赤い口紅を塗って

豆桶サキ

赤い口紅を塗って

 赤い口紅を塗った口を、コーヒーがなみなみと入ったカップにつける。傾けずともいいくらいの量だ。とてもありがたい。ふわふわとのぼる湯気が顔にあたり、かけている眼鏡が曇る。前が見えない。鬱陶しくてさっさと外した。深く空気を吸い込む。ああ、いい香りだ。

 ずずっと音を立て、茶色がかった黒の液体を口内に迎え入れ、舌の上で転がし、そしてゆっくりと飲み込んだ。ほのかな苦みが、口に、喉に広がり、その心地よさに目を細める。

 ふとカップを見ると、当然ながら、私にしては珍しい、はっきりとした赤色が付着していた。カップをソーサーに置いて、親指で強く拭い取る。その親指をお手拭きにこすりつけると、今度はその白い生地に赤が染みついた。すっと目を逸らし、カバンから本を取り出し開いた。好きで、何度も読んだ小説だ。いつもならこうして、コーヒーを飲みながら本を読むのだが、今日は違っている。目線が窓の外へ向いていた。ぼんやりと眺めているようで、しかし確かに特定の人物を探していた。そんな自分に気がつき、目を閉じて息を吐く。

 コーヒーのにおいに包まれたような喫茶店、その窓際。落ち着いた店内と寒い外の境界。女性の話し声に、カチャカチャとキーボードを叩く音。それらもまた心地よいものと感じていたはずだが、今日は落ち着かない。

 再びコーヒーに口をつけ、またふうと息を吐き、カップについた口紅を拭った。

 この落ち着かなさはなんだ。苛立ち、あるいは焦燥か。なにに対して?

 自分自身か、それとも、別れを告げ早々に私を置いて帰った男に対してか。

 今日は交際五年目の日だったというのに。ああいや、もはや過去のことなのだから、この言い方は適切ではない。今日はふたりの記念日であった、というのに。おずおずと開いたその口で、期待と不安の混ざった目で、こわばった顔で、「好きだ」なんてありふれた告白をした、この日に。私に想いを告げた、五年前と変わらないその口で、疲れの滲んだ目で、こわばった顔で、「別れよう」などと、やはりありふれた言葉を口にして、私に背を向けた。

 こちらは、化粧品売り場で一目惚れした赤い口紅を、似合うと言ってくれるだろうか、褒めてくれるだろうか。それとも、派手だと嫌な顔をするだろうか——なんて、さも夢見がちな少女のように、期待と一抹の不安に心躍らせていたというのに。誰かが見ていたなら、あの男が私の心に気付いていたのなら、さぞかし滑稽であったことだろう。まあ、どうせ気付いてなどいないだろうが。しかし、私も随分と鈍感なものだ。

 いや。いや、そうではない。そんなことはないと思い込んでいただけだ。きっと、あなたの疲れに薄々感づいていた。その上で、見ないふりをしていたのだ。驚くほどに愚かだ。いつまでも恋に盲目で、浮かれてばかりだったのではないか。

 手が痛い。一体なんだと見てみれば、爪が手のひらに食い込んでいる。そうっと、努めてゆっくりと手を開いた。落ち着かせるため、ゆるゆると頭を振る。しかし自己嫌悪は止まらない。ぐるぐると冷たいような、ぬるいようなものが内臓を満たしていく。その不快感に、歯を食いしばる。

 机の端に寄せていたお手拭きを引っ掴んで、口を痛いくらいに強く、こするようにして拭った。赤色が広がった。まるで血のようじゃないか、とやけに悲観的な自分が顔を出す。今日はおまえの出番ばかりじゃないか。

 あのときはあんなにも心惹かれたこの色が、今はひどく気味が悪い。また使うことはしばらくないだろう。喉元までせり上がってきた吐き気のようなものを、未だ冷めないコーヒーで押し戻す。

 熱い。きっと舌も喉もやけどした。猫舌の私がこんな暴挙に出ているなんて、友人が知ったら大層驚くことだろう。私だって驚いた。しかし最後の一滴まで流し込み、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。どうやら空気まで一緒に飲んでしまったらしく、軽く咳が出る。疲労感から椅子にもたれ、だらりと腕を投げ出した。

 大きく、しかし不審でない程度にため息をついた。息を整えよう。

 舌がひりひりと痛む。だけど、どこかすっきりとした気分だ。元通りではない。確かに私は傷ついているし、思っていたよりも勝手な自分を自覚して落胆している。もちろん、あの男と会うことはもうない。

 だが、なんというか、やってやったと誇らしいような、人目を憚らず笑い出したくなるような、妙な達成感があった。まあ、そんなことはできないので、ぐっと口の端を吊り上げ、ふん、と小さく鼻を鳴らす。今なら本も読めそうだ。

 そうだ、せっかくだから——なにがせっかくなのかはわからないが——今日は存分に自分を甘やかして、慰めてやろう。なんであれ振られたのは私だ、反省も後悔も、そのあとでいい。友人に連絡して、話を聞いてもらいながらにしよう。今日は特別な日だ。今日とこれからのデート代、プレゼント代が浮いたのだ。すこしくらいいいだろう。

 店員をベルで呼び、前々より気になっていたケーキと、コーヒーのおかわりを頼む。空のカップを下げてくれたので、ケーキが来るまではゆったり使おうと閉じた本を手に取り、その両手をどんっと机の上に乗せる。

 もうあの顔を探すのはやめだ。目の前のことだけを考えよう。私のことだから、読み始めさえすれば、すぐに没頭するだろう。

 そう意気込み、冷たい水が注がれたグラスに口をつけて、ちらりと横目で窓の外を見た。寒々しい空だ。でも、晴れる予感がしている。春の到来はもうすぐなのだから。透明の流れる水さえ、桜色に彩られる季節だ。視線を戻し、本を開く。水がすこし減ったグラスは、透明のままだった。

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