昭和二十二年 梅雨

 六月に入るとお父さんはしきりにお見合いを私に勧めてきた。朝食の席で、現場の飯場で、帰りの道で、晩酌の席で、隣のK町の米屋の三女であるC子ちゃんとのお見合いはどうかとしつこく迫ってきた。ただ、瞼の裏に映る熱帯雨林と蛆の湧いた死体がそれを拒絶させ続けた。

 梅雨へ入り、未舗装の道路はぬかるんだ。その上、湿気に満ちた生暖かい空気が復興途上の街を包み込み、街全体を下水のような臭いで包んだ。ただそれは以前の、焼け野原になる以前の腐臭が立ち込めているだけだった。

 過去と現在とが連なっていることは、別段気にすることでもなかった。ただそのころの私にとって重要だったことは、梅雨に入る前に米屋の竣工式を迎えられたというだけだった。濡れて滑る材木を使って作業するのは恐ろしかった。

 大きな仕事が一つ終わった。だが、私たち大工に休みが与えられることはなかった。仕事は次から次へと舞い込んだ。

 今度の仕事は、中学校長の邸宅の再建だった。駅から見て北側にある中学校に隣接するように建てられた邸宅は、私たち下町出身からすれば豪奢そのものだった。戊辰の戦火から逃れた武家屋敷を流用した邸宅は、狭い家に住む私たちからすれば憧れそのものだった。もっとも、今度の戦火を逃れることは出来ず、武家屋敷は基礎だけを残すこととなった。

 しとしとと雨が降る中、私たちはゴム製の黒い合羽を着て、邸宅跡地に向かった。


「なあ、お見合いを受ける気にはやっぱりならねえか?」

「ええ、今はまだしなくて良いです」

「どうしてだ?」

「まだ、家庭を幸せにできるような世情じゃありませんから」

「そんなのは俺の家だって同じだ」


 ぬかるむ通りを歩く最中に告げられたお父さんの言葉に、私の足は停まってしまった。しかし、お父さんは私が立ち止まったことに気付かず、ずんずんと邸宅地へと足を運んでいった。小さいながらもごつごつとした背中は牧場の牛のように見えた。

 しかし、会話が唐突に途切れ、傍らの足音が途絶えたことに気付いたのか、お父さんは振り返って立ち止まる私を怒鳴りつけた。私は道具の入った重い麻袋を揺らしながら、駆けて行った。それはひどく不快だった。


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