


 僕は口ごもった。

 正直に言えば楽しいとは言えなかったから。

 叔父さんはちらりと僕の様子を伺い、


「んー……、まあ詳しくはあとで訊くわ」


 と言って口を閉じ、アクセルを踏み込んだ。


 叔父さんの家は高台にある大きな一軒家で、見晴らしは最高だ。

 車は長い坂をぐんぐんと登り、あっという間に家に到着した。


「叔父さん家、すごいよね」

「たっちゃんは毎回そう言うなあ」


 叔父さん含め、家族親戚一同は僕のことをたっちゃんと呼ぶ。竜也だからたっちゃん。安易なネーミングである。

 僕は毎回泊まる二階の部屋に荷物を運び込み、一階に降りていった。


 すると、視界の端に何か動くものがあった。


「ん?うわっ!!」


 僕がそれをちゃんと認識するより前に、それは僕の肩に突進し、僕の肩と頭をトントーン!と跳ねた。

 僕がそれを目で追うと、それは突然横から伸びてきた女性の手によってあっさり捕獲された。


「こらポーラったら、いたずらっ子なんだから」

「めぐみ!!」

「たっちゃん、おひさ~」


 手の主は二つ下の従姉妹、めぐみだった。

 現在高二、部活は新体操。万年文化部で生きてきた僕には検討もつかないハードな日々を送っている。

 僕はめぐみの手におさまった猫をまじまじと見つめた。


「なにその猫。飼い始めたの?」

「ううん、ノラネコ。一回ミルクあげたから味しめちゃって」

「そうなんだ」

「名前はポーラって言うんだよ」

「ポーラかー」


 確かポーラ美術館というのがどこかにあったような気がする。神奈川だったか。洒落た名前だ。

 しかしこの猫、見た目は菊の関とかそういう名前の方が似合いそうな貫禄のある三毛猫である。なかなかに図々しそう。それが第一印象だった。


「なんでポーラなの?」

「知らない。この辺でそう呼ばれてるの」

「へーえ」

「それよりたっちゃん、どう?東京は」


 めぐみは興味津々といった様子だった。僕は思わず目をそらして言った。


「……まあ楽しいかな。遊ぶ所には事欠かないね」

「めぐみこそ、どうなんだよ。叔父さん言ってたぞ、数学の成績ヤバいって」

「あっちゃ~知られてたか~」

「教えるように言われてるんだけど」

「マジ!?」

「今日は着いたばかりだからまだやらないけど、明日の夜からは覚悟しとけよ」

「最っ悪ーーー」

「そこまで嫌い?」

「うー、ん……」


 めぐみは珍しくちょっと黙りこんでしかめ面をしたが、すぐに顔をあげて僕をまっすぐ見た。


「たっちゃん、明日の夜ちょっと相談にのってくれない?悩んでることがあってさー。」

「叔父さんとか叔母さんじゃダメなの?」

「ダメ!!たっちゃんがいいの」

「わかったよ。今日でもいいけど?」


 めぐみはヒラヒラと手を振った。


「どうせ今夜はお父さん、飲むでしょ。今日はたっちゃんはお父さんに絡まれといて」

「あー」

「お父さんもお母さんもたっちゃんが来るの、わりと楽しみにしてたよ。もちろん、私もね」


 そう言ってめぐみは僕に向けてにっと笑った。めぐみの笑顔は昔と変わらず、太陽のようでかわいらしかった。


「ありがとう」


 僕は少し照れながら言った。




 ――――――――――




 めぐみが言った通り、夕食の後叔父さんは飲み始めた。


「だーかーら、一年だったらそんなもんだって」

「はあ」


 僕は烏龍茶を飲みつつ、叔父さんに大学生活があまりうまくいっていないことについて相談していた。

 まあありがちな悩みであることは承知している。


 大学に入る前の想像と、実際の大学生活がかけ離れすぎている。

 簡単にまとめればそんな悩みだった。


「そんな理想通りいくわけないって、人生ってのは人相手なんだ。他のやつの人生も否応なしに関わってくるんだから、知ってる奴も知らない奴も」

「なるほどー」

「たっちゃん積極性ってもんが足りないんだよきっと」

「……そうかも」

「もとから内気だもんなあたっちゃんは。奥手そうだよなー」

「うるさいなーもう」

「よっしゃ。参考に俺の大学時代の話、聞く?」

「いいの?ぜひ」


 叔父さんが大学時代けっこうなプレイボーイだったことは親戚の誰もが知る事実だ。しかし今までは、叔父さんは大学時代に付き合った女性に関しては、僕が訊いても「たっちゃんにはまだ早いよ」とはぐらかしていた。なので僕は今回それを聞けることは、僕が大人になったことが認められたようで嬉しかった。


 それからは叔父さんの色々な武勇伝を聞かせてもらった。叔父さんの語りがうまいのもあって、どれもどきどきするような刺激的な話だった。下手なドラマよりは数倍面白い。というかまず色んなインカレサークルに入りまくってたということが凄い。

 叔父さんはもとから超社交的で人たらしである。昔母から聞いた話だが、叔父さんは自分がどれだけ信頼されているかを量るためだけに友人たちから少額ずつ借金したりもしてたらしい。それはよくないと思うが…。色々ぶっとんでる人だ。


 そんなこんなで夜は更け、叔父さんはウイスキーのせいでだんだんと赤くなっていった。

 叔父さんが何個目かの話を終え、僕がそろそろ叔父さんのグラスに水をついであげないとなと思った時、


 叔父さんの椅子がぐらりとかしいだ。


 ガッターン!!


「わあ!!叔父さん大丈夫ですか」

「だ、大丈夫大丈夫」


 ひっぱろうと叔父さんの赤くなった手をとると、かなり温かった。


「コラー!!!!」


 突然キッチンから怒声が聞こえ、僕と叔父さんはギクリとした。


 叔母さんだ。


 叔父さんは慌てて椅子を戻し、僕はテーブルの上をできるだけ片付いた状態に見えるようなんとかする。

 叔母さんは怒ると怖い。いや、怖いなんてもんじゃない。この世の何よりも恐ろしい。

 恐らく叔母さんが本気で怒ったら物理法則くらいは無視できる気がするし、50%くらいの怒りですら地球を破壊できるかもしれない。


 叔父さんによれば叔母さんが最も怒ったのは叔父さんが浮気した時で、その時は「ブラックホールを片手で握り潰せそうな顔してた」らしい。どんな顔なのかまるで伝わってこないが、とにかくそんな顔を拝むのはごめんである。


 僕らは戦々恐々とキッチンを伺ったが、叔母さんは一声怒鳴ったら満足したらしく、それ以上は何も飛んでくることはなかった。どうやら叔母さんはちょうどお茶を飲みに二階の寝室から降りて来たらしい。そしたら叔父さんが飲み過ぎてひっくり返っていたので、一喝したのだろう。


「危なかったね」


 叔父さんをたしなめる。もし叔父さんが大学時代の女の武勇伝を語っている時に叔母さんが来たりしていたら、事態はより悪化していただろう……何せ叔父さんと叔母さんが出会ったのは大学生の頃なのだから。


「あ、ああ」


 叔父さんは酔いが覚めた顔でばつが悪そうにしていた。


「今日はもうお開きにするか」

「うん」


 僕は素直に頷いた。


 歯磨きをして布団にくるまると、今日一日のことが思い返された。野良猫ポーラ、めぐみの悩み事、叔父さんの武勇伝。

 不思議と、僕の悩んでいた事はすこし薄くなったような気がする。


 野焼きの匂いの混じる夜風に吹かれながら、僕は眠りについた。




 ――――――――――




「おっはよー!!」


 目を開けると、部屋の入り口からめぐみの元気いっぱいな声が聞こえた。僕は眠いながらもなんとか返事をする。


「おは……よ。今日も部活?」

「その通り!たっちゃんももう起きれば?」

「んん~」

「あっはは!たっちゃん寝起き悪いよね~。まあお父さんもまだグースカ寝てるし、ゆっくりしてていいよ」


 昨日飲んでたからだろうな。

 それなりに目が覚めてきた僕は二度寝をあきらめ、着替えて一階に降りた。途中叔父さんと叔母さんの部屋をちらりと覗いたが、叔父さんは「熟睡!」という感じで眠っていたので起こすのはやめておいた。今日仕事休みらしいし。


「いただきます」


 朝ごはんは洋風にトーストと目玉焼きだった。絵のようにキレイに焼かれた目玉焼きに叔母さんの几帳面さが表れている。めぐみはあれよあれよという間に朝食を食べ終え、いってきまーす!!と嵐のように去っていった。


「まったく慌ただしいわね、いってらっしゃーい」


 叔母さんは呆れつつめぐみを見送り、僕の方を振り返った。


「たっちゃんは、今日はどうするの?」

「あ……えっと。今日は午前は散歩にでも行こうかなと」


 めぐみは午後まで部活だから、勉強を見るのは夜にする予定だった。なので今日は夜まで暇だ。


「どの辺まで行くの?」

「……うーん、近くの神社らへんまで、ですかね」

「わかったわ。昼食までには戻ってね」

「はい」


 朝食を食べ終えると、僕は身支度を整えて外に出た。

 今日は見事な秋晴れだった。ずいぶんと薄くなったスカイブルーが、目にまぶしい。


 家のすぐ前の下り坂をふもとまで降りきって、しばらく住宅街の中を歩く。久しぶりの街は一見昔と変わらないように見えたが、よく見ると新しい家が経っていたり、昔ながらの書店がなくなっていたりして、だんだんと僕の知らない街に変わっていっていた。


 そこからまた階段を登って、低い山の中腹にある神社に向かう。

 ようやくたどり着き、鳥居をくぐると竹林に囲まれた拝殿が見えた。

 手水舎の小さな水の音と、雀や虫の声といった自然の音だけがする、静かな場所だ。


 僕はここが好きだ。僕の他にはあまり来る人もいないけれど。

 心地よい静寂が、空気をきれいに澄ませている。


 参拝の時、ここだけは何があっても変わりませんように、とお願いしておいた。

 お参りをした後、僕は神社の少し先にある、街を一望できる場所まで行くことにした。まだお昼まで時間はだいぶんありそうだったし、僕の体力もまだ余裕は十分ある。


 神社までの道よりは少々急な坂をよいしょと登り、山のてっぺんを目指す。今日は気温が昨日ほど高くなくて過ごしやすいけど、こうやって登っていると汗が出るのを感じた。


 登りきると、視界がさっと開けた。明るい陽に照らされて、街はとても美しく見えた。叔父さんがよくここで写真を撮るのもわかる。

 僕は小さな広場にぽつんと設けられたベンチに腰をおろし、持ってきた水筒のお茶を飲んでしばし休憩をとった。


 僕はめぐみのことを考えた。めぐみは前会ったときは……僕が高一になる直前ってことは、めぐみは中二になる直前か。

 めぐみは前よりだいぶ大人びて見えた。前は叔父さんと叔母さんのことも、パパとママと呼んでいたのではなかっただろうか。


 前会ったときのめぐみを思い出す。あの頃は反抗期真っ盛りで、僕の前でも叔父さんと叔母さんにつっかかってばかりいた記憶がある。叔母さんも今よりだいぶピリピリしていた。


 僕の知らないうちに、めぐみはすっかり成長していたのだ。まあ中二から高二ってのはすごく変化する時期だから、当たり前だが。


 そんなめぐみが僕にしか話せないこと。いったい何だろう。


 もう叔父さんと叔母さんに反抗している訳ではないから、大体のことなら二人に話すだろう。何か、めぐみに大変なことが起きているのか。それとも――


「やっ」


 背後の声に振り向くとラフな格好の叔父さんが木々の間からのっそりと出てきていた。


「あれっ、叔父さんだ。おはよ。起きたんだね」

「ああ。あー頭痛い」


 叔父さんは眉間をもみながら僕の隣に座った。

 叔父さんはいつになく気だるげで、普段の飄々とした感じを失って見えた。叔父さんって昔から二日酔いの時こんなだったっけ?よく思い出せない。


「涼しくていいなあ、ここ」

「そうだね」

「っあ゛ー……」


 叔父さんはベンチの背もたれに寄りかかって気持ち良さげに伸びをした。

 僕らはしばらく言葉を交わさないまま風に吹かれ、秋の空気を味わっていた。


 ゆっくり、ゆっくりと、眠くなるような心地よい時間が流れる。


「午後さ、俺の撮った写真でも見るか?」

「うん」


 それから、僕と叔父さんは街をぶらぶらと歩いたりして時間を潰し、昼前に叔父さん家に戻って昼食をとった。

 熱いお茶を飲んで一服した後、さっそく叔父さんの写真を見せてもらうことにした。




 ________




 階段を上がり、2階の叔父さんの部屋に入る。叔父さんの部屋の壁にはところ狭しと写真が貼られている。その多くは人が写ったものだ。


 叔父さんは風景を撮るのも好きだが、一番好きなのは人を撮ることだと、前に言っていた。


「今年はどれくらい撮ったの?」

「今年はまあまあかな。去年の方がいいのが撮れてるから、見てみてくれ」


 叔父さんは部屋の隅の段ボールから2017と書かれたA4サイズのアルバムを取り出してきた。

 叔父さんの写真は好きだ。いろんな人の表情が、わざとらしくなく上手に切り取られている。確かにその人は、その時そこに生きていたのだという、証を残すように。


 時たま叔父さんに撮ったときのことを聞いたりしながら、どんどんと写真を見ていっていると、ページの間に一枚の写真が挟まっていた。

 アルバムにきちんとしまわれていないのが気になって、僕はその写真を手に取って眺めた。


 かなり昔の白黒写真だった。人でごった返した駅の写真で、駅には大分昔の型の電車が停まっている。僕の目はその中心あたりに写っている人に吸い寄せられた。

 うつむき気味に電車に乗り込もうとしている、30代くらいの男性。

 どことなく、めぐみに似ている。


「これって……?」


 叔父さんに問いかけると、叔父さんは読んでいた雑誌を置いてこっちにやってきた。


「どれどれ?」


 僕の持っている写真を見て、叔父さんの表情が少し変わった。


「……ああ、これか。お前のおじいちゃんだよ」

「え?」


 僕の母方の祖父は叔父さんや母がまだ幼い頃に亡くなったはずだ。列車事故……だったような。

 でも、母から祖父についての詳しい話を聞いた覚えはほとんどない。


「写真、あったんだ」

「そうか、言ってなかったっけ」

「この写真が、俺が写真撮るようになったきっかけなんだ」

「このとき、ちょうど誕生日に親父にカメラ買ってもらったばっかりでさ」

「嬉しくって撮りまくってた。それで、」

「出稼ぎに大阪に戻っていく親父のことも撮った。それが、この写真。まさかそれが親父の最後の写真になるなんてなあ」

「え」

「死んだんだ、この写真撮ったすぐ後に。この電車が、事故にあった電車」

「……そうなんだ」


 僕は言葉を失ってその写真を見つめた。


「踏切の中にトラックがいて衝突した。電車の下に引きずり込まれたトラックが電車のブレーキを壊して、暴走した電車は最終的に沢に落っこちた。……連絡来たときのこと、今でも覚えてるよ」


 叔父さんはぼそりと言った。


 叔父さんは遠い目をしていて、その表情には昔の傷の名残のような、そんなものが垣間見えた。

 僕だって、この古い写真がごく最近のアルバムに挟まっていた意味がわからない程馬鹿じゃない。


 まだ小さい頃の父の死。


 それは確かに叔父さんや、母の人生に大きな影を落としたにちがいない。

 僕はずいぶん遠いことのように思っていた祖父の死が、急にリアルに感じられた。

 突然家族を襲った、どうしようもない悲しみ、怒り。絶望。

 叔父さんは、母は、そういったものを経験して生きてきたんだ。


 そして、僕やめぐみが産まれた。


 僕は、そういうことを今までちゃんと考えたことがなかったことに気づいた。祖父は僕が産まれた時にはもういなかったんだ、という認識しかなかった。母に祖父について聞こうともあまり思わなかった。

 その事実がどれほど重いことだったかということに、思いを馳せたことがなかった。


「昔のことさ」


 叔父さんはそう言って僕に笑いかけたが、その目はそう感じているようには見えなかった。

 僕は写真をそっともとの場所に挟み、トイレに行ってくると言って、席を立った。




 ________




「次はこれ。解けそう?」

「……ん……うん……たぶん」

「えーと、この二つの式を、」

「後に三角形の面積の問題もついてるし、まずグラフ書いてみようか。書ける?」

「あっそうか……うーんと、平方完成?」

「そうそう」

「どうやるんだっけ?」

「さっきやったじゃん」

「うっ」

「というか平方完成なんてとっくの昔に習ってるはずだろー」

「うく゛っ」


 僕の精神攻撃によりダメージを負っためぐみはパタリと机に倒れ伏した。

 夜になって、僕は言われた通りめぐみに数学を教えていた。


「確かに数学ヤバいな、めぐみ」

「あーもー!!数学ってなんでこの世にあるんだろ……数字じゃ私は計りきれないぜ!!」

「受験への危機感ってもんがないのかめぐみは」

「そのことなんだけどっ」


 めぐみはドスンとテーブルを叩いて話を中断した。


「相談があるって言ったじゃん、それね、実は進路についてでさ」

「あー、なるほど」


 めぐみの悩みは進路についてだったらしい。確かにもう決める時期になってきているし、悩むこともあるだろう。


「おっけー、聞くよ」

「ありがとう。それでね」

「私ね、実はヨガインストラクターになりたいんだ」

「へ?」

「だから、ヨガインストラクター」

「そうなの?それって、ヨガの先生みたいな?」

「そうそう。私もともとヨガ好きなんだ。新体操やってるから、体柔らかいし。ほら、家からみて東の方にヨガ教室あるじゃん、あそこに通ってるんだよ」

「え、知らなかった」


 めぐみがヨガに興味があったとは。しかも職業にしたいほど好きだとは全然知らなかった。

 ちょっと予想の斜め上をいく展開だ。


「ヨガインストラクターって、どうやってなるの?資格とか?」

「んー国家資格はないけど、ヨガスクールでインストラクター養成コースを受けて、民間の資格取ってなるのが普通みたい。私は今通ってるヨガ教室で養成コース受けようって思ってて、もうそこの先生には今までいろいろ相談してる」

「はー」


 それってつまり。


「専門学校に行くみたいなもん?叔父さんと叔母さんは、知ってるの?」


 めぐみはハア、とため息をついた。


「知ってたら相談しないって。ほら、うち両親二人とも大卒じゃん。大学は行けって、ずーっと言われてるし」

「言ったら絶対反対される~」

「ふーむ」

「だから、どうしようって思ってー」


 叔父さんと叔母さん、そんなに学歴至上主義みたいな人間だっけ?僕のイメージではもっと柔軟な人たちだと思うのだが。

 でもまあ、娘から見たのと甥から見たのじゃだいぶ違うのかもしれない。


「めぐみはいつからヨガインストラクターになりたいと思うようになったの?」

「……去年の今くらいかな」

「絶対なりたいの?」


 めぐみは肯定的な感じに唸った。

 僕はちょっと考え、慎重に言葉を選びながら言った。


「……そうだなあ。僕はヨガインストラクターについてはなんもわからないから、大したこと言えないけど。

 たぶんヨガスクールに行く場合でもお金は必要になるよね。それを出すのは叔父さん叔母さんになるわけだし、やっぱり二人には早めに言った方がいいよ」

 

 めぐみの澄んだ瞳を、まっすぐに見る。


「もう、めぐみだって子供じゃないだろ。

 めぐみにちゃんとした決意があるなら、その自分の意思をしっかり話せば、叔父さんたちも理解してくれるんじゃないかな。ただ将来の選択肢を狭めないためにも、勉強はしといた方がいい。今は絶対なりたいとしても、また時間が経ったら他になりたいものができないとも限らないから」


 めぐみは僕の言葉を聴いて、なぜか目を丸くした。


 「あと、ヨガインストラクターって将来性とかどうなんだろう。求人多そうかとか、給料いくらくらいなのかとか、何歳まで働けるのかとか、そのへんもちゃんと考えた方がいいんじゃない?あ、もうその先生に聞いてるならいいけど」


 しばらくして、めぐみはいきなり僕に抱きついてきた。


「うわ!?」

「さすがたっちゃん!!しっかりしてるー!!」

「めちゃくちゃマジレスしてくれるじゃーん」

「別に普通のこと言っただけだけど」

「いやーほんとたっちゃんはたっちゃんだわー、相談して良かった!!こういうのを求めてたんだよー」

「そう?」


 めぐみの方がしっかりしてると思うけどな、と僕は思った。


 僕が高二の頃なんて、なんとなく受験勉強はしておいて、大学には行こうと思ってちょうどよさそうな志望校を決め、とりあえず目指していた、というような曖昧な進路だった。

 今だって将来については曖昧だ。大学一年だしまだ考えなくていいやと思って、たぶん就職する、くらいのことしか思っていない。よく考えるとめぐみに何も偉そうに言えたもんじゃない。


 それに比べ、めぐみは僕よりずっと強いと思う。


 僕にめぐみほどの勇気があったら、意志があったら、

 行動していたら、

 何か違ったのだろうか。


(___なんて)


 過去のたらればを考えることほど無駄なことはない。

 たとえ一万回の機会が与えられたって、僕は同じ道を歩んできただろう。

「あのころの僕」は今の僕とは違う。もちろん今のめぐみとだって違う。

 あのころだから知らなかったこと、あのころだから知っていたこと、どちらもあったんだ。

 僕が変えることのできるのは過去でも未来でもない。


 僕は何がしたいんだろう。

 僕は、


「僕はどうしたらいいんだろう」


 思わず言葉が口をついて出た。

 めぐみはちょっと目を丸くして、少し間を置いて口を開いた。


「たっちゃんは私のこと馬鹿だと思う?」

「いや、すごいなって思うよ」

「私から見たら、たっちゃんの方がすごいと思うよ。昔っから真面目で頭よくて、親の手伝いもして、大学合格して、今だって奨学金もらってるんでしょ?めちゃくちゃ親孝行じゃん、たっちゃんは」

「だからね、そんなめちゃくちゃ親孝行なたっちゃんが、少しくらい悩んだり立ち止まったりしても、誰も文句言う人なんかいないんだよ。というか、いたらぶっ飛ばしてあげるよ」


 そう言ってめぐみはぐっと親指を上に突き出した。僕の口から、自然と笑い声が零れた。


「…あはは!」


 めぐみの言葉のおかげで、心に凝り固まっていたものが融けていったのを感じた。

 太陽に照らされたように。

 めぐみは本当に、太陽の恵みのようだ。


「ありがとう、めぐみ」

「こちらこそ、聞いてくれてありがとうね!」

「そうだね、たっちゃんの言う通りいろいろ調べて、もう一回整理してみるよ。……私はね、私にしかできないことがきっとあると思ってるから、頑張るの」


 めぐみは強く、僕の手を握った。


「たっちゃんにも、きっとあるよ。たっちゃんじゃないとできないことが」

「あるかなあ」

「あるよ!!」


 めぐみが言うなら、そうなのかもな。



 ________




 めぐみが寝室に戻っていくのを見送り、僕も早いけどそろそろ寝るかと教科書等を片付けようとした時、


「にゃあ」


 という声が、部屋に響いた。

 声がした部屋の隅を見やると、はたしてそこにいたのはポーラだった。


「ポーラ」


 また小さくにゃあ、と返事がかえった。


「お前どこから入って来たんだ?」


 一階の戸締まりは夕食後にすませたはずだ。

 ポーラは何かを訴えるかのように鳴き、かりかりと居間の窓を引っ掻いていた。


「もしかして、お前、出れなくなっちゃったのか」


 考えられない話ではない。夕食前か夕食中あたりに家に入ってきたポーラは、僕らが窓を閉めて鍵をかけてしまったことに気づかなかった。そして僕らはポーラに気づかないままだったのだ。

 そして夜更けに出ようとしてようやく事態に気づき、困ったポーラは僕に助けを求めてきたのだろう。

 ここで寝ればいいのにと思うが、猫にも猫なりに事情があるのかもしれない。


「わかった、開けてやるよ」


 僕は鍵を開けて窓を少し開けた。このくらい開ければポーラは余裕で通れるだろう。

 しかし、ポーラはすぐには外に出なかった。


「出ないの?」


 僕はポーラに聞いた。


「にゃあ」


 するとポーラは僕の顔を見てもう一度訴えるように鳴き、

 するりと窓をすり抜け、

 少し進むと立ち止まって僕を振り返った。

 そしてくいっと顎で進行方向を指して、また


「にゃあ」


 と鳴いた。

 僕はあっけにとられた。今のしぐさは妙に人間じみていた。そう、まるでポーラが


「ついてこい」


 と言ったように見えたのだ。


 ついてこい?ポーラが?どこに?


 頭のなかで「?」が渦巻く。

 ポーラは進むそぶりを見せては振り返って鳴くことを何回か繰り返したが、最終的に窓のすぐそばにちょこんと座り、僕をじっと見つめた。

 明らかに僕のアクションを待っている。


 僕は混乱した。ポーラは何考えてるんだ?いやそれ以前に、猫だし。


 でも、猫に導かれてどこかに行く、なんて随分メルヘンチックで面白い。猫の恩返しみたいだ。ちょっとついていくのも悪くないかも、って何考えてるんだ僕は。ここは現実だ、常識的に考えて夜に外に出るなんて危ないし、猫が異世界に連れていってくれるなんてありえる訳がない。


「にゃーーー」


 ポーラはしびれを切らしたように間延びした鳴き声を出した。早くしろという意味らしい。

 ポーラが真剣に僕の目を見つめる。

 僕もなんとなく見返す。


 ポーラはゆっくりとまばたきをした。その目には何か計り知れないものが見えているようだった。

 ポーラは、僕に伝えようとしている。僕がついていくことが自然なことであると。

 そうでなければならない、そうしないと大変なことになるぞと。


「僕が行かないと、いけないのか?」

「にゃあ」


 僕はため息をついて首を振った。どうやら観念するしかないらしい。

 こんな夜更けに野良猫について外に出るなんて本当に意味がわからない。馬鹿げている。


 でも、僕はポーラについていかなければならないらしい。

 理屈なんて何もないし、説明できないけど、

 今、ポーラについていかないとなんだか後悔するような予感がする。

 ポーラがこれからしようとしていることが、なにかしら重要な意味を持つような。

 そんな予感が。


「わかった。ちょっと待って。準備してくる」


 僕は部屋から上着とスマホを取り、居間の鍵入れから叔父さん家の予備の鍵をそっとくすねた。

 本当なら懐中電灯でも欲しいところだが、あいにく懐中電灯のありかを把握するほどには叔父さん家に詳しくなかったので、スマホの明りでなんとかすることにした。


 居間の電気を消し、すっかり闇に沈んだ表に出ると、既にポーラは玄関に先回りして僕を待ち構えていた。


「なぅ」


 ポーラは短く鳴くと、スタスタと迷いなく歩き出した。

 僕はスマホのライトをオンにしてその後を追う。

 星は見えなかった。




 ________




 歩き始めてからどれだけたったろう。まだ5分くらいなのかもしれないし、もう1時間もたったかもしれない。


 僕は心臓が早鐘を打つのを耐えながら、じりじりと進んでいた。

 冷や汗が、ぽたり、と音をたてそうに落ちた。


 大学では遅くに出歩いたりすることもしょっちゅうだったから、ある程度夜歩きには慣れているはずだった。


 でもこの闇は何かが違う。


 視線を感じるのだ。


 最初は気のせいかと思ったが、一歩、一歩、叔父さん家から離れるたびに、その視線が確かに強くなっている。

 が街灯の裏に、自動販売機の明かりの陰にへばりついて僕を、僕らを見ている。そんな感じだ。


 もしポーラと離れてしまったらとって喰われてしまいそうな。


 どう考えても普通じゃない。どうなってるんだ?


 しかし問いかけようにもポーラは一心不乱に進んでいるし、仮に問えたとしてもポーラから確たる答えは得られないだろう。

 よく見るとポーラも微かに震えているようだった。

 僕はとりあえず進む以外の選択肢を見いだせず、再びなんとか足を前に出した。


 どうしてこんな意味のわからない恐怖を味わうはめになるんだろう?

 僕はさすがに参ってきて、スマホの画面に目を落とした。

 ここはちゃんとした、他人が感じる現実と同じ現実であると確かめて安心したかったのだ。


 そうして僕が一瞬ポーラから目を離したそのとき、

 ポーラの金切り声に似た悲鳴が聞こえた。


 僕が仰天してポーラに視線を戻すと、そこには何も見えなかった。


 闇。闇。闇。


 一瞬前までいたポーラがいないどころか、街灯の青白い光も、自動販売機の電気も、うっすら見えていた街並みも、何もなくなっていた。


「え、ポーラ!?」


 スマホの明かりも消えていた。充電はまだあるはずなのに。


 どうして?


 どうして?


 頭がパニックを起こす。どうしようもない恐怖が喉元に込み上げた。


「う、う」


 僕は頭を抱えしゃがみこんだ。

 こんな状況どうしろっていうんだ?

 目を閉じて心を必死に落ち着けようとする。

 もはや目を開けても閉じても変わりはない。

 ただ自分の心音だけを聞く。


 しばらくそうしていると、何か音が聞こえた。


 笛?


 目を開けると、少し遠くに線路が見えた。


 もっとよく目をこらすと、その先に駅があるのも分かった。そこには大勢の人がいるようで、喧騒がここまで聞こえてきた。


 僕はふらふらと立ちあがり、とりつかれたようにそちらに歩き出した。


 駅には電車が止まっていて、大勢の人が今まさに乗り込んでいるところだった。

 みんな口々に別れを告げ、気をつけて、とか今度いつ戻る、とかそんなことを言っているようだった。


 さらに数歩進んだところで、僕は知っている顔を見つけた。

 一瞬誰だったか思い出せなかったが、そうだ、あれは今日の午後に見た顔だ。


 あの、写真の中の__


 僕の足がもつれて、勝手に走り出した。

 彼はちょうど家族に別れを告げ、電車に乗り込む人の波に流されていくところだった。その動きが、まるでスローモーションのように見える。


 そして、その瞬間が訪れた。

 構図がぴたりと、叔父さんのあの写真に重なる。

 空気も音も、連続しているのに、その瞬間をはっきりと感じる。


 その瞬間が


 動きだす


「待って!!」


 僕はついに叫んだ。


 すると、彼は僕の声が聞こえたかのように振り向き、笑った。


 そして、僕が何か言う間もなく、彼は次の瞬間にはさっと電車に乗り込んでしまった。

 警笛が鋭く響き、電車は重々しく動き始めた。


「待って!!」




 ________




「……待っ、」

「おっと、たっちゃん起きた?ダメだぞこんな所で寝たら。風邪ひくよ」

「え、」


 目の前には毛布を持った叔父さんが立っていた。


「ちゃんと布団で寝な。歯磨いたか?」

「あれっ、えっ?」


 あたりを見回すと、そこは叔父さん家の居間のソファの上に違いなかった。


「何、怖い夢でも見たのたっちゃん。涙出てるよ」

「そんな、えっと、そうだ、鍵は!?」


 確かに入れてあったはずの予備の鍵を探ろうとポケットに手を突っ込むが、ない。

 あわてて鍵入れを確認すると、予備の鍵はそこに入っていた。

 次に部屋を確認すると、スマホは自分の部屋にあったし、上着もきちんとハンガーにかかっていた。


 状況証拠がさっきの出来事は夢であると主張している。

 だが、僕はどうしても納得いかなかった。

 僕は確かに、現実で、ポーラについていったはずなのだ。

 そうだ、ポーラは?


「ポーラ?ああそういえばさっき見かけたな」

「ほんと!?」


 叔父さんは様子のおかしい僕に少々途方に暮れつつ答えた。


「たっちゃん、大丈夫?さっき普通に窓の外にいてこっち見てたぞ」

「良かった、無事だったんだ」

「……いったい夢でたっちゃんに何があったんだ……とりあえず俺は眠いからもう寝るよ」

「う、うん」

「たっちゃんの夢の大冒険の話は朝にでも聞かせてくれ」


 叔父さんは大あくびを一つして、二階に上がって行ってしまった。

 僕はさっきの出来事のせいでとても混乱していたが、なんとか歯を磨いて自分の部屋に戻った。


 僕はさっきの出来事をもう一度よく思い出した。

 めぐみが二階に行って、ポーラを見つけて、ポーラが不思議なそぶりをして、ポーラについて家を出て、視線を感じて、ポーラがいなくなって、真っ暗になって、目を開けたら線路があって、そこに祖父がいた。

 どの瞬間も、全部はっきりと覚えている。いったい、どこからが夢だったっていうんだ?

 冷静に考えると祖父がいたなんてことは現実ではありえないので、そこは夢だったのだろうか。少なくとも現実ではなかったのかもしれない。

 状況証拠からみると、最初から夢だったようだが__ポーラに催眠術でもかけられたのか?

 考えるうちになんだか自分のいる現実がよく分からなくなって怖くなってきた。

 僕は考えるのをやめ、さっきの出来事は超常現象ということにした。そうとしか言いようがない。


 次に僕は祖父のことを考えた。

 あれは祖父だった。今日の午後に一回写真を見ただけだが、見間違いなんかじゃない。


 僕にはわからなかった。彼はどうして僕に笑ったんだろう?

 彼の表情は、すべてを知っていた。

 これから死ぬことも、僕が孫であることも、全部全部分かっているよと、そういう笑みだった。


 彼はどういう感情で、笑ったんだろう?


 あきらめ?絶望?

 希望?


 そのどれもが違う気がする。


 きっと彼の抱いていた感情は僕の感じたことのないものだ。

 僕がそれを知るには、まだ、足りない。

 そう、人生経験のようなものが、足りないのだ。


 なぜか、それが無性に悔しい。

 あれが夢だとしても、僕は、あのときの彼の感情をどうしても知りたいと思った。

 できるならもう一度会いたい。会って聞いてみたい。


 けれど、それは決して叶わないだろう。

 僕は自分自身で、その答えにたどり着かなければならない。




 ________




「たっちゃん、おはよーーー!!」

「おはよう」

「あれ、起きてる。珍しいね」

「ん。眠れなくてさ」

「ありゃ」

「でも、眠くないから」

「なんかたっちゃん、顔つき変わったね。昨日までのたっちゃんと、なんか違う気がする」

「変わることにしたからね」

「なんだそりゃ」


 めぐみは笑った。


「でも、いいんじゃない?今日からたっちゃんは新竜也だ」

「新じゃがみたいに言うな」

「あはは」

「で、具体的にはどう変わるの?」

「うーん、まだ分からない。でも、変わりたいから、変わることにしたんだ」

「難しいこと言うねたっちゃん。なんか変わったなら変わったなりに行動しないと、変わったことにならないよ?」

「まあそれはおいおいということで。ほら今日だって、まず早起きしただろ?」

「それは寝てないだけでしょ」

「ははは、おっしゃる通りで」

「まあいいや。がんばってね、たっちゃん。」

「うん」


 めぐみが朝ごはんを食べに駆け下りていくのを見送る。唐突に滲んできた涙を、手の甲で擦った。



 まだ分からないことだらけの僕だけど。


 今日から、少しずつ、知ろうとすればいい。


 



 完




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無知の考察 春木みすず @harukimisuzu

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