昭和二十二年 春

 天涯孤独の身となった私をA子ちゃん家族は預かってくれた。食料もなく、住居も狭いのにもかかわらず、彼らは私のことを家族の一員として認めてくれた。加えて、お父さんは私を弟子にしてくれた。戦争によって失ったものはひどく多かった。だが、全てを失ったからこそ不幸の中の小さな幸福はひどく輝いたのだろう。

 街の復興を手伝いながら、お父さんに師事し、大工の技術を学んでいるとあっという間に時間は過ぎた。街は徐々に空襲以前の姿を取り戻した。二十二年の三月には、小学校の竣工式が執り行われ、教育の現場はバラックから木とトタンの美しい小学校へと移り変わった。近所に住む子供たちは四月になると、新築の学校へと登校した。その姿に私は得も言えない感動を覚えた。そして、同年の四月には私たちは遂にバラック小屋から卒業し、一軒家を得ることができた。木造の小さな一軒家の完成は、私が豆腐屋の倅から大工の弟子となった証のように見えた。ただ、自分で敷いた瓦屋根から隣の材木置き場を見つめると寂しさを覚えた。つい二年前まで実家があった場所なのだから当たり前なのかもしれない。

 復興の象徴が落成してから二カ月ほど経った五月の三日、私は朝刊で新憲法が公布されたことを知った。


「新憲法……」

「憲法がどうかしたの?」

「いや、なんだか実感が湧かなくてね」

「実感が湧かないって、昨日、駅前で式典があったじゃない」

「もちろん、分かってるよ。でも、なんだか、不思議な感じだよ」


 横に三足並べればいっぱいになってしまう小さな土間を誇る玄関に腰を下ろして、ぼうっと新聞を眺めている私を、A子ちゃんは不思議がった。確かに私たちは家族一同で駅前の広場で行われた式典に参加した。けれども、私の頭には振りかざされる日の丸と歓声は全く残っていなかった。私の頭には広場で懸命にアコーディオンやバンジョーを弾く傷痍軍人の姿しか残っていなかった。


「まあ、きっと疲れが残ってるからよ。お父さんったら、弟子が出来たって張りきっちゃってずっと働かせっぱなしでしょう」

「まあね」


 頬を膨らませるA子ちゃんは、頬杖を膝につきながらぼんやりとしている私の原因をスパルタ気味のお父さんに求めた。確かに拳骨と怒号、腰をやるような仕事の連続は身体に堪えていた。だが、この家に住まわせてもらっている私にとってそれは当然の仕事であった。だから、私は苦笑いを返した。

 便所を済ませ、居間に戻った。A子ちゃんのお母さんが作った朝飯の麦飯と甘藷を家族そろって、卓を囲んで食べて、私とお父さんはいつものように大工道具を揃えて現場に出向いた。現場は駅前の米屋だった。

 麗らかな春の日差しは三日前の春時雨が作った通りのぬかるみをすっかり乾かしていた。ただ、その代わりに腐敗の臭いを通りに与えていた。むんむんと立ち込めるその臭いは街の人が投げ捨てた芥と、汲み取り便所が与える日常の不快であった。

 酸鼻とも言える臭いの中で、私たちは懸命に作業した。心頭滅却し、汗をかきながら必死で働いた。怒号と拳骨が時折飛んできたが、それも棟梁の矜持だと思えばなんてことはなかった。いや、連隊に入って、比島に居た経験があったから、なんてことなかったのかもしれない。

 星が空を埋め尽くす頃、仕事を終え、私たちは闇市によって焼酎を買った。汚らしい国民服を着た店主は、それがエチルであると言った。もっともらしい証拠はなかったが、どうしても酒を飲みたかったお父さんはそのエチルが入った一升瓶を買った。

 家に帰り、お母さんが用意してくれた麦飯とみそ汁を食べ、私とお父さんは食卓越しに向かい合った。裸電球の吊り電灯には蛾がパタパタと飛んでいた。鱗粉が薄暗い灯りの光柱の中で、はらはらと落ちていた。


「そういえばよお、マサオミ。結婚はしねえのか?」

「結婚ですか?」

「おうよ。ことしでおまえさんも二十七だろ。普通に考えれば結婚してなきゃおかしい歳だろ。同い年の、ほら、O町の瓦屋の倅も一か月前に結婚したしよお、そろそろ考えても良いんじゃねえか?」


 ガラスコップになみなみと注がれた焼酎を啜ると、アルコール臭い息と共に私を困惑させた。この困惑は単にお父さんの言った『普通』という言葉が、今朝と同じようにぼんやりと頭に残ってしまったからである。


「結婚はしねえと駄目だぜ。結婚しねえと一人前に一生成れねえ。所帯を持って、大切なもんを守る覚悟がなければ、職人なんてなれやしねえんだからさ」


 お父さんの胡乱とした粗暴な口調は、熱帯雨林の中で誰よりも勇ましかった連隊長の顔を私の脳裏に投影させた。脂でてらてら赤い顔に、禿げ頭、鼻の下の海苔のような髭、お父さんのそういった特徴が連隊長と繋がったせいだろう。

 印象の重複は、腐った死体に群がる蛆を思い出させた。皮膚を侵食し、杏色の脂肪の中でうごめく蛆は私を口籠らせた。


「おいおい、青白い顔すんなよ。大丈夫だ。おまえさんが良い女を探せなくとも、俺が見つけてきてやるからよお」


 父親同然と思っていたお父さんの下品な笑い声は、私とお父さんとの間に、いや私とA子ちゃん家族との間に絶対に埋められない溝があることの象徴かと思えた。私はそれから目を逸らすために、瞼の裏の死体を真新しい畳に投影した。

 ただ、幻影の中に蛾が一匹入り込んだ。それは紛れもない現実であった。

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