昭和二十二年 夏

 邸宅の建築は順当に進んでいった。梅雨時期から始める工事だったが、幸運なことに地盤工事をしている間は晴れが続いた。そのおかげで工事に遅れは出なそうだった。それどころか途中で人夫が増え、棟梁の見込みから言えば工期は短くなりそうだった。ただ増えた人夫たちは皆、私と同じように瞼の裏に幻影を持っているようだった。誰もが笑えていたし、誰もがせかせかと働いていたが、誰もがその裏に影を持っていた。帝国の終わりと共に私たちに背負わされたくらい影を。

 雲一つない晴れ渡る空と延々と鳴き続ける蝉の喧しさ、そしてこれらを包括する熱気に頭がおかしくなりそうになる七月の下旬、私たちはいつものように現場に向かった。お見合いを相変わらずお父さんは勧めてきた。けれど、私はいつもの調子で断った。


「おまえも頑固だなあ」

「師匠の性格が移ったんですよ」

「馬鹿言え」


 ただ、お父さんは延々と断り続ける私に観念したのか、粗暴な言葉と共に溜息を吐いた。諦観を示すお父さんの姿は連隊長の姿を私の脳に連想させた。ことに、駅前広場に集まる白い服を着た傷痍軍人たちを見つめるお父さんの目がそれを連想させた。現場に行く度に感ずる腐臭とはまた違う異臭を漂わせる生活を奪われた彼らを見つめる彼の目と、私に向けた彼の態度とが私を苛立たせた。

 夏の日に晒され、木くずと煙草の臭いがむらむらと立ち込める中、私たちは懸命に作業をした。頭に汚れ切った鉢巻を巻いて、首が焼けるのもいとわず、鋸を引き、釘を打ち、その日できる仕事を全て終わらせるため、時間も忘れて作業に打ちこんだ。

 爛々とした白い陽光を地面に突き刺す太陽が天球の真上に来る頃、昼休憩が来た。普段と同じようにお父さんを連れ、飯場に向かおうとした。だが、お父さんはキリが良くないから、あとで行くと言い、小さな背中を丸めながら釘を打ち続けていた。仕方がなく独りで飯場に行き、麦飯のおにぎりと塩ゆでした馬鈴薯を貰い、暑苦しいバラック小屋の中でがつがつと昼飯にありついた。

 飯を食い終わり、生温い水を一気に飲み干した私は息苦しい場所から逃れるように、陽が降りしきる外へと出た。そうして私は付近に置いてあった材木に腰かけ、ゴールデンバットに火を点けた。紫煙はゆらゆらと空へ吸い込まれていった。

 頬杖を突きながら辺りを見回すと、幾分か涼し気な木陰で、麦飯を食べてる一人の青年を見つけた。薄汚れた袖なしの白いシャツを着た坊主頭の痩せた彼は、私のようであった。まだ昼休みも残って、暇を持て余していた私は一目見ただけで共感した彼の下に足を運んだ。


「隣、座って良いか?」


 彼の目を見るために、私は腰をかがめた。くっきりと目元に残る黒いくまが印象的な彼の異様な光が灯る目には、警戒心が宿っていた。


「どうぞ」

「どうも」


 ただ、彼はその警戒心にしたがって私を威嚇せず、隣に座ることを許可した。そのぶっきら棒な感じも私に似ているように思えた。そして、ひどくまずそうに麦飯を食べる姿もまた同じように見えた。


「それ、まずいか?」

「……ええ、美味しくはないです。田舎に帰ってくれば白米が食べられると思ってましたから、なおさら」


 恨めしい表情で食いかけの握り飯を見つめる木くずに汚れた彼の横顔は、ひどく幼く見えた。いや、幼く見えたというよりも土木現場に似合ってない顔つきと言った方が正しいのかもしれない。彼の顔には学生の、ことに高等学校に通っていたような秀才の面影があったのだ。


「というと、おまえさんも戦争に?」


 秀才は私の問いかけに言葉を返さず、唇を強く噛みしめた。


「おまえさんはどこに配属されたんだ?」

「……」

「俺は第十九師団所属だった。比島は、ルソンだ」


 私と秀才の間には暫時、沈黙が満ちた。


「……海軍航空隊の予備学生でした」

「そうか」

「すみません。失礼します」


 口早に言葉を紡いで沈黙を破った秀才は、小さな私の返事を聞くや否や立ち上がり、先ほどまでまずそうに眺めていた麦飯を口に放り込んで、そのまま自分の持ち場へと戻っていった。

 ぐんぐんと早足で遠ざかっていく彼の小さな背中は、彼が背負うにはあまりにも大きすぎる業を背負っているように見えた。ぐらぐらと揺れる陽炎の中に、いまにも倒れそうな青年の、あるいは少年のまま青年となってしまった一人の人間は消えていった。

 消え去った彼の後ろ姿の幻影を木材の匂いが立ち込める夏へ投影していると、冷たい何かが頬にあてがわれた。


「飯場に居りゃいいのに、どうしてまたこんな場所で」

「ちょっと一人になりたかったんです」

「そうかい。ほら、ラムネ」

「ありがとうございます」


 黒く汚れた手拭いで汗を拭くお父さんは、ラムネの入った瓶を私に渡すと、彼がさっきまで座っていた場所に腰を下ろした。私は貰ったラムネを早速飲んだ。清涼とした炭酸が喉を刺激し、鼻を通り過ぎていく感覚がひどく心地よかった。ただ、サッカリンだかズルチンの甘みはきつかった。

 

「ラムネなんて誰から貰ったんです?」

「さっき、飯場に中学校の校長先生が来て、俺たちに差し入れだってよ。俺はもう飲んじまった」


 黄ばんだ歯を見せながら笑うお父さんに、私は今朝覚えたあの苛立ちを見いだせなかった。私はそれに安堵し、ラムネに再び口をつけた。


「ああ、そう言えばまた新しいが入ってきたんだってよ」

「ありがたいことですね」

「いやいや、今度の新人はいままでの奴と違ってよくねえ。奴さん、働く気がないんだよ。元学生様には根性がねえよ。おまえみたいな根性がさ」


 お父さんは褐色のズボンのポケットからゴールデンバットとマッチを取り出した。そして、新人の意気地なさに覚える苛立ちを象徴するかのように力強くマッチを点け、咥えたそれに火を点けた。


「まあ、特攻隊から帰ってきたんだ。それくらいは許してやらねえとだな」

「特攻隊?」

「ああ、そいつの親方いわくな。学徒動員で海軍航空隊に配属されて、知覧の基地に行ったんだと」

「出撃したんですか?」

「ああ、したらしいぜ。ただ、途中で飛行機が壊れて、喜界島に不時着したんだと」


 他人行儀に煙草を吸いながら見知らぬ人を、いや、秀才のことを語るお父さんに、今朝に覚えていまさっき忘れたばかりの苛立ちを再び覚えた。


「それは良かったですね」

「いや、こう言っちゃ悪いが死んだ方がマシだったかもしれねえ」


 ふと、寂しげな声で紡がれた彼の言葉に、私は目を大きく開いた。そして、その玉のような目で彼を見つめた。ただ、彼の視界に私は入っていなかった。彼はぼんやりと、短くなっていく煙草の梢を見つめていた。


「特攻隊っていうだけで、実家のあるO群のK村の連中から戦犯だって村八分にされて、ここに来たんだからよ。高等学校に行ったときは村唯一の天才として褒めたたえられたのに、十死零生の仕事から帰ってきたら、親からも村人からも疎まれるなんて、そいつは死んだ方が幸せなのかもしれねえよ……」


 同情の色がにじむ淡々とした彼の言葉に、やはり私は苛立ちを覚えた。それは秀才を蔑ろにしたK村の人々だけではなく、このことを人に伝えた秀才の親方とそれを紡ぐ彼自身に対する苛立ちだった。

 陽炎のようにむらむらと湧き上がってくる苛立ちは、瞼の裏に蛆がたかった死体を投影させた。そして、その死体の黄ばんだ眼球は煙草を喫む私をジッと見つめていた。


  

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