昭和二十二年 冬
中学校長の邸宅の建設は順当に進んだ。空襲以前よりも規模が縮小したということもあって、十二月一日には竣工式が執り行われた。物資不足の中でも贅を凝らした和洋折衷の内装とぎらりと輝く屋根瓦は、私たちの生活の方向を指し示しているようだった。
かくして竣工式が執り行われ、私たちの仕事は落ち着いた。この一年でこの街は随分と復興した。もちろん、まだまだバラック小屋に住む人は居る。ただ、そうであったとしても、焼け野原の中でモダニズムが再び勃興したと言っても良いのかもしれない。そして、この勢いが今後も止まらないだろうことは、復興の仕事や生活の仕事、いや、すべての仕事に従事している者たちの汗と笑顔が指し示している。少なからず私はそう思っている。
十二月八日、私は玄関に座って、いつものように朝刊を読んでいた。地方新聞の一番のニュースは隣接市のT市で行われた市議会選挙であった。アメリカ式の民主主義は日本海側の地域にも波及し、浸透したようだった。ただ、私は当選者名簿の中に掲載されてはならない人名を見出した。
「U……」
「Uって誰のこと?」
便所に入ろうとしていたA子ちゃんは、私がどうしてその人の名前をぽつりと呟いたのか気になったらしく、立ち止まって紙面を覗き込むように尋ねてきた。
「連隊長の名前だ」
「連隊長。それがどうしたの?」
ジッと紙面を見つめて、何がニュースとなっているのか把握しているはずのA子ちゃんは微笑みながら疑問符を紡いだ。純真な垢な彼女の顔に浮かぶ微笑は、私を漠然とさせた。
「いや、ただ懐かしい名前だと思っただけだよ」
「そうなの。でも、すごいわねえ」
「何が?」
「元軍人さんで、いまは市議会議員なんでしょう? 人のためにそこまでできるなんて尊敬しちゃう」
言葉通りの意味を保証する純潔な微笑を浮かべながら、彼女は便所へ入った。便所から漂ってくる排泄物の異臭は、私が彼女に対して抱いた茫漠が失望であることを決定づけた。
頭の中で反響し続ける彼女の言葉に虚しさを抱きながら、公職追放の虚しさを覚えた。そして、それがいかなる意味であるかを、紙面上のUから獲得した。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
文章を読むことも億劫になっていたところに、朝の散歩に出かけていたお父さんが帰ってきた。ただ、継ぎ接ぎだらけの紺色のどてらのポッケに手を突っ込んで、白い息を吐くお父さんの顔色はひどく青白かった。
「どうしたんですか?」
「……S君が自殺した。さっき、S君の親方に会ってよ。今朝、材木置き場で首を括ってたんだと」
重い溜息の間もなく告げられたあどけないかの青年の自死は、私の中にあった失望を怒りへと変えた。しかし、この怒りをぶつける相手はどこにもおらず、私はただ唇をわなわなと震わせるだけだった。
「奴さん、ポン中毒だったんだと」
「……可哀そうに」
「ああ、本当に可哀そうだ。まだ二十一だってのに、これからだってのに、薬なんかに手を出さなきゃよ……」
途切れ途切れの言葉と皴が刻まれた頬を零れ落ちるお父さんの涙と、彼の言葉に同調する私自身の言葉に、私は白々しさを覚えた。そして、この白々しさは私の胸の中にある怒りを静め、その代わりに現実に対する諦観を与えた。
「本当に気の毒です」
抱いた諦観は、いままで私たちがしてきた仕事の一切合切を否定するように作用した。そして、瞼の裏に焼き付いて離れない蛆のたかった死体に臭いを与えた。漂ってくるはずのない鼻をつんざく人間の腐臭が、私の鼻腔をくすぐった。
おおよそ、彼もまた同じような幻影を日常に投影していたのだろう。私たちにしか分からない陰惨な光景を、活発で平穏な生活の中に投影して、懊悩していたのだろう。そして、ついにその呪縛から逃れることができず、彼は自らの首を吊ったのだろう。あどけない顔立ちのまま、ギラギラとした光が灯る眼のまま、何も知らないまま。
エゴイズムの間で 鍋谷葵 @dondon8989
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