エゴイズムの間で
鍋谷葵
昭和二十一年 冬
昭和二十一年の十二月八日。私は比島から帰還した。
N県のN市を離れ、連隊付きになってから三年三カ月で日本は様変わりしてしまった。東京、名古屋、大阪は焼け野原になり、港湾都市として栄えていた広島と長崎は消し炭になってしまったらしい。日清日露の大本営の消失は帝国の消滅を証明しているように思えた。いや、汗と垢とが熱気と混じり合って生じた異臭が籠る復員船の中で知った消失のうわさよりも、一面焼け野原となった故郷に帰った時、私は初めて帝国の崩壊を体感したんだろう。
F県から同郷の仲間とともに汽車に乗って、故郷に帰ってきた。全く同じ褐色の服を着た坊主頭の復員兵がぎゅうぎゅうに詰め込まれた車両は、地獄と違って希望に満ち溢れていた。息苦しく、狭苦しく、臭いけれども、故郷に帰れるという一心が、焼け野原になっていたとしても家族に会えるという一心が、私たちに希望を抱かせていた。
N県の故郷の駅に着くと、同郷の者たちと屋根が所々焼け落ちた駅に降り立った。その時のひどい寒さに、煤煙を含んだ汚らしい雪、厚い鼠色の雲に包まれた空は、私たちの心を震わせた。そうして彼らとともにバラックが立ち並ぶO通を歩いた。それから各々の生家、家庭に戻るため、彼らと別れた。私は実家の豆腐屋があったN町に帰った。あいにく、彼らのうち、私と同じN町に生家を持っている者は誰も居なかった。
実家は完全に焼き尽くされ、基礎だけが残されていた。隣のA子ちゃんの家も、玩具屋のBさんの家も焼き尽くされていたから、そこに特別な絶望を感じることはなかった。ただ、私に絶望を与えたのはA子ちゃんとBさんの家と違って、家跡にバラックが建っていなかったことだけだった。私を女手一つで育ててくれたまだ四十にも満たない母はどこへ行ってしまったのだろうかと、私はあたりを探すこともせず、呆然と立ち尽くした。
「マサオミさん?」
寒空の下、呆然と立ち尽くす私に声をかけてくれたのはA子ちゃんだった。私は振り返り、怪訝そうにこちらを見つめる彼女を見つめ返した。彼女は私が動員されたときとは違って、痩せこけていた。ふっくらとした頬や手は骨ばって、労苦の黒い汚れが付着していた。きっと、鈴の音のような美しい声と、私よりも頭二つ分低い背丈でなかったら、私は彼女がA子ちゃんだと気付けなかっただろう。
すっかり変わってしまったAちゃんは、わなわなと唇を震わせて私の名前を何回も呼んだ。故郷に帰れた幸せと、弟をビルマで失ってから唯一の家族となった母の消息に関する恐怖から感情が揺らいでいた私は彼女が紡ぐ言葉にただ頷くことしかできなかった。
安堵が彼女の表情の中に現れると、彼女は自分と家族が住むバラックへ私を招待してくれた。焼け遺された廃材で作られたバラックは粗末なものであったが、風が直接当たらない分、外に比べれば随分暖かく感じられた。それにA子ちゃんのお母さんとおばあちゃんから感じられる家庭の温もりもまた私の心を温めてくれた。
ただ、その後告げられた真実はあまりにも冷たかった。私の母は空襲の折に死んでしまった。A子ちゃんのお父さんが空襲の後に帰ってきたとき、黒焦げになった母を見つけたらしい。
その事実は私を苦しませた。汽車を降りた時に覚えた幸福は、真っ黒な不幸へと変わってしまった。しかし、涙が出ることはなかった。私はただただ母が亡くなってしまったことがひどく不自然であり、現実的でないと考えていたのだから。国のためにと飢えと病気の阿鼻地獄を耐えた結果が、天涯孤独の身であるということを受け入れられなかったのである。ただ、現実に足をとられ、ものを言わなくなった私をA子ちゃんの家族たちは慰めてくれた。それは後に帰ってきたN町一の大工として名を馳せていた頑固者のお父さんでさえ。
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