恋愛短編集

崖の上のジェントルメン

どう見たってカワウソちゃん(ほのぼの系)




「カワウソ……ですか?」


内藤 誠治は、課長にそう聞き返しました。


「そうだ。うちの職場には、カワウソがいる」


課長はさも当たり前かのように、そう答えました。


誠治は今日付けでこの「広永商事」に採用された、新任の職員でした。


その最初の出勤日に、誠治は課長からオフィスに入る前の廊下で、「ここで働く上での注意事項がある」と、そう言われたのでした。


課長の眼は実に真剣だったので、一体どんな注意事項なんだろう?と息を飲んでいた誠治は、「カワウソ」という突拍子もない単語に、一瞬頭が動きませんでした。


「カワウソという妖怪を知ってるかね?内藤くん」


「いえ……」


「カワウソというのはね、狐や狸のように自分の身体を変身させて、人に化けることができる妖怪なんだ」


「はあ……」


「一説には人を食い殺すなんて話もあるが、ウチの子はそんなことをするような子じゃないから、安心してくれ」


「……じゃあなんですか?その、ここの職場には、その人間に化けたカワウソがいると?」


「そうだ」


「……………………」


誠治はこの時、「この会社は失敗だったかもな」と、内心そう思っていました。


大の大人が、真剣な眼差しで「ウチには妖怪がいる」などと話すなんて、絶対におかしい。


(ここの会社は、面接の時にホワイトな感じがしたから、当たりだと思ったんだけどなあ……)


早速転職が頭にちらつき始めていた誠治に向かって、課長は再度言葉を投げかけました。


「問題はね、内藤くん。ここからなんだよ」


「と言うと?」


「彼女がカワウソであることは、暗黙の了解にしていてほしい」


「彼女?そのカワウソは、女の子に化けているんですか?」


「ああ。人間としての名前は、『河宇曽 小春(かわうそ こはる)』という」


「名前に……既にカワウソと入ってるんですね」


「ああ。実に彼女らしい名前だ」


「……………………」


「とにかく、職場内で彼女のことをカワウソだと口にするのは禁句だ。わかったかね?」


「わ、わかりました」


「ありがとう内藤くん。いや、すまなかったね。ここに配属されるからには、一番最初に教えておくべきことだったんだ」


課長はそう言って、優しく微笑みました。


なんのかんの言いながらも、丁寧で物腰柔らかい課長を見ている内に、誠治は「まあこの会社でもやっていけるだろ」と、そんな気持ちになりつつありました。






「……えーと、本日付けでこの広永商事の総務課に配属されることになりました、えー、内藤 誠治と申します」


誠治は、総務課のメンバーに取り囲まれながら、最初の挨拶を、たとたどしくも口にしていました。


初めて対面する人たちばかりで緊張するというのもありましたが、誠治の頭の中は、先ほどの『河宇曽 小春』のことでいっぱいでした。


(一体、誰がそのカワウソなんだろう?)


自己紹介をしつつ、誠治は総務課の中をゆっくりと見渡しました。


「……………………」


そして、窓際に立っている一人の女の子を見て、度肝を抜かれました。


一見すると、スーツを着た可愛らしい女の子ですが、お尻には大きな茶色の尻尾がついてありました。


そのフサフサの尻尾はゆらりゆらりと揺れていて、明らかにコスプレなどではありませんでした。


しかもそれだけに留まらず、彼女の頭にはボロボロの笠が被せられていて、その壊れた笠の隙間から、小さな獣の耳がちょこんとはみ出ていました。


「……え、えーと、しゅ、趣味はバスケットボールで、えー……学生の頃はバスケ部に入っていまして~……」


あまりに衝撃的な彼女の姿に、誠治は思わずそっちばかりに目を向けたまま、上の空で自己紹介をしていました。


これが内藤 誠治と、河宇曽 小春の最初の出会いでした。










「……内藤くん、これからよろしく“だぎゃ”!分からないことがあったら、私に何でも聞いてくれてほしい“ぎゃ”!」


誠治のデスクは、なんと河宇曽 小春の隣でした。


誠治の先輩職員である彼女は、ニコニコと朗らかな笑みでそう語りかけてきました。


誠治は彼女の格好も然ることながら、その口調に物凄く違和感を覚えていました。


何か喋る度に、必ず語尾に「ぎゃ」とか「だぎゃ」という言葉がつくのです。そのせいで、誠治は彼女から仕事の説明を受けても、全く頭に入ってきませんでした。


後から調べて分かったことなのですが、この語尾はカワウソ特有のものらしく、人間に化けたはずのカワウソが、この語尾のせいですぐに見破られてしまったという逸話がありました。


「どうぎゃ?分かったぎゃ?」


「え、あ……はい」


「良かっだぎゃ!また分からなくなったら、いつでも私に聞いてもらっていいぎゃ!」


「は、はい……ありがとうございます」


誠治は本当に何一つ仕事のことなんて考えられませんでしたが、一生懸命自分に教えてくれた小春の手前、「すみません、分かりません」とはなかなか言いづらかったのです。


一緒に仕事をしていく中で、この小春という女の子(というよりカワウソ)は、かなりおっちょこちょいであることが分かっていきました。


他の職員宛に電話が着て、「また担当から折り返しいたしますぎゃ!」と意気揚々に返事をしたは良いものの、相手方の名前も電話番号もメモを取っていなくて、結局電話を受けた意味が全くありませんでした。


またある時は、文書をお客様へ発行する際に、挨拶のところで「いつもお世話になっておりますぎゃ」と書いてしまったりしていました。


そんな失敗をする度に、小春は心底絶望した顔をして「申し訳ありませんぎゃー!」と泣いてしまうのでした。


誠治としては、あまりにミスが続く小春を咎めたい気持ちでいっぱいでしたが、すぐに他の者が「大丈夫大丈夫」とにこやかに笑って、彼女を慰めるのでした。


しかもそれは職場内だけでなく、取引先も同様でした。


小春の仕事にミスがあったことを謝罪すると、取引先の方は笑って「お気になさらず」と言って、おおらかに許してくれるのでした。


なぜ小春にはみんなこんなに甘いのか?誠治は不思議でなりませんでした。







「……課長、ちょっとよろしいですか?」


誠治がこの総務課に配属されてから何日か経った頃、彼は廊下ですれ違った課長を呼び止めて、小声でこう話しかけました。


「河宇曽 小春先輩についてなんですけど……」


「ああ、彼女がどうかしたかね?」


「その……今日また、仕事でミスをしていました。ちゃんと確認してなかったせいで、会議室をダブルブッキングしてしまったんです」


「……そうか。まあ、それくらいなら大したことじゃないじゃないか」


「しかし課長、彼女のミスはあまりに目に余ります。日頃フォローする僕たちの身にもなってくださいよ」


「うーん、そうだなあ……」


「なぜ彼女をクビにしないんですか?本人がカワウソかどうかはさておき、単純に業務に支障が出ている職員を置いておく意味はあるのですか?」


「……内藤くん」


「はい」


「彼女にはね、みんなが救われているんだよ」


「え?」


「君はみんなが彼女を助けているように思うかも知れないが、本当は逆なんだよ」


「逆……?」


「ふふふ、今ここで説明しても、なかなか実感はできないだろう。でもいつか、そのことが分かる時が来る」


「……………………」


「何か困ったことがあったら、俺もフォローに入ろう。その時はまた報告してくれ、内藤くん」


「課長……」


そうして、そんな意味深な言葉を残して、課長はスタスタと会議室へと向かって行ってしまいました。



『彼女にはね、みんなが救われているんだよ』



この言葉の真意を知ろうと思った誠治は、同じ班の職員である有吉 美佳という先輩に尋ねました。


もちろんその時は、小春が外勤で席を離れている時です。


「有吉先輩、課長がさっき、これこれこういう風に話してたんですけど……どういう意味ですか?」


「ああ、小春ちゃんの話ね」


有吉先輩は少し苦々しく笑いながら、彼にこう説明してくれました。


「今でこそウチの課って雰囲気良いけど、昔はここ、めちゃくちゃギスギスしてたんだよね」


「え?」


「課長もいつもピリピリしてて、オフィス内に怒鳴り声も絶えなかったよ」


「まさか……あんな温厚な課長が」


「今は信じられないでしょ?でも、昔はそうだったの」


「……………………」


「そんな場所を変えたのは、他でもない小春ちゃんなの」


「なぜ彼女が?」


「ぶっちゃけちゃうとさ、あの娘子ってめちゃくちゃおっちょこちょいじゃん?」


「まあ……それは」


「仕事にしてもそうだけど、そもそも人間への変身が不完全すぎて、それがまず抜けてるでしょ?」


「そうですね、初めて見た時は仰天しましたよ」


「それなのに、あの子は自分の変身が完璧だと思ってて、自分はまだカワウソだってみんなにバレてないって思ってるの」


「え?……ふふ、なんですかそれ?マジですか?」


あまりにも抜けている小春に、誠治は思わず吹き出してしまいました。


有吉先輩はそんな誠治を見て、優しく微笑みました。


「それがね、あの子の良いころなのよ」


「……え?」


「あの子のああいう抜けてるところがね、ピリピリしてた空気を変えてくれたの」


「……………………」


「あの子はおっちょこちょいだけど、いつも一生懸命じゃない。その……何て言うかな、そういう健気さがね、みんな好きなのよ」


「……………………」


「だからあの子には、絶対に『君カワウソでしょ?』なんて言わないであげてね。傷つけてしまうと思うから」


有吉先輩は、真っ直ぐに誠治を見つめながら、そう告げました。







……ある日のこと。誠治はその日仕事が忙しくて、夜遅くまで残業をしていました。


その隣に座る小春も、同じように忙しなく残業をしていました。


「うう~……!あ、あの~、内藤くん、ちょっと……お、教えてほしいんだぎゃ……いいぎゃ?」


「はい、どうしました?」


「ここのExcelの数式が、全然合わなくて……。ど、どうしたらいいぎゃ?」


「ああ、これはもともと数式が入ってませんね」


「えーーー!?そ、そんぎゃ……」


「大丈夫ですよ、また数式を入れ直したらいいだけですから」


「ほ、ホントぎゃ!?どうしたらいいぎゃ!?」


本来先輩であるはずなのに、小春はいつも隣の誠治にこうして頼っていました。


誠治も最初こそ鬱陶しいと思っていましたが、「この子を放っておくと何をしでかすか分からない」という思いから、ちゃんと質問に答えるようになりました。


「……はい、先輩。これでできましたよ」


「わーん!ありがとうぎゃー!」


「また分かんないことあったら、言ってください」


「内藤くん、いつもごめんなさいぎゃ。迷惑かけてばっかりで……」


「いえいえ、別に俺は大して……」


「あの、これよかったら受け取ってほしいぎゃ」


「え?」


そう言って彼女が渡してきたのは、三匹の小さな焼き魚でした。


「さ、魚……?」


「うちの近所で朝捕った魚だぎゃ。私、すんごい魚が好物だから、今日の夜食に取っておいてたんだぎゃ」


「それを……俺にくれるんですか?」


「い、いらないぎゃ?」


小春は不安そうに、上目遣いで誠治を見つめました。


「……………………」


誠治の目には、そんな小春の姿が異様に可愛く映りました。にっこりと頬を緩めて、彼は彼女から一匹だけ魚を受け取りました。


「ありがとうございます。じゃあ、一緒に食べましょう」


「え?いいんだぎゃ?」


「小春先輩も、魚、好きなんでしょう?なら一緒に食べましょうよ」


「あ、ありがとうぎゃ!」


小春は、パアッと花が咲くように笑いました。


そうして、深夜のオフィスで二人、静かに焼き魚を食べていました。


誠治は割り箸に紙皿を用意してその魚を食べましたが、小春は手掴みでそのままかぶりついていました。


「内藤くんは、優しいぎゃ」


「そんなことないですよ」


「そんなことあるぎゃ。これからも、私とよろしくしてほしいぎゃ」


彼女の独特の言い回しに苦笑しながらも、誠治は「ええ」と朗らかに答えました。





その日からだんだんと、彼は小春のことが好きになっていきました。


彼女は確かにミスが多い。失敗もたくさんしてしまう。けれども、それでもめげずに頑張ろうとしている姿は、彼にとって愛らしく映りました。


そんな彼女が頑張ろうとしているのを、フォローしていきたい。そういう思いが次第に大きくなりました。


「ありがとうぎゃ内藤くん!本当に助かったぎゃ!」


どんな時だって、彼女は「ごめんなさい」と「ありがとう」を忘れたことはありません。


それは、一見簡単なように思えるかも知れません。しかし、それが人間関係で何より大切であることを、誠治はこの時理解したのでした。


(彼女はカワウソで、人間社会のスレた感覚を持っていない。だからこんなにも素直でいられるし、そんな彼女のことが……みんな好きなんだ)


人間でないはずの彼女が、誰よりも他人との繋がりを大事にしていたのです。







……誠治が広永商事へ来てから、一年が経った日のこと。彼は小春をビルの屋上へと呼び出しました。


「な、内藤くん、は、話ってなにぎゃ?」


ビクビクと怯えた様子の小春を見て、誠治は苦笑しました。


(たぶん、カワウソであることがバレたかも!?とか思ってるんだろうな)


きっと彼女はこう思ってるだろうという予測をつけて、誠治は愛らしい気持ちになりました。


「好きです、小春さん」


「……ぎゃ?」


「俺、小春さんが好きです」


「な、な、え!?な、内藤くんが、私を好きなんぎゃ!?」


「はい」


突然の告白に仰天した小春は、顔を一瞬で真っ赤に染めました。そして、お尻にある尻尾を、ばっさばっさと振り乱していました。


「もしよかったら、俺と付き合ってください。小春さん」


「な、内藤くん……」


「俺じゃダメですか?」


「そ、そんなことないぎゃ!!む、む、むしろ内藤くんだったら……そ、その、う、嬉しい……ぎゃ」


目があっちこっちに泳ぎながら、小春はもじもじと答えました。


「こ、こんな私でよかったら、よ、よろしくお願いいたしますぎゃ……」


「ホントですか!?」


「で、でも!その前に一言!内藤くんに言わないといけないことがあるぎゃ!」


「言わないといけないこと?」


「び、びっくりしないでほしいんだぎゃ……。う、うう、でもこんなのびっくりするに決まってるぎゃ……」


「良いんですよ、小春さん。俺はあなたのこと、何だって受け止めますから」


「ホ、ホントぎゃ?」


「はい」


「……………………」


小春は心底嬉しそうにはにかんだ後、ぎゅっと目を瞑って、ゆっくりとこう告げました。


「な、なら……言うぎゃ」


「はい」


「お、驚いてもいいぎゃ。き、嫌わないでさえいてくれたら……嬉しいぎゃ」


「ええ、もちろんです」


「……わ、私は……私は実は……!」


小春はくるりと背中を向けて、尻尾をピンっと立てた。


「実は私は、カワウソって妖怪なんだぎゃー!!」


「……………………」


「に、人間の都会に憧れて、二年前に山から降りて来たんだぎゃ。いつもは人間に変身してるんだぎゃ、今は少しそれを解いてるんだぎゃ」


「……………………」


誠治はもう、笑いを堪えるのに必死でした。尻尾はいつだって見えていたのに、今さら明かされても何も驚きませんでした。


でも、そんなポンコツな小春が、誠治は愛らしくてたまりませんでした。



『あの子には、絶対に『君カワウソでしょ?』なんて言わないであげてね。傷つけてしまうと思うから』



有吉先輩の言葉を思い出しながら、誠治は笑いたい気持ちを何とか抑えて、代わりに……高らかに叫びました。


「な、なんだってー!?」







おしまい



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