不思議の国のかぐや姫

島波春月

第1話



 満月である。

 その老人がそまつな寝床から起き上がったのは、”太陽が眩しかったから”ではない。この老人が、のちにそれを動機として殺人を犯すわけではないからだ。

彼の隣で眠っていた老婆に対する殺人の計画を予定していたわけでもない。なぜならこの老人は”ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ”ではないからだ……

彼は太陽がまぶしかったからといって人を殺めたフランスの青年ではなく、金貸しの老婆殺しを画策したロシアの青年でもなく、このあたりの界隈では”竹取の翁”とか、別にどうということもない名前で呼ばれているだけのただの老人で、だからこそ彼は別に大した思想も行動理念も持たず作らず、一日の労働に疲れ果てただけの一介の労働者として、その安眠を妨げる要因であるところの光源の出どころを知りたくて、寝床から重い腰を上げただけなのだった。

 板張りの、そまつな小屋である。雨風がしのげれば上々という程度の賤屋の中で、彼の横では年老いた、年の頃なら四十二、三程度の、糟糠の妻がやはり日中の労働に疲れ切って、しなびた大根のようになって眠っている。彼はちょっとそれを見下ろして、それから寝床を抜け出し、小屋の外に出た。

 彼の生業は竹取りである。野山にまじりて竹を取りつつ萬のことに使いたりとかいうあれである。米を作っているわけでもなく、養蚕をやっているわけでもなく、絹を打ったり獣を獲ったり、お役所に勤めたりしているわけでもない。彼の住まう小屋の近くにはちょっとした竹やぶがあって、そこから竹を切り出して加工し、それを米や魚や野菜に替えて暮らしている。彼らが作るのは主に竹を細工したもので、そのようなものはどんな職業の人々にも必要とされたから(魚籠、箕、笊、櫛、竹笛、竹を削った白屑を煎じた生薬、へその緒を切るための小刀……など)、貧しいながらも老夫婦二人が食べていくくらいの生活は出来るのだった。

 彼らは彼らなりの生活を全うし、その中で特別な不足に陥ることもなく、平和に暮らしていた。その生活に満足できるほどすべてが充足していたわけでもなかったが、極度な貧困に飢えあえいでいたわけでもない。彼らは彼らで、その後放っておいても、それなりの生活基盤に沿った一生を全うしたのかもしれない。しかし、そのような彼らは或る夜の出来事によって、それまでの生活から完全に引き剥がされてしまうことになるのだった。

 それにしても、まったく真昼のような明るさだ。

 彼はその満月の夜、光るなよたけを見た。時は丑三つ、卯の日、一日がまた新しい一日に生まれ変わるまさにその時、彼はその発光する、ナゾの若竹を発見したのである。

 その日は特別暑い日でも寒い日でもなかったが、彼は気がつけば額から、一筋、二筋と、たらたら汗を流していた。そして彼はその場で、誰かに影を縫い留められでもしてしまったかのように、しばらくじっと立ち尽くすことになる。

 真昼のような青白い光が照り下ろす中、彼の影ばかりが黒々としている。それと正反対に、竹の中から漏れる、というよりもほとんど四方八方に光線を出しているかのような攻撃的な光があたりに飛び散っているのを見て、彼はおもわず身を竦ませた。

 しかし、老人には分かっていた。

 ”それ”は老人の行動を待っている。”それ”は老人の接触を、今か今かと待ち望んでいるのだ。老人にはそれが分かる。だからこそ老人はここでその恐怖をこくふくして、小屋の裏に立て掛けてある竹を切るための斧を持ってきて、なよたけの中身を確認しなければならない。本来であるならば身など詰まっているはずのない、空洞であるはずの竹筒の中身を。

 今や金縛りは解けた。今や老人は、恐怖に脅かされたちいさなはかなき生き物などでは決してなく、使命感にみなぎる、一己の遂行者だ。こうなってしまえばもう、誰にも、どうにも止まらない。

 それにしても、女というものは……

 老人は斧を手にしながら考える。それにしても女というものは、ものすごいものだ。女というものは実質そのものでしかない。こんなに月が青いのに、月がとっても青いから、俺はこうしてのこのこと、おのれの睡眠時間を削ってまで、恐怖と戦い、その根源を突き止めようと邁進しているというのに……

 でもどうせ、俺のほうが間違っているのだ。老人は大股に歩きながら考える。

 彼の連れ合いがまだ小屋の中で眠っているのは、眠るという行為に生活上の必要が絶対であるということを、彼女が無意識にでも意識的にでも理解しているからに他ならない。眠らなければ明日の仕事に差し支える。仕事に差し支えが出れば、仕事の能率が悪くなり、生産力が落ちる。生産量が落ちるということはそれすなわち生存の確率を下げるということに直結し、われわれの生活そのものが生の状態維持という目的を根本としているものなのだとすれば、睡眠時間をいたずらに削るなどというという行為は、自殺行為の延長にほかならず……、などと、そこまで老人が短い間に考えたか、どうかは知らないが、とにかく彼はそのような、自身の行動を自身の連れ合いの行動と比較して、ちょっと後悔しながら、しかしその二本の足はすでにして、発光するなよたけの元に立ち尽くしているのだった。

 攻撃的な光を放つその竹をめのまえにして、彼は目を瞑った。

それから彼はそっとまぶたを上げた。もう眩しくなかった。そして彼はそれを不思議とも奇妙ともおもわなかった。ただそうなったからそうなっている。眩しくないから、眩しくないだけだ。彼は斧を振った。そしてそこには、なよたけの……

 女の子どもは二人居た。それは竹の節に、ぎっちり詰まって息をしていた。

 彼は、それを見て、ちょっと気持ち悪いなとおもった。肉がミツチリ詰まって、ひとつの塊みたいになっていたからだ。

 彼はそのちいさな人間に似た形の二体の体をすくいあげるようにして、竹の中から取り出した。

 それらは呼吸をしていた。桃色の腹あたりが浅く上下している。見れば見るほど、それは人間の縮小版そのものだ。老人のしわくちゃの手のひらの中に収まる程度のちいさな二つのその体は、そうやってけなげにも呼吸をしているらしかった。

 申し訳程度に生えたやわらかそうな髪、血管の浮き出た、すきとおる薄いまぶた、ちいさな珊瑚色のくちびる、桜貝のような、ままごとみたいな、きっちり生え揃ったちいさなまるい爪……

 まるで本物の人間じゃないか!

 そしてその小さな赤ん坊には、体以外にも奇妙なところがあった。

 彼女らの腹は呼吸によって上下しているが、その下腹部あたりに、一本の肉の線がある。それは一方の腹から伸びて、もう一方の赤ん坊の腹につながっていた。

 へその緒? と老人はおもった。

 切ったらどうなるのだろう。死んでしまうのだろうか。というよりもこの二人の赤ん坊(のようなもの)は生きているのか、なぜ竹の中などに? しかし彼がそれ以上、その異常な状態についておもいなやむことはなかった。

それは、彼がまったくの生活者であったということに起因していた。

 生活者にとって、起こったことというのは起こったことなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。鍬で土を耕していて、石がそこにあれば退かしてまた鍬を下ろす。魚が取れなければ魚の取れる場所まで行って取る。トライ・アンド・エラー、トライ・アンド・エラーを繰り返し、それが弛むことは決して無い。弛むことすなわちそれは生活の放棄であり、生の放棄であることを、生活者というものは自然と理解しているものなのだ。

 だから、起こったことは仕方がない。過去についてうじうじと言葉を連ねてみても腹は膨れないのである、彼は起こったこと、つまりその生き物との邂逅を、まるですっかり過去としてしまって、その衝撃について考え、悩み患うような無駄なことはしない……というよりもできないのだった。

 彼は自身の両手のひらに、その二つのつながった塊を乗せたまま、開きっぱなしだった戸口から小屋に入り、そまつな木綿の布のうえに、そっとその塊を乗せた。

「……………」

 その塊はもはや発光などしてはいないのだった。では今まで何が発光していたのか? などと、生活者であるところの彼が考えるはずもない。ただ彼は、現在のことばかりを考えている。

 果たしてこの肉色の、細い紐のようなもの、切るべきなのか切らざるべきなのか? 

 ぱちん、と肉の弾ける音。気づいたら彼は竹の小刀を片手に、その奇妙な細い紐を切っていた。そこでそのつながったふたつの塊が息をするのを止めたらこの話はここで終わりだがそうはならなかったのでこの話はもう少し続く。

 二つの塊から離れたその紐は、彼の指に摘み上げられて残った。彼は二つの塊を見下ろした。ひとつが寝返りを打った。そうしたらもう一つが、まるでそれをすっかり真似するかのようにして、同じように寝返りを打った。そして、まったく同時に、四つの目が、ぱっちりと開いて、彼のことを見上げた。

 人間だ、と彼はおもった。


****


 二人の女の子は順調にすくすくと成長していった。けれどやはり出自が普通でなかったので、普通の人間のような成長過程を取ることはなかった。つまり、成長の速度が異様に早いのだ。ちょっと目を離した空きに、一寸、二寸くらい寸法が伸びている。二人の女の子はぐんぐん大きくなり、それなりの大きさになったところで成長は止まった。小ぶりの蕪程度だった子どもが、立派な少女たちに成長したのだ。

 彼の連れ合いもはじめはその二人の女の子の登場を不気味がって怯えていたが、彼女も彼同様懸命な生活者だったので、そのうちに二人の存在もただの日常になった。それ自体は奇妙極まりない”全く前例にないこと”ではあるが、起こってしまったもの、成長してしまったものは仕方がないことなのだ。

 そして何よりも、そこに既成事実としてちんまりしている二人女の子は、彼女のことを「お母さん」と言って慕ってくれる。老婆はその突然降ってわいたような幸福に、身も心も囚われてしまって、その他さまつなことはどうでもいいのだった。

 そして、その甚だ現実感に欠ける現実に輪をかけるようにして奇妙なことは起こり続けた。

 老人が、突然増えた二人のこどもを養うために以前にもまして野山にまじりて竹を取りつつしていると、その竹の節と節の間にきらきらしい、目にもあざやかな黄金が詰まっている。意味がわからなくて怖い、と老人はおもった。しかし、そうやって老人が不気味がって怯えていたら、女の子の一人がそれを見て、「まあこれだけでどのくらいお米が食べられるかしら」と言ったので、正気に返った(?)彼は、黄金が取れるたびに麓へ降りていって、色々のものと交換することにした。が、それでも交換しきれない黄金が溜りつづけ次第に金余りになった。そのような状態に身を置くこと自体が初めてだった老人は、当然のように狼狽した。金など持ったことがないから、使いみちだってわからない。それを教えてくれたのはやはり二人の娘たちだった。娘たちは、今現在のこの家の生活に必要なものをあれこれと言い合って、彼に金の消費方法を教えてくれた。それで、彼は、それまで住んでいた掘っ立て小屋を焼いて新しい家を建てたり、連れ合いの、継ぎだらけのそまつな着物を新調してやったり、子どもたちの着物や、みのまわりの整えもの、商人に舶来品だと言われて買った櫛や、鏡や、それを入れる螺鈿細工の小箱などなど 、老人は買い与えて、以前よりも全く、人間のすみかにふさわしいような家の中で、出入りの商人に言われるままに、「都ではこれが流行っている」だの「このような立派なお屋敷に住まうものにはそれなりに格というものが必要になる」とか「生活の質を上げたのだからそれに伴ってみのまわりのものもそれなりのものに整えなければまわりに馬鹿にされる」とか、散々丸め込まれて、次々と蔵に溜め込んだ黄金を放出したがそれでも土の中から吹き出しているかのように、その黄金色の山は減ることを知らないのだった。

 そもそも竹取とはそまつな存在である。田畑も持たない彼らは、それゆえに税を負担することもないが、良民としてみとめられることもない。彼らは全く世の中の端っこで、身を小さくして生きてきたのだ。それが急に、そこらへんの領主豪族連中が、一生かかっても持ち得ないような財産を得た。元来彼ら夫婦の生活など、食って寝て働いての繰り返しである。そこへ来て、使い切れないほどのありあまる富、これをなんとするか。老夫婦は持ち腐れになりそうな黄金をめのまえにして、人生ではじめて、生活の余剰について悩むことになった。

 それまでの彼らにとって、”生活”とは、日々の生活に足りないだけの不足を補うにはどうすればいいか、という点に軸が置かれていた。しかし今ではまったくの正反対、日々の生活からはみ出してしまう余剰分を、どうやったら”無駄にすることなく”活用できるのかという、まったくもって、今まで思い至るはずもなかった悩みに頭を痛ませることになってしまう。

 財産などは放っておいても腐るものでもないのだから、そのままにしておけばいいという考え方もあった。生活水準を変えることなく今まで通り、突然授かった子どもたちと、山の奥でひっそりと暮らしていくのだ。

 けれど最終的に、彼らは住み慣れたその土地を出た。そして、彼ら唯一の親族を頼って、彼らはいわゆる”上洛”へと目的を定めてしまったのだ。

 彼にそれを決断させたのは、やはり突然彼が二児の親になってしまったということが主たる原因だった。彼は、突然一家が大金持ちになってしまったというのは、ひとえに彼女らの不思議なみちびきに依るものだと信じて疑っていなかったから、そのような彼女らに報いるには、やはりきちんとした家で、きちんとした場所で、きちんとした教育を受けさせ、りっぱな結婚式を上げるというのが一番の、功徳になるであろうとこれもまた信じて疑わなかった。

 幸い、都行きに際してのあてはあった。都会に居る親族を頼るのだ。その突然の訪問に、これまでほとんど交流もなかったところの親族が、力を貸さないことはないだろうという、確信に近い感覚もあった。なぜなら、彼はすでにして、富というものの力を、嫌というほど実感し、確認していたからだ。

 老人の出自がどうだろうとこうだろうと、そこに現実的な物品さえあれば、人々は平気で彼に媚びを売る。当然、富を所有しているというだけでは駄目で、その所有に説得力を持たせるためには、身なりだの、言葉遣いだのにも気を遣わなければならない。実際、山出しの彼がいちばん苦労したのがそこだった。山を降りて、ちょっとしたお屋敷街に出ている市などへ行って、それまでなら見向きもしなかった、上等な絹などを見せてもらい、そのついでに話をしていると、もう老人などには、商人の話している言葉の半分の意味もわからない。顔をひきつらせながら愛想笑いをして、その頃には身なり程度は人並みになっていた老人を、その身なりのままの中身だと信じ切ったような商人が言う。「まったく最近の税の取り立てはどうですか。人品もなにもあったものじゃない。あればあるだけむしり取って、その結果一体お上がわれわれになにをしてくれるというんです。貧乏人は益々貧乏になって、役人は益々肥え太る、お役人様の元々でっぷりした腹を余計に肥え太らせるだけのためにですね、われわれは額に汗して働いているわけですよ。まあこのようなぐちめいたことをこぼしても詮無いことですが。だってそうでしょう。遙任だかなんだか知らないけど、結局ね、都のお役人様なんて、任期の一番最初にちょっと領地を覗いて、それでハイそれまでョですよ。それで後は地方自治体に任せっぱなし放りっぱなし。実情なんて一切そのきれいなお耳には入らないんだもんね。それで一丁前に税だけむしれるだけむしりとって、それで高級官僚でございと鼻高々でいらっしゃるんだからね。あーありがたいありがたい。ありがたくて笑えてきますね」

「は、は、は」

 彼は頬を引きつらせ、「ねえ。ほんとうに。あ、ちょっと小用」

 とか言って、逃げ出すのは常だったのだ。

 そんな目に遭ってすごすごと肩を落として通りを歩くたびに、彼は、頭が良くなりたいな、とおもうのだった。このようなことは、彼が竹取のまま重税に頭を悩ますことなく、山小屋の中で、竹ひごを編んだり、竹を削って煎じたり、風呂の焚付にと積み上げたり、していれば、起こり得なかった現象であるのだ。しかし彼は変わってしまった。それであるならば、外見と環境の変化に応じて、頭の中身もまた変化を来させなければ、釣り合いが取れないではないか。

「(俺の頭がもっと人並であったら、あの商人の話にも、こころをこめて相槌を打つことができたというのに)」

 さてしかし、頭とはどうすれば良くなるものなのであろうか? 彼はそれもやっぱり、上洛への動機づけとして採用していた。

 都に行きさえすれば……、そこには片田舎にはない、最高の教育と、最高の知識がそこら中にはびこっているに決まっている。きっとそうだろう。そうに違いない。だからやはり、上洛を決めたことは正しい。その感覚を下支えするものとして、彼は今までの細かな体験をおもいだしている。

 それは市場での経験だ。上等な絹を手にしたときの、このような老いさらばえた小汚い男が、このようなものを買うのか? と疑う眼差し、この時代においては貨幣文化など発達していないから、米とか、絹とかが物品との交換対象になったが、然るべきものを当然のように老人が差し出した後の、今までの態度を改めるような微量な表情に滲んだ焦燥。そういう表情を何度も眼前にするたびに、彼は富の絶対的な力を知った。

 おもえば、竹細工などたかが知れている。確かにそれらは、生活にはなくてはならないものだ。漁夫には魚籠が必要だし、農夫には箕が必要だろう。病人にはマダケを煎じて作った生薬が必要になるときもあるだろうし、幼い娘の髪を、櫛で梳いてやることだって、母親には必要かもしれない。しかしこの世の中の全員が全員、そういうものを欲しているわけではない。必要としている人だって、それらが壊れない限り、新しいそれを求めることはないだろう。求められないものは与えられない。それは当然のことだ。それでは人々が常に求めるものとはなにか? こちらが与える限り、喜んでそれを受け取ってしまうもの。つまり銭、黄金、この世のすべてのものが求め焦がれるもの。

 世の中金よ。銭よ銭よ。

 彼はそうやって、ほとんど独り決めに京へ上ることを決めてしまったが、家の中で反対意見が全く挙がらなかったというわけでもなく、というのは、一番上の娘が、彼の提案に難色を示したのだった。

 彼がその理由を問い詰めると、「だっておともだちに会えなくなるもの」と、彼女は言った。

「は? トモダチ?」

「おともだちと、わかれわかれになるのはイヤ」

「いや、あのね。そういうことではなくて」

「イヤ!」

 気位の高い彼女はそう言って(この頃になると、老夫婦たちは容姿の差異ではなく性格の差異によって双子を見分けるようになっている)、ギョロギョロした目で男親を睨みつけた。

 彼は呆れて、ため息をついた。「あのねえ。それは理解できるけども。でもそうじゃないんだよ。ね? それに、もう二度と会えなくなるというわけじゃない」「どうしてお引越しするの」「ここよりいいところが見つかったからだよ」老人は、できるだけ明るい声を装って言った。「なにも今日明日にすぐにでも出かけるというわけじゃない。お別れだって言える時間はあるんだよ。場所だってここから半日くらいの場所なんだから、会おうと思えばいつだって会える。これは言い切ってもいい」

 女の子はぶすっとして、それきり黙り込んでしまったから、彼はそれで納得してもらえたのだとおもっていた。

 が、次の日になって、暗くなっても彼女が帰ってこないので方々を探し回っていると、そのおともだちらしき男の子に連れられて、彼女はべそべそ泣きながら帰ってきた。

「心配したんだぞ!」

 男親が怒鳴ると、女の子はそれをきっかけにしてギャーとすごい声で泣いた。それを慰めるように、となりに立っていた、そまつな布を巻いただけの妙に白っぽい印象のある男の子が、彼女の背中を撫でながら言った。「叱らないであげてください」

 男の子の、鈴を転がしたような声を、男親は不審感を持って聞いている。「好きで泣いているわけではないのですから」

 しかし最終的に都行きは決行された。もう長女も何も言わなかった。何も言わないで、笠をかぶってじっとしていた。


 そして出発の朝、一家は元住んでいた家を焼いた。何のためにそんなことをするのか? とか、そこまでしなくてもいいのでは? などといった反対意見が出るのを見込んで、老人などは、「過去を決算する必要がある」とか「二度とここへ戻らない、不退転という言葉を知っているか」とかいった理屈を用意していたが、誰も何も言わなかったので、そのままになった。

 家は、早朝の清々しい空気の中で豪快に燃えた。老人はその炎の燃え立つ姿を眺めながら、ほのかに興奮していた。彼や連れ合いが長年、ほころびが出るたびに繕って、だましだまし着続けてきた着物も、欠けた茶碗も、売れ残りの竹細工も、一緒に住んでいた家蜘蛛も、逃げ遅れたねずみも、みんな燃えた。

「あ、竹とんぼ!」

 一人の女の子が、おもいだしたように言った。「燃える、燃える!」

 燃え盛る小屋の方へ走り出そうとした彼女の腕を、老人は慌てて引いた。「もう遅いよ。諦めなさい」「燃える!」「また作ってあげるから!」彼が叫ぶように言い聞かせると、その剣幕に女の子はギャーと泣き出した。「行きたくない。ここがいい。離れたくない」「今更そんなことを言うんじゃない」彼は少女をとがめたてた。女の子は男親に怒られて、それから小屋が完全に燃えてしまうまで、グズグズと泣いていた。もう片方の女の子がそれを慰めるようにしていたが、それでも女の子はずっと泣いていた。

 彼は興を削がれたような気がした。せっかく、清々しい気分で、新しい気持ちで、新しい場所にこれから出向こうとしているのに。この女の子は、このように出鼻をくじくようなまねをして、一体何を考えているのだろう……

 それから彼らは人の住んでいるところまで降りていって、小金を持たせて、荷物を運ぶための馬だの、従者などを集めた。彼がてきぱきと、まったく家長精神を発揮させて張り切っていると、普段から懇意にしている農家などが、出てきて、「一体この騒ぎはどうしたことか」と尋ねるので、彼は親戚筋に当てがあり都に仕事を紹介してもらうことになった、もう自分たちも歳だし、先立つものなど元々からしてなにもないのだから、最後に一花咲かせるのもいいだろうということになった、つきましてはとていねいに挨拶をし、これ選別にと特別にあしらえた竹櫛などを進呈すると、農夫は目を白黒させていた。

「それでは、みなさんさようなら。どうかいつまでもお元気で」


 さて、都に無事到着し、親戚筋(連れ合いのいとこの婿をとった先の主人の姪)を頼ると、はじめは怪訝な顔をされたが、やはり富の力は偉大というべきか、然るべきものをちらつかせると、先方はすぐに力になってくれた。都の外れの方ではあったが、空き家同然になっているというほとんど廃墟と化しはじめている屋敷を紹介してくれ、職人などを雇って、それを人心地のする屋敷に仕立て上げた。彼は、その親戚筋の男がもののついでにできればいいんだけど、とお伺いを立てきたので、それに喜んで応じ、彼の家の築地の壊れている場所や、人手が足りなくて荒れている庭やなんかの草を刈り取る職人なんかをどんどんやって、家主に喜ばれた。更にその親戚筋の男が、この屋敷も元々古いのをタダ同然で譲り受けて、少しずつ補修しながら暮らしてきたが、どうやらガタが来始めているようだ、どうせなら新しく立て直して、清々しい気持ちのする邸に住みたいものだ、などというので、ああいいよいいよと老人が言っているうちに、結局その邸内には新築の、まだ檜の匂いがたっぷりする、すてきな家が建ってしまったのだった。

 そのような新築の屋敷が突然現れ出でるようなことがあって、近所の連中が黙っているはずがない。もとより狭い都の中だ、その評判を聞きつけて、その家には幾人もの親戚連中(自称含む)が流れ込み、資金源を尋ねて暇がなかった。そして竹取はあちこちに紹介され、それで、金が人々との縁を繋げるというのを知っているから、求められるままに、金を貸し付けていたら、いつの間にかその辺一帯の評判を取るようになった。

 古いものの本などによれば、竹取の名が一躍有名になるのはその美しい娘によってとある場合があるが、まずはじめに彼が有名になったのは、その本人の蓄財によってであったのだ。

 竹取は都から離れて半日ある場所から黄金を移動させてきた。讃岐邸と名付けられた屋敷の蔵のなかには、それこそ唸るほどの黄金が蓄財されていて、どうしてか減ることを知らなかったので、彼の財力を当てにして、方方から人が訪れた。彼から金を借りた人間の多少はその金をせしめたまま姿を消したが、すべての人がまた踏み倒すということもなかったので、彼の蔵にはまだ白く染めていない白絹や、きれいに染められて、まだ染料のにおいがふんぷんとする反物なんかがたっぷり積まれ、富は富を呼ぶらしく、竹取はますます富に肥え太って行った。


 ある日、それは三日月の頃の晩であったが、老人は連れ合いに瓶子でにごり酒を注がれながら、ふとおもいたって、赤ら顔をその老婆の方に向けた。「そういえば、あの子たちは一体いくつになったのかな」

「さあ……」

 きれいな着物に身を包んだ老女は、膝のあたりに瓶子を置いて、じっと下を向いている。

「女の子なら、裳着でもしなけりゃならないころなのかな?」

「裳着ってなんですか?」

「ええ? お前はそんなことも……」老人は識者ぶって、大仰な態度で呆れてみせる。それから糟糠の妻に向き合って、いかにももったいぶった素振りで、彼女に説明して聞かせるのだった。

「あのね。これは大切なことなんですよ。娘たちをりっぱに成人させるということは、親としてこれはね、当然の、義務なんですよ」

「はあ」

「おまえはなんにも知らないんだねえ」老人はゆううつそうに、しかし悠然としたしぐさで、ゆったりと視線を伏せた。

「やっぱりそうしよう。あの子達のことを考えるのなら」

「考えるのなら、モギをすべきなんですか?」

「そうだよ。そう決まっているんだから。そうに決まっているじゃないか」

「誰が決めたんですか?」

「は?」彼はちょっといらっとして、「そんなことは……」知らないのだった。しかし知らないなどと、一家の家長たるべき男が、へらへらとした態度で口に出せるはずもない。なので彼は、「そう決まっているから、そうに決まっているんだよ」と、言った。

「だから、誰が?」

「だからさ、」食い下がられて、彼は土器を膝に置き、「御上だよ。京の都のお上だよ。天下御免の主上でしょう?」

「主上って?」

「なんとした」

 彼は愕然として、おもわず膝にあった土器を、その場に叩きつけた。ぱん、と乾いた音がして、土器は粉々に砕け、酒がその場に散った。

「恐れ多くも、この天下を統べるところの御方を知らない? 君ね、それでよくこの私の伴侶が務まっているね」

「あいすみません」連れ合いはただその場を収めるだけのためにその言葉を口にしたに過ぎない、というようなほとんど感情の乗らない声で謝罪したが、いいあんばいに酒の回っている彼には、そのような彼女の心の裡の機微などはわからない。彼は、最近になって付き合い出した京の都に出入りしている下っ端の雑色なんかから聞きかじった知識を、ほとんどそれを右から左に「はあ、はあ」と適当に相槌を打ちながら聞いている老婆を相手に捲し立てて、それでいい気になっているのだった。

「とにかく、あれほどの器量だ。うちの娘達にも、都のお姫さま方に劣らないような、立派な裳着を執り行ってやらねばいけませんぞ」

 などと、言って、ひとりでほくほくしていた。


****


 明けて翌日。

「君たちを呼びつけたのは他でもない」

 と、老人は居住まいを正して言った。

 円座にちょこなんと座った二人の女の子は、全く同じ顔をして、高座に座っている父母を見た。彼はぱちん、と、出入りの商人から最近買ったばかりの、馥郁とした麝香の香りなんかが漂う扇などをぱちぱちと手のひらに打ち付けながら、まだあどけなさを残す、ふっくらとした面持ちの、かわいい二人の娘たちを眺めた。

 その儀式に思い至ったのは、なにも彼だけのおもいつきではない。彼に知恵を入れたのは、老人夫婦がここへ越してきてから、関わり合いを持つようになった連中で、酒の席などで親族の話になり、娘が二人いるというのを打ち明けたら、歳は、婿の来手は、ないのであればどう考えているのか、など、やいのやいの言われ、「そりゃあ、まあ、いい人が居れば、いつだって構わないとおもうけど」などと、老人が適当なことを言っていると、「当然裳着は済ませたんだろう」とか、言われて、「も、もぎ?」と首を傾げたのが悪かった。

 その場にいた二三人の男は顔を見合わせたが、ちょっと仕方なさそうに笑い合って、「してないの?」と尋ねた。

「や、ハア、しようとはおもっているんですけど。なかなか」

「娘さんいくつ?」

「ハ。その。なんといいますか。どうなんでしょうね。むすめたちにも、良い縁があれば、これはぜひとも結びつけたいとばかり願っている私ですのに」

「裳着も済ませないむすめさんでは、結びつけようたってこれは無理な話で。一体それで、おいくつなの?」

「はあ」

 老人は乾いた目を瞬かせた。「そうですね。どうなんでしょう。十二歳くらいですか」などと言ったら、また馬鹿にされるだろうなというのはさすがの翁でも分かったらしく、ここはきっぱりと「はいお陰様で。今年でちょうど十二歳」と答えた。

「それはまあ」

「まあまあまあ」

「おめでとうございます」

「それでは私どもで腰結役などお世話しましょう。どうです、吉日など選んで」

「ええ、それは、もう。でもねえ」

 老人は焦りつつ、「むすめたちにも聞いてみませんと」などとその場はお茶を濁し、翌日以降になって、都に出てきたとき散々世話になった親戚筋の家へ出掛けていって、裳着だの腰結だの、”人並みの”人間が当然知っているようなことを、教えてもらいに通った。その親戚筋の家の者は都に出仕してい、貴族の屋敷に雑色を出す程度の家ではあったが、それでも山出しの、最近になって急に羽振りの良くなった彼などよりはよほど”都会人”ではあった。そのようにまったくの田舎者であるところの彼を邪険にすることもなく、その家の者はこまかく様々のことを教えてくれた。彼はそのたびに、感謝の気持をこめて、まだ染め上げていない白絹だの米だのを送って、家のものに喜ばれた。


 そのような予習学習を経ての今日である。まさかまさか、一家の家長であるところの彼が、裳着も知らないということでは具合の悪いことおびただしい。彼は、もはやむかしの竹取などではないのだ。すでにして、明日死ぬともしれないような身分では居られない。これからは教養だ。地位だ、名誉だ。金はうなるほどある。一生食うには困らないだろう。きれいな着物、清潔な檜造りの屋敷、檜皮葺きの屋根、うつくしいむすめたち。その先にあるのが我ら一族の幸福なのだ。それを叶えてやるのは、現実と実現してやれるのは、一家の家長たるところの、この俺しかいないだろう……

「どうだろう、君たちも、すっかりおとなになって」

「ほんとうに。おまえたちは、婆たちをわずらわせもしないで、すくすくと」

「はっきり言ってね、驚いてます。そうでしょ? 大病もしないで、健康に育って」

「まあわたしらはなにもしていませんが」

 連れ合いはおっとりと言った。彼はちょっと隣の婆を睨んで、それから振分け髪の、ぽちゃぽちゃとした女の子ふたりのほうに目を向けた。

「とにかく、ほんとうに。大きく育ってくれて、私達はとてもうれしがっていると。そしてそのお祝いがしたいなどと、かねがねおもっていたのですが」彼は膝を乗り出し、「つまり、君たちのおとなになるお祝いがしたいという、こういうわけです」 

 子どもたち二人はじっと黙って彼らの方を見ている。

「じゃ、そういうことで。三間向かいの源さんが腰結役を引き受けてくれると言っていたんでね」

 老人がうきうきとして、この話は終わりだとばかりに腰を上げた、その時だった。

「お父さん、僕は嫌ですよ」

 それは長女の声だった。

 長女は背筋をすっきりと伸ばし、どこかを決然と見つめているような、しかしその実何も見てなどはいないような、とにかく朝の冷たい水のような視線で、めのまえをまっすぐに見つめて言った。

「は? 何?」

「僕は学問がしたい」

「え?」

「僕はお友達と約束をしたのです。必ず再び会おうと。それまでに、僕は万全な体制で、彼と再びあいまみえたい」

「いや、そんなこと急に言われても」彼は後頭部をガリガリ掻いた。「ちょっとわからない。すいません」

「乱暴なことを言っているというのは承知しているのです」

 言って、長女は目を伏せる。彼はそれで、少しホッとする。彼女の高圧的な……、というより、他人をその視線の先に縛ってしまうかのような、特有の目の使い方が苦手だった。こちらのちょっとした嘘、思惑、欺瞞、それすべてが暴かれ、まるで”すべて知っている”と見透かされているかのような……

「何を言っているのかわからない」

 彼は、彼女の射るような視線から逃れられたのでちょっと元気を取り戻して、「女の子が……、一体、何を言い出すのかとおもえば」彼は隣の老婆を見、「まったく何を言い出すんだか」と援軍を求めるように言う。

「そうですよ。女の子が、学問だなんて、意味がわかりませんよ」媼はそれを受けて、本気で何も分かっていないような声色で言う。

「でも、裳着なんか済ませたら、婿取りなんかをしなくてはいけないんでしょう」

「ん? んん、まあな」

 彼はしゃっちこばったそぶりを見せて腕など組み、「もちろんおまえも承知の通り、裳着というのはいちにんまえの女の子になる儀式であって、それなりの女性であるならば誰だって欠かしてはいけないものなんだよ。それをすることによってはじめて一人前の人間としてみとめられることになるんだからね。そういうたいせつな話をしている時に……学問とは何だ、学問とは」

「だって婿なんか取ったら、余計に学問しづらくなるでしょう」

 長女が、なんでこんなかんたんなこともわかんねえんだ、みたいな言い方をしたので、翁の方もちょっとむきになって、「女の子はそんなことをする必要はない!」と、声を荒げてしまう。

「大体から何なんだ学問って。なんで突然そんな話になるんだ。お父さんはね、おまえたちのためをおもって」

「ですから僕にも多少の猶予が欲しいと言っているのです。こんな機会でないと頼めませんからね」

 女の子は事務的に言いたいことだけを淡々と言うと、更に言葉を続けた。「それに、女ならもうひとりいるでしょう」

「だから?」

「だから私に、女性らしいものについての期待を掛けるのは今後一切止めにしてほしい」

「期待? 親が子に期待を掛けることのどこが悪い」

「女ばかりが二人いても仕様がないでしょ。それに人間というのは往々にして分というものがあるものです」

「…………」

 こいつ一体どこでこのような言い回しを覚えてくるんだ、と翁はおもうが、そもそもこの女の子は普段からこういう喋り方をしているのだから仕方がない。昔はもっと違和感のない話し方をしていた気もするが、都で暮らすようになってからその違和感は顕著になった。しかし今に始まったことではないのだ、このなまいきな言葉遣いは……

「この家を統べるのはこの妹でいい。彼女はそういうことに向いている女です。僕はそういう方面はからっきし……駄目だ。であるからこそ、彼女の下支えがしたいんです。僕の言いたいことがわかりますか?」

「わかりませんね」老人はいらいらしながら言った。「それだとまるで、君の唯一の妹を、人身御供にでも立てるような言いぶりじゃないか。自分だけ、学問だの、友人との約束だの、かってなことを並べ立てて、妹の気持ちなど、ひとつも考えずに……」

「いいえ、これは双方の意見の合致した結果です」長女は悠然と答えた。「僕と妹は一心同体……いつでもおなじ心でいるんです。僕たちはいつでもいっしょでした。僕たちはいつでも仲良しだったんです」

「ほんとうか、それ?」

 彼は訝しんで、長女の隣りに座って、いままで静かに俯いていた次女に向かって尋ねた。

「言わされているんじゃないの?」

「いいえお父さん」次女は透き通った、甘い水のような声で言った。「お姉さんの言う話はすべて本当のことです」

「いいですかお父さん。今からする話は、すべてこの一家の利害に一致しているんですよ」

 老人はうろんなしぐさで顔を上げる。

「僕は寺に入りたいんです」

「……はあ?」

「でも女の身でそのようなことは、無理でしょう。後家になって髪でも切らない限り」

「当然だ」

「お父さんは『とりかへばや物語』を知っていますか?」

「は? 何?」

「”御心のうちにぞ、いとあさましく、返ゝとりかえへばやとおぼされける”……、分かります?」

 チラリ、と挑戦的な目を向けられて、老人は真っ赤になって憤怒した。「なーにが分かりますじゃ。もったいぶってないでさっさと要件を言わんかい」

「残念ながら僕たちは男と女のきょうだいではありませんが」長女は次女を見て、にっこりと美しい弧を描いて微笑んだ。

「お父さん、僕は今日から、男になればいいとおもうんですよ」

「ああ?」

「つまり……」

 で、長女の説明。

 自分はこれから勉学に励みたい。世の中にはまだまだ自分の知りえないことがたくさんある。それを僕は他ならぬ、無二の友人から教わった。その時に自分は学問の楽しさと世界の広さを知った。ついてはその学問によって、今後は身を立ててゆきたい。それには莫大な時間と莫大な費用の他に、然るべき場所へと接続する必要がある。しかしてその手立てとは?

「だから宮中に出仕する?」

 老人は、話のあまりの突飛さに、呆れてみせることしかできない。

「なにを寝惚けたことを。大それた。神をも恐れない……、自分を誰だとおもっているんだ。まだ大人にもならないこむすめのくせに。なまいきをいうんじゃないよ」

「ですから、裳着をするという話でしょう」

「だから?」

「だから、僕も元服をすれば、もはや立派な大人ですよ」

 彼女は冷静な調子で、ごく日常的な会話に興じているかのような言い方をした。「そうすればもうこむすめなんかじゃありません。お父さんも、それを言いたくて、今日だってこうして話し合いの席を設けてくれたんでしょう?」

「…………」

 ああ言えばこう言う彼女の弁舌に、彼はほとんどうんざりしながら、短くため息をついた。「まあ、そうだけど」

「それなら早いとこ、そんな面倒なことは済ませてしまいましょうよ。僕たちもずっと、その話をお父さんたちとしたかったんだ。ね」

「ええ、お姉さん」

 などと、言い合って、姉妹は睦まじそうに視線を交わしている。

「いやいや待ってくれ。やっぱりわからないな」

 話を終わらせようとしている二人に、老人は待ったを掛ける。「ぜんぜんわからない。それがどうして、この家のためになるんだ? 自分たちだけでわかっていないで、こっちにもちゃんと説明してほしいな」

「え? ああ、だから……」

 落ち着いた様子で、長女は色々と話し始める。


 ところで、多少唐突なようだが、この時代においてのその”美しい”とは、一体どういった状態を指しているのか。

 その問題を私どもの生きる現代にうつしてみてもやはり、”美しい”という状態を指し示すには様々な価値基準がある。どんなものを”美しい”と感じるかというのは、もはや個人の感覚それのみに委ねられていると言ってもいい。他人が見て胃がムカムカするようなものでも、他方にしてみれば拝みたくなるほど麗しくなってしまう。それが美というものだ。そうあり得てしまうものが現代における美というものだ。

 そのような現代において、絶対的な”美”という状態がありえようか? たとえあり得たとしても、その美の観覧者が対象とする美を美だと認めない限り、結局そこに他者に評価されるところの美は存在できなくなってしまう。万人がその美を認めるところの対象を、たった一人の、心根のねじまがってしまった、あるいは美を美と認識できない、あるいはしたくない、認めたくないものが「美しくなんかない!」とその状態を否定してしまえば、そこに美という状態は存在できない。他者の目に映し出され、他者がそれを認識し、それを“美”だと認めない限り、それがいくら美しくとも、いくらその他大多数の評価を得ようとも、そのたった一人の美の否定者としての他者の前では存在を認められることがない。美とはそれをそれとして肯定する他者がいてこそのものだからだ。

 で、あるからこそ、現代においては美しい、などという抽象的でしかない、あいまいな概念は水に落ちたパンのようにぶよぶよ、もろもろになっていて、それひとつひとつについて”美しい”だの”美しくない”だのといちいち決めつけることはもはや無意味になっている。つまり、”美しいという状態”とは、「こうである」と断定する、決めつける、決定してしまう、という行為がもはや不可能になっているということ。

 そういう現代における状態をふまえてこの時代のみにその問題を限定すると、正確な情報は各種然るべき文献をあたってもらうとして、この文章内においての「美しい女」という状態を大まかに表せば、その条件は五つ程度に絞ることができる。

 第一に、肌の白さ。

 第二に、黒々とした髪の長さ。

 第三に、教養があること(特に歌、『和漢朗詠集』や『白氏文集』など過去に詠まれ、編まれた歌には通じているのが望ましい)。

 第四に、あどけない、子どもっぽい、苦労知らずのような顔立ちであること。

 そして第五番目に、然るべき家柄の、きちんとした基盤と格を持つ家の娘であるということ。

 他にもまだまだ挙げようとおもえばあるのかもしれないが、それらの大体も、この第五番目の条件さえあればらくらく叶えられるものであるはずなので、この時代においての美しさとはやはり、家柄の良さそのものにほかならない(この美しさというのは”男にもてる”類のものとは全く違っていて、それはそれでまた条件が微妙に異なる)。

 この時代はいわゆる「招婿婚」の時代で、「招婿婚」というのは読んで字の如く「婿を家へ招いて婚姻を取り計らう」ということだ。然るべき地位にいる貴族が、然るべき地位の貴族の家に住む娘のもとに夜ごと通う。それが三日続けば結婚と相成る。二日目で行くのを止めてしまったりすると婚姻は結ばれない。

 晴れて夫婦同士となった彼らも、同じ家に暮らすことはない。婿は、その都度妻の家へ通うのだ。だから「通い婚」。よっぽど通いあう夫婦になれば夫の家に妻を迎えることもある。そしてこの頃は一夫多妻制が採用されていたので、気の利いた男なら、京の都のあちらこちらに通う家を持っていて、あっちへ子どもを作り、こっちへ子どもを作り、飽きれば通わなくなり、通わなくなればそれで離婚は成立したも同然というまったりしたもので、そういう状況に鬱々としていた人妻が書いたのが『蜻蛉日記』。そこには一人の女に心血を注いでくれない夫についてのあれやこれやが連綿と綴られていて、一夫多妻制というものを、その制度を強いられるすべての人々が歓迎していたわけではないというのがうかがわれる。

 で、「美しい女」だから自動的に「もてる」ということでもなく、美しくなくても一夜限りの関係なら、あるいは愛人としての、遊び程度の関係なら、所々の条件が揃えば結ぶことができる。たとえばそれは会話に対する当意即妙さ、レスポンスのみごとさだったりする。

 そのような態度がなぜ「モテ」につながるのかというと、この時代の貴族は、老いも若きも相手とのちょっとしたやり取りの手段に和歌を採用していたからだ。

『夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ』などいう、あれである。これはかの清少納言が同僚の職員に向けて歌ったもので、たったこれだけの歌でも、様々な意味が込められていて、その五十七五七々のなかにどれだけの情報が組み込めるかが宮中人の教養を色濃く物語るものになっていた。

 たとえばこの歌は、夜になって清少納言の部屋に遊びに来た宮廷人(大納言、苦労人の行成氏)が早々に帰ってしまい、その翌朝に彼が手紙をよこしてきたので、清少納言はからかい半分に、この歌を送った(らしい)。彼女の送った歌の中には元ネタとして『史記』においての「函谷関の故事(孟嘗君という男が牢獄から逃げるとき、一番鶏が鳴くまでは開かない関所を、部下に命じて鶏の鳴き真似をさせてむりやり開けさせた)」を下敷きにして、「「逢坂(関所)」と男女の「逢う」を掛けた掛詞、「その故事のように、あなたのお手紙の中の内容だって、鶏の鳴き真似のような空言なんでしょうよ=どうせ本気じゃないのだから途中で帰ってしまったんでしょう?」的ニュアンスまで、あの短い歌の中で表現しているそうだ。これがいわゆる当時の「教養ある女性」であって、こういった軽快な手紙のやり取りなんかを男と交わすことができる女性が、「話せる女性」ということになって、その当時は大いにもてはやされたのだった。

 同じく交流をするのなら、話が楽しくて、一緒にいて面白いほうがずっと良いということ。それは女というおのれそのものに、ひとつずつ付加価値をつけていくことでもあった。

 これは、かの竹久某がかつて標榜したとかしないとか言われる、女などというものは私の良き人形であればいいというような考え方とは全く違っていて、あなたと呼べばあなたと答えるなどという頼もしいものでもなく、その場に合った適当な言葉を、会話の中にどのくらい織り込めるかということ、それ自体にその個人の女性の価値がおかれるようになるということ、受け答えがまずい女はその程度の教養だとおもわれて侮られるし、気の利いた歌で返してくれば、これはちょっとした女だ、そまつには扱えないぞ、と周囲が彼女に一目置いてくれる。宮中においては、そのひとつひとつの交流、ひとつひとつの会話において、常にその人の力量、能力が測られ、判別されていくということ。もちろん宮中におけるすべての働く女性が、ひとつひとつの会話を審査され、合否をつけられるということでもない。それはごく一部の部署に仕える女房たちにとっての話で、そのような審査される対象になった働き手たちが、のちに女房文学と呼ばれる一大ジャンルを築き上げたのだ。

 彼女らがいわゆる”キャリア組”として誇りたかく働いていた部署が中宮職であり、それは宮様にお仕えする女房たち、つまり宮様の開く文芸サロンに最も適していると思われる女性たちが選ばれているわけで、彼女たちはそんじょそこらで仕えるような並の下人ではなく、神にも近い人のもとで、そのお世話を仰せつかっていた人々だということ。そのようなハイクラスの環境にいれば、誰だってその日常的な、職場においての言動は、そのいちいちを審査されてしまうだろう。この職場にふさわしい人物なのか、教養を持っているのか、家族構成は、出身大学は、成績は、日頃の態度は、交友関係は……、彼女たちは、その日常を職業として生きてきた人々なのだ。そんな彼女たちにしてみれば、職場恋愛や職場でのそういった行為は、当然ですらあった。そういう彼女たちにとってすれば、職場で”モテる”ということ(つまり、周囲の人物に好意を抱かれるということは人間関係を円満にするということにもつながる)も、職業の一部だったのかもしれないのだ。そういう人物に値する人間として、雅やかな、神にも等しい御方を中心として栄える、きらびやかな貴族たちから認められるということは……

 彼女たちの教養は、そして彼女たちを外見以上に美しく飾ってくれる。それがその時代においての美しいということにも成り得る。教養ある女はそれすなわち自動的に美しいものでありうるのだ。

 しかし、そのような美しさも、彼女たちの絶対的な安心や、絶対的な地位を確立させることはできない。

 たしかに彼女たちはその才気を十分に発揮させて、蝶のように花のように公達たちを魅了する。しかし彼女らがそういった教養の交流の結果として、彼ら公達と永続的な縁を結ぶことはほとんどない。お互いがお互いの永続的な関係を、初めから求めていないからだ。女達は、宮仕えというものがそういうものだと割り切っているし、男たちは男たちで、職場に華を添えてくれる彼女たちの才気を歓迎こそすれ、それ以上のものは求めない。教養で彩られた美しさは蝶を誘うが、誘われた蝶は決して最後まで蜜を吸うことはない。教養のみの美しさで、彼女らは他人との婚姻を結べない。なぜなら、彼女たちには然るべき身分がないからだ。元々釣り合いの取れる家々の婚姻では決してありえないからだ。

 たしかに名家から宮仕えに来る女性はいる。しかしそれも所詮は高位をもった貴族のお嫁さん候補、主上の後宮行き候補に過ぎず、そういう彼女らには、もしかすれば和歌の特別才気走ったものなど必要ないのかもしれない。それは、多少文のやり取りもできるような頭くらいはあってもいいのかもしれないが、先に上げたような清少納言の、その一歌に二つも三つも意味を織り込んだような、上等な和歌を読む必要はない。清少納言たちは万全とした後ろ盾がないからこそ(例えば女房文学で活躍した女性の父親は多くは受領階級(地方長官)だったりする)、そういった一芸が必要になるのであって、元々すべてを持っている女は、それ以上の武器を必要とすることはない。上等な歌を詠むことも、特別な後ろ盾のない彼女たちにとっては生きる手段のひとつなのだ。

 しかし、立派な家に生まれ、世をときめく、高級貴族に愛され、その子どもを生みまでした女性も、結局『蜻蛉日記』などに見られるような恨み節を残している。地位を持った女も、持たない女も、結局不幸になってしまうのだとしたら……

 考えてみれば……

 宮中で働くなど、この世の天上で働くも同然だ。この世に主上以上のものは存在せず、あまてらす彼がすべてを見下ろし、その他諸々はその光の中でその発光体を見上げる、という体でこの世は進んでいる。もちろんその御代ごとによって力関係は違うだろう、主上に主権が置かれている場合もあれば、摂政関白がその全権を握っている場合もあるだろう。もしかすればそれ以上に、皇太后がその権を握っている場合も、しかしやはり形としては、主上の存在がこの世の絶対だ。

 しかし、そのような場所で働いていたとしても、彼らのその地位は絶対ではない。それは男でも女でも同じように平等に、明日ともしれない日々を、形は優雅を装いながら、しかし背中にはキラリと光る刃物を突きつけられている……それは政敵であったり時勢であったり、飢饉であったり風土病であったり、人間関係であったり酒を飲みすぎての糖尿病であるかもしれない、様々ではあるだろう。後ろ盾が強力な公達だって、その後ろ盾が早くに死んでしまえば、そのまま自身の地位だって危うくなってしまう。元々高貴な生まれだったにもかかわらず、父が早くに死んで、その地位をガタつかせてしまった貴族もいる。だからそういう際の危機回避のためにも、縦のつながりはもちろん、横のつながりだって大切にしなければならない。

 自身の境遇が危うくなった時に、どのくらいその自分を支えてくれる存在を作っておくことができるか。平安貴族と言ったら日がな一日蹴鞠したりポロしたり恋したりとまったりしている印象もあるだろうが、その反面、一寸先は闇という状況に置かれ続けていたのも事実なのだ。だから彼らは常日頃から忙しく奔走していた、実は平安貴族というのは超ハードだったのだ……と片付けるのも可能かもしれないが、やっぱりやることがないからそうやって無理やりするべきことを、色々な規則を作って行動をガチガチに固めて、”本来なら暇であるはず”というのを気づかせないために忙しがっていたのかもしれない……が、それもやっぱり物の見方の視点の位置の移動に過ぎなく、本当に忙しい人は忙しく、暇な人はそれなりに暇だった、ということに落ち着くのが一番無難なのかもしれない。

 閑話休題(それはさておき)。

 美には条件がある。一に外見二に教養三に家柄、そして他ならぬ美を一番に飾り付けるもの、それが”噂”だ。

 男たちは、外見とか、教養とか、家柄とか、そういうものよりもまずはじめに、”噂”によって、女性を好きになったのだ 。

 まず第一に、元服を済ませ、成人になった男は、その日常生活において、成人した異性の顔をまじまじと見るという機会を持たなくなる。成人した女性はそのつらおもてを他人に晒してはならなくなるからだ。一体これはどういうことだろう? そう決まっていたのだからそういうことになっていたのだろう。そこに絶対的に存在しているはずなのに見せないということは、隠しているということだ。なぜ隠す? そう決まっているからだ。

 たとえばこの当時の、貴族以外の庶民においては、このようなことは”決まっていない”。だから、女は成人を迎えようと迎えまいと、平気でそのへんを歩いている。それを恥ずかしいことだともおもわない、隠すものだともおもっていない。そうする必要がないからだ。彼らは生活者である。というより、生活以外にやることなどない。重税にくるしめられ、それを払うのでひいひい言いつづけることを生活と呼べるかどうかという話もある……が、とにかく彼らは生活している、三村マサカズいうところの「すいみん食事SEX」を三本の柱として行う、健全な生活者だ。それは、それらを継続的に自身に行動させないでは、文字通り”生活ができないから”行っているという、まったく健全な循環なのだ。彼らの行動には余計なものがない。だから余計なことをすることもない。余計なことをしなくても生きていけるということを、彼らは日常的な行動から知っている。彼らなりの、日常生活における娯楽はあったかもしれないが、とにかくそれをすることによって苦痛を伴うのに、あえて苦痛を伴ってそれを行い、その結果になにも生み出さない、などといった非生産的なことはしないだろう。苦痛の後に快楽が待っているならまだしも……

 が、都という、唯一の”人間が住まうところ”にいる彼らは、そういう苦痛の伴う意味のないことを、まったく意味のあるものとして、”決めていた”のだった。

 というわけで、都における”成人した女性は男から顔を隠さなければならない”というのはあるコミュニティ内のみに有効な常識であって、その行動自体には何の意味もない。しかし、意味はある。それはそのコミュニティ内においては、それ自体が絶対的な価値と意味を生み出す。その界隈以外の人間がふと眺めてみると、「一体何の意味があるんだ?」と疑問におもうことすべてに、その界隈に生きる人々が、その生活のひとつひとつを積み重ねていく歴史の中で、ひとつひとつ規則として決めてきた、”村の決まり”なのだ。

 人が群れて生きていくのであれば、人々は野放図ではいられなくなる。五人でも十人でも、規模はどうあれ、人が集まればそこに特有の規則が生まれる。それらははじめのころは、人々がそれぞれに気持ちよく生活していくための決まりだったのかもしれない。しかしその規模が大きくなるに連れ、その集団の集団の歴史が長くなるに連れ、環境が変われば人々の価値観も変わる。その都度改定していく規則もあれば、そのまま形骸化したまま残ることもある。たとえばこの時代の”成人した女性は顔を隠さなければならない”という規則が今現在でも続いているわけでもないのは、その規則が集団生活においての意味を次第になくしていったからだ。意味のないものはそのうちに歴史の流れの中で淘汰される。しかしこの時代にその意味はまだ残っていた。それだけのことだ。では、この時代においての”女は顔を隠す”というのは、どういった意味を持っていたのか。

 想像をめぐらせれば、いくつか回答めいた意見は出るだろう。それが成人した女性の慎みだったからとか。昔からそう決まっているからとか。若い女はそもそもが他人に顔を晒すものではないから。将来自分の伴侶となるべき男以外には、その顔を見せることはふらちなこととされるから……しかしそのような上辺の意見の奥には、なにかもっと根本的な理由が潜んでいる気がする。……どういうのだろう?

 で、まあ、そういうわけで成人した男というのはめったなことではその対象であるところの女の姿を見ることはできなかったから、というより”そういうことになっていたから”、女の顔を無理やり見るようなことはなかった。だから、彼らは想像した。

 御簾のむこうにいる女という生き物は、すばらしいものだ。僕は、あまり見たことがないけど、女房とかいう職業婦人は見ることはあるけど(女房と呼ばれた宮仕えの女性は他人の前に素顔を晒すことは可能であったので)、彼女たちは、慎み深い彼女たちは、きっとそれとは違う生き物なんだろう。もっとあまやかで、華やかで、触ったらとけてしまいそうなくらいはかなくて、あえかな、何とも言い難いあまいかおりのする、そういう……御簾の奥に深く仕舞われて、多くの人々に傅かれて、ねむそうな目をして、このボクを、このボクの登場だけを待ってくれている……そんな素敵な女の子。

 まあつまり、”めったに見ることができない女”という、価値づくりのために、女は暗い部屋の中に仕舞われ続けたのだった。日照不足でそれは、顔も青ざめる。しかしそんな真っ白な顔がまたいいわあ、なんて価値づくりにまた一役を買ったりして……

 王朝人というものは得てして、その人そのものに恋するわけではない。その人の、”そこにいるらしい”という”噂”そのものに、恋をするというのである。

 昔々あるところに住まっていた人々は、めったに人前には顔を出さなかった。

 男性においてはそのようなことはない。京の都の四角い箱のなかから逃れて全国津々浦々を回れば、やっぱりそんなことはない。男女は平等に、どんな姿かたちをしていたとしても、立派に、まえむきに、お天道様に恥じることなく、そのつらおもてを他人の前にさらして平気な顔をしている。

 が、そのようなことはこの四角い都の中では関係のない話で、というよりも、京の都の貴族には関係がない。関係がないというよりも、知らない。そういう生き物が他所で存在しているということを知らないのだ。知らない以上、対照化することができない。のでお姫様たちには自身が自身の顔を他人から隠さなければならないというのはただの日常的規範であって、であるからして、こういう例の上げ方も、やっぱりあんまり意味がない。

 深窓のお姫様は深窓のお姫様であるからして他人にそのかんばせを露わにするなどということはなさらない。なぜかというと、女性というものは、本来的に、人前に姿を現すような生き物でないからだ。人並みの家に生まれ、人並みの教育を受け、人並みの結婚をすべきとされるその女性たちは、人並みの公達と契りを交わし、みずからの家の世継ぎを産み、”家”を存続させるために、大切に大切に、家の奥の、明かりも差さない暗い部屋に、一日中、たからものみたいに仕舞われている……、それが、立派な、人並みの、女性というものだ。

 で、そんな深窓の姫君と、男たちがどうやって関係を持つかというと、それがやっぱり”噂”によってということになる。あっちの大臣の家には、結婚適齢期の娘がいるらしい。あっちの大臣の家にも、また同じように結婚適齢期の娘がいるとか。どっちにしよう? どっちのほうがより良いかな? その判断基準とは? 気立ての良さとか。料理上手とか……、性格がいいとか、とにかく若いとか、顔が可愛いとか……、まさか、そんなはずがない。そんなさまつなことが判断材料になるわけがない。判断するのなら、それは一に家柄、二に家柄、三四がなくて五に家柄、六あたりで、産後の肥立ちなんかが良ければ望ましい。貴族社会における男性にとって、といってもこの時代に置いて貴族社会以外の社会などは無いに等しいのだからいちいち”貴族”社会と銘打つ必要もないが、とにかく彼らにとって大切なのは、結婚によっての、自身の地位の基盤をできるかぎり丈夫にすることそれのみに終始しているのだ。そのためには、少しでも位の高い貴族の家と縁を結び、その家の家長によって、みずからの貴族社会においての立ち位置を保証してもらわなければならない。彼らの生活にとって、結婚とは絶対的なものだ。それによって妻の家に引き立てられ、舅と良好な関係を築き、役所での地位を確立してもらうこと。それこそが彼らの結婚の意義であり、それ以外のことは二の次三、女性のうつくしさなど、ここにおいては一顧だにもされないものなのだ、とすれば通りがよいのかもしれないが一概にもそうとはいえない。なぜなら、それなりの深窓の姫君であれば、その当時の”美しい”とされる条件は、ほとんどその”姫君である”という存在そのものの時点で、かなえられてしまうものだからである。

 貴族の家にはたいてい金がある。金がなくて零落してしまった貴族の家に、人々は寄り付かない。そのようなものと関係を結んでも、なんらメリットはないからだ。だから平安の「平らかな」時代においても、零落した姫君が、腹をすかせて屋敷の外に出て、そのまま寒さで野垂れ死に、その死体を朝霧の中、犬の舌が舐めているというようなことも起こる。「平らかな」時代ではある。しかし医療もインフラも発達していない世の中で、疫病はある、自然災害はある、貴族以外は全員貧乏という超格差社会で野盗はそこらじゅうにはびこっている、生き物の生命をおびやかすような要因がたっぷり盛り込まれた社会の中で、人々は毎日、しのぎを削って、削っていないように見られていたとしても、やっぱり一日一日を、一寸先は闇を地で行って、けんめいに生きていた。

 で、”姫君である”ということがなぜそのまま美に直結するのかと言うと、姫君というのは将来の妻がねとして、たいていは家で大切に、たっぷりとお金をかけて扶育される。髪をたっぷり伸ばしても、姫にかしずく幾人もの使用人によってきちんと管理され、痛むことはない。外になんか出たこともないから、肌は水を吸ったように重たく青白い色をしていて、それに白く化粧をして香をたきこめば、まだ照明も薄暗い闇の中で、ぽちゃぽちゃとした顔は真っ白く映る。苦労のしようがないので顔はあどけなく幼い。しかしそのような”容姿”に関する「美しさ」などというものは結局些末なことだ。やはり大切なことは彼女の肉体ではない。肉体の美しさなどほとんど問題にはならない。そうでなければ、普段から肉を食いつけないせいでやたらに長くなった腸をしまい込んでいるそのぶよぶよとした、運動不足栄養不足日照不足の、むくんだような、その肌に指を沈ませたらほとんどそのまま指の形が残りそうなほどの肌をした、なんだかよくわからない、言葉もまともに話せないような生き物を、どうやって愛せばいいというのだろう? 男たちは女の肉体を愛したのではない、彼らは、女の精神を、女の気配を、女という、男とは全く違っている別の生き物を、その高級な精神によって愛したのだ。

 なるほど女だちは言葉もまともに話せないのかもしれない。でも歌は良くする。まともな家の女性なら、琴の類をじょうずに奏でるだろう。男たちが噂によって女たちの存在を知り、手紙を送ってアプローチをする、そのアプローチに対する受け答えのみごとさ、そのようなものによって女性の教養を確認し、”ああこの人は、私が愛するに足る人だ”という認識を強めていく、確認していく。

 そうやって精神的に一人の女を”愛せる”という認識、自信、興奮を高めていった先に、そのじれた感情をほぐすように、女の身が褒美のようにして与えられる。そこでようやく、男たちは精神的にも肉体的にも、その女を愛した、のではないか。きっとそうなれば男たちは女の体を得難いものだとおもうし、女だって、今まで触れたこともない、感覚として味わったこともない、自分とはまったく違う形をした生き物を、多少の恐怖を伴ったとしても受け入れるだろう。それはまったく、男女両方にとって、未知との遭遇には違いがない。男女ともに裳着、元服を済ませた男女は御簾越しではないと会話もできなくなってしまうのだから、異性の体に触れるどころか、見ることさえ容易でなくなったところに、たっぷりと時間を掛けて、その肉体を求めるまでの時間が設けられる。その間には、あれこれと、両性が両性についての想像をするだろう、そしてその想像の果てに、暗闇の中で行われる諸々、私どもは、ついつい、戦後の西洋化教育によって、肉体の素晴らしさ、造形美というものは、八頭身、十頭身の、まるで清涼殿の丑寅の角の北のへだてなる御障子の『荒海の絵』に描かれた手足手長の生き物みたいなものを想像して、それ以外の均整の取れない肉体を「美しくない」としてしまいがちだが、貴族社会の、日中であってさえほとんど家屋のなかに日が差さない寝殿造の、更に照明器具もほとんど微量な明るさしかもたらすことのできない、夜闇の、墨を流したようなくらやみのなか、ほんのりと漏れる月明かりや、局に心細く灯る燈台の明かりの中で、真っ白に水っぽく膿んだような女の体、そして真っ白なその白おもては、この上なく美しいものにおもえた、のかもしれない。八頭身のモデル体型の女なんているはずもないし、比較対象がなければ、やはりめのまえにあるそのものこそが最上だ。やはり女というものは、美しいとおもえばこの上なく美しい。であるからこそ、人々は恋をしたし、人を愛した。この時代の美しさというものは、だいたいそのようなものだった、かもしれない。しかしその時代に生きた生き証人の存在が認められない以上、それらはすべて想像の範疇を超えるものではけしてありえない、というのはもちろんのことではある。

「というわけで、妹の美しさを持ってすれば、ひくてあまた、大勢の公達が詰めかけるに決まっていますよ」

「だから?」

「ねえ、お父さんも、少しはご自分で考えてみなさいよ」長女は少し呆れたように、「きっとその噂を聞きつけて、都のあちら、こちらから婿がねが、木に塗った蜜に群がる虫のように寄ってきてくれるでしょうよ」

「虫って、おまえね。恐れ多くも……」

「ですが、われわれが望むのはちっぽけな虫ではありません。もっとおおきな、上等な、素敵な虫ですよ」

「…………」

「お父さんだって」彼女はジリジリと音を立てる、今にも明かりが消えそうな燈台の方を見ている。「人に傅かれるのは好きでしょう」


****


 というわけで妹姫の婿がね探しが始まった。噂はすぐに、とてもかんたんに広がった。

 最近都に越してきた、金貸しの長者が住まう屋敷、その広大な土地の、うすくらがりの奥座敷には、一人の深窓の令嬢が、同じくらいの歳の兄弟に、大切にお世話されながら暮らしている。そのちいさなかわいらしい唇からもれる声は、まるで転がした鈴のよう、その髪は長く黒々として、まるで一本一本が絹糸のようにしっかりとみがかれ、光沢を放っている。わたしも、腰紐を結んであげた時に、おもわず手が触れたが、やわらかな、まだ織られていない絹糸の束を撫でているかのようだった、その肌は水を吸ったように柔く白く、おもわずしがみつきたくなるかのようなやわらかさだった……など。

 もうこうなれば、たまらない。『オツベルと象』を例に取って言えば、のんのんのんのんやっていた、都中の貴族どもは、ぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ。連中が暇を持て余していたからに決まっている。もちろん彼らは画一的ではない。そこに百人の貴族たちがいれば、百人が百人、暇をしていたというわけではない。数十人は、もう、目が回るほど忙しかっただろうし、数十人は、それなりに忙しかったかもしれないし、数人は、物忌みで家に閉じこもっていたかもしれないし、物忌みとかこつけて楽しいことをしていたかもしれないし、まあ、その内情は千差万別であっただろう、が、とにかくその中には、みずからの退屈をもてあまし、自らの地位や、富や、女、人間関係、その他諸々に膿み、疲れ、それらを一種の重圧として自らの中に押し込め、普段には表に出てこないように所有しているものどもなど、もう、掃いて捨てるほど、いた。

 彼らのそのような、日常生活の末に溜まった重圧を、どうやって開放しよう? 酒かタバコかため息か……女か。この時代の今日の都の貴族といえば、早い話がお役人である。武官もいれば文官もいる。それぞれに役割があり、彼らは日々、その割り当てられた仕事に従事している。そのような日常、世の中の現状がいつ乱れるか、均衡が破られるかは誰にも分からない。いつかはそのような日も訪れるだろう、しかし目下のところは天下泰平、平らかな日々である。

 そうでなくともこの頃は、春もうららかな、気持ちの良い季節だ。小鳥はさえずり花は咲き乱れ、やわらかな緑香る季節、恋の一つにでも花を咲かせて、新緑に彩りを添えたいじゃないか。

というようなところで、例の噂である。好色であることそれすなわち悪徳そのものを指すという時勢でもない。むしろそれは推奨されるべき、検討されるべき行動ではないか。というわけで、都の好色な男たちは、老いも若きも、自分の立場や、年齢、妻帯の有無など日常の諸々なんかはすべて忘れ果てて、これから始まる新しい、それも”とても素晴らしいことが予見される、”恋の期待に胸をふくらませているのだった。

 で、それから彼女らの住まうその屋敷に舞い込むようになったたくさんの愛の手紙を、一通一通点検し、これには返信するように、これは無視しておきなさいと、いちいち細かく指導するのは姉君の方で、その指令に従って、妹君は、うつくしい手蹟で、薄様のさまざまな色のついた紙に、つらつらと歌を書き送るのだった。

 妹姫の存在の噂だけは常に都中に漂い続けたが、彼女についての詳細なことは一切、誰一人として知らなかった。なぜそのようなことになるのか? それはひとえに、姉上がその首を縦に振らなかったからだ。

 そもそも、めったなことでもなければ、姉上は妹とその男たちとの関係を良好に紐付けるつもりはなかった。アジやイワシを釣りに来ているのではない。ここでは、もっと別の……だから、その大物が網にかかるまで、姉上様が首を縦に振ることはできない。

 時間はのんびりと流れた。その流れの中には、そののらりくらりとした”仕打ち”に、業を煮やして、行動突撃あるのみと、屋敷に直接直談判するもの、闇夜に乗じて屋敷の簀子縁にまで忍び寄り、その存在だけでも、着物に焚き染めた香のかおりだけでも確かめたいとして、やってくるものまで現れ始めたので、姉上は妹姫に、文を送ってくる連中に、返事を出すのを禁じることにした。

 金が金を呼び、大分のところにおいて羽振りの良い讃岐邸においては、一丁前に侍所なども設けて屋敷内の警備は万全であったから、このたいせつな妹姫に、差し障りのあるような大事は起こらなかった。そして姉妹は大きな魚が掛かるのを待ちながら、仲睦まじく、いつものように音楽を奏でたり、歌を歌ったりして、遊んでいた。


 ところでこの姉妹にはいくつかの共通点があった。容姿が瓜二つなのは当然として、一人は女の身のまま、もうひとりは自身の行動の便利に応じて男装などをしているが(なにしろ裳着を済ませた女の窮屈さというのは、ちょっと他に類を見ないのではないかというほどだ。一人前の女になった女性たちは、その日から人前に自身のつらおもてを晒すことができなくなる。それは男の親兄弟に対しても同様で、会話をするとなれば御簾をおろして扇で顔を隠し……ということになる。むやみやたらに外を出歩くわけもなく、彼女、姉君にとってはそのようなきゅうくつな状況など耐えられない)、それでも二人に共通するもの、それは各自の容姿と、それからまた、大の物語好きということであった。

 まったく、この二人の姉妹は、暇さえあればきれいな厨子に収められ綴じられた冊子を持ち出してきて、それを気が済むまで、飽きることなく眺めている。長子は漢詩や大国の歴史書なども好んだが、次女が好むのはもっぱら物語の類で、特に藤式部なる女房の書きたる、五十四帖にまでなんなんとする長大な物語に、日々没頭し、その内容を陸奥紙に書き出してみたり、また登場人物のあれこれの場面を想像して、絵として描きつけてみたりと、まったく飽くことがないのだった。

 姉は妹の描きたる幾十枚もの絵を眺めながら、描かれている場面を想像する。

「四帖だろう。『夕顔』の……、”六条わたりの御忍び歩きのころ内裏よりまかでたまふ……”」

「当たり!」

 姉はゆっくりと写本の頁をめくり、該当部分に指を這わす。

「”山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ心細く……”」

「”この枕上まくらがみに、夢に見えつる面影に見えて、ふと消え失せぬ……物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す……”」

「劇的だねえ」姉は、ほうと感心するようなため息をもらす。「あなたが好きそうな場面だけれども」

「わたしはお姉さんとは違うのよ」妹はのんびりと言いながら、描きかけの筆の手を止めて、「わたしは気に入った箇所を何度も何度も読んでしまうの。だからこの物語の後半の内容は知らない」

「読むべきだよ。前半と後半ではまったく毛色が違うんだから」

「だからこそ腰が重くなるんですよ」妹は筆に短く墨をつけながら、「お姉さんの説明を聞いていると、いつも感心するけれど、同時に頭が痛くなるわ。源氏が絢爛な恋に身を焦がす様が良いというのに、それをなくしてまで、どうして女の主人公の、それも、よく感情の飲み込めない女、そんなものを据えて、十帖も話をぶったのかと疑問なのよ」

「だから、それはね……」

「そんなものを実際に読むくらいなら、お姉さんが説明してくれるだけで十分だとおもってしまう」

「いや、あなた、それは違うよ。やはり他人の意見など話半分にしておいて、実際に自身で物語を紐解くほうが、どんなに勉強になるかわからない」

「わたしは勉強がしたくて、ゲンジを読んでいるわけではありませんよ」

「まあ聞きなさいよ」

 などと言いながら、彼女お得意のだらだらとした弁舌が続く。妹は墨にちょこちょこと筆をつけて、手遊びに絵を描きながら、それを聞くともなしに聞いている。

「光は確かに恋をしているに違いない。彼は出会う女、恋に値するかもしれない女のなかに“可能性”を垣間見るたびに、”もしかしたらこの人は、僕の欲望をそっくりそのまま叶えてくれる女に値するのかもしれない”などと、一方的な感覚を抱くわけだ……が、しかし、そのようなのぞみは多く叶うことはない。彼は多くの恋をするが、それによってすべてを満足させるということがない。彼は常に飢えている。まるで餓鬼のようにね。なぜそのように女を漁るのか?

 はじめに結婚した相手は彼に冷たかった。それは彼女の生来の気位の高さと、それ故に素直になれないその性格ゆえのものだったが、それをむなしくおもいつつさて周りを見渡してみれば、まあ、女なんてものは掃いて捨てるほど居ます。彼は”この人だったら……”とおもって、その”……”のなかに様々な感情を含ませ(あるいはまったく含ませずに)、”値する”とおもった人に感情を向けていく。しかしその”値する”人々というのはどういうのだ? たとえばそれは自分の父親の再婚相手でした、とか。人妻でした、とか。恋をするにはしたが早くに死んでしまいました、とか、まだ恋する適正な年齢に達してませんでした、とか。零落の姫君だとおもって喜んでいったらすっげーアレだったとか。他にも、田舎娘とか嫉妬深い女とか斎院とか早くに死んだ女の娘とか、まあこの人選だけ取ってみてもおおよそまともらしい色恋には興味がないんだなと。でもそうなってしまう理由もわかる。つまり、彼はこの穢土に降り立ってから一度たりとも、苦労したことがないからだ。

 女というものは彼を楽しませてくれる、困難を用意してくれる、彼はその困難にどう対応しようかと考える。いちおうの最優先であるところの紫の上のめのまえで、それゆえに彼女は適度に嫉妬し、適度に彼を愛し、適度に彼を許す、そしてそのたびに彼は、彼女の彼に向けられる献身そのものこそが、やはりたった唯一のものだったのだ、と自覚はするけどまたそのうちに、別の女の中に”もしかしたら彼のすべてを紛らわしてくれるもの”、”充填してくれるもの”のにおいを嗅ぎつけてしまう。彼にとって恋心とは、その”もしかしたら”の連続なんだ。新しい、恋に値するかもしれない女の存在に出会うたびに、彼は、そういった女の中に適度な紛らわしと充足を見つけ、けれどやっぱり彼の中の空洞は、誰も埋めることはない……彼はそういう女と出会うたびに、ますます孤独になっていく。結局どんなにみめうるわしい女、地位の高い女、低い女、他より何かが特別秀でているとか、劣っているとか、そういう平均値から外れた女を見つけ出し、選び抜くたびに、彼は彼のなかに仕舞い込んでいた孤独と、どうしても対面しなくてはならない羽目に陥ってしまう。

 なぜか?

 彼らには、”すべきこと”がなにもないからだよ!

 たしかに彼らにはしなければならないことがあるよ。日々のお勤めとか、物忌みによる束縛とか、己の家の繁栄を考えること、他者に自身がいることをアプローチし、一人でも多くの他人に受け入れられること。生きるためにしなければならないことはたくさんある。宮中で働くのならば覚えていなければならない常識、秩序、祭りの準備……しかしそもそも、彼らはなぜそのようなことに、身をやつさなければならないのか。そうする以外にすることが何もないからだ。

 食っていくには困らない。そこら中に虫のようにわいて出てくるお百姓が、せっせせっせと、米だの粟だの稗だのを作って、産地直送で送ってくれる。貴族はそれを食べて、月ごとに決まった祭事を執り行って、まあでもしかし、その祭事だって決まり決まりで、覚えるのなんか大変なんだけれども。しかし、大変だからこそ良いのだろうね。少なくともそれを覚えている間には、退屈を紛らわすことができる……

 さてここへ来れば、もっとも退屈している人間とは誰か。恐ろしい話になってきたけれど、これはよくあなたも注意して聞かなければいけないよ。これから僕たちが、君に強いようとしていることなんだから。

 女だ。この世で退屈しているのは女。それも、大勢の人々に傅かれている女……

 例えば、この人もこんな例題にばかり登場するようでやりきれないだろうがしかし、そういう命題によって創作された人物なのだから仕方がない、光という存在の最も対照的な姿ともいえるのかもしれない、美醜という点について話されるのであれば……光は常に美を前提として語られる人物として創作され、また末摘花という女は醜という前提があって初めて語りうるものになる……とすれば。もっとも、これから話したいのは美醜という点においてではないんだけど。いや、多少は関係するのかな。

 つまり……、余計な話ついでに言うのならば、醜という状態も、決して顔の造作の出来不出来だけに限定されたものではないということ。それは女の退屈を感じる感覚とも、少し関係する話なんだ。

 末摘花という人は、とにかく野暮で、貧乏で、教養が薄くて、ぼんやりで、趣味の悪い、鼻の頭の赤い女として描写され続ける。そういう、どこをどう愛していいかわからないような女のことも、光は最後までみすてずめんどうをみてやる。最終的に自分の二条の家に住まわせて、生活を保証してやる。それをするのは、光が“そういうもの”として描写されるために存在しているからに他ならない。光は一度契った女のことを忘れず、その後の面倒も見てやる稀有な存在だ、と性格づけるために、彼は、この時代の男なら鼻にも引っ掛けないであろう女と積極的に関係を結び、それで自己を自己足らしめている、と。そういう彼の性格描写に、末摘花という零落の姫君の性格や境遇は有効利用され、それによって末摘花は野暮天となり、貧乏となり、ぶさいくになって、いつまでも、後世の人々に対しても、綴じられた本の中で、その赤い鼻を晒し続けている……と。

 そういう描写が成されているのだから、やはり後世のわれわれは、末摘花という存在を、”そういうもの”として鑑賞するよりほかはない。末摘花と等号されるのは常に”醜”であり、他の女たちについて語るときよりもずっと、負の要素をたっぷりと含んで、それどころか、その負の要素について語るために、わざわざこうして、引き合いに出されたりする……かわいそうな女。どうしてこのようなむたいが平気でまかり通るようなことがあるだろう?

 でもね、僕は彼女についてそういう話がしたいんじゃない。いや、関係はあるんだよ、でも、”きれいは汚い、汚いはきれい”の例の話で言えば(なんですかそれは? と妹が口を挟んだが姉は無視した)、末摘花の、いわゆる汚さ、負の部分というのは、ひっくり返して見ていけば、それはきれいなもの、美徳へと変わる可能性がある。もちろん、この美徳というのも、一口で言ってしまうと言葉足らずだ。というのはね、本人には美徳かもしれないが、他人がそれを第三者的に眺めた時に果たして、それは美徳と呼べるのか。やはり背徳……というより、悪習ではないか? と見えてしまう場合があるということ。

 とにかく、僕がいいたいのは、女はこの世の中でもっとも退屈している生き物だということと、そして、光が自身の屋敷にやってくるのを、何年も何年も退屈せずに待ち続けた、その退屈を退屈ともおもわない末摘花は、大した美徳の持ち主だ、と一絡げにして決めてしまってもいいのか、ということなんだよ。

 確かに人々にとって、退屈は敵かもしれない。それをみんな感じないように、本来であるならば立ち向かわなければならない長大な、膨大の時間のうずまきのなかにくるまれたくなくて、それで必死になって、公務に乗じたり、祭事に奉じたり、恋をしたり、恋されたり……しているのかもしれない。しかしそのような日常的な動作の数々の隙間に、ふと風が吹くときがある。たとえば、ほら、あったでしょう、柿本人麻呂のね、”あしひきの……”」

「”山どりの尾のしだり尾の”!」

「”ながながし夜を ひとりかもねむ……”ああいう境地、この長大な夜の時間を、たった一人で過ごすのか? そのような恐怖、そういう、夜に忍びやすい恐怖を、日常のすぐ隣にある長い長い時間を、それがもたらす退屈を、われわれは常に身の近くにおきながら、しかし平気な顔を装って暮らしている……しかしこの退屈は、退屈を恐怖する、という感覚と認識があるからであって、この和歌のように、一度でもそういった、永遠ともおもわれるような、長い夜を過ごしたことのあるもの、そしてその時間を”短い”とも感じずに、膨大なものとして捉えるおのれのなかの恐怖心あってのもの……とすれば、先の末摘花はどうであったか?

 彼女は、退屈なんて恐れる心がないんだよ!

 彼女はきっと、心の細やかな、微細な襞を持った、なよやかでおっとりとした気質の女性だったんだろうね。だから、彼女の目に映るもの、見るもの聞くもの、すべてにおいて何かを見出し、決して倦むことがない。ちょっとした風のそよぎを見るのもおもしろいし、真夜中の暴風雨なんかを、室内でじーっと身を固くして聞いているのもおもしろい。そうやって一日いちにちをぼんやりと過ごして、傍目には何をしているのか知らんが、本人は結構満足している……とか。

 しかしその反対、全く逆のことも考えられる。彼女には感じる能がない。何を見ても何を聞いてもみんないっしょ。ちょっとでもあはれの心を解する人が見れば、どんなに素晴らしいものだったとしても、彼女の目を通してみてしまえば、それはただの風、ただの鳥、ただの花、ただの雑草。桜もぺんぺん草も、地面から生えているということだけで、みんな一緒くたにされてしまう。それで本人は平気なんだ。なぜなら彼女には、美を解する気も、醜に惑う気も、あはれやおかしという感情を自分のものにする気も、さらさらないから。ない、と決めて、自覚することもないから。

 そういう彼女は気の毒な存在かもしれないけど、それでも彼女にしてみれば、そのような目を向けられること自体が大きなお世話かもしれないんだ。だって本人はそれで結構立派に、自分の生を維持できていたんだから。そして、そろそろ財政難で、召使いたちが食べるお米にも欠く、屋敷のめぼしい調度品なんかも叔母だの何だのに盗み取られ、それでも「あれあれ」としているうちに逼迫した状況はますます逼迫し、そうしたところに我らが光が、大旗を振って凱旋……

 そしてたくましい彼女は、その”退屈知らず”というまったく、この時代の人間にとっては得難いような、誰もが実は喉から手が出るほど欲しているんじゃないか? というような特性で持って、自分の将来を勝ち得る。これは素晴らしいことなんだよ。

 だってさ、考えてもみてよ。他の人々は”あしひきの……”にならないように、あれこれと手をこまねいて、あくせくと自身の時間を潰すために、あらゆる手段を持ってしてだよ、忙しがっている。人はうまくいかない自身の生に手をこまねき、あくせくし、じりじりし、胃を痛め、酒に走り、女に走り、政治に走り……とあらゆる状態に身を置いて、たくさんのものを自身と対応させることにやっきになっている。どれもこれも、僕に言わせれば、退屈を恐れるためだよ。孤独を恐れるためだよ。しかし彼女にはそのような恐怖など一粒たりとも持ち合わせがない! 本来であるならば、宮中の人々はみんな、末摘花になりたいと望むべきなんだよ!

 彼女には他人は必要ない。それは、女の身であるから、食わせてくれる庇護者くらいは必要だろう。でもそれは光が保証してくれた。だから彼女はあの二条の屋敷で、一日いちにちを、孤独で退屈であるにもかかわらず、優雅に生きていくだろう。その生活は、他人にとっては苦笑ものの様相であるかもしれない。人々は彼女の赤い鼻を笑うだろう。恋もろくにできない、歌も満足に詠めない、服装や態度など当世風の様子もろくにとれない、どうしようもない、そしてそれを気に病むような態度すら見せない彼女はとんでもない、怪物のような女ではあるけれど……しかしどのような、光を取り巻く女よりも不幸ではない。幸福を知らない代わりに、彼女は不幸になることもない。そういう状態の彼女に、憧れることだって決して不可能なことではないはずだ。

 しかしどうする? 妹よ、僕たちは幸か不幸か、末摘花のような立派な人格は到底持ち得ない。僕たちは学識の喜びを、物語の快楽を、四季の素晴らしさを、他人と意見を交わす爽快さを、歌や音楽の楽しさを知ってしまった。僕たちはすでにして、快楽を知っている。それは同時に、退屈というものを知っているということだ。ああ、どうする? あなたがつまらない男とくっついて、その男が、今話したような楽しみを、ひとつだって君に分け与えようとしなかったのなら。君は退屈で死んでしまうだろう。それとも、座敷の一番薄暗いところで、御簾の影に隠れながら、四季の様々を、庭に植えられたごく微量の木々や花々、時々降る雪や雨や、そういうもので紛らわせられるほど、君の中の退屈は薄いだろうか? 僕はそれが心配でたまらない。お前は、僕がここの家へ来る手紙をえりごのみしすぎるとおもっているかもしれないが、結婚するということは君、こういうことを取ってしてみても、なみたいていのことではないのだよ」

 妹は紙にまだまだなにやらを書き付けていたが、姉が言葉を切ったのを同時に、ふと手を止めて、言った。 「お姉さんの言った”えど”というのは、どういう字を書くの」

「ええ? ……話を聞いていなかったの?」 「聞いていたけど。……だから気になったのよ」

 仕方がないので、彼女は妹の筆を借りて、陸奥紙のほんの隅に、小さく言葉を書きつける。「穢土……汚れた地」

「ひどいこと言うのねえ」

「僕が言い始めたのではない」

「では誰が?」

「これはね、『往生要集』といって……」

「源信僧都なの」

「そう」

「お姉さんが、好きそうなことではあるけれど……」妹はさして興味を持っている風もなく言った。「お姉さんはつまり、私に対する言い訳がしたいわけ?」

「いや、そうじゃなくてね……」

「おあいにくさまだけど私は、お姉さんのように悟りきったようなふりをして、すべてをくだらないものとすることはできないの」

「いや、決してくだらないなんてことは言ってはいないよ。だからね」

「お姉さんの言いなさり方。まるでこの世には本物の愛なんてないとばかりに」 「そんなことは言ってない。そうじゃなくて、一度女と生まれた日には、男などにはとうてい愛されようがないということだよ」

「同じじゃないですか」

「同じ……じゃないんだけどなあ」

「人と人は、ほんらいであるならば……」妹はくるしそうに眉根を寄せて、言葉を喉から押し出すように言う。「わたしたちきょうだいのように、意見が違ってもわかりあえるということ……それを教えてくださったのは他ならぬお姉さんではないですか」

「まあ……君がそうおもうのなら、それもいいでしょう」

「私には女たちの気持ちのほうがわからない」

「女……」

「どうしてあれほどみな臆病なのかしら。どうして一縷の望みに掛けてみないの? 恋をする前からそれ自体に怯えたようになって、可能性をきょぜつして」

「いや、だから、それはね」

「どうせお姉さんは、女の立場の弱さとか、裏切られた時の反動が怖いとか、そんなようなことを言おうとしているんでしょう」

「怒っているの?」

「怒ってないわよ」

 しかし妹はイライラしたように、親指の爪を噛んでいる。それは見た目に似合わず激情家の彼女が、物事がうまく運ばない時によくする動作だった。

「物語の中の女はみんなそうだわ。男に虐げられて、好き勝手に方々に女を作られて、かえりみられず、飽きられて、通いもなくなって……」

「まあでもほら、幸福な結末を迎えるお話なんかもあるでしょう。君の話は藤式部の連綿たるあの物語の女たちにのみ特化された憤りなんじゃないの」

「だって私は源氏切りしか知りませんもの。お姉さんのように古今東西のあれこれに通じているわけではないわ」

「じゃ、読めばいいじゃない」

「そんなものにかかずらわっている暇は、私にはないの」

 妹は(姉からしてみれば)、理屈も何もあったものではない好き勝手なことを言って、姉を苦笑させる。いつもこうなのだ、その時頭にのぼった言葉をただ口に出しているだけで、それらにそれらしい理屈の整合性などというものは、とうていのぞめないような……

「女が幸福にならないから不満なんでしょう? そういう話なんかを……探して読めばいいんじゃないの」

「そういう問題ではないわ」

「だって源氏の物語の中で幸福になる女なんかひとりもいないんだよ。それなのに源氏に拘泥する意味がわからないんだけど……」

「悲しいわ。だから私は源氏を読んでしまうの」

「……はあ」あいまいに相槌を打つ。

 彼女は硯の上に筆を置くと、たった今まで何やらを書き付けていた巻紙を取って片手のひらに置き広げ、見下ろす。その長い紙は局の向こう側まで伸び、そこへはなよやかな筆致の、さまざまな趣向を凝らした人物たちが、物語の様々な場面を演じている。姉は近くに広がっている紙を手に取ってそれらの絵を見下ろした。

 妹が言う。

「彼女たちの男に対する態度は当然の行為だった、そうしないでは他にはいられなかったというのも分かる。でもこの世界にはもっと素晴らしい感情があるはずなのに。どうして男女の仲というものは、結局結び得ないとか、むなしいとか、たかが知れているとか、計算づくとか……そういうものでしか測ることができないというの」

「いや、まあ、そうは言っていないけど」

「私は違うとおもうの。本当に好きな同士だったら、分かりあえる、愛を分け合うことができる……」

 カサカサと紙が揺れる。

「でもそういう人はこの世に立った一人しかいない。源氏の女たちはそれを間違っただけ」

「……………」

 姉が見下ろした、その絵はすばらしかった。墨一色で描かれてはいるが、その自由闊達な線は、そのやわらかさと幽玄ゆえに、着色のけばけばしさ、華やかさ、毒々しさ、ドギツさを拒んでいるようにも見える。その筆致に、色は必要ないのだ。それが加われば、かえってこの世界のうつくしさを削ぐことになるだろう。

「まるで『太郎の屋根に雪ふりつむ』だね」

「なんですかそれは?」

「詩を読む人の言だけどね。そういう静かな情景が、紙から匂ってくるようだ、君の絵は……」姉はうっとりして言った。「こんな絵を、いつまでも見ていたいな。君は書の方はまずいが、絵の方はすばらしい。君は本当に天才だよ。こんな絵、宮中のお抱え絵師でだって表現できない。君の画才はとくべつのものだ。君はその才能を誇りにおもうべきだよ……」

「女には必要のない教養だといいたいのでしょう」

「まあ、そうだけど。絵よりも書の方を優先したほうが、それは懸命だろうね」

 姉は手のひらにするすると紙を滑らせ、まだまだ墨痕鮮やかなそれらを眺め見る。「でもあなたはそういうことからは超越している人だから。はじめから、普通の女みたいに考えてみたところで無駄だろう。ところでここの空白はもしかして、わざと残してあるの?」

 絵の描かれている右上辺りに指を這わせる。

「お姉さんに書いてもらおうと思って」

「場面の書き抜きを? 自分で書きなさいよ」

「やっぱり書の素晴らしい人に書いてほしいから」

「こういうものは自分の手のみで完成させるべきだとおもうけど……」姉はさらに紙を右に送りながら、絵を見ていく。「それにしても、ずいぶん描いたね。ちょっと尋常では考えられないくらい。これみんな君が描いたの?」

「ええ、暇に任せて」

「こういう事実が知れたら、殿方たちは紛糾するだろうね。そんならちもないことに時間を費やしているひまがあるなら……」

「まあ、特別興味を惹かない言葉を書き付けてくるほうが悪いんだから」

「言いますね」

「でも、楽しげな人はいくにんかいました」

「そう? 眼鏡にかなう人がいたのなら、頼もしいよ」

「でも絵を描くほうがもっと楽しい」彼女が筆を取り上げる。ちいさく音が立ち、姉は顔を上げた。「みやびやかな方々は、それぞれに綺羅綺羅しいことばで、様々に工夫をこらして、うつくしく装った歌と言葉、薄様紙に重色の色もあざやかに、花だの香りだのを添えて愛の言葉を送ってくれる。それはこの世の中で一番にうつくしいものに成り得るはずなのに、それが達成されない……というのが、そもそもおかしい話で」

「まあね」

「それはやはり、彼らは私には必要がない……」

「それは早急だよ」

「それでも私は、彼らの中からひとりを選び出して、その人のみを頼りにして、それに対して愛情をはぐくんでいくという努力を……」

「そんなことはする必要はない」彼女はぴしゃりと言った。「そんなことをする必要ないよ。愛せないものを無理に愛すだなんて、そのような不健康なことをする必要はない」

「お姉さんはそれを私にを強いようとしているのでしょ」

「していない。誰も好きにならないのならならないでいい。僕はあなたの自由意志を尊重したい」

「それならば、私がついに誰のことも好きにならないで、このお屋敷の暗い隅で、おばあちゃんになるまで好きな絵を描き続けるだけに終わっても、お姉さんは私のことをとがめたてないというわけ?」

「君が……そうしたいと望むなら」妹が責め立てるような詰め寄りをすると、姉は多少へどもどした。「しかし……それもやはり君の自由だろう」

「お姉さんやお父さん、お母さんと、いつまでも一緒に暮らしたいと、私が望むなら……」

 彼女は見ていた薄紙を横へやると、妹の方に体を向けた。「でも君は、ほんとうにそんなことを望んでいるの? 屋敷の中に閉じ込められて、世間の色ひとつ知らず、物語の世界の中ばかりに羽根を伸ばして、それで一生のまんぞくを得るの?」

「…………」

「君にはもっと、闊達な心や、好奇心が残っているとおもっていたが……」

「外に出たって、同じではありませんか?」妹は静かに言った。「女の身などつまらないもの。どれほど男の方から求婚を受けたって、誰彼にからだを望まれたって、結局棲まう屋敷が変わるだけじゃないですか? 好きでもない男に傅かれて、その男のみを頼りにして、その男の言動だけが世界のすべて、そんなちいさな世界より、物語の中の世界の中のほうが、どんなにいいだろう……源氏の女たちだってみんなそうだわ。本当に彼女たちは、源氏なんかのことが好きだったのかしら。みんな、不幸そうな顔をして。被害者ぶって、おのれの身に起きた悲劇を楽しんでいる……」

「被害者ぶる……ということはないだろう」

「どうして女などに生まれたのかしら。ちっとも面白くない。つまらない男からつまらない話を延々と聞かされて、そういうものがうつくしくてあまやかな行動だと信じ込まされて、それでこっちはそのつまらなさに感謝さえもしなくてはならない……、あの男たちが藤式部以上に私のことを楽しませてくれることが一度でもあったの。源氏が与えてくれたような陶酔を、私に与えてくれたことがあったの……」

 言って、女はしばらくめそめそと泣いていた。それを眺めながら、姉は短くため息をついた。

 現実よりも空想の方が面白い。妹の言っているのはそれだろう。確かに、幼少期より様々なものから遮断され、話し相手といえば姉か両親以外には誰も持たなかった彼女だ。他人に対する思慕の念を抱く暇もなく、妹は成人してしまった。彼女は小さな頃からほとんど外にも出なかったから、そういう意味では、家族以外の他人と接触を持つ機会にめぐまれ、それによって学問なんかを生活の楽しみのひとつとしてしまった彼女と妹では、現実に対する期待値の大小がそもそも異なっていたのだろう。妹は、家族以外の他人と接触する機会を持たなかったのだ。そして、そういった他人との直接の接触にによって心動かされたというような体験を、今までにおいて持たない……、それは彼女が考える以上に、深刻な問題だったのかも知れなかった。

「ごめんね、君がそんなふうにおもっていたとは知らなかったんだ」

「お姉さんはいいわよ。男の身になって、方々を好き勝手に駆け回っているんだから」

「君が……それほど女の身を嘆いているとはおもっていなくて」

「いいのよ、別に。今更のことなんだもの。それにどうせ今から女から男に鞍替えしようとしたって、ここまで私の存在が都じゅうに広まっている以上、むだなことなんだし」

「……………」

「だから、私のことはもうどうでもいい」

 妹は、低くそして透き通った声で言った。

「私はその代わりに、女たちにたった一人の人を見つけてあげたい」

「……女?」

「そうでないと、ここへ来た意味がない」

 風がザザザと蔀戸を撫で、すき間から入った冷たい空気がそれをガタガタと揺らした。燈台のちいさな炎が揺れ、ゆらゆらと女の濃い影がそれにつれて揺れた。

 それをぼんやりと見ていたら、ふとした情景が彼女の頭の中に思い浮かんだ。彼女は少し笑った。自分の考えついたことが楽しくて、おもわず笑ってしまったのだった。「僕たちで源氏の続きを勝手に書いてしまおうか」

 彼女は言った。

「それもおもいきり楽しいやつ。出てくる女すべてが不幸な状態に、いやでも陥らないやつ」

「……………」

「源氏の続きというのは正確には違うかも知れないな。源氏を下地にした……、源氏の内容をふまえて……、それを正として……君の言っているような反をひとつひとつ挙げていく、正、反、合、これだよ。僕たちの描くべきものというものはこれなんだ」

 姉は自身のおもいつきにひとり興奮してまだまだ自分の言いたいことをそれから半時ほど(一時間ほど)べらべらと捲し立てていた。妹はおとなしく、どんな動作を取ることもなく、じっとその話を聞いていたが、やがて弁舌も尽きた姉が一息つくと、妹は彼女の熱が丸々移ってしまったかのような口調で言った。

「なぜ、あなたは……」妹は恍惚に似たため息をついた。「なぜ、そうやっていつも、面白いことばかりをいうの」

「いい暇つぶし程度にはなるだろう」

「無いのであれば想像すればいい、物語の女たちに。たった一人の対になる、ほんとうに心から愛せるような人、せめて私の描いた女の子たちには、幸せな結末が訪れるように……」

 姉の興奮がそっくりそのまま妹に移ってしまったらしく、姉は内心気落ちしていたはずの彼女のそういう態度の変化を見て安堵して、今度は彼女が妹の弁舌を拝聴する番になってはいたが、その裡では熱が妹にすっかり奪われてしまったかのように冷めてしまっているのが分かる。

 なぜならやはり、そういうことは単なる気休めに過ぎないからだ。

 そもそもの話が、架空の女が架空の男に恋したり、恋されたりするような話を理想とするのが間違いだ。現実の女は男を恋心によっては選ばない。それでは何によって男をえらぶのかというと、それは恋心によって選ぶのである。

 ……………………

 つまり……彼女の妹の欲するような恋心と、この時代の男たちが彼女に提供しようとしているいわゆる”恋”とは、まったく別物であるということだ。

 まず、この時代の奥ゆかしい姫君であるのならば、とにかく男というものを自分より他の”第二の性”と認めなくてはいけない。ここでの認めるということは、”男”という状態そのものに、まず価値をおかなければならない、”男”であって、”他人”であるその対象に対して、男である、自分とは違う性である、という時点で、その対象に価値をおかなければならないといこと。つまり、彼らは”男”である、”女”の対象になる、全く別の性別を有している生き物だ、という時点で、”お姫様”である”女”であるところの妹は、その対象に全自動的な好意を元々搭載している……という存在であらねばならないのだ、本来ならば。だから、そういう価値基準を今までの教育を受けてきた経験やら、人の教えやらによって所有している普通のお姫様なら、”男”から求愛行動を取られたという時点で、その男にある程度の好意を持つべきなのだ。もちろん、その時代に即した真っ当な女性たちでも、気乗りしないこともあるだろう、男からどんなに求愛行動としての文を送られても、季節の花を添えたうつくしい言葉の入った和歌を送られたとしても、出来のまずいものが送られてくれば首を傾げざるを得ないだろう。しかし彼女たちは、男というものはそうやって、自分の歌のまずさや上手さを飛び越えても、これだ、と決めた女性には文を送るものだということを、「常識的に」知っている。だから文が送られてくるのも当然だとおもう。それが礼儀だから、規則だからだ。世間で通用している社会的規範が正常に行われている場合に、その行為に疑問を持つ人はいないだろう。顔も名前も知らない者同士が、どうやってその距離を縮めていくか。会って会話を重ねる? お互いに初めから好意を少なからず持っていたとすれば、その好意の確認を少しずつ取っていくとか。少しずつそうやって知らない者同士が距離を縮めていくという経過は、女性の多くが望むひとつの理想形かもしれない。しかしそのような悠長なことを、すべての人が望んでいるわけでもない。時として、お互いの感情が同一線上に立っていないときにでも、強引に距離が縮まってしまうこともある。そしてそれはこの時代の大体において、男のほうが女に仕掛ける行為であるということ。

 彼女の妹が文句を言いつつ離れようとしない、『光る源氏の物語』なんかはその典型で、源氏が「こう」と決めれば、決められた女たちは「こう」に従うしかない。その「こう」から逃げようとおもう、拒もうと望むのなら、彼に会わないことだ。源氏の求愛を拒み続けた朝顔の斎院のように、初めから勝てない戦には参戦しないこと。そうしなければ、どうせいつかは冷めていく男のきまぐれな愛情を、いつまでも待ち続けていなければならないはめになる。そういう未来を想像できる頭のある賢い女が、源氏という、”男”を与えようとする彼を拒み、しかしその”男”の発する誘惑に苦しみ、悩み抜き、その悩みから逃れたいと、様々なものをまた望んだのではなかったか……

 玉鬘十帖でも見られたように、多くの男に求められた『玉鬘』という女は、別に誰のことも望んでやしないのに、結局彼女に一方的に恋い焦がれた髭黒の大将にその身を強引に奪われ、婚姻は結ばれてしまう。こうして強引な既成事実を結んでしまえば、恋い焦がれた人を手中に収めることも可能になってしまう。しかしそれも”恋”には違いない。ここでの”恋”は男側の一方的な思慕でしかないだろうが、それでも恋は恋だ。男は、そういう強硬手段を使っておのれの欲を女に対して表現した。その結果子どものひとつでもふたつでもうまれて、家自体の繁栄につながる結果が生まれ得るとするのならば、これも恋……なのだろう。

 というわけで、時代そのものに傅かれているとでもいうべき都のお姫様連中というものは、そうそうすてきな恋愛ができるというわけでもない。大体において、家同士が決めた男女がその婚姻以前にちょっと文を送りあって、まあこの程度の頭があれば及第点でしょうねというところで手を打ち、通ってくる間中も殆どその顔を見ることなく、三日目の露顕の宴ではじめてお互いの顔を見る……というようなもので、恋愛がしたいのなら婚姻より後に始めるしかない。とにかく女から男にアプローチするということは(めったに)ない。そういうことをするのは”女”ではない。なくなってしまう、というべきかもしれないが……

 そういうのがこの時代における恋だ。お互いがお互いのことを少しずつ知り合って、とか、初めて会った時に一目惚れして、とか、そういうたぐいのものでは決してありえない、女たちはこれと決められた男のなかに、自身の愛すべきものをそれなりに見出して、そういうものだけを対象として”男”というものを認識する……しかし男の方はもっと自由だ。古い女に飽きれば新しい女に走る。高貴な女は高貴であるがゆえにたからもののように暗い座敷の奥に仕舞われて”大切に”保管されているが、男は(たった一人の誰かを除いて)保管されるどころか、穴の空いた風船のように、どこでもビュービュー飛んでいく……

 だから源氏の女たちはそういう悲劇をよく知っていて、男心は秋の空、頼りにならないものと、もっと他の、自身の生活の基盤に成り得るような別なものを求めた。でもそれがやっぱりうまく見つからないから、嘆いたり、苦しんだり、している。そういう彼女たちを、彼女の妹は救ってやりたいという。本来の愛にめざめて、たった一人の誰かをまちのぞむ彼女たちが、そのような相手にめぐまれるように……と。

 しかしそのようなものが、本当にこの世に存在するのか?

 源氏のような男のどこがいいんだ、と彼女はおもった。あんなものはくだらない。しかしあの男こそもっともすばらしい”男”だ。そもそも貴族以下の男というのは男ではない。性別としての”男”を所有する生き物など、それは掃いて捨てるほどいるが、しかしそもそもの話、宮中にいる官位を持たない、いや五位以下の官僚など人ですらない。彼らは人間ではないのだ。人間でないものを好意の延長上で伴侶に結ぶというのは考えづらいことだ。例えばの話、動物に好意を持っていたとしても、それを将来の伴侶としたいと望む誰かがいるだろうか? まあ、私どもの生きる現代というねじれそのものといった時代においては、そういう”自由”も尊重されるのかも知れないが、しかし尊重といってみても、その婚姻を望む甲の意志だけが尊重されているのであって、勝手に婚姻を望まれた乙の感情の尊重はなされないのか、という問題もあるかもしれないが……

 閑話休題。

 ここまで見てきたように、この時代は価値、価値、価値でガチガチになっている。好意を向ける価値のあるもの、時間を費やす価値のあるもの、媚を売る価値のあるもの、婚姻を結ぶに足る価値のあるもの……そういうものにしか、”常識的な”人々は価値をおかない。

 で、そういう価値基準でいくと、やはりお姫様が恋をするのは貴族の男以外にはありえない。時代が上がればそれなりに、姫君が滝口武者に恋する話とか、僧侶に恋される姫君とか、色々出てくるだろうが、それだって珍しいからこそ物語として書き記され、後世に伝承されたのだ。ふつうの、一般的なお姫様たちに、そのようなスキャンダルは殆ど起こらない。起こったとしてもそれは結局悲劇で終わってしまう。彼女の妹はそういうものを望まないという。ただ幸福な女を。

「『とりかへばや』などではだめなの?」

 姉は疑問に思って尋ねる。「あれこそ幸福な結末だろう。継母にいじめられたけど困難を乗り越えて男とむすばれて」

「あれは最後がざんこくだから嫌です」妹はにべもなく言う。「継母に対するしうちがひどすぎます」「まあ、でも、それなりのことはされたんだからさ」「だからといって後味が悪いわ。そういう行為を放置してのうのうと幸せになるあのお姫様もどうかとおもうけどね。良心が痛まないのかしら」「されたことは本人に返ってくるんだよ。いいじゃないの幸せならば」「だめ。そういうことはさせない。私の女たちには」「……………」

 なんだかそういうことで話が進んでしまっているらしい。彼女は、うかつに新しい物語を作ろうだなんて言った言葉をすでに後悔しつつあった。

「僕は、貴族ばかりに目を向けていれば、それは視野が狭まるばかりだとおもうけど」

「どういう意味ですか?」

「公達以外にも男はいるよ。でも、それは動物に目を向けているということと似ているんだろうな」

「言っている意味がわかりませんが」

「ところで君の婿探しはこのまま進めてもいいのかな?」

「わたしにも、えらぶ権利はあるの?」

「ありますよ。それはもちろん」

 ふ、とどこかで、噛み潰したようなあくびの名残が聞こえた。廂の間に控えていた女房たちの誰かがこぼしたもののようだった。

 ずいぶん長く話してしまった。もう夜も遅い。このまま話し続けていれば、彼女たちに仕える女房たちも、おちおち眠れないだろう。

「まあ……今日のところはそういうことで。頼むよ、ひとつ」

「動物に目を向ける……」妹は姉の発した無責任な言葉の意味を、じっと考えている。

「でも、お姉さんは、めったなところから婿は迎えられないと言ったわ。それは宮中の、できる限り身分の高い方こそがすばらしいということではないの? 高ければ、高いほど……」

「そうだよ」彼女は円座から腰を浮かした。直衣が擦れてキュウキュウと音を立てる。立った拍子に、それまで凭れていた脇息がパタンと乾いた音を立てて倒れた。「常識的に考えればね。だから”そんなこと”をしている女は、この世のどこにもいないんだ」

 この私以外には。


****


 そして今、彼女の妹の婿がねとして、五人の男が選びぬかれた。彼らは、家柄、宮中での地位、立場、容姿その他に優れ、花婿候補としては上等も上等、上等すぎて、家の老人などはかえって恐縮し、恐れ多いといって腰を抜かして三日前から寝込んでいる始末だ。

 だが結論から言えば、彼ら五人は結局のところ彼女の妹の婿になることはできなかった。

 その五人にはもともとそれぞれの生活があり、ちょっとした歴史があり、それぞれの人間関係の構築であったり歴代に遡る綺羅綺羅しい華やかな一族の系譜があったりしたが、そのいちいちをここへ書き付けてみても仕方がないので、多少の紹介のみで済ませ、先を急がなければならない。なにしろ彼女らにとっての本来の目的はここにはなく、五人との多少のアレコレなど後のことからしてみれば、ただのさまつな、時代の一通過点でしかなかったのだから。

 さて、そんな彼らはたった今、さる貴族筋の屋敷に集まっていた。

 何故集まる必要があったのか? そうすべき必要性などどこにもなかったにもかかわらず。

 不安だったからだ。

 不思議な少女の噂は、ある種の熱狂を持って都中に広がった。このところ大した出来事も起こらなかった太平の世である。人々は日常生活に埋没し、それらを滞りなく済ませることに終始していた。御代は揺らぐことなく、謀反だ殺傷沙汰だというような荒々しい事件も特には起こらず、相変わらず強盗だの貧困だのはそこら中で、日常面をして転がっていたが、無理矢理話題に出すような話でもない。

 早い話、人々は退屈していた。鬱屈していた。何も起こらない日常に倦み、疲れ、疲弊していた。そこへ来て今回の一件である。退屈ばかりをもてあまし、その時間の有用な使い方も知らない人々が、突然降ってわいて出たようなホットな情報に、飛びつかないはずがない。そして人々は熱狂した。噂には尾ひれがついて、元はちいさな種のようなものだったのが、様々な憶測や想像や勝手な解釈を呼び、大きく成長していく。あそこの家に女がいる。あの新しく建てられた家に棲まう女は結婚適齢期の、とてつもなくうつくしい女で、それを直接見たものは、あまりの神々しさに、目が潰れるおもいがしたらしい、その出自ははかばかしいものではないようだが、何でも、元々は宮腹だった姫君がいつしか零落し、漂流を余儀なくされた、その子孫が、再び都に戻ってきたとか、来ないとか? であるからして、本来であるならば、高貴な身の上の女性なのだ、下にも置かない対応をすべき存在であるはずなのだ、云々。

そのような噂を本当として、都にはびこる何百という男が、まだだれにも手をつけられていない、猫の足跡すらついていない新雪のような深窓の令嬢を求め、競ったのだ。

 それからどのくらいの時間が過ぎただろう。季節は巡り巡って、二度ほどの春が過ぎたころには、大多数の人はその噂に執着するのを止めていた。ほかにもっと手頃な噂の発生源を見つけて、そこで多少の満足を得て機嫌の直るもの、文の返事すらまともに送ってこない女など所詮接点を持つに値しない女だと捨て置くもの、単純に飽きたもの……噂ばかりが有名を取って、なかなかその正体に行き着かないうちに、姫を諦めたものの心中は様々だったが、一方ではその噂のみに執着し、絶対の意志を持って、せっせせっせと文やらなんやらを送り続けた猛者たちがいた。そしてその猛者たちの継続の念、初志貫徹、虚仮の一念岩をも通すではないが、いちずなこころもちが実を結んで、晴れて今日、彼らは我らが姫にお目通りする”権利”を勝ち得たのだった。

 権利だと? まだ手をにぎることすら許されないのか? これほどの時間を待ち望み、他の女には目もくれず、一心不乱に姫の噂のみをたのみにしてこの数年を生きてきたというのに? などと彼らがおもうこともない。なぜならこの時代において、顔を見るというのはそのまま契りを交わすということに直結する行為だというのを常識として彼らは知っているからだ。

 成人を済ませた男女の視線が”合う”というのはつまり”逢う”に統合しそのまま男女の関係に相成ってしまう。そういうふうに決まっている。だから、そういう規定の中で”貴族”と称されている人々は、”貴族”であれば絶対的にそう行動するであろうという規定のもとに、姫と直接会えるなどという期待は端から抱いていない。恋というものには、というより、物事には順序というものがあるのだ。それをきちんきちんと一つずつ踏んでいかなければ、実るものも実らない。彼らはそういう段取りに従って、姫に会えるかもしれないという”機会”を、今はとりあえず得たということであった。

 彼らは実に辛抱強かった。途中でその争奪戦から離脱していったものの中には、彼らが持っていたような辛抱とか、悠長な心持ちとか、物事における鷹揚な心が欠けていた。であるからこそ、途中で狩(ハント)を諦めるといったような半端を演じる羽目となったのだ……ろうか? いや違う。彼らにあってその他の人々になかったもの、それは姫をおもう恋心の強さとか、女に対する執着心とか、好色の多寡とかでもない。それはひとえに、彼ら五人それぞれにおける、気位の高さであったのだ。

 彼らは考えた、なぜこのようなすばらしいものを、むざむざ放っておくような必要があるのだろう?

彼女のつれない態度を不思議がるものも居れば、どうせ僕などそのような扱いを受けるのにふさわしい男なんだ、どうせ僕なんてといじけるもの、彼女はまだ目覚めていないだけ、僕が目覚めさせてあげるよ……とか、まあ、彼らの胸の裡ではそれぞれ色々なこと考えていて、考えてはいたが、それを実行すべく姫のおうちに出かけていっても門前払いを食ってしまうし(夜中に忍ぼうとしてもどこからともなく警備のものがやってきてやんわりと押さえられる)、姫の素気ない態度に対して業を煮やした一人が「この俺を誰だとおもっているんだ!」とか「この御方を誰だと心得る恐れ多くも先の……」とか侍従がすごんだりしたが、滝口武者にニコニコと、人好きのする笑みを浮かべられて、「今日のところは、今日のところは」と追いやられ、「こっちは客だぞ!」とか最初のうちは騒いでいたが、そのうちに薄闇にも目が慣れてはじめ、そこでようやくおもい知る、従者の持った松明越しに見るその武者の風体は、まるで鬼そのものといった様子。押しやられるときの腕力のものすごさ、手を触れた武者の硬く締まった肉じしの恐ろしさ、確実さ……ここで逆らったら僕はどうなってしまうんだろう? とにかく姫恋しさに通いはするが、やはり強行突破は出来にくい。こっちは貴族様だぞと自身を鼓舞しその権威をちらつかせはするが、しかし……

「じいさんよ、いい加減にしてくれたまい」

 こうなれば家長に直談判、ということで彼はじゅうぶんに権威をちらつかせてその屋敷に踏み込むが、家長はその権威そのものにおびえてへどもどするばかりで、まったく話にならない。そういうところへスッとやってくるのが我らが姉君、彼女が一度咳きをし、部屋に入ってくると、まるでさわやかな一陣の風が吹いたかのような清涼さがあたりいちめんに漂い、客人などはこの登場だけで彼女の様子の良さに圧倒されてしまった。そして彼女がちょっと口角を上げて、短く笑ってみせると、それを受けて今度は客人のほうがへどもどし始め、「あー、なんだ。そうだな」とか、彼女から視線を反らし、その登場になにも影響を受けていないような素振りを見せ、首元あたりに指を入れ、少し通りを良くし、背筋を伸ばしてきりりとした顔を作ってみせたりして、「なんだね、その。なにかね。あれは」と言葉を継ぎ、「催促するわけではないが。そちらのだね、つれない仕打ちに。こちらもほとほと困り果てているんだよ。返事もろくにもらえないようでは、こっちだって、せつない。こちらには方々から文が舞い込んでいると聞いている。それぞれをさばくのは、もちろん骨が折れるだろうということもわかる。しかしだね、いくらなんでも、順序というものがあるんでないかい? もちろん、僕自身がこのようなことを口に出すのも気がひけるのだが……」ちらりと後ろの従者を覗い、従者がそれを取って、多少膝を進め、「先様は、こちらの立場を当然理解しておいでですね。天子を戴く宮中においては知らぬものもない、その名は天高く名声は世の中を駆け回り、出世街道まっしぐら、歌も良くすれば馬上での弓引く姿も鮮やか、恐れ多くも賢くも……」 「ええ、そうですよね」

 彼女は少し小首をかしげて、やさしく微笑んだ。「もちろんお噂はかねがね……しかしとにかく、妹に聞いてみませんと」

「はあ? ……お兄さん、あなたね」男はちょっと片頬を上げて、「僕のこと誰だか分かってます?」

「存じております」

「だったらね、あんたも男でしょう。皆まで言わんとわからないなどということは……」

「ですが、妹に聞いてみないことには。何と申せばよいのやら」

「はあ? あんたね。こっちは文を何百と送ったか知れないよ。それをだね、この期に及んで……」

「僕も、妹のためには、何んでもしてやりたい気持ちでいるのです」

 彼女は涼やかな目元を少しゆるませて、人心地のつくようなやわらかな笑みを男に向けた。男はそれでぽーっとなって、それ以上言葉を口にすることが出来なくなった。

「そのためには……多少のことは我慢していただきませんと」

「お前、めったなことを言うんじゃない」横で聞いていた老人が口を挟む。「恐れ多くもだね、」

「私は三位殿の度量を買いその上で言うのです」彼女は言った。「わが妹ながら、あの人はすばらしい。それは三位殿もご承知のこととおもわれます」

「まあ……」

「そういう彼女に、見合った人をお世話したい。そうおもうのは親族であれば当然のことです。相当な地位にいるあなただもの、わからないはずがありませんね」

「そうですかね。それほどの立場の女かよ」

「もちろん、こちらも一度は零落したみのうえ。三位殿と肩を並べるほどの家格などがないのは初めから知れていたこと。しかしそこを汲み取った上で、今までお便りしてくださったものと信じていました」

「いや、まあね、まあそれはね」

「こちらも彼女に無理強いなどしたくはない。なにしろうちでは彼女の意向が第一番にと考えられているのですからね。彼女の気が向くまで、おっとりと構えているのが美男子たる公達の佇まいの美しい有り様というもの。それを、なんですか、ご自身の立場も忘れたかのように。身も世もなく、このような場所にまで足をお運びになるとは……」

「や、や、や」男は両手を広げ、「僕が悪かった。僕が悪うございました。今日のところは帰りますので勘弁してください」

 などと、やっぱり強行突破もうまくいかない。そのような一連の流れを五者が五様に演じ、それぞれに落胆し、おのれの貴族にあるまじき性急さを恥じそれなりに反省し、しかし手紙はこまめに届ける、という生活に、しかし五人はいい加減飽き飽きしたらしい、それで、それぞれが台盤所などに出入りしている卑女などに小金を渡し調査したところ、その五名が、今でもせっせと手紙を贈り続けているらしいこと、発覚し、そして今日の集合である。五人はそれぞれが厳かな、おっとりした構えを見せながら、それでいて腹の中ではどうにかしてこの場で相手の鼻を明かしてやろうと、必死で頭を回転させているのであった。

 集まった五人の公達たちは、いずれもみやびやかな世の誉れ高き家柄の出で、それぞれがそれぞれの家々の出世頭として、お上の覚えもめでたいご身分である。この時代の身分というのはいずれも世襲制だから、大体はある一定の氏を賜った一族が一切をきりもりしていて、それ以外の氏名(うじな)を持った一族というのは、めったなことでもないかぎり、位の高い官職を得ることはない(たとえ実力でいいところまで行っても謀反の疑いをむりやり掛けられたりして左遷されたり島流しに遭ったりといい目をみないのでそもそも出世を望むこと自体おすすめできない)。

 で、あるからして、ここに揃った人々もそれなりの氏素性の持ち主であるが、その氏の中でも何々家何々家と家格格差があり、それに応じて、つまり家系図に応じて将来約束されるであろう地位にも差が生じる。そしてその中でも以前にも書き記したように、家を支える一家の家長が早死するなどすればそれと同時に家自体の評価がぐらつき、元々はそれ以下だった家のものがその家に取って代わって成り上がるなどと、まあそれぞれに時の運、時流、周りの目などを要因として様々に動き流動し、時の権力の椅子を奪い合っているのだ。

 そのようなことを踏まえつつ、とにかくここに出揃った五人はそれなりの名家出身である。それぞれがキャリア組である、と。

 王子様もいた。二人。しかし彼らのことを出世街道まっしぐらといってやることはできず、それよりかはどちらかというと左折組に入るようなみのうえだ。

 皇子といっても二人はつまり傍流で、これから先よっぽどのことがなければ出世はない。いわば飼い殺しのような状態で、しかし身柄はまったく高貴そのものであったので、それなりに人に傅かれ、しかし自身のどこをどうこねくりまわしても道の開けない将来をゆううつに抱え、やりきれないおもいのまま、ぼんやりと日々を過ごすというようなみのうえ。

 高貴な人を指して人々は、「いいご身分だ」といって単純に羨むが、それぞれにはそれぞれの悩みもある。「人には人の地獄がある」とかいうなんだかよく分かるような分からないようなアレである。であるからこそ、高貴な二人は高貴なふたりらしくそれなりに悩んでいた。

 彼らはもちろん”皇子”様ではあったけど、やっぱり本流ではなかった。それに、皇子様の座る椅子というのは結局一世に一席きりだから、それ以外に生まれてしまったものは、その唯一の皇子様がどうこうならない限り”必要ではない”。彼らは皇子様の予備であり控えではあるがしかし、高貴な身分には違いがない。だからそまつに扱うなどということはとうてい許されないことであって、それどころかもちろん、丁重に扱われるに当然のみのうえを有している。であるからこそ、多くの人々に傅かれて尊重されつつ生活を行わなければならない。つまり彼らは、必要ではない(しかし必要になる可能性を多分に所有している)が、他のいきものよりも遥か高く尊重されるべきお歴々なのだ。当然、彼らも成人を迎えればいっぱしの大人、中央のもっとも中心円に親しい人物なのだから、それなりに政務には関係することにはなる。しかしめったなことは任せられない、なにしろ彼らはこの世を統べる天子様直々の血を受け継ぐ、この世でもっとも崇敬されるべき対象の一人であるのだから。

 その地位にふさわしい官位を当然のように持つ彼らは、その官位にふさわしい官職を与えられた。第一、この時代において、官位と職、どちらに重きを置いてそれ自体に価値をおくのかといえば、官位がすべてに優先するのが当然なのだ。

 まず、官位がある。正一位を大一品として、従一位、正二位、従二位、正三位……と細々刻んで、貴族という生き物にはそれぞれに官位が授与されている。まず、その人の地位に”見合った”官位を与えられ、それからその官位にふさわしいであろう職が与えられる。じゃあ君は、いっぱい努力してお国のために尽力したから、官位を上げてあげるね、それに伴って、それなりの職にあたってもらおう、などというのはほとんど叩き上げの傍流筋の貴族に与えられた「君も貴族の仲間入りができる!」といった程度の話であって、元々の位の高い地位を生まれたときから約束させられていた公達などは、成果→出世などというタルいコースを進むこともない。ただ決められた生まれがある。それに見合った地位を与えられ、将来的に宮中での権力の一つを担う人材になる。ただそれだけだ。であるからして、天子様のご兄弟であらせられる、皇子様たちは、それなりの官位に見合った、しかし直接政務とはあまり関係のない職を与えられていた。たとえば名を貸しただけの地方の長官とか。本人は地方などには赴いたこともなく、実際の政務には彼の部下(まあ、会ったことも会話したこともなかったかもしれないが)が当たっているというのが常套だった。

 で、あるからして、傍流のその二人は、生まれたときから既にして、たくさんの”余暇”を与えられていたも同然だった。その身分に恥じないそれなりの教養と、それなりの学と、それなりの恋と、それなりの女などをあてがわれ、あるいは渉猟し、ゆうがに美しく生きていた。

 が、彼らだって人間である。人間であれば誰だって、自分の頭で考え、行動する自由と思考を持つ(はずだ)。であるからこそ、彼らは彼らなりに、若い頃は自身のあいまいな生に悩み、苦しみ、かつ煩悶した。人は俺の身分をあがめたてまつり、美しいものだ、それは良いものだとするが、冗談じゃない。このように、窮屈で、鬱屈し、自由も冒険もなにもない、このような押し込められた生を、どのように歓迎すればいいというのだろう? というわけで彼らは自らの創作で身を慰め、物語の中などにも余地としての、僕の在るべき姿というものを探して、ほんとうはそのようなかな文字ばかりで書かれた文章などというものをは男の読むものではないんだけど(男が読むのは漢籍だろう。光源氏だって物語などというものは女子どもの読むものだと『蛍』の巻で言っていたぞ)、写したのを女房にこっそり言って借りてきて、日夜明け暮れず移し書きし、それを夜な夜な少しずつ読むのを楽しみにしていた。

 彼らはそれぞれにそれぞれの感情をもって、新しく現れた”姫”の噂と影を追っていた。

 彼らはそして、その感情に多分に理屈を、意味を、大義名分を貼り付けた。

 曰く、これは真実の愛だと。この俺の愛、それは良いものだ。この感情には理屈があるのだと、感じて然るべき理由があるのだと、いろいろと理屈やそれらしいことをならべたて、おのが感情を粉飾した。そうやって自身で作り上げた”姫”の黄金像に恋し、その感情そのものを大切に温め、夜な夜な頬ずりし、愛撫した。ふだんから退屈をもてあますばかりの彼らにとっては、そういう行為こそが最大の、生命へのなぐさめだった。彼らはそうやって、架空の女になぐさめられた。だから彼らは”姫”のことが大好きだった。そういう彼女の本体を手に入れて、この退屈を全部帳消し、この体すべてを正当化してもらう。それ以外に、”女”というものを愛す意味などあるだろーか?


「……さて」

 長く気まずい沈黙ののち、口火を切ったのはあのりくつっぽい帥の宮だった。

「皆さん、お忙しいところを、このようにお呼び立てして」

「いいえ宮、こちらこそ」

「そうです、このような、立派な席など設けていただいて……」

 などと、大臣筋のものはへらへらとへつらうようにして、帥の宮のねぎらいに恐縮している。

「いや、それにしてもさすがですな。宮筋ともなれば、どうです。この食膳のすばらしい、みやびやかなこと」

「私もそれが言いたかったんだ。いや、実に素晴らしい」

「自分の家で食事を取るにしても、二度二度の食膳は、つい簡単なものになってしまいますね。このようなごちそうを見るのはほんとうに久しぶりで……」

 などと、汗をかきかきそれでも、土器に酒を差しつ差されつして、女房連からの給餌を受けながら、しばらくは五人で飲みかつ食い、歓談した。

 酒もある程度まわり、それぞれが連れてきた従者などが余興に青海波などを琴の調子に乗せて舞っているのを見ながら、「それにしても、大変なことになりましたねえ」と、右大臣が切り出した。

「ああ、噂の姫君のことですか」

「そう。あれは並の女ではない」

「書の水茎のうるわしさもさるものながら、歌心もわきまえている。あの人の歌は……なんというか」

「可憐だ」

「そう、可憐なんだ」公達はぱん、と土器を膳に置いて、「どういうんですか、ちかごろの女とは、筆が違うでしょう」

「わかります。なんだろう。どう言えばいいのかな」

「つまり……気取っていない」

「そう!」

「ひけらかしがないんですよね。さりげないというか」

「分かる……」

「一昔前ならそういうのも可能だったかも知れませんが。ちょっとね」

「そう……たしなみがない。もちろん、知識としてはあるにこしたことはないのですが……」

「未だにいますよね、古典なんかから引いてきて、私には教養があるのよ、さあ敬いなさいという……」

「僕はそこまではおもいませんが」

「とにかく、気負いがないというかね。スッとしている。香で言ったら、黒方のような……」

「高貴なようでいて、それでいて野に咲く花のようなんですね。だからこそ珍しいし、そんなちいさくはかないものは、守ってやりたくなる」

「守ってあげたい、そうですね」

「また書き送ってくる紙がしゃれているでしょう。重ねの色目もあざやかに、季節にぴったり合ったそれでね」

「そう。めったにお返事はいただけないけれど、そうやって心づくしをされたものを一度でも受け取ってしまえば、こちらが好意以上のものを抱いたとしても、それは必然という話で」

「そうです、そうです。僕などはすっかり舞い上がって……、あれほど心を砕いて手紙を送ってくれるのであれば、姫の婿になるのはこの僕だとばかりおもっていた。まあ、それは勘違いでしたが」

「いや、そうおもうのもむりはない。あれは一見冷たい女に見えて、心根の優しい女です。僕にはそれが痛いほど分かるんだ」

 などと、酒も入ったこともあって、雅やかな人たちはああだこうだと姫の手紙やそれに伴う諸々についての称賛をし始めた。

「また文から香る実際の香りも素晴らしい。変に甘ったるくなくてね」

「そう。ちかごろの流行りか知りませんが、一体どれほどの時間焚き染めたのだろう? と疑問におもうほどの物を送ってくる女がいますね」

「それも鼻が曲がりそうな。文に顔を、とてもじゃないけど近づけられないんです。どういうんでしょうね、何を考えているのか」

「物事には程度というのがあるでしょう。それがわからないんだな。これは、特に若い女性に多いようだが……」

「いや、そんなこともありませんよ。年嵩のでもまた、妙な匂いを漂わせたものを送ってくることがある。変に古いにおいというかね。流行遅れのにおいってあるでしょう。何年も仕舞い込んでいた着物からかおってくるかのような。そういうのに気づかないで、良いものとして処理してしまう。感覚が鈍るというか、つい判断がきかなくなってしまうんですね」

「とにかく姫は何事につけても趣味が良い。僕などは、あの趣味の良い姫に何かと褒められると、それだけで有頂天になってしまいますよ」

「…………」

 会話に加わっていた四人のうち、三人が様子をうかがうように視線をさまよわせた。

「褒められる? たとえば詩才ですか」

「ええ、それはもう」

 少々得意になったらしい帥の宮はぱたぱたと扇で自身を扇ぎ、「これほどの詩才をもった殿方と文を交わせて嬉しい、とね。勉強になると言うんですよ。そう言われてしまえば、俄然張り切らざるをえないな、もちろんこのようなことは皆さんにもご経験があるでしょうけれど」言いながら、目を細める。

「自分でも会心の出来だとおもったものを送った時の反応なんかがまたいいんだな。あの姫は、皆さんもご承知の通り、感受性にすぐれている人でしょう? 良い詩を送れば、あの人はそれをすぐに分かってくれる。これほど手応えのあるやりとりを、いまだかつて女と交わしたことが果たしてあっただろうか? いや無い!」

「まあね。そんなこともあるでしょう」

「実際に宮の詩才は素晴らしいわけですから」

「敵うはずがありませんね、やはり姫の第一本命は宮かな」

「まあ、常識的に考えればそうもなるでしょう。しかし私は姫の真心を信じています」

「真心? 何だそれは」

「つまり私は彼女に、並の常識にはとらわれない新しい波のようなものを感じるわけです。あのひとはほかの女人とはどこか違う。彼女はこれからの時代における、新しい女性像の新機軸になりうる女です。そのような考えを持ってすれば、いままでの常識にはとらわれない……身分差もなにもかも飛び越えて……」

「宮には断然劣るボクだけれども、そんなボクを選んでくれるだろう、と?」

「いやまあそこまでは言ってませんけども」

「しかしそこまであからさまに好意の対象が決められていたとは意外だったな。見当違いも甚だしい。僕などはすっかり、この五人がえらびぬかれたのだから、平等に権利があるものとおもいこんでいました」

「いやいや、まだわかりませんよ」

「そうですよ。ヤケになっちゃいけない。ヤケになっちゃいけない」

「私なんかも、宮ほどではないが時々姫から称賛のお言葉を頂戴しますよ。そういう意味では、結局えらぶのは姫の方なんだから」

「おや、私が一人で悦に入っているとでも?」

「いやいや、滅相もない」

「それでも姫から称賛の言葉を? 羨ましいな」

「いやいや本当に。十回に一回の程度のことで」

「僕などめったにお返事ももらえないのに……、どうして五人のうちにえらばれたのだろう。頭が痛くなってきました」

「えらばれたからにはそれ相当の理由があるんだろう。そうでなくちゃ困るな。そうじゃないですか。そうでしょう」

 などと、四人は侃々諤々やっていたが、その中心にいた帥の宮がふと視線を上げて、「兵部卿宮。箸が進んでいないようですが。お口にあわなかったかな」と、視線の向こうにいた、それまで会話に加わっていなかった公達を指して尋ねた。

「あ」

 兵部卿宮は顔を上げると、膳と正面を交互に見比べ、「ああいいえ」とふめいりょうに言葉を落とした。

「もしかして、お酒が行き渡っていなかったのかな。ちょっと、あちらに瓶子をお持ちして」

「ああ、そうではありません。私は皆さんのお話を楽しく聞くのでせいいっぱいで、食事にまで頭が回らなかっただけなのです」

「ほーお」右大臣が髭を撫でながら、「楽しいですか。そうですか。それはそれは」

「ええ。こんなふうにして、大勢の人とお話するのは、ほんとうに久しぶりのことですから」宮はほんのりと口元に笑みを浮かべて、「こうして皆さんのお話を聞いているだけでも、楽しいんです」

「……………」

 多少鼻白んだらしい座の人々は、それぞれに軽い咳きや微笑などでその場を濁し、それに特別な言葉を掛けるようなことはなかった。

「僕などは、ほんとうのところであるならば、もっとこうして社交の場に積極的に出かけていくべきなんですよね。それにもかかわらず、どうも普段から出不精の自身をあまやかして、外に出ないでばかりいるから、皆さんの会話に、どうやって入ろうか、入ろうか、と考えているうちにですね、お話のほうがどんどん……」

「ああ宮、おっしゃってくださればよかったのに」

「そうです、そうです。ここにいる皆さんはそれぞれに身分が違えど、同じく姫にえらばれた、いわば同士じゃないですか」

 それを言ったのはこの場においてもっとも位の低い中納言ではなく、政治の本流には属していないが位が高いでおなじみの帥の宮だったので、それ以外の公達もうんうんと頷き合った。

「そうですよ。宮の意見も聞きたいな。僕たちばかりで話していては片手落ちでしょう、なにかと」

「そうですか」

 兵部卿宮の宮は小首をかしげて、少し酒に酔った頬を高揚させて微笑んだ。「皆さんのお仲間に入れるなんて、うれしいな。僕の話など興味がありますか?」

「それはもちろん」

「みんなそうですよ」

「当たり前じゃないですか」

 普段あまり人から注目されなれていないらしい兵部卿宮は、なにやら居住まいを正すと、えへんと喉を短く鳴らして見せ、それから、「姫は書や歌も素晴らしいが、第一に、絵が素晴らしいですね」と言った。

「……絵、ですか?」

「皆さんも知っての通り、あの人の絵はすばらしい。僕はほとほと、あの人の画才には関心しているのです……」

 それまで黙って会話に参加していなかった兵部卿宮は、それから堰を切ったように話し始めた。「なんといいますか。というよりも、どこから話せばいいんだろう? 僕はね、実を言えば、この会のことを本当に楽しみにしていたんですよ。僕はぞっこん、あの姫のみりょくに参っているんです。でも、そんなことをいちいち粒立ててお話できるような相手なんてめったにいないでしょう。従者なんかに聞かせてみても、馬の耳に念仏とまでは言わないけど、どうせ自慢話のうちで話が終わってしまうじゃないですか。姫というあのすばらしい存在をですね、ただの自慢話におとしめるようなまねを、僕はできうるなら演じたくなかったわけです。だってあの人はあれほど素晴らしい女性なのにもかかわらず、僕の話し方次第で、その話を聞かされた相手の中では、自慢話を聞かされたという嫌な経験のうちの一つとして処理されてしまう可能性だってあるわけですからね。姫を愛する僕としては、そのようなヘタはできる限りうちたくはない……とおもうのが、道理だとおもうんです、これは皆さんにも分かってもらえることだとおもうんだけど。

 そう、そうなんです、つまりね、僕と対等に彼女との経験を、お互いの落差なく自由に話し合える相手、それは姫を取り合う競争相手以外に居ないのではないか、というのは、僕もずっと考えてきたことだったのです。だからこういう機会を設けて頂いたことには、ほんとうに感謝しているんですよ。だからさっきまでのお話も、僕は会話には加わっては居なかったけれど、やっぱりおもしろくて……姫の話題であるならば、どんな話を聞いていたとしても楽しいですからね。なにせそんな機会は今までに一度もなかったことなんだから」そこで宮はちょっと酒で舌を湿して、「だから実は、皆さんのお話を聞いているだけで、僕はもう満足だったんだ。でも、せっかくの機会だから。僕はずっと、あの人の才をおおっぴらに称賛したくてたまらなかったんです。ここにはこんなにすばらしい女性がいるぞ、その女性と僕は、このように雅やかなやりとりをしているんだぞ、とね。その一字一句のやりとりを、まわりのひとすべてに喧伝して、見せびらかしてみたかった……しかし反対に、このようなやり取りはすべて僕たちだけの秘密のできごとであって、それをなんぴとたりともにもじゃまさせたくない、ともおもっていたんです。

 だってそうでしょう、本来であるならば、文を送り合うなどということは、二人同士だけの、閉じられた関係のみにゆるされた行為なんですから。それをねじまげてまでして、その内容を誰彼構わず吹聴してみせる……、このような不条理がまかり通る道理など、一体どこにあるというのでしょう? でもそういう行為を、僕たちは知らぬ間に……というよりも、嬉々として、それを日常的行為のひとつとして行っているんですね。こんな歌を詠んでもらったとか、こんな文章を頂いたとか、そういう、ある意味で品のない……、あ、皆さんのことを特別指しているわけじゃないですよ。これは一般的な話、自戒も含めてのことですから。

 僕だって、以前ならば、ちょっと気の利いたようなお手紙を貰えば、まわりにいたひとにその内容を話して聞かせたりして、それを共有することでよろこびを得ることは当然のことだとおもっていました。権利、だとすら……しかし今回は違います。僕は、そういう個人的なことを大衆感情にまで敷衍してしまうという愚かな行為について知りました。それはおのれの感情をうすめる行為であり、賞味期限を早める行為であり、かつまた相手にとっても礼を欠いた行為であるということ……

 だってそうでしょう。僕だって、そのお手紙をしたためているときは、常にその相手のことだけを考えていますよ。こんな歌を詠んだら感覚が鈍いとおもわれるかしら、とか、ちょっと甘ったるすぎたかな、とか、妙に白々しくなってしまった、とかね、送った後に後悔したりして。でもそういった一連の行為がまた、楽しくもあったりするわけです。ね? 皆さんも、そうですよね。

 それは同時に、とても神聖な、自己と他者との、感情の向きを同列に揃えるための神聖な行為だとおもうんです。それは多分に秘められるべきであって、公開されるべきではない、共有されるべきではない。僕は姫という存在に出会ったことによって、その真実を知りました。今までに、どうしてそういった状態に陥らなかったのか、ふしぎなくらい……簡単に、自然な感情として理解できたんです。まるで以前から所有していた感情のようにね。だから僕は、姫とのやり取りの大半は、すべて二人だけのものとしたい。それを誰にも公開したくない、吹聴したくない、だいじに、たいせつに、心の中だけに留めておきたい……そうおもっていたんです。

 だから本当は、こういう機会を得たとしても、話すべきじゃないんだ。というより、僕には何かを話す用意なんてひとつも持ち合わせがないと言ってもいい。でも、共有すべきでないこと、するべきことというのはまた別です。彼女と僕だけにかわされる言葉はあるべきだ、しかし姫そのもののあの素晴らしさ、それを直に知っているのは、他ならぬ姫その人にえらばれぬかれたこの五人には、もはやすでに自明のことだ、それを隠すような必要は、ないわけでしょう。ですから、僕はそれをこの会ではお話したいとおもうんです。

 というのは、やはり、絵ですね。書や歌の素晴らしさはもちろん、皆さんが今までに話したとおりに、素晴らしいものでした。それに異論はない。であるからして、今までに語られなかった、”共有されるべき”話題とはなにか? それは彼女の画才です、得意な才能です、僕はほとほと……あの才には参っているんだ、烏帽子を脱いでいるんだ。烏帽子を食べてしまっているんだ。

 特にあの線遣いはどうだろう、僕は宮廷画家にはちょっと見られない、めずらしい手蹟だとおもっているんだけど……」

 それから小半時ほど兵部卿宮の話は続いた。座にいた他の四人はその長々とした話に退屈しきった……とおもいきや、結構真剣になって、それを聞いていた。なぜならその四人は、他ならぬ姫から、絵のたぐいなど受け取ったことは一度たりともなかったからだ。だから彼らは一様に兵部卿宮の話に嫉妬していたし、恨めしい、なんでこいつばっかり、俺とこいつの差なんて大したこと無いはずなのに、というよりも、俺より実は下のくせに、とか色々負の感情を腹の中ではそれぞれが煮やしていたが、それでも表面上はへえとかはあとか相槌を打ちつつ話を聞いていた。

「その、やり取りというのはつまり」コホン、と喉を鳴らしてから、右大臣が言った。「宮も、姫に絵を送っている?」

「ええ。お恥ずかしながら」宮は喜びを隠しきれないように口角を上げ、しかしそれをはしたないとおもったのかすぐに俯いた。「僕の手蹟など大したものではありません。お見せするのが恥ずかしいくらい。しかし、姫もそれをのぞんでいるから」

「は? 何?」

 現場は一瞬ぴりぴりムードに包まれたが、肝心の兵部卿宮はそのような空気にみじんも乱されることなく邪気なくニコニコしている。険悪な空気のあいまを縫うようにして、一人の上達部が感心したようなそぶりで、上体を幾分後ろへ傾げて言った。

「驚きだなあ。そこまで姫の心を捉えていたとは? これは出し抜かれましたかな」

「え、どういうことですか。皆さんも、姫の絵の素晴らしさは知り尽くしているのでしょう?」

 兵部卿宮がふしぎそうに尋ねたので、他の四人は不快を露わにして、顔を見合わせた。「いやいや、そんな……宮ほどの才と幸運にめぐまれた者は、この場には一人たりともいませんよ。姫の心を捉えるような、特別な才を持ったものは……」

「そうですよ。ここには非才の身ばかりが集まっていますからね。宮のように器用には、とてもとても……」

「それで、姫はどんな絵を描くのかな。気になるなあ」

「しかし、絵ですか……。書ならまだしもねえ」

「分かるけれども……」

「絵ですか……」

 などと、公達たちは対象を褒めちぎりながらも嫌味を言うという社交の場ならではの会話に自身の欲求不満をぶつけていたが、それでも兵部卿宮は、褒められたものとばかりおもって、有頂天になり、ニコニコしていた。

「それは……姫にも今度お手紙しておきましょう。あなたの絵を、たくさんの人達が見たがっている、と。きっとやさしい姫のこと、そのうちに歌とともに、絵を描きつけて送ってくれるに違いありませんよ」

「いやいや、お気遣いいただいて」

「嬉しいなあ」

「楽しみが増えますね」

「感激だなあ……」

 うるせー、余計なことすんな、と四人はおもったが黙っていた。


****


 時と場所は変わって、ここは讃岐邸、双子の妹の局。

 外では少し小雨が降っていた。

「おや、ご機嫌ななめだね」

 局に入ってきた姉が言う。

「絵が描けないの」

 彼女はおのれの苛立ちを一切隠そうとせず言った。

「絵?」

「なにを描いても……、駄目。どうしてこんなくだらないことをしているんだろう」

「暇だからだろう」

「……お姉さんは、いつまでそういう話し方をしているつもり?」妹姫はぎろりとすごい顔で姉を睨むと、まるで自身のうっぷんをぶつけるかのような低い声を出した。「男でもあるまいし、馬鹿みたい」

「そうかな」姉は円座の上に腰を下ろす。「板についてきたとおもっていたんだけど」

「まるで馬鹿よ。馬鹿丸出し」

「ひどいなあ」

「どうせ格好だけまねをしたって、男になれるわけでもない」

 見たところ寝不足気味らしい彼女はそのいらだちを姉にぶちまけて、姫君らしくもなくがりがりと頭を掻く。「ああ」

 妹は筆を放り出した。「頭の中でうじむしがはいまわっているみたいだ。何も思い浮かばない。このあとのてんまつのしまつはどうつける? 藤式部はどうやってあんな長大な作品を書いた? 人物がぐちゃぐちゃに絡み合って、あたまのなかから出てこない。私のあたまは彼女たちにくいつくされるんだ」

 わめきながら、彼女はちくちくと爪を噛む。

「そんなことより、誰にするか決めたの?」

「何が」

「婿取りだよ」

「何ですかそれは」

「ええ?」姉はちょっと笑って、「二人でようやく、五人にまで絞り込んだだろう。忘れたの?」

「その話ですか」妹はつまらなさそうに、「あんなのだめよ。まるでだめ」

「……………」

「あんなものどうしようもない。大体からそんなことやっているばあいではないわ」

「でもさあ……」

「お姉さん、あなたは」妹は爪を噛んだまま言った。「こんな大切な時に、なぜそのようなさまつなことで私に話しかけられるの。疑問だわ」

「気分転換するとでもおもえば? いつまでも同じようなことを考えていたって仕方がないんだし」

「冗談じゃない」

「……………」

 姉は、ほうとため息をついた。

「どうして君は”そう”なんだろう」

 姉は言った。

「僕たちお互いが協力して、今よりより良い環境に移るために努力しようという話ではなかったの? 僕たちの望むものは、もっとここより別の場所にあって、だからこそそこへ向けてする努力ならどんなことでも惜しまないと誓ってくれたのは、君のほうじゃなかったか……」

「私は別に……このままでも」

「またそういうことを」

「宮中に行けなくていちばんまずいおもいをするのはお姉さんですものね」

 妹は冷淡な口調で言った。「だからこだわるのよね。わたしが婿を取れば、その分宮中へ近づく、中央へ近づけば近づくほど、本領の学問に触れる確率が高くなる、そうすれば、あの人にも会える……」

 山椒は小粒でぴりりと辛い、などと今ひとつな諺を持ち出すまでもなく、彼女の妹は時々、その美貌には似合わないような、暴言まがいの言葉を口にする。姉は彼女のそういう口ぶりに今やすっかり慣れきってしまっているけれど、姫というものは泡のようにやわやわしていて壊れやすい甘やかなものだと信じ切っている公達たちに、こちらが地金だと気づかれてしまうのは決して得策ではないだろう。であるからして、彼女のそのような言動が出るたびに、姉はそれをたしなめていたが、今回ばかりは咎めるような余裕もない。それは彼女に、痛いところを突かれたという自覚があるからだった。

「だから私を利用したいんでしょう。お姉さんは利己主義者よ。周りにいる人間はすべて自分の持ち駒か何かとおもってる。私はあなたに使い捨てられるために生まれてきたわけじゃない……」

「…………」彼女はちいさく息を吐いた。それから少し笑った。「そんなふうにおもっていたの?」

「…………」

「それは……残念だな」

「何が?」

「そういうふうに、僕の行動が捉えられているとするのならば」

「は?」

「確かに僕は利己的かもしれない」彼女は言った。「快楽主義だし、個人の幸福が何よりも大切なことだとおもう。しかしそれは性格ではなくてただの信条だよ」

「お姉さんお得意の詭弁が出たわね」妹は眉をしかめた。「でも、私は騙されないわよ」

「まあ聞きなさいよ」彼女は膝を崩すと、ぱちん、と持っていた扇を開いた。

「君は利己的な人間について卑怯だとか身勝手だとかおもっているようだけど、そこからして見当違いな話で。

 利己の対義語を知っている? 利他というんだけど。つまりおのれのためでなく他人のために利益をはかることだよね。僕が利己的な人間であるならば、それは利他にははならない。なぜなら僕は僕のためだけに利益を有することをもっぱらにして、その他に利益を分散させる、あるいは分け与えるということがないから。そのような身勝手な行動は、行動者であるところの自分ばかりを肥え太らせ、その他大勢のことを、その利益を吸い上げるための養分程度にしかおもっていない……しかし、果たしてそうだろうか。

 というのはね、利己というのは実に自己完結的であるからだ。つまり、甲という対象ばかりが肥え太る。その周辺にいる乙、丙、丁は甲が太るのを促進させるが、その一方でやせ細っていく。これが利己だ。そして利他がその逆というのならば、甲という対象がやせ細り、その他乙、丙、丁は肥え太るということになる。これはどういうことか? なぜ、甲乙丙丁、すべてのものが平等に肥え太るという段を取れないのだろう。つまりね、利他でも利己でも、どちらの立場をとったとしても、すべての人間が平等に幸福を得るということは行い難いことなんだ。であるからこそ、利己的な貴族はただ肥え太り、利他的な山岳信仰者なんかは、ただ骨と皮だけになって、民衆を救おうと山へ籠もり、幽玄な山の向こう、あの世とこの世の境目まで入っていくわけだろう。このような不平等が、どうしてまかりとおる道理があるだろう? 僕は別に貴族になって肥え太りたいわけじゃない。だからといって、山者になって、骨と皮だけになりたいわけでもないんだ。それならば、この世に生を受けたところの僕のこの身はどちらに向かえばいいのか? 分からない。だから学びたいんだ。君が喝破するように、もしかすれば僕は利己的かもしれない。しかしそれに飽き足りない……というよりも、もっとずっと素敵な立場を取れるかもしれないという希望は捨てたくないとおもっているんだ。だからその希望の端っこくらいは、掴みたいと、それゆえに学問を志したい、僕のそのような考え方が、果たして君を台なしにするだけのために誂えられた、そのような露悪的なものに映っているとしたら……僕はそんな立場を望んでいるわけじゃない。君が婿がねえらびを拒むというのなら、僕は喜んでそれに追従するよ」

「嫌な人ねえ」妹は顔をしかめた。「すぐにそうやってそれっぽいでたらめをならべたてて、自分を正当化しておしまいになるんだから。私が言いたいのは……そういうことではなく」

「いや、だからね」

「お姉さんを批判したいわけではないの。あなたのことを嫌いになれるはずがない。私がこの世でもっとも頼みにし、信頼している人間が誰なのか、お姉さんが知らないはずがないでしょう」

「分かるよ、でもさあ」

「それならば私の言いたいことも、もっとやさしいきもちで汲み取ってくれてもいいはずだわ」

「それは、そうだね」

「私が言いたいのは……」妹は、自身の可憐な唇のあたりに手をやって、考える仕草をした。

「お姉さんは、誰かさんに会いたいがだけのために、そうやって詭弁を弄して、私やお父さんたちを巻き込み、自分の良いように環境づくりをしたい、そうおもっているんじゃないの?」

「……………」

「それを自分勝手と言わないで、なんとするの。お姉さんのお志が高いのは、とりあえずは分かったわ。でもね、それがたった一人の人の心を捉えるために行われていることだとしたらどうなの」

「どうして、君は……」姉はちいさく首を振った。

「そうやって僕の心を、決めつけたような言い方をするんだ? まるで僕が本当にそうおもっているかのように」

「だってそうなんでしょう。そうじゃないの?」

「仮に、そうだったとしても」彼女は冷静な声で言った。「詮索されたくはないね」

「詮索? なにそれ」妹は彼女の言葉をとって、それをあざ笑うかのように言った。「これはあなただけの問題じゃないでしょう? 私たち、一族に関わることなの。それを、お姉さんだけのワガママで、すべてを理由付けして行動することはできない」

「冷たい言い方をするんだな……君は」彼女は口の端を歪めて笑った。

「真実のところは僕にしかわからない。そうじゃないか? それを、まるで君の意見が僕のすべての行動の動機であるかのような言い方をされるのは、不愉快だ」

「だ、だって」妹は、姉が露骨な不快感を示したのに怯えて、ひどく取り乱したかのようにそわそわと衣擦れの音を立てた。「お姉さん、怒ったの?」

「怒ってないよ」

「嘘! 怒ってる……、お姉さんの方が、先に他人行儀な言い方をしたんじゃない!」妹は完全に堪忍袋の緒を切って、言った。「詮索なんて、ひどい言葉だわ。そこまで侮辱されるいわれはないわよ。私だって、こんなふうに……」言葉の端々に水気が宿る。妹は激情によって、簡単に瞳をうるませた。「あなたについて悪いことを言ったりしたくない。もっとほんとうなら、別の話がしたかったの」「すればいいだろう」「だって、そっちが嫌な話を持ってくるから」「何にせよ、話さなければいけない話というものはある。ひとつ屋根の下で生活をともにしていればなおさらのことだ」「だからって、私は、お姉さんとは不愉快な話ばかりで愉快な話はひとつもできないというわけ?」「…………」

 こうなってしまえば、話すものも話せない。相手が冷静でなければ話し合えないこともある。今日は諦めるしかないだろう、と姉はおもった。「分かったよ。僕が悪かった」「悪いとおもっていないのに謝るのは、あなたの悪い癖よ」「おもっているよ」「では、なにを悪いとおもっているの?」「…………」

 姉は一度黙り込み、それから口を開いた。「君が他の大切なことで頭を悩ませている時に、別の問題を、それも僕の都合だけで相談したことについて」

 妹は、くすん、と鼻を鳴らしてみせて、それから、「分かればいいの」と言った。


 それから二人は妹が満足の行くような話をした。それは目下彼女が製作中の絵巻物の物語展開についてであって、その過程に対する助言を、妹は姉に求めていた。彼女が見せた物語を途中まで読み込んだ姉は、懇切丁寧に、それらに対して意見した。「だからさ、女が幸福になる過程を書きたいからといって、安易に幸福になってしまうのも違うでしょう。別に必要以上にいじめる必要もないけど」「加減がわからなくて」「加減って」姉は呆れて、「神や仏じゃあるまいし、加減もなにもない」

 姉は円座を持って立ち上がると、妹の隣に腰を下ろし、「しかし君も酔狂な人だね」と妹の描きかけている紙を手に取る。「現実の男ともまともにかかずらおうともせず、こんな紙一枚に熱心になって……」「あら、なぜその話を蒸し返すのよ」妹はむっとして、「そういう、建設的ではない話し方は大嫌いだわ」「どこが建設的じゃないの?」今度は姉が呆れて、「自分たちの将来について考えを巡らせることほど、建設的な話し合いはないとおもうけどね」「そんなことを言うのなら、私のこれだって、じゅうぶんに自身の将来を考える上におけるたいせつなことだわよ」妹は硯に墨をすりながら、「ああ、髪が入っている。じゃまだわ、さいあく」とひとりブツブツ言っている。

「除ければいいだろう。それに、墨を磨るというのは本来もっと神聖なきもち、清廉な心持ちの時に磨るべきであって……」

「いちいち、ああだこうだ言わないで。分かっているわ」

「……どうも今日は、お互いの波長が合わないみたいだな」姉はわざとらしく肩をすくめてみせ、「お邪魔なようだから、今日のところはこれで失礼するよ」「待って!」妹はするどく姉の行動を制すと、「私、ほんとうに困っているのよ。もう噛みつかないから。後生だから、まだここにいて」「…………」

 姉は、一度浮かせてみせた腰をまた円座の上に下ろすと、「だから、誰かを必要以上に持ち上げる時は、まわりのものをまったく馬鹿そのものに仕立て上げなきゃいけないんだよ」と、言った。

「馬鹿?」

「だからさ……」姉は、その長い巻物に描かれた文字を指でなぞる。「君は物語というものは源氏切りしか知らないようだから、それを例にとって話すけど……」

 妹はもうどんな言葉を口に出すのも止めてしまって、おとなしくその御高説を聞いている。

「あなたの書いている話に出てくる女性……さる御方のご落胤であるところの某女ね、高貴なものの凋落とそこからの繁栄というのは悪くないとおもう。どうせ報われるのならおもいっきり落ち込んで、そこからの飛翔という方がいいに決まっている。たとえば源氏でいえば、それまでは人生の春を謳歌するのに専らしていた彼が、ちょっとした醜聞によって身分をすべて剥ぎ取られ、須磨へ流されてしまう……これが貴族という種類の生き物にとって、どれほどの苦痛かどうかというのは、分かるよね。それまで面白おかしく都会での享楽をほしいままにしてきた彼が、一転して、それをすべて毟り取られ、言葉のほとんど通じないような異邦人に取り囲まれ、潮の匂いばかりに包まれたなにもない、ガランとした屋敷の中で、女も文化も、それまで自己の頼みとしてきたものすべてからの別離を受け、貴族特有の、あの有り余る有閑を、そのままもてあましている……これは恐ろしいことだよ、彼らにしてみればね。それまでの常識としていた諸々から切り離されるという孤独は、すさまじいものがある。

 まあ、でも、源氏の孤独などはどうでもよい。そうでなくて、僕の言いたいのは、何故源氏がそのような憂き目に遭わなければならなくなったのか、ということなんだよ」

 姉はそこで、ちょっと息をついた。

「回りくどいことは無しにして、その原因とはひとつだ。彼が時の権力を一心に集めているところの、弘徽殿大后に嫌われていたから。大后の妹であり、また時の主上にも覚え目出度い朧月夜という女にちょっかいを出したから、というのが直接の原因ではあるけれども、やっぱりそれはそれだけの理由にしかならない。もちろん、理由さえあれば何らかの動機に十分に通用することは確かだよ。しかし、その理由の大本というのは、やはり大后が源氏を嫌っているということひとつに他ならないんだ。

 源氏という長大な物語において、誰もが口を揃えて肯定できる敵役というのは、彼女をおいて他にはちょっと見受けられない。彼女は絶対的な意志を持って彼を拒絶する。でもそれはどうしてだろう」

「お姉さん、この私に向かって、いまさら源氏講義のまねごとをするつもり?」

「まあ聞きなさいよ」

「そんな、しょうもない」

「しょうもないって」彼女は笑って、「だからさ、言いたいのは」

 妹は硯の中から長い髪の毛を摘み上げ、指に付着した墨を懐紙で拭っている。

「物語の中でたったひとりでも人物を創造してしまったら、そこへ付随する人々を、どうしても描かないではいられなくなる。僕はそれが気の毒で、くだらなく、馬鹿馬鹿しいことだと言いたいんだよ」

「…………」妹は何も言わず、ただ手慰みに指で髪をいじっている。

「なぜなら生きている人というのは社会性を持ってまず生まれてくるはずだから。だってそうだろう。父と母が居ないでは、子どもは生まれてくることすらできない。僕たちにだってだから、ああして立派な両親がいる」

「まあ、そうね」

「だからひとりの人物を、現実以外のどこかで描こうとしても、これにもやはり社会がどうしても付随しなければならなくなる。一人芝居なんかでは、登場人物はたった一人でも可能なのかもしれないが、その人物だって他人やその他自己以外のこと、あるいは自分を語るにせよ、その自己に起こった諸々のことを口にするに違いないんだから、やはり他者や社会というものは、創作上に置いて必ず必要になる……そしてその大后も、やはりそうした必要にかられて出て来てしまう。つまり、おもいあがった貴族であるところの源氏を罰するためにね。そういうことをするために、彼女は藤式部によって創造されたんだ。ただ生きるためというわけではなくてね」

「だから、それで、それが、何なの?」

「女がすべて幸せになるのなら、そういう女も、やっぱりちょっと想像し得ないだろう」

 彼女は言った。

「あなたの言うところの物語というのは、とてもむずかしいものなんだよ。誰かが幸福になればその幸福に預かれないものも出てくるだろう。他ならぬ誰かの幸福のためにね。でも、そんなへりくつに似たものばかりをかざして傍観者ぶっていても仕方がない」

「じゃあ、どうすればいいのよ?」

「ある程度の不幸は幸福と全く同じものであるという考え方をするしかない」

「は?」

「たとえばさ。あの時は辛かったけど、今おもえば楽しいおもいでだったな、とかさ」

「なにそれ?」

「そういうのってない? 僕にはあるけど」

「たとえば?」

 姉は膝を崩して、「たとえば……単純なことでも、去年の冬はたしかに寒くて、一日中火桶のまえに座り込んで本ばかり読んでいたが、今思うとその寒さも楽しかったような記憶がある」

「なにそれ? 単に記憶があいまいになって辛かったことが薄れただけではないの?」

「まあ、そうとも言える。というより君の言うのが正解だろう。でも、それと同時に、やはり今現在の僕は、去年の冬のできごとを、なつかしく、慕わしいおもいでとして胸の中にしまっているんだよ」

 彼女は言った。「君はそういうのを詭弁だとして、ごまかしと言ってなじるけど、まあ、そうやってごまかしつつ、長く続く生活に折り合いをつけるのも悪いことではないだろう」「でも、それはそういう単純なことだからであって」妹が言う。「もっと辛いことは、そうそう簡単に薄れて、楽しい思い出だったなんて懐かしむことはできないとおもうわ。たとえば、そうね、男に浮気されたり」「浮気」「他の女に鞍替えされて。紫の上だって葵の上だってみんなそうでしょ。私が言うのはそれよ。お姉さんのごく簡単な不幸の話なんてしていないのよ」「ははは」姉は笑った。「まあ、それはそうだね」「私は、そういうおもいをする女を……」妹は言う。「私のお話の中だけくらいでは、なくしてやりたいと望んでいるだけなの。みんな幸せに暮らしました。それじゃだめなの?」「駄目ではないけれども」「そうやって歯に物の挟んだような言い方をするということは、駄目なんでしょう」「だから、駄目じゃないよ」

 姉は言った。「そうじゃないけど、でもやっぱり全員の幸福なんて不可能だとおもうな。そんなことは、死後の世界でもないかぎり」

「死後の世界?」

「個人の幸福なんてものは死後考えることであって、穢土で達成されるようなものではない」

「何だかよくわからないけど」

「つまり、死んだ後に幸福になるか、生きているうちに不幸も楽しめるものだとして楽しむか、二つに一つだとおもうんだ」

「不幸を楽しむって、意味がわからない」

「だからさ、そんな難しいことじゃなくて、冬の寒さを楽しむとか、夏の暑さを楽しむとか、そういう、日常的なところからの話であって」局の燈台の灯りがジジジと揺れる。「もちろんそれは新しい女を別に作られてみむきもされなくなった女の不幸を楽しむとか、そういう自罰的なことではない」「だから、私は、そういう女たちのくるしみに我慢がならないと言っているのよ」「そうだね。女には、特に生きにくい時代だとおもうよ。だからこそ紫の上たちだって、出家をあんなに望んでいたんじゃないか」「源氏はそれをゆるさなかったけど」「まあ、出家なんてされたら、その時点で女は女でなくなるのだから」「だから?」「そんなもったいないことするな!……と」「どうして女が出家することがもったいないことなのよ」「僕が言ったんじゃないよ。源氏の代弁をしただけ」「男にとって、女が女でなくなるというのはもったいないということ?」「そうなんじゃないの? 彼らはちいさなころから、女というものは得難くたいせつにしなければならないものと教育されているんだから。数量限定であるものの母数が減るのは、誰だって惜しいとおもうだろう」「女は物じゃない!」

 妹はいつのまにか、おっとりとした構えを普段とするそのかわいらしい目元をけんつく釣り上げて、きつい表情で姉を睨んでいる。「お姉さん、自身も女の身でありながら、そういうぶざまな言い様をするのはどういうこと? そういうことを言うために、男のふりをしているわけ?」

「そんなに怒るなよ」

「こんなことを言われて、他にどんな時に怒ればいいというの?」妹は爪をガリガリ噛み始める。

「だからさあ」姉は、妹の烈火の如き怒りにも特に臆することなく続けた。「諦めようよ、穢土なんかのことは。ここは本来からしてどうしようもない土地なんだ。僕はそういうのも楽しいとおもうけど、こういうろくでもない人は放っておけばよろしい。問題は人でなくなってからだよ。女は女でなくなったときから男から自由になれる。そこから幸福への活路を探すこともまた楽しいだろう。つまり」彼女は扇をぱちんと畳んだ。「君は浄土の女たちを書くべきなんだよ」

 妹は怪訝の仕草をして彼女を見た。

「たとえばさあ……」と、言って、彼女は腰を上げ、局から出ていった。妹は、そのまま微動だにせず、そろそろ燈台の芯が短くなった薄暗い局の中で、彼女が戻ってくるのを待っていた。

 だいぶ時が経ってから、姉は局に戻ってきた。

「ほら、これとか、たとえばさ」姉は妹の近くに来るまでにぱらぱらと本をめくり、円座の上に再び座った。「『処はこれ不退なれば永く三途・八難の畏を免れ、寿もまた無量なれば終に生老病死の苦なし。心・事相応すれば愛別離苦なく、慈眼もて等しく視れば怨憎会苦もなし。白業の報なれば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。一たび七宝荘厳の台に託しぬれば、長く三界苦輪の海を別る。もし別願あらば、他方に生るといへども、これ自在の生滅にして業報の生滅にはあらず。なほ不苦・不楽の名すらなし。いかにいはんや、もろもろの苦をや』」

「何ですかそれは?」

 姉は読み上げた本を閉じ、妹の方へ差し出した。「貸してあげる。一度読んでみるといい」「…………」妹はそれを、まるで汚いものでも触るように摘み上げた。「往生要集、ですか」「そう」「地獄についてのものだとおもっていたけど」「厭離穢土、欣求浄土を求める書ですからね。それは、対照になるものを扱わないわけにはいかないでしょう」「…………」妹はその綴じ本の表紙を、すらりとした指で撫ぜた。

「ここにはすばらしいものがたくさんある」

 姉は言った。

「ここを舞台にするのであれば、すべてのことは叶えられる。人の幸福も苦しみも、すべてひとつの絶対的な価値にとなって、人々はその甘い世界に酔うだろう。そこにおいては、女も男もみんな区別などなくなってしまって、みんなでおもしろおかしく暮らしている。そのおかしさは、宮中の貴族などの得ている享楽などとは、くらべものにならないものだよ。貴族といっても彼らは所詮僕たちと同じ人間であって、老いの苦しみ、飽食の苦しみ、女への飢え、権力への飢え、転落の恐怖、飢饉の恐怖、様々な負の要素をまた抱えている。そういうぜいじゃくな幸福の元に彼らは立脚している……しかし浄土にはそのようなものは一切存在しない。だからこそ高級貴族は死が迫る直前に、浄土を望んだのだ。まあ、それでも法成寺入道殿でさえ九品浄土のうちの下品下生にしか生まれ変われなかったという話もありますが……」

 妹は顔を上げた。

 薄暗い局の中で、姉の顔はほのかに炎色になって、夜闇の中に溶けているかのようだ。妹は無意識に、自身の頬に触れた。白粉焼けした肌を隠そうとして、余計に白粉を塗り込める。そういう動作が、彼女の中ではすっかり日常と化している。

 薄暗い都の夜の闇の中でも、真っ白く、貴重な、あでやかな物として映るように、女はその白化粧を余儀なくされている。でもそれをうつくしいとおもうものは誰だろう? それは源氏のようなうつくしい男だ。うつくしいとされる男……そういうものに、うつくしいものとされるために、認定されるために、女たちは自身の顔面に、今日も白粉を塗りたくるのだった……それがうつくしいとされていることだから。

 でも、お姉さんの方が、よっぽどきれいだと妹はおもった。

 でもそれはあたりまえのことだ。彼女は”女ではない”から化粧はしない。男性貴族も化粧をするようになったというのは何時の御代のことからだったか? しかしとにかく他ならぬ、彼女のめのまえにいる姉は化粧をしていない。そしてそれが片手落ちに見えないのだから不思議だ。彼女が、男装をしているから? 

「きっとそこでは君の望むような幸福な生活が送れるだろう。穢土での生活では君、とうていむりだよ。ここで幸福になれる女など居やしない。だから浮舟は身投げを決意した」

「でも、それでは」妹は呼吸がなぜか苦しくなって、あえぐように声を絞り出した。「なぜ、女などというものは創造されたのよ? 不幸になるためだけに?」

「女は不幸を楽しんでいる」彼女は言った。「そうおもったことはない?」

「は? 何?」

「あ、嘘、嘘」彼女はすぐに自説を引っ込めた。「嘘です」

「あなたは……」妹は、不審を込めて、自身の片割れであるはずの姉の姿を見つめた。「そういう言い方をして。知っているわ。お姉さんの魂胆なんか全部」「…………」「そうやって……自分だけは女ではないというふりをして。女であることを拒んで、男の仲間入りをして、まねごとをして、女を断罪できるとでもおもっているの? あんただって同じ穴の狢のくせに」

「厳しいな」

「そういう言い方は止めて!」妹は叫ぶように言った。しかし姉はその剣幕には取り合わず、「あまり大きな声を出すなよ。他の人が起きるだろう」「起こせばいい。そんなものは……」妹の声は怒りに戦慄いている。妹は、その自分でも操作できない感情をもてあましている自身への混乱も痛いほど感じながら、しかし更に、その感情を感情ともおもわない彼女の姉のその態度にもまた傷ついていた。

「そういうことじゃないよ。僕はそういうことを全部取り払って、楽しいことをしたいだけ」

 彼女は静かに言った。その声の調子が透明に、どんな感情にも汚されることなく澄んでいるので、それに連れて妹の方の感情も、悲しく冷えていった。妹は、自身の感情が、自身にとってはとても大切なはずのその感情が、相手によって取るに足らないものとされ、台無しになってしまったことを感じていた。それは彼女にとって、とても”不幸”な体験だった。

「楽しいことをしよう。妹よ。そのために、僕たちは場所づくりをするべきなんだ。

 確かに僕たちは女に生まれついた。それは一方的に見れば詰まらない結果だ。しかしまた一方から見れば、甘い経験に成り得るだろう。そういう努力を、一度は払ってみるというのも面白いんじゃないか? 僕たち二人ならそれができる。僕はそれを信じているんだ。一緒に、利己でも利他でもないものを探そうよ。それはきっとたのしいことだよ」

 姉の面にはゆらゆらと影がゆらぎ、彼女の顔に陰影を作っては消えた。

 どうしてそういうことになるのだろう? と彼女はふしぎにおもって、理由を探った。

 理由はすぐに分かった。

 それは小さな蛾だった。ちいさな蛾が、どこからか局に入ってきて、燈台の油を舐めている。その翅のまたたきが、彼女の顔に陰影を作っているのだった。

「お姉さんは」妹は重い口を開いた。「私が必要なの?」

「必要だよ」

 姉はためらうことなく答えた。「君しかいらない。君しか必要じゃない」

 姉は言いながらしかし、ひとりの男のことを考えている。


****


 私にだって欲しいものはある、と彼女がおもっていたか、いなかったか。

 欲しい物があれば、それを手に入れるべくなにか策を取らねばならない。彼女が知っている唯一のことは、“それ”へとたどり着く過程がおぼろげながらにも分かるのならば、それを実行しないという決断はあり得ないということだ。

 だが当時の彼女にはたったそれだけの選択すらも取れなかった。なぜか? ”それ”が果たして本当に欲求を満たすための正しい順序であり得ているのか、ということがわからなかったからだ。であるからして、実際に欲望に対して何らかの行動を起こすとなれば、一つひとつ、これだ、とおもうものを試してみて、失敗すれば次を考える、という手順をいちいち取っていくしかない。

 確かなことは何もわからない。これをすれば、確実にあなたの欲しい物が手に入りますよ、などという決定的な正しい道があるともおもえない。だから試すしかない。傍から見れば効率の悪いやり方かも知れず、最終的にはむだぼねに終わる可能性も大いにある……が、しかしその時の彼女にはそれしか術がなかったのだから、後から色々と書き付けてみても仕方がないことだ。

 物心がついた頃から、人より好奇心が強かった。彼女にとって、めのまえに映るものならば、どんなものでも不思議だった。第一、自身が呼吸を繰り返しているということから不思議なのだ。なぜ、吸って、吐いて、吸って、吐いてしているだけでこうして思考が続くような”へまな”状態が続くのだろう?

 だってそうじゃないか? 彼女は、ためしに何秒間か息を止めてみて、それから改めて周りを見回した。初めの数秒はまだ平気だった。しかし、秒数が募っていくうちに、息が苦しいということより他に、何も考えられなくなるのがわかる。体の中だけに意識は集中し、まわりのものに気を配ることができない。そしてその苦しさから開放され、呼吸を再開すると、次第にまた生活が行われるようになる。これはおかしいことだと彼女はおもった。たった一つの動作を怠るだけで、他の何もかもがだめになる。このような不自由を身に抱いて、生きている我々の、なんとぜいじゃくなことだろう!

 そういう彼女だから、一度不思議とおもったことはいつまでも不思議で、それが不思議でないと自分の中で解決がつくまでずっと頭の中で考えていて、またそれを口に出したりすることもあったので人に嫌がられた。

 彼女の両親は端から彼女の疑問に取り合わず、まともにそれらの疑問に答えたことは一度もなかった。たとえば子どもっぽい疑問、「どうして空は青いの?」「どうしてカラスは夕方に鳴くの?」「動物界での最強は誰?」などといったそれらの質問に、「空が海に恋しているからだよ」とか「カラスの勝手でしょ」とか「ゴリラだよ」とか、答えてくれる者(というか相手をしてくれる者)は居ず、「さあ?」とか「知らんね」とか「分からない」とか、答える切りで、そのうちに彼女の方でも納得して、つまりそういった疑問に対する回答というのはそもそも存在していないんだ、ということに気づいて、くだらない質問を口に出すのは止めたが、それは口に出すのを止めたというだけで、頭の中では、常に様々な疑問がひしめきあって彼女は頭の中は一杯で、今日も寝不足明日も寝不足などという無駄を演じるのを常としてしまうのだった。

 そういう彼女が、突然めのまえに現れたあたらしい話し相手に、すっかり魅了されてしまったのも無理のないことだった。彼女はそれによって、まったくないとされたものを「ある」と認められてしまったために、その「ある」という状態に、すっかり酔ってしまったのだった。

 その日、彼女は母親に言いつけられて、焚付にする枯れ枝などを山に取りに出掛けていた。

 まだ青々とした竹は焚付には向かない。枝を刈ってそれを使用するのでも良かったが、彼女はまだ刃物を使うことをゆるされていなかった。だから、子どもが焚き木を取りに出掛けるというのは落ちている枝葉を拾ってくるというのを意味していたが、あいにくその日はめぼしいものがなかなか見つからない。それで、普段なら分け入らないような奥地にまで、彼女は歩を進めていったのだった。

身の丈以上の鬱蒼とした竹は生い茂って、ちいさな彼女を天上の遥か彼方から見下ろしている。サワサワ、サラサラと梢の音が重なり、葉の端々から零れ出る暖かで細かな日光が、彼女の白おもてにまだらを作る。そのように穏やかな気候風土にもかかわらず、彼女は少し不安になっていた。普段あまり通らない場所を歩くので好奇心は幾分刺激されたが、それでも両親の目の届かないところまで来てしまっているという自覚はあった。このまま、迷子にでもなったらどうしよう? きちんともと来た道を戻れるだろうか? しかし彼女の足は、彼女のそのような内心を慮ることなく、竹林の間を進み歩いてしまう。何かが彼女を呼んでいるかのように、しかし確実に、彼女は自分の意志のみでその歩を進めているには違いがなく……

そうやってもくもくと歩いているうちに、彼女はだんだん楽しくなってきた。彼女が進む道は山道のようになっているらしく、その一本道には、どんな木も生えていず、彼女の進路をじゃまするものは何もなかった。きっとこの道は山の周辺に住む人々や、ここを通って村の方に降りていく人々のために整備されているのだろう……それならば、ただ来た道をまた帰ればいいだけだ。そうやって冷静に見ていくと、風は穏やか、時々髪や頬に掛かる日光は爽やか、緑のにおいは鼻腔を快くくすぐり、彼女の高揚感を一助する。それで楽しくならないほうが不思議だ、と、彼女はおもって、それで、少し傾斜の出てきたその道を、早足で駆け出した。

 水の匂いがする!

 彼女は林を抜けた。林を抜けると、河原があった。その向こうに大きな川が流れている。竹林の長いトンネルを抜けるとそこは河原だった! 彼女は確かな興奮を覚えた。

 その日は、大島弓子の言を拝借していうのであれば、”悪魔も遠慮しそうな上天気”だった。ちょうど時間も真昼時、季節は夏、新緑若々しい若葉のにおいも香る頃、こんな素晴らしい日に、どうして腰をかがめて、探しても無いものを見つけなければならないのか? それよりももっと大切な、やるべきことがあるはずだ……

 そうおもうが早いか、彼女はそまつな着物を脱ぎ捨てて、川で泳いでいるのだった。彼女はゆるやかな川の流れに仰向けになって、天を仰いだ。一瞬、冷たく刺すような太陽の光に目をつむり、そのままでいると、まぶたのうらがわがじわじわとあたたかさに染まり、血脈によってめのまえが真っ赤に燃え盛る。焦げ付くような太陽のあたたかさと、水の冷たさ。これが生きているということだ! 彼女はその時に分かった。人間、生まれてきたからには、こういう快楽の状態に身を浸さないでは、生まれてきた甲斐というものがない。彼女はひとりで納得していた。

でも、さすがにいつまでも水の中に浸かっていられるほどの夏でもない。彼女は寒気を覚えて、ざばりと音を立てて立ち上がった。彼女は楽しくなって、両手で水をかいて、前方へ飛ばした。それから、何気なく岸辺を振り返った。

 そしたらそこに人が居た。

「うわっ」

 びっくりして、彼女は慌てて水の中にしゃがみこんだ。驚いたのは彼女だけではない、相手の方でも目を丸くして、じっと彼女の方を凝視している。

 そこで彼女は、その男の子に出会ったのだった。

 彼女は水辺から顔を上げて、うろんなしぐさで彼を見た。

 その時、男の子と目が合った。男の子は彼女との意思の交差が計られたのがわかると、ほんのりと、その白いおもてに柔和そうな笑みを浮かべてみせた。

「どうしたの? 上がってきたら?」

 彼女は恥ずかしくなって、ちゃぷん、と音を立てて頭まで水の中に隠れた。


 頭の天辺から足の先まで水びたしだった彼女のめのまえには焚き火が乾いた音を立てて揺れていて、彼女はその炎のゆらめきをぼんやりと眺めながら、男の子に髪を拭いてもらう。

 彼の行動は素早かった。彼女が女であることを認めると、着替えなどの有無を確認し、ちょっと待ってて、と言い残すと林の奥に消え、すぐに戻ってきた。彼はそれから彼女には全く見つけられなかった(というより探す気がなかった)枯れ枝などを集めてきて火をおこし、彼女にせいけつな、体を拭く布と、まあたらしい着物を用意してくれた。彼女は、そのようなことはしなくていいと拒んだが、風邪を引くといけないからと言って、彼は彼女の髪をやわらかな布で挟んで、トントン、と軽く叩きながら水気を取ってくれた。

 冷たい水に浸かっていた体は冷え切っていた。その体にさんさんと注ぐ太陽の光と、それからぱちぱちと爆ぜる焚き火の音が誘うあたたかさ、そして彼のしなやかな手が髪を撫でるやわらかさに気分が良くなって、彼女は目を細めた。

 しかし、彼女は気分など良くなっている暇はないのだ。彼女は様々なことを考えなければならない。たとえば、男の子は、どうしてあのような場所で突っ立っていたのか? この着物やら何やらはどこから? なぜみずしらずの他人にこれほど親切にしてくれるのか……しかし彼女は何も言わなかった。ただその、あたたかいばしょで、心地よい状態のまま何者かに髪を触れさせているという状態そのもののみのとりことなって、しばらくじっとしていた。

 だから、会話は彼の疑問から始まった。

 この近くに住んでいるの?

 その疑問から始まった会話で、ふたりはいつまでも、ずっと喋っていた。

 そして彼女は帰宅した後もずっと夢見心地だったが、その日山へ入った目的も果たさず遊び歩いていたということになって、両親に散々叱られた。それが悲しくて、小屋を出て戸口の近くでしくしく泣いていたら、妹が出てきて慰めてくれた。「理由も聞かずに一方的に叱りつける方も悪いわよ。なにか理由があったんでしょう。私だけには話してみて」

 彼女は起こったことをすべて話した。それによって彼女は「そんな理由があったら仕方ないよね」と妹に言ってもらえるだろう、そして「そんなにいいお友達ができたなら私にも紹介して」などと言われれば、喜んで紹介しよう、とおもっていた、が、妹の反応は彼女が期待していたものとは違った。「危ないじゃないの。そんなのは」妹は眉根を寄せて言った。「どういう人かもわからない人と? 何かが起こった後では遅いのよ」

「そういう人じゃないよ」

「どういう人かなんて、あなたに分かるはずがない」

 それから彼女たちはわあわあ言い合って、最終的には掴み合いになったが、男親に止められて、バンバンと尻を打たれてまた二人でわあわあ泣いていた。

 泣き疲れて、妹はその日はすぐに眠ってしまったが、姉はしかし興奮して眠りにつけず、ずっとあの男の子のことを考えていた。


 それから彼女は何度も彼に会いに行った。一度、焚付を拾ってくるとだけ言い残して、結局日が暮れるまで戻らなかったときなども、当然彼女は男親に叱られ、尻をバンバン打たれ、わあわあ泣き、そういう彼女を「だから言ったじゃないの」とでも言いたげな冷たい目で妹は見ていたが、しかしそれでも彼女は彼に会いに行くのは止めなかった。特に約束し合ったわけではなかったけど、彼女が竹やぶを抜けて河原で焚き火などをして待っていると、彼がひょっくりと現れて、そのまま話し込むこともあった。

 彼女はそうやって彼と話すのが好きだった。それは、彼がどんな疑問にも答えてくれるからだった。

 もちろん彼のそのすべての回答が、その疑問についてのまったく正しい回答であったとは言い難い。万物の疑問について通じている生き物などこの世にはどこにも居やしないのだから。

 だから、彼の回答は解そのものの正しさというよりも、彼女にとっての正しさであったといったほうが適当だった。彼は、彼女の疑問とか、彼女の考え方を、”理解しがたいもの”とはしなかった。その内心ではどうおもっていたかは知らないが、とにかく彼女との会話の中で、彼女の疑問や考え方をそまつに扱ったことは一度もなく、なにか議題に出す価値があるもののようにして扱ってくれた。彼女はそれで、ようやく他人と意見を交換することの快楽を知った。それは彼女が初めて体験した、他者との言葉と感情のむすびつきだった。

 それは、とても諸元的な感動だ。

 たとえば、空が青いというのがある。いま、めのまえに広がっているものは空であって、その色は青、彼女はそれを、だれに教えられることもないのにすでに知っているが、誰かに確認をとったことはない。なぜなら、空というものは”そういうもの”だからだ。空というものは、時間帯によって、雲の流れによって、色を変えていくものだということ、それが空、そういうものと決まっている。

 彼女は彼との会話の中で、そういうものの確認をいちいち取った、といっていい。実際に、「あれって青いですよね?」「ああ、そうですよね」などとまのぬけた会話を交わしたわけではない。わけではないが、彼女と彼との会話というものは、そういういちいちの、事物の確認のようなものだった。彼女はそして、ずっとそういうことをしたいと望んでいたのだ。

 大体からして、世の中にはおかしなことが多すぎる。そうじゃないか?

 なぜ木というものは生えなければならないのか? なぜ竹というものはあのように、カサカサと妙味のある音を立てて揺れるのか? なぜ息を止めると呼吸がくるしくなるのか? なぜ人はこうして、くだらない思考を、嫌でも重ねてしまうものなのか? それらは実につまらなく、くだらなく、さまつで、誰にも相手にしようのない疑問であり、別に、晴らされなくても良いような疑問で、実際のところ、まったくの生活者である彼女の男親、女親などには思考にも値しない、へちまの種ほども価値のない余計なものだ。

 あの子は、余計なことを考えすぎる。それというのも、やるべきことがなくて、日がな一日暇にしているせいだ。子どもは遊ぶのが仕事ということもあるかもしれない、しかしあの子はぺらぺらとくだらないことを喋り立てて、こっちの日中の仕事をじゃまする。もう少し、仕事を言いつけるべきだ、そうだ、明日からあの子には、山へ降りていくときの行商の手伝いをさせよう……などと、実際に彼女の父親は考えていたほどだ。

 だから、彼女の疑問には一銭の値打ちもない。しかし、子ども時代の時間というのは無限だ。少なくとも、無限に広がっているように当人たちには感じられる。彼女は、その無限の時間を、思考を巡らせることによって消費していた。彼女の世界は晴らせない疑問でいっぱいだった。が、そういう疑問でいっぱいになっているのは自分ひとりだということも分かっていた。彼女には双子の妹という、かっこうの話し相手が確かに居るには居たが、その彼女が姉の疑問に共鳴することは一度もなかった。だから次第に彼女も自身の疑問を口に出すのは止めた。

 そういうものは、口に出すものではないと知るようになった彼女が、それをうっかり口にして、そしてその未来においてその他ならぬ疑問を他人との感情交換のために持ち出すことになったのは、ひとえに、その会話の相手も”疑問者であった”ということに尽きる。早い話、彼らは少し、似ていたのだった。

「水に潜った時に分かったの」

 彼女は言った。

「なぜ呼吸をしなければならないのか。そうしないと死んでしまうからだよ! でも水に潜るまでは、そういうことも分からなかった……」

 彼女は続けた。

「なぜ呼吸なんかを繰り返さないではいられないのかと疑問だった。こんな単純なことによってすべてが賄われているというのが……でも当然だよね、考えてみれば。だって呼吸しないでいれば死んでしまうんだから。頭で理解できることと、体験で実感できることは違う。それに、自分の頭の中だけで考えていた正解も、口に出してしまうとまた別のものになってしまう。そしてそれを他の人と話し始めると、自分の中だけでしまっていた時は高級におもえたものが、急に冷めて、すごくくだらないものになってしまう……、なんだかそれが、たからものを奪われたみたいに感じて、それ以上話していることが面倒になる。だから妹と話をするのは楽しいけど、ほんとうのことは話さない。話したらだめになるから」

「だめになる?」

「だから……」

 彼女はしばらくうつむいたまま考えていた。考える時間はたっぷりあった。なぜなら、それを彼が与えてくれていたからだ。

 はじめのころは、そうやって言葉に詰まってしまうと、彼女の発言を待つ形になってしまう彼に対して申し訳のない気持ちに駆られて、気が急いてしまうことがあった。彼女が、うまく伝えられない自身の表現能力の貧困さを彼に詫びると、彼はそんなことは何んでもないような顔をして、柔和なしぐさで彼女を見た。「自分の感情を他人に打ち明けるというのは、自身の形をできる限りにおいて他人にも分かるよう具現化するということに繋がる。あなたがそれを悩むのは当然で、だから、あなたは今、とても正しいことをしているんだよ」

 彼女が彼の言った言葉のすべてを理解できたわけではなかったが、その言葉と彼のしぐさのやわらかさから、自分が肯定されているということはわかった。そうやって彼女なりに彼の言葉を理解すると、それと同時に、なにやら体の中心あたりから、じんわりと温かいものが染み出してくるような感覚を覚えて、彼女はおもわず胸のあたりに手を当てた。皮膚が破れて、そこからなにか血膿のようなものが流れ出したのではないかと不安になったからだ。でもそれは勘違いだった。彼女がゆっくりと手を下ろしても、そまつな木綿の着物の表面は赤く染まっていなかったから。

 だから今日も彼女は、安心して彼の隣に座って、自分の話すべき、話したいこと、頭の中だけでしんしんと考えていたことを、言葉に変換できるよう苦心していた。めのまえには雄大な川が流れ、水面にきらめく初夏の風が、きらきらと反射しているのが見える。聞こえるのは川のせせらぎと、そよぐ風が耳に吹き付ける細かな音、それから時々足の先で鳴る、じゃりじゃりとした河原の小石がぶつかる音。

 私のしていることは正しい……、そうやって他人に言ってもらえると、その行為をするのがとても楽になる。楽になる、それどころか、それこそがまさに、しゅくふくされるべきものであるかのように感ぜられて、彼女は幸福だった。

 今までは、あれほど苦痛を伴うことであったはずなのに、これはどういうことだろう!

 彼女は、そこで考えがまとまって、ぽつぽつとそれを彼に話して聞かせた。つまり、必要以上に疑問を持ちすぎること。それを他人にぶつけて、他人に嫌がられたこと。単純すぎる、くだらない疑問をぶつけることは、他人の不快につながるということ。「そうなっているものはそうなっている」だからそれに、疑問を差し挟むよちなど、本当はないということ。しかしそれは正しくないと、あなたが教えてくれた。疑問を持つことは悪いことじゃない。あなたがそうやって、私の間違っているとおもっていたことを正してくれたから、私はとても呼吸が楽になって、それどころか、すごく楽しい気分になった……など。

「竹はなんでカサカサ音がするの? と言うと、お父さんは、うるさそうにして、そんなものは知らない、というの。お母さんはさいしょから取り合わない。知らない、じゃなくて、分からない、というだけ。妹は……どうしてそんなことを訊くの? と尋ねるの。竹がカサカサ揺れる、だから何? どうしてそんなことを疑問におもうの? でも、私はだから何? と聞かれたとしても、それには答えられないの。そう言われて、私はいつもすごく悲しかった。でも、だから何? と聞かれて答えられない私は、そういう質問を、お父さんや、お母さんや、妹に……投げかけて、困らせていたんだよね。理由がわからないものを疑問されたって、答えようがない。でも私は、もっと……」彼女は眉根を寄せて、詰まりそうになる言葉を絞り出そうとする。しかしそれは叶えられなかった。だから、彼はそれを継ぐようにして微笑んだ。「あなたは」そして、言った。「存在のあり方そのものが不思議なんだね」

 そんな難しい話じゃない、と彼女は言いたかった。でも、言えなかった。

「そしてそのとても不思議なことを、誰も不思議だと疑問におもわないから、益々すべてのことに疑り深くなって、不思議がってしまう……そういうのは」

「くだらないこと?」

「くだらないことかもしれないし、そうでないかもしれない。でもそれは誰かが決めつけることではない。たとえば」

 言って、彼は足元の小石をひとつ手に取ると、軽く右手を振りかぶって、手の中に握っていた小石を投げた。小石は放物線を描いて、音もなく川の中に落ちた。

「小石を投げるということ……、投げられた小石、なぜ小石は投げられなければいけないのか?」

 彼はちょっと彼女の方を見て、言葉を促した。「わ……」彼女は息を呑んだ。「分からない」

「そうだよね。説明されないものは分からない」

「……………」

「たとえば……『五蘊』というのを知っている?」

 彼女は首を振った。

 彼女はそうやって彼に答えながら、自分の頭の中のどこかが、めちゃくちゃに書き換えられていくかのような感覚を覚えた。このままこうして二人で居たら、何かが今までとは違ってしまう。今まで感じていたこと、今まで常識とおもっていたものがすべて別のきれいな色に染められてしまって、何も見えなくなってしまう。そんなことになったらどうしよう? 以前のままで居られないような目に遭うようなことがあれば……もう過去には戻れなくなってしまう。それでいいのか?

「すべてのものは、色、受、想、行、識の五つで出来上がっている。あなたの疑問も、たった今僕が投げた小石も、みんなこの五蘊をふくんで行われる。色は石そのもの、石を見る観察者が受、「これは石だ」と確認するのが想、行……これはそのものに対する働きかけですね。石を投げた、それが行……その四段階を踏むことによって、僕たちはなにか対象に働きかけをするわけです」

 また小石を拾い上げると、彼はそれを川へ投げた。

「最後に、識……それらすべてを認識するもの」

「……………」

 何が何だか分からない。

 彼女が黙っていたので、彼が続けた。

「あなたは『呼吸』というものを不思議におもった。そして『呼吸』というそのものを認識し、働きかけたわけです。つまり、息を止めてしまうということ……『色』は呼吸そのもの、『受』は呼吸を見つめること、疑問を持つということ、呼吸そのものに対する自身の感じ方ですね。『想』は呼吸そのものを過去の記憶と照らし合わせて、これは呼吸だ! と認識すること、そして他ならぬ『行』、これは、呼吸をしよう、だとか、止めてしまおう、だとかいう行動そのもの……そしてその行動そのものによって、僕たちは僕たち自身の行動、それを敷衍して生活たらしめている、と。そうすることで行為としての結果が残ってしまう。この残ったものすべてが、僕たちそのものの痕跡になってしまうわけです。わかりますか?」

 彼女は、首を横に振るか、縦に振るかのどちらかさえもえらべなくなって、ただじっと、その奇妙な話をする男のことを見ていた。

「そうですね」

 しかし、彼の方では、まるで彼女が彼の質問に真っ当に返事をよこしたかのように、当然とした笑みを浮かべてみせた。

「返答に窮す、または対話者をじっと見つめる、というのもまた行動の痕跡になってしまうわけです。僕たちはどうしていてみても、結局行動を起こして生きていることの痕跡を残してしまう。何かに対する、善でも、悪でも、どちらにせよ業を作ってしまうわけです」

「ごうって?」

「起こってしまったこと、ですね」

「喋ってしまった?」

「はい、業です」

「石を投げてしまった」

「業だね」

「呼吸をしてしまった……」

「業です!」

 彼は(なぜか)明るく言った。

「石にとっては、めいわくな話ですよね。いままで気持ちよくひなたぼっこをしていたのに、勝手に誰かに掴まれて、今では暗い水の底で、冷たく冷えていなければならない……このようなふじょうりが、果たしてまかり通ることがあるか?

 呼吸だって同じです。呼吸することによって他ならぬおのれの生を永らせてしまうという業ですね。生きていくということは喜怒哀楽、どうしても幸であるとか不幸であるとかいう状態がつきまとう。そのようなものすごいものを、いつまでも背負い続ける道理などどこにもないというのに。呼吸をすることによって自身に対する自身への業を、なんと自らが働きかけている。このような自殺行為が、平然と行われている……だからこそあなたは疑問を持ったんだ」

 彼女は目を見開いて、それをぎらぎらと動かしていた。まばたきをしなくては、と彼女はおもった。だけどそれは、現在のこの彼女には、どうしても行われにくいことだった。どうしてまばたきなんて? 目が乾こうが、乾くまいが、けっきょくどっちだっていっしょなのに?

「しかしなぜ、このように理由あるものが大多数の人物によって価値の『ない』ものとされてしまうのか? それはすべては『空』であるからです。本来であるならば、すべてのものは『無い』ものなんだ。だってそうでしょう?」彼はやわらかく微笑んで、噛んで含めるような言い方をした。

「石は何も考えていないんです。ひなたぼっこもしなくていいし、冷たい水の中にいてもいなくても別に、どうってことないんだ。こうして僕たちのめのまえにあるものは、めのまえにあるからこそ『ある』と認識できますが、しかし果たしてそれが永続するか? というと違います。どんなものにもかならず終わりは来る。そのようなものが、僕たちのめのまえにある一瞬間だけ存在しているからといって何になるでしょう? たとえばの話、僕たちがこの河原から離れれば、少なくとも僕たちのめのまえからは、河原は消え失せ、川は消え失せ、投げられた哀れな石も消え失せます。存在とはそのようにしてとても儚い、認識しにくいものです。そう考えていけば、呼吸することを永遠に止めてしまえば、僕たちの存在だって、僕たちのめのまえから、永久に消えて失せてしまうことになる。五蘊をふくんだすべての諸々とは、存在しているけれどしていない、そのような、はかなくてどうでもよく、くだらない、ちりあくたのようなものです。だからあなたのご家族は、あなたのなかに生まれた疑問にはまともに取り合わない。『無い』ものに対して回答など生まれようがない。そうじゃありませんか?」

「…………」

「しかしこのようなこともまた、『無い』ことではあります」

 彼は言った。「このような考え方もまた、在るようで無いものと同列ですよ。五蘊は在る、空は在る。しかし五蘊は無くても構わないし、空は無くても構わない……しかしこのような考え方も、やっぱり在ると言ってしまえば在る。すべては見方次第という結論は、ちょっとおもしろくないかもしれないけど」

 男は、色素の薄い短い髪を少し揺らして、彼女に語りかけた。

「こういう考え方は、好きですか?」

 ああそうか、と彼女はおもった。

 よし、分かった!

「分かった」彼女は髪の毛をばりばりと掻きむしった。「私には在ったんだ。でもお父さんやお母さんには無かったんだ。だから話が通じなかったんだ」

 彼女は考えをまとめるかのように、ばりばりと頭を掻き続けた。「ぜんぶのものに五蘊はあるんだ。でも五蘊のあるものも本当はぜんぶ無いんだ。だから空なんだ。無いものを在るものと主張することはできない。お金がないおうちに、お金があると言い出したって、それは無いんだ。でも、お金なんて有ってもなくても、どうせ全部『空』で、すぐに全部『無くなる』んだから、一時的にお金があったって無くたって最終的には結局いっしょなんだ。やっと分かった。無いものに疑問を持っていても仕方がない。だって元々すべては在ったんだ!」

 ユリイカ!

 と、彼女はひとりで興奮していたが、ただひとりだけの興奮だったので、それは誰にも伝播されず、すぐに鎮静した。そしてひとりで興奮していたことに彼女が気づくと、それを恥じて彼女はへどもどした。「ああ違う。やっぱ違う」

 言って、彼女は彼の、他ならぬ彼のめのまえでそういった醜態を演じたことを悔いてもじもじしていたが、彼はそれを醜態だとは捉えなかったようだった。

 その証拠に、彼はちいさな子どもの利発さを褒めるような言い方で、「ああ、なんて君は頭が良いんだ」と、言った。

「あなたのような、すなおな、まっしろな心根を持った人は幸いだろうな。あなたのような人が……」

 彼は、その言葉がまるで幸福そのものを象徴するかのような、澄んだ、朝のつめたく清涼な水のような声で言った。「あなたのような人が!」

 ああもうだめになるんだ、と彼女はおもった。もう何もかもがお終いだ。お終いになって、また新しく、何かが始まってしまう。それで、今までのものはみんな古くなってしまうんだ。彼女はそれを悲しくおもった。しかし彼女は、今まで生活してきたどんな瞬間よりも、幸福だった。

「まあでも、こういうのだって、へりくつだ! と決めてしまえばへりくつには違いないんですからね」

「へりくつ……」

「だってどっちにしろ、五蘊はある空はあるにせよと口では言っても僕たちは生きて呼吸していかなくてはいけません。だって呼吸しないでいれば苦しいですから」

 その言葉は、熱く燃え盛った焚き木に、冷水をぶっかけるような言葉ではあっただろう。だから彼女は少し心の冷めたようなさみしいきもちがして、それで、自然にその言葉が口から滑り出してしまった。

「でも、そう考えたほうが、楽しくはないですか?」

 彼女は言った。すると言われた彼は、まるでそれが当然であるかのような、彼女の口にしたことはすべて彼そのものの意見とまったく同一であって、その同一を何ら疑うことにすら値しない、みたいな明朗さで頷いた。

「楽しい、楽しい!」

 ああもう完全にだめになった、と彼女はおもった。


 それからも時々彼女は彼に会っていた。しかし別れは唐突に訪れた。

「ごめんね。だめなんだ」

 彼女は気に入っていたおもちゃを、特に理由もなく奪われてしまって憤慨している子どものような目をして、非難を込めて彼を見た。 「女の子は坊さんにはなれない」

 と、彼は言った。

 つまりこういうことだ。彼はもう、今までのように彼女と会うことはできなくなった。それは、今までとは環境が変わってしまうためだ。彼はこれから山奥の、坊さん学校に行って、僧侶なるものになるための修行に出ることになったからだ、というのが彼の言い分であるらしかった。 「じゃあ、男になるよ!」彼女は必死で言った。「今日から男になる。だから、僕も……僕もいっしょに、連れて行って」

 彼は彼女の幼稚な言葉を咎めることもなく、人を落ち着かせるような笑みを浮かべると、彼女に疑問してみせた。

「どうやって男になるの?」「そんなの簡単だよ」彼女は焦りの中に、ほんのすこしの希望を混ぜて彼を見た。「変装すればいい。簡単なことじゃないか? 私……僕も、そっくりそのまま、あなたのような格好をして」「無理だね」「どうして!」彼女はじれったさを感じて、叫び声に近い声を出す。しかし彼は、彼女のその激しさに取り合わない。

「そういう、見かけだけの問題ではないんだよ。とにかくあそこでは無理だ。男装などしても、いずれあなたが女の身であることは分かってしまう」「どうして?」「…………」彼は彼女に目を向けた。彼女はその視線の意味を測りかねた。彼は少し口角を上げた。「そういうものなんだよ。分かってしまうというのに、決まっているんだ」「……そんな……ことは」彼女は悔しくなって、荒く息を吐いた。

「そんな言い方をしないで。そういう言い方を好まなかったはずだ、今までのあなたは……」

「……………」

「あなたは……そうじゃなかった。もっと、そんな、決まっているものは仕方がないなんて、諦めた言い方をする人じゃなかったはずだ。物事にはすべて理由がある。だからその理由を疑問におもったり、探ろうとすることは全然悪いことじゃない。むしろ自然なことだ。そう教えてくれたのは、あなたじゃなかったのか?」

 一瞬、彼が彼女に向かって嫌悪のしぐさをした。彼女はその一瞬のできごとに怯えて、それ以上何も言うことができなくなった。しかし彼はすぐにいつもの人好きのする、穏やかな表情を浮かべて明るく言った。「笑顔で別れよう。思い出は優しいものとして記憶されたほうがいい」

 おもいで? 何を言っているんだこの人は? と彼女はおもった。

「別に私は、あなたとのおもいでなんかいらない」

 喉に熱いものが詰まって、そこから全身が焼け爛れていくようだった。体のそこかしこが、まるで全身に熱湯を浴びせかけられたかのようにカッカとしているのに、体の芯の方ではどこまでも冷静に、なにか冷たいものが中心に居座っている。

 早くこのような不自由な状態から楽になりたい、と彼女はおもった。そうするにはどうするべきか? ああだこうだと理屈を並べ立てて、彼の冷たい仕打ちを糾弾するべきなのか。それとも、まるで子どものように泣き伏して、行かないでと駄々をこねるのが正しいのか? どうすれば彼の気持ちを変えられるんだろう。彼女の体の冷静な部分はそうやって次の行動について考えを巡らせていたが、冷静でない方の体のほうが、いくらか行動力に長けていたようだった。だから彼女の口からはすぐに言葉が飛び出した。

「いやだ。行かないで。私も連れて行って」

「……………」

 彼は少し笑った。それから、何かを諦めたかのように、彼女に向かって片手を差し出した。「分かった。それでは、またどこかで会おう。お互いが目指しているものが同一であれば、必ずまたその必要によって会える時が来る」

 彼は突き出した手を、彼女の行動を促すように動かした。「それまでお互いが研鑽を積み、再会までにお互いをお互いに恥じない体に仕立て上げておくこと。こうして約束を交わしてしまえば、あとはお互いの精神に基づいて行動するようになるはずだ」

「でも」

 しかし、甚だ現実的な彼女は、彼のそういった理想めいた綺羅綺羅しい言葉の不確かさに怯えた。「どこで会えるかも、やくそくしないで」

「約束?」

「不確かでしょう、そういう誓いの立て方は。もっと、何年後に、どういう場所で、どういう状態で会おうと、言ってくれなくては、困る」

 彼は笑ったようだった。「なるほど。そういう考え方もあるね」

 彼女は、そうやってあやされるように言われたので、ちょっと恥ずかしくなった。

「でも僕は、そういうことも、あなたとなら可能だとおもっているんだ」

 などと、言われてしまったので、彼女は今まで、その言葉を信じてきたのだ。


****


 さて、その後の例の五人衆はどうなったか?

その後の五人の公達たちと彼女の妹の恋の行方は、どれもがそれほど劇的な結果を迎えたわけでもなかった。

 彼らはめいめい文を送り続けた。しかし、その返事は来なかった。それは彼女の妹が、返事書きを止めてしまったからだった。

 僕が代筆しようか? と彼女の姉は提案したが、妹はやや上の空で、それに首を振った。どうもそれどころではないらしく、一日中、漉き紙と首っ引きで、その白い紙面になにやらを書き付けていた。

 その間にも、雅やかなひとたちからの文は文机の上に積み上げられた。それ見かねて、姉が難色を示すと、「目は通しているわ」と、文机に向かったまま、妹は彼女の方に目を向けることなく言う。

「そうなの? ならば返事を書いてあげればいいのに」

「だってどんなお話をしてあげればいいというの?」妹は自身の苛立ちを隠さず言った。

 ここのところ、彼女はずっとカリカリしている。動作や態度に余裕が見られず、普段であるならばおっとりと返すような言葉も、いやに検立って響かせてくる。姉はその態度にうんざりしたが、しかしそうへきえきしていても始まらない。時間が経てば経つほど、彼女が男たちを拒めば拒むほど、向こう方の感情は否応にも高まり、その決して発散できない感情は鬱屈し、彼女への飢えと希求として方々に悪影響を及ぼす。

何んでも、右大臣の屋敷では離縁騒ぎが起きているというし、讃岐邸の方へはそれぞれの公達が、矢も盾もたまらず使者を送ってきて、あの返事はどうなったのか、もう婿は他に決まってしまったのか、あれこれと聞き立てている。姉はそれ一つひとつにていねいに対応し、まあ鷹揚に構えて居たほうが懸命でしょうといちいち答えていた。

「別に僕は構わないけれど。でも大臣殿たちが気の毒でね」

「嘘ばっかり。そんなことちっともおもっていないくせに」

 妹は姉の欺瞞を簡単に見抜いて、文机に頬杖をつく。

「そんなことより、『往生要集』っておっかしいわね。地獄というところは恐ろしいところだわ。特に、あの刀葉の林というのはどういうの。男の人にはたまらないでしょうね……」

「これ、読んでみてもいい?」

「ええ、どうぞ」

 妹はそっけなく了承すると、また机に向かって書物を始める。

 姉は高く積まれた文の山から、一番上に乗っているものから順に読んでいった。たいていはあたりさわりのない、というよりも、特に面白くもないような、平凡な恋の歌や繰り言などが連綿と綴られていたが、中にはちょっと目を瞠るようなものもあった。


「あなたから頂いたお手紙を、毎晩毎晩くりかえし眺めています。くりかえして、そして飽きることがありません。これはどういうことでしょう。あなたの、特に頂いた絵などを見ている時間などは……

 その時だけです。その時だけ、すべてを忘れられる。つまらない一日の出来事や、人に言われた嫌なこと、みんな、忘れてしまって、ただあなたの絵の中の世界に掛かりきりになる。それはまるで桃源郷の中にいるかのようだ。桃源郷で、おいしい桃を、一日中かじっているかのように、それのみのとりこになってしまう……

 私のただひとつの望みを叶えてくださってありがとう。これで私はなにもおもいのこすことなく……となればあなたも私もこれからは肩の荷が下りてすっきりするだろうが、そうは問屋が卸さなくてごめんなさい。私はあなたによってすっかり心を縫い留められてしまった。もうここからはどうにも動けなくなりました。

 こうなったのもすべてあなたが魅力的でありすぎるからだ。

 私のせいではない。

 なるべくしてこうなった。今となっては、そうおもうよ。

 あなたは今までに私の出会った、どんな女とも似ていない。

 はっきり言って、私はあなたからもらう文以外に、あなたのことを知らない。これ切りしか知る術がないというのは、それは当然だろう。しかしあなたのどのような姿を、実際に目の当たりにしたところで、これほどの尊敬は、ちょっと抱けないのではないかとおもうのだ。

 あなたの素晴らしい詩才。あなたのまるで踊りだすかのような、ゆかいかつそしてなめらかな筆致。たくさんの男を手中で転がして、それでも全く平然とし、そしてその本当の内情というものをこれっぽっちも私たちに与えてくれない、その驕慢。どれをとっても私は、もはやそれら無しでは居られないというような、不思議な境地に居る。この苦しみ、悲しみ、焦がれを何んとする。私はもはや、あなたなしでは居られない身の上だ。この苦しみをどうか哀れんでください。そして、それを哀れにおもうのなら、またお手紙をください。私にはもはやそれしか楽しみは残されていない。

 私を哀れとおもうなら……」云々。


「姫!

 姫、姫、姫!

 お手紙ありがとう。とても、とーてーも、たのしく読みました。

 しかし……あれはどういうわけですか? 僕、おかしくて笑ってしまいました。

 ずいぶんこっけいな人々が出てくるお話ですね。突拍子もないといったら聞こえは悪いかもしれないけど、なんでしょう……今まで見たことも聞いたこともないというか。もちろん僕は男ですから、どこまでも様々な物語を知っているわけではない。しかしあなたの話すものには何かしら気を引かれるところがある。つまり、発想がまったく新しいんです。

 お話を伺っていると、今にもあなたの作った空想の物語を読んでみたい気持ちでいっぱいになります。僕はそれを望んでも良いのだろうか? こんな幸運が僕などの身にまいおこることがあるなんて……なんて、朝から晩まで、踊ってばかりいますよ。こんなにまいにちを、たのしく遊び暮らしたことはないというくらい、あなたのことばかり考えている。でもそれは僕にとっては、もはやとても自然なことなんです。

だってそうでしょう? この世の中をみまわしてみても、あなた以上に他人を面白がらせることに長けている人はちょっと見つからない。あなたの考え方や物語の書きぶり、そして他ならぬ、あの図画の巧みさは、例を見ないんじゃないですか。僕は、実は暇に任せて木工寮などに出入りをしているんですが(これは二人だけのひみつにしてくださいね)、あなたのような絵の描き方をする人は、ちょっと宮中お抱え画工のなかでは、見受けられない。なんというか、精密なんですよね。甘えやごまかしがきかない。人物の立ち方、座り方、性格、着物の文様、焚き込めた香の種類なんかまで、きっちりかっちり決められているというかね。そこにひとりの人間が、絵の中に立っているというのが否が応でも分かる。であるからこそ、見ている者も、これはあだなおろそかにはできないとおもって、こちらもしゃんと背筋をのばして、あなたの紡ぐものばかりに掛かりきりになる……と、人間、ほんとうにすばらしいものを見た時は、そのものの真剣さに心打たれて、自分もそれに応えなくては、となりますね。あなたの創造するものというのはすべてそれなんです。だからこそ僕はもうすっかりあなたに夢中だし、あなたなしでは生きてゆけない……なんてね、年甲斐もなく言ってしまいますけど。

姫。僕に生きがいをください。こうなってしまえば、僕などは、あなたといっしょになりたいなどというろくでもない考えは、端から捨て去っているんだ。僕は、はっきり言います、あなたという女性そのものにぞっこんまいってる。そのあなたという存在が、僕などの近くにいるからこそ輝くなどということはありえない。僕はあなたを仰ぎ見るだけでいいんだ。僕があなたのお婿さんになって、それでお父様やお母様とも親族の関係を結んで、家と家とがむすびつきを得て……などといったちんたらした関係への希望などは、もはやどうでもよろしい。第一からして、そのようなことをあなたが望むはずがないんだからね。僕は……僕はあなたの崇拝者でしか有り得ない。そういう単純明快なことが、今頃になってようやくわかりました。あなたは、僕にそれを知らしめたくて、いままで僕の薄汚い、独りよがりの、傲慢極まりなく醜怪な求婚に肯わなかったわけでしょう? 常に正しいあなた。僕はあなたを仰ぎ見るばかりでつまらない一生を終えましょう、それこそが僕が生きたという証左になるんだ。これほど嬉しいことはない。僕はそれだからこそ……」云々。


「……ところで、先日頂いたお手紙ですが。

 すてきなお手紙をありがとう。また、私のつたない絵についても、一笑に付したりせず、きちんとしたものと汲み取ってくださってありがとう。私は、それだけで、姫に、恥を忍んで、自分の非才をひけらかすようなことをしたことを、後悔せずに済んでよかったとおもった……、ああしてかかなくてもいい恥をわざわざかいて、姫の御手をわずらわせるなどという甚だ不適切なことをしでかしてしまったのは……ああ、言い訳をさせてください。そうでないと、僕は……

 僕はハッキリ申し上げて、めらめらとした嫉妬を感じていました。こんなこと、女性に向かって吐きつけるのは、もう、男としては最低の、かっこ悪いふるまいですよね。でも僕は、それでも構わない。あなたに、どのように、嫌われようと、男らしくない! とおもわれようと構わない。僕はあなたに、もうもう、全てをさらけ出したいような気持ちでいるんです。

 あなたの絵を拝見したとき。負けた! とおもった。正直に申し上げているのです。あなたの絵には、とうてい敵わないとおもった。僕が、逆立ちしても、これから何度生まれ変わったとしても、どんなに僕が、あなたのような絵を描きたいと心から望んでも……それはとうてい叶えられない望みでしょう。あなたの絵は、宮中の画工などが一束で掛かってきても、ちょっと敵わないようなところがある。なんというか、唯一無二なのです。あんな筆致は、僕は見たことがないし、しかし、一見即了解、と言うべきか、それが素晴らしいものだということは、分かってしまうんですね。

 で、あるからこそ、あなたが、そのようなものを、僕以外の人に見せつけていると知ったとき……その時の、飢えるような、喉の奥をかきむしって、そのまま血を吐いて死んでしまいたいようなくるしみ、僕のあの時のくるしさ……あなたのような人には、到底分かり得ないことでしょうね。もちろん、分かる必要など無いに決まっています。あなたという人は、どこまでも清らかで、うつくしさばかりしか知らないような人なのだから……でも、そういう人に、僕のような、きたならしいかたまりのような男のことも、少しでいいから知っておいてほしい。なんだか、そんな、嫌がらせのような、いじわるめいたことも、考えてしまうんですよ。

 僕はすっかりあなたのとりこになってしまった。あなたのような人は、どこを探しても見つからない。

 試しに羅列してみようか?

 いや、そんなことは意味がないだろう。あなただって、同じことをたくさんの人から言われつけているだろうし、食傷気味ですよね。

 とにかくあなたはすべてがすばらしい。僕たち男は、まあ、はっきり言えば、”そういうふうにおもいこんで”女性に、せっせせっせと手紙を送る。別の女性の話なんか持ち出してごめんなさい? しかし、僕たちはやっぱり、その一人ひとりの女性を、すばらしいものと決め打ちして、交流を持つ。その決め打ちに、ぴったりと来る人なんて、居やしないよ。本当のところはね。他の人はどうだか知らないけど、僕の場合は、ずっとそうだった。

 今の僕の奥さんだって、こんなこと言ってはあれだけれど、お互いが、本当に好きあってむすばれたわけではない。あなたにならみんな正直にしたいから話すが……

 あなたから頂いた手紙。頂いた当時は、どうしたらいいか、とほうに暮れ、困っているばかりだった僕だったけれど……

 もう、これは絶望だな、とかね。ああ、すべてが終わってしまった。とかさ。

 あなたに嫌われてしまった。ああいううすぎたない、お目汚しをするというのが容易にわかるはずなのに、それにもかかわらずそれを決行してしまう、品のない男だとおもったよね。でも……これだけは知っておいてほしかった。

 僕はあなたの信奉者である。その、他ならぬ君に、僕の捧げられるもの、なんでも見せてしまいたい、いいや、見てほしい……という、いささか傲慢な考え方。そしてそれを見たあなたが、どんな反応を示すか……あなたのような人を試すようなまねをして、だからこそああいった、しっぺ返しを食らったとき、正直、やられた! とおもったよ。

 あの手紙をはじめにもらったとき、がくぜんとした。送った手紙を添削してよこしてくるなんて! こんな目に、ああいいや、こんな仕打ちを……だけど、今では理解できる。僕はあなたに歓迎を受けたのだと。あなたは僕の歌を添削してくれた。そんなこと、他の女の人から一度もされたことがなかったから、ほんとうにびっくりしたけど……でもね、こんなことを、一体誰が、されるなどと想像できる? 試しに、まわりに訊いてみたりもした。もちろん、そんなことはされたことがないと、誰もが首を振ったよ。いちいちそれを確認しながら、しかし僕は幸福だった……だって、姫、他ならぬあなたに、ここまで心を砕いてもらった男が、この都のいったいどこにいる? 僕は、それをおもうだけで……

 とにかく、手紙をありがとう。僕は今、じゅうぶんに温かい、充足したきもちでいっぱいです。あなたに出会えなかったらとおもうと恐ろしい。なぜなら……」

「なんだこりゃ?」姉は薄様紙を自身の正面に広げ、目を白黒させた。「すさまじいものだな、これは……」

「もうお返事を書いたりしないわ」妹は断言するように言った。「キリがないもの。こういうことをしていても」

「でも、彼らは、こういうことこそをしたいんじゃないの?」

「そうですか」妹はそっけなく感情の乗らない返事をして、「それならば私はどうしたらいいの?」

「このところお父さんからの締め付けが厳しくてね」姉は言った。「そろそろ……どうにかならなければ」

「どうにかってどういうこと?」

「そう突っかかるなよ」

「つまり、この五人の中から、どれでも好きなものをひとつ、さっさと選べって?」

「そう理解してもらえれば、話が早いね」

「何故よ」妹は姉をまるで、軽蔑に値するものであるかのように不審の目をして見つめた。「何故結婚なんか」

「あー」姉はその憤りを引き取って、「まあ、まともな家の女ならば、当然なんじゃない?」

「あ?」

「それとも宮中へ給餌にでも出掛けるか?」姉は妹の方を見ることなく、「まあ、それもいいかもしれないね。一緒に出仕しようか」

「お姉さん、ほんと?」

「その代わり、あなたのその面おもてを多数の人間に見られることになるけど」姉は少し笑った。「それでも構わないの?」

「そんなこと」妹は片頬をやや不自然につりあげた。「どうでもいい、さまつなことよ」

「そうかな?」姉は、公達からの妹への手紙をその辺に放った。「温室育ちの君には耐えられないだろうな。どこかの御大は、女房仕えほどすばらしい商売はないと書いているけど、それでもすべての宮仕えの女性がそう感じているわけでもない。中には、そのみのうえを恥ずかしく、耐え難いとおもっている人もいるだろう」「そんなの他人の勝手だわ。私がどう感じるかなんて、あなたに関係があるの?」「他に替えようのない、あなただからこそ心配しているんだよ」「口先で何を言っても駄目よ。お姉さんの魂胆なんてみえすいている」「君は、ことあるごとにそうやって、魂胆、魂胆と言うが」彼女は嘆息を漏らした。「僕にどう言わせたいの? 僕がどういう”魂胆”を口に出せば、君はまんぞくなわけ?」「だから、それは……」妹は目に力を込めて姉を見つめ、その水っぽくなった眼球をぎらぎらさせた。「あなたは、私を、利用して……」「利用して?」姉はその言葉に特に心乱された様子もなく、言葉を促す。「利用して、別の人、私とは違う人に会おうとしているのよ」「別の人?」「惚けちゃって。冗談じゃないわ、なぜ私が……」「以前、同じようなことを言われたような記憶があるけど」「あんな男の話、しないでよ!」感情的になって、妹が高い声を出す。「あんな男……あんな男のために、私はしたくない結婚なんかしたくない」「だから、無理にしなくてもいいと言っている」「仕立てたのはあなたたちじゃない。確かに私は、きょうりょくすると約束したわ。都で暮らすには、お金だけあればいいということではないというのも分かってる。今まで育ててくれたご恩返しに、お父さんやお母さんに、それ相当の地位を与えてあげたいということ……そういうことのためだったら、私はそうするべきだとすらおもった、それは義務だと、でも、あの男だけは……」妹は唇を噛んで、口をついて出てきそうになる言葉を飲み込んだ。「お願い。あの男のためじゃないと言って。お姉さんは、私と、それから他ならぬお父さんやお母さんのため、それに自分のために、宮中での生活を始めたいと言って。そうしたら何もかもがまんできる。嫌な男の一人や二人……」「だから、嫌なら、断れよ」「どうせ私はまともじゃないわよ」すっかり興奮しきった彼女は、みゃくらくなく、汚いものを吐き出すように言った。

「……何?」

「まともじゃないから、お姉さんの手をこうして煩わせるのよね。すべき人がすべきことをしないことくらい、非難されるのは当然のことなのに」

「そんなこと、誰も言ってないよ」

「いいえ、言われているのと同じよ。どうせ私は女房働きもできないようなでくのぼうですからね」

「僻むなよ」

「お姉さんのように、女から自由になるために男になって人前に出る度胸もなくて、でも結婚はしたくなくて、でも親孝行はしたくて、なんて、そんな都合のいい話はないわね。分かっているわ。でもね」

「分かった、分かった」

「あの男に会うためじゃないと約束してよ!」

「分かった、分かったよ!」姉はとうとう根負けして、彼女の言葉を制するように言った。「あの人のためじゃない。この一家のためだよ」

「あの人とか言わないで」

「面倒くさいなあ」

「面倒くさいとか言わないで!」

 完全に気が高ぶっている彼女は感情的に叫んだが、姉は片耳に指を突っ込んでそれに抗議のしぐさをするだけに留めた。

 妹はそのまま黙り込んだ。彼女は若干の倦んだ感情の飲み込みながら、静かに言った。

「じゃあ、このまま話は進めていいんだね?」「……………」「五人のうちから、ひとりをえらべるんだね?」「…………」「……聞いてる?」「……………」

 姉は肩をすくめた。

「いいの?」

「………………」

 妹は答えない。


****


 その女、彼女、讃岐邸に棲まう深窓の姫君は、五人の貴公子たちに、無理難題を言い渡したりはしなかった。火鼠の皮衣とか、蓬莱の玉の枝とか、燕の子安貝なんかを所望して、立派なおのこに燕の古糞を掴ませるなどといった男子の沽券をぶちこわしにするような非道なまねは決して演じさせなかった。

 ただ、この姫はずっと黙っていた。黙って、彼らの存在すべてを無視した。無視して、黙り込んで、彼らを『居ないもの』と決めてしまった。

 このような冷酷極まりない仕打ちが、どうして許されるというのだろう?

 そして彼らは出番を失いそれなりの失脚や醜態や絶望を演じ、それと取って代わったように現れるのは、彼ら五人の犠牲によって召喚されたとでもいうべき御方の登場だ。

 彼は、絶対だった。唯一無二だった。この世界に、たったお一人しかあらせられない。その御方が、彼ら五人を散々に振り回した噂をその御耳に入れられた。

  彼の人には当然、そのとなりに連れ添う御方があらせられる。御御方の住まう清涼殿の後方の殿舎には、一人、また一人と彼の人の愛する、みやびやかな方々が、承香殿に一人、貞観殿に一人、麗景殿に一人、宣耀殿に一人、弘徽殿に一人、登花殿に一人、そしてついでに淑景舎にも一人……と、後宮は今日も華やかも華やか、それぞれが焚き込める香のかおりと、贅を凝らして着飾ったあでやか、なよやかな重ねの色目で目も鼻も絢爛豪華に彩られ、まったく艶やか極まりない。

 そのように世の春を恣にするかのようなうるわしき、花の都の頂点に君臨する我が君でさえも、まあたらしい女の噂だけは、どんな喜びにも代えがたい福音で有り得るらしい、当然のように興味を持って、ちかごろちまたを席巻している女の噂についてその日の夜横についていた、気の知れた内侍に尋ねてみると、確かにそういう噂は出回っているという。彼女の話によれば、宮中のありとあらゆる男がその一人の女に手紙を書き送り、最終的に残った五人の公達も、女のつれなさにとうとう音を上げて、彼女から手を引いてしまったということだった。つまり、彼女はそのすべての男に、結局色よい返事をしなかったということらしい。

 その五人の最終候補者の名前は、彼の人にも聞き覚えがあった。そういえば、と彼の人は、数日前に見た、憔悴しきったような右大臣の顔におもいだした。本人から直接聞いたわけではないが、何でも長年連れ添った妻と離婚したとか、しないとか。

  帥の宮はその女に袖にされて以来ほとんど屋敷から出なくなってしまったというし、兵部卿宮や源大納言は変わらずまったりとして特に変化はないらしいが、平中納言のところなどは、北の方が産褥によって儚くなってしまったとか、ならないとか……

 ごく身近な人たちの間に次々に起こったことを内侍から聞きながら、彼の人はよく口の回る利発な女の耳朶あたりを指で撫でている。撫でながら彼の人は、次々と百戦錬磨の貴公子たちを撫で斬りにしてしまった、不思議な女のことを考えている。 「かわいそうなお人だね」

 と、時の帝はおっしゃった。

「どうにか、してあげることはできないのだろうか?」

 天を統べ、地を統べる、あらゆるものの頂点に立つ御御方の、この情け深さ、有り難さ。幸いなことに、後宮殿舎にはまだまだ空きがある。そこへ人一人を潜り込ませることができないほど、彼の意向が尊重されないような世の中でもない。大体からして、女がこれからたった一人だけ増えたからといって、それが負担になるような状態を、どうやったら作り出せるというのだろう?

彼の人は、もうすでにウトウトとまどろみはじめている内侍のやわらかな髪を撫でながら、ジリジリと短くなっていく燈台の灯芯を眺めている。

 燈台の向こうには屏風が立てられていて、何んの面白みもない無地の真っ白な屏風を照らし下ろすかのように、ほの明るい燈台の灯りが広がる。それが時々揺れて、白地の屏風に影絵を作る。彼はそれを見るのが好きだった。だからそういうばあいにおいて、余計な絵や装飾などはついていないほうがいい。物事は単純なのが一番いい。それなのに、現実の世の中というのは、単純に済ませられることも、何んでもかんでも複雑にしすぎる。体制や権力、地位や名誉、家柄だの、女だの、どうだこうだといちいち理由をつけ、余計な仕事や余計な規則を次々と生み出し、それを何らかの利益に仕立て上げ、うまうまと制度によって己の……

「命婦」彼の御方は、内侍を呼んだ。「眠ったの……?」

 内侍は答えない。ただ、あどけないその面おもての、ちいさな唇を少し開け、静かな寝息を立てている。

 エヘン、エヘンとどこかから咳きの音が聞こえた。それで内侍は目を覚ました。

「命婦」

 彼の御方は、とても静かな様子で、内侍の頬に片手を添えた。女の顔が強張り、それからすぐにやわらかく潤んだ。「その女性は、いまどうしているの?……」

 けれどやはり、この世は彼の人だけのもの、というわけでもないのだ。

であるからして、他ならぬ、御御方みずからのご希望であるにもかかわらず、その意向がそのまま通ることはない。しかし、一体どのような人物が、天上天下を統べる、すべての中心であるところのこの御方に難色を示せるというのか?

 それは時の権力者である、時の関白、時の左大臣である。彼は、右大臣が離婚沙汰だのそれに伴う北の方の狂乱だのにかかずらって、ほとんど政務に出てこられない間に、何かと一人で走り回っていた。

彼こそが、実のところの宮中においての絶大な権力を掌握していたといって良い。彼らの時代からまた少し上がれば、時の権力は上皇に移ったり、武士が権力を掌中に収めるような時代も起こっては来たりはするが、この時代においてはまだまだ、摂関政治が有効に機能していたといってよかった。であるからして、彼、左大臣は、時の主上に我が娘を献上することによってその地位を安泰させ、その娘を国母とすることによって絶対の基盤を確立し、主上の舅となることによって、彼の人の幼き時分は摂政として雅やかな人を支え、成人すればその後ろ盾たるべく、関白となって影より日向より御御方にお仕え奉って来たのだ。

彼は当然、主上の従僕である、が同時に、彼の人の舅でもあるのだ。彼が首を縦に振ればすべてのことがそれに倣い、彼が横に振ればそれは唾棄される。今回のことも結局、ただ前例に従って、そのような判断が下りただけに過ぎない。

「私が嘴を挟むことでもないでしょう」

 彼は言った。

「しかしどうなんでしょうね。出自もなにもほとんど分からないのでしょ? いくら噂になったからといって、そのような、ちりあくたのようなものを、わざわざ……」

 どのような寵愛を受けようと、それが他から突出してしまえば、嫌でもその寵愛を受けた后候補の実家の政治権力の拡大は促進する。それは当然だろう。太陽のような人からの寵愛、すべてを照らし下ろす唯一無二の存在、そのような有り難いものからの、祝福のような歓迎……それぞれの殿舎に女御更衣あまた候いたまいけるきさきたちが、御御方のご寵愛を望まないはずがない。しかし、雅やかな姫君たちを愛でるその先には、必ず権力争いがあるのだ。それぞれの殿舎には、それぞれの家から奉られた姫たちが、その愛情の先に一族の命運を担わされている。そのような中で、少しでも競争相手を減らしておこうと考えることは、理解できないことではないだろう。

 彼の御方の後宮には、七名ほどの女御、更衣がいられた。これを今日の目で見てしまえば、何と多くの后がいらせられるのだろうと感じてしまうかもしれない。しかしこの当時の時代区分の初期段階においては、なんとなんと二十九人になんなんとする后方がいられた時代もあるというのだから、この七名という数も、特に常識はずれの範疇には入らないだろう。

 しかし、七人であれ、二十九人であれ、一族の女の中から、何人も同時に後宮へ娘を送り込めるというわけではない。また、その一人ひとりのきさきたちの実家にも、格の違いというのは存在し、その格に応じて次世代の世継ぎが決定されるのだから、主上の舅であるところの左大臣は、他のきさきたちの台頭を、それほど心配しなくていい身ではある。なぜなら、左大臣の娘である中宮が主上から愛されるということは、”されるべきこと”なのだから。

 彼、左大臣が献上した自身の娘を、他ならぬ主上が愛す。それは当然のことだ。そういうことになっている。そうすることによって彼は孫を得、その孫が立太子することによって、彼がその摂政となり春宮となった自身の孫を、自身の主人としてお支えする。それが摂関政治というもので、そういった政治体制が敷かれる以上、主上はその愛すべき女性を愛さなければならない。

 そこに、個人の心よりの感情などは、付属してもしなくてもどちらでも構わない。そういう地位に座るだけの価値ある后を、そういう地位に座っている御御方自らのが心を注ぐ。それが政治だ。愛情だ。

 しかし、だからといって、彼の御方が左大臣の娘、中宮のことを無理矢理愛しているというわけでもない。愛情はもちろん、それなりにある。必ずしもお互いに対する好意的な感情の向きが一致する必要はないというだけのことだ。そして主上は慣例に従って、また別の家の高級な令嬢を後宮に迎える。その令嬢の家族にとっては、自分の家の娘が後宮に迎えられたということは家そのものの誉れだ。だからこそ後宮はいつでも、女の高貴な、気の遠くなるようなにおいで充溢している。それが主上にとっての日常だ。その空間は、穏やかで退屈で欲を感じる暇もないくらいに満たされている。飢えることはない。飢える隙間など存在しない。それがたとえ細かく内側に忍び寄ってきたとしても、すぐに様々なことによって埋め立てられてしまう。毎日はそれなりに忙しい。やるべきことが沢山ある。それをするためにこうして広大な土地を設け、大勢の役人が詰め、女たちがひしめき、目も鮮やかな、さまざまな色をしたうつくしい衣装、装飾、笛の音や琴の音……それらすべてが大内裏に犇めき合い、響き合い、折り重なり合い、夢見るようにまどろみ続ける理由とはなにか? それはお主上がたった今、こうしてここにあらせられるからだ。

 彼、左大臣は既にして自身の娘を主上に与え、それによって得た、関白という自身の立ち位置を確保している。であるからして、目下住人不在の後宮の一殿舎に、今更新しい女が居着くようなことがあるからといって、目くじらを立てたり、特別否定する必要もない。悠々とした高みから、下々の者として彼女のことを、涼しい顔で見下ろしていればいいだけの話だ。

 それにもかかわらず左大臣は、不機嫌なそぶりで手にした扇をパチパチいわせながら、御簾の向こうの彼の人の御わす、畳の繧繝縁あたりを見ている。

「いや、それだから良いのだろう」

 霞がかかったような向こうから、尊いお声が聞こえる。

「いろいろな噂が聞こえてくる。そのどれもが、ちょっと耳にしたことのないようなものばかりで」

「まあ、悪名は特に轟きやすいと言いますね」

「悪名ということもないでしょう。英雄豪に轟くというかね。実にしっかりとしたものです」

「そうでしょうか?」

 左大臣は多少膝を進めて、「まあたらしいことは認めますよ。その噂の何もかもがね。しかし特別目を向ける価値があるとはおもえないな」

 主上は、少し笑ったようだった。

「やけに、こだわるね」

「こだわっていませんよ」

「あなたのような見方をするものは……かえってその事物に恋着しているというものだ。普通の関心を寄せる者は、朕(わたし)のように、単純な好奇心のみで言及しているに過ぎない」

「それでは戯言の類としてしまって構わない?」

「ああ、だめだよ、それは」

 彼の人は、いくら注意しても聞かない猫か何かを叱るような言い方をした。「あなただっておかしかったでしょう? あの右大臣のうろたえかた!」

 それで左大臣はおもい至って、「いや、あれは」

「おかしかった。普段は取り澄ましたような顔をしているのにね」

「そんなふうに言っちゃあ気の毒でしょう」

「ああ、そうやって、朕にだけ言いたいことを言わせるわけ」

「そうではなくてね」

「幾つになっても、恋というものは人を混乱させますね」

「まあ……年甲斐もないというかね」

「年は関係ないでしょう」

「そうですかね」

「いいものでしょう。ああいうものは。幾つになっても」

 ニャーンとのんびりした声が御簾の向こうから聞こえた。御猫の命婦が鳴らした声に違いがなかった。そのちいさな毛並みを撫で上げる御指を、左大臣は見ている。

「悪趣味ですね。決して良いものとはおもえません」

「悪趣味ではいけませんか?」

 やわらかな御声で、御簾の向こうの人が尋ねる。左大臣は黙っていた。しかし、尋ねられているのだから、何かを口に出さなくてはならない。

「私は良くても……他の人がどう言うでしょうか」

 尊い御方は、それにはお答えになられない。


 かくして、噂の彼女は入内した。但し、東宮妃として。

 東宮とは春宮とも書く。次代の御代を統べる、ただ一人の御方である。その御方には既に、将来において『中宮』の身の上になるべき東宮妃がいらっしゃる。その御方はそして左大臣の末娘でも有り得る。であるからしてまたあたらしく入内した”その女”(いや、もうこれからはこのような蔑みは許されない)が彼の末娘を押しのけて、近い将来において『国母』となるはずもない……そのような恐ろしいことが、起こるはずがない……どこの馬の骨ともしれないような女(いや、御方)が、日出る国の最も崇高とされる国母などと?!

 しかしそのような心配はしなくてもいいことだ。そうだろう? 左大臣は考える。

 そもそも、なぜこのような『危険な領域』へと、事が進んでしまったのか?

「お父さんには、もう何人も良い人がいるではありませんか、と言うんだよ」

 と、彼の人は宣った。

「こどもだ、こどもだとばかりおもっていたが。知らないうちに育ってしまったかな」

 彼の人の口調には、落胆を滲ませつつも、どこか明るいところがある。逃した魚は大きいかも知れないが、それを攫った鷹に対してはそれほど反する意見を持たない、というところだろうか。

「私は反対ですね」

 左大臣は、議論の余地もないといったふうに拒絶した。「恐れながら……冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょう」

「生憎朕にはそのように高尚な冗談を打つような頭は無くてね」

「仮にも……畏れ多くも……天地を統べるところの……この世で最も慎重に検討されるべき……」

「いいじゃないの。既に義務は果たしているんだから」

「そういう問題ではありません。陣の座を設けて……会議を……」

「自由恋愛でしょう」

 彼の人はおっしゃった。

「は?」

「権力なんて端から手放している。これは他ならぬあなただから打ち明けることだけれどね」

 彼の人の声がごく小さく絞られ、否が応でも親密、緻密、秘密のにおいが漂う。左大臣は目と耳を凝らした。「もちろん朕の後に着くのは彼しか居ないでしょう。そしてそれを見守る御女も、ちいさくかわいらしいあの人のみです。でもそれはもっと先のことだし、朕だってまだまだ頭を丸めるには早い……それともあなたは、最早それが一番の望みかな?」

「そんな。滅相もない」

「あの人はそのようなものは望まないでしょう。生きとし生けるものすべてが、あなたのような計算ずくで生きているわけではないというのを自覚しなくてはいけない」

「そんな。あんまりな言い草です」

「このような言い方をすれば、またあなたが気分を害するに決まっているんだけど」

 彼の人は、彼などのためにそういう前置きをして、慎重に言葉を探し出す。彼は、他ならぬ尊い御方からそういう気遣いを賜るたびに、畏れ多く、しかしそれが当然であるかのような不遜な感情を抱くのだから不思議だ。しかし、欠けたることも無し、この俺が、そのような感情を抱いて何が悪いというのだろう?

「興味はある。それは勿論のことだ。みんなが良いと言っているものを、ちょっと覗いてみたいとおもうのは自然なことだろう。でもあの人が言うんだよ。年の頃から言ってみても、希求の強さの度合いから言っても、総合的な整合性からしても、お父さんよりは僕のほうがよっぽど正しい位置に居る……いつの間に、そのような口の聞き方を覚えたのだろう、とかね。知らないうちに育っちゃったなあ、というか」

「……………」

「それに、高貴なあなたの血筋だもの。それに敵う相手など、どこにも居やしないということは知っているでしょう? 競争相手にすらなりゃしないよ」

「それですから、問題だと申し上げているのです」

 左大臣はじれじれして、「まともな家なら、家系図のひとつやふたつ、厨子の中にでも大切に仕舞われて、管理されているもの。人をやってあの家のものを調べ上げました。確かに家系図は出てきた。説明を受けたものの話では、それなりに筋は通っているという。なにやら丸め込まれて帰ってきたようだが、その家系図の写しを見ても、私などには聞き覚えのない名前ばかりです。狭い世の中です。親戚という親戚はほとんど知り尽くして交流があるのが当然だというのに、名前も聞いたこともないものが、大層なふりをして、まともな家のように家系図など……、物の数にも入らない。前代未聞ですよ、このような人事は。正気の沙汰とはおもわれない。ああ、これは他ならぬあなたのために申し上げるのです」

 左大臣は哀れっぽい声を出して、「もしもこのようなことが世に知れて、狂気の沙汰などとおもわれたらいかが遊ばします。『物狂』などととんでもない悪罵に打たれて、御御身体をみずからでだいなしにするようなまねを……」 「まあ……その時になれば、大人しく頭を丸めて仏門にでも入りますか」

「冗談ではない!」

「あはは」彼は笑った。「それじゃ私が先例になればいい。それだけのことじゃないですか?」

 そういう問題では……そういう問題ではない!

 御前を退いてから、彼はカッカと煮えたぎる頭の興奮を自身でなんとか制御しながら、それでもドカドカと耳障りの良くない音を立てて簀子縁を歩く。

 先代であったなら……と、彼は考えた。

 先代であったなら、このような酔狂を演じることはなかったはずだ。あの御方は、実に辛抱強く、実に大人しく、実に御しやすい……素直で、穏やかな人だった。

 現在は六条の辺りに屋敷を構え毎日読経三昧にふけっているようだが、それでも時々尋ねて、そのまま時間が経つのも忘れて語り合うことも多かった。

 彼がまだ若輩の砌には、その御方の蔵人(秘書のようなもの)を勤めていた。彼のめのまえには、そうした光輝かしい未来が用意されていたのだ。十二歳で元服し、すぐに五位の地位を得て蔵人頭からキャリアをスタートさせた。十五歳で三位を賜り、中納言、大納言、とトントンと階段を登り、二十六歳で内大臣に。その時に、彼は自身の娘をはじめて入内させた。彼は摂政の宣下を受け、先代が即位すると共に、皇太子に立てられたのが、現在の帝だ。

 先代とは、馬が合った、と左大臣は記憶している。少なくとも、今上帝のように、彼の言い分を受け入れつつ、しかしそれを決して心から歓迎しているわけではないことを、あのようにあからさまにするようなことはなかった。俺が一言言えば、と左大臣は奥歯を噛む。

 あの君は物狂いだ。とてもじゃないけれど、国を治められるような器ではない。そうやって噂を流してしまおうか? そういえば以前こんなことがあった、そういえば、あんなことも……

「朕はもう若くはないし、諦めもつきます。でもあの人は違う。これからは若い人の時代です。そのような新しい時代の足を引っ張るようなまねはしたくない。立つ鳥跡を濁さず。これはどんな立場のものでも、先陣を切ったものが身に収めておく言葉でしょう」

 冗談では……ない!


****


 東宮にも後宮はある。そこへ、彼女は新しく入内した。

 けれどその入内を、ほとんどの貴族が言祝ぐことはなかった。でもそれも当然のことだ。その入内によって彼らが得られるものが少ないからだ。自身のキャリアや将来に良い影響がでるわけでもなく、それどころか出世枠がひとつ奪われてしまうのだ。内実はどうであれ、競争相手が増えるというのを歓迎することは難しい。で、あるからして、その異例中の異例、前代未聞、言語道断の入内に関して、左大臣を中心として陣の座が設けられ、雲上人は侃々諤々それぞれの意見を出し合った。しかしその話し合いの末に「自由恋愛なんだからいいのではないか」などといった結論が生まれるわけもなく、総論としての意見書を主上に奏上しに行くが、彼の人はご自身の髭などを指でひねりながらつまらなさそうに、「意見は意見として厳粛に受け止めます」などと宣うばかり。

 断固として決定事項を変えるつもりはない。であるから、他人の意見など耳を貸すにも値しない、というようなあからさまな態度は、本来であるならば、誰にとっても推奨されるべきではない態度だ。それは身分の上下に関わらず、この狭い貴族社会でいっぱしの立ち位置を得ようとおもうのならば、裡に秘めた感情というのは、出さないほうが賢明だろう。秘めた感情が負に傾いているのならばなおのことだ。人の不興を買う。しかしこの場合、その態度を示すのはこの世で最も尊い御方の御子息その人なのだ。そのような御方の示す態度を、不快になど誰がおもうだろう? しかし、左大臣は不快だった。何故か?

 愛されていないからだ、と左大臣はおもった。

 先代であったなら、もっと話は単純だったはずだ。お互いの意思疎通は、もっと簡単に行われていた。先代は彼の意見を取るに足るべき、聞くに値する、頼みのものとして扱ってくださった。彼の意見は苦言ではなく助言だった。先代はよく、彼に意見を求めた。彼はそれに的確に答えた。先代は彼の贈った娘を愛していた。それはお互いの良好な関係を築く上での礎だった。すべては彼の満足のいく関係として、すべてが正常に成り立っていた。

 だけどあの御方は、私のことなど見向きもしない。取るに足らない……つまらない、必要に値しない男だと見くびっているのだ。

 ”正妻”を”愛する”というのは、男であるなら、どんな地位の男でもそれは義務だ。するべきことだ。それは、家の存続に繋がる行為だからだ。するべきことをしていれば、その他にどんな場所で女を作ったとしても構わない。しかし、義務を果たさず、そのようなことにかまけるような男が居たとしたら最低だ。おのれの生の目的を履き違え、家の存続、一族の将来、子孫の繁栄を放棄するなどということはありえない。だから人々は義務を果たす。その義務に、身分の上下など無い。だからすべての男は義務を果たしている。実際に、あの御方はするべきことを果たされた。俺の娘はこの世で最も気高い御方に愛された。だからこそ無事に、俺の孫でもあるところの東宮が、ああして立派に立ち、そしてああやって……

 彼にはそれがくるしい。私の何が気に入らない? どうして私を無きものとする。このような有様は、私に対する侮辱だ。最も高貴なものが、もっとも下賤なものによって汚され濁り果ててしまう……このような、このような不純が、一体どうして?

「だってかわいそうじゃないか」

 東宮は、沢山の人々に傅かれて、健康健全にお育ちになられた。摂政として、彼はそれを誇らしくおもう。「きっと彼女はどうしていいかわからなくなっているんだろう。本来の指標を失って、寄る辺をなくしたものが、どういう末路を取るのか考えてみるが良い」

 だからといって、なぜあなたのような方が、その責任を負わなければならないのか?

「僕ならば、その方をお慰めすることができるとおもう」

「そのようなことを、どうしてあなたがなさらなければならないのですか?」

「なぜってそれは」

 まだ十五歳になったばかりの、うら若い少年は、その瞳の中にきらきらとした、透明無垢な正義感を漲らせて、しかしそれを自身で制御する素振りもなく、また意識しているわけでもなさそう言う。そういうときの彼の声はうつくしい。うつくしいように聞こえる。

「僕がそうしてあげたいからだよ」


 そのようにして新たな東宮妃の入内は人々に祝福され、歓迎された結びつきではなかったため、祝い事の規模もそれほどでなく、慣例のように、方々から豪勢な贈り物が届いたり、歌をよくする貴族たちから特別の和歌を送られたりすることもない、甚だ華やかさに欠ける入内となった。


****


 さて、その頃、一方の姉姫は、一体何処で何をしていたのか。

「待ってください。まだ話は終わっていないでしょう?」

 彼女が声を高くして相手を呼び止めると、呼び止められた相手は、勘弁してくれ、というような迷惑そうな表情を一切隠そうとせず、「ええい、ウルサイ」と腕を払うしぐさをする。

「あっちへ行け。犬ではあるまいし。あちこちついて回るな」

「あいやしばらく。まだお話が」

「もう話すようなことはないよ」

「僕にはあります」

「あのねえ」

 簀子縁の中腹あたりで文章博士は立ち止まって、「僕は忙しいの。あなたはそうじゃないかもしれないけど」「また五条の女ですか?」「あのね。君ちょっと馴れ馴れしいんじゃない? 親しき仲にも礼儀ありだよ」「そういえば、家のものがちょっと実家に帰っていましてね。丹後の子なんだけど、手土産にちょっとめずらしいお菓子を持ってきてくれて。これがまた家の女たちに大好評で」「ふーん」「いつも朗詠なんかしているときに不思議なんですが、なぜ皆は一様に歌は白楽天というのでしょう? 僕などはやっぱり、杜甫のほうが何倍も良くおもえてしまうのですが」「あっ、そう」「これは個人差ということでは片付けられないとおもうんですよね。以前、確かおっしゃっていましたよね? 白楽天は日常の何気ない幸福をしみじみと描写するのが上手いと、それならば宮中の人気も分かる、しかしですね……」「ああ、ウルサイ、ウルサイ!」

 文章博士は手にした扇をぺんぺんと手のひらに叩きつけて、「それ以上ぴいぴい言うと、お尻を叩きますよ」「叩くなら粥杖でしてください。もっとも僕は女ではないので無意味かもしれませんが」「ああ言えばこう言う、減らない口ですね」文章博士は眉をひそめ、「そんなねえ、授業以外にもつけまわって、なんでなんでといちいち訊かないでください。ノイローゼになりそう」「だって、大学寮はそういうところでしょ。違いますか」「あのねえ、あなたは、ちょっと、余計なことを知りたがりすぎますよ」文章博士は口元に扇をやりながら、「試験に出るところだけ丸暗記すればそれでよろしい。それ以外に頭を使うことは、もう、ハッキリ言います。時間のむだです」扇を開き、はたはたと顔を扇ぐ。

「第一からして、あなたは妙なんです。酔狂というか……」

 しかしそのようなお小言はどこ吹く風、彼女は熱心に、持っていた冊子を手繰っている。

「まあ、色々とお考えのところがお有りでしょうから? 詳しくは問いただしませんけども」

「長安千萬人

 出門各有營

 唯我與天子

 信馬悠悠行……なんてのは好きですけど」

「聞いてる?」

「もらったお菓子、とても美味しかったんです。外はサクサクしているんだけど、一口噛んだらほろほろと口溶けが良くて、それでいて甘すぎないんです。なかなかこちらでも手に入りにくいものだから、持っていったら女の子などには喜ばれるだろうな」

「……………」

「先生、僕は、なぜ白楽天だけが太平楽な様を享受して、人は他に熱心な目を向けないのかと、疑問なんですよ」

「だからさあ、それは……」


 実際彼女は浮かれていて、実際彼女は人生を謳歌してい、そして実際に彼女は幸福だった。

 何が一番幸福かって、それは、大学寮に入れたこともそうだけど、もっと素晴らしいのは、大学寮に納められている万巻の書を手に取れるということで、彼女は日がな一日、冊子だの巻物だのを借り出して、夜っぴいてそれに当たっていた。

 書に書かれている内容は、彼女を十分に刺激した。実家にいた頃には手に入らなかった類のものも、ここには揃い踏んでいる。大学寮には、紀伝道、明経道、明法道、算道などの各種エキスパートたちが生徒を指導しており、彼女は暇を見つけては、そういった博士たちのあとをついて回って、めいわくがられていた。

 大学寮は朱雀門外、神泉苑の西隣、二条の南朱雀通りの東にある。以前は境内も四町ほどもある広大な土地だったが、のちには四分の一の大きさに削られそのほかは畠地となったというのだから畏れ入る。この国の無教養主義の一端が垣間見れる経緯には実にほのぼのとしたものがある。

 寮試は年の終わりにあり、彼女は目下それに向けて勉強中だった。学生は試験ごとに擬文章生、文章生、文章得業生と進み、「方略の策」(論文のようなもの)を書いて及第すれば、晴れて叙位任官となる。

 が、しかし、彼女の目的はあくまで勉学そのものに向けられていたので、試験に通る云々はどうしても二の次になってしまい、時々は陰陽寮にまで出掛けていって、相手をしてくれる陰陽生などと話し込むこともあった。そこでまた新たな知見を得て、彼女は浮かれ楽しがっていたが、そうやって次々と新しいことを知るに連れ、彼女は段々不安になっていった。不安、というよりも……彼女は不満だった。

 確かにここでは様々な新しい知識に触れることが出来る。彼女も今のところはその新しい知識を仕入れることに夢中でいられるが、そうやって夢中でいられる間も、肝心な知識についてはまったくの手つかずなのだ。つまり、「さて肝心の仏法については、誰に教えを請えば良いんだろう?」


 彼女の妹の入内によって、彼女は今現在こうしてうまうまと宮中に潜り込み、好きなことをしていたが、新しい環境をそうやって享受していたのは彼女ひとりばかりではなかった。彼女たちの両親もそれなりに、新しい環境に順応しつつあった。

 妹の入内が本決まりになりそうという段になって、一家の家長であるところの老人が言い出した。

「家を燃やそう」

「は?」

「不退転だ。新しい環境に移るということは、それまでの古い因習を捨て去らねばならない」

「いや、そんなことをしなくてもいいんですよ。それに妹の里下がりするための実家が無くなれば困りますよ」

「新しく建て直すんだよ。こんな古びた家は、お后さまには不相応だよ」

「いや、そんなことないですよ」

「だめ燃やす」

「近所の人にどう説明するんですか。おかしいですよ。ここは野中の一軒家じゃないんですよ」

「だめ燃やす」

 父親のわがままによって家は燃やされ、ぱちぱちと火の粉が爆ぜる中でその老人は一人小躍りしていた。

「あーあ。ひどいもんだな」

 老人のような興奮を心中に持たないその他三人はぼんやりと、贅を凝らして建てた家屋を火が舐めていくのを牛車の窓から眺めている。ほとんど焼け出された形になった使用人たちはばたばたと走り回り、周りに焼け広がらないようにと消火活動に余念がない。

「気づいたら、突然火の手が上がりまして。私どもも、おろおろするばかりで、どうしたらよいのやら」

 屋敷の庭で火を見ながら踊っていたくせに、老人は、火事のうわさを聞きつけた検非違使庁のものがどやどやとやってきたのをこれ幸いと煤だらけの顔で説明し、あわれっぽい表情を作って検非違使庁の佐などから同情を買おうとしていた。

 彼の態度は功を奏したようだ。近頃何かと世間を騒がせている噂の出どころというのは流石話題に事欠かないものだとまた評判をとって、お見舞いの品などがじゃんじゃん届き、老人はほくほくして、「これは焼け太っちゃいましたかな」とか言って、また別の場所に引っ越して(四条の屋敷からなんと二条のお屋敷街に!)とんてんかんてん新しい家を建てる普請をしているのだった。

 新しい屋敷が完成するまで親戚の家に厄介になりながら、彼女とその妹は、その一日一日を噛みしめるように過ごした。何しろ、これからは人妻とその従者の身の上だ。彼女は妹のお目付け役として宮中に入ることになっていたが、それでも身分は東宮后と一介の従者という身分差に引き裂かれることになる。以前のように、夜が明けるまで同じ局で語らい合うなどということもできなくなるだろう……

 結果彼女の妹は無事入内し、そちらでもなんとかやっているようだった。手紙でのやりとりは時々しているから、彼女の最新の動向には気遣ってやることが出来る。彼女もこのまま黙々と勉強を続け、試験に受かり続けることができれば、弁官としての採用も可能になるかもしれない。勿論その場合は門閥の問題も立ち現れてくるだろうし、ほとんど宮中にそれらしい知り合いも後ろ盾もない以上、彼女のようなわけのわからない存在が、そうそうトントン拍子に出世していけるはずもなく……

 しかし、それがこの世の中の奇妙なところだ。彼女には頼るべき後ろ盾など無い。そもそもが、一介の、そまつな、竹取の老人の娘であるに過ぎない。そのような出自を持つだけの彼女に、人脈などは作りようがないというのは当然のことだろう。

 今現在の彼女にとって、そのようなことはもはやちりあくたのようなものでしかなかった。それにもかかわらず、 彼女の感情とは裏腹に、今や彼女の後ろには、それ以上は考えられないほどの後ろ盾が立ち上がってしまっていたのだった。

「どうして大学寮になんて行くの? 意味がわからないんだけど」

 と、彼の人はおっしゃったそうだ。

「妹さんを大切にしているというのはよく分かるよ。今までの話を聞いているだけでもね。でもそれならどうして近くについていてあげないの? 中宮職に着くとか……蔵人という道もあるでしょう。違うの?」

 彼女の妹が姉の意向を伝えると、天子様は不思議なお顔をなさったらしい。「変わったことを考えるんだね。物語の、源氏の人が自身の息子に強いたようなことを、自分自身に強いようとしているのか」

  彼の人はびっくりしていたようだが、それでも彼女の意志を尊重してくださったようだった。

「精々遊ばせるが良い。飽きたらまた、するべきことをするでしょう」

 そういう寛大な、有り難い許しを得た上で、彼女は大学寮で好き放題に博士連中を追いかけ回せていたわけだ。

 しかし彼女はそれでもまだ足りないと言っている。上の方の話では、近々弁官の一枠が空くらしい。そこへ彼女を補填するという案も出ているそうだ。このまま彼女が試験に通り続けることができれば、その道も可能だろう。強力な後ろ盾を得て、今や彼女のめのまえには、輝かしい未来が粛々と用意され始めている。これは得難いことだ、歓迎すべきことが、有り難いとおもうべきことだ……しかし。

 彼女の目的はそのような場所には無い。けれどまた同時に、その道とは彼女の目的に繋がり得る道でも有り得るのだ。

 だから彼女は、今とても楽しかった。読むべきものは腐るほどある。その先にはまた、彼女の望みが叶う可能性を多分に秘めた、輝かしい道が用意されている。あとはただ、彼女がその道に向かって邁進するだけでいいのだ。このような通りの良い、楽しい循環が果たしてあるだろうか? 彼女はそうやって浮かれて道草ばかりを食っていて、今日も元気に文官だの博士だのを捕まえて、楽しいお喋りをしている。

「 林江左日

員外劍南時

不得高官職

 逢苦亂離

暮年 客恨

浮世 仙悲

吟詠流千古

聲名動四夷

立場供秀句

樂府待新辭

天意君須會

人閒要好詩

 …………

李杜は高い地位を得ること無く世にもまたもまれ苦しんだが、その歌は千年も愛唱される……人間には歌が必要だ……いいですね」

「とかく辛いことばかりが思い出される世の中だけども、その中でも日常的な楽しみを得ていこうじゃないかと、君、こういうことですね」

「まあ、なんというか……現代人の気質にあっているというか」

「まあ、そうだね」

「諸々の問題は山積みではあるが、それはそうと一日を楽しもうではないかと」

「いやでもね、みんな白楽天がとくべつ好きというわけでもないんだよ」博士は酒にとろんとした目をして言った。「みんながこぞって引用するから、知っておかなきゃ……なんてね。そういうこともあります。もちろん好きな人は好きだろうけど」

「流行の雑誌で生き方を定めているんですね」

「雑誌?」

「雑文集ですよね」

「ふーん」

「でも、そうやって総論のようにして述べ、まるで人物がその一言のみで表せるというような傲慢な態度は避けるべきだと、先生もおっしゃっていたではありませんか」「え? うーん、まあそうなんだけど」咳払いし、「あなたはほんとに話しにくいね」

「性分なもので」

「分かっているなら改めたほうが良いんじゃない? 老婆心ながら申し上げると、敵を作りやすいですよね。これから政界に打って出る気があるのなら、学生のあいだにその角を丸くする努力をするべきですよね」

「ああ、そうですよね」

「うん、そうなんだけれども」

 彼女があっさりと同意したので、博士も多少鼻白んで、「いやそんなに簡単に納得されてもね。あれなんだけれども」「ご忠告ありがとうございます」彼女は心のこもった、温かみのある声で言った。「でも僕には、政界に打って出るなどという大それた、神をもおそれないような考えは、端から持ち合わせがないのです」

「あ、そうなの?」

「ですから心配ご無用なのです」

「ふーん。ところでこのお菓子おいしいね」

「まだまだ屋敷の方にありますから。ご入用でしたら」

「あ、そう? じゃ幾つか貰いましょうか」


 さてそれからの彼女は、宮廷生活をどう送ったか。

 まず彼女は長いまつげをぱちんと切った。墨を薄く溶いて白粉に混ぜ、肌に塗った。薄墨で髭なども書いておくべきか? ともおもったが、日中のうちに剥げたり消えたりしては不自然なので止めた。

 彼女は基本的に日中は涼しい場所で書物を読んだり、知り合った学生たちとおしゃべりに花を咲かせて過ごした。どんな話をしても楽しかった。ツウと話せばカアと返ってくるような頼もしさが常にあり、彼女は話し相手にめぐまれたことに感謝していた。

 年末になって、試験を受けよと担当教官に諭されたときも、まあまあそれは追い追い、追い追いとお茶を濁して逃げ回っていたが、そのうちに座を設けられて、ちゃんと試験を受けなきゃ駄目じゃないかと滾々と説教され、渋々受けた試験で彼女はそれらの質疑応答に完璧な形で答え、これならば文章得業生も時期でしょうと太鼓判を押されていたが結果は不合格だった。

 彼女は「まあそんなこともあるよな」とのんびり構えていたが、担当教官はほとんど悲憤していて、こんなことは前代未聞だとか断固抗議するとか最初のうちは言ってくれていたが、結局抗議文は出されず終わった。

「大学寮の別当は……確か帥の宮でしたか」

「まあ……そういうことなんだよね」お師匠さんは視線を反らし、膝に両手を置いて言った。「どう説明すれば良いのか。このような人品を欠くような行為は、出来得る限り避けるべきだ。このようなことが行われたら、人材育成の理念はどうなる? 優秀なものをこのようにいわれもなく迫害して、国家の礎たる官吏が、このような……不適切極まりない行為を……」

「仮にも宮様ではありませんか。そんな言い方をして良いんですか?」

「君は腹が立たないの?」

「それは、立つものは立ちます。でもね、言ってみても仕方がないことってあるじゃないですか。特にこういう環境だと」

 彼女はうろんな仕草で、御簾の向こうの庭先を見やった。

「それに、悪いことばかりではありません。また勉強できる時間が一年伸びたとおもえばいいのです」

「いや、でもさあ……」

「それよりも僕、嬉しかったな」彼女はうつむいて、ほんの少しだけ、口角を上げた。彼女のお師匠さんはそれを見て、なにやら心臓のあたりがきしむかような感覚を覚えた。

「先生がそんなふうに怒ってくれたこと……僕、生涯忘れません」

「は? あいや、そんな大げさな」

「いいえ、嬉しかったのです。僕も益々勉強に身を入れないといけないな」

 そして彼女の目論見通りにモラトリアムの期間はまた一年延長され、彼女は雨の降る日も雪の降る日も、太陽サンサン照りつける日も薄曇りの日も、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりの信条でもって、書物に取り組んだ。

 しかし、そのような彼女にとっての幸福な生活はしばらくすると唐突に打ち破られた。それというのも他ならぬ、吾君、十善の君のさしがねによって、いいやさしがねとは畏れ多い、彼の御方の深いお考えのあるところによって、彼女は宮中への出仕を余儀なくされたのである。

 彼女に用意されたのは雑色という立場であった。

 位も何もあったものではない彼女であったから、雑色という立場で宮中でのキャリアを出発させるのは納得できないことでもない。しかし、雑色は雑色でも、彼女が配属された部署が問題だった。彼女は蔵人寮に配属されたのである。

 若干慌てたような叙位があって、彼女は帝から正六位下という位を賜った。文章得業生ですらないような、ただ一介の学生の身分である彼女などが賜るには、もうもう、目の玉が飛び出るほどの出世である。当然その叙位に反対するものは大勢いたが、それをねじ伏せて余りある措置を取れるというのが、帝親政の御世というものだ。王様の意見は絶対なのだ。

 で、彼女がぼんやりしている間にあれよあれよと話は進み、気がついたら彼女は蔵人所の雑色になっていた。

 様々な手続きがあり、一息ついた所を見計らって、父親に自身の出世を報告しに行った。

 老人は再び竹細工を作る職人に舞い戻っていた。兵部省に属する隼人司は、平日には竹器を作る作業に従事する。そこで、彼は宮中で使用する竹器などを作る工房で従事しているのだ。彼女の父親は彼女の出世を喜んでくれた。お前たちほどの孝行な娘はめったにあるものではない、といって、皺だらけの顔を益々くちゃくちゃにして喜んでくれた。


 ところで、太政官内の序列とはどんなものか。太政大臣、左大臣、右大臣ときてその下に大納言がい、その下は三局に分かれている。それが少納言局、左弁官局、右大弁局。そしてまた三局それぞれの下に大弁、大史、史生、官掌、使部……と続いていくのであるが、彼女がまずはじめに配属されたのはその三局のうちの左弁官局、左大中少弁、大、少史、史生、と来てその次の官掌という職掌を賜ることになった。官掌の上の職掌が大史で、これは正六位上相当であったので、彼女の正六位下という位では、ちょうど彼女の身の丈に合っているといえなくもない地位である。

 この部署で彼女が何をしていたのかというと、早い話が雑用であった。彼女の所属する左弁局は八省のうち中務、式部、治部、民部の四省を管し、それぞれの庶務を司る。諸官省、諸国より出る庶務を上申し、宣旨などを書く文章の取り扱いをしてい、彼女は上司に言われるがまま、それらの文章の下書きをしたり、上から下りてくる書類などの整理をしたりしていた。つまり、諸々の文章に携わる仕事をしていたのである。

 弁官というのは文章を扱うから、文章生をもって主に任じた。

「でも僕は最終試験に受かってもいないんですよ。卒論も受取拒否されたし」

「いやそれがさあ」

 彼女のお師匠さんは言った。

「通っているんだよね。いつの間にか」

「……あ、そうですか」

「表にあなたの名前がきちんと記載されているんだよね。それで、今更になってこのようなことになってしまって、こちらとしても申し訳ない気持ちでいっぱいなんだけど」

「いいえ、先生」

 彼女はほんのりと微笑んだ。

「ありがとうございます。先生が尽力してくださったおかげですね」

「いやあ、僕はほんとうに。何んにもしていないんだよ。でも、とにかく本当におめでとう」

「僕はできることならば」彼女は直衣の頸上あたりを指でいじりながら言った。「ずっと先生のところに居たかったんだ。先生のお手伝いをしながら、それから……」

「いや、いや、いや、君」

 お師匠さんは彼女の言葉を押し止めるかのように、「罰当たりなことをお言いでないよ。そんな、僕などのところに留まるなど嘘だろう。君にとって何の得にもならないことだ。あなたのような人に、そのように簡単なことが分からないはずもない」

「そうでしょうか」

「そうでしょうかって、そうに決まっているよ。僕だって、もっと良い家系に生まれていれば……」言いながら、お師匠さんは途中で気づいて、「あ、済まない。あなたのことを指しているわけではないんだよ」「ええ、それは」「とにかくあなたはこのような場所で本ばかりとにらめっこしているような人ではないよ。こういうお話があったのだから、喜んでお受けすればいい。それだけのことじゃないのか?」

 それで、彼女はしばらく左弁官局のしたっぱとして働いていた。

 そしてようやく仕事にも慣れ、同僚連中の顔も知れて来た頃、彼女は大した身分でもないにもかかわらず、春の除目で弁官と蔵人との兼官を命じられてしまう。

 彼女としては勅令が出ればそれに従うしか選択肢はない。ので、有り難くお引き受けしたが、それでも彼女の身分不相応な処置に対して不平を連ねるものどもなどは当然のように大勢いた。

「まあ気にしないことだね」

 気の知れた同僚は言って、彼女を慰めた。「どっちにしろ君は宮中では知らないものは居ないんだし、兼官でも何でもして、自身に箔をつけるのは良いことだ」

「有名?」

「おや自覚がないとは言わせませんぞ」

 彼は笏でぺちぺちと自慢のもち肌を軽く叩き、「何時頃でしたか、あなたの妹姫があれほど世間を騒がせたのは」「……ああ、その話ですか」彼女はたった今まで忘れていて、突然その指摘でその話を思い出したかのように、「その説はお騒がせしました」と言った。

「ほんとにねえ」彼は若干彼女の態度によって得意になったようで、「まあ、今回のことはあなたの実力で勝ち取ったということだとおもうけど? 心無い人は、そういった以前の噂にかこつけて、あれこれとあなたのことを言い立てるかも知れないね」「はあ……まあ、そのようなことも可能かもしれませんね」「僕が言うんではないよ。そういう人も居るって話で。これも君のためをおもって言うんだけれどね」「はい。ありがとうございます」

 言って、彼女は彼の目を見て、柔らかく微笑んだ。言われた同僚は真っ白な頬をいくらか高揚させて、へどもどした。

 そのように、周囲の者からはちくちくと嫌味を言われ、あるいはご機嫌を伺われることは全くの日常の延長であり、もはやそれを含めての『労働』であったともいえる、彼女は、人間付き合いこそが自身の地位を安泰せしめる一番の方法だということを知らないような、完全に孤立した人間ではない。彼女の周囲には人が集まる。それは、彼女と話していると楽しいからだし(本当に、なんでこんなことを知っているんだろう? ということまでよく知っている)、それによって知的好奇心が刺激され、もっと彼女と話したいと願う人が大勢居たからだし、しかし彼女はそれでいて、全く知らないことは知らない。だから、彼女のことを評価するものの中には、「知らないことは知らないというしね。それってあれのことだろうなんて指摘すると、「え、そうなんですか?」なんてね」「それで人懐っこいところもある。知らないことを恥とおもわないこともよろしい。知らないことは知らない。だから教えてほしい。この順序を取れない人は大勢いますね」といったような意見も数多く寄せられた。

 が、しかし彼女は、よっぽどのことでもない限り、誰に何を言われても平気の平左、飄々とそ自身感情の向きがどちらに向いているのかを顕にはしようとせず、人付き合いも必要以上には取ろうとしなかったので、そういった他人と相容れないような態度は、周囲の者から歓迎されるはずもなかった。彼女を嫌う人間は彼女のことを徹底的に嫌った。

 彼女がたった一人ぼっちでいるだけなら、こちらの溜飲も幾らかは下がるだろう。俺を話し相手に取らないお前が孤立しているのは当然だ。だからお前が周囲から浮いて、たった一人ぼっちで孤独を背負っている姿を眺めていると、胸がすっとするようなおもいがする。が、しかし彼女はそうでない。俺に対してはお義理程度でしか関わろうとしないのに、どうしてあの男には、あっちの男には、まるで胸襟を開いたかのように、すっかり寛いだろうな表情をして、楽しく会話に興じるようなことがあるのか? 彼と俺の何が違う。お前なんて、どうせ妹姫のコネクションによってその地位を盤石にしているに過ぎないあわれな生き物の癖をして……しかし彼女の方ではそういったこともやっぱり、気にしているふうでもない。誰にヒソヒソと流言を飛ばされても、何も聞こえなかったかのように平然としているので、彼女の周囲にいる者たちのほうが、かえって心配してくれたほどだった。

 しかし彼女は、結局誰に何を言われようともそれに構うようなことはなかった。「否定しておいたほうがいいんでないかい」とか、「自分の名誉を理不尽なまでに一方的に傷つけられたら、その回復に努めるのが立派な公達というものだ」などと諭されたこともあったが、彼女はそれに対しての同意の念を示すだけで、それを決して実行しようとはしないのだった。なぜか?

 どーでもよかったのである。

 私の目的とするところは、もっと別のところにある。だから、それ以外の雑事にかまけて、本来のところをおろそかにするということは、最も忌むべき、最も愚かな行為だということ。

そのような下らないことに対して時間を取られている余裕など、彼女にありはしなかった。そして彼女はその涼しい顔の下で、しかし実際は焦りを感じていたのだった。

私はまだあの人と話す言葉を持たない。あの人は、死後の世界について知っている。極楽のこと、地獄のこと、釈迦のこと、法華経、解脱、現世利益、浄土について……

「はじめから、仏門に入ることが出来てさえすれば」

 そのような行動の取れない彼女が今夢中で考えているのは、少しでも仏法に近づくこと、その一端でも掴むような場所に至ること、そのようなこと以外に、労力を割いているひまなどないのだ。

しかし急ぐ意志とはうらはらに、またしても彼女は、別のことに足を絡め取られて、そちらのほうへ掛かりきりになってしまう。


 彼女の人事は他の者と比べてもおおよそ尋常とはいえなかったので、その後の処置にも若干の不自然な箇所が残った。そもそもしたっぱごときが兼官などというだいそれた人事を施されたというのだけでも不思議なことだが、八省の輔程度の地位も得ないうちから、出世コースの順序もわきまえず、弁官局から蔵人所とは……普通逆じゃないのか? と良識ある人々はヒソヒソと噂したがあいにく常識知らずの彼女からしてみればどちらがどうでも何が違うのか分からないのだから結局馬耳東風となってしまって、誰の批判も意味をなくしてしまう。彼女は気にしていないのかも知れないが、それだからといって周囲の不満が解消されるはずもなく、彼女は事あるごとに人々の話題のやり玉に上がって、今日の一日宮中のあそこでここで、ヒソヒソコソコソクスクスやられている。

 例えばの話、まったくの平社員が、それほどのキャリアも積まず、いきなり課長、部長になれるかといったら違って、そのような人事が仮に行われたとしても、それを自然なこととして諒承する手合のものというのは想像しづらいだろう。そのような異例の人事が起これば、社内でヒソヒソ言われるのは必至、裏でなにかあって然るべきだ、一体どの上役とのコネクションを得ているのだろうか……? 身分不相応な人事は誰のためにもならない。そのような得体も知らない人物とともに仕事をする方の身にもなってほしい……というところかもしれないが、そのようなことは時々起こりうるし、まして、ここは私どもの住まう現代からは遥か彼方のいづれの御時にか……の世界である。お金持ちの家の息子が十五歳やそこらで四十近くの部下を従えるなどという環境が普通だったのだ、であるからして、それ相応の『身分』という理由を持つ人々においてのこうした人事は彼らにとっては常識であるので、不自然な人事には当たらない。それではなぜ彼女の人事ばかりが人の噂を取ってしまうのか? 勿論それは彼女に常識的な理由がないからである。同族経営の会社で特定の親族が上役を務めるのに疑問を持つことはないが、同族でもない、ただの平社員が、急に部署の上司になったからといって、誰がそれに従うだろう?

 しかし、この場合が今現在の彼女の境遇に当たるわけでもない。兼任といっても、あくまでも彼女は弁官局の官掌であり蔵人所の雑色に過ぎないのだ。蔵人所といえば、出世街道の華やかな部署である。雑色といえども、年数を積めば雑色、非蔵人、六位蔵人、五位蔵人、蔵人頭……と上がっていくことも可能だ。蔵人というのは簡単にいってしまえば時の帝のお世話係のようなものだから、天子様に少しでも近づけるというなんとも有り難い役職は時代の花形でもあっただろう。しかし……彼女はどうせ雑色だ。十把一絡げにされた、吹けば飛ぶような儚い身分に過ぎない。そうじゃないか? というようなところで、人々は彼女の不自然な兼任騒動を鼻で笑っているのだった。精々忙しい部署で雑用にまみれて、忙しく使いっぱしりをさせられればいいんだ!

 しかし不自然なことには、かならず不自然になってしまう自然な理由がある。そして彼女はその自然な理由のために、雑色の身分であるにもかかわらず、時の御方にとうとう拝謁するはめになってしまう。

彼女が宮中に出仕するようになって既に二年余が過ぎようとしていた。彼女にとって自身の妹の婿取り騒動はもはやすっかり過去のこととなっていたし、今更それを話題にするようなこともなかったが、しかしそれは彼女個人の見解であって、他人には関係のないことだ。

 勿論それは正式な謁見ではなかった。

 夜。

 彼女はその御方から、不思議な話を聞く。


****


「泣いているばかりではわからないよ」

 何故このようなことになってしまうのか?

 彼には皆目検討もつかない。だから、彼女の示すそのような状態に遭遇するたびに、彼はおろおろするばかりだが、たった一つのことだけは、分かることがある。

 彼女は泣いているのだ。

 その事実は分かる。しかし、何故泣く必要がある? 現状に対する理解は出来る。つまり、彼女は泣いているのだ。しかしだからといって、その理由までが一見了解できるわけでもない。

「なぜ泣く?」

 問えば必ず女は首を振って、何んでも無いと言う。彼女を局に呼びつけ、話をしているうちはまだ良い、彼は彼女とそうやって話をしているのが好きだったし、彼女だってそれを嫌がるそぶりを見せたことは一度だってない。だけど男女によってのしかるべきことが済んで、それによって彼がより一層彼女に対しての思慕を厚くしていると、そのとなりでは彼女がグスグスと泣いている。

 なぜ同じ気持ちを取れない? お互いに気持ちがよく、同じ褥の中で寝物語に、どうでもいい話に花を咲かせることくらい楽しいことはないのに。この人には、楽しみを理解するという心が欠けているのかしら? などと、彼が不思議におもって尋ねてみても、彼女はやっぱり首を振るだけ。彼にはそれがもどかしく、しかしだからこそ難儀な彼は、彼女に対する執着が強まっていくのを身にしみて感じていた。

 結局彼は、彼女の態度を不遜のものとはおもわず、気位が高いためだろうと考えてしまう。何故このようなことになるのか? それは、彼が彼女のことを「好きになりたい」がためであった。

 たとえば、あなたは今、一本の映画を見ている。

 しばらく見ていると、主人公らしき人物が顔を覗かせる。その人の容姿はとてもうつくしく、所作のそれぞれが見ていて気持ちがよく、惚れ惚れするようである。あなたはもう十分足らずで、その俳優のことが好きになってしまう。しかし、見てゆくうちに、その俳優が演ずるところの役が、不審な態度を取り始める。言動が粗暴になる。どうやらこの映画の中では、その俳優はまったくの好青年として描かれてはいないようだ。しかしあなたは、一度好きになれそうだったものをみすみす取り上げられて、益なきものとされてしまうのを恐れて、どうにかしてその人を改めて好きになろうとする。「お願いだからもっと主人公に相応しいような清い態度を取って。それでなかったら、悪役として、一本気の入った態度を取って」と。

 そうしているうちに、あなたはその俳優の映画内での動向を見守るようになっていく。好意の持てないようなシーンになると、「ああ、そうじゃないだろう」と心の中で歯噛みするか、見なかったこととして処理してしまう。だって私はこの人のことを好きになってしまった。この様子の良い、きれいな顔の人を。

 そしてあなたはそのうちに、別の考えに染まっていくことになる。きっとこの人には、この人なりの考えがあるんだ。たとえば、過去に負った何らかの心の傷によって心を閉ざしてしまっているとか。エピソードとしてそのようなシーンが流れれば、あなたはそれに安堵し、感謝さえもするだろう。「ああ、この人を好きになった私は間違ってはいなかった。やはりこの人は、人に愛されるべき、私が愛すべき存在だったのだ」と。

 彼が陥っていたのも、まさにそういった状態だった。

 僕はこの人のことを救った。やばんでげれつな右大臣から、女を女ともおもわない帥の宮から、女の価値など毛ほども分かってはいない兵部卿宮から、なにかを勘違いしている源大納言から、うだつの上がらない平中納言から、そして父から……僕はこの人を、この純粋ではかない女の子を、救ってあげたんだ!

 それにもかかわらず、彼女は他ならぬ彼の腕の中で、しくしくと泣いている。何がそんなに悲しいの? ここはこの世の中で、一番安全で、誰もあなたのことを傷つけるものなど居やしないというのに。

「泣いているばかりでは……言葉にしてくれない限りには、なにがなんだか僕にはサッパリ分からない。説明をしてくれるべきじゃない? あなたはそうはおもわないか?」

 そうやって優しく尋ねてみても、彼女はそのかわいらしい顔を伏せるばかり。彼は発散できない鬱憤が、頭の隅に溜まっていくのを感じる。

 女は……

「なにか悲しいことがあったの?」

 首を振る。

「誰かに嫌なことを言われた?」

 首を振る。

「どこか痛いところが……」

 首を振る。

「実家に一度帰りたい?」

 首を振る。

「食事が……」

 …………

「なにか病気が……」

 …………

「(物の怪がついているとか?)」

「……………」

 というわけで、彼女のままならないそのような様子は彼の手に負えるものではなく、召人などを呼びつけて話をしていると、「慣れない環境に戸惑っていられるのでは?」という話になる。「いやそんな慣れないったってもう幾月過ぎたとおもってるの?」と彼は抗議したいが黙っている。「気を紛らわすようなことをなさると宜しいのでは」「紛らわすってどういうこと?」「あ、違います、違います」「言葉は正しく使ってほしいんだけど」「ですから、お気散らしに」「は?」「ですから……」

 言葉を間違え続けるその召人に変わって、それの上司筋の女が言葉を取って、「春宮にあらせられましては、口に出すのも憚られるという向きもございましょう」「どういう……」「尊い御方と貴方様を尊崇する気持ちから出るものということもございます」

 姥内侍はうつむいたまま言った。「有り難い御耳をわざわざ弄するようなまねを、宮様は選択しないといったご判断でしょう。これほどの行き届いた慮りのお心を、是非とも一度は含み鑑みてくださるような機会を……」「そうです、そうです。私もそれを言いたかったのです」

 言葉尻に乗った召人の足を、姥内侍がぎゅっと抓った。召人は目をぎゅっ瞑ったが、そのまま黙った。

「でもさ、言ってくれなければ何も分からないとはおもわない?」

「宮様は控えめであられるから、そのような、一見するとつれないような態度もお取りになってしまわれるのでしょう。けれどその裡には、若宮様への、痛いほどの思慕と崇拝が備わっていられる。私どもから見ればそのように一見了解するものが、直接的な結びつきを得ている御方同士では見つけられないこともある。大輔にはそのようにも見えますよ」

「そう?……」宮は顎のあたりを撫でながら、「それじゃあ、ちょっと訊いてみてくれる?」

 で、宮様の御心の示すところのお伺いが立てられたが、その結果というのがまた、彼には拍子抜けのしてしまうような内容なのだった。 「姫宮様は、お寂しい御方なのです。その孤独を分け合う御方に、飢えていられる」

 僕だけではだめなの? などと、彼は彼女にかき口説くように尋ねてみるけど、やっぱり彼女は疲れたようにちょっと笑って、そんなことはない、と彼の言葉を否定するだけ。

「僕は君だけがいればそれでいいのに」

 彼はぼんやりとそうおもって、でもどうしてその対になるべく彼女が同じ感情を持たないのか? 全然、まったく、それが理解できない。だから彼は、姥内耳の提案したことを実行に移そうとする。


 さて、そのような春宮には、血の繋がったきょうだいが一人いた。前斎宮の宮がその人だ。彼女は現在母親と共に、嵯峨野の屋敷で暮らしている。

「きっとあの人ほどの教養があれば、姫の話し相手には十分に足りることだろう、そして姫も、きっとあの聡明な人のことを好きになるだろう」というわけで、さっそく、その案は大輔命婦を通じて提案され、受理された。

 彼女がその案を飲んだということに、若宮は久しぶりで胸の浮き立つおもいがした。

「そうか、良かった、良かった!」

 すっかり安堵した彼は彼女の控えている局に行くと、その両手を取って、飛んだり跳ねたりして喜んだ。姫もたのしそうに笑っていた。だから、これが正解だったんだ! と彼もすぐに理解できた。たまには、本筋以外のものも与えないと。たまには新しいものを与えて、それ以外のものが、実は一番得難く、有り難いものであったのだということを認識してもらわないと……

 役目ということを勘違いさせれば良い――と、その臈長けた命婦は言った。

 人にはそれぞれ役目というものがある。たとえばそれは太政大臣であり、大納言であり、雑色である。それぞれにそれぞれのための役が振られている。それはもちろん后であっても当然だ。しかし、彼女はおのれの后であるという役目を役目とうまく認識できない。それは、左大臣一派からの牽制を掛けられているためでもあるし、后間での序列ということも原因である。后は世継ぎを産むのが役目であるはずなのに、今現在の彼女にはその役目もまだ満足に果たせない。時勢が落ち着けばそのような悩みも持たずに済むだろう。しかしそれを理屈では理解できても、それを心に留め置くことを自然とできるような御身ではないことは、彼女の特別な生まれ育ちのことを考えれば容易に理解してやることのできるはずだ……

 命婦はあくまでも「東宮妃第一番」というスタンスを取って、自身の上司を説き伏した。この提案はあなただけのためではない、第一に、あなたが一番大切におもっている人のためになる判断になりうるのだと……

 命婦はそうやって理屈をでっち上げた。そして、まるでそれのみが真実であるかのように、もっともらしく、彼女は言葉を使用した。

「私でも他人の役に立つようなことがある」彼女は言った。「そうやって、御方様ご自身が確信するそのことこそが、何よりも大切なことなのです。私がここに居る理由はかならずある。そしてそれが、きちんと他人のためになっている、と……実際はそのような結果と確実にむすびつくことはなくとも、そう解釈遊ばし召される余地があること……おいたわしい前斎宮様をおなぐさめする、それが気を紛らわすことに繋がるのです」

 最後にはそうやって、命婦もあのまだ年若い召人と同じ言葉を使ったが、今度は春宮の方でもそれに違和感を抱くようなことはなかったようだった。

「すぐに牛車を手配しよう」

 若宮はてきぱきと言って、人を呼んだ。

 嵯峨野にはかわいそうな姉宮がいる。彼女は女の身たったひとりで、ひとりお寂しく暮らしている。僕も彼女の身を心配しているひとりではあるが、所詮は男のみのうえ、女性の細やかな感情の揺れを、行き届いてお世話できるわけでもない。やっぱりこういう話は、同性間のほうが話が早いだろう、云々……

 そうやって説き伏せられた彼女はそれに同情の感を示した。そして、私にできるのであればぜひお慰めしたいと言った。彼は彼女のその言葉に感謝した。なぜって、その時の彼女は泣いてなんかいなかったからだ。それどころか彼女は、彼の言葉に微笑さえもらした。そういう顔……そういう顔が、ずっと見たくて、でもそれができなくて、彼はずっとくるしかった。ずっと、自分は正しくないと否定されているような気分だった。こんなにも手を尽くしているのに。色んな種類の嫌な男から彼女を守ってあげて、父の手が伸びてきそうになったのも、阻止してあげたのは、ほかならぬこの僕だったのに……そのすべての努力を、まるで間違っているかのように。彼女は、涙を見せて、彼を否定してきた……

 でも、それも今日でおしまいだ。彼女が泣いたのは僕のやり方が間違っていたからだ。方法が正しければ、正しい反応を得られる。それが間違っていたから成果が得られなかっただけ。だから、これからは万事が正しい方へと進むだろう。やっぱり、人に意見を聞くというのは大切なことだ。父のように、何でも一人きりで決めてしまうのは良くないことだ。もしも父親のように、何でもかんでも独り決めにして、自分のおもうとおりにことを進めていれば、このような結果にはならなかったはずだ。僕は正しい行いをしている。だから正しい結果がついてきたんだ!

 そして、機嫌の直った后宮は、彼の前ではもうすっかり、正しく清らかでうつくしい。彼が話しかければ微笑みかけてくれるし、彼の話を楽しそうに聞いてくれる。そのたびに彼は有頂天になりそうな心をどうにか抑えようとして、けれど上手く行かず、もどかしいおもいをするが、そのもどかしさすら楽しい。

 それにしても、あー、あなたはなんてうつくしいんだ!

 何しろなみたいていのうつくしさではない、というのは、だって、なぜなら……そうだろう?

 あの色好みの、女のえり好みの激しい右大臣も、気難し屋で一見したら女なんて金輪際懲り懲りだというように吹聴していた帥の宮も、女とか女でないとか以前に、自身の趣味ばかりに掛かりきりになっていた兵部卿宮も、あちこちに女を作って女によくもてている源大納言も、また堅物で有名を取っている平中納言でさえも、一度は夢中になった女なのだ。そのような、錚々たる公達たちをとりこにし、その夢にしばりつけ、身も世もなくさせておいて、結局一度も、誰それに声をかけることなく去っていった雪のような女……そのような、得難い女が、今やこうして自身の腕の中で、ちいさくかわいらしい寝息をたてて眠りについているのだ。このような、得難い女を このような女を有難がらず、うつくしくないものと決めてしまうなんて、一体どんな人物像を描いたら、それが可能になるなということが起こるのか? 少なくとも、僕は、そのような価値知らずの愚行を図れるような器ではない……

 とにかくこの女はうつくしい。うつくしく、そしてはかないあえかなものだ。そのようなはかなく綺羅綺羅しいものを、こうしてかいなに抱き、そのほかのものから守りいつくしむことができる……これ以上の僥倖が、果たして?

 彼女は彼の腕の中でウトウトと眠っている。彼はそれに呼びかける。額に掛かった黒い絹のような髪を指で払う。名を呼ぶ。

 女はゆっくりとまぶたを上げる。それが彼のことを見つめて、目元がゆっくりと緩んでゆく。それは微笑に似ている。彼は笑った。

 この女を。このうつくしい女を、この僕が助け出したんだ!


****


 そして彼のおもうような”正しい行い”によって、彼女は今日もせっせと前斎宮へと手紙を書く。

 さて、そもそも、なぜ前斎宮は退下をしたのか?  退下とは普通、御代の交代とともに行われるものではあるが、彼女のばあいはそうではなかった。彼女が退下したのは醜聞ゆえだ。果たしてそのようなことがほんとうに起こったのか? 真実のところは誰にも分からない。しかし彼女は退下した。本来の、正規の手順を取ること無く、その異例のことゆえに、それを必要以上に悪し様に言い立てる風潮は当然のように出来上がって、憶測が憶測を呼び、相手方が発言できないことを良いことに、平穏平らかで優雅な毎日を送る人々は、その噂を香辛料の様に噛み付くし、弄んでその暇をつぶした。そしてその噂によって彼女は宮中にはいられなくなり、今は母親とほんの少しの使用人たちとともに、嵯峨野に暮らしている、と。

 彼女、妹姫にも噂によって様々に自身を翻弄されてきた過去があったから、前斎宮の心中は、少しは分かるはずだった。しかしその手紙の全面に、同情を示したり、私こそがあなたの唯一の理解者などと傲慢な態度を全面に出すことはなかった。ただ彼女は季節の話をし、最近読んだ物語の話をし、作った和歌を、季節とりどりの花々とともに送った。そうやってやりとりしているうちに、彼女は前斎王の聡明さを知った。文章というのは時として、その相手に直接会って話をしているときよりも、如是にその人そのものを示してくれることがある。話しているばかりでは楽しい人だとおもっていても、その後文を交わしてみて、ちょっと首を傾げたくなったり。しかしその反対に、会っただけでは印象の薄かった人と改めて文を交わしてみると、その文章の闊達さ、楽しさに驚くことがある。口から吐き出される言葉と筆から書き記される言葉との違いに、彼女は面白さを感じた。

 たとえば、前斎宮はちょっと変わっている。

 源氏の話をしていた。彼女の中で、物語と言えばそれなので。前斎宮も源氏の愛読者らしく、そんな彼女たちがいちばんに話したのは、誰もが一度は会話に興じたことがあるだろう、例の話題だ。『源氏の物語のなかで、一番好きなひとはだれ?』

 宮中の女房とそういう話をしていて、挙げられるのはだいたいこんなところだ。紫の上。花散里。朧月夜! いいえやっぱり私は源氏。頭中将もいい。だけど薫大将はさいてい。柏木はもっとさいていね。変わり種では末摘花。雲居の雁。近江の君! じゃあ私は源典侍! そこで、きゃーと笑い声。

 このようなたわいもない話に興じるのはとても楽しいことで、だから彼女も、その楽しみを、ひとりぽっちで暮らしている前斎宮にも分けてあげたくて、その話題を出した。「ちなみに私は、ちょっぴり気の毒で、それでも源氏に文字通り、死ぬほど愛された夕顔が、好みです。きらいなのは髭黒。もう、むしずがはしります!」

 それに対して返ってきた文には、このようなことが書かれていた。

「それはとても難しい質問です。あんまり、むずかしすぎて、一晩考えてしまいました。いっしょうけんめい考えました。考えましたけれども、出てきませんでした。今日は、観念して、あなたの質問に答えられなかったことにたいする謝罪と、その言い訳でを提出しますので、それを質問の回答として受け取りお含みくだされば、うれしいのですが――

 あなたはわたしに、あの物語の登場人物の、誰が好きかとお尋ねになられました。でも、わたしには分からないのです。嘘をついても意味がないので、正直にお話しますけれど、誰も彼も、別に、好きでも嫌いでもない。どうでもいいわけでもない。ただ、わたしが登場人物に対しておもうのは、ああそこに人がいるな、ということのみなのです。

 わたしは源氏を読みますが、しかしその一切を愛しているかと尋ねられれば、それは疑問です。登場人物の誰彼を好いているから、その物語の筋が好きだからというので私はあの物語を読んでいるのではない……ということが、ああいった話題を提出されて、分かりました。記して感謝します。つまり……私は、彼らのことが好きでも嫌いでもないが、しかしそこに人がいるということは分かる。その、”人がいる”ということに対して、私は興味を持っているのだと。

 源氏の物語に出てくる男女は、誰も彼もがとても人臭く、油のにおいに満々ているような気がします。その人間臭さを、精一杯きれいなにおいのする香を焚き染めて、いっしょうけんめい隠している……そういう人々の、ちょこまかとした動きが嬉しくて、わたしは日々の慰めに、ついあの物語を繙いてしまうのだとおもいます。こんなお話で回答になっていますかしら。私のこの、答えになっていない答えを、受け入れてくだされば、嬉しいのですが……」

 なんて人! と彼女はおもった。なんて人。質問に答えない。そしてまたその質問から新たな疑問を膨らませて、まるで話の接穂にしてしまうかのような。なんて面白い、なんて興味深い、なんて思慮深い人……

 彼女は夢中で返事を書いた。するとしばらくしてそれに返事あった。彼女はまたそれに返事を書いた。今度は一週間、それに返事がなかった。彼女はじれじれした。目に見えて、不機嫌になり、ちくちくと爪を噛んだ。そういう態度を、彼女の夫は咎め立てたが、彼女はそれを無視して、やっぱりちくちく爪を噛んでいた。

 一週間ぶりに返事が来た。彼女はそれを夢中になってむさぼり読んだ。あまりに先様の文章のられつに飢えていたためか、同じ行を何度も何度も目を通し、先に進むのが怖くて、つまり読み終わってしまうのが怖くて、途中からは一字一字、刻むように、慎重に読み進めるようになった。次に読む一文字を指で覆い隠し、徐々に指を離しながら文字列を追った。彼女は文に頭をほとんどつっこむようにして読みながら、局のくらがりのなかで、一人うふふと笑っていた。やっぱりあの人は変わっている人。でも、ご自身では、ちっともそれをおかしいなんておもっていないんだわ。自分の意見を不思議がるというところがない。むしろ、私の方を、不思議な考え方をする人だと、首を傾げて……不思議なのは、あなたの方なのに!

「あはは!」

 彼女はついに声を上げて笑った。次の間に控えていた女房たちは、ついに怪しの姫君も気が触れたか、とコソコソとないしょばなしをささやきあっていた。


****


「絵物語ですか……」

 彼女は半ば呆気にとられて言った。

 急にそのような話をされても、何が何だか分からないが、要点のみを掻い摘んで話せばこういうことになる。

 今度内裏で絵合わせをすることになった。既存の物語などでお茶を濁すことも可能ではあるが、それでは片手落ちだろう。それよりももっと大々的にこの遊びを盛り上げたい、ついては、新しい物語を作り出す必要がある、と。

「たのしいことを考える人だろう? それを聞いた時、朕も久しぶりに、心が踊ってしまってね。このたのしみを皆さんと共有したい、と、こういうことになったわけです」

「はあ」彼女はあいまいに頷いた。

「なぜこの私が? と問いたいのでしょう」

 帝は、彼女の疑問を決め打ちするかのように尋ねた。

「ええ、そのとおりです」

「そうでしょう、そうでしょう」なぜか楽しそうに笑って、「朕は、ずいぶんと昔から、あなたとは一度お話をしてみたいとおもっていたんですよ」

 と、万乗の主はおっしゃった。


 部屋の隅の燈台の灯りがジジジと音を立てた。うつくしい衣装をまとった後宮女房がどこからともなく音もなくスススと現れて油を足した。部屋の中が心なしか多少明るくなった。

 夜の清涼殿、昼御座、御簾の内。本来であるならば、彼女のような身分もなにもないものが、容易に入り込めるような場所ではない。しかし彼女は御簾の中への侵入を許された。廂の間と本殿を隔てる御簾の向こう。それはたった一枚の、ぺらぺらとした仕切り一枚の隔てでしかない。でしかないがしかし、その空間と空間の遮断は、どんな壁の効力よりも厚く遠い。なぜならその薄い隔ての向こうには、この世の中で最も尊い御方の御座があるからだ。天子様の普段住まう空間へ、その神聖な空間への共同、入場を許される、となれば、これは天子様により近い身分の者しか預かり得ないというのは自明のことだろう。それにもかかわらず、彼女はそのような身分もなくして、神聖な場所への入場を許可されてしまった。これは、どういうことだろう?

 彼女は空間を少し隔てた場所にある、御帳台を見ていた。そこへ天子様はあらせられる。その暗がりから、声は聞こえているのだ。「もう少しこちらへ」御帳台の中から、たしかにそのような声は聞こえた。

「…………?」

「顔が見えないでしょう。もっと近くへ。こちらへ来て」

「……………」

 彼女はあたりを見回した。控えていた女房が、「お主上の仰せのままに」と彼女の行動を促した。それで彼女は、いざり足で、御帳台の近くへと寄った。

「もっと」御帳台の中から、声がした。「もっと近くへ」

「……………」

 彼女は衣擦れの音とともに、自らを御帳台へと近づけていった。香りが強くなった。甘い、しかしどこか辛味にも似た、生暖かい感覚が……

 御帳台の半巻にした御簾の向こうから、ヌーと白い手が伸びてきた。彼女はギョッとしておもわず身を引いたが、その手は彼女の顎を捉えて、ぐいとその顔を引き寄せた。

「もっと良く顔を見せて」

 低くそして艶のあるあまやかな声で、その御方は彼女に命じた。

「(痛い!)」

 なぜこのような乱暴なまねを?……彼女は不快なおもいに顔を歪めそうになった、が、堪えた。「……これが」

 くらがりのなかで何かが光ったような気がした。彼女の半身はそのくらやみのなかに浸された。まっくらで何も見えない。ただ相手からは彼女の顔がよく見えるようだった。

 その白い手は彼女の顔をためつすがめつするかのように、顎を持ったまま横を向けたりななめに向けたりとし、そのたびに彼女の視界はぐらぐらと動いた。絹のこすれるシュルシュルという音が、嫌に耳に響く。甘いにおい。けれどそのかおりは決して重たくもなく、軽々しくもなく、冴え冴えとするようでその実になにか脳髄のしびれるような感覚を覚える。ふしぎに人の感情を揺さぶるかおりだ。このような感覚には、一度も囚われたことがないような……

「戻っていいよ」

 彼女は開放され、もとの位置についた。じっとその御簾の向こうを睨みあげる。相手は笑っているようだった。

「あなたの妹姫については、いろいろとお聞き及びのこともあるだろうけど」

 御簾の向こうで、相手が螺鈿細工の脇息に凭れる。「あなたは見たことがある? あのすばらしい……」

「なんでしょうか?」

「絵だよ、絵!」御簾の向こうの相手は大きな声を出して言った。「今日も少し見せてもらったけど、あれは素晴らしい。女の身であれほどの……誰かの代筆じゃないかと疑ったんですがね。でもあなた、春宮に訊いてみれば、その場ですらすらと筆を動かしたというのだから驚くじゃない。実際にその筆さばきを目の当たりにしてしまえばね、これは代筆を疑うなどという失礼千万な態度は、容易にはとれないというわけで」

「はあ」

「月次の祭りも終わったところではあるし……」御簾の向こうの相手は、とても穏やかな声で言った。「これから内裏もこれといった行事がないでしょう。それで、時期としても丁度いいとおもうんだよね」

「はあ」

「以前から、そういう話は出ていたんだよ。宮姫の画才が話題に上がった頃からね。それで、春宮の後宮と、それからこっちの後宮の幾つかの家どうしを競わせて、合わせものとして一興を設けよう、と」

「……………」

「あなたも、もちろんそれに協力してくれるよね?」

「……………」


 詳しい説明は部下に、ということで、彼女は清涼殿を後にしながら、その道中でひとりの後宮女房から話を聞く。

 おもいがけず、唐突にこのような話に巻き込んでしまって申し訳ない、と。しかし、あなたは最早この仕事を拒むことはできない。あなたが突然蔵人所に配属されたのも、こちら側との今後のやり取りが少しでも円滑に動けばとの帝の有り難いご配慮なのだと、あなたはこの境遇を、本当は有難がらなければならないのだと、なぜなら、この宮中で働くものすべての一番の誉れは、少しでも近く、帝のお側で奉に従ずることであるのだから……と。

 彼女は女房の長い長い口上を話半分で聞きながら、久しぶりに、吾が妹のことを考えている。

 こちらへ来てからはお互いに顔をつき合わすこともなかったが、文を交わすことはあった。初めの頃は頻繁にそのやりとりがあったような気がする。しかし、そのうちに彼女は他のことが忙しくなり、面白くなり、あまり妹からの文に返信をしないようになった。自然交流は途絶えがちになり、現在に至っているというていたらくではあるが、しかし……

「他ならぬ宮姫様が、とにかくあなたの参戦をおのぞみなのです」

「いや、僕は絵が描けないし、無理ですよ」

「それはみなさま同じことです。皆、題材の提供程度はしますが、後はすべて画所へ任せますの。第一から、宮御自らが筆を執るなどというのが、そもそもからして……」

「不自然?」

「いいえ、そのようなことは、決して」女房の持つ紙燭がゆらゆらと揺れる。

「けれど、お主上のおっしゃったことは本当です。このような異例のこととはいえ、最早既にあなたがこの条件を飲まないなどという選択肢はありえないことなのですよ」

「まあ、そうでしょうね」

「このようなことは私が申し上げるような類のものではありませんけど」

「そうですね。今の東宮妃の立場からすれば、そうした特技によって宮中での地位を少しで上げておくというのは懸命なことでしょう」

「分かっていただければそれで良いのです」

 簀子縁に出たところで、その女房は振り返った。

「合わせものというものは往々にしてそういうものですからね」

 その名前も知らない女房は、淡々とそう言った。

 その日から木工寮の端にある画所は大わらわとなり、朝から夜まで、その寮には火が灯って、その中では何十名もの職人たちが、紙漉きに筆付けに絵付けにと忙しくしていた。

 元々画所というのは別の寮にあったが、年月とともにそれほど重用されることがなくなったので職場自体が縮小し、今ではほとんど稼働していないも同然だった。そこへ、まだ多少その職場に残って他の仕事を割り振られていた職人たちが再び本来の職種に戻って、せっせせっせと絵を描くことになったのだから、職人としてもこれは張り切りざるを得ない。彼らは日を忘れて、我を忘れて、しばらくその作業に掛り切りになった。

 作業を始めた頃は、まだそれでよかった。しかし、少しずつ時間が経つに連れ、職人たちはその、自分たちが得ていた久しぶりの充実感とか、使命感などが、徐々に削られていくようなうきめに遭うことになる。

 とにかく、やたらと修正が入る。ときには、色つけまでしたものを突っ返される。「リテイク」「これ……リテイク」「リテイク」「リテイク」「リテイク」スッスッスッ。次々と突き返されてくる紙の山。当時、紙などはまったくの貴重品だ。唐墨だって高価なもの、それでなくても書き物の多い宮中においては、墨の消費量も甚大だ。しかしそれを、人々は惜しみ惜しみ、大切に使っている。帝に献上するものであるのだから、紙だって上等な陸奥紙を使って、それでも足りないから工房の端っこで紙を梳いて作っているのだ。そしてそれ以上に、岩絵の具というものがどれだけ貴重なものか……? 緑青や瑠璃、嵯峨野の山の湧水の近くでしか取れない貴重な青など、贅を凝らして作った貴重な粉を膠で溶いて塗りつける、その雅やかな完成したものを、何だ、「リテイク」とは……? 冗談も休み休み言ってほしい。しかし、画工がその監督者たる蔵人に奏上しに出掛けると、そのうつくしい顔をした、まばゆいばかりの美青年は、冷静沈着な態度できびきびと、その絵のどこがどう駄目なのか、といったことを滾々と言って聞かせてくるのだった。「演技ができていない。絵というものは表面的なものです。しかしであるからこそ表面的以外の表現がほしい、というのは分かりますか? 表面的であるものがそのまま表面的であるのならその対象を描く必要などない。そうでしょ? 何かを改めて描き出すということは、それまで一切この世に存在していなかったものを改めて創造するということです。この絵はそれを億劫がっている。つまり、絵というものはそこに描かれていればそれでいいのだと。そうじゃない。そんななまぬるいことで絵を描くのなら、いっそ描かないほうがどれだけ他人のためになるかわからない。そうでしょ? だってさ、考えても見なさいよ。これらは人に見せるために描かれた。しかしそれを見た人に、「なんだただの絵か」とおもわせるだけのために、あなたはこの絵をわざわざ、労多くして描いたのか? どうせ描くならばまったく新しいものを描かなければ。そんじょそこらにあるものを、というより、絵は所詮絵に過ぎない、であるから演技も表現も何もなく、ただあるがままを描けばいい、などということになって、あなたはどうしてこの絵を描くという行為に甲斐を見出すのか、ということが問いたいんですよ。あなたはこの、自分の描いた絵を見て、そういうことを僕に答える用意があるの? ないでしょ?」

 そのようなあんばいの、ものすごい剣幕でまくしたてられた画工は目を白黒させるばかりで、その絵は私の描いたものじゃありません、別の男の筆です、と言い出すことすらできない。

「とにかく、描いた後にいろいろ言ってしまった僕も良くはなかった。それは認めましょう。でもね、これって何度目かな。僕は何度かこの場面を目にしたことがあるよ。何度も言っているんだ。ここの姫の手の動きはおかしいって。ここで姫は、今までに感じたことのない恐怖にとらわれて、それ以外は何も考えられないでいるんだよ。それにもかかわらず、このふにゃふにゃした手の、緊張感のなさは……どういうこと? 何を考えて、この手の形を描き続けるのか? なにか理由があるのだろう! その理由を言いなさい!」

「すいません、すいません、すいません」

 その画工はその夜徹夜で泣きながら絵を修正して、明け方になってようやくそれを提出する。日中彼が工房で紙を漉きながらウトウトしていると、後ろから凛とした声が掛かる。「これ」「えっ」

 振り向くと、健康的につやつやとしたうつくしい肌をした美青年が平然と立って居て、一枚の紙を険しい表情で見下ろしている。

「どうおもう? これ」

「はあ……」

「やっぱりさあ、ここは引きじゃなくてもっと全面に表情を押し出す形のほうがいいかもしれないとおもうんだよね」

「…………」

「どうおもう?」

 彼はちょっと戸惑いの仕草をした後、手ぬぐいで手を拭いて、その蔵人の隣に立つ。「ここなんだけれどね」その細い、女のようななよやかな指が指し示したのは、昨夜彼が必死になって”演技させた”登場人物の姫君の右手だった。

「やっぱり、ここは姫の気持ちが主体だから……これだと、見下ろしちゃうみたいになるだろ?」

「はあ、まあ……そうかもしれませんね」

「それで心配になって。ここは絵の専門家にきちんとお話を伺おう、と」

「(専門家? 俺のこと? えええ……)」

「どうおもう?」

 涼し気な、そしてきらきらとした生気のある目で見つめられる。どうおもう? と言われても……

 しかし時は流れた。そして一月ほどの時間が経過し、その絵巻物は完成した。題して『本朝本髄演目』。

「君は天才だ!」

 と、その絵巻をひととおり眺めた彼女のパトロンは言った。「これで絶対に梨壺には勝てるぞ。いや勝たなくてはならない。もはやこれは義務ですよ。必然ですよ」

 言われた彼女もまた満更ではなかったが、その出来栄えの代償は甚大だった。四十人ほどいた画所の職人はその絵巻が完成する前に十人が夜逃げし、十人が過労で倒れ、三人が物の怪付きになって寝込み、二人は情緒不安定になって涙が止まらなくなり、その他二十五人も昨日から休養をとって、宮中には出仕してきていなかった。

 そして、明けて今日。その御代始まって以来の、後宮においての絵合わせが行われた。


****


「ああ、あなた」

 涼やかな声に呼び止められて、その画工は声のした方を振り返った。

 そこには色鮮やかな袍をまとった、見覚えのある青年が立っていた。「ちょっと、よろしいかな」

 画工は頷く。

 その会話は短く端的に行われた。曰く、あなたがたの作り上げた絵巻物の評価は上々で、とても素晴らしいものであった。帝からの賞賛の声も覚えめでたく、いたく画所の連中の仕事を褒めていた、と。

「そんな」

 画工は焦りを感じ、汗が全身からどっと吹き出すのが分かった。「畏れ多い。止めてください」

「止める? 何を」

「そのような……私たちはただ、指示に従って、然るべきことをしたまでのことです」

「それは、そうでしょう」

「たったそれだけのことをしただけにも関わらず、お主上が……私たちにそのようなお言葉を。目が潰れてしまいます」

「いいえ、あなたたちはそれだけのことを成し遂げたんですよ」その蔵人は目を細めて、とてもやわらかい、春の日差しみたいな笑い方をした。それで画工はその場に縫い留められてしまったかのように、じっとその男のことを見つめた。

「あれは僕のみの成果ではない。あなたがたの、あなたがた画工たちの仕事の結果です。あなたたちにはその成果によっての正当な賞賛と報酬を得るべきですよ」

「嘘です、嘘です」画工は怯えて、まるで恐ろしいものを目にしているように、彼の言葉を否定した。

 だっておかしいじゃないか、と画工はおもう。

 たった一月前まで、彼はずっと、桶を洗っていた。木工寮の連中が作業場から帰ってきて、足を洗う時の桶。連中は忙しぶっていて、日中に何度も足を汚しては拭くから、そのたびに汚れた洗い桶が放置されることになる。桶を洗って、桶が壊れれば(連中は平気で使い終わった桶を放り投げたり野ざらしにしたりしてすぐ駄目にしてしまう)桶を作る……この時勢において、絵の注文なんてめったに来るものではないから、彼は仕事の殆どの時間をそういったことで潰していて、自尊心などというものは育つ芽すらも土の中に仕舞われ、腐ってそのままなくなってしまったとおもっていた。

 それが、どうだろう。突然に嵐のようにやってきた絵物語づくり、それはもちろん大変な仕事だったけれども、その暴風雨のような日々は、彼の中に新しい種が蒔かれ芽吹くには充分で、彼はそのような日々の中ですっかり充実感に染まり、その温かく心地の良い疲れの中で、ずっと揺蕩っているような気分だった。それだけでもまんぞくだったのに。これ以上、このようなことが? 信じられない、夢のような、まるで……

「特にあなた。あなたの絵というものは素晴らしい」

 その蔵人は言った。

「とにかく線が素晴らしい。正直に申し上げれば、初めの頃はそうでもなかったが、それでも描くうちに、どんどんその線が洗練されていくのですね。いや、洗練とも違うな。なんて言うんだろう、『乗って』いったんですよね。徐々に、その線自体が。それらの演技であったり、感情であったり、気分であったりがね。そうしているとあなたの線は次第にあなたが乗り移って、線があなたそのものになった。見れば分かりますよ。

 今、あの絵巻の写本を作るので、第二図所を臨時に蔵人所の一角に設けていまして。完全受注生産でやっているところなんですが、やはり他の者の引いた線に、あなたのような霊感は出ませんね。あの絵巻を見る人達に、あなたの描いた本当の、本物の線を見させてやることのできないのは何とも惜しい。あの線がなければ、あの絵巻の良さは半分以上欠けてしまうでしょうから。そういうまがいものを本物と見てしまうのは、本来であるならば避けるべきことではあるんだけど……だから今、僕は、なんとかしてあの本物の絵巻を皆の目に触れさせてやることはできないかと画策中なんです。何かいい方法があるはずなんだ。これはお主上とも話していることなんだけど」

 そこで男は言葉を切ると、画工の方を見て、ちょっと困ったような顔をして微笑んだ。「あの御方も気の早い人でね。どうにかして第二弾をさっそく始められないかと、僕をせっついて仕方がないんですよ」

 そして、まるで物語から抜け出してきたかのような、美しい顔をした蔵人は言った。

「これからも僕のために、働いてくれますよね?」

 画工はそれに、一も二もなく頷くしかない。


 そしてその巻物の評判はその日のうちに、まるで流行病のように宮中へと広がった。巻物自体は容易に貸し借りできる類のものではなかったので、貴族連中は第二画所で制作された写本を貸し借りして、内容を把握した。

 その内容は、世を外れて生きているあの帥の宮にも届いたらしかった。

――宮は、あの作品をご覧になられましたか?

ああ、あれ?

――お読みになった?

まあね。目は通しました。

――いかがでしたか。

何? 感想を言えっていうの?

――あれほどのものを目撃してしまえば、沈黙を守るということも難しいことだとおもわれますが。

いやいやほんと。勘弁してください。隠居の身に向かって何を言ってんの。

――いや、あれだけのものを目にしてしまったものは、もう後には引けないんですよ。宮だってそうでしょう。

うーん。

――両者ともから、とても強い力を感じました。

両者? もっといっぱいあったじゃない。

――その中でもやはり傑出していたのは、あのごきょうだいのものだったかと。

まあね。そこはまた難しいものがあるけども。

――まだ一度も見たことが無かったものを見せられてしまった、というような虚脱感がありました。

虚脱? 君もオオゲサな人だね。

――宮はそうおもいませんでしたか?

おもいませんね。

――では、どうだった?

そうねえ。

――僕の同僚などは、図書寮のものがとなりで見張っているところで、写本を少しずつまた紙に自分で移しているものなどいるしまつです。

それは熱狂的ですね。

――熱狂そのものです。仲間内では作品にイカれてしまって、それを題材にして歌を作ったり、踊ったりするやつもいるくらいですから。

それは何かの病気なんじゃないの。

――熱に浮かされている、という点においては、恋のようなものに近いのかも知れません。

そうですか。そういうもんですか。

――とにかく、ここまでにして人心の掌握を一挙としたこの現象を何とすれば良いか。内裏でもこの話題でもちきりなんです。

ああ、そうですか。

――そして僕たちで話し合ったのは、こうした疑問にまっすぐに回答できるのは、宮、あなたをおいては他にありはしない、と。

なるほどね。

――僕たちのうちでは議論をし尽くした感があり、それでもこの不思議な現象について、まだまだ正解が出し切れていない。そもそも、以前よりの物語群と、あの二人のきょうだいが描いた物語とのこの圧倒的な違いはどうして生まれるのか? また、物語などは下らない、漢籍や、詩作のほうが何倍かも優れていて上等なものだと、物語なぞに血道を上げて、まるでそれが語る価値のあるものなどと勘違いをするのはおのことしてあるまじきことだ、などとしていた頭の固い人連中だって、今では目の色を変えて、写本を争って求めているんですからね。これは大変なことですよ。

ああ、そんなことになっているの? 全然知らなかった。

そもそもあの姫……いや、今は東宮妃というべきなのかな。女性でしょう? そして今では東宮妃としての確固とした地位がある。それにもかかわらず、そういった下々の者が従事すべきような内容に手を付け、それが一定の水準以上のものになった。もうここからしてこの話は異常なんだ。何もかも異例ずくめ。ほんとうに、話題に事欠かない人だね、あの方は。

――そういうことも鑑みて、他ならぬ宮の前で、避けるべき話題であるとはおもっていたのですが。

いやいや、良いんですよ。それはまったく過去のことだから。以前のことについて、僕はもう何んの拘りもない。ほんとこれはもう、強がりとかじゃなくてね。僕もそういちいち、過去のことばかり考えて過ごしているわけにもいかないんですよ。傍から見れば、暇しているように見えるかもしれないけれどね。(笑)

――宮から見て、そのような異例ずくめのなかでも、一番の衝撃だったのはどのような点だったのでしょうか。

そうねえ。どうだろうな。僕が感じたのは……いやでもこれはちょっと、答えになっていないのかもしれないけど。

――聞きたいです。

二人居たってことですよね。

――うん?

二人。わけのわからない才能が二人。それが絵の内容を競い合うというね。まったくお主上も面白いことをお考えになるよね。

――うーん。

そのうち好評を取って恒例化するんじゃないですか。何だかそんな気がする。別にああいったものは多いからといって困る類のものでもないんだし。

――僕たちの中でも、望む声はかなり大きいです。

そうでしょうね。

――その点、宮はどうなのでしょうか?

僕? 何か関係がある? なんもないじゃない。

――この物語合戦に参戦するご意向は?

無いでしょ。有り得ない。そもそもこういったものは古来より、帝の寵を少しでも多く得たいと願うものによる行為です。

――しかし、この世の中において、帝の寵を得たいとおもっていない人間が存在するなどということが有り得るでしょうか?

いや、それとは、別問題ですよ。とにかく、僕は関係がありませんから。


 などと、内外でも評判を取り、帝の企画した絵合わせは大成功のうちに終わった。

 それからは帥の宮の予想通り、絵合わせは定期的に、年中行事のあいまを縫って行われた。

 季節が何度か変わるごとに、彼女は幾つかの絵巻物を作った。『時路因間書』『長蔵物語』『永倉映像記』……そのそれぞれに賛否両論あり、写本あり、派生本が作られ、それを題にした歌会も開かれた。そうして季節を経るうちに、彼女も次々に重役への道を上っていった。今では彼女も正五位の位階を賜って、少弁兼五位蔵人として宮中のなかをあちらこちらと走り回っている。

 そんな彼女には、常に人からの噂話や毀誉褒貶がついて回った。

「どうしてだろうね?」

 彼女を重用した帝は、その日の朝拝が済んだ後に、彼女を相手にして世間話の一環として尋ねた。

「まあ……そうしたお話にも頷けないことはないですが」

「どういうこと」お主上はおっとりと視線を上げた。「話して」

「同じような程度の能力しか持たないとおもっていた同僚が、さっさと他を追い越して一人だけ出世するようなことになれば、他の人間はそれを憎むでしょう」

「そうなの?」

「良いところの坊っちゃんには始めから出世という点では敵わない。だから嫉妬心などは抱こうにも抱けない。しかし、自分と同じ様に平凡な生まれだからと同一視していたものが実は違ったということになったら、これは身の置き場がない」

「良かれとおもって、段階を踏んで出世させたんだけども。間違っていたということ?」

「まあ……どちらの選択を選んだとしても、最終的には多かれ少なかれこういった結果になっていたでしょう。そもそも私の身の上というのはちょっと他では考えられないようなものには違いがないんですから」

「なるほどね」帝は幾分億劫そうな嘆息を漏らした。

「すべての人を納得させるというのは難しいね」

 彼女の周りには自然に人が集まった。彼女はどんな話題にもその豊富な知識によって柔軟に応じ、議論の輪にも積極的に加わった。彼女が話の中に入ると話がややこしくなるので嫌がる者もいたが、一部の人々はそれをかえって気に入って、彼女を見つけては議論の種を吹っかけて、そこから侃々諤々やりあうのを楽しみにする者も現れた。が、同時に、そういった彼女の一連の行為を、知識をひけらかす、まったく貴族的でない行為だとして、流石は下賤の生まれだと蛇蝎のごとく嫌うものもいた。

 彼女の特殊な出自には人それぞれの様々な評価がついて回って、彼女のその存在に肉付けがされていく。そういう生活の中で、彼女は弁官として書き物作業に、蔵人として帝周りの雑務に奔走し、また暇を見つけては絵巻物の構想を練り、木工寮に通って画工と話し合い、またその更に隙を縫って漢籍の読みかけていたものを少しずつ読んでいく、というまさに八面六臂の活動をし、そのそれぞれに走り回っていた。そして彼女はそのせいで、またしても本来のやるべきことを忘れ果て、日々の生活に没頭するばかりの身となってしまうのだった。


 一方、その妹の方はどうなっていたのか。

 その姉は今や宮廷生活の栄華を恣としていたが、妹の方はそうでもなかった。それどころか、彼女の孤独は益々強まり、そのせいで彼女は、まったくのひとりぽっち、太平洋の真ん中に一人投げ出されてしまったかのような、まっくらやみの孤独の中に居た。

 彼女の作った絵物語は、ちょっと今までの常識では考えられないくらい、宮中の人からの歓迎を受けた。誰もが彼女のことを称賛したし、それに伴って現春宮の評判もうなぎ登り、それまで暗愚の才だと謗られたことこそ無かったが、別に名君と讃えられたこともない、まだまだ十五歳のちいさな少年は、最近では専ら、才気の者と誉れ高くあちこちでその才を囁かれた。曰く、先見の明がある、すばらしい名君であると。

 それに対して面白くないのは周囲にその他とされてしまった姫君たちで、これは比べられるのも気の毒というもの、なにしろ乳母日傘でそだてられた深層の姫君たちが、下々の者が生活の手段としてやむなく手に職をつけるために習得しなければならないような「絵を描く」などという下賤な行為を容易に行い得るはずもない、絵合わせということで各殿舎ごとに見様見真似で絵巻物提出したは良いが、それだってまともに見られるものが二三という程度、とうてい彼女の才には敵いようもなく、そうなれば新参者のでしゃばりを少しは自覚すべきということで、物語でいうところの桐壺いじめみたいなことが始まって、彼女は身分不相応に時の帝に寵愛された桐壺更衣のように事々に様々な方法をもっていびられるようになる。するとどうなるか。いびられる彼女は益々自身の殿舎にこもって絵ばかりを描き続け、そこから出てこないようになる。こうなればまた詰まらないのは春宮の君だ。あの手この手で手をこまねいて、彼女のご機嫌取りに一生懸命になったというのに。これ以上、何を望むというの。僕にどうしてほしいの?

 だけどやっぱり彼女は首を振って、何んでも無いとうつむくだけ。

 ああ、女って、こんなに面倒な生き物だったっけ?

 彼は彼女のそのうつくしい顔をきちんと眺められないために、その美の恩恵をうまく受けることができない。だけどそのまますごすごと、ああそうですか、じゃあお大事に、気分が悪いのだったらこちらから余計なちょっかいは出さずに居るよ、などという譲歩が何日も続けられるはずもなく、それどころか彼の心は、益々、おもいどおりにならない、彼女のつれない態度に縫い留められてしまうようになる。

 彼女の心のすべてが手に入らないからこそそれに執着が生まれるという例の悪い癖だ。おもいどおりにならない美しい女……それを無いものとして捨て置くのは容易い。他にいくらだって、しずかでおしとやかであまやかな、彼のことだけを第一に考えてくれる女などというものは望まなくても既に与えられている……でもそのようなものはほんとうの美しさじゃない。彼女はそのような態度を示すことによって、僕に真実のものを、このまがいものでたくさんあふれている濁世のなかで、真実のものを教えてくれようとしているのだ……から?

 そうやって殊勝な考え方をすることも可能だったかもしれない、そして実際に彼はそう考えるように努めた。しかし頭の隅ではその殊勝で懸命な判断についての抗議の声が上がっていて、それはこういうことだった。

 どうして彼女は僕を否定するんだろう。僕とあなたはまったくの対の人だった、前世から決められていたはずの……だってそうだろう?

 あの時あなたは僕の手を取った。それでまるで、そのままはかなく消えてしまうみたいに、あえかな、それでも玻璃の粉を振りまいたような、するどくて短い、うつくしい顔で、僕に微笑みかけたくせに。

 どうしてそのあなたが、僕をすべて拒んで、泣いたりなんかするんだよ!

 しかし意固地な彼女は、そのような彼の気持ちとは裏腹に、益々局にこもりきり、手紙を書いたり、絵を描いたり、爪をばりばり噛んだり、している。


****


 で、そういう彼女は廊下で滑ってころんだ。

 すてーんと彼女は転倒し、きゃあ、と短い悲鳴があちこちから聞こえた。

 なぜ、そのようなことになったのだろう? 本来であるならば、そのようなことは起こりようがない。第一に、お姫様というものはめったに出歩くようなことはしないから、転びようがない。正しい女というものは、部屋の中でじっとしていて、みだりに動いたりなどしないものだ。では何をしていれば良いのか? 何もしない。何もしないでいるべきだ。本を読んだり……女房連と噂話に興じても別に構わない。しかし特別推奨されるようなものでもない。

 たとえばそこに、高貴な淑女が座っているとする。さてその淑女のめのまえに、三つのものが並んでいる。一、琴の琴、二、和漢朗詠集、三、香炉。このなかで、高貴な人が一番手に取るべきものとは次の内どれか? 正解などはない。どれでもお好きなものをお好きに手に取れば宜しい。しかしそれもやっぱり、推奨はされない。最も懸命な道を選ぶ高貴な人なれば、この三つの選択肢の中には正解はないというのを知っている。

 何もしない。それが一番正しい。

 誰もそれを強制などはしない。しかしちょっと自分の頭で最善を考えることができるくらいの御人であれば、それらはすべて二義的なものに過ぎないということが分かる、というより理解していることだろう。

 つまり、自分の本当にすべきことというのは、待機であると。

 彼女たちの、その先に広がる膨大な時間のそのほとんどは、何もしないことに費やされる、費やされるべきだ。天にも等しい人からのお渡りを待つ、それだけのために費やされるべきだ、なぜなら彼女たちの時間というものは、決して彼女たちのみの時間ではありえないのだから。

 この世のすべてのものが、一番に尊い天子様のお膝元にあるのだとすれば、その御子のための母胎となる女の全てとは、一体どこへ還元されるのか? それはまごうことなき天子の元である、そして、その国母となる可能性を多分に含んだ自身の体、存在のすべてが、そのまま自身のみの体として自由されるなどという傲慢が、果たして実行できるのかどうか。よくよく考えてみるが良い、なぜわたしたちが、このような、暗くて寒くて、他の誰もが容易に彼女たちを発見できないような場所に閉じ込められ、自由を奪われ、それどころか、自由などという状態や概念すらも知らず、ただ一人の男に寵愛されるもののみとして価値を置かれ、かつ他ならぬそのことによって自身のただ「女である」というだけの体に、それ以上の価値を付加されているのかということ……彼女たちはその体だけであればただの女であって、そこら中に御簾の向こうまで顔を出して平気な顔をしている”高貴という価値を付加されない”女達となんら変わりがない。しかし、ほかならぬ帝に寵愛される強力な権力を有した家の娘というだけで、そういった”価値のない女達”からは外され、それ以外という形で、大切に薄暗がりの中に仕舞われ続ける結果になる……そしてその他ならぬ収納こそが、いいや収納され続けることこそが、大切にされるものとしての価値、生き様であると。

 後宮の殿舎に住まう姫たちは、いわば生きながらの高級人形だ。ジュモーやブリュなど高級なビスクドールが野ざらしになったり、かばんの中に乱暴に入れられて乱雑に持ち運ばれるなどということが自然か自然でないか?

 彼女たち人形の仕事とはなんだろう。それは大切にされること、人の手によって愛でられることの他に何があるだろう? 美しく貴重で高価なものは、それがそれであるだけで、それをそれとし、それに大多数の人々が価値を与え、またその価値を利用するために存在する。高級なお姫様というものはそういうものだ。だから美しい人形は、何をしていなくてもいい。ただそこに在るだけでいいのだ。


 で、そういう、美しくて貴重でそして高価なものに、いつの間にかなってしまっていた彼女は、だからしてめったに殿舎の外へは出ていくことができない。出ていくとすればそれは、雅人に呼ばれて彼の人の殿舎に向かうときだけだ。もちろん一人で出歩くわけもない、大勢の従者を引き連れて、何十人もの行列でぞろぞろと、十二単衣のあでやかな色彩に後宮のなかを華やかにきらきらとさせて、しゃなり、しゃなりと歩いて行くわけである。

 そのようなうつくしい行列であったはずなのに、彼女はなぜかその中心で、つるりとひとりだけ滑ってころんだ。前日の、床磨きが徹底しすぎていたためか? それとも早朝の露で濡れた簀子縁が、まだ朝露で濡れていたとか……いやいや違う、彼女は、もっと尾籠なものによって、その素足を滑らせてしまったのである。

 まさにそれは必殺桐壺殺しとでも命名されても良いような残酷さ、残忍さ。彼女は誰やらがどこやらかから盗んできた樋の中身によって、その足を滑らせたのである。

 それには芳しいにおいが振りかけてあって、それ自体の胸がむかつくようなにおいはほとんどしなかった。しかし彼女はこの世でもっとも高貴な身の上にもかかわらず、その足先で、ちゅるんとそれを踏み潰してしまったのだった。

 時刻は子の刻、昨日の晩には霜が張って、息を吐けばそれが簡単に白く濁るような気温、真夜中になってのお呼びがかかるのは別に珍しいことでもない。足元や前方の暗闇を照らす女房が二人。彼女の介添をする女房が一人。その後ろにつく女房が二人。彼女の手を取ってしずしずと一行は、つめたく冷えた廊下を進む。一歩、二歩、三歩……暗闇の中では分かりづらいが、普段なら閉められているはずの妻戸(観音開きになる戸)がほんの少し開いている。先払いの女房はそれをちょっと不審におもったが、構わず通り過ぎた。そこから何かがチョロチョロと流れ出す。既に通り過ぎた女房は気づかない。いちばんに大切に、真心を込めてお世話されている人、その人が通る瞬間をじょうずに狙って、両手に樋を持ったその人は、その中身を簀子縁へと流しだす。「あっ?」短い声。一番に大切にされるべき人が均衡を崩したせいで、その近くにいた女房も一緒になって転倒した。妻戸はそれで何事もなかったかのように音もなく内側から閉められ、また音もなく掛けがねが降ろされた。当然きゃあきゃあと、夜中であるのにも関わらず騒いでいる女達に、そのような微量な音は聞こえない。すわ一大事かと警邏のものがやってくる。まだまだぼんやりとその粗相されたもののうえに座り込んでいる姫の腕をとっているものもいれば、その原因を確かめるべく紙燭で照らしてみているものもいる。しかし後宮女房というのも大したもので、すばやくその仔細をはあくすると、近くに居た女房はその尊い御方の身を自身らの十二単衣で隠し、警邏のものには夜露によって転倒してしまったことを何も問題はないのだと説明した。警邏のものが姿を消したと同時に内々に人を呼び、口の固い女房を叩き起こして簀子縁の掃除を命じ、急いで局に戻ると湯を沸かし、宮の体を洗った。

「小侍従の君、一体どうしましょう?」

 火桶に炭を入れて暖を作っている女房に向かって、局に入ってきた使いの者が言った。

「宮はどうしてもご気分が優れず、そちらには行けないと伝えたの?」

「ええ、でも」尋ねるが使いの女房はもじもじして、「はっきりしなさい」「ええ、ですから」使いの女房は言った。「こちらへいらっしゃるというのです。それほど……動けないほどお辛いというのならば、心配だからと」

「まさか」小侍従の君は目を丸くして、「このような状態で、一体どうやってお迎えできるというの。馬鹿も休み休み言いなさい」「ええ、ですから、私が言ったんじゃないですよう」「それをどうとでも言い含めるのがあなたの仕事ではないの? この仕事何年やってんの? あんたどこの家の人? 名前は? いつからお勤めに出てるの? そのままのこのこと帰ってきたの? 嘘でしょ?」「そんなあ」使いの女房は泣きそうになって、「弁の君がお話していますよ。私は弁の君に言われて、とにかくお渡りになるようなことになってはいけないからというので、急いで報告しに来たんですよ……」「では、もたもたしていないで、宮の髪を拭くとか、香をどんどん焚くとか、どうにかしなさいよ。いつまでそこに突っ立っているの? 立つだけならウドでも竹でもデクノボーでも親でも立派にその役割をこなすのよ」「すみません、すみません」

 などといった騒動があり、結局心配性な春宮の君は彼女の殿舎にやってきて、何かと気を配り、彼女の健康に気を遣った。

「君がどうしているかだけが気になって。ずっとねむれずに居たんだ。さみしくはなかった? 健康を害したときというのは、とかく人寂しくなるものだからね」

「ええ、本当に」

「僕が来たから、もう寂しくないよ。そうでしょう?」

「ええ、本当に……」

 誰か、誰か。

 誰か私を助けてよ!


 このような状況下において、一体彼女の姉というのは何をしていたのか? 帝に認められてその周囲をちょこまかと走り回り、工房の連中を使って新しい絵巻物を次々と発表し、周囲の者に剛のものだ業のものだと精々おだれられて、アハアハ笑っていただけだと? 確かに一方的な目で見ればそのような観察も可能であったのかもしれない。しかし彼女だって、決して遊んでばかりいるというわけでもない。とにかく目的がまずひとつあって、その目的を達成するための一歩として日常生活に従事しているだけには違いがないが、しかしその、今では大変に煩雑と化した忙しない日常に忙殺されているばかりで、いつの間にか彼女は宮中の重要な駒の一つとなってしまい、そこから身動きが取れなくなってしまっている。夜中、書き物仕事をしているうちについウトウトしてしまって、我に返る。警邏のものが時刻を知らせる声が遠くから聞こえる。頬杖をついて、ジーンと耳に染み込んでくるような静寂を聞きながら、彼女は考える。私はいつまでこのようなことに甘んじているつもりだろう? 仏典の勉強はどうした? 早くしないと……私はこのようなことをするために、ここへ来ているのではない。もっと別のことをするために、もっと別の人に会うために……しかし未だにその人については何の消息を知る手立てもないし、今彼がどこでどの様に暮らしているのかも知らない。でも彼女は、彼が必ずいつかまた会えると言った言葉を信じている。あの人が嘘を付くはずがない。だってそうだろう? あの人は……今まで彼女が会ってきた人々の中でも、特別に洗練していて、特別に穏やかで、特別に優しく……

 妹から手紙が届く。彼女はそれを開く。早く内裏に行かないと。お主上が呼んでいる。彼女は目をこすりながら、その長い手紙を読む。目がまだしょぼしょぼしているし、頭はぼんやりしているし、なんだか見慣れたその続け字もよみづらい。はやく、局を出ていかないと……

「……あなたは私のことをまるで無視して過ごしていますが、一体私がこの殿舎のなかでどんな目に……」

「……安易な誘いに乗るのではなかった、私は毎日なきくらして、今までのことを後悔……」

「……私が一生懸命描いたものを、あなたは評価もしてくれなかった……」

 云々、云々、云々……

「少弁の君!」

 同僚が慌てた声で彼女を呼んだ。彼女は読んでいた長い長い手紙の文面から顔を上げた。

「いつまでこのようなところでぼんやりしているんですか。もうお主上はお食事を済ませて、少弁はまだかとお待ちですよ」

「ああ、ハイ、ハイ」

「いやハイハイじゃなくて」

「はい、はい……」

 彼女は緩慢な動作でゆらりと腰を上げ、長い長い手紙を文机の上に放す。白い紙は波を描いて、緩慢な動作でゆっくりと落ちていく。

 彼女はその夜に、妹に向けて手紙を書く。

「お手紙ありがとう。最近はお互い忙しく、またみぶんも全く違ってしまったため、以前のように気安くお話できなくなってしまったけれども、またこうして時々、手紙で近況を教えてもらえたら嬉しい。

 そちらでは酷いことになっているそうだね。可哀想に。あなたの境遇に強く同情します。けれどどこかに、必ず解決策はあるはずだ。現状が辛いからといってそこから逃げ出すのはあまり奨励されるようなものでもないということは聡いあなたならばよく分かっていることだろう。一緒に解決策を考えよう。しかし……それよりもまず、あなたにはもっとやるべきことがあるのではないかな。

 それは作品を作ることだ。あなたの絵巻物は拝見しているよ。実に楽しいものだった。冒険あり、恋あり、苦難あり、ハラハラあり……おせじ抜きで、今までに本朝で書き記されてきたどんな物語にも見られない新しさだとおもったな。あなたの物語は素晴らしかった。この調子でどんどん描いてください。あなたがここへ来た理由をおもいだして。それは僕たち家族のためだった……しかし同時に、あなたのためでもあったということ。

 あなたは源氏に飽き足らない物語が描きたいと言った。ここにはそれを達成するための条件、人材、道具その他が揃いぶんでいる。その境遇を利用して、あなたの本来すべきことをしてください。あなたは人形などではない。他の女性たちとは、全く違う何かを、あなたは有しているはずだ。ただあなたのそういった個性や成功をやっかむ人の妨害などは、モノともしないことです。あなたはやっかまれることが仕事でここにいるのではない。あなたのしたいことをする、そのためにいるのだということ。それを忘れないでください。また何かあったら手紙を出して。僕は出来る限り、あなたのためになることをしたいとおもっているから」

 次の日の朝、すぐさま返事が来る。例によっての長い長い手紙。そしてその最後に書かれた一文。

「あなたは私のために何んでもして下さると約束してくれました。それならば私を、早くここから連れ出してください」

 彼女はそれに返事をしようとおもっていたが、書こう、書こうとおもっているうちに日常に忙殺され、なかなか返信を書けないままに時間だけが過ぎていく。


 そして彼女のそういった判断によって、彼女の妹は益々その身を、厭世観によって支配されていくようになる。

 そのせいかどうか知らないが、妹姫は何かに取り憑かれでもしたかのように、日夜文机に向かって絵を描いた。その横顔はすさまじく、悪霊か悪鬼が取り付いたのでは? とおもわれるほど。祈祷師が呼ばれ護摩壇が置かれ陀羅尼が唱えられ、彼女の個室は香のにおいと祈祷僧の低い声の輪唱いっぱいとなりすさまじいありさまであったが、それでも彼女はそのようなものはまったく意に介さず、すべてを無視して真っ白な紙に筆を走らせていた。彼女は彼女に与えられているほとんどの時間をそうしたものに捧げていたが、それでも絵巻物はなかなか完成せず、反故紙となったものが曹司の隅にうず高く積まれるようになった。それを女房たちが暗にじゃまがると、「じゃあ護摩壇の中に入れて焚付にでもすればいいでしょ」などと甚だ罰当たりなことを言い出すので、寝不足によって隈を作り出したその形相から鑑みても、あの天女のようなおかわいらしいお姫様に悪魔が憑いたに違いないと言って、宮中の雅やかな人たちは、今日も今日とてヒソヒソコソコソと噂話に余念がないのだった。

 が、そろそろ彼女のそういった反故紙制作の現場もだいぶ逼迫してきて、彼女一人きりでは立ち行かないようになってきた。そもそもの話、ある程度量のあるものを描くというのは組織的に役割分担を組んでいくものであるというのに、彼女は今までに、ほとんどそれを一人でこなしてきたのだった。これは尋常なことではない。しかし何作か作っていくうちに彼女の方でもこだわりが出てきて、以前のようにはいかなくなった。次回の帝主催の絵合わせはもう間近、しかし作品は出来上がっていない。どぉすればいいんだろう?

 彼女はそれを春宮の宮に相談した。久々に彼女から頼られた彼は張り切って、宮中のものにまた相談したところ、一人の男が引っかかった。彼は春宮の宮以上に張り切って、「まっかせてください!」などと、腕まくりをして、彼女の手足となることを約束した。

 その甲斐あって、近日中に絵巻は完成した。名付けて『秘本禁中絵巻』。なにやら桃色めいた題ではあったが中身はいたって健全だった。これも絵合わせでは好評を取った。

 彼女は就労の疲れからまる三日御帳台から出られず、滾々と眠っていた。しかしそこへ忍んでくるものがあって、彼女はそれを受け入れなければならない。なぜなら彼女はそれこそが、彼女本来の”お仕事”であるからだ。憑き物が落ちたようにおとなしく静かになった彼女に、彼は御帳台のなかで優しくささやきかけた。

「機嫌は直った?」「…………」「あのようなことに掛かりきりになって……帝の命でもあるから、仕方がないことではあるかもしれないけど、それでも、君があそこまですることはないんだよ」「…………」「辛い目に遭わせているという自覚はあるんだ」彼は苦しそうな表情を浮かべて言った。「ねえ、もう止そうよ。こんなことは」「…………」「上には僕から言っておくから。こんなこと……あなたのたいせつな体を壊してまで、することではないよ」「…………」「君は、もっと大切にされなければならない人のはずだよ」「…………」「ねえ、そうじゃないの?」

 そういう、良い人の世迷い言を聞きながら、仕事をしなくては、と彼女はおもった。

 仕事をしなくては。そうしなければお姉さんは、私のことを認めてはくれない。私は女で、身分もなく、ただうつくしいだけのでくのぼうで、だから、ここで”仕事”をしなければ、その場所をなくしてしまえば、姉は私のことを見向きもしなくなるだろう。詰まらない、彼女の退屈も満足に癒せないようなどうでもいいものとして処理され、忘れ果てられ、必要とされなくなってしまう……お姉さんが。お姉さんに褒めてほしいのに。あなたこそが私の称賛する、一番におもう人だと言い切ってほしいのに。でもここに”居る”ための努力を欠いて、またくだらないだけのただの女になってしまえば、姉からの関心は削がれ、私は無きものとされてしまう。そんなのは嫌だ! 

 私はここへ何をしに来た? お姉さんの役に立つためだ、あの人の大志をお手伝いするため、その大志を持ったあの人に、ただ一人のあの人に、認めてもらうためではなかったのか……

 彼女は目を強く瞑った。下半身に疼くような、何かが擦れて燃えるような感覚があった。目を薄く開ける。くらがりのなかに、ぼんやりとした影のようなものが見える。あれは何だろう? どういう理屈が通ったら、人というものはこのような奇妙に甘んじるようなことになってしまうのか?……

「大切にするよ」

 暗闇の中で、男はそういうことを言っている。


****


「僕のところへ兵部卿宮から手紙が来ていたよ」

 彼は言いながら、その手紙を姫宮に渡した。

「君も読むと良い。許可します」

 許可を受けて下げ渡された浅葱色の薄様の前半には、本来の宛人である春宮を称賛するような内容が連綿と書かれていたが、後半には追伸といったような体で、短く彼女への言葉が書きつけられていた。

「……また、宮様におかれましては、新作の絵巻物の完成、おめでとうございました。たいへんすばらしく、あのように得難いものをこの世に生み出すお手伝いが、いいえ偉業の末席を汚す程度のことしかできませんでしたけれども……我が生涯における最良の出来事だった、と……宮様に、ぜひぜひお伝え下さいませ。ならびに……」

「読み終わったら、そのようなものはすぐに焼いてしまいなさい」

 彼女はおしまいまでその手紙を読んでしまうと、彼の人に言われたことをおもいだして、墨鉢の火に近づけた。すると、どこかからあまい香りがする。柑子のにおいだ。それは燃え散っていく薄様の向こうか流れてくる。彼女は黙ったまま、徐々に火に舐められてゆく薄浅葱色の薄様を見ていた。あまいかおりとともに、なにやら薄っすらと文字らしきものが浮かび上がるのが見える。彼女は薄様を取り上げ、火を払った。

 そこには、このような文句が浮かんでいた。


 人心の 環中入りて玉藻狩る

  帰りし人々 あなたの膝下


 彼女は眉をしかめた。そして、まるで汚いものを無理矢理見せられた苦痛を逃れるかのように、それを炭の上に放った。

 じわじわと紙が黒く染まっていく。甘ったるいにおいが鼻につき、それを見ていた彼女は、どんどん気分が悪くなっていく。

 彼女はそのゆううつを振り切るように、姉からもらった手紙の中のある一行を、繰り返し繰り返し読んだ。

「あなたの物語は素晴らしかった」

 誰にどのような言葉で褒められようとも、彼女にはどうでもよかった。うつくしいとか、あなたが欲しいとか、あなたのことが好きだとか……そのようなことには何の根拠もない。

 だけど、ここにはれっきとした証拠がある。

 それは、”私”を捉えた証拠だ。それが絵だ、絵巻物だ。

 お姉さんは昔から私の絵が素晴らしいと言ってくれていた、それは”私”の中から出てきたもので、唯一根拠のある、”実体”ある、本当のことだ。

 あなただけが私のことを本当にしてくれたんだ、と、彼女は考えた。

 あなたが私に火を灯した。”実体”の無い私に灯りを灯して、そこに私が本当に居るというのを見つけてくれた。だから私はその本当のための証拠になった”絵”というものを手放せない。絵は私だ。私は私によって絵を描くことで、お姉さんに私という実体を見つけてもらったんだ、他人の言うような、実体を欠いた”噂”などではない、そこにいる私は、本当の……

 彼女はそうおもっていたが、しかしそれによって要らぬ業を背負ってしまったとも言える。しかし、渦中にいる彼女に、そのようなことを気づかせるような、感じさせる必要が、一体どこにあるというのだろう? とにかく彼女は繰り返しその手紙を読んでいた。そして、もっと絵巻物を描こうとおもった。そうすれば、お姉さんにもっと褒めてもらえる……

 姉からの手紙の返信はなかなかもらえなかったが、それでも彼女はせっせと姉に手紙を書き送った。会いたい、話がしたい、顔が見たい、いつまでこのような不自由な境遇に甘んじなければいけないのか、……これではまるで、彼女ばかりがその姉を求めているばかりのようだ。その証拠に、妹の熱心なかき口説きに対する姉の返信は、たったこれっぽっちだけ。

「あなたはご自身の境遇を何故か嘆いているようだが、そのような不適当は感情は避けるべきであるし、発言などは控えるべきというのは当然のことだとおもう。あなたはあなたに与えられた幸福な境遇を、有り難いとおもって暮らさなくてはいけませんよ」

「…………」

 彼女は気分が悪くなってその場で嘔吐した。そしてそのまま寝込むようになった。彼女の状態を知った人々から次々おみまいの手紙が舞い込んだがその中に彼女の姉からのものはなかった。

 御帳台の中に居着くようになって数日が過ぎた。食事もまんぞくに取れないようになり、彼女は益々病みついていった。女房たちはそれを心配してあれこれと気を配ったがあまり効果はなかった。「御髪もあのようにぐしぐしになってしまって」

 宮付きの後宮女房は、袖口で目元を拭うと、悲しげな声を隠さず言った。「宮様の御髪、以前はこの宮中にあまたいらっしゃる宮人のなかでも随一とおもわれるうるわしさでしたのに。滑らかな触り心地、光沢、やわらかさ、コシ、癖一つ無いまっすぐ黒々としたその神々しさ……ああわたくしはこの御髪に触れ、そのうるわしさを保つお手伝いをするためにこの世に遣されたのだわ……などとね、本気でおもっていたのですけれど」ほうとため息をついてみせる。「こうなってみると、読経坊主もかたなしね。どんなに病みつかれた人も、抹香のかおりとともにすべてが清涼に戻れるのならば、苦労もないというもの」

 とうぜんそのような不敬千万な発言はごく内輪のみのないしょばなしで終わったが、それでも今日も今日とて姫君の曹司には読経が鳴り響き抹香が焚かれどんどんと銅鑼の音が鳴り響き憑坐童は居眠りをこきとたいへんな有様、またそのような中で姫を一番に心配している彼の人は、最近では他の殿舎にまします姫君たちのことなどはほとんど放りっぱなしで、義理も果たさず、彼女の住まう殿舎にばかりに入り浸り、今日も彼女をかき口説いている。何が不満なの? 何が悲しいの? そして彼女はすっかり乾ききった唇で、しくしくと泣いて、たまに口に出すのは姉のことばかり。

 しかしその口に出された姉といえば、今や出世街道爆進中、当代様の御前に鎮座し、その職の新たなる任を言い渡される。彼女は、しかるべき場所へと歩みを進めながらしかし、恩知らずなことには「まったく、これでは本当にやりたい放題だな」とおもう。

 つまり、決まりごとというのは権力者の胸三寸で幾らでも意向を左右できるということだ。権力をその掌中に恣としている者が白を黒といえば黒、黒を白といえば白。決定事項というものは簡単に例外を設けることができて、幾らでも決定を捻じ曲げることが出来る。そういうものなのだろう。

 しかし、そのような専横がいつまでも可能になるとも限らない。特にこのような情勢においては……うららかな季節である。緑はほころび、鳥はさえずり、ウララカ、ウララカ……のどかな昼間だ。

鼻歌交じりに簀子縁を歩きながら、彼女はその殿舎に着く。少しの会話、ささめきこと、妹は泣いて笑って口角泡を飛ばし、ぎらぎらとした目つきでずっと話している。彼女はそれを聞いている。

 彼女が天上人から任じられた新たな任務は、東宮妃の教育係だ。曰く、これより国母となるべき可能性を多分に秘めたこの宮様に、それ相応の教養を授けたいと。

「分かりました」

 そして彼女はニヤリと笑った。

「しかし私も浅学の身。畏れながら、宮様相手に教授の講が勤まるともおもえません。私のようなものは、まだまだお他人様に何かを教授するなどといった、大それたことは行い得ない」

 言いつつ、それでも食い下がられることを分かっていて、それで彼女は次にこういうことを言う。「私はもっと、世の中のことを知らなくては……」

 それで、内道場から仏典などを借り出してきて、夜な夜な燈台の灯芯に菜種油をたっぷり含ませ消費して、それらをモクモク読んでいる。

「お姉さんの巻物、素晴らしかったわ」姉と久しぶりで、満足のゆくまで心置きなく話せて、すっかり元気を取り戻した妹は、うるわしく黒々とした髪を女房たちに梳いてもらいながら、姉である少弁兼蔵人兼文章博士(もうこうなってしまえば彼女の役職もめちゃくちゃだ)を前にして、文机に乗せた『文選』など早々からうっちゃって、自分のしたい話だけをしている。「はじめに見たときから、もう、やられた! と……こんなことを正直に告白するようでは、負けをあっさり認めるようで悔しいけれど。私は、今まで出た中では一番に『長蔵物語』が良いとおもっているの。一番純粋でしょう。言いたいことと書きたいことのすべてが。絵も温かみがあって……でも、風のうわさで聞いたけれども、ずいぶん工房の人たちをいじめているんですってね」

「いじめてないよ」

「嘘! 私ちゃんと知ってるんだから。何んでも夜逃げに逃げ出した人が、一人、二人ではきかないくらいに……」

「………………」

「あら、禁句でしたか」

「まあまあ、まあね」

「どうして私にお手伝いさせてくれなかったのかと疑問なのよ。私のことはひとつも頭に上らなかった?……もしも事前に一言あったのなら」

「お互い敵同士なのに?」彼女は仏典をめくりながら、つまらなさそうに言う。

 妹はぱちぱちとまばたきをして、感電したねずみみたいに動かなくなった。口元は少し笑っている。

「敵なんて……」彼女は少し声に焦りを滲ませて、言った。「冷たい言い方。私たちはきょうだい同士でしょう。それがたまたま、今だけ偶然引き裂かれていると言うだけのことで……」

「そうだね」姉は本を閉じると、彼女の方に向き直った。「それじゃあ今日の分を済ませてしまおうか。試験も控えているらしいし、こうしておしゃべりするのは楽しいけれど、ただ怠けてだけいるわけにもいかない」

 それで、妹は楽しい会話をするのは止めて、勉強に集中するようになる。


 けれどそのような蜜月はすぐに儚く消えて、彼女はまたしても孤島の鬼のような孤独を舐めなければならない羽目に陥ってしまう。

 というのは彼女が懐妊したからで、安静を期するため、彼女はいま一度囚われの身の上に。

 彼女は仕方がないので寂しさを紛らわすために手紙を書く。しかし、返事はない。それで彼女は別の場所に手紙を書くようになる。すると今度は返信がある。彼女の腹のなかはどんどん重くなっていく。手紙を書く。返事がある。だから彼女は手紙を書き続けた。彼女の腹は次々と重くなっていく。

 彼女の冷たい姉とは違って、その手紙の送り主はやさしく、細やかな言葉を巧みに使って、彼女の心の襞をじょうずにあやしてくれた。彼女はその祝福めいた言葉の贈り物に返礼を送るように、また祝福の言葉を書き送る。季節に沿ったやわらかな紙の薄様、添えられた花々、ふくいくたる香の香り……

「……さて先日のお話の続きですが。

 あたらしい生命を御身体に宿らせるということは、今までとは感覚が全く変わってしまうのでしょうね。ですけれど、というよりも……だからこそ、以前よりの生活を続けることによって、心の安寧を保つという考え方は如何? あなたには今、なにか気晴らしになるようなことが必要だとおもうの。こんなことは、私が勝手におもっているだけのことだから、重く受け止めるようなことはしないでほしいのだけれど。

 あなたは、今こそ、ご自分のお好きな絵を描くべきではないですか?」

 彼女はそのような手紙の最後に書き送られた、一首の歌を見ている。


千は塵 闇夜に見ゆる薄ぼらけ

  誰が為祈る 夕月夜には


 しんしんしんと腹部の辺りが痛みだすのが分かる。それは普段においてはじゃまものであり、気分のむかつくものでしかない。

 それにもかかわらず、このような快楽を伴った痛みというのはどういうことなのか?……

「それでは、僕があなたの絵を描くというのは?」

 そしてしかしそれを受けて彼は言った。

「そんなに絵を描きたいのならば、僕があなたの絵を描いてあげるから。余計なことをするのはお止めなさい。もうあなたは、自分ひとりの身体ではないんだよ? この結果次第で、あなたはこれまでのあなたとは全く違ってしまうことになる。責任のある……この国を頂きから見下ろす、人々のための……そのような高貴な身柄において、絵などとは。理解ができない。理解したくもないよ。だってあなたはそんなことを考えるような女の子じゃないはずだ。そんなことを考えるなんて、どうかしているよ」

 彼の人は出来得る限りの配慮を込めて彼女に意見し、それから彼女の花車な肩をぐっと力を込めて握りしめた。

「あなたは物の怪に取り憑かれているんだよ」

 うら若い青年は、彼女に向かってそう言った。「そうでなければこのような業病……めいたことは……できるはずがない。もはやあなたはそれをすると人間ではなくなってしまっているんだもの。そうじゃない?」

 そして彼は宣言通り、彼女の肖像画を描いてくれた。それを見た人は、誰もがうつくしいと、その紙に描かれた彼女の姿がうつくしいと言った。

 その紙に描かれた絵は、意外にも内外で評判をとった。それはそうだろう、通常ならば一生に一度も見ることの許されない、ただ一人の男のみが眺めることの出来る女の人。この世でもっともうつくしいとされる人。そのような、神様みたいな人を、この肉眼で拝める日が来るなんて! しかしその絵そのものが下々の目にまで行き届くような不用意はさすがに起こらない。絵は内蔵寮において厳重に保管されることになり、人の目には触れないようになった。時々係の者がこっそり取り出して、その観覧を所望した公達たちにこっそりと見せる以外には。

 しかし、そのような茶濁しで我らが妹君が納得できるはずもない。彼女は憤懣に任せて筆を執る。返信がある。さすがに文を書くことばかりは、彼の人も彼女を咎め立てることはできない。彼女は悔し涙を流しながら、多少乱れた字で手紙を書き、読み直し、しかしそのようなへろへろな字を書く無作法な女だとはおもわれたくなかったので、今度はきちっとした字で、再び同じ内容を書き直す。返信がある。彼女はその手紙を茵の下に敷いてねむる。あの人が夢の中に出てくるようなことでもあれば……ああ、夢で逢えたら!

「……私はこうして自身のことばかりを口にしているが、それだって傲慢なことです。このようなつまらない、くだらない話を話して聞かせるために、私はあなたとお友達付き合いをはじめたのではないのですから。

 あなたの話をしてください。あなたの好きなこと、嫌いなこと、最近の出来事、これから先のこと……何でも構わないの。あなたのことだったら何だっていいから知りたい。どうでもいい、人が聞いたらさまつだと放り捨ててしまうようなこと……朝起きてから、何をするか? 杜若をみてどんなことをおもうか、花菖蒲とどっちが好き? 夏と冬ではどちらのほうが過ごしやすいか……ああ、一度でいいからあなたと、気が飽きるまで夜通しでもいい、お話がしたい! それでもこのような人の世ともおもわれない、夢物語のようなことを口にしてみても栓のないことでしょう、私のような不自由な女が、どうしてあなたの元へ今すぐに行ける? 羽でも生えていない限り……私に蝶のような翅があれば! いますぐにあなたのもとへ飛んでいって、手をつないで、いつまでも楽しいお話をしていることが出来るというのに……」


夢見より 月満ちる宵ただ果てる

  山の松の枝君待ち望む


 その返信。

「一体、私のどういった場所を、あなたのような高貴な人におひろめできるというのでしょう? 私はとてもちっぽけな、つまらないものです。お勤めもまんぞくに行い得ず、こうして日がな一日、何をするということでもない、仏門に入って一から御仏のまえでお祈りに一生を捧げるには、わたしの身体はすでに汚れ果てています。そのような……仏門に入るという清潔な状態にも与せない、よごれはてた生き物もこのように存在しているということ……その程度の、うすよごれたようなことのみしか、私にはお話する内容がない……このような話をされて、さぞがっかりしたでしょう? このようなつまらないものに掛かりきりになって、時間を浪費したとね。どうかそうなる前に、私から心を引いてくださいませ。私はあなたのような尊い御方に心を砕いていただくほど、大切に扶育されたものではありませんの。どうか永遠にさようなら! もう二度とお手紙いたしません」

 しかしそのような決定的な絶縁状を叩きつけられたというのに、この勇敢な(?)女性はそのような冷たい態度にもへこたれず、それどころか彼女の間違いを訂正し始める。

「永遠にさようなら? そのようなことは二度とおっしゃらないで。このようなもどかしいこと、本当はしたくないんだけど。

 手紙というものはじれったいものですね。言いたいことの半分も伝わらない。でもこれだけは分かってください。あなたはどうかしてしまっているのです。あなたのような聡明で、やさしく、うつくしいひとが、つまらなく汚れ果てているなんて……私、正直、読んでいて笑ってしまった。だってそんなはずがないじゃないの? それは私が、一番良く分かっていることです。あなたは、私などに何が分かるものかとおもうかもしれないけど……でも、分かるものは分かる。

私は、もうこれは自信を持っていえるの。あなたのことを本当に分かっているのは私だけということ。さっき私は、手紙では言いたいことの半分も伝わらないと言ったけど……でもそれと同時に、手紙では、対面ではどうしても恥ずかしくていえないでいること、普段心の裡に隠しているようなこと、みんな書き出してしまえる。そういうふうにもおもえるんです。

現に私が、ここに書き記しているような生臭い感情を、実際にあなたをめのまえにして、吐露できるのかと訊かれたら、それは疑問です。手紙ではわからないこともある、しかし手紙でしか分かりあえないこともある……私はそう信じているの。だからあなたもそう信じてほしい。あなたは決して汚れてなどはいず、私などよりももっと尊く、得難く、そしてうつくしいものです。私のようなものに太鼓判を押されたところでどうなるものでもない……でも、私には絶対にそれが分かっているの。御仏などが、なぜあなたの価値を決められるというの? そのような、他人が勝手に決めてしまった価値観を基軸にして、ご自身のことを卑下するような不健康なまねは止して。私はあなたのことを、この世でもっともうつくしく、気高いものとして知っている……それだけでは、あなたのうつくしさを証明する手立てにはなりませんか?」

 彼女はちくちくした痛みのなかで、じっとその返信を待った。果たして、返信は来た! 文には姥桜の香るような、苦味を含んだあまい香り。

 文には歌が一首。薄墨枯れた、いまにも煙になって消えていってしまいそうなはかなくあえかな手蹟。


通ずるに個は孤と聞く山の音は

  眠る丑三つ 明ける白妙


 手紙には最後に、こう一言。

「ああ、今すぐにでもあなたに会いたい!」

 しかし彼女はただその手紙を抱きしめて眠るしかなく、文から香る香が彼女の身体に移って染み込むのを待つしかない。ここには私しかいない。でもここには私以外の……そしてそれはとても良いものだ。


****


 それにしても、きちんと”正しく”男女を産み分けることの、何と大変なことか!

 この時代においての出産という行為はそれそのものが命がけだ。現代のように医療体制が発達しているわけでもなく、当時の人々の意識も、産婦の身体のことを第一に考えているとは言い難い。第一優先にされるのは母体よりもその腹からあたらしく生まれるまあたらしい生命の方だ。その新しい生命には役割がある、メリットがある、価値がある。それは、イエというこの世で最も尊ばれるはずの、価値を置かれるに相応しいものの、存続と更新を手助けする唯一のアイテムなのだ。そのように、絶対に必要で、かつ希少性の高いものと、「役目を終えた」もう一つのものが天秤にかけられて、自然な重さを持つのはどちらか、というのは、深く考えてみずとも分かることだろう……

 というわけで、その儀式は子の刻あたりから行われた。すでに彼女は里に下がっていたから、お産は新築したばかりのぴかぴかした、清々しい檜の香り漂う讃岐邸新館で行われた。

 お産のために局全体が白を基調した調度で揃えられ、寝殿には神聖なるかおりが漂い始める。外は真っ暗、中は真っ白、それがお産の正しい風景で、そしてそこに読経坊主と陰陽師、それにおなじみ憑坐童などが勢揃いし、そこへ世話焼き女房やらなんやらがどやどやと入り込み、部屋の中は人いきれですさまじい熱気。そこへ坊主たちの加持祈祷の声、魔を払うとかいう弦打ちのビイーン、ビシーッという音がまじり、産褥のうちにある彼女のウンウン唸る声などはかき消されてしまってほとんど誰にも聞こえない。そのような余計なことをしていないで、もう少し母体を安静に取り扱うために人力を尽くしたら良いのでは? そうすればお産のうちに力尽きて亡くなってしまうなどという痛ましい目に遭う宮様の数も減ったかもしれないのに……などと、私どもはついおもってしまう、が、しかし当人たちにとってみればこういったことこそが一番やらなければならないことであり、違う文化圏から眺めたときに奇異に映るものも、その文化圏内のものからすれば、「確かに無意味なことなのかもしれないが、しかし決まり事である以上は、それをしないではいられない」というものには違いない。そして、「いや、意味がない、理屈が通らないって分かっているんだけどね」とおもいつつ、やらなくてはならないこと、そうなってしまっていることなどは、現代においても数え切れないほど挙げられるのではないか?「医療体制も万全ではない時代に、母体そっちのけで読経調伏に明け暮れて、それで産褥で母体が瀕死の目に遭ってもやはり、他のものできるのはお祈りと物の怪を払うことだけなのか?」などと、別の時代に生きるものたちを一段下のものとして見下ろすことの出来るような文明社会に生きているとはいえない私どもの生くる現代においての「出産」についても、まだまだその蛮人性が散見されるのは確かだろう。そしてその文化圏で認められている蛮人性を、また別の文化圏の人々が眺める時……その視線の先に移る私どもの姿とは、どういった形でその眼前に現れるのだろう? 約千年前にはこうしてみじめな扱いを受ける母体が千年の時を経て、医療体制がさて整ったところで、大切にされているか否か?

 千年経とうが経つまいが、女の体というものはあまり大切にされず、ただまわりのものたちはその体の中から男か、女か、どちらが出てくることだけを考えている。

 今回のこの出産においての正しい産み分けは、男だ。男が彼女の腹の中から出てくるのが一番望ましい。なぜなら彼女は”宮腹”だからだ。将来において万乗の君となる可能性を秘めた性というのは男においてである。女が生まれたとしてもそれは内親王として、深層のお姫様として一生を過ごすか、降嫁させてあげるかくらいしかできない。しかし彼女が摂関家の娘あれば別だ。その場合は、産むとすれば女のほうが望ましい。女を産んだほうが正しい。なぜならその育てた女を万君にへと献上することのできる可能性にめぐまれるから。

 そして彼女が必死の格闘の末に産んだのは男児だった。これを奇跡としなくて何んとする?

 生まれ出でた新たな生は大切に扶育された。

 竹取の老人は泣いて喜び庭駆け回り、さっそく金峰山へ御礼参りに出掛けていた。そして、まだ茵の上で寝付いている彼女の汗の滲んだ額に冷たい感触。薄っすらとまぶたを上げると、そこには穏やかな顔をした、うつくしい女が、男着のままで彼女を見ていた。額の汗を、つめたい布で拭ってくれている。彼女は少し笑った。するとそれにつれて、同じような顔をした姉も笑った。

「今度のことは本当におめでとう」

 姉は鈴の鳴るような、しかしその裡に静かな落ち着きを秘めた声で言った。

 彼女はそう言われて嬉しかった。自身の体の不調、それは自身にとってはじゃまもの以外の何物でもなかったけど、それでも姉の感謝の対象になりえるものでは在り得たのだとおもって。でも姉はその後で嫌なこと言って妹のことを益々に病みつかせる。 「これであなたも、もう立派な一人のお母さんだな」

 ゲーと彼女はその場に胃の中にあったものを吐き出した。周りのものがそれを介抱する中、姉ははたはたと優雅に扇で自身を扇ぎながら、不思議そうな顔をしていた。

 朦朧とする意識の中から視線を起こして、彼女は何かを求めるように頭を動かした。

 私には誰かの何かが必要だ。そしてその誰かというのも、何かというのも知っている。そういう気がする。しかしその、彼女が求めているものというのは”間違ったもの”だ。だから正しく私には起こらない。そういうことなのか? 彼女は自身の姉のことを、靄のかかったような明瞭としない視界の中で見ている。彼女はそこに居た。そして彼女は、確実に、その姿を見ていたのだ。

 体の中からじわじわと加熱されていくような、虫の好かない季節だ。髪などろくすっぽ洗えないから頭の中はカユくなるし、重苦しい着物など全部脱ぎ捨てて、生まれた時のままの姿で、冷たい氷などを飽きるまで浴びていたいような、嫌な季節だ。ただでさえ不快なのに。これ以上、体も、腹の中も、全部不快にさせて、一体私というのはどうしてしまったんだろう。しかし、そのような季節においても吾が姉は、憎らしくなるほどうつくしい。まるで季節など、体など、精神など、まったく何も問題ではないような顔をして、じっと何かに浸っているかのように、静かに、おとなしくしている……妹はそういう姉の横顔を見ている。そして姉は、深い同情を込めた声で言った。「可愛そうに」

 一陣の風が吹いた。それはとても心地良いものだった。妹は目を瞑った。このまま目を覚まさないでいられたら、どんなにいいかとおもった。


****


 さてしかし、他人にはそうやって良く映る姉も、その体の中をすべて清廉に保っていたというわけでもない。

「宮中のお仕事をしてみてどうでした?」

「はあ」彼女はあいまいに頷いた。

「たいくつだったでしょ?」

「……………」

「あなたを眺めていると」

 帝は御簾の向こうで、猫が気持ちの良い場所を撫ぜられている時のような面持ちで、目を細められた。「気が清々します。まるで朝の冷たい空気の中で、張り詰めながらも体の端から解けていくような」

「……はあ」

「昼の明かりや夜の灯りのなかで見つめ安心する類のものとは違いますね。もっと、なにか……多数のものを容易に寄せ付けない冷たさがある」

「……………」

「あなたはいい人だ」

 彼は言った。

「また、是非お話を聞かせてください」

 さてそのように『先生のお気に入り』となった彼女はそういった職権を濫用(?)して、自身のしたいことをし仕放題していて、そのせいでと言うべきか、周りの目はもちろん彼女の動向を常に窺って彼女を影で色々と噂するものは跡を絶たなかったが、それとは反対に彼女に面と向かって忠告してくれる有り難い御仁も居た。

「君はもう少し退屈に慣れなければいけませんね」

 有り難い御仁こと頭の弁は言った。

 彼は彼女の直属の上司に当たる人で、それ故に言葉や意見を交わすことも多かった。

「退屈」

 彼女は静かな調子で、上司の言葉をそっくりそのまま口から吐き出した。

 まだまだ真夏の暑い盛りだ。太陽はぎらぎらと照りつけ、庭木の大きなやつには大量の蝉が張り付き、日がな一日みんみんみんみんやっている。

 彼女は蔵人所の一室で漢訳の経典を読んでいた。校書殿の西廂は熱くも寒くもなかったが、時々風が吹き抜けると、居心地の良い場所になった。そこにさやさやとした空気を纏わりつけて現れたのがくだんの頭の弁だ。

 彼ははたはたと扇を扇いでなまぬるい空気をかき混ぜながら、彼女の隣りに座って盂蘭盆会当日についての諸事項について話した。そして話し終わると世間話に、彼女の繙いていた本について尋ねた。彼女がそれについてまたべらべらとまくし立てていると、頭の弁は初めのうちはフンフンと相槌を打って聞いていたが、彼女が手振り身振りを交えての法華経講義に入ろうとするところで片膝を立て、ウンウンという相槌が段々とお座なりになり、膝に肘を置いて閉じた扇で後頭部あたりを掻き、彼女の言葉の速度が早まり勢いが増していくにつれ、扇でぺんぺんと膝を叩き出し、そして、言うのだった。

「あー。一つ聞きたいのだが」

「はい、何でしょう」

「君は、どうして、そういうことに熱心になっているのかね」

「そういうこと?」

「だからつまりね、」ぺん、と扇で床を一度叩き、「以前は白楽天にイカれていただろう。それは分かる。しかしその次は絵巻制作、そして仏典と来た」

「ええ、よくご存知で」彼女ははにかんだように微笑んだ。はにかまれたほうの頭の弁はちょっと顔を赤くして、視線を下げた。「いやつまり。だからね」「はい」「あなたねえ」

 彼は言った。「一体何が目的なのよ。なぜそうも、いつだって色々なことに掛かりきりになっているの」

「はあ」彼女は、おもわぬことを訊かれた、というかのように目を丸くした。「目的ですか」

「だってそうでしょう。ただでさえ蔵人なんて名前だけは良いみたいだけど、雑用係もいいところ。あ、これここだけの話ね。僕などは夜中から日中まで走り回って、とてもじゃないけど他のことに気を回す余力などない。それにもかかわらずだね」「僕はあなたほど忙しくはありませんから」彼女は穏やかに言った。「いや、そういう問題ではなく。業務以外に注げる体力がこっちは無いというだけの話で、そうではなくて」「好きでやっているんです。道楽のようなものです」

「道楽って、君ね」頭の弁は呆れたように、「……その、何だろうな」頭を掻き、「まあ、いいんだけどさ」顔を上げる。

「道楽ね。道楽といえば大分聞こえは良いようですが」

「はい」

「仮にあなたはそう考えていたとしても、周りはなかなかそうは捉えてくれないというかね」

「はあ」

「老婆心ながら申し上げるんだけれどね」

 彼は片眉を上げて、彼女の様子を窺うように見た。彼女は表情を崩さない。それを好機と捉えて、彼は付け加えるように言った。「怒っちゃ嫌だよ。僕だって憎くて言うのじゃない。同僚である君が、のちのちひどい目に遭わないようにと、忠告……いや、ちょっとばかしお話したいことがあるというかね」

「分かっています」

 彼女は彼の方を向いて正座をしたまま、相手にごく深い信頼を寄せているかのような声で言った。「中弁の君が、私のことを貶める目的で何かを図るはずがありません」

「いやー、その」頭の弁は多少へどもどし、「そんなにまっすぐな信頼を寄せられても、面映いようなところはあるんだけれどもね」とかなんとか言い、幾分脂下がってしまったことを自覚したのか、エヘンと短く咳払いをして居住まいを正し、「そうやって様々なことに首を突っ込んで、ああでもないこうでもないと色々な人とやりあっているだろう」と改まった様子で言葉を続けた。

「はあ」あいまいに頷く。

「ああいうのは、よくないね」

「はあ、そうですか」

「なにか野心があるのではないかと捉えられてしまう場合もある。そうなれば、痛くもない腹を探られて、嫌な目に遭うのは結局あなた自身でしょう」

「……………」

「例えばの話、あなたが政界の中心部に属していないのであれば、特に用心するようなこともない。現に、ひなびた宇治の屋敷でブツブツ言っても独り言で済ませられる人もいる。しかしあなたはそうじゃない」

「うーん」

「それにあなたはいつだって、誰かから意見を問われれば、誰彼構わず滔々と意見を述べてしまう」

「いけないのでしょうか」

「いやいや、決していけなくはないんだけれどもね」ぺちぺちと扇で膝を叩く。「真っ当すぎる。正論すぎるんだよ。ちょっと気が利いた奴ならそれにも応じることが出来るだろうけど、大抵はそうじゃない。それに、ある種の正論というのは吐かれた方に嫌悪感を生じさせることもある。特に、なにごとも穏便に済ませたがるお歴々にしてみればね」

「しかし僕は……」そこで彼女は言葉を取って、「違う考えを持った者同士でも、話し合うということはとても大切な……」「そう、それがいけないのだよ君」ビシ、と彼はその言葉を指摘して、「議論なんかする必要ないんだよ。自分のほんとうの意見なんかも、本来ならば出来得る限りは隠したほうが良い。こんなの常識だよ? 本心を知られて得になることなんて何にも有りはしないんだ。それどころか、方方に作らなくても良い敵を作る羽目にもなりかねない。僕はね、聡いあなたが、どうしてこのような赤子でも分かりそうなことを分からないでいるのか、と、甚だ疑問なのだよ」「そんな……」「それにね。傍から聞いていると、あなたは議論そのものを楽しんでいるかのようにも見受けられますぞ」「……………」「甲の意見にみんなの考えがまとまろうとしているところに、もう検討し終わったとおもわれる乙案をまた引っ張り出してきて、終わりかけた会議を混ぜっ返す。そういう現場を何度も見てきました」「それはどうも、すみません」「ただでさえ君は他とは違うのだから、わざわざその存在を特別せしむるために動くこともないでしょう。どうしてそういうことをするの?」「ですから、意見というものはそれぞれが持つもので、そしてそれらは一つ一つが精査されるべきものであり、であるからこそ私はそれぞれの意見をですね」「だからさ、そういうことはしないでもいいことなの。分かる?」彼はかんたんな足し算もまんぞくにできないようなこどもを叱るときのような口調で、「意見なんてもんはないの。通すべき事案があるだけ。それを僕と頭の中将でちょちょっと通りが良いように言葉の按配を考えるだけでいいんだから。だれもそんな……ねえ、特別な意見なんてもんは端から持っていないんだから」「……………」「もっとも、こんなことを言うのは君の気分を害するものでしか無いというのも分かるけれども」「いいえ、分かります。議論などは歓迎されていないということは……」「何だよ、分かってたの?」「まあ……」「それならばどうして会議のたびに混ぜっ返すようなことをするのよ」「それは……」彼女は顔を上げて、「やはり、良いものは良い。悪いものは悪い。それを皆で考えていくということが、会議ということの本来だと考えたためです」「そういう態度が」彼は噛んで含めるように言った。「周囲の反感を買うんだ。周囲の憤懣の原因になるんだ」

 彼は言った。「君はそうでなくても特別な人なんだ。あの宮姫の兄であり、普通の出世街道は通ってこなかった人だ。以前は益体もない職についていたから大したことがないとおもっていれば、蓋を開けてみればいつの間にかお主上の一番のお気に入りに収まっている。それに加えて漢籍や絵物語への造詣も深い。君と話していると実に楽しいよ。時間が経つのも忘れて、あなたの知識の豊富さに神経が掛かりきりになってしまう……」彼は半巻になっている御簾越しの、乾いた空気の流れる夏の庭を、夢見るようなぼんやりとした顔で見る。「君の様々なことへの関心の強さには舌を巻く。その向上心の強さには、僕のまわりのものもみんな烏帽子を脱いでいると言っていい、しかしそれは身内のみのこと。他の人が、そういった旺盛さを、別の旺盛さと捉えたとしても、何んら不思議なことはないだろう」

「ああ……なるほど」彼女は納得したように頷いた。「そうですね。分かります」

「言いたくないんですよ、僕だって。このような……お小言のようなことは」

「分かります」

「どこで誰が誰の話に聞き耳を立てているかなんてことは分からないんだから。この話だって……本当はもう少し声を落とさないといけないんだけど」頭の弁は嘆息を漏らす。「君はあやういんだ。そして僕は、あなたのそういう身の上が、心配でたまらないんだよ」

「どうも、ご心配をおかけして」

「君は……その」多少言いよどむ。「事務仕事もよくやってくれているし、気配りも細やかだ。側に置いておいて、害になるということもない」「はあ」「とにかく、そういう君がだね。あらぬ噂を立てられて、影であることないことヒソヒソコソコソやられている、この如何ともし難い現状に、僕などは、もう、我慢がならないのだよ」「恐れ入ります」「あなたねえ」頭の弁は呆れて、「ご自分のことでしょ。もう少し自覚というものをお持ちなさいよ」「でも」しかし言われた方の彼女も口を閉ざすことなく、「僕はただ……するべきことと、したいことの両方をどうにか工面しながらやっているというだけで。それ以上のことは……」「君はもう少し、つまらないものに耐えることを覚えなきゃ」

 頭の弁は言った。

「好奇心はいずれ身を滅ぼしますよ。出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい、能ある鷹は爪を隠す、なにごとにつけても、目立たず、騒がず、いつも静かに笑っている……そのようなデクノボー精神が、何よりも大切になってくるのです」

「ご忠告、痛み入ります」

「僕の言うことなんて、テキトーに聞き流しとけとかおもってるんでしょ」

「いいえ、それは違います」彼女は言って、彼のことをじっと見つめた。「ほかならぬあなたのおっしゃることだもの。胸に刻んで、お守り代わりに大切に留めておきます」

「……………」

 頭の弁は居心地が悪そうに膝のあたりをそわそわさせると、首元に指を入れ、直衣のなかに風を入れた。「……まあ、僕が言いたいのはそれだけなので。これはごく個人的な意見なので、この後は忘れていただいても構いません」「それはどうも、ご親切に……」「君は……」

 彼はくるしそうに彼女を見つめた。「君という人は、どうしてそうなんだろう」「そう……」「そう、というか。なんというか」

 頭の弁は後ろ首を手のひらで撫でるようにしながら、少しうつむいて言葉を探している。「君と話しているといつもそうだ。今まではどうとも、何ともおもっていなかったのに。君と話しているときだけそうなる。自分がごくつまらなく、野蛮で、卑怯で臆病な、ねずみ以下の生き物だとおもいしらされるというか……」

「何ですか、それは」

「ごめん。そうだよね。忘れて」

「いいえ、忘れません」

「ああ、忘れてよ」頭の弁は恥ずかしそうに笑って、立ち上がる。「違うんだよ。何だろう」立ち尽くした彼の足元を、彼女は見ている。「君はどんなことにも興味を持つ。他の人が、どうだっていいじゃないかと捨て置くこと、価値を置かないもの、置くもの、何だって興味を示して……その賢い頭で何でも噛み砕いてしまう。そしてその賢い頭で、僕達などといった慣例に従うだけのお役人連中のことなど見下しているんだ。いや、違う、見下すなんて……僕は君のことが怖いんだ。もっときちんというと、君に軽蔑されることが……ああこんな下らないこと、口に出すはずじゃなかったのに」

 彼はちょっと何かを諦めるかのように笑ってから、こう言った。「君は、もう分かっているんだろう?」

「は。何を」

「………………」

 彼は口元に不明瞭な笑みを浮かべたまま、明後日の方向に視線を飛ばし、それからちょっと小首をかしげ、彼女に言って机上にあった墨をちょいと拝借し、手持ちの夏扇にさらさらと歌を書いた。ぱたぱたとそれを扇ぐと、馥郁とした、丁香に似た香が舞った。

 差し出された扇を彼女は受け取った。それを開く前に、彼は彼女の手を握って、彼女がまだ何も言わないでいるうちに、今日のことは全部忘れてくれ、明日からはいつもどおりに、私と楽しくお話をしよう、いつもどおりだよと言って局を出ていった。

 彼女は丁香の香りがするその夏扇を、ぱた、ぱた、ぱたと少しずつ開いていった。


月の宮 帰る足音往く足音

  甲斐なき人々 会する人や


次の日、その人からまた短い手紙が届いた。添えられた一輪の花は河原撫子。


六条の 風舞う花々山越えて

  見ずも知らずも 今日の浅水


「それにしても、なんでブッキョーなんか」

 ヒグラシの鳴き声が聞こえる。庭先から伸びる陽光は、次第に赤みを帯び、部屋の中をぼんやりと染めはじめる。彼女は手紙をくれた男のことをおもいだしている。

「御仏にお縋りするというような歳でもないじゃない」

「世は末法ですよ」

 彼女は言った。「来たるべき日のために、ただ日頃から準備をしておくというだけのことです」

「死んだあとのことなど考えるのはお止しなさい」彼は言った。「蓮の上に生まれ変わるために、ひたすら念仏を唱えてそれのみを頼りにするなどということは……」

「僕は、良く死にたいからという理由で仏の道を知りたいというわけではありません」

「末法、末法とはいいますがね」頭の弁は言った。「確かに仏様の教えからはだいぶ月日が経ってしまったのかもしれない。しかし世の中を見てくださいよ。相も変わらず平らかであるし、豊かで穏やかだ。このような上天気の日に……このように曹司に籠もって、抹香臭い仏典などを開いて眺めているなどいかにも不釣り合いで不健康だ。そうじゃありませんか?」

 澄ました顔で言う頭の弁に、女は頷いて答えた。「まあ、そうかもしれません」「そうでしょう? この世にはもっと楽しいことがたくさんあるのに」

 彼は言った。

「それらを無視してまで掛かりきりになるようなことが、その他にありますか? 死んだ後のことに考えをめぐらすなどといった意味のないことにかかずらうなど、あなたのような人には似合わない」

「……………」

 彼女はぱたんと経典を閉じた。

 そして、来たるべき日というのが来る。


****


 法華八講では四日に分けて朝と夕一日に二回、少しずつ法華経全八巻を読んでいく。

 講師はその講座によって代わる。説教の程度によっては、人気の講師、不人気の講師も出てくる。今回の講座を担当したその講師は、僧位もそれほどでない、ただの読経坊主だったには違いない。しかし、なかなか愉快な説教をするとして、一部では評判を取っているらしかった。

 そして、その評判を受けて、この屋敷でもくだんの彼の登壇と相成ったわけだった。主催者は時の左大臣、場所は彼の住まう二条の屋敷。

 彼の登壇はその最終日、四日目の午前の法要であった。彼女はそこで彼と再会した。

 最終日はその法要のいちばん重要な人物に対する供養の日であるから(この日の場合は亡き女院のために催された)、あだなおろそかな人物が講師や読師として登壇するわけもない、ので、それ相応の実績や評価はあるのだろう、彼の懐かしい声はよく通り、きびきびとして清々しかった。聞いていて心地の良い声、ずっとそのまま、いつまでもその声色の中でぼんやりとまどろんでいたいような……

 相変わらず蝉の声は喧しいが、まだまだ夏の朝特有の照り緩むような日差しの中で、時々吹き付ける涼やかな風が心地良い。彼女は目を瞑った。部屋の中には大勢の公達連がその姿を連ね、廂は女房連の色鮮やかな夏着で埋め尽くされ、華やか極まりない。

 そのような人々が屋敷の一室に入り込んだその隙間のなさ、詰め込みの密度というものは凄まじく、人いきれで苦しくなってしまうほど。幸い彼女はそのような脂粉ふんぷん、様々な香のかおりがいりまじった女くさい場所からは離れて、簀子縁の近くに控えて、読師坊主の読む法華経に耳を傾けていた。

「眠くなってしまった?」

 目を瞑ったままで居ると、隣に座っていた同僚がささやくように彼女に尋ねた。

「いいえ」彼女はまぶたを上げ、短く答えた。同僚は口元を夏扇で隠すと、そのまま声までも隠すように小さな声でひそひそと言った。「それにしても女房たちの今日のはりきりようというのはどういうんだろうね。このはりきりようでは、火取りの香炉からの床しい荷葉の香りもすっかり醒めてしまうというもの。全く、近頃の若い女というのは、男のことしか考えられないものなのかしら」

「男ですか?」彼女は尋ねた。

「なんでも、ほら」同僚が顎をしゃくる。「物の本にもありますね。『説教の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ』……とかなんとか」

「ああ、なるほど」

「随分噂になっているみたいですよ。説教もうまくて。あちこちからお声がかかっているらしい。どんなもんですかね。ここはお手並み拝見と行きましょうよ」

 で、彼女はまた黙り込んで、お手並み拝見と洒落込むことにする。

 さて、その説教である。

 たとえばの話、話のうまい校長先生などというのは想像しにくいだろう。校長先生の”講座”を聞くのは往々にしてまだまだ未成熟の子どもたちが多いから、退屈するのは当然なのだ、という向きもあるかもしれない。しかしだからといって大人が聞けばおもしろいということでもないだろう。大勢の聴衆をまえにして、講説を打つ。多数の耳目がたったひとりに集中し、その人のみの一挙手一投足に集中する……などということは、元々が行われづらいものなのだ。

 で、翻って考えてみると、法華八講を打つ講師というのはどのようなものか。

 登壇者というものは否が応でも注目される。注目されるために、他者とは一段違うところに立っている。そして、他者と隔絶されているということは、ほんのその時ばかりでも、彼は他の者とはまったく違うものになる。つまりどうしても無思想ではいられなくなるのだ。

 他者と隔絶される、それはひとつの孤独かもしれないが、ひとつの自立でもある。登壇者は聴講者とは違い、発言を許される。その発言は、発言者のそれぞれによって、三者三様の体を成すはずだ。聴講者は登壇者の発言を聞くために、彼の登壇を望んでいる、というより、許している。であるからこそ登壇者は無口ではいられない、そして、登壇したからには、発言したい何かを、かならず持っているはずなのだ。

 そのように望み、望まれて登壇したはずの発言者の発言が、なぜか聴講者の耳に届かないことがある。これは両者の利害の一致が測られなかったためで、なぜこのようなことが起こるかというと、それはやっぱりお互いがお互いを望まないために起こるのだ。

 校長先生は、別に生徒に講話を聞いてもらわなくても構わない。もちろんそうおもっていない校長先生もいらっしゃるでしょうが、とにかく「校長先生のお話」というのは、彼の職務の一部ではある。職務の一部であるからそれは全うされなければならないが、全うされてしまえば、その内容に対してとやかくされることはない。生徒が聞いていようが、いまいが、その内容に感銘を受けようが受けまいが、職務が遂行されたということには変わりないからだ。

 もちろんのこと、百人の生徒が退屈した内容でも、一人の生徒がその内容に感銘を受けて、「校長先生はいい話をする人だ」と内心感心しているばあいもあるかもしれない。が、大人でも子供でも、興味のない内容を話している登壇者というものは、往々にして退屈なものだ。

 で、あるからして、法華経を読む講座、というのも、登壇者次第で面白くも詰まらなくもなる。この場合の面白い講座というのは、話の面白いことで有名な名物校長先生のようなものだ……としても良いが、他に当てはまるものがあるとしたら、それは”スター”なのだった。

 たとえばあなたの好きなアーティストがいるとする。その人が、リサイタルでも、ライブでも、とにかくなまの演奏をする、と。このような場合に、登壇者に対する聴講者の興味の大小、望みの大小とはいかばかりか?

 聴講者は登壇者の言葉を、一言も聞き逃すまいと耳を凝らす。その一挙手一投足に視線を飛ばし、その指先の流れの意味を、マイクを持つ手の意味を、その伸びた小指の意味を、ふともらした笑顔の意味を、いちいち記憶し理由づけして、それによって登壇者のすべてを見聞きしたいと望む……

 立派な、すべての人がむちゅうになるような、気づいたら法要が終わっていて、茫然自失となってしまうような講座をする法師というのが、この類の登壇者である、と考えてみるのはどうか。

 彼の言葉は、まるで音楽のようだ。言葉のえらび方に説得力があり、切れがある。余計な修辞は使ったりしない。誰にでも彼の話している内容の意味が取りやすく、またその一つひとつの言葉が確かな情熱によって彩られているというのがその口説からも分かるので、彼のことを知らない人でも、彼の話を聞いているうちに、ついその調子に取り込まれてしまって、じっと彼の話に耳を傾けることになる。たとえば、彼が経験談、たとえ話などを交えて故事を話す。すると、それまでざわざわとそこかしこで勝手に話をしていた人々が、段々と自分勝手の話をするのを止めてしまう。それは、周りの雰囲気に飲まれるとか、そういうことではなくて、そんなことをしている場合ではないと、自ずからが気づくためだ。

 たとえば、その日その座に居た藤式部丞という男は、昨日いっしょに遊んだ女のことについて、となりに座る左馬頭に話に話して聞かせていた。いやー昨日の女がまたものすごくてさ、かみさんに作ってもらったばっかの服着ていったんだよ、新しい服新調してもらえてうれしくてさ、それを見せたくて。でもさー、その女ときたら最中に、おれの服びりびりひっちゃぶいちゃったんだぜえ。ひどいとおもわない? そのくらいむちゅうになってくれたってことなら嬉しいけどさあ、でもそういうのって一過性のもんじゃん。後の祭りっていうか、そのびりびりになった新しい服を着て帰る俺の身にもなってよって話で。結局枝に引っ掛けて不注意で破っちゃったってことにしたけどさあ、でも、かみさんも気づいているだろうな、まあ、いいけど……などと、べらべらやっていたが、相手の左馬頭がなぜかそれに取り合わない。いつもだったら、こんな話にもへらへら笑って、ちょっと他の人とは話せないような尾籠な話も楽しく聞いてくれる気のいいやつなのに、と不思議がって相手を見ると、彼の目はまばたきをする時間ももったいないというように、一点のみに注がれているのだった。

 彼は奇妙におもって、左馬頭と同じ方向を向いた。それからしばらくじっとして、その話を聞いていた。

「……地獄には様々な形態があるといいますね。地獄の形態というものは、さまざまな描写で、そこへ入るかもしれないふとどきものの小心を、これでもかというほどに脅しつけてきます。

 さて、仏教の根本思想には、苦諦というものがある。諦とは真理のことです。そして苦諦とは読んで字の如く、この世は苦そのものであると。これを逃れるにはどうするか? 苦という状態を認めることだ。すべてはそこから始まり、われわれの土台が今ここへと築かれる。

 われわれは苦という土の上に根を下ろしている!

 普段の生活から享楽を約束された人には、この感覚は疑問でしょう。これほど楽しい世の中を、苦のみで結論づけようとしそこへ縛りつけようとするというのはなぜ? そのような、めぐまれないものの考え方を矯正され、それがまるで生き物すべての根本であるかのような言い方をされるのはがまんならない。そのような考え方もあるでしょう。

 しかし、どんな享楽者の身にも、絶望者の身にも、とても平等に、つまりわれわれの生というものには、どうしても苦というものがつきまといます。それは何故でしょう?」

 藤式部丞は、首をかしげた。

「それは、この世にあるすべてのものが、永遠ではいられないからです」

 登壇者は涼やかな声で言った。

「たとえば皆さんは、たまたまそこにあらわれ出でたうつくしいものを、いつまでも見ていたいと望んだことはありませんか?」

 ある、と藤式部丞は口の中で答えた。

「でもなぜかそれは叶えられない。何故でしょうか? 何故、と考えてみることからすべては始まります。そのようなことは、さまつなことであって、いちいち気にしているわけにもいかない。われわれには、もっと他に考えなくてはならないことがたくさんあるはずだ。だから、そんなくだらないことに思考を砕いているひまはない……と、いった考えも分かる。もちろん、そのような考えた方だって、可能です。決して間違っているわけではない。しかし、皆さん。ここにたった今座っている皆さんは、そのようなことを考え始めてしまいました。それでは、ここから僕たちは、どうしていけばいいのでしょう……」

 登壇者の話は続いた。

 藤式部丞はぼーっと口を開けて、それをずっと聞いていた。

 講座が退けて、ぞろぞろと帰り道につく集団のなかに紛れながら、彼は帰り支度をしている左馬頭の近くに寄っていって、尋ねた。「ちょっと、あれはどういうの? あんな説教する坊主いた?」「君も遅れているねえ」左馬頭は彼を見くびるかのように、ちょっと眉を動かしてみせた。「まさか知らないとはいわないでしょう。今、都中で評判を取っている人ですよ。僕なんか聞きながらおもわず武者震いをしてしまった」左馬頭は大仰なそぶりで、自身の両腕を抱いてみせた。「苦は苦であるというところから始めるというのはよかったなあ。それを前提としてしまえばすればなんとなく気が楽になるようなところがありますからね。苦痛を感じている今まさにその状態こそが生の通常の状態なのだから安心せいってかんじですかね」

 でも、それって法華経とどんな関係があるのですか? と藤式部丞が聞くこともない。ただ彼は、ははあなるほどと感心するばかりだ。「僕の昨日の女から受けたしうちも、やはり苦諦というやつなんでしょうかね?」「苦諦というやつですよ、それは」左馬頭は神妙に頷く。「ああ苦諦というやつだ。まったく女というものは苦の権化のようなものですね。いいですかあなた、女などとというものには、出来得る限り近づかないことですよ。近づくと噛みつきますよ」「まさかそんな」

 どこまでが冗談なのかよくわからない左馬頭の話を聞きながら、乗り付けてきた牛車に乗り込んだ後も、藤式部丞は考えていた。

 それにしても、どうして今までこのおれに、あのような話を誰もしてくれなかったのだろう? あのような話を知っていれば、昨夜のように野蛮な(?)女にひっかかることもなかったのに。

 わたしらというものは一体なんなのだ? 藤式部丞は牛車にゆられながら考えた。幸い、その思考に身を浸すのに適した時間はたっぷりあった。彼ら貴族にとって、時間というものは有限でありながらしかし、無限のようにして広がっている。実際のところ、官位従六位下相当に値する藤式部丞という男は、こうしたことを、生まれてからはじめて考えてみたといってよかった。彼のそれまでの生活というのには、どんな矛盾もなく、どんな疑問もなかった。ただ生まれた家の家格に従って、それ相当の役職につき、それ相当の仕事をし、それ相当の女を追っかけ……それらすべてに、彼は特に何か違和感を感じたということもなかったのだ。

 今日の八講だって、四日間丸々、熱心に通うつもりもなかった。ただ、お友だちに誘われて、もっともその誘ったお友だちはその日来ていなかったみたいだけど、とにかく別にすることもなくて暇だったので、のこのこと、出向いてきただけだった。誰か知り合いに会えばそれとおしゃべりするのでも良かったし、坊さんのありがたい説法でも聞きながら、のんびりうたた寝するのでも別にいいかな、という程度のきもちで、出掛けてきたのだ。それがこんなことになるなんて。やはり、人生というものは他人次第で、どう転がるかわからない。元々の彼は、そういう偶然の積み重ねの結果生じる諸々のこと丸ごとを引き受けて、人生を楽しんでいるようなところもあったので、人生そのものが苦であるなどといったことは、一度では飲み込みにくいことだった。しかしそう言われてみれば、思い当たる節はある。そう考えてみれば、あれも、これも、悲しいことばかりだった……

 かみさんはおれに着るものを作ってくれるけど、べつに取り立ててびじんというわけでもないし、良家の子女というわけでもない。昨日だって朝帰りをして腕を、後でみみずばれになるくらい引っかかれたし、ハナタレのがきどもは将来を期待できるような顔をしていないし、家刀自はまいにちあそこが痛いここが痛いといっておれを煩わせるし、役所での仕事はくそおもしろくもないし……

 あれ? おれはいままで、このような生活に、一体どんな快楽を見出していたのだろう?

 考え出してみれば、すべてが不思議だった。おれは今までの生活のどこにまんぞくを得て、このようなみじめな境遇に身を甘んじていたのか? それどころか、楽しいとさえ……

 女に服をだいなしにされたって、みみずばれができるくらい引っかかれたって、彼はへいきだった。それをかなしく辛いことだ、くるしいことだ、などとは考えなかった。それは甲斐性だ、男冥利だ、名誉だ、友人に話す話題ができて幸運だった、そう考え、昨日からのできごとを、楽しんでいた……

 しかしそれはすべて、苦の種に過ぎなかったのではないか。

 ガタガタと牛車が揺れた。道に埋まった石ころが、牛車を傾かせ、揺らした。

 むかしは、そういう振動が、味のあるものとして彼は好きだった。女の家から帰るあいだに、そういう揺れの中で詩情に暮れ、歌の一つもひねったこともあった。牛車の揺れとは、そういった詩情を呼び起こす、あまい陶酔を温めるものに他ならなかった。

 それなのに今は、ただその揺れが不快だった。なぜもっと平らな場所を選んで通らない? 彼は、牛車を引く年老いた牛飼い童(牛引きは年をとっても童と呼び称される)の怠惰をおもって舌打ちをした。主人のことを全然考えていない。雇い主のことを心から考えているものならば、もっと細やかに頭を働かせて、石の出ていない場所を選んで通るはずだ、ああなんておれは不幸なみのうえなのだろう。気の利いた雑色の一人も置くことができず、かみさんには引っかかれ、女にはつれなくされ、家に帰れば古びたばあさんが、「痛いよう痛いよう」と、しゃがれた魚臭い声で、どこまでも迫ってくる……

 ああ世の中というものはなんと苦で満ちていることか!

「写経するんだよ写経」帰りしなに、彼の同僚は言っていた。

「そしたら解説してもらうのとおんなじ功徳が得られるってさ」

 だから彼はその日から、写経を始めたそうだ。

で、話を彼が帰路につく前に戻すと、その坊主の説教が終わった後は、読師坊主によって法華経が読まれた。

 十数人の坊主たちの声が部屋にわんわんと響き、香炉から荷葉の香りが人いきれのするムンムンとした部屋の中にさわやかな夏の香りを振り撒く時、たくさんの人々がひしめきあった部屋で、坊主たちがのんのんのんのん読経していると、観衆は次第にそのグルーヴ感に酔って、軽いトランス状態に陥るようになる。経文を大勢で読み合わせるという行為には、そうした共同体での一体感、他者との混じり合い、他者とひとつのものを共有するという、得難さがある。

 ライブ会場に入る。ちいさなライヴハウス。繁華街の端っこ、狭い階段を降りていくと、そこには現世とはあきらかに隔絶した世界が現れる。そこでは現世など、もはや夢だ。それもとてもつまらない、断片的なくだらない夢だ。そのようなつまらないものをうっちゃって、本来であるならば生きてみたかった夢のような場所へ、多数の、多く感情を共有しているもの同士が、”登壇者”のパフォーマンスを堪能する……、法要とは、葬式仏教の末の、木魚の音と抹香臭さと親戚の子どものむずがりと足のしびれの苦痛ではない、それは、天にも昇るような快楽の一種なのだ。

 彼女は、そういうライブ会場のごく端っこで、壇上に立ったその男を見ていた。

 彼の声は通りやすく、とても澄んでいた。よく鍛錬された彼の声色には、どんな甘えも媚びも自己陶酔も無かった。

 登壇者はそれぞれにそれぞれであったから、それは様々な声色使いが居た。乾いて燻したような声のするもの、自分の甘い声に酔いしれて蓮っ葉な声を出すもの、ガサガサ、ボソボソして聞き取りにくい声を出すもの、様々だった。その中でも彼の声はどんなにおいも、含みも、気取りも気負いもなかった。必要以上に自分の声を飾り立てようとか、重厚さを演出しようとか、そういった小手先の声の出し方ではない。ただ彼の声は淡々としていた。淡々として、それで必要な場所に感情が込められていた。それは仏の言葉であり、そして彼の言葉だった。彼は仏の言葉を代弁しているに過ぎない。そしてそこには、どんな飾り立ても必要にはならない。彼はそれを知っていた。だからこそ、ああいう声を出せるのだ、と彼女はおもった。

 法要が終わった後、彼女は彼に声をかけた。

 彼は彼女のことを覚えていてくれた。


****


 さて、そのような念願の再会を果たした姉とは裏腹(?)に、またしてもその妹は、その身にみどりごを授かっていた。

 そういう彼女はとても不機嫌で、とてもゆううつだった。

 大好きな絵もまんぞくに描けず、お筆も紙もすべてむしり取られて、こんな時に力になってくれるのは親族ばかりだと、両親に手紙を書き送ったり、姉に手紙を書き送ったりもしてみるが、両親などというものは元々からしてあまり頼りにならないし、こっちが頼り切りにしている姉などは、なにやら他のことに掛かりきりになっているようでこちらもあまり役に立ちそうもない。彼女は姉からの素っ気ない手紙を見るたびに、爪をちくちく噛んで爪先を傷ませるので、それを咎め立てた彼女の良い人によって白い包帯を巻かれてしまい、おのれの爪に憂さを晴らすことさえも禁じられてしまう。

「こどもが出来たとなると、それまでなりをひそめていた怨霊、物の怪のたぐいが姿をのぞかせると言うね。でも大丈夫だよ。だってこの僕が居るのだから」

 彼は使命感と陶酔に満ちた声で彼女に言って、彼女も女らしく妻らしく、それにはにかむように答えて、その言葉をまるで最上のものとして受け取るしぐさをするはするが、しかしそのような意に反した行動をとっているうちに、彼女はどんどん元気がなくなっていく。

 そういう彼女が近ごろ頼みにしているのは、たったひとつのちいさな慰めだった。

 彼女は夢を見ていた。眠る時に見るそれである。そしてその夢は、あの人に会うという夢だ。

 夢というものが現代よりもより重く、現実感のあるものとして見られていた時代のことだ。その実感のある、しかし目を覚ましてしまったらそれは塵とはかなく消えてしまって見る影もない、そういうあいまいで、しかし不思議な輪郭をもったそれに、彼女はしばし酔った。彼女のことを夢見るために、彼女は目を瞑った。日中も御帳台の中でウトウトとまどろんで、少し暑さに汗をにじませた額をさらさらと夏の風に遊ばせながら、彼女の夢を見た。

 むかしから、彼女の見る夢といえば、それは決まって自身の姉の出てくる夢ばかりだった。彼女が見る夢といったらそればかりで、彼女もそれが当然だとおもっていたから特に不思議がることもなかったが、そのうちに別の声が、彼女のなまえを夢の中で呼ぶようになる。

 その人は夢の中で、遠くから彼女に手招きをしていた。彼女はそれに誘われて、彼女の元へ歩いていった。

 それにしても、こうして出歩くなんて! 一体何時ぶりなのか、こどもを腹の中に住まわせてから、彼女はほとんどその足でおもてを歩いたことなど無かった。

むかしはそんなこともなかったのに、むかしは、お姉さんと一緒にそこらじゅうを、何の不思議もなく歩き回って……

「何をしているの?」

 誰も聞いたことのないようなうつくしい声で、その声の主は彼女に呼びかけた。

「早く、こっちへ来て!」

 彼女は、足を早めた。いけない! とおもったからだった。あの人が私を待っている。わたしはあの人のことを待たせているんだ、それにもかかわらず……こうしてのろのろと、かめのように。わたしは非道なまねを。

 だから彼女は走った。走ろうとした、しかしその行為は彼女には難しいことだった。というよりも、高貴であるとされた女にとっては……

 女が走るということはどういうことか? それは人間ではなくなるということだ。そんなはずがない、しかし彼女は貴族のお姫様なのだ、貴族のお姫様が、どうしてその御御足をみずから使用して、走る、急ぐなどといった非貴族的な行為を働く必要がある?

 貴族の女が地べた、地面を歩くなどということはない。もしもそんなことが起こるとしても、そこには筵道といったものが、使用人の手によって敷かれるはずだ。その上を歩く。それ以外に、地面の上を歩くなど、まして、走るなどということは!

 彼女はすっかり貴族の女に慣れきっていたせいで、走るという行為がうまく行えず、その水っぽい足を絡ませて、その場に転倒した。彼女は体を強か地面に打ち付けて、ギュウと潰れたカエルみたいにその場にへばりついた。

 しばしの時間が流れた。彼女はムックリと顔だけを上げた。その視線の向こうにははるかなる地平線、そしてその先に、点のようにポツンと立ち尽くす何者かが見える。「何をしているの?」その点のようなものは再び彼女に尋ねた。

「はやく、こっちへ来てよ!」

 彼女は走った。走って、転んで、起き上がって、また走った。

 走る女というのは既にしておかしな存在だ。なぜなら走るという行為をするものは女ではないから。女ではなくなるから。それならば、女でなくなったものをどのような名前で呼びつければ良いのか? 走る女というのは鬼になるものだ。そういうことに、この世では決まっている。だからそうやって、好きな人のもとへ走る彼女という女は、その時それとは知らぬうちに、既に鬼になっていたのだ。

「斎宮様!」

 鬼になった彼女はその点だったものに飛びついた。たしかに彼女はそれをその身に抱きすくめた。「ずっと会いたかった。ずっと、こうして直接会って、楽しいおしゃべりを。私はそればかりを頼みに、今まで、こうして……あなたをあんな場所から取り去るために。私をあんな場所から取り去るために……それだけのために、私は」

 彼女は確かにその体を抱きしめたはずだった。だけど抱きしめすぎたせいかもしれなかった。その淡淡しい、不確かな生き物は、彼女の腕の中でぱちんと泡のように散消した。彼女はたくさんの泡になったそれを見上げた。めのまえで虹色を帯びたまるい泡が、いくつもいくつも彼方へと消えていく。


「どうしたの」

 このごろは御帳台のなかでとろとろと眠っているばかりだからと安心していたところに、まためそめそし始めているので、彼女の様子を見に来た春宮は尋ねた。彼女は首を振って、なかなか涙の理由を彼に教えなかったが、彼が熱心にそれを探ったために、とうとう、「絵が描きたい」と言った。

「またそれですか」

 ほうと彼はため息をつく。「姫のご病気が始まった。これは祈祷師を呼ぶしかないかな」

「……………」

「そんな目で見ないでくださいよ」

 彼は口の端をちょっと上げて笑った。「冗談です。僕がそんな、あなたの嫌がることを積極的にするはずないでしょう」

 彼は優しく言って、彼女の汗でぬれた丸い額をやさしく指で撫ぜる。

「よく考えてください」彼は言った。

「あなたをおもう私の心を。それに並び値するものが、一体あなたの中にどれほど眠っているというのか?」

「……………」

「ご自身のことを、今一度よく考えてみなさいよ。あなただけでいるだけで、充足できるものなど、端から有りはしない。そしてそれはあなただけではなく、僕にとってもそれは同じことなんです。つまり……分かるだろう? あなただけではだめで、僕だけでもだめだ。二人で一緒でなくては? あなたという一人の身のみにどんな価値がある? 僕だってそうだ。僕ばかりではどうしようもない。僕ばかりではただの……着飾って……富んだふりをしながら……あなたがいなければ私は無意味だ。そしてあなただって、ですから、だから、僕をそうやって拒んで、自分のしたいことばかりを突き通そうとするのはお止めなさい。さあこっちへ来て。いつまでそんならちもあかないことをしているの? 宇宙よりも孤独な僕。この僕こそが、同じように孤独なあなたのことを分かってあげられる。孤独を噛んだものだからこそ、その孤独をまた持つものの苦しみも分かるというもの。この苦しみを、ですから……あなたもまた同じ様に、理解することが出来るはず」

「……………」

 彼女は彼には気付かれないように、深く静かに息を吐きだした。うつむいていた彼女はそれから顔を上げた。

「ええ、それは、とてもよく分かりました」彼女は見るものの顔をおもわず緩ませてしまうような柔らかい笑みを作って、彼の言葉を肯定した。「あなたが私のことを大切にしてくださるというのは、海があることよりも山があることよりも確かなこと。それは今さら確認するまでもないことです。ですからお紙とお筆を持ってきて。私のことを一番に考えてくださるのなら」

 彼女は着々とふくらみ続けるお腹を抱えて、世話女房たちにそれを咎め立てられながらも、一日中机の前に座って書き物をしている。その集中力、気迫たるや、周りには容易に人が寄りつけないほど、新米女房などはその殺気立った様子に怯えて、食事の支度の云々すらも彼女に怖くて訊けないというような状況が二ヶ月ほど続き、その結果、彼女が久しぶりに手掛けた絵巻物は完成した。


 で、梨壺サロンではそのように新作の絵巻が出来上がったというので、清涼殿のサロンではそれにぜひとも対抗しなければならないとして、彼女、梨壺サロンでのお抱え画師たる東宮妃の姉君であるところの少弁の君は、パトロンであるお主上のせっつきによって、新作の絵巻物について目下構想中なのだった。

 しかし、正直言って彼女はその制作自体にあまり乗り気でなく、それよりもついに再会した意中の人との会話に興じたり、その会話によって生まれた疑問について考えを巡らせるのに忙しく、とてもじゃないけどなにか新しいものを創造するなどといったことには手が回らない。というよりも、最近になって彼女は、以前には当然のようにして抱いていた、創作というものについての考え方に、多少新たにおもうところがあったのだ。

 つまり、あれほど苦労して、実作者たちの時間や神経や才能をすりへらしてまで創造するものに、一体どんな価値があるというのか。

 一度考えだしたら隅々までその疑問について審査しなくては気が済まないらしい彼女は、その新しく生まれ出でた疑問の前に立ち尽くしたまま動けなくなってしまった。しかしパトロンであるお主上にとっては、そのような内情など知ったことではない。新しい作品が世に出なければ、彼は息子に負けを認めたことになる。そのようなことが許されるはずがない、今や既にしてサロン同士の絵合わせというのは仲間内、後宮内だけの問題ではない。宮中全体の問題なのだ……というのが帝のお言葉である。彼女は滾々と自身が創作物に関係したくない理由を縷々としたためた冊子とともに説明を試みたが、むだなことだった。彼の人の意向は変わらない。新しい巻物を作れとの一点張り。

「それはぜひ作るべきですよ」

 画所の画工は言った。

 木工寮には頭や助などといった役職についているものいたが、実務にあたっていたのはその下の名もない職人たちで、その職人たちを現在束ねているのが、今彼女の話し相手になっている職工だった。

「ですが、僕はほとほと愛想が尽きているのですよ。創作というそれ自体、そのものに」

「しかし、人々はあなたの作ったものを望んでいる」

「でもそれも、過去のことでしょう」彼女はゆううつそうに視線を揺らした。「人にはそれぞれ、受容量と供給量というものがある。僕のばあいは、完全にそれを両方とも超えてしまいました。もう言いたいことも表現したいものもなにもない。空っぽになってしまった蔵の中から、なにか宝物のようなものを見繕おうったって、これは無理な話で。そのようなちりあくたしか残っていないものの中から、むりやりなにかを引っ張り出したとしても、やはりその中身は空洞、張子の虎、見る価値もない空虚で下らないものが出来上がるだけです。そのようなものを、一体誰が見たいとおもう?」

「私は……見たいですよ」職人は言った。「限界から生まれるものというのもあるでしょう。何もないとおもっていたところから、ひょっくりと出てくるものもある。例えば蔵が空っぽだったとして、その板張りを剥がしてみたら、地下室があって、そこに仰山と宝の山が積み重なっているのかもしれませんよ。むしろ、そのように蔵を空っぽにしてからが、本番なのではないですか」

「あなた、それは、傲慢というものですよ」

 彼女はきっぱりと言った。「あなたは、人というものの価値を高く見積もりすぎですね。人というのもはもっと、儚く、つまらないものです。そのような、枯れ木も山の賑わいとして本来であれば捨て置くであろうものに、無理矢理に価値を付属させてみても、結局つまらない結果しか引き起こしませんね」

「それは違います」対する職人も、きっぱりと言った。「あなたは作品を作るべきなんだ」

 彼女は片眉をちょっと上げて、奇妙な生き物を眺めるかのように、職人の顔をうろんげに見つめた。

「人々はあなたが何かを作ることを望んでいる。そしてその作品は、大勢の人の慰めに、楽しみになっている。それは僕にとってもそうなんです。

 画所なんて、大した名前がついていますが……あなたと関わり合いになる以前には、酷いものでした。私は職人としても誇りも、矜持も、みんな忘れ果てて、他の施工人たちの後ろにくっついて、精々それによって糊口を凌いでいるような……しかし今では違う。私のこの手によってでも、人を楽しませ、寛がせるもの、なにか価値のあるものを作り出すことが出来るんだ。それを思い出させてくれたのはあなたです。そのようなあなたが、そんな弱気なことを言っていてはダメだ……それは損失です、損害です。そのような脆弱なことでは、しょうがないじゃありませんか」

「しかし……私には、もう言いたいことなんか無いんだ」

「あります、少なくとも、人々はあなたからの言葉を望んでいる。その希望の心を、あなたが無視することはもはや罪です、犯罪です」

「ひどいな」彼女は唇の端を歪めて笑った。「僕は……そんなつもりは。ただ、特別言いたいこともない、やりたい表現も持たない者が、創作などというだいそれたことにわざわざ手を染めて、それを手に取る人々の時間を徒に消費させるようなまねは、極力避けるべきではないかと言いたいだけなんです」

「あなたにはやるべきことがある。ですから創作すべきです」

「そんな無茶な……それじゃまるで」彼女は呆れたような声で言った。「私はまるで、作品の奴隷じゃないですか!」

「ああ、そうでなくて、どうします?」

 画工は言った。

「人間、どうせ、多かれ少なかれみんななにかの奴隷になって生きているんだ。雇い主とか、世間とか、子どもとか、その父親とか、母親とか……恋人とか? みんなどうせ誰かの奴隷です。それならば、自身の作品下に跪いて、そればかりに心身を披露させるというのも、また生活の営みのひとつとせずして、何としましょう?」

「まあそれも理屈だけれどね」

「いいえ、理屈ではありません、なぜなら……」

 それから二人は酒も入れずに侃々諤々と画所の隅に座って議論をやっていた。その結果、今回のことはあちらがわに対しての対抗措置として作るのだから仕方がない、今回のところはこちらも巻物を作ることにする、しかしその内容は、全面的に画所の連中の創意工夫に任せるとして、一旦話は終わった。

 彼女たちはそれで、だいぶ時間を掛けてその巻物を作った。彼女も、旺盛に作品を作っていた頃とは違って、本職の方も忙しかったから、時間配分そのものにも苦労があり、日中に政務、夜になって宿直をしつつそこで書き物をしたり画所のものと打ち合わせしたりと、忙しくしていたせいで、会議中につい船を漕いだり、お主上の話し相手になっているときについぼんやりしてそれを咎め立てられたりと、色々あったが画所の連中の協力もあって、予定を二ヶ月ほど押してしかし、作品は完成した。

 そして予定より二ヶ月遅れて、絵合わせは行われた。その会では、清涼殿のサロンで制作された絵巻物の方に軍配が上がった。しかしこれが世に広まれば、どちらに人気が出るかは分からない。絵巻物は書き写され、人々の間に流布する。とりあえずやるべきことはやった、と彼女はおもった。ひとつの作品をみんなと一緒になって完成させた、という達成感は不思議とわいてこなかった。そういうものは後からじわじわと実感するものなのかもしれない? などと、自身を誤魔化しつつ、しかし彼女はやっぱりもっと別のことを考えている。


****


 その頃彼女の妹は里下がりした讃岐邸で二番目の子どもを産んだ。彼女は身も心もぼろぼろになって、帳台のなかで死んだように眠っている。屋敷には次々に贈り物が届けられ、贈られた品をあれやこれやと彼女の母親が見せに来てくれるがそれに対応する気力もない。春宮からはまた、どんどんと手紙が届く。早くこどもの顔が見たい、でもそれよりももっとあなたのことが恋しいよ、はやく良くなって僕の元へ戻ってきてください、云々。

 彼女はまいにち茵の中で、歯を噛みながら泣いている。こどもは可愛い。かもしれない。産褥で死んでしまわなくてよかった。女房たちが言う。男御子をふたりもご出産遊ばされるなど、これはほとんど奇跡だ、常人では、並の女では成し遂げられるようなものではない、やはり姫様は特別な、前世から決められていた特別な御方だったのだ、云々。彼女は今、その地位、その美貌、その仕事、どれをとってもすべてが素晴らしい。それにもかかわらず、この悔しさは何だ? この、肉体すべてを食いちぎりたくなるような苦痛と憤怒は……

 お姉さん、あたしがこれほど苦しんでいるというのに、肝心のあなたは、今一体どこで何をしているの?

 その頃の彼女の姉は、まったく血気盛んという様子を遺憾なく発揮して、坊主にばりばり手紙を書き送っている。

「まあ、こんなに立派になって!」

 彼から掛けられたその言葉が忘れられず、そしてその言葉に恥じないように、覚えたての知識を披露して何だかんだと手紙を書き立てているが、彼女のそういった好奇心を肯定し、さらにくすぐるような返信を、彼が書き送ってくるのだから始末に負えない。彼女の中の何らかの感情は益々増大し、それを他ならぬ彼が認め、その循環は全く清く行われ続けてしまう。「僕が仏典を読み進めていてずっと疑問だったのは、なぜ女性はブッダには成れず、汚れた存在として捨て置かれているのか、というものです。もちろん、変成男子という考え方は、あるでしょう。そこで書かれているものを肯定的に見れば、男か、女かというのは実はあまり関係がなく、いわゆる「仏性」があるものは報われるし、それがなければ報われないのだと、であるからして仏性さえその人の中に見つけられれば男でも女でもブッダになれる。そしてその仏性を持つもののことを(その対象の本来の性別はどうあれ)男と呼び、そうでないものは(その対象の性別はどうあれ)女と呼ぶ、と。僕などは、いちいち工夫をこらしてご苦労なことですともおもってしまうが……しかしやはり、こんなものは欺瞞に過ぎませんね。ですから、僕と工房が今回試みたのは、そういう女の子が出てくるお話をつくることでした。もっとも、僕だけの案ではなく、みんなと協力して作ったんです。少しでも、主人公の女の子が魅力的に映るようであればいいですけど」


 さて、ここで話題に上っている『変成男子』とは何としたものか?

 つまり、女も男性という”レヴェル”の高いものに変身すれば、ブッダになれると。これは性転換をして男に変身しろとか意味ではなく、性別はそのまま、外側はそのまま、内面は男心を倣うという意味らしい。いつの時代も、自身よりも小さきものが自身以上の地位や名誉を得てしまうのを不快としてしまう人達がいる。何故このようなことが起こるか? それは、別の性を区別する”彼ら”もまた、小さきものであるからだ。

 俺など、実は小虫のようなものだ。しかしそれは実のところではないとして、その小虫の身に様々な衣を着せて、それ以上のものに見せかけている、いじましい生き物たち、そのような者たちは精々着ぶくれして、小さきものたちよりも満ち足りたものとして堂々としているが、しかしそのようなところに、着の身着のままの小さきものたちが、彼らと同じ衣を着ると言い出したら?

 俺たちは上等な服を着ている。それゆえにお前たちよりかはよっぽど立派なみのうえだ。その証拠に、おれの身はこれほど綺羅びやかだが、お前の着ている着物というのはみにくく汚れ果てているではないか? しかし、そのような服を着た生き物が、ひとたび彼らと同じような綺羅びやかな着物を着るなら、その差というものが分からなくなるだろう。並び立ったその二人は、まったくもってそっくりの人間同士だから。

 しかし彼はおもう。その優位な美しさ、上等さは俺だけに与えられていたものだったのに。違いがなければ人は人を見分けることなど出来ない。谷山浩子が叫ぶ!「だぁってみんなおんなじじゃない!」(谷山浩子『そっくり人形展覧会』!)

 彼らにはそれが耐えられない。このおれだけの、おれたちだけの上等な着物。それを着ていたから、その他の小さきものたちはその衣装の豪華さの元に跪いた。でも、その跪いたものたちが、その膝の先にあるものと自身を全く同じものだと気づくようなことがあったら? 同じ小さきもの、ただその身に余分な衣を付けているかいないかの違いが、しかしひとたびその重い着物を脱いでしまったら……

 すべての生き物は小さきものであるというのを認められない、差異ばかりを気にしている。それを認められないものは、あらゆる道具を、あらゆる理屈、へりくつをこれでもかと使用して、小さいものと大きいものを区別しようとする。自身が小さきものだと実はこっそり自覚しているものは、そうやってへりくつで定められたものを見て安堵する。「おれは本来くだらなくつまらないものだがしかし、経典にもあるように”仏性”はある。なぜならここに書いてあるじゃないか。

『若人不知是仏性者、則無男相。所以者何。不能自知有仏性故。若有不能知仏性者、我説是等名為女人。若能自知有仏性者。我説是人為丈夫相。若有女人能知自身定有仏性。当知是即為男子』

(もし仏性を知らない人がいたら、その人には男性の特徴がない。理由は彼は自ら仏性があることを知見できないからである。

 もし仏性を知見できない人がいたら、わたしはその人を女性と呼ぶ。

 もし自分に仏性があるとはっきり知見できたなら、この人は丈夫の特徴を持つ者と云う。

 もし女性が自分に仏性があると知見したら、これはすなわち男性になったと云ってよい。(如来性品第四の大正蔵経十二巻422頁上~中 田上太秀訳)

 私の身は女ではあるが、そのなかには”男性”としての特色を理解できる頭がある。だから世の男性よ、女でもありしかし男である私を、あなたたちの仲間に入れてください。こうしてみていけば、世の中に”父の娘”、”名誉男性”となどいう言葉が生まれ育つ理由も分かるというものだが、しかしこの文章をよく注意して見ていくと、仏性を持たない男というものには男性の特徴がそもそも無い。つまり、男という性別であるというだけでぼんやりしているのでは仏性を得られない(ブッダなれない、解脱できない)としているのだから、ただ男でいるだけで(というより生命として存在しているだけで)大威張りになれるというものでもないというのは見て分かるとおりであり、ここで大切なのは「仏性」であり「男である」というのはその要素に過ぎない……というのもやはり巧妙な仕掛けなのかもしれない……が、ここは措く)。

 つまり、仏性のない男というものも存在する。そういうのは「女の腐ったようなやつ」である。男ではないと。

 仏性のある女というのもまた存在する。そういうのは「女にしておくにはもったいないやつ」であると。女ではないのだと。

 結局、その人の性が男であれ女であれなんであれ、「良い」人は「男のよう」で、「悪い」方は「女のよう」なのだった。あの女は馬鹿だから嫌いだ。これは女性差別とかじゃなくて、俺は馬鹿が嫌いなの。馬鹿がでかい顔して馬鹿みたいな自己主張をして、それが当然の権利みたいに(ほんとうはそんなのわがままに過ぎないって場合もあるのに)通っちゃうってことが我慢ならないの! だから”馬鹿”な男だって、俺は嫌いだよ。だってそういう男って、すごく「女みたい」だからね。

 彼らの中には、そのようにこじつけなければ、その性を安心して謳歌できないという悲しい業を背負っている者もいるのだった(これを被害者的である、としても良いが、しかし……)。

 で、今回の絵合わせのために作った絵巻物で、彼女はそのように決められた規則に従って自身を男とすることを決めた、ひとりの女性についての巻物をしたためたのだった。

 その絵巻物の写本を彼女受け取ったその僧侶からは、後日丁寧な礼状とともに肯定的な言葉の数々が沢山届いた。彼女はそれらに謙遜しつつも勝手に彼女の中で師匠筋としている男から褒められて嬉しかったが、しかし肝心の新作の絵巻物の世間一般での評判はあまり芳しくはないようだった。


「まあどうなんですかね。よく分かりませんが」

「良く言えば自己満足。悪く言えば退屈、不快」

「それ、良く言ってますか?」

「変成男子などという下らない理屈付に簡単に与した下らない女が……」

「おっとお、剣呑、剣呑」

 ばたばたと扇子を動かす。「それに比べてやはり梨壺サロンのものはさすがは東宮妃であらせられるというべきか、面目躍如の結果でございましたな」

「いじらしくてね。夢の中で想い人に逢う」

「しとやかで、芯があって、しかし、母性というんですか、そういうものもありながら、一途にひとりの男だけを頼みにしてね」

「そうですね。われわれの見たいものというものは、そういうものになってしまうというかな。結局、様々に趣向を凝らしてみたところで、男の求めるものなんて古来から決まってしまっているんですよね。それを、変にいじくり回さず、そのまま提示してくれることの有り難さに泣けてくるといいますか」

「分かるな、それ。素材の良いものはそのまま余計な調味料をつけずにそのまま食べるのが一番美味というかね」

「こせこせ、余計なことを考えず、うつくしいものをうつくしいままで提示してみせる。たったそれだけのことですが、なかなか難しいようですね」

「しかし、結局絵巻物は絵巻物です」

 紳士は優雅に扇を扇ぐ。「所詮は女子供のなぐさみもの。そういうものに、いちいち、こうして大の大人が侃々諤々やりあっているほうが、間違いなのですから」

「まあそれはそうですが」もう一方の紳士はそれに同意して見せつつも、「しかし、すでにして、絵巻物というのは従来の考え方よりも遥かに高度なものになりつつあるというのも本当のところだとおもいますよ。語るに値する、というよりも、もはやそれについて話すことが一種の快楽になりつつあるんだな」

「それがおかしいと言うのです」紳士は不愉快そうに眉根を寄せ、「本当に、すべてのものというのは一度快楽を知ったら、分かりやすい方、分かりやすい方へと流れていきますね。絵があって、色があって、墨の流れがあって、文字があり、意味がある。ここまで想像力のお爨どんをしてあげなければ、もう人というのは物事に対して感想を持つことすらできなくなってしまった」

「ははあ」紳士はいくらか感心したように顎を撫で、「なるほどね。こちらであちらの貧弱な想像力を補ってあげてしまっているわけだ」

「それだけならばいいですけどね」紳士は苛立たしげに、「補っていったものこそが最上なものだと勘違いを始める……こっちのほうがよっぽど本物らしい、現実に近づいている、とね。そして漢詩や和歌や歴史書を、想像力の及ばないものとして箱の中に閉じ込めてしまう。それで、分かりやすく快楽を提供するものばかりに掛かりきりになる。その証拠に、最近の情勢はどうですか。どこの家でも歌会を催していたものが、それぞれが下手な絵巻物を持ち寄って、絵合わせなどを。それを、名のある公達たちが、年甲斐もなく喧々囂々たるありさまでやりあっているのですからね。僕などは、とてもじゃないけど……」

「価値基準がおかしくなっていますね。何が一番に優先されるべきものか格上とされているのか。時代が違ってきているのかもしれませんが」

「幼稚化、低俗化に過ぎませんよ。このような……何も考えちゃいないんだ」

「ああ、危ないなあ」紳士は声を潜めて、「穏便に、抑えめにお願いしますよ。どこで誰が聞き耳を立てているのだかわからないのだから」

「あの男が来てから何もかもがおかしくなった。お主上はどうなされたのだろう。物狂いのように……おなり遊ばされて……」

「ああ、それは駄目だ。それを言っちゃあお終いですよ」

 などと…………

 とにかく噂が全体を支配するような世の中だ。人の口に戸は立てられない。壁に耳あり障子に目あり。というわけで深夜の宿直所での、二人のそうした会話も誰かがどこかで聞き耳を立てていたに違いがない。その証拠に、その不適切な発言をした公達は次の日から人に会うたびにヒソヒソコソコソと噂を立てられ、出仕しづらくなった彼らは、その日より忌籠りと称してしばらく宮中に出てこなくなった……らしい。


「やはり、女の身でこのような言葉の集合体に構いつける事自体を避けるべきだったのかもしれません」夜居の僧として出仕してきている彼を相手にしている彼女に対し、僧は篤い同情を込めた声で言った。「誰かがあなたの何かをぶえんりょに阻んだり、価値をぶつけてきたり、断罪しようとしていると感じるのならば、そんなものの相手をするのは止めてしまいなさいよ。あなたもそういった人の”正しさ”に正されてやるべきではない。それらに対する無理な書き換えなども面倒です。そもそもがこじつけ、無理矢理に様々な無理矢理な設定を「正史」として扱ってやる必要なんて無いじゃないですか。放っておけばいいんですよ。相手をしないことです。つまり……」僧は視線を落として言った。「むりやり穴から蛇を引っ張り出して、自身の身にその牙を食い込ませなくても良いということです」

 しかし、そう言われても彼女は「なるほどもう余計なことで頭を悩ませなくても良いのだ」とはならず、ただまったく混乱してしまった。

だってそうだろう、彼女の今現在の全ては、「なぜ?」という、すべてのものに対する疑問から始まっているのだ。呼吸をするのはなぜか? それを繰り返さなければならないのはなぜか? なぜそれを一時的にでも止めると苦しくなるのか? その”なぜ”に、それらしい答えを用意してくれたのが彼だった。それによって、彼女は知ることの快楽というものを知った。それにもかかわらず、その”知る”という快楽に溺れるうちに、彼女は”知る”ということについてのやっかいさに付きまとわれることになった。つまり、何らかの疑問に対する何らかの”答え”というものは、それを不思議がる疑問者が考え出し回答したものではなく、他ならぬ「回答者」が考え出し提出したものであるという、”答え”というものそのものが持つ、圧倒的な他者性についてだ。

 疑問者である「彼女」の中には、疑問そのものに対する答えはない。答えがないから、彼女はその不思議なもの(まだ回答を見つけられない物)について、疑問を持ったのだ。

 手のひらの上に一つのりんごがある。しかしそれを持つものには、それが一体食べ物であるのか、何のために存在するのかが分からない。だから他者からの認証が求められる。これは何か? それに対して、回答を持つ他者は、だから答えて言う、「それは食べ物で、りんごだよ。齧って食べると美味しいよ」

 その時になってようやく、疑問を晴らした疑問者はその疑問に対する回答者足る資格を得るようになり、また新しい疑問者が「りんご」についての疑問を”他者”から投げかけられた時、”他者”である回答者であるところの元疑問者としての彼女は、こうやって回答してやることが出来る。「それは食べ物で、りんごだよ。齧って食べると美味しいよ」……

 彼女にとって知るというのはそういう循環の連続だったのだ。

 ところが、それを教えてくれた他ならぬ彼が、そのようなことはもう止してしまえと言う。りんごであるはずのものをりんごであると他者によって決められ、それを共通認識としてしまったことによって得られたもの以上に、それに伴って生じた苦痛、つまり「りんごであるはずのもの」を、絶対的に「りんごである」と一つのものに定めてしまわなければいけなくなるという窮屈な認識、他者に”正解”を「押し付けられた」ことによって、その正解のみで世界を見なくてはならなくなってしまったということ……もはやそれを正解としてしまえば、彼女は「何だかよく分からなかったもの」を「りんご」という言葉以外の認識では見ることができなくなってしまった。もはや「りんごはりんごである」。りんごはみかんでもトマトでもきゅうりでもりすでもクマでもないのだった。なぜなら他者が、「それはりんごはみかんでもトマトでもきゅうりでもりすでもクマでもなくてりんごだよ」と言うからである。

 僧はそんなことを気にするのは止めてしまえと言った。先人が決めたものを正しいものとして、それを前提として自分のえらびやすい何かを新しく作り出す必要などないと。

 それならば知識とは何なのか? 他者との共通認識のすり合わせとは何だったのか? 今まで、私が求めてきたこと、手に入れたいと願ってきた先人の知恵の一つひとつ……それらはただ単に、他人が勝手に決めたことに自分は当てはまっていないとメソメソし、自身という体をひとつの箱のなかに押し込めることが難しいとして、そこから飛び出し足りなかったりする手足をどうちょん切ったり伸ばしたりするかというような無駄な動作に過ぎなかったとでもいうのだろうか? このように、彼女は今までに信じてきたものを、その信じることのきっかけになった張本人にくるりとひっくり返されてしまったかのような錯覚に陥って、まったく混乱してしまった。

「仏教というものは総合的に見れば矛盾したもの、その様々な教えはあみだくじのようなものです。自分の性分にあったものをそのあみだくじの中からえらびとれば良い。個人が既存の思想にまず自身を沿わせ、既存の思想に個人が合わなければ、その個人がより良いとおもう思想を各人で勝手に作っていけば良い。そうやって仏教というものは大きく広がっていった……だからあなたの言うように、たった一つの思考について我が身をむりやり当てはめようとすることは、それらの教えに反しているのですよ。もっとも、それを”個人の”最善とするのなら、誰もそれを咎め立てる権利などはないわけです」

「しかし私はあなたに縛ってほしいのです! 私のことを縫い止めてほしい、そのために今までお話してきました……」

 結局……

 結局、彼女という生き物は、その考えを真とするものからの、ああしなさいこうしなさいという束縛を得られないですねている、自らその足首に鎖をはめられたがっている奴隷志願者に過ぎないのだろうか?

 しかし、彼はキリストではない。日蓮でも親鸞でもなかった。だから彼女に、ああしろこうしろ、あれするなこれするなとは言わなかった。

 それを信じる者は救われ、信じないものは地獄に落ちる。

 それほどの安寧を、ただ一方を信じさえすればすべてがむくわれるかのような錯覚を与えてくれるものを求めることに、大した理由があるわけでもない……

 人には大きな口を叩いても、高尚な思想を持っている素振りをいくら見せたとしても、そしてそれがある一定の他人にはよく作用し、実物以上のものとして仰ぎ見られるようなことがあっても、結局個人は個人でしかない。その内部には個人なりの欺瞞やごまかし、こじつけ、矛盾、隠し立て、その他様々な雑物が混じって当然ではある、しかし彼女は、奴隷志願の彼女は、彼女が信物とするその他人の中には、そうした夾雑物が一切無いと”信じた”。

 だから彼女の言葉を聞いた彼は、苦々しく微笑した。「あなたは困った人ですね」

 彼女は僧を睨んだ。多少の沈黙ののち、僧は答えた。「みんなそれぞれが自身の都合の良いように現実の方での認識をねじまげて、好き勝手言ってそれを正解だ正解だと騒いでいるだけなんですから、それらを丸ごとすべて真実と捉えて深刻にならず、話半分に聞いていればいいというだけの話ですよ」と、彼は結局深刻な彼女の心配を、ごく軽いものとして扱ってしまったので、その場での思考はそれ以上深まらず、そのままになった。


****


 で、姉の方はそうやって浮かれたり疑問におもったことを捨て置かれたりして相変わらず思索に耽けるばかりだったが、思考即行動をモットーとするところの彼女の妹は、まだまだ病床の身といってもいい体で、また余計な活動を始めようとして、彼女の良い人の不興を買っている。

「そんなことをしていないで、ご自分のことにもっと熱心になりなさいよ」

 彼は自分の不愉快を一切隠そうとせず、言った。 「あなたはご自身のこどもたちに毛ほどの興味もないの? 少しは女らしく、母親らしい態度で……」

 彼女が彼女の夫に提案したのはつまりこういうことだ。

  あなたの姉君の歌は素晴らしい、私は彼女との手紙のやり取りを通じて、そのことを知った。私家集を作るべきです。豪華版で小数部から始めれば、そこから徐々に噂が広まり、彼女の名声は一躍宮中の人々の口端に上がるようになるはずです。あの人の突飛な才能をこのまま埋もれさせておくのは惜しい。私ばかりが彼女の価値を独占して、きれいな箱の中に収めておくわけにもいかないでしょう。私は手紙で、すでに前斎宮とそのような話をしている。しかし、前斎宮はそのような話には乗り気ではなかった。静かな場所でひっそり暮らしていたい人のことを中央に無理やり引っ張り出すことが、良いことか悪いことかくらいの違いは私にも分かる。しかし私はそれ以上に、前斎宮の身に注がれているものを雪ぎたかった。くだらない、根も葉もない噂などを吹き飛ばすような力が、彼女の歌にはあるはずだ。であるからこそ、あなたからの助力がほしい。なんとか、彼女をその気にさせるお手伝いをしてもらえないだろうか……云々。

 しかし春宮の君は、当然のように首を振った。また姫宮の酔狂が始まった、と真面目に取り合うこともない。それどころか彼は自身の異母姉のことを、悪しざまに言って軽んじた。

「あのような人の身に心を遊ばせるようなことは、もう一切止めてしまいなさい」

 春宮の君は言った。「君のような人には不釣り合いな……似合わない人だ。確かにあの人には教養がある。歌も書もよくする。しかし……」

「なぜですか」彼女は声を絞るように言った。「なぜあの人に同情しないの。あのような素晴らしいひとを、一人閉じ込めて……」

「確かに、あの人は気の毒な方です」彼は眉をしかめ、「しかし、それとこれとは全く別の話だ。あの人のしたことは……僕の口からは……とてもじゃないけどお話はできない。特にあなたのような方に向けては」

 彼は、彼女にも理解を示してほしいというように、ちょっと困ったように微笑んだ。


 春宮の君に言下に反対された彼女は悔しくて悔しくて、その行き場のない憤りのままに、前斎宮に手紙を書き送る。あなたの歌は世に出るべきだ。それをお手伝いできるのは私しかいない。春宮は間違っている。あなたのような存在をまったく無いものとしてしまう判断のまずさ……それをどうして、みんな分かってくれないのか。

彼女はそのようなことを、一種の正義感から行ったには違いない。しかし、一方の視点からの正当も、他方から見れば害悪そのものということもある。今回の彼女のばあいもそれに近いようだった。そして彼女は前斎宮から受け取ったその手紙を読みすすめるうちに、自身の行動の罪悪におもい至るようになる。

「罪を犯したものが罰を受けるのは当然のことではありませんか?」

 彼女の手紙には、そのようなことが書いてある。

「あなたのやさしい気持ちは嬉しい。けれどそれとこれとは別のこと。私という人間は……あなたのような高貴な人に目をかけていただくようなものでは決してありえないということ。このようなお話をするのは本意ではありませんが、あなたには……知っておく必要があるのかも知れません」

 そのように語りだされた前斎宮の短い話を、彼女はふるえる視界の中で追っていく。


「斎宮という存在は、それそのものを、身も心も神の身許に捧げ尽くすということです。それ以外に必要はなく、また必然もありません。私の生活や行動、その身の上などはすべて私個人や家のためにあるわけではない。それは、ただ神の御前に跪いて、人々の日々の安寧のために、日夜お祈りに、決まりごとに励むというのが、そもそもの私の役目、私がこうして呼吸し思考し筆を執り、あなたにらちもあかないくだくだしいことを書きつけるようなこと、それらすべてはしなくても良いことであり、またしてはならないことでも有り得てしまう……つまり、神に祈りを捧げる以外の私の行動そのものは、まったくじゃまものであり、本来であるならば生活の一部として採用すべきものではないということですね。私には……神様との直結以外は、すべてが必要とされていない。それどころか、排除されるべきものなんです。

 私は既に神の御座から下りて、すっかり堕落しきっている身の上だからして、あなたにこのような言葉を書き付けて、あなたの思考を鈍麻させたり不利益を被らせるようなことをしても、特別咎め立てられるようなことはないのかもしれません。でも、推奨されるべき行動でもありませんよね。そういうところから……つまり、自分に与えられたものに結局満足をせず、それ以外のことを積極的に求めようとしてしまう浅ましさ、そういうものが、本来の私の中にあったということ。そういった生来の邪悪さ、不遜さ、不真面目さというものが……ああいった魔を呼び寄せて、そして生来の自己と、そして他ならぬ神の身許に飾り立てられたまがいものの私を等号させてしまった……そういうことだったのかもしれません。

 彼は狩りの使いでした。都の大盤所で使う鳥獣を狩りに来るついでとして、こちらの情勢を確認しに来るための、ごくつまらない役目を背負ったものです。でも彼は悪くはないの。私が、うかつだっただけなのよ。

「あなたも、一人ぼっちなんだね」

 その男は言いました。でも私には分からなかった……その、一人ぼっちであるという感覚が。その男はまるで、そのたった一人であるということが全くの苦しみであり、その苦しみを僕ならば分かってあげられるといったふうだった。でもやっぱり、それも私には分からなかった。なぜって私は、一人であるということに、何らかのくるしみを抱いてはいなかったから。

 でも、そういうのって、たたるのね。なんというか、他人との感情のすり合わせというものを日常的に行っていないと、たたるのよ、そういう時に……自身の日頃の怠惰というものが。

 その日は、夕日がとてもきれいだったの。だから私、御簾越しではなく、なまの目で夕日を見たいとおもったのね。それがいけなかったのよ。

 端近に近づいた私は、その人のことを「見」ました。そこにその人は立っていた。おおきな黒い目をまんまるくしていてね。まるで恐ろしい物の怪か何かに出くわしてしまったような顔をして。私のことを見ているの。

 私は逃げようとしたわ。でも、待ってくれと言われて、それを聞き入れてしまった。私には耳がきちんとあって、それは他人の声を認められる、意味がきちんと分かる、というのを、それによって示してしまった。私というものは、そういうものではあってはならないという規則があるにもかかわらずよ。

 神に仕えるものが、それ以外の人間……というよりも、声を発する生き物ね、そういうものをこちらから認識することはありえない。そういうはずだった。それにもかかわらず、私はその規則を破って、他人を、他人の言葉を私の中に取り込んで受け入れてしまった。そうしてしまったら、もう、だめなのね。もう、何もかもが遅かった。彼は私を認めたわ。そして認めた彼を、私もまた認めた。そのせいで、彼は私が、会話可能の”生き物である”と「認識」してしまったのよ。そして認識された私は……彼と会話を。意思の疎通を……そのような俗めいた女に、清浄な神への奉仕が、それ以降もまかり通るとでも?

 彼はそれからも毎日私を訪ねたわ。彼はひとりぼっちの私を……もちろん、みのまわりのお世話をする人たちは居たけれど。それでも私と会話を交わすようなことはない。彼は私の話し相手になったわ。夜になると忍んでくるの。それで、その行為によって……寂しい、ひとりぼっちの私を……慰めているなんて。

 彼、使命感に駆られたような顔をしていたわ。自分のしていることは絶対的に正しいことだって。ひとりぼっちのさみしい女の子を慰める、正しくて優しくて頼もしい男の子。彼はそういう人だったわ。だから私に、あなた「も」なんて、自身の中に私を含めたのよ。

 私は彼の気持ちに沿ってやりたかったわ。彼の描いている私に似合うように。一人で居るというのはとても寂しいことであって、それを慰めてくれる他人がいるというのは素晴らしいことであって、それならば、喜んでそれにお縋りしようと。でも、だめね。どうしても彼の言うようにはなれないの。私はひとりぼっちでも、ちっとも、寂しくなんかなかったの。

彼のこと、好きだったわ。だって彼、とっても優しかったもの。私の境遇に同情して、斎宮としてのつまらない役割としての私ではなく、ただの女としての私に優しくしてくれた。さみしい一人の女としてね。私は……彼にしてみれば、寂しさを埋めてくれるような誰かのみを待ち望んでいる、たったひとりの、彼の対になるべき女の子だったのよ。

誤解しないでね。私、彼とはお話するだけだった。彼は一度も私の手を取ったり、体を抱いたりはしなかったわ。でも、世間がそんなことを諒解するかしら? 私たちの、関係とも呼べないその関係は、すぐに世の中に広がって、私は退下するしかなくなった。まあ……それだけの、話です。

 その男の子? どうなったかなんて知らないわ。太宰の方に流されたって話も聞くけど……本当のところは知らない。私には……もう関係のないことだから。

これ以上あなたに、私のことについて話をすることは何もありません。ただ、わかってほしいことが、いいえ、覚えていてほしいことがひとつだけあるの。

 私は寂しいというのを知らない。知るつもりもなかった。でもそれが今ならわかる。なぜなら私はあなたというたった一人の人を知ってしまったから。

 ああ、私のあなた! 私は詰まらぬことを覚えてしまいました。一人でのんきに暮らしていれば、このような目には遭わなかったものを……

 あなたが悪いのではありません。私は私の中の孤独というものの種を、今までに発芽させなかっただけ。しかし、私はまったくの種無しなどではなかった。誰の体の中にも、その種はねむっていたのよ。そして、それが、必要に応じて、発芽したり、しなかったりするだけ。私はそれでも、種が自身の身に宿っているということも知りもしないで……、今ならそれが分かる。それはとても不幸な、くるしみです。だけど私はその耐え難いものを得てなぜか、夜、一人でふと笑っていたりするんです。おかしいでしょう? こんな私は……

 もう、私のことなど忘れて下さい。私はみにくく汚れ果てているの。私は、あなたが今までに一生懸命になって考え巡らしてきたような美しい女ではないの。私の本当の姿を見たら、あなたは私を嫌いになるわ。今のこの私に、あなたほどの人に、そこまで心を砕いていただくような価値はありません。

 こんな詰まらない女でも生きていた。そして、詰まらない一生を送るはずだった女が、あなたという一人の他人によって、少しでも現世においてのその詰まらない生を慰められた、それだけを覚えていて下さい。あなたは素晴らしい人。こんな私のくだらない生にも幸福の粒を蒔いた……あなたというのはそういう人。それだけを、覚えて、私のことなんて、さっさと忘れるのが宜しいの。

 すてきなあなた、さようなら! もう二度とお手紙しません。どうぞいつまでもお元気で。いつまでも、あなた方の御多幸を願う嵯峨野から、たくさんの愛を贈ります」

 手紙には焚き込めた伽羅の香りと、それから薄いすみれいろの花びらが一枚。


神の森 眠る子供ら 祈り待つ

  為れず 火に入る 我共々に


 彼女はその場に蹲って泣く。

 こんなものは、それじゃあいらなかったんだ。

 いらないものの捨てる先はどこだろう。これは誰にも必要とされていなかった感情なのに、いつまでもどうして持っていなければいけないんだろう。こんな、誰にも必要とされていない、強い他人への希求を自身の中に押し込めてまで!

 彼女が半乱狂になってあえぎ苦しんでいるので、それを見咎めた女房たちが慌てて梨壺へとやってくる。彼女との共同生活によってすっかり彼女本位になっている東宮妃付きの女房たちは、梨壺にいる春宮の都合などはもうほとんどそっちのけで、主人の狂乱と共鳴したようになって彼の救援を求めてくる。

 彼には彼の都合があったし、彼個人の時間もあった。そこは更に彼のプライヴェート空間なのだから、本来であるならばもう少し、女房たちも段階を踏む必要があるはずだ。

 しかし、他ならぬ姫宮の一大事であれば仕方がない。彼だって、彼女たちがひいひい泣きながら彼に訴えかけてくる前までは、気の置けない召人を召し入れて、隣に寝そべった彼女の鎖骨あたりを撫でながら、とろとろと深夜のまどろみを楽しんでいた。そういう、なんてことのない時間が、彼には生活の中のかけがえのない楽しみでもあった。生活というものは……彼に言わせれば、こういった何気ない仕草の一つ一つに楽しみを覚えることだ。欲をかかないことだ。求めすぎないことだ。でも、吾が姫にはそれが分からないらしい。もう既に何もかもは満ち足りているのに、それでも足りないと駄々をこねている。あの人はまったくの赤ん坊だ。何も知らない……まっさらな……だからこそ手のかかる……かわいらしい……

 彼は片肘をついてそこに頭を乗せ、となりで不安そうにしている召人を眺めながら、御帳台の向こうの女房たちに「はいはい、分かりましたよ」と気乗りしない声で言う。それからめのまえの女だけに聞こえるような小さな声で、「まったくお姫様というのは手が掛かるね。何もかもご自分のおもいどおりになるとおもっていらっしゃるのだから。ねえ?」

 その言葉を受けた女は少し掠れたように微笑んで、早く行って差し上げませんと、などと彼の行動を促すが、彼はそれでも彼女の体に未練がましく触っている。「お前と楽しいことをしていたのにね。それを台無しにしてまでして、何かを成すなんてことが本当に正しいことなんだろうか」

 彼は言って、けれど彼女のふっくらとしたさわり心地の良い顎辺りを指でなぞると、それから大義そうに起き上がって、彼女の方などもう見向きもしないで、御帳台の中を出ていく。

「………………」

 それまで笑みを浮かべていた女は、それをする必要がなくなるのを知ると、はあとため息を付いて、その場に突っ伏す。そして、大嫌いな女のことをおもって、また深い溜め息を吐いている。

 何なの? あんな女、あんな馬鹿みたいでくだらない女のどこがいいの?

 一人取り残された女は正しくない感情を抱いて、自身の火照った身を不正解に燃やすが、それはどこにも発散されないので不燃に終わり、彼女はそのやりきれない体をもてあまして、ぐるぐると自身の唇を噛む。

どれだけ自身のすべてを注いでも、その甲斐は得られない。得ようなどとおもうことがそもそもの間違いだ。このような感情を持つこと自体が間違いなのだ。しかし誰の体の中にも、感情はある。捨て置かれる女でも、男でも、その中には一人前の感情がある。だけどしかし、それが何になるというのか? 誰一人にも顧みられないのだとすれば、このような感情などなぜ生まれる? 憎い、憎い……しかしその感情は間違っている。なぜなら、そのような感情などは、本来であるならば”無い”とされるものだからだ。召人などというものに感情は無い。無いから、私の抱いているこの感情は間違っている。無いものを有るとすることは出来ないだろう……そういうことだ。

「あんな女、早く死んでしまえばいいのに」

 そうおもう私の感情も、きっと間違っている……


「やれやれ、やはり手紙など書き送らせるべきではなかった!」

 春宮の君は春宮の君で、最近はややもてあましぎみになっている自身のかわいい人のことを、どう扱ったものかと悩んでいる。

「どうしたの?」

 彼が彼女の御局までやってくると、部屋の中は千切られた紙やら几帳に引っ絡まった着物やらなんやらで散らかっている。彼はその有様に嫌悪感を抱いた。

盥に水を用意したり散らばった紙を片したりしていた女房たちに視線を落とすと、それに気付いた一人が彼女の惨状を説明する。

「もうお終いにしよう」

 で、彼は短く、言葉を地面へ放るかのような言い方をした。

 肝心の彼女は御帳台のなかへ丸まっていて出てこない。ただ女のすすり泣く声だけが時々聞こえる。彼は部屋の入口あたりでそれを冷たく見つめながら、庭から聞こえる秋の虫の声を聞いている。誰も何も言わない。ただ、彼の一挙手一投足を眺めて、じっと息をこらしている。

「遊びは終わりだ。絵巻物も手紙もみんなお終い。これからは、あなたの本来するべきことに集中しなさい」

 彼は足元に落ちていた千切られた紙の一片を手に取ると、それに目をやった。連綿とした女文字と、それから知っている香の香り。それから彼はその香りの記憶をおもいだした。それは、彼女が時々嵯峨野からの手紙をもらった日に、いつまでも彼女の体に染み付いて離れないあのにおいだった。

 彼は気分が悪くなって微量に顔を顰めた。自分の女から、別の女のかおりがするなんて! 彼は彼女の着物の奥から、その嗅ぎなれない香りの残滓を聞くたびに、まるで二人だけの御帳台に間男を引き入れているかのような感覚を得ていた。そのたびに彼は使いのものに香を焚くように言って聞かせて、彼女に「これほど噎せ返るほどの香を焚かずともいいでしょう」などと咎められることも屡々だったのだ。

 こんな不快なおもいは金輪際したくもない。彼女も先方からつれない返事をされて、ようやく目が醒めただろう。どうせ女同士の友情など儚いものだ。男女同士の、絶対的な結びつきが、女同士にもまた有効に働くはずもない……

 彼はその紙片を燈台の火で焼いてしまうと、手を払って、御帳台の中へ入る。そこでは女が暗がりで、一人寂しく泣いている。それを慰めるのは誰だ? この俺しか居ないだろう。それ以外に、このかわいそうな女の子を助けてやることの出来る男など居やしないんだ。「あなたはもう既に立派に、女としての仕事をなしているではありませんか。なにをそれほど悲観することがあるの? 僕のお母さんだって褒めていたと言ったじゃない。あなたは神のこどもを産んだのだ。あなたほど素晴らしい仕事をしたものはこの世にいない。それを誇らしいとはおもわないの? ……それでも、産んだら産みっぱなしというわけにもいくまい。僕たちの手でそれを、りっぱなおのこに育てるのですよ。それを手伝ってくれるのはあなたしかいない。そうでしょう。さあ、いつまでも泣いていないで。あなたが泣いていると、僕までもが悲しくなってしまうよ」

 などと、彼はまだまだ言葉を連ねて彼女をかき口説いていたが、肝心の彼女はその殆どの言葉を聞いていないで、嵯峨野の人のことを考えている。


 彼女はこんなときに、母という存在が話し相手となる人をどんなにか羨んだかしれない。

 確かに、彼女には母親がいた。彼女は今、二条にある新・讃岐邸の家刀自として屋敷に居、娘の出産の際には事細かく世話は焼いてくれたがそれだけだった。彼女の母親には、彼女の本当の気持ちは分からない。その不安が分からないのだ。

 いつもそうだった、あの人は、影が薄くて、三歩下がって師の影を踏まず、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従い……を地で行くような人で、彼女の良い人(この場合は竹取の翁)が「そうだ」といえばすべて「ああそうですか」で済んでしまうような人なのだ。男がなにかを言う。彼かがその隣の女に”その人の”意見を伺う。すると女はぼんやりとした顔で、しかしその声色にははっきりとした意志を漲らせ、「私も主人と同じ意見です」と堂々としている。彼女の母親というのはそういう人だった。だから彼女には、そうでない母親像を持っているらしい他人のみのうえが、この上なく羨ましかった。何ごとにつけても、「さあ、家の母に相談してみませんと」とか「この間母と話し合ったのですけれど」とか「母がそう申しておりますものですから、私も負けじと言い募って、それで喧嘩のようになってしまって」とか……私には胸の裡を明かせるような、その身の全てを打ち明けるに足る母親などというものは、一人だって居やしないのに。だから彼女の中には、いつしか理想の母親像というものが生まれ、育まれた。その結果は大なり小なり彼女の描く物語に反映され、一つの形として世の中に残った。そしてその幻想としての母親像というものが、ある種の人々の理想の形としても同時に彼らの胸の中に刻まれ、それによって生じた様々なものによってまた、現実世界においての被害を受けるものも出てくるわけではあるが……これはまだ先の話だ。

 彼女には話し相手に足る母親は居ないが、姉は居る、はずだ。彼女は姉に手紙を書いている。彼女の感情を分かち合ってくれるのはまた彼女しか居ない。そうでなければ、どうして片割れとして生まれてきた必要がある?

 でもその人は、彼女のほしい言葉を絶対に書き送って来てはくれない。

「それは気の毒なことだったね。でもきっと、相手方にも理由はあるのだろう。何ごとにつけても、こちら側の考えだけではなく、それはなぜ起こったのか……相手側の考えも想像して、全体像のあいまいなところを補完するよう努めなければいけないね。そのような行程を取るのを怠ることがあるから、余計な想像をして、その空白を不正解に埋めてしまうような愚を働くことになる。つまりあなたが今するべきことは無駄に現状を悲観することではない、現状を把握することだ。それは君が考えるべき問題だよ。他人に回答してもらうようなことじゃない」

 彼女はその冷たい言葉にゲロゲロと嘔吐して、そのせいでまた祈祷師だの読経僧だの調伏師などを呼ばれてドンドドンドと今日も今日とて局の中は抹香の臭いと読経の声と弦弾きの音などで喧しいことこの上ないが、それでも彼女の中からいわゆる”悪霊”などというものは出てこず、芥子の臭いを染み込ませて髪を振り乱した女とか、首が百八十度回転して口から異様なものを吐き出す少女とか、それによってトランス状態に陥る憑坐童子も、窓から飛び出してその身を地面に叩きつけるカラス神父も、全然出てこず、ただ彼女は閉じられた御帳台の中で、ぐずぐずと泣いてばかり居る。

 ここから抜け出して、自分の足で彼女の元へ駆けつけては? もう二度と手紙を書かないでと言われたけど、こっちから勝手に書き送ることはできるだろう。返事はもらえないかもしれないけれど、自身の感情くらいはそれで満足させることが出来る。どうして泣いてばかり居るだけで、行動をしないの? "Don't think, feet it." と誰かは言ったがそれは違う、今私に必要なのは、"Don't think, Do it! " の方だろう! ……しかし、そのような鼓舞も今では虚しい。そのような内省はし尽くした。そして今になって彼女は分かる。

 私だって、他人の愛を要らないと言ったじゃないか。

 要らない愛を押し付けられた相手が、どんな気分に陥るのかを知っているのは、他ならぬ自分自身ではないか? 要らないというものを、無理やり押し付けることは出来ない。物であるならば、押し付けられたほうは、あとでこっそり捨てることも出来るだろう、しかし人間そのものは、後でこっそり捨てるなどという便宜を図れるようなものでもない。彼らには意思があるのだから。

 他人に思慕を寄せるだけならまだ良い。それによって、他人へと何らかの結果を波及させるようなことはない。しかし、その感情を契機として、実際に行動を起こしてしまったら? 行動にはどうしても結果が伴う。こちらから気持ちの向かない他人に、いくら行動でその”意思”を伝えたところで、それが健全なものになるとは限らない。そして彼女は寝そべって爪を噛みながら、始終思考を巡らせるうちに、彼女が最近重い腰を上げて読み終わった、しかし結局理解できないままだった、『光る源氏の物語』の、あの『薫大将』の気持ちが分かる。優柔不断でふにゃふにゃしていて、ぐちゃぐちゃ言わずに行動しろ! でおなじみのあの男。

 きっとあの男は行動することで起こるすべてのことに、意味を見いだせないままでいたのよ。

 だから宇治でウジウジ悩んでかびが生えたように黙りこくって、「なんで浮舟は俺のことを拒んだんだろう?」と不思議におもうだけで、物語は物語るのを止してしまう。彼の疑問だけは宙に浮いて、それに回答するものは誰も居ない。でも別に、回答なんて提示する必要がなかったのよ。大将には浮舟が必要ではなく、浮舟にも大将は必要でなかったというだけ。あの人にも、前斎宮にも、私は必要ではなかった。必要でないものは、その生活の中においてひとつひとつ退けられる。私はその一つになって、たった今退けられたというだけ。それだけのことじゃないの。それだけの……

 あーあ、現実をこうして生きることで他人ないし物語上においての登場人物の心象を理解できるんだから立派なもんよねこれが教訓とかいうものですかと彼女はおもうが、別に薫大将の気持ちなんて分かろうが分かるまいがそんなことはどーでもよかった。そんな奇妙な男のことなど分かりたくもない、しかし分かってしまった。それは自分自身があの、今までに嫌悪してきた男と同じようなものであるというのをまた知ったということだ。

 私は私に求婚してきた、あの五人の男たちと同じなんだ。それと同時に薫大将と同じ性格を有して……要らない愛を、さも貴重で得難く、うつくしいものとして他人に押し付ける……押し付けられた方は、たまったものではないという視点を欠いて……

 必要とされていない愛の捨てる先は? これは要らない感情なんだ。でも、ここにある。どうしてもそれがあるのが分かる。でも、それを受け取ってくれる人は、欲しいと言う人なんか、誰も居やしない。

 この身の薄汚い、誰にも望まれていない感情をそれでも有しているというのが苦しい。このように「いらないもの」によって全身を支配され、身動きが取れずにいるというのに、その他ならぬくるしみによって、何も益するものがないというのはどういうことだ?

 誰かを恋しいとおもう、それはもっと確かなもので、しかもそれのみを、私は今までに憧れ続けてきたのではないのか。しかし、果たして生まれたこの感情とは何だろう。私の憧れていたもの、それはこのように薄暗い感情ではなかったはずなのに……

 あっ! と彼女はおもった。

 私は今、源氏にさえもなっている!

 桐壺を惑わせ誘惑し、困らせたあの源氏のように。

 その時、彼女はぐらりとめまいを覚えた。

 誰かが誰かの何かを欲しいと望んでいる。それはただの接点であったり、会話であったり、肌と肌の接触であったり、また肉体そのものであったりする。

 しかしその望まれた他方は、その一方を望まないのだ。

 源氏のいやらしさが、薄汚さが……たった今、自身のみのうえにある。

 こんな体は最低だ。欲しくないとおもわれている他人に向かって、その欲しくないものをむりやり口の中に詰め込ませようとしているおのれの肉体など……でも私はあの人とお話がしたいのに。もっとあの人のことを知りたい、体に触れてみたい。目と目を合わせてみたい……御簾の中に入って、彼女の体を見つけて、目を合わせたら、そうしたら……

 ああ私は源氏と同じ生き物になってしまう!

 だから彼女は絵を描き、益々それにのめり込むしか無い。絵の中の人物に、愛情を注ぐ以外に方法を無くしてしまう。

 そこに他人は居ない。彼女を受け入れる他人も居なければ、彼女を否定する他人もまた居ない。彼女はその真っ白な陸奥紙のなかで、まったく一人ぼっちの孤独の中にある。しかしそれは今の彼女にとっては、この上ない慰めだ。ここで一人ぼっちで居る限り、好きな人に要らないと言われる危険はない。ここは安全で、やさしくて、誰も私のことを否定しない。だから彼女は彼女だけの物語を描いている。それ以外に……それ以外に、こんな場所に居ることの意味が、どこにある?


*****


 そしてその姉の方は相も変わらず、夜居の僧として出仕しているところのあの坊主と、らちもあかないような問答を続けている。

「たとえば甲という経典には、凡夫のままで悟りを開くという。またしかし乙という経典では凡夫のままでは悟りは開けないとされている。ために様々な修行を積んで悟りを開くのだという。しかしまた別の経典では転じて煩悩している己の肉体のうちにこそ真理があるとして、その煩悩そのものまでも認めてしまう……人々は精々そこから、自分に一番都合の良い解釈を摘みとって、それを生活の指針として仮建てすることくらいしか出来ない……ですが、これは「考え方」という一つのものを持たないものの混乱でしかない。端からどんなことも眉に唾をつけてしまうものどもにとっては、このようなすべての言い分は転じて言い訳めいて聞こえてくるということもある……」女は言って、ちょっと笑った。「そしてひねくれものの脳のない人間、たとえば僕のようなものは、こうした有り難いお言葉の一つひとつをただ楽しんで見ているだけです。そこへ帰依の念や畏怖などといった聖なる感情が生まれるはずもない」

「はあ、なるほど」

「どの組織にも与せないというのは悲しいことです」彼女はため息交じりに言った。「法華経に帰依するならそれはそれで良いでしょう。しかしそれだけでは飽き足りず、大日経を見たり、理趣経を捲ってみたり……しかしそれらにもきちんと向かい合うこともせず、結局外から眺めて楽しむ以外に接触の方法を持とうともしない……中へ入ってみてはじめて分かることもある。一つのものをまるごと噛み尽くし、その中へと浸っていなければ見えてこないもの……そういうものに対する絶えざる憧れがあります。ですが僕にはそれが出来ない。一つのものの元へと跪き、一つのものの思想のみで体の中をいっぱいにしてしまう勇気が、僕には備わっていないのです」

「それは劣等感ですか」

 尋ねられた女はその言葉を吟味するように口の中を少しモグモグさせたが、うつむいて、「そうかもしれません」と肯定した。

「僕は人の考えというものを書物で読めば読むほど、分からなくなります。難しいというよりも……たしかにそれは難しい。しかし私はそれ以前に、どうしてそのようにいちいち言動に対して理由や理屈を付けていくのか、というのが、段々分からなくなってきたのです」

 女は続けた。「何もかもが既にして決められている。そしてみんな、その決まりごとに従って、一日の行動をきちんきちんと全うしていく。そしてそれを他ならぬ生活、労働と名付けて暮らしている……彼らにとって、決まりとは決まりです。そういうことになっているからそういうことになっている。甲は甲、乙は乙。それ以外はない。それで都合が悪くなれば、ただ甲は乙であると”決め直して”、その後には甲は乙であるという状態にしてしまい、次第にその状態に対する意味合いが、甲は甲であるという状態へと成っていく……このうつくしいまでの循環! この流れに上手く流されていけば、少なくとも自身が生きているところの”現代”というものは分かります。そしてその決まりごとに添うことこそが善く生きることなのだと信じることも簡単に行えてしまう……だけど僕には、それが難しいんです。ただ単純にこれは、頭が固いということなのだろうか。

 僕は何も知らなかった。何も分からなかったんだ。だから本を読んだ。人に話を聞いた。学問と呼ばれているものをすることにした……しかしそれによって益々私は世の中というものが分からなくなる。これは私がおかしいのでしょうか。私の方法が間違っているから、このような戸惑いめいたことが生じてしまうのでしょうか?」

「まあ、そうですね」

 女の必死な様相に対して、僧はのんびりとした面持ちで、彼女のその深刻げな表情をやさしく見つめた。「そういう向きもあるでしょう。しかしそれには幾つかの要因がありますね」

「要因」

「まず、あなたには余暇があるということです」

 僧は言った。

「暇があるからその生活余剰分で余計なことを考える。日々の生活そのものに追われるものにとっては、そのような”高級な”ものに心身を遊ばせているような暇はない」

「それは、そうでしょう」女は素直に頷いた。

「次に、世は末法だということです」

 僧は続ける。

「なぜ末法になったのか? 一つには時間の経過というものがある。お釈迦様が入滅してから随分と時が経った。正法、像法と来て、この世の中は既に末法の時を迎えている。このような時代において、指針を失い、その教えの不安定さに戸惑い悩むことは、もはや当然、万人の共通するところであると言えましょう。つまりあなたのそういった悩みというのは、時代的に言っても、立場的、年齢的に言ってみても、ごく当たり前のことであるということですね。

 そしてもう一つには、思想というものが高度化したからです。

 元来、この地には民間信仰というものがある。民人というのはそれを日常のものとして使用していますから、自分が信仰を持っているということも、もしかすれば意識していないかもしれません。そこへわれわれが、仏教などという高踏的なものを持ち込んだ。仏教には、あなたのおっしゃるように、「なぜ?」があります。なぜ姦淫をしてはいけないのか。なぜ殺生をしてはいけないか。なぜ盗みをしてはならないのか。なぜ……そのような”なぜ”が、複雑化していくと、次第にそれは難解なものになっていく。そしてそれを理解し共通認識として常識化する人々、出来る人々というのは限られていく。限られたものにしか行き渡らない「もの」「事物」などは、その限られた者たちの衰退とともに、勢力を鎮火させていきます。寺には人が住まなくなり、荒れ寺となる。そこへ道に迷ったものが救いを求めてやってくるとする。本来仏教というものは、迷えるものの道を正しく導いてやるために作られたものですから、彼の行動もまた、正しいわけです。しかし、世は末法だ。寺は荒れ果てている。彼を助くものの手は既に白骨と化し、あるいは形骸化して、彼の手を取ることはない。そこへ手を伸ばし、結局彼のことを”助けて”しまうのは民間の中に元からあった、”分かりやすい”民間信仰だ。鰯の頭でも信じて祈っていれば、いずれはそれが彼の助けになる。結局、最終的にはその信仰が彼に破滅をもたらすとしても、一時的には彼はそれによって現在というものを”慰められて”しまう……しかしそれも一時的なことです。なぜなら信仰とは現実への根本的対処ではありえず、それは大体において”逃避”を約束する、抜け道を示してやる程度のことしかできないからです。

 さあ、それでも、いくら末法とはいえ、僧侶は存在します(たとえばこの僕のような存在です)。そういった時に、われわれが、高度化して霧消してしまった教えの他に、人々を教え諭す、確実に民衆の手助けになるような”教え”とはどんなものか? それが法華経だ、南無阿弥陀仏だ。……つまり、お経を唱えるだけで良い。難しいことは一つも分からなくて良い。分からなくとも、あなた、法華経を唱えるあなたというものはそれだけで救われるのだと。これが一つ。しかし世は相変わらず末法だ。なぜ末法なのか? 釈迦の”正しい”教えが、時を経たことによって分かりにくくなってしまったからだ。釈迦の教えは分かりやすかった。しかしそれが議論されていくうちに複雑化し、一部の人々以外には簡単には飲み込めないものとなった。そしてその一部の人が命を散らし始める頃になると、その高度化されたものは誰の手にも渡らず、用無しとなった。しかしそうではあっても、民衆には何らかの人間的指標が必要だ。われわれは動物ではないのだから? そこで末法の世に生を受けた僧侶たちは、人々が分かり良い民間信仰に寄り添う形で、見る人が見れば「方便だろう、迷信だろう」としてしまうようなものを、一応採用することにした。それによって思想と実践が融合し、しかしそれと同時に仏教そのものが堕落していくことになる。僕たちは今、その堕落の中で、それを堕落ともおもわず、生活をしているわけです。

 そのような生活の中では、不邪淫は諒解され、不飲酒は飲酒諒解と変換されます。不届きとされているものこそ、本当のところは正しい。不届きなものこそ、実は最も清浄なるものなのだ、などとね。このような曲がりくねった思想のもとに教育されるこどもたちというのはどうでしょう。また、大人たちもこぞってまた別の大人たちを教育し、人々は教育し教育され、図体ばかりが大きくなった体をふんぞり返らせて、大股で今日も堂々たる態度で道を歩いているのですからね。

 われわれが生きている時代というのは、その様に猥雑と化した世の中です。まだ心のやわらかいあなたが、このような濁世に生きて、混乱してしまっても無理はありません」

 と、僧は彼女に対して深い同情を込めた目で見つめた。「ここから逃れる方法はいくつかあります。その一つを今あなたにご紹介します。それは実践をすることです」

 僧は言った。

「思想のみに溺れて、仏教は複雑化、類化しそのうつくしい花を無残にも散らせてしまった。

 それをあなた、防ぐためには、生活をすることです。本の世界以外に生きることです。人の間に入って、それらと善く関わることです」

「だけど、でも」彼女はあえぐように言葉を絞り出した。「僕には生活というものが分かりません。僕のまわりのもの、そしてまた僕も同じくして、毎日毎日、決められたことを決められたままに実行することのみに終始するばかりです。僕には、そのような行為が、あなたのお示しになるような”生活”であるとはとうていおもえません」

「それでは、その生活をお捨てなさい」

 僧は何を躊躇うこともなく、きっぱりと言った。「生活が分からないなどといった貴族的な感覚に毒されているのだとすれば、それまでのあなたの日常というものを否定する以外に方法はない。こんな爛れた場所にいるのは止してしまいなさいよ。そもそもあなた、なぜこのような場所にいらっしゃるのですか?」僧は不思議そうな顔をして尋ねた。「以前お会いしたときは、もっとはつらつとして、日々を楽しんでいる方だという印象があったんだがなあ……」

「それは……」

 それはあなたに会うためだ、あなたとお話するに値する自分になるためだ! と彼女は正直に打ち明けてしまいたかったが、できなかった。

 彼女が言いづらそうにしているのを見て取った彼は、「まあ人には様々なご事情がお有りでしょうから、特別訊き立てるようなことはしませんが」と言い、そして、「それでもあなたの考えたことは素晴らしい。ふつう、人というのはそこまでものを考えるというのはまれなんですよ」などと、彼女の行動そのものを、あけすけなまでに肯定してみせてしまうのだった。

 それは結局のところ悪手だったのかもしれないが、その時それはむすめの小さな体の中に染み込んで馴染み、そのまま取れなくなってしまった。そういうことの積み重ねによって人というものは他人のことを簡単に好きになり、それは彼女にとってもまた同じことだった。


****


 そのようにして、流石は双生児と言うべきか、その姉の方でも、なかなか危険な場所へとその身を浸していくようになっていく。

 きっかけというか、それはいずれ言及される運命にあったのかもしれないが、その行動の直接的な起因となったのは彼女の欠勤状況だった。

 彼女は宮中では男性として通しているが、さすがに、その身そのものを男性としてしまうことは出来ない。であるからして、月に一回は数日程度、物忌と称して出仕を停止しなければならなくなる。その日、彼女はようやく月一回のものが終わって、実家から久しぶりに宮中へと出仕してきていた。

 出勤札をひっくり返している彼女を呼び止めたのは、彼女の上司だった。

 上司は彼女に軽い見舞いの挨拶などをした後、帝があなたを呼んでいると教えてくれた。ので、彼女はその足で清涼殿へと出掛けた。

 普通、帝と話をするともなれば、昼御座との間に御簾が掛けられ、臣下は廂の間に控えるなどという距離が保たれるのが当然ではあるが、彼女はその御簾の内側への招待を受けた。

 彼女は出来る限り端近に座り、御座から距離を取った。視線を上げると、御座の斜め後ろあたりには数人の内司が控えているのが見える。彼女はそこで、時候の挨拶もそこそこに、帝から直接の御小言を賜わった。

 曰く、今回の長期に渡る欠勤理由は何ごとかと。「はあ。少し触穢に遭いまして」

「先月は?」

「先月は……」先月は、何と言って私は誤魔化したんだっけと彼女は考えながら、「家のものが体を悪くしておりまして。歳も歳ですし、何かと気忙しいと申しますか」

「女ですか?」

「……………」

「どうせそうなんだろう。年老いた両親などを持ち出して、それを単純な言い訳にするなど……あなたらしくもない。芸のないことですね」

「いいえ、私は……」

「どこか山深いところに囲った女のところにでも通っていますか」

「……………」

「あなたには浮いた噂のひとつもないと不思議にしていたが……以前から、怪しいとおもっていたんだ。超人のように、人々の恒常とするところから超然とした……でもそれは私の勘違い、買い被りだった。そういうことですか」

「いえ、違います」

「何が違うの?」

 彼は彼女の無知を嘲るような言い方をした。

「何も違わないでしょう。どうせそんなことだろうとおもっていたんだ」

「なぜ、そのような」彼女は頭の中で言葉を選びながら、言うべき適切な言葉を探した。「突然そのような……何の話ですか」

「だから、あなたは私の目を盗んで、物忌と称してご自身のするべきことを怠っていたということだよ。私はずっと騙されていたんだ」

「そんな……」

 彼女は無意識に首を振った。

「騙すだなんて、そんなこと。私がなぜ?」

「そんなことが私に分かるわけがないでしょう」

「誤解です」

「いい人がいるの?」

「いいえ、お主上、私は天命に誓って、そのようなものはおりません」

 彼女がそのような理不尽に似た仕打ちで悪しざまに言われて、それでもまずはじめにおもったのは、ここまでのことを、帝御自らの口から言わせてしまったという、忠臣としての罪悪感のようなものだった。この世のすべてを照らし下ろす、類無き御方からこのような気遣いを受けるなど、なんと勿体ない……この世でただ唯一の御方にそのような気苦労を負わせてしまったという、自身の不明を後悔する念を、彼女は抱いたのだ。

 彼女は彼女の中の、日々の生活からごく自然ににじみ出た忠誠心のみによってその否定を強くしたに違いなかったが、それはもう一方の話者にとっては、別の意味を持って、彼の人の心に重く、珍重な様子で響いていたらしかった。

「……………」

 帝は脇息に凭れて、ほうとため息に似たものを吐いた。

「あなたが不在の数日を、私がどれほど寂しく、心枯れた気持ちで過ごすのか、あなたは理解できないでしょうね」

「……………」

「あなたは心の冷たい人だ」

「私は、そのような……」

「では、一度だって女を欲しいとおもったことはないの?」

「……………」

「そんなはずがないね。だってあなたは男なのだから」

 彼は何かを諦めたような、乾いた声で言って、ぱちんと扇の音を一つ立てる。それを合図として、控えていた内司のひとりが、しずしずといざり足で帝の近くへと、一巻の巻物を捧げ渡す。

「あの姫宮の新作、あなたご覧になった?」

 広げられた巻物から床しい香りが広がり、彼女の鼻孔を擽った。それは彼女のとっては、懐かしさを誘う香りだった。

「兵部卿宮などはこれを絶賛してね。会うたびに、あの物語は素晴らしかっただの感動しただのとわあわあ言い通しで、こちらは正直言ってへきえきするくらいなんだけど。しかしどうにも私にはいまいち理解が及ばないところがあるね」

「……そうですか」

「そういう話を、是非あなたとしようとしていて……」彼は巻物をくるくると丸めると、まるでちり紙か何かを放るかのように、脇息の隣にそれを放った。「それにもかかわらず、あなたは触穢だ物忌だと嘘を並べ立てて」「嘘ではありません」「ではどうして月に一度、決まったような時期に休みを取るの?」「……………」「まるで……」彼はその言葉自体に恨みを込めるかのように、静かに言葉を吐き出した。「まるで、女のように……」

 彼女は顔を上げた。

 帝は肩肘を脇息へもたせたまま、彼女を見ていた。帝は少し笑った。

「あなたは……ほんとうに『女にて見たてまつらまほし』ですね」

「……………」

「『かかる女のあらましかばと見るたびに、いみじく思はしきを……』、『女にていみじう見まほしうをかしうもあるかなと恋しきにぞ』……まあ何んでもいいですが」

 帝は脇息へもたれたまま、閉じた扇で、側にあった巻物を弾いた。巻物はするするとその身を伸ばして御座から広がり、床の上に絢爛鮮やかな錦の川を作る。彼女はそれを見ていた。ああ、以前の作品より色使いが鮮やかになったなとかおもって。いや、鮮やかというんじゃないな。あれでは少し明度がキツすぎる。彩色をするのなら、もっとごく微細な……淡い色を使って、あれでは目にも優しくないだろう。やはり、色というものは、それを見るものを心和ませ、寛がせるような類のものでなければ意味がないのではないか……

「妹御は君に似ているの?……いや、訊くまでもないな」

「さあ、どうでしょうか……」彼女は言うべき適切な言葉を探したまま俯く。

「しかし君の口から言ってほしいという気持ちもある」帝は言った。「むしろあなたのうつくしさを参考として、あの姫宮の御尊顔についておもいめぐらせることの方が、どれほど現実というものを有意義なものにしてきたか分からない」今上の君はそう宣った。「あなたのすべてはこの宮中の女、男どもに輝けるほどの喜びを与えました。そのすべてを魅了する、まさに今、朕のめのまえにいるあなたの姿が、それを余すことなく証明し切っている」

「……………」

「しかしあなたは”男”だ。そうでしょう」

「……………」

「光源氏にみまごうほどの、光り輝く当代一の男、立派なおのこが……そうやっていつまでも独り身でいて。ご両親もさぞあなたのことを心配しているでしょうね」

「……………」

「あなたに会えないで淋しかった」

 彼は言った。

「あなたをなくせば、この広い宮中においては共に語るものも居ない。誰も彼も、目を爛々とさせて、おのれの保身や出世競争、世継ぎの有無に血道を上げるばかりで、面白くも何ともない。私には、ただあなただけ在ればいいんだよ」

 御座所の奥で内司共がさわさわとさざなみのような声を立て始めたので、彼女はそれらのさざなみの中からただしい言葉の意味を探ろうと聞き耳を立てていた。が、敵もさるもの……彼女たちだけには分かる、ごく微細な伝達方法を駆使して、そのさざなみの意味は彼女たちだけにしか通じない。

「今日は夜通し相手をしてくれますね。この巻物にもご興味がお有りのようだし」

「私はまだ、その絵物語に目を通していないのです」

「ああ、そうでしょう。そうだろうとおもった。だから今日は、あなたとは大いに語らうことにしよう」

 それでふたりは会わない間のすきまを埋めるみたいに、あれこれについて、長雨のしとしとと秋の夜に降りなずむ中、夜通し語り合うが、そのような不適切な行為が、周囲に好意的に受け止められるはずもなく……


 左大臣はぎっしぎっしと簀子縁をぶえんりょに踏みながら、然るべき相手を眼前とするために歩を進める。

 彼のめあてのひとは唐猫を相手に手を遊ばせながら、内司に耳そうじをさせている。左大臣がそのような神聖な場所に土足で踏み入るようなまねをするから、猫は逃げるし、内司は耳を掻く動作を止めてしまうし、彼は彼で、そのやわらかなまどろみのなかから引き出されて、現実のろくでもない感情から生じた、他人の神経の襞を慰めてやらなければならないような羽目になってしまう。

「お目通り願います」

 ウララカな秋の一日だった。外は秋晴れ、どのような不快もない。暑くもなければ寒くもない。風も強くはないし空気の乾燥もそれほどでもない。御簾はさらさらと揺れて、涼やかな音を立てる。御簾の向こうには彼のめあての人がいる。猫が御簾の下からにょりんと出てくる。そして、そのまま音も立てずに簀子縁の向こうに消えた。

「それで、お話とは?」

「あなたも情緒を解さない人ですね」

 御簾の向こうの人はつまらなそうに言った。

「こんな素敵な朝なのに……ご機嫌伺いもしないで。そのように単刀直入に要件のみを口にするのは、どういう了見ですか」

「申し訳ありません。ですが、私を呼びつけたのはあなたの方でしょう」

「まあ、あなたの無粋さは今に始まったことではないですから? いちいち言い立てたところで無意味でしょうけれど」

「……………」

「いい朝ですね」

「ええ、本当に」

「昨夜はよく眠れた?」

「ええ、近頃は過ごしやすいようで」

「そうだね。すっかり秋めいて」

 御簾の向こうでは衣擦れの音。彼はそれを聞いている。

「秋の除目……まあ、面倒なことも色々とあるけれど。あなたも色々とお忙しいでしょうね」

「いいえ。そのようなこと」

「色々と気苦労も多いでしょうけれども。日々、そのお取り組みには、敬意を払っているということをですね」

「勿体ないことを」

「それでまあ、苦労ついでに一つ面倒を見てほしいことが一つ」

 彼は俯いたまま、膝の上に握りしめた拳を睨みつけた。胃の中がぐるると動いた。

「あの人に……良い人を見つけてあげなくては」

 御簾の向こうの人は言った。

「そろそろあの人にも責任ある立場を任せたいでしょう。だけど、しっかり身の固まっていない男を要職に就かせるわけにもいかない」

「……………」

「あなたなら、幾らでもあてはあるでしょう。どこかに都合のいいような人はいないかしら」

「私に……」彼は静かに言った。「あの男と親戚になれと?」

「あれはなかなか付き合いのいい人ですよ。ちょっと見にはとっつきにくいようですが。親戚づきあいをして悪い相手ではないとおもうな。まじめだし、書き物も良くする。一族に一人居れば重宝でしょう」

「まじめねえ……」左大臣はひげを撫でながら、「果たしてそのような性格が、人物の長所と成り得ますかどうか」

「さてそこが問題ですよ」

 彼は嫌味で言ったのには違いがなかったが、それを受け取った相手は我が意を得たりとばかりに膝を乗り出して、「まじめ堅物、浮いた話のひとつもない男など、一人前の男と認め評価することが出来るのか」

「出来ませんね」

「そうでしょ? 本来であるならばね。でも、この硬質を彼のみに当てはめてしまえば、この評価は得てして変わってしまう。つまり、長所でしかなくなってしまう」

「痘痕も靨と言いますからね」

「いや、そういうことではなくてね」

「なぜですか」彼は息を吐いた。「なぜ、あのようなものに執着を持つのですか?」

「執着?」御簾の向こうの人は、不思議そうな声で彼の吐き出した言葉を繰り返した。「奇妙な言葉を使うのだな。ちょっと、よく分からないようだが」

「分からないということはないでしょう」

「朕は、あの人に出来る限りのことをしてあげたいとおもっているだけです」

「ですから、なぜ?」

 彼はそのような泣き言めいた言葉を口になどしたくはなかったが、その吐き出された言葉には水気が含まれ、勢いそれは彼の口調をひどく哀れっぽくさせた。それは発言者である彼にも容易にわかることで、だから彼は自身のそのような軟弱さを憎んだ。よりによって、彼にとっての唯一人の人をめのまえにしている時に限って……なぜそのような醜態を演じる羽目に?

 だから嫌われるんだ。こちらからの感情が、過度に重くて鬱陶しいから。これは歓迎を受けない感情だ。そんなことは分かっている。このような感情を抱かれることを、相手は相手に求めてはいない。それにもかかわらず、この、臓腑から滲み出すような、焦りに似た欲求はどう処理すればいいのか? 相手に提示して見せれば嫌悪される。それを溜めておけば、腹の中に淀んだ空気充満するかのようで気分が悪い。なぜこのような感情が? こんなもの、俺だっていらないのに。誰にも必要とされない感情を日々ふつふつと溜め込んで、誰が一体得するっていうんだよ?

「止めて下さい。あのような下賤のものにこれ以上余計な関心を払うのは。おかしいじゃないですか。本来であるならば……」

 違う! 本来であるならば、こんな言葉を吐き出すこと自体がおかしいんだ。誰に向かってこのような無様な……不敬極まりないことを……

「本来であるならば、あのようなものが重用されるということ自体が既存の概念からはすっかり外れてしまっているんだ。いくら優秀な人材とはいえ、そんなものは真っ当な理由にはならない。人材というのは、そういうものではなかったはずだ……私の言っていることはなにか間違っていますか?」

「いや、それは分からないけど」

「分からないということはない。あなたは分かろうともしないだけなんだ」

 彼は全身の血が振動を伴いながら全身を駆け巡っているかのような感覚に陥って、心臓の音がよく聞こえるのをすごく不快におもった。なぜこのような……なぜこのような仕打ちを。本来であるならば、俺は、俺こそが、最も尊重されるべきなのに。俺はたった今、あの御堂関白と全く立ち位置を同じくするものであるはずなのに。このように、たった一人の大切な人にないがしろにされて、しかも何の後ろ盾も家名も家柄も、なにもかも自分より劣る、というよりも比べることすらあやういような、吹けば飛ぶようなものに足蹴にされて、どうして今までのように黙っていることなど出来るというのか?

「あなたはめのまえに新しい、まだ見たこともないようなおもちゃを差し出されたせいで、物珍しさに惑っているだけだ。いずれそれが恒常となり新鮮さが失われれば、すぐにでもあなたはその古くなったおもちゃに興味を失うだろう。そして、奇妙なことに時間を費やしてしまったと、過去の過ちを悔いることになるだろう……」

「そんなことにはなりませんよ」

 御簾の向こうでは、彼の呪詛めいた言葉などそよ風のように木っ端なものとして扱って、彼の言葉は一人前の扱いを受けない。彼は吐き気がした。このような不名誉は……このような不名誉を受ける謂れは……

「自分のできる範囲のことで、その人のすべてを歓待してあげたいと望むのが、どうして咎め立てを受けなければならないのかというのが、そもそも疑問ですね」

「ですから、一見みりょく的なものでも、その内実までは知り尽くすことなどできない。外側、綺羅綺羅しい新しいもの、そういった、本来であるならば詰まらないものに……惑わされているだけだと申し上げているのです」

 彼は言った。

「物珍しさに支配されているだけだ。それを正常のものとして扱うなど、私にどうして出来る?」

 彼の乱暴な口調は御簾の向こうの人をまるで物狂い扱いするような様を呈し始めるが、それを言葉が過ぎると言って嗜めることの出来る者などその場には誰もいず、それは彼が左大臣というこの世の春を謳歌するはずの地位に立つものであるからだが、それならば……どうしてこのような理不尽な目に遭うのか?『この世をば……』あれを詠んだ左大臣と俺と、一体どこがそれほど違うのか?

「その様子だと……こちらの求めている花嫁探しに、あなたは相応しい人ではないみたいだね」

 御簾の向こうの人は言った。

「当然です」

 彼は握った両方の拳を見下ろしながら歯を噛んだ。「他を当たって下さい。これ以上私を愚弄するのであれば……」

「あなただから打ち明けたのにな」

 数々の左大臣からの暴言にもかかわらず、御簾の向こうの人は特に気分を害した様子もなく言った。「他ならぬあなただから……こんなこと、他の誰にでも打ち明けられる話ではないということは、あなたなら分からないはずもないだろうに」彼は幾分失望を含んだ声で、「こんな話……誰にでも相談できる内容でもない。あなたの他に、一体誰に話せばいいというの? 賢いあなただから、もしかしたらそれを朕に教えてくれるんですか?」

「そんな……そんなことは」彼はあえぐように言った。「誤解……です。どうして私が?」

「かわいそうでしょう」

 彼は深い同情を込めた声で言った。

「地位も家柄もない。頼りになる家族もなくて……あなたのように、はじめからすべてにめぐまれていた人には、到底彼の苦しみは分からないだろうな。それはあなたが幸福な男であるからです。今までもこれからもずっと幸福の渦中にある人は、それ以外の場所など思い描けもしないでしょう」

「……………」

「あの人は何も持っていない。あなたはすべてを持っている。そういう人が、持たざるものに同情しないでどうします? あなたの持っているほんのちょっぴりを分けてあげるだけで、与えられた方は何もかもが満たされるのに。たったそれだけのこともしないで……、朕には分からないな。あなたの考えていることが……」

「……………」

 吐き気がする。このような幸福が……このような地獄を、どうして幸福と呼ばなくてはいけないのか?


 さて、左大臣の心のうちはそのようにして目眩果てて、しかし打ち捨てられるばかりだが、帝その人があの讃岐の少弁の君に対してそのように示したものは、一種の愛情から発露したものだったのかもしれなかった、がそれは彼が彼としてまた別の彼に”示すべき”、言ってしまえば建前としての愛情に過ぎなかったので、その行為は結局未遂に終わった。つまり、帝は結局少弁の君に妻を迎えさせてやらなかった。

 そして彼は彼が彼との素敵な関係をつなぐひとつの道具としてのその巻物を餌(?)に、今日もその人を自身の部屋に呼びつけて感心を買おうとする。薄暗い部屋は強い香りで満たされ、ここだけが現世より隔絶された異空間のようだ。

 彼は幸福だった。なぜならこうして、好きな人と話ができるからだ。

 めのまえにいる彼は彼以外のことは見ていないし、また見ることも出来ない。彼はだから幸福だった。そして彼のとてもきれいな、とても人間が作ったものではないだろうとおもわれるほどの細工の凝った顔を眺めるのは彼たった一人だけ。そういう状況に酔った。

 でも彼の陶酔も完全に上手くいっていたとはいえない。何故かといえばそれは彼の心のなかにある言葉が引っかかっているからであって、この世の中に『愛をひっかけるための釘』があるとするのなら、そこへ愛以外のじゃまものがひっかかっていて、彼の全身からのその感情を、その釘にきちんとひっかけられないために生じる……もどかしさ、息苦しさ。しかしいま現在のめのまえの彼はどうだろう? ただ彼のみの話に耳を傾け、意見を述べ、ときおりかわいらしい顔で笑ったりする……それを見ているのは誰だ? 俺しかいないだろう!

 夜の橙色に滲んだ灯りの中でその男の影を見つめながら、彼は以前護持僧と交わした会話をおもいだしている。

 彼のことを考えるたびに、ため息をついているというのに気づくのに、随分時間がかかったんだと彼が話すと、護持僧はちょっと小首をかしげて、ああそれはこの世の春ですね、お医者様でも草津の湯でもと歌うように言った。

「あの人には浮いた話の一つもない。素振りすらも……毎日、きちんきちんと出仕して、やるべき仕事を全うして、絵巻物づくりに没頭し、本ばかり読んでいる……ほんとうにあの人は変わっているよ。この世に生まれたからには恋の一つでもしなければ甲斐がないというのはもうほとんど常識というよりも嗜み、礼儀に近いものでしょう。それにもかかわらず……それとも隠し上手なのか、あの人は恋の片鱗も誰にも見せないで、いつも忙しそうにあちこちを走り回っている。どうしてそんな奇妙な人のことをこれほど好きになってしまったのかわからない。とにかくあの人は誰でもないんだ。誰でもなく、ただ唯一の……あの人にしか、あの人であるというのをまざまざと証明してくれる人はいない……だから彼しかいないということになるんだ。分かるだろう? この気持?」

「分かりますよ」

 護持僧は穏やかに、決して他人の心を台無しにしまいと努めるような声色で言った。

「私も、一度でいいからそういうおもいをしてみたかったな。最もこの歳では考えようもないことではありますが」

「そんなことはない。何んでも遅すぎるということはありません」

「坊主に恋を薦めますか」

「ああ、そうか。そりゃそうだな」

 彼は納得して、「しかし……」とあまり上手でない本題への軌道修正を試みながら、「本当に……あの人にとっての良い人とは、一人たりともいないんだろうか」と言う。

 護持僧は墨桶を火箸で突きながら、「さあ……どうですか。外界のことにはとんと疎くて」などと炭火を見つめたりしているが、彼はネタは上がっているんだとばかりに膝を進めて、「朕の知っているあの人は」と、護持僧の伏し目がちな目のあたりを、ぎらぎらとした視線で凝視している。「ただ一人の他人に固執しない人です。自分の意見は断固として持つが、それが特定の人物に対する賞賛のみ終始することは決して無い。でもそういう彼が……」

「ああ、これは大変なことだな」

 護持僧は穏やかな調子で、短く滲むような炭の端に光る、赤い点滅を見ている。「あなたは惑っていられる。しかしそれがいいのか、悪いのか……」「悪いことではない。そうだろう?」「そうですかね」「悪いことではない……他人を求めることに忠実になることは……」「それならば私の意見など求めないでいればいい」護持僧は静かに言った。「それにもかかわらずあなたがこうして私を話し相手とするのはなぜですか」「……………」「あなたほどの人が、他人への感情をそれほど躊躇うのはなぜですか。あなたはすべてを欲求してもそのすべてが叶えられる立場にいられる御人であるにもかかわらず。あなたの欲求というものを制御し立ち止まらせる原因は何ですか。それほどの価値が、その者に、本当にあるとでもおもっているのですか」

「私は怖いんだよ」

 彼は言った。「怖い……あの人に好意をぶちまけて、それを拒まれるかもしれないのが」「拒む? そのような権利が彼にありますか」「権利の問題ではないよ。気分の問題なんだ」「怖いなんて」護持僧は軽蔑の仕草をした。「あなたともあろう御方が……何という言葉遣い。そのような体たらくが、どうしてまかり通るとおもうのですか」「あなたには分からない」彼は泣くように笑った。「人を好いたことのない人が……この恐怖を分かるはずもない」「別に分かりたくありませんね」護持僧は淡々と言って、「意思というものは……」灰に火箸を刺して、袍の袖に両腕を入れる。「尊重される意思と、されるべきでない意思とがあるのは当然です。それぞれいちいちの意見や意思などを訊いて回って、それにハイハイ言って受け入れていたら、世の中なんか回っていくはずがないんだから。そうでしょう。そこへ来て、この世で最も尊重されるべき意思を持った者は誰ですか。私のめのまえにいるたった一人の人、あなたを置いて、他に誰が居るというのですか」

「あの人は私の意見など尊重しないよ」

 彼はなぜか、その自虐めいた物言いの中に、必然的に混ぜたかのような諦めと、そしてなぜか自信のような力強ささえも含ませて、「そういう人じゃない。そして、そういう人じゃないと知っているから、私はあの人のことが好きなんだ」と、言った。

 護持僧はそれを聞いて、恋に恋する年頃でもあるまいにとおもいながら、しかし「なるほどね」と短く頷く。「困りましたね、それは……」

「別に困ってないけど」

「困っているんでしょう。そうでなければこんな話」

「目の色素の薄い……話芸の達者な坊主が居るでしょう」

「………………」

「あれは誰?」

「さあ……」

「ここで白を切ってお互いに良いことある?」

「その者とこの話と、どういう関係が?」

「……分かるだろ?」

 彼がうろんな声で言うと、護持僧は視線だけを上げて彼を見た。

 それから護持僧は視線を下げると、再び炭をいじりながら、「さて、どうしたものか。正直言って僧坊でももてあましていますよ。破戒僧とまでは言わないが」

「奇妙な説教をするのでしょう」

「奇妙……というか……」部屋の灯りがジジジと心もとなく揺れる。「まあ、前例にはあまり見られませんですわね」「飼い犬が死んだ後、その犬も浄土の蓮の上であなたがたを見守っているはずですよ、などという粋なものでもないのだろうな」「まあ、そういう当たり障りのないというか。無邪気なものであれば構わないのでしょうが」短く息を吐く。「さっそくああいった手合いの者に感化される層が出つつあるというかね。一度こちらでも問題になったんですよ。果たして話が上手いからと言って、ああやって突拍子もないようなことを口にするものの自由を容認してもいいものかと。でもねえ、騙されちゃうというか。丸め込まれてしまうというか。納得してしまうんですね」

「何が?」

「彼の話にですよ」護持僧は火桶を見つめたまま言った。「どこかの屋敷だか、寺だかで、説教しますよね。すると必ずその説教の内容が話題になって、嫌でも耳に入ってくると。それが肯定的な意味のみを含むはずがないから、使いのものに言って聞かせて、ちょっとあなた行って話してきてくれないかと。こうなりますよね。で、話すわけです。これがまあ理路整然としているわけです。こちらが有る事無い事でっち上げて揚げ足取りしているとしか感じられなくなるわけ。そんなことが何度も続いてご覧なさいよ。こっちだっていちいち時間を使って自身の発言力の貧しさを痛感するばかりではうんざりしてしまう。また、実際に彼の説教を聞くと、結構良いんですよね。良いこと言っているんですよ。はあなるほどねとか納得してしまいそうになってね。いけないんですけど。それは。だって教義には反したようなことも言ってるわけだから。それを私のような身分の者が許容しちゃあまずいよねえ。それでも何か、何か暑苦しくないような、それでいて力強い何かがあるんですよ。あの者の言葉には……」

「強さというのはそれそのものが力でしょう」彼は言った。「強い言葉はそれだけで何か全く別の力を持つのでは? そのようなものが発言権を得さらに観衆によってその力が増幅されることによって新たな勢力が生まれるのでしょう。そのような怠慢な態度で、この現状を放置し続けるのはそれそのものが罪ではありませんか?」

「まあ、そのような……」護持僧は軽い咳払いをした。「考え方も、一理あるとはおもいますが」「一理も二理もない。これは自明のことです」「まあ……まあね」「ひょっとしてあなたも感化されている?」「まさか」「破戒僧まがいの男を庇い立てするのですか」「とんでもないことです。私は決してそのような」「反乱分子を放置するなど怠慢もいいところだ。職務意識の欠片もない……このような男が、よくも……」「ああ、誤解です、誤解です」

 このままでは自身の首を切られかねないと警戒した護持僧が、彼の者が所属する寺の僧正に連絡をとったのは実に迅速で、それによってかの説教僧は、邪教の教えを悪意に広めたとして、寺から追放、そのまま流罪の憂き目に遭うのだった。


 それを聞いて驚いたのは彼女だ。もっとも彼女がその事実を知ったのは、その追放から大分経った後のことではあったが。

 彼女は相変わらず彼に手紙を書き送ってはいたが、いつもなら遅くなっても必ず返事は来ていたのに、それが突然途絶えたために、不審にはおもっていた。おもっていたがしかし、自身の日常的な忙しさにかまけていたせいで、その疑問を晴らすのが後回しになった。

 彼女は、行事の一段落した頃を見計らって、改めてこちらから連絡を取ろうとおもっていた。ここ最近は何かと法要も多かったから、偶然会う機会もあるだろうなどと、楽観的に構えていたのも良くなかった。彼女はその日常的怠慢によって、彼と交渉の機会を持つ権利を、簡単に手放してしまったというわけだった。

 しかし、人の口に戸は立てられないというのを地で行って、噂というのは感染力の強い病気のように、すぐに人の間に蔓延する。ここ平安京という場所ではなおのこと、噂は人の口から口へ、彼女のところへもやってくる。

「何処へ?」

 開口一番に、彼女は尋ねた。「何処へ流されたのですか。何故、そのような理不尽なことが?」

「理不尽なんて」

 彼女に尋ねられた相手は、びっくりしたように目を見開き、それから声を落とし、彼女の方へ少し体を傾けながら、「滅多なことを言うものじゃないですよ。上が決めたことに、理不尽もなにもないでしょうが」「しかし、どんな理由が……」「あなた、本当に何も知らないの?」

 相手は幾分不審そうな素振りで言った。「側近中の側近のようなあなたが、何も知らないなんてことある?」「別に私は……」彼女は唇の端を歪めて、笑顔に似た表情を作った。「そのようなものではありません。何を誤解していられるのか知らないが……」「へえー」相手は途端に嘲るような、侮るような声色を隠さず彼女を見つめた。「そおお、ですか?」「で、何故?」彼女は多少苛立ちながら言葉を促した。「なぜ彼がそのような目に?」「彼、ね」

 相手はニヤニヤと笑って彼女の言葉遣いの不味さを指摘した。彼女は内心臍を噛んだが口から一度飛び出した言葉は戻せない。甘んじて自身の不明を受け入れるしか無い。「それじゃあやっぱり、あの噂はほんとうなのかな」「…………」「表向きには、邪教を広めようと集会を頻繁に開いたからだそうですけど」「…………」「でも真相は藪の中、ですかね」

 意味がわからない、意味がわからない。

 で、その真相(?)は、他ならぬ、帝の口から聞かされた。

 清涼殿には、帝が普段生活する場所としての昼の御座というものがあり、その奥には、当然のこと、夜の御座というのもある。後宮にはそれぞれの妃たちが住まっていて、そこでも秘事は行われるが、それだと帝がお通りになるというので『行幸』扱いになる。しかし夜の御座であるならば、帝が座所から動くことはない。行者をぞろぞろと連れ歩いて大仰な『行幸』行事としなくとも、帝は彼の愛する人達と楽しく触れ合える。

 彼はそのような神聖な場所に、彼女を呼んだ。最も、彼女も一応のところは帝の側近ではある。そこへ用事を言いつけられて呼びつけられたとしても、強い不自然は感じられないのかもしれない。しかし今夜のそれはいささか勝手が違っているようだった。

 帝は言った。話をしよう。そう言われて断れる者が居るか? 居やしない、なぜなら……

 彼は実際浮かれていたし、しかし同時にまたその浮き浮きした気分を悟られまいとして、もちろん彼のような身分の者が自身の感情に偽りを付加させるなどということはそもそもが間違っていることではある……とした見解ならば、宮中の者であるならば百人が百人首を縦に振るだろう、が、あいにくここへは彼と彼女以外、他に誰も居ない。

 そこには本当に誰もいなかった。

 もともと従者や女房連などは『居る』という員数に数えられないものではあるが、そのような員数外の存在すらその部屋には居ず、ただ一人の男と女を数えるばかりの、ごく寂しい部屋の中には、たったふたりぼっちの彼女たちが居るばかりだ。

「あなたは妻を娶る気はないの?」

 彼は言った。 「あなただってもう良い年ごろなのだから、妻帯していないというほうが不自然でしょう。これから官位を上げて、それ相応の役職に着くためには、何と言っても独身の身空ではいかにも格好がつかない」

「それは、そうでしょう」

 彼女は彼を見つめたまま同意した。彼はその表情から、本当の彼女の感情を探りとろうとした。でもそれは、彼にとっては難しいことだった。「では、然るべき相手が?」

「居りません。あいにく、そのようなものは」

「それは何故?」

「何故……」彼女は問われた言葉を繰り返し、怪訝そうに端正な眉を顰めてみせた。「私は……」

「そういったことに興味を持てないにしても、体裁くらいは繕うべきでしょう」

「それは、そうでしょう」彼女はどんなこだわりもないように、再び彼の言葉に同意した。

「…………」

 彼はそのような彼女の態度を憎んだ。抵抗して抗うようなまねくらいすれば、格好の着くものを。このように平然とした目をして、まるで日常みたいに彼を見つめる彼女の視線を、彼は憎んだ。まるで私の感情など、感情にすら値しないかのように、私の感情など……まるで枯れ葉のように意味のなく、くだらなく、注意を払うべきものですらないかのように!

「ご自身で探求されるのも億劫ならば、こちらがお世話して差し上げても良い」

「とんでもない。そのような、勿体ないことを」

「いや、あなたはそうするべきなんだよ。こういうことはすべて、事情に通じている者に任せるのが、本当に一番なのだから」

「……………」

 蔵人は何も言わない。ただ黙って、是とも否とも言わず、ただ静かに黙って、少し伏し目がちに、口元を微笑に似た形に婉曲させているだけだ。「もしもそのような用意があるとして」彼は黙っている蔵人の代わりに、口を開いた。「あなたにはその準備がお有り? 妻を迎え、一人前の男としてひとり立ちする用意が」

「私は……」蔵人は彼の方を見ないままに、ゆっくりとその形の良い口を開いた。「お主上御自ら、お心を砕いて頂くような身分のものでは有りません。私には、そのような価値は無いのですから」

「それでは、まるで根無し草のようにして、いつまでもふらふらと、独りの身で居るというつもり?」

「……………」

「そのような奇妙が……まかり通るはずもない。まして、あなたのように美しい男が」

「……………」

「そのくらいのこと、ご自分でもよくご承知のはずでしょう。このようなことまで私に言わせるのかな」

「私は……」

「いや、分かった。分かったよ」

 彼は明るく、ごくあっさりと言って、蔵人の言葉を遮った。「別に今すぐにというわけではない。それぞれの心持ちというのもあるでしょう。あなただってまだ若いのだから。そう焦る必要もない。そうでしょう」

 すると蔵人は顔を上げて、まるで、助かった、とでもいうかのような明るい顔をして彼を見た。それだけで彼は、全身が生命の喜びに戦慄いて、くらくらとした目眩すら感じた。

 それから彼らは全く別の話をした。季節の話、今度の行事の話、そして蔵人が作った今までの巻物についての話……

 ずっとお話をしていたい、と彼はおもった。

 彼の話は面白いし知己に富んでいるし、そのせいでおのれのなかの眠りこけていたような知的好奇心が刺激されてざわざわする。このままの自分ではもう一秒たりとも居られないと焦りに似た気持ちを抱く結果になる。そのままで居ると頭の中がふわふわしてきて、何故か悲しくなってくる。彼との時間が一秒一秒と消し飛ぶように消えていく現在が悲しくてたまらない。ずっとここにいればいいのに、どうして彼は俺から離れていくんだろう……

しかし、実際彼は幸福だった。それは彼が彼の好きな人とお話をしているからだった。夜はすっかり更けて屋敷の誰も彼もが魔法がかかったかのように眠ってしまって、起きているのはここにいるただ二人しか居ない、もしもそのような、完璧な夜が用意されるのだとすれば……


 さて、その日も見事な満月夜であった。部屋の灯りを煌々と灯さずとも、全体がぼんやりとくすんだように、しかし淡い輪郭を持って仄々と明るい。彼は目を細めて、御簾越しの、もやもやと緩むような月を見上げた。

「少し風が出てきましたね」

 その蔵人は言った。

「良い……そのままで」

 立ち上がって御簾を巻き上げようとした蔵人の動きを制して、彼は言った。

 蔵人が振り向く。

 振り向きざまに蔵人のかおりがして、彼は持ち上がりそうになる口角を感じて少し顎あたりに手など当てて、脇息に凭れる素振りをする。何をしているんだろう? 馬鹿みたいだ……しかし、そうしないでは居られない。そうしないと、もう一秒も、彼と対峙し続けるなどということは……

「そのようなことは、あなたのやるべきことではないよ」

 まだ格子戸も閉めていないせいで入ってくるやわらかな夜風が、はたはたと御簾を揺らした。「そのようなことは主殿司の人がやるんだから。あなたはやらないでいい仕事でしょう」

「そろそろ、人を呼んだほうがいいでしょう」蔵人は広廂の方を見つめながら言った。「第一不用心です、このような時間まで戸を開け放しのままにしておくのは……」「あなたも無粋な人だねえ」彼は笑って、「こんないい夜なのに。私を部屋の中に閉じ込めて、月明かりの一つも見せないで、大事な宝物か何かのように仕舞って置く気なの?」「大事な宝物」

 その蔵人は彼の言葉の一部を取って、ちょっと楽しそうに短く笑った。「まあ、それもそうですが」

「私は……あなたの大事な宝物?」

「さあ……どうでしょうか」

「ああ、はぐらかされた」

「皆の宝物ですよ」

 蔵人は柔らかい口調で言って、決して彼の心を逆撫でない。いや、逆撫でられない、はずだ。それにもかかわらず……この、何とも言い難い息ぐるしさはなんだろう? 『僕の宝物』だと言ってほしかったのか? 馬鹿な……

「もう寝る」

 彼は言った。「だから、私を連れて行ってよ」

 それで、連れて行った先で、彼は蔵人のことを掻き抱いたりしている。

 その部屋には誰も居ない。部屋の中はとても静かで人いきれもないままに乾いている。

 蔵人は四隅の燈台に灯りを燈火し、自身のするべきことを全うしていたに過ぎない。

 香炉から流れる蚕の糸のような白い煙が、幾重にも重なって天井へと伸びていく。

 それは粘るような白くやわらかな糸のようでもあるし、脆弱であえかなか細い綿のようでもある。それらは燭台の灯りの方へとその錦糸を伸ばし、ほのかな香りとともに、次々と中空へ姿をなくしていく。彼はそれを見ている。それは彼にとっては見慣れた風景だ。しかしいくら見ても見飽きない。それどころか、見れば見るほど不思議でたまらないようにおもえてくる。これはどういうことだろう?

 それは、消えるからだ。

 実体にごくそっくりなものが、あっさりと消えてしまう。白くやわらかな糸のようなものが複雑な模様を描いて浮き上がっているにもかかわらず、それが一度瞬きした後、あとかたもなく消え去り、また新たな綾模様を描きまた消えるさま、誕生から消滅の時間が極端に短いせいで、魔術にでも掛けられたかのような奇妙な感覚が残り続ける。それが不思議の正体だ。

 沈香のあまいかおりのなかで、彼はじっとそのようなことを考えていた。四隅の火を灯し終わった男が、局の隅に居を正して言う。

「点火終了いたしました。お暇を頂戴したいと存じます。おやすみなさいませ」

 彼はそれを見ていた。それからおもむろに口を開いて、「君も気の利かない人だね」と言う。男が顔を上げる。目が合う。彼は少し笑った。「ここにはあなたと二人きり、他には誰も居ないのに。こんな寂しいところに私を一人ぼっちにして、楽しいの?」

「楽しいなど……」男は小さく、ゆっくりと首を振った。「それならば人を呼びましょう。なぜ、誰も居ないのですか? 職務放棄と言っても、限度が……」男が片膝を立てた。立ち上がろうとするところを彼が制す。「静かに」

 男の動きが止まる。部屋の中が静まり返る。男は彼を見ていた。そのごく真摯な、というより真剣な眼差しは、彼の望むような種類の感情を有していたとは言えない。彼にはそれが、宇宙よりも悲しく、寂しかった。

 どうせ、この男は私と同じような感情など抱いてやしない。そうでなければ、このような部屋の中でたった二人だけで、このような暖色の灯りと甘やかな香りの中で、公的な目ばかりをして彼を見ているだけなどというのが……

だからそのようなことをしても無駄だ。分かっている。これからすることのすべてがその効果を十全に発揮するなどということは有り得ないことだ……

「あなたほどの人が、他人への感情をそれほど躊躇うのはなぜですか。あなたはすべてを欲求してもそのすべてが叶えられる立場にいられる御人であるにもかかわらず。あなたの欲求というものを制御し立ち止まらせる原因は何ですか。それほどの価値が、その者に、本当にあるとでもおもっているのですか」

 いつかの護持僧の言葉をおもい出しながら、私にだって怖いものはある、と彼はおもった。だが、その恐怖というものは、”必要とされていないもの”には違いがない。還元すれば、それは彼が感じなくても良いもの、必要としなくても良いものだ。彼がそれを所有していると他人に知られれば、その不自然な所有によって首を傾げられるであろう類の、であるからして、その感情は彼にはふさわしくない。もっと傲岸な解決方法でも可能なはずだ、なぜなら彼は、この世のすべての……

 私は間違っていなかった。この男の妹御を春宮に譲ったことは正しかった。それによって、彼は正しい思慕の対象を、こうして今現在めのまえにすることが可能になっているのだから!

 彼はゆらりと立ち上がった。

 焔が揺れて、彼の影もまた同時に揺れた。男は彼を見ている。彼は少し笑った。

「あっ」

 花車な男の体を組み敷くのはとてもかんたんなことで、なぜこのような安易なことを、いつまでも渋っていたのだろうと彼はおもった。

 男の声は不思議に高かった。それは違和感を彼に抱かせはしたがすぐに消えた。そんなことに脳の容量を使っている余裕はなかった。男の髪が乱れ、白い額に一筋の黒髪が流れた。四角四面な男の体を乱してやった。彼はそれに劣情を覚えた。「あなたが恋している男のことは分かっている」彼は恐怖に彩られた目をしたうつくしい男の手首を取ってその自由を奪ったまま、勝利者の高みに酔うような言い方をした。「でもそれももう居ない。あなたはそこから自由になったんだ」

「男……?」

 組み敷かれた蔵人は眉を顰めて怪訝な顔をした。彼の言っている言葉の意味が一つもわからない。そういう顔だった。でも別に、分かってもらおう、理解してもらおうなんておもっていないから別にいい。彼は男のまっしろな頬に触れた。それは想像していたよりもごくやわらかく、彼の指を歓迎するかのようにしっとりと馴染んだ。「何を……」男の声。「何をなさる? 何を……」「あなたに拒む権利があるか」彼は静かに尋ねた。「私は全てを持っている。私は私の権利を行使してあなたの欲しい物をすべて与えてきた。その見返りがあっても良い……そういう時期じゃないですか」「見返り……」男は目を細めて、まぶしそうに彼を見つめた。「あなたは、そのようなことのために……」「…………」「そのようなことのために、あの人のことを遠くへ?」「ああ、やっぱりそうだったんだ!」彼は疑念が確信に変わったことで一瞬優越のようなものを抱いたが、そのような詰まらない感情はすぐに霧消して、めらめらとした苦痛が全身に滲みるのが分かった。「あなたにもそういう人が居ただなんてね。何も知らされていなかったから、知らないのも当然だったかもしれないが」「…………」「堅物のあなたが相手にしたのは坊主だったなんてお笑い草だな。どうせ手に入らないものに懸想して、その不可能性に酔う……としてみれば、あなたには似合いだったのかもしれないが」「止めて下さい」男は言った。「あなたのおっしゃりたいことは、もうすべて分かりました。ですからこのようなお戯れはお止しになって。冷静なあなたに戻って下さい」「私は、冷静です」「そうですか」硬い床に仰臥したままの男は顔だけ横に向けて、短く嘆息のようなものを漏らした。「それは良かった。では退いて下さいますね」「どうして」「……………」「どうして私が、あなたのために、そんなことをしてあげなくてはいけないの?」

 まあ、それは当然か、と彼女がおもったかおもわないか、とにかく彼のその言い分は彼の立場からすれば当然のことで、だから彼女は彼からそういうことをされて、その身が女だというのが露見してしまう。

 その時彼女が考えていたのは、恐怖とか、失望とか、羞恥とか、そういうこともあったかもしれないが、それよりも何よりも、彼女の考えていたことというのは、早くこのような下らないところからは出ていかなくては、ということだった。

 こんな下らないことは……こんな下らないことを、他人への強い感情であると、そしてそれに過剰装飾したような言葉で甘く煮付けて人に押し付けてみせる……こんな下らないこと!


「恥ずかしいとはおもわないの? 女の身で、大勢の男の前にその素顔を晒すなど……」

 彼の軽蔑を隠しきれないような憤りの声をよそに、彼女は淡々と答えた。

「なぜ己の身を恥じるのですか。私には分かりません。私の顔は、他人のめのまえに晒すには恥と映るようなものなのでしょうか?」

「あなたは見られたいとしたんだ。その体を、美しい顔を」男は言った。「だから男であることを選んだ……あなたはそのうつくしさを隠しておきたくない、見られたい、発見されたいと願ったからこそ、男になったんだ。違うか」

「そういうこともあるかもしれません」彼女は不自然に口元を歪めて笑った。そういうやり口は、彼の興を多分に削いだらしかった。その証拠に、彼は傷ついた顔をした。

 彼女は彼を睨みつけた。すると、彼の方は彼女を軽蔑するように見つめ、それから口の端を曲げて、笑顔に似た表情を作って見せた。「そんな顔をして見ないでくださいよ」

「別に……」彼女は彼に似せた表情を浮かべながら、やはり笑顔に似た表情を作った。「したくてしているわけではないので」

「私が、あなたにそういった表情を強いてしまったということ?」

「ああ、さすがはあなただな」彼女は起き上がって、乱れた襟元と髪を整えながら、「私の考えていることは、何もかも分かってしまうのですね」「分かっていたら」彼は、乱れた彼女が乱れたものを整えていくさまを、幾分の焦燥を混ぜた目で見ながら、その体を無意識に彼女の方へと近づけた。「こんなことにはならない。そうだろう? あなたはずっと、私を騙していたんだ」「騙してなど」彼女は軽蔑の仕草をした。「私は、あなたを騙すなどというろくでもないことのためのみに、おのれの生活を偽装していたのではない」「ろくでもない? すごい言葉を使うんだな……」「ろくでもない? らちもない……必要でない……」「いいよ、もう。どうしてそうやって傷口にわざわざ塩を塗るようなことするの?」「適切な言葉遣いができないのは僕の落ち度です。それを正したかっただけです。どう言えばいいんだろう? あなたを傷つけるつもりはまったく無いんです。つまり……」「ああ、止めろ、止めろ」彼は手を振って、彼女の言葉を遮った。「こんなときに、あなたという人は……」

 彼は彼女を非難するような口調を取ったが、しかしその声色は決して彼女を否定し切れるようなものでは到底なく、それどころか慈愛のようなものすら滲ませて、言った。

「あなたには……情緒を解するとか、そういう心を解すような考え方が皆無なんですか?」

「恐れ入ります」

「僕は……あなたと話をしているんだよ」

「それは、そうでしょう」

「あなたには何かが欠けている」彼は言った。「なにかが足りない。ご自身で、そのようなことをおもったことはない?」

「ありますよ」彼女はどんなこだわりもなく言った。「何かが、どころか、何もかもが足りない。それを一番に身にしみて知っているのがこの私です。でも、足りないからこそ多くを求めるんだ。少なくとも僕はずっとそうしてきた。それは何も、私のみのことではなく、多くの人に共通する行動基準ではありませんか」

「いや……そういう意味ではなくて」

「分かっているんだ。でも、分かっているだけでは解決にならないというのも、やはり”分かって”いる。これほどもどかしいことはありませんね。行動あるのみなのだろうが……しかし、準備が足りないところに行動を起こしてみてもそれは途中放棄の憂き目に遭う可能性の方が遥かに高い。”見る前に跳べ”という向きもあるにはあるでしょうが、それにしたって万全な準備運動も終わらないうちに跳べば、それは筋を違えてしまうだろうという未来は明白なわけで……」

「あなたねえ……」彼はうんざりしたように、「もう、いいよ。黙って」

「はい」

「私の言ったのは……そういう意味ではなくて」

「はい」

「もう……こうなったら仕方がない」彼は彼女との対話を諦めたように、そして無意識のうちにか、彼女の人の意見を意見ともおもわない語調を踏襲したように、「私と一緒にこどもを作ろう」と、言った。

「……はあ?」

 彼女は首を傾げたが、彼は、構わず続けた。

「そうするよりするべきことは一つもない。それが一番の自然というものだ」

「意味がわからない」彼女はゆっくりと首を振った。「自然とは何ですか。私はそのような自然は知りません」

「知らないはずがない」男は不自然に、ある一点を見つめながら言った。「君は女なのだから」

「私はそのようなものとは関係がありません。性別がどうあれ、私は私のみにしか過ぎません。私の自然はそれです。それ以外に、私は自然というものを知りません」

「いいや、あなたという人は、どうせ、所詮、結局、女に過ぎなかったんだ」

 彼は言った。

「私はあなただから、あなたこそ……だからこそあなたのことを好きになったとおもった。これこそが真の恋なのだと、身分も性別も何もかも飛び越えて……しかしあなたは、ただの女だった。私は、あなたが女だからこそ、女だったというだけの理由で、あなたに……

 それならば私のあなたへの感情は、男から女に自然発生的に隆起したごく自然なだけの生理的な感情に過ぎなかったということだ。このような、詰まらない……」

「…………」

「私はあなた個人を愛しているとおもった。あなたがあなただからこそ、あなたのことを好きになったとおもったのに」

 彼は悲しそうな目をして言った。「でもそれは間違いだった。あなたは詰まらないただの女だ。それをただの詰まらない男が、女だからという理由だけで恋しがっただけだ。私はただ有頂天になっていただけなのですね。あなたがただ一人の個人として私のめのまえに現れいでてくれたのだと、勘違いをして」

「…………」

「こうなったら、あなたは女に戻るべきでしょう」

と、男は言った。

 こうなったら、ってどういうことだ? と彼女はおもったが、黙っていた。「そして女らしく私の子を産み後宮へ入る準備をしなさい。あなたがなぜ、男の身を装って、その御身を男のまがい物として疑似化していたのかは知らないが」

「私は……」

「いいえ、聞きたくもない」男はぴしゃりと女の言葉を遮った。「どうせ聞いても私などには到底理解の出来ない理屈を並べ立てられるだけに決まっている。私は今まで、のうのうと、あなた個人の策略に、まんまと騙されて」

「……………」

「私のことを心では笑っていたのでしょう。あなたに対する不適格な愛情でもってあなたを迎えようとした愚かな私を、嘲笑っていたのでしょう」「まさか」彼女は目を丸くした。「なぜ私がそのようなことを。なぜ?」

 しかし彼が彼女の疑問に答えることはなかった。彼は彼女のことをもう見てはいなかった。ただ、鬱陶しそうに首元に指を入れて風を入れながら、香炉から流れる煙を見ている。

「その自然がただ自然に行われただけなら、その後にも不自然なことは起こらない」彼は言った。「だからこどもを作るしか無い。私の可愛い人。私はあなたとこどもを作れるということが、今とても、すごく悲しい」

 そういう悲しそうな男の顔を見ながら、彼女はおもった。このようなくだらない場所に……

 このようなくだらない場所には、もう一秒たりとも居られない。こんなことをしている場合じゃない。早く……早くしないと! あの人は、私を置いて、一体何処へ行ってしまったのだろう?


 そして男でしか無い彼は女でしかないらしい彼女を再び組み敷こうとして、彼女の抵抗に遭いそのままもみ合う。彼女が、行動には、抵抗には不便ななよやかな着物を蹴散らし、蹴飛ばし、髪を振り乱し、逃げ惑うが、そのような姿の彼女を見る男は楽しそうだ。彼女は、男の、それほど楽しそうな顔を初めて見た。誰かの快楽に成り得る行動を、今現在の私は可能にしているのだ。そしてそれは、彼女が……私が、女であるがゆえの、うつくしい女であるというそれのみによって約束された他人への快楽の提供なのだ。彼女はそれをおもってかなしくなった。たったそれだけのことで、ただ生きているだけというだけのことで、私は他人の快楽へと成り得てしまう。なんて詰まらないんだろう! なんて下らないんだろう! ただ呼吸を繰り返し、生きているというだけの……それだけで存在を肯定される、歓迎される、快樂される……そのような、生き人形のように詰まらないものが私だというのに……それに耐えるだけのために、私は今までに、くだらない呼吸を繰り返してきたのではない!

 彼女の振り乱れた直衣が部屋の四隅に灯る燈台に影を落とし、火影がまっしろな部屋に影絵を作る。その影絵の奇妙さ、めあたらしさも、彼にとっては快楽の一役を担っていたに違いない。そのおいかけっこの果てにあるものは? 女体の素晴らしさ、それを彼は知っている! しかし彼女の乱れた萎え装束は彼の腕のなかにやわやわと抱きとめられることなく、その火影を作る原因の上へとふんわりと掛かった。とたんに、火が上がった。火の熱さが、彼女の白い頬をチリチリと撫ぜた。彼女の眼球に真っ赤な火がめらめらと写る。彼女は自然に口角を上げた。ここには何もない。何もなかった。だから、燃えても、燃えなくても、どっちだって一緒だ。そして燃えるか燃えないか、どちらの方がより”良い”か? 


 というわけでその日のまだ暗いうちに、彼女は何もかもを振り捨てて、その屋敷から出奔した。厩から普段乗りつけている愛馬を蹴って、まだまだ誰も彼もが愛妻の胸や人妻の胸や召人や乳母やなんやかやの甘い胸でまどろみを貪っているあいだに、まだ誰もがその炎上に気づかぬうちに、朝露が草木を濡らす頃、最低限の装束と携帯食料だけを携えて、彼女は平安京から逃げ出した。

 とにかく、西へ。


 西へ!


****


 そして姉が尻尾を巻いて花の都の大伽藍から逃げ出したその頃、彼女の妹という人は、何処で何をしていたか。

 姉は自分のすべきことで頭が一杯で、一緒に平安京に連れてきた家族のことなどはすっかり頭から抜けているが、普段は姉のことばかりちくちくと考えている妹の方も、今はまた自分のすべきこと、いやせざるべきことについて考えていた。

 つまり、会うか、会わないか。

 今現在の彼女は、自分自身がどのような場所で、どのような身分で、どのような待遇を受けているかというのを、実感を持って知っている。そして、彼女、つまり自分自身以外の人間が、どのような場所で、どのような身分で、どのような待遇を受けているのかというのも、様々な他人の話によって、なんとなくではあるが知っている。その待遇差たるや、よくよく考えてみれば理不尽極まりないことである(なぜ同じ人間同士であるにも関わらず、傅く側と、傅かれる側に分け隔てられてしまうのか?)、が、それでも、衣食住満ち足りて、伴侶や地位や名誉や子宝にめぐまれて、そのうえに創作上の技能的才能にもめぐまれて、これ以上何を望むのか、いや、この燦々たる、輝かしい現状に、どんな不満が? 彼女がもしも近しい人に、少しでも自身の現状について不満を述べたら、十中八九、人は彼女のことを邪険におもうだろう、これほどめぐまれて、すべてに長けている人が、何を……私なんか、もっとひどい目に。それでもこうやって、文句一つ言わずに働いているのに。なんてぜいたくなんだろう、なんて傲慢なんだろう……

 しかし彼女からしてみればまた、そのような嫉みに似た感情を抱かれたとしても、このおのれのなかの真っ黒な憤懣がすべて霧消してくれるわけでもない。他人からおのれの現状を妬まれて、嫉まれて、恨まれた結果、それらすべての自身に降りかかる現状が御破算にでもなるようなことがあれば……そうなれば、他人の感情もまた、気を配るに値するものになるだろう。でも実際はそうじゃない。妬まれて、嫉まれて、それで終わりだ。それならば他人にどうおもわれようと、どうだって構わない。誰に贅沢とたしなめられても、誰に傲慢だと指摘されても、それでも彼女は今の現状に不満がある。不満があるどころか……すべてが気に食わない。何もかもが下らない。こんなものが欲しいというのなら、欲しいという人に全部くれてやる。地位も名誉も身分も顔も配偶者も子供も……才能も?

 才能……

才能とは何だろう。それは自らの技能によって、他人を快の方向へ導いてやることのできる手段のことだ。

 歌の才能。書の才能。音楽の才能。人は、様々な種類における技能の結果によって他者の感情に刺激を与え、その優劣によって人を愉快にしたり、不快にしたりする、と。前者を選択し続けることのできる者は幸いだ。彼らはその結果によって多くの他者からの称賛と評価を得、それが多量であればあるほど、他者によって自身の価値や存在が広範囲に浸透するのだと、そしてそれによって、みずからの生の正しさ、「ボクハココニイルヨ」というのを、多数の他人に認めてもらえ、他者によってその他者の見る、「他者性を有した」自己というものが、無限に増幅していく……才能は自己を増幅させる。そして自己という、実は儚くて壊れやすく、実際には触ったらモヤモヤと泡のように煙のように消えてしまう実態のないものに、色を付け、形を作り、強固な像を作り出してくれる。才能とはそういう素晴らしいものだ。それを手放す? 地位も名誉も身分も顔も配偶者も子供もどうでもいい。そんなものは犬にでも食わせておけばいいものだ。でも才能は違う。絵は……私が描いた、絵というものは……

 あの人が言ったんだ。

“あなたの描いた絵は素晴らしい”。

 別にそれが、死ぬほど好きだったわけじゃない。三度の飯よりも好きだったわけじゃない。でも、あの人が言ったんだ。あの人が言ったくせに。私の絵が良いと言ったくせに……言ったから、だから、それだから私は今まで、絵ばかりに欲求を見出してきたのに。

 それなのに、その絵を良いと言ってくれる彼女は、もうここへはどこにもいなくなってしまった。残ったのは残骸のような(失礼!)地位と名誉と身分と顔と配偶者と子供だけ。

 このような目に遭って……

 この期に及んで、何が才能だ? と、彼女はおもった。

 彼女は地位と名誉と身分と美と配偶者と子供と才能を有し、それもその一つひとつがとびきり上等なものばかりだ。その綺羅綺羅しいものの一つひとつが、他人からの賞賛の対象であって、誉の的であって、永遠のあこがれのものである……そういうものを全部詰め合わせにして、きれいな女体で包装したのが、彼女という存在そのもののすべてだ。でも、だから? だから何なのか? そんなことはすべてが下らない。なぜか? そんなものは決まっている、それらすべての綺羅綺羅しい、包装され尽くしたものは、すべて他人に奉仕するための、他人の快にしかならないものだからだ!

 全身から快感を出し尽くして、出した本人は出がらしのようにしぼんでいく。実際に彼女はすでにカラカラで、その全身は水を吸ったように潤って、それを見るものを楽しませ快感を誘うが、しかしその快感が彼女自身へと還元されることはない。人を楽しませ和ませて、接触するもののすべての快楽を約束する彼女自身は、孤独で、乾いていて、いつも悲しくて、寂しい。それは彼女を潤してくれるものが、彼女の絵以外に、なんにも存在しないからだ。だから彼女は絵を描いた。絵を描いて、自分の描いたその絵に、なぐさめを見出した。では、なぜ彼女の描いた絵のみが、彼女自身の孤独を潤し、慰めてくれたというのか? それは彼女の姉のせいだ。彼女の姉が、彼女がこの世の中でもっとも尊敬していて、もっとも愛していて、もっとも必要としている姉が、彼女の描いたものを”良い”と言ったから。

 お姉さんが良いと言ったんだ。あの人の良いといったものが、間違っているはずがない。私の中にはお姉さんが良いというものが必ず存在する。それが絵というものだ。

 私にとって絵とは何だったのか?

 私にとって絵とはそのものすべてが私自身であったのだ……と、いうことにすればいい、と彼女はおもっていた。だから彼女は最後まで、絵というものを、才能というものを手放すことができなかった。だから、そのせいで自身の生命の花を散らすような結果を招いたとして、それを後悔するなどということが、どうして起こりうるだろう? 彼女にとって、絵とは自分自身であり、武器であり、手段であり、そして他人の、というよりも、たった一人の人の関心を誘うための、あまい蜜に違いがなかった。

 でもそれも今はどうでもいい。だって蜜をいくら溜め込んだって、それを舐めに来る蜂が、どこかへ行ってしまったんだから。

 お姉さん、あなたはさいていね。わたしを一人、こんな地獄に閉じ込めて……


 それでも彼女は唇をかみながら、絵を描き続けた。

 もうこんなことをするのもこれで最後だコレデオシマイだ、とおもいながら。

 なぜだろう?

 つまり――私は姉の愛を受けるというだけのために、絵を道具として使用してきたのではない!

 あの人など今や、居ても、居なくても同じことだ。たしかにあの人は私の頭に火を灯して、それを真っ赤な炎から青い炎に変えてしまったかもしれない。だけどそれも過去の話だ。あくまでもそれはきっかけに過ぎない。火のないところに煙は立たない……のだとすれば、それを煙として昇華させたのはこの私だ。それならば、この才能の使用目的は、もっと別の場所に注がれるべきだろう……

 私は姉からの評価それのみに執着しているのではない。私の執着したのはもっと別の……もっと別にある、もっと良いものだ。

 そして、彼女はその最後の絵巻物を完成させた。時々ご機嫌伺いに文を送ってくる兵部卿宮も巻き込んで、彼に指示を出して線画を描かせたり着色を手伝わせたり、彼の人脈を率いてそれとまったく同じ複製品を百部用意させて、しかるべき場所へ寄進したり進呈したりした。

 その絵巻物はそして、これまでにないような評判を取った。

 聞こえてくる声の中には、作品を賛するものばかりではなく、それを頭から否定する声も少なくなかった。しかしそれも当然だろう、と彼女はおもった。私は描きたいことを描いた。そして、そこへ描いたのは彼女の望む楽園の似姿だった。いわば個人的な桃源郷、個人的な遊園地だ。そこへ用意された快楽は、万人のためのものではない。一方の人間、というよりもその快楽を快楽だと自認することのできるものにとっては、この上ない快楽をもたらしてくれるが、他方のそうでない人々のことは、まったく置き去りにしてしまい、それどころかある種の不快を持たないではいられないほどの嫌悪を催さざるを得ないほどの……

 ある一定の人々は、彼女のその作品を表といわず、裏といわず血気盛んに悪罵を浴びせたが、それでも彼女は平気だった。

 平気だった……というよりも、彼女は、どーでもよかったんであった。

 ここへは誰も入って来られない。他人も、親も、男もこどもも、あの人ですら。

 ここは完成されていて冷たい。それは触れるものをその冷たさによって拒むが、それゆえにどこまでも澄んでいてうつくしい。

 この世界では誰にも邪魔されることがない。そしてそこは私が創った。ここではたった一人、あのお姉さんをも介入できないほどの……

 そうだ、このもっともうつくしいものを、この世でもっともうつくしい、あの方に見ていただこう。


****


 彼女の姉は彼女の創ったその世界に介入してこなかったが(術がないのだから当然だ)、もうひとりの余計者はその厚顔遺憾なく発揮して、彼女のうつくしい世界に土足で踏み入るようなまねをする。もちろん彼女には、彼が全く善意の人であるというのは嫌というほど分かる。善とは、良いということだ。そして、他人に善という良いものを積極的、能動的に働きかけるということを、”善い”という意味としているのだ。善いもの、とはそれが発生すれば、すべて善的に受け取るべきだと自動的に決められてしまう類のものだ。拒んだりすれば、そこへ新たに発生するのは”悪”だろう。私は、あなたのためをおもって言ってあげているのに……などと。

「ああいうものを作る人は……よっぽど現世に興味がないのかな、などとおもってしまいましたよ」

 ここのところすっかり彼女にかまってもらえなくなった彼はへそを曲げていて、皮肉っぽくそういうことを言ったが、その実彼女と今現在会話しているという、彼にはもうすっかり非日常となったその現状に、浮かれていて、しかしそれを彼女にさとられまいと、わざとぶっきらぼうな口調を取ってみたりして、忙しないことこの上ないが、しかしそのような内心も、やっぱり彼女にとってはどーでもいいことだ。

「あなたという人は……生きているというのが似合わない、そういう、不思議な人ですね」

 彼女は黙って、机に向かって墨を摩っていた。御簾の向こうではシトシトと六月の雨が降っている。何もかもがジメジメとしていて鬱陶しい。しかし今彼女は、その鬱陶しいということもなぜか楽しかった。なぜなら……彼女は硯の中のまっくらやみを見つめながらおもった。鬱陶しいという感覚は、穢土特有のもので、それは浄土には無いものだったからだ。…………

「…………?」

 浄土……浄土とは何処だろう。

「あなたは、この世のものともおもえないほどうつくしく、輝いて、そしてその輝きのみに終始せず、そのうつくしい……しなやかな五本の指で、現世とは全く違ったものを、紙面の上に描き出してしまう……これはどういうことだろう? このような女性、この世の何処を探しても、あなた以外には見つかりようもないような……」

「兄が居ます」彼女は言下に答えた。「私ばかりが特別なわけではありません。兄が……この世に得難く、それでいてうつくしいものは、私の兄をおいては他に居ないのですから。私の全ては彼女によって創られました。あの人が居なければ、私などは何者でもありません」

「そのようなこと……」

 憂いを秘めた声で、彼もまた言下に言った。「あの人の才能とあなたの才能を、一度全く公平な目で見てください! あなたは身びいきをして、点が甘くなっているだけだ。僕などは、あの人の描いたものなど、二度と見たくないとおもってしまうけどね。あれほど残酷で、現実的で、まるで出てくる人々の幸福を願わないような書きぶりは……一体創作というものの根本を、どうお考えなのだろう。わざわざ不幸になるために、あの方の創った絵巻物の人々は創造されたのですか? もしもそうなのだとしたら、僕などには一生理解出来そうもないことだな。見ているだけで気分が落ち込み、それを手に取った自分の判断の拙さを悔やむような……

 その点、やはりあなたの作品、あなたの楽園はすばらしい。周りの連中もしきりにいっていますよ。あなたの創った楽園の中で、いつまでも遊んでいられるようなことがあるなら、どんなにか良いだろうとね。……あなたはそのすべてがすばらしい。ですがそれ故に不安におもうこともあります」

「………………」

 彼女は墨を磨る手を止めた。

「これほど完璧なあなたが……突然のこと、何処かへ消えてしまわないか」

「………………」

「物語の『かぐや姫』のようにね。突然光がバアーッ……とあたりを包み、天からはモクモクとした雲、ケムリと共に、陽気な音楽に身を包んだ天界人が、あなたのことを天へ引き戻しに来る……」

 春宮はおどけて、そういうことを口にした。彼女はそれに対して口を開くか開かないかためらって、結局ちいさく口を開いた。「そのような……」

「いいや、分かっている。そんなものは、所詮は物語に過ぎません」

 彼は彼女の言葉を遮るように、「でも……これは以前から考えていたことだけど。あなたは一度目を離してしまったら、そのスキに、それこそケムリのようになって消えていってしまいそうな危うさがありますね」

 男は妙に、郷愁に遠く意識を遊ばせるような言い方をした。

「僕はあなたの、そういうところが好きだったが……」

 彼は御簾の向こうに視線をやると、しばらく黙り込んだ。そして、次に声を発した時には、明るく、朗らかな調子で彼女に向かった。「そうだ、以前みたいに、今度あなたの絵を描かせてください。そうすれば、あなたがこうして僕のもとにきちんと存在していたというのが分かるでしょう。約束ですよ。必ず今度、時間を作って、僕にあなたの絵を描かせてくださいね」

 彼女はそれに反することなく頷いたが、その約束は結局、最後まで達成されることなく終わった。

 というのも、半分まで彼女の肖像を描いたところで、続きは後日としていたその後日が結局やってこなかったからで、彼女は彼の不安を実際させるように、天界へ帰ってしまったからだった。

 彼は彼女の、半分まで描いた肖像画を火に焚べて燃やした。雪のように白かった彼女の顔は火に舐められて燃えた。やっぱり、現世の似合わない彼女は、そうやって彼の目の前で、ケムリとなって消えてしまったわけである。

 では、彼女はどういう順路をたどって、その身を天界へと上らせてしまったのか?


 それは月影さえもあいまいになるほどの、嫌になるほど明るい晩のことだ。彼女は用意された、そまつな網代車にその身をすべりこませて、少し埃のにおうその室内で、コンと一つ咳をしている。

 さて、満月である。

 その日は都で祭りがあった。人々が一年の豊作を祈り、神に祈りを捧げる日。

 ただでさえ、彼らの労働の主としているもの、メイン・イベントというべきものが、年中行事としての祭りであるという土地柄である。祭りはそのもの政となる世の中だ。宮中は祭りの準備で慌ただしく、猫の手も借りたいような忙しさだが、その喧騒のあいまを縫って、こっそりと都を抜け出すことの、なんと大変なことか。

 気の良い、妹宮の根っからの信奉者であるところの兵部卿宮は、数日前から念には念を入れて、彼女の望むところの、たった一度の逢瀬についての準備をしていてくれた。「考えてみればかわいそうな話ですよね」と、兵部卿宮は言った。「僕たち男ならば、友人に会いたいと望めば、ふらりと出掛けて行ってふらりと帰ってくることが出来るが、女人にとってみれば、たったそれだけのことでもこれほど骨を折らないでは叶えられないようなものなのですからね。特にあなたのような高貴な御方は……」

 お忍び用にわざと粗末な作りをした網代車に揺られながら、彼女は兵部卿宮から送られてきた文の内容をおもいだしている。

「女人にだって、しかし、屈託なく語り合える友人の、一人や二人は必要だもの。僕はそのためのお手伝いを、こうしてさせてもらえているわけですから……これほど名誉なことはない。僕の人生に素晴らしい僥倖をもたらしてくれたあなただもの。これくらいのこと、しないでいては、バチが当たるというもの。僕を選んで下すって、ありがとうございます、姫宮さま」

 祭りの準備のどさくさに紛れて、少数の従者や女房を連れただけの一行は、月の輝く晩に、コトコトと都の道を進んだ。

 それにしても、まったく真昼のような明るさだ!

 草木はそよぎ、野犬は蠢き、虫たちは囀り……彼女は本当にしばらくぶりに、土の匂いや、草の香りを、その臓腑めいっぱいに吸い込んだ。

 おもえばこうして家の外に出たのは、何時ぶりのことだろう? 昔は何も構いもせず、姉とともに野山を駆け巡っていたような気もする。でも、そんなはるか昔のことは、もうすっかり忘れてしまった。ただ今彼女の中にあるのは、一種の焦燥感と、ただ一人の女性に対する、焦げ付くような、じれったいような希求だけ。喉の奥からせり上がってくるようなその熱い欲望に、体のすべてが支配されてしまって、それ以外に考えることが何もない。それは顧みれば、とても寂しいことだったが(だってそれ以外のものが全くの過去でしかなくなってしまうのだから)、だけど彼女は、今とても、一番に幸福だった。

 ひとりぼっちのおひめさま。

 その人はたった一人、誰も通わないようなうら寂しい山奥で、ひとりお寂しく暮らしている。同じような境遇にあった物語のなかの姫君は、その美徳である鈍感さ故に、一人ぼっちでも平気な顔をして「いつか王子様が……」と一人で居ても十分孤独ではなかった。しかしあの人は、私のあの人は違う。あの人は、あのような細やかな感性を持っている人が……それゆえに、私と似た孤独を、この身のうちにあたためざるを得ない人が……

 あの人は私に似ている。そして、その私がこの孤独に耐えられないのだ。それならば、どうしてあの人がたった一人ぼっちでいることにそのまま耐え続けられるという保証があるだろう?…………

 しかし……

 孤独でその身を固めている人間にむかって、その孤独を外側へと開示せしめようとすれば、どうするか。

 一。その孤独をこちらで半分引き受けるよとするもの。こうすれば十分の孤独を持っていた甲は、乙という介入者によって五分のみの孤独を背負うだけでいい。

 一。その孤独ごと、このおれが修正してやるッ! とするもの。甲の所有していた孤独そのものを乙そのものが打ち壊し、甲に対し”孤独である”という認識を一切持たせまいと努めること。

 一。孤独そのものを暮れなずませること。つまり、薄らげる。一時的に甲に寄り添い、然るべきときが来れば去る。孤独そのものを厭う対象にその行為を施せば、対象は孤独と孤独でないときの対比により、よりどちらかに感情の重きを置くことになるだろう……

 …………………

 彼女は結局、そういう勘違いをしていたのであった。

 つまり……

 孤独とは悪いものである。それは一方的に、第三者の悪意によってゆがめられ、強制されてしまった、かわいそうなお姫様の所有するものである。ラプンツェルはなぜに、その塔に閉じ込められている? スリーピング・ビューティーがそのうら若い身を横たえて、延々とひとり眠り続ける理由は? ピーチ姫はなぜに囚われているのか。よだかは、かま猫は、土神は……

 ……………。

 それは第三者からの強制を受けているからだ、あるいは他者からの拒絶に対し、当人がその拒絶を受け入れてしまうからだ。

 しかし、その自身の中に受け入れた孤独というものが、その先に用意しているものとは何か? 孤独を有するということは、儚くあえかな、木の葉のような人の身を、支えてくれるものがなにもないということだ。誰も支えるものがいず、その身を土の上に横たえればどうなる? 動物がその身を舐め、微生物が繁殖し、蝿が群がり卵を産み付け、あらたな命の肉布団と……なりたいか?

 孤独は死に近い。それは死という一切のおわりをてまねきするエサのようなものじゃないか? そのようなものが”悪い”ものでなくて、一体何だと言うのだろう! 

 というわけで、彼女は彼の人の、そういう死まねきのエサを雪ごうと、自ら進んで取り払おうと、していたのだった。

 でも、それが間違いだった、と。では、どう間違っていたのか?

 大体からして彼女は浅慮だ。彼の人に会って、その人の孤独をどうこうしたいと望んだとしても、具体的に彼の人を”どう”しようとしていたのか?

 つくづく、男女関係などというものはラクだ、と彼女はおもった。

 いや、そのようなものは楽なものと決まっているのだ。なぜなら、そういったものは、今までにヒトというもの、すべての生きとし生けるものすべてがこの地に住み暮らしている間に、脈々と、連綿と、少しずつ少しずつ、大衆の共同認識として織りつくってきたものなのだから。

 そのような大きな河に、彼女などが、ちょっとやってきて、そのそばに小川を作ろうとしても、すぐに干上がってしまっても不思議ではないだろう。水を注がれないものは枯れるしかないし、死んで花実が咲くものか、みるみるうちに草木は枯れ、地面は干上がり、蝶よ花よなどと、口にする余裕もない……

 脈に沿った生活態度を取れば、こうはならない。では、私も、そういった脈流に沿った生活者であったのなら、あの人とそういう目に……つまり、互いの孤独を癒やし、癒やされ、まったく二人ぼっちの生活者同士として、その二つの身を一生共にすることができたというのだろうか?

 そうではない、と彼女はおもった。

 そうではない……なにしろ、私には展望がないのだから。

 私は彼女と会って、彼女とどうなりたい? 彼女をどうしたいのか。別に……何もしたくない。その身を重ねたり、いっしょに暮らしたり、こどもを産んでもらったり、好きだとか嫌いだとかいう睦言を交換したいわけでもない。

 では、そのような消極的な欲望しか持たない甲が、乙に対して積極的な接触を試みる理由……というより、権利というのはどこにあるのだろう。

 何もない。他者が他者へと接触を図るのは、そこへ少なからずの期待や欲求を抱くからだ。そのひとかけらもないものが、他者へと何んの理由もなく接触を図るなどということは考えられない。

 いや、理由はあるのだ。彼女は考える。

 理由……

 かわいそうな彼女。イエによって閉じ込められて、親によって強制され、習慣によって孤独になり、男によってその身を一切から遠ざけられた人。そのようなおかわいそうな身の上の人を、そこから”救い出してやりたい”。そして、それを行為として実行できるのは、この私以外に居ないだろう。彼女の立場を慮り、その孤独を自分ごととして分かってやれるのは、この私以外には存在しない……

 そうおもうと、いくらか気が紛れた。自身の行為を正当化させることができた。だから彼女はもう考えなかった。これ以上考えたら……

 これ以上考えたら、行動できなくなる。理屈に足を取られて、身動きが取れなくなってしまうだろう。見る前に跳べ、どこかのエラい学者も、そういうことを言っていただろう……

 私は、不純な、まったくのわたくしした感情で、あの人の御前に出向くのではない。私の考えていることは、もっと、別の……お寂しいはずのあの方を、たった一人ぼっちでいるだけのあの人を、ただただお慰めしたいとおもうがゆえの……


 果たして、その邂逅は叶った。

 はじめて対峙したその人はうつくしかった。いや、うつくしかったように感ぜられた。そして彼女は身も世もなく、そのうつくしさのまえにぐずぐずになってしまった。

 まるで自身の体がか細くぜいじゃくなたくさんの糸で創られていたかのように、彼女は自身の体の糸を解れさせて絡ませて、ぐずぐずにしてしまった。

 こうなってくると、日常生活における自身の心の動きなどというものは、甚だ心もとないものだ。基本的には「そうでない」として自身を形作っている思考や考え方が、非常時において、これほど捻じ曲げられるようなことがあるとは……

 幸か不幸か、その日は”悪魔も遠慮しそうな”満月夜であった。星は無く、雲もなかった。あるのは空にぽっかりたったひとつ開いただけの真っ白な穴だけ。

 そのぽっかり開いた真っ白な穴から漏れる、殺人的ともいえる光の強さのお陰で、彼女は真正面からその人の顔を見た。

 その嵯峨野にあるお屋敷は、奥まった、人の通りが少ない場所にあった。

 幸いその山荘の女房だか端女だかを目当てにして通っている舎人がいたらしく、それを案内として一行は山荘への道を進んだ。姫を乗せた網代車の後ろからは、少し距離を隔てて、兵部卿宮が護衛代わりに網代車に揺られていた。姫の車には普段から姫付きの側近として頼りにしている高級女房が二人。彼女らもまた、姫の”秘密の友情”としてのその逢瀬を日頃から応援している二人なのだ。

 まず、山荘へはそこへ通い慣れている舎人が入った。それから親しくしている女房だか端女だかを通して、前斎宮へのお目通りを願う、と。

 舎人にはすでに、女房の手から、彼女の書いた文を渡すように言い渡していた。彼女は網代車の中で、そのときだけを、じっと息を殺して待っていた。きっと、いいや必ず、あのお優しい人は、私に会ってくれる……そのはずだ。

 まったく月の、うるさくなるほど明るい晩のことだ。彼女は都随一といっていいほどの身分の姫でありながら、その山荘の濡れ縁に座って、御簾越しのその人の息遣いを聞き、その人の気配を体全体で感じた。

 不思議と風は冷たくもなく、温くもなかった。いや、彼女は、そのようなものに頓着しているような余裕はなかったはずだ。だから実際に、風が冷たかろうが、温かろうが、実際は吹いていなかろうが、彼女には何も感じることが出来なかった。

 彼女は息を殺して、御簾の向こうのその人の気配を追っていた。彼女のそばでは二人の女房が待機している。「退いて頂戴」彼女は目の前を塞いでいる、大きな扇をかざしている女房二人に言った。「これでは、見ようとしても、前斎宮様の着ているものすら見れないじゃないの」「だけど姫様」「そうです姫様」「あなたは畏れ多くも……」「天大随一の……」「ありがたい身の上の……」「そのお体を人目に晒すような……」なとど、女房連は、口々に、そういう常識めいた言葉を口にした。だけど彼女は黙ったまま彼女らのかざす扇を、ゆっくりと自身の手で退けて、その視界の先を清々とさせた。

「前斎宮様……」

 彼女はその、紅色に塗った愛らしい口を開いた。

「無礼を承知で、非常識を承知で、このような高貴で神聖な場所まで、のこのこと、出掛けてきてしまいました。私のこの短慮を、どうぞお嘆きにならないでください。ただ私はこの身で一心に、あなたの御多幸をお祈りして……けれどそのような祈りだけでは耐えられません。それで、あなたの真実としている状況を、少しでも知りたくて。それで、矢も盾もたまらず、あなたのご迷惑も顧みず……」

 彼女は真正面を向いたまま、声早にそのようなことを口にしたが、御簾の向こうからは咳きひとつ聞こえない。彼女は背中に嫌な汗がどっと吹き出すのを感じた。彼女はそしてうつむいた。背中が冷たくて、それが月の攻撃的な光によって益々ひどくなるようだ。ああ、やっぱりこんなところに来るんじゃなかった。わたしなどは結局前斎宮に望まれ得るような人物ではなく、ただいたずらに彼女の感情を苛ませて、彼女の平穏を乱す不協和音程度の迷惑者でしかない……

「こちらへ」

 短い、しかし鈴を転がすような声だった。彼女は顔を上げた。その拍子に、彼女の額から頬にかけて、一筋の汗が伝った。彼女は口腔に溜まった唾を飲み込んだ。喉が痛くてたまらない。一体私は今、何処で何をしているのだろう?

「御簾の中へ。こちらへ来て。どうしていつまでも、そのような場所で座り込んでいるの?」

 彼女はふらりと立ち上がった。女房連が何かを言っていたような気もするがそれは言葉としての意味をなしていなかった。近くで蝿の囀っている音がする。でもそれに人間が、人間の言葉としての意味を持たせるはずがない。そういうことだ。そうだろう?

 御簾の中で見たその人はうつくしかった。まるで内側から発光しているかのように、あるいは水底に沈んでいる静やかな鈍さを孕んでいるかのように、その女は水を吸って、それから光を吸って、青白く、そして鈍色めいていた。

 声を出すか、出さないか、躊躇った。そして声を出した。しかしそれは声にはならず、ただかすれた消音で終わった。頭が痛くて堪らなかった。しかし全身で、彼女は笑っていた。体が幸福に震えて、その震えで全身が痛くて堪らない。しかしその痛みがまた堪らなく心地よくてどうしようもない。全身で笑いが止まらない。そういう気分だ。でも彼女は笑ってなんか居なかった。笑い方というものが分からなかったし、笑うべきでもないとおもった。でも彼女は笑っていた。それは、彼女には分からないことでも、それを見ている前斎宮から見れば、明白なことだった。

「わたしはずっと」彼女は震える、しかし人間にも分かる言葉を、ようやく口にしていた。「ずっとあなただけを。あなただけを夢見て」

「うつくしい人」

 と、うつくしい人は言った。「きれいな方だろうとはおもっていたけれど。これほどまでとは想像もしていませんでした。現実というのは、結局、想像では補い得ないものなのね。そのことを、今日ようやく、おもい知りました」

「あなたは……」彼女はこきゅうをするのをくるしくおもって、片手で胸の合わせを握り込んだ。「わたしはずっと。あなただけに会えるのを夢見て。それしか考えていなかった。私を救えるのはあなたしかいない。あそこはつめたくてかなしいところ。私の居場所はどこにもないの。あなただけが私のことを分かってくれた。あなただけが私にやさしかった」

「そのような……」

 女がめもとを緩ませた。その途端に、彼女は、”許された!”と、おもった。

 そういう、求愛者の早合点によって、往々にして人間関係というのは歪んでこじれてしまう。人は結局、その人の見たい事実しか見ようとはしないからだ。彼女はその女の微笑を許容だと解釈した。そう解釈しないでは、もうその場に一秒たりとも、自身を置く場所をなくしてしまったとばかりに、彼女はその女の、豪華な装束に隠れたまっしろな腕を、まっしろな首を、まっしろな頬を、眼前にして、その人物に飛びついていた。

「お止しになって」

 その人は言った。しかし彼女は聞こえなかったふりをした。そしてその女との、体と体との接触を求めた。彼女はその人に抱きついて、頬ずりをしてみたかったし、もっと肌と肌を密着させて、その肉体が本当に彼女のめのまえに存在しているというのを確かめたかった。そして、そういうものが本当は一番に欲しかったというのを知った。しかし、今頃気づいたとしてもそれは後の祭りだ。大体から今頃気づいたとしても、相手は彼女に対してそのような欲求は抱いていないのだから、いくらそのようなことを望んだとしても、それを望んでいない他者に強制することは出来ない、同じ感情を取れと、命令するような権利は、何処の誰にも存在しないからだ……

「あなたが好きなの」

 彼女は涙ながらに、というか泣き落としのようなまねを、それと知らないで自然と行っているが、しかしそれを眺める女の視線は、月の光のように澄んでいて冷たい。

「ずっとあなただけが好きだった。ずっと、一度でいいからお会いしたいと。それで、話がしたい。手をつないだり、いっしょにねむったり……私だけがあなたの孤独を分かってあげられる。そうでしょう? 一人で居るというのがどれほどかなしくてつらいことなのか、あたしはようく分かっているの。それを分け合える人はあなたしかいない。そうおもった。だから私は……」

 などと、色々と言を弄しながら、彼女は色々と女にくどくどと言い募っていた。女は大人しく、まるでそれをあやすかのように時折相槌を打ちながら、それを聞いていた。いい加減言葉をなくした彼女は、黙り込んで、時々泣きすぎた喉をしゃくりあげながら、月の光の中ではじめての静寂を持った。

「……わたしは」

 その静謐な、青い泉の中でふたり揺蕩うような静寂を破って、女は言った。

「私は、そのような孤独を愛しているの。確かに孤独は冷たくて、時々人が恋しくなることもあります。だけど、それは一時的なこと。私はずっと人によってくるしめられてきた。人によって、他人によって、私は幸も不幸も知りました。だけど今の私はもう、そのどちらも欲しくない。人から分け与えられる感情の良きにせよ悪きにせよ……私はもう、ひとつだって欲しくない。ひとつだって要らないの」

 彼女は触れていたその手を離した。それから彼女の人の体温で温まった手は、月の光に冷えた空気を掴んだ。だけどそれはすぐに彼女の手のひらの中から消えて、後には温い、汚い人間の体温だけが残った。


****


 なんて弱いんだろう? と彼女はおもった。

 全身が酢を飲んでくたくたになってしまったみたいに彼女は全身で泣きはらして、その姿はまるで神降ろしをしたばかりの、虚脱状態の巫女みたいで、待機していた二人の女房によって”搬入”されていったが、網代車に”搬入”されたあとも、できそこないの巫女みたいな彼女はぐったりしたまま、ずっと泣いてばかりいる。

 彼女が呪っているのは自身の意志の弱さだ。あんなに頭の中で反芻したのに。あんなに、助けてあげるってやくそくしたのに。たくさんに塗り固めて唯一のものと、それこそが真であるのだなどと、決め込んで、それを最善だとおもった。おもいこんだ。そしてそれは彼女の核とするところになってしまって、そのにせものの真に縋るようになった……

 でもそれはにせものなので、それをにせものだと指摘する言葉がひとつでもあれば、すぐにかしゃんと短い音を立てて壊れてしまう。その壊れたものを拾い集めようとしても無駄だ。それは飴細工のようにきゃしゃで、薄くて、放っておくとすぐに溶けてしまうような甚だぜいじゃくなものだから。壊れた時にはもうすでに遅くて、それは地面に溶けて飴色を含んだただの水に。それをどうやって拾い集める? そんなことをしたって意味はない。でもあんなに大切にしていたのに。それを、ただ一言否定されただけで、びっくりして、手から離してしまった。それでむざんにもその飴細工は、かしゃんと壊れて帰らないものに。

 そういうぜいじゃくな精神だから、こうやって何もかも上手く行かないんだ、と彼女はおもった。

 私は逆立ちをしたって、ひっくり返ったって、姉には勝てないんだ。姉のように強い意志もなければ、強い欲求もない。仮にそれらに似たようなものを見つけることが出来たとしても、それによって頭の中は益々乾いて、その乾きを潤したくて、行動ばかりは益々募っていく。その繰り返し。どうして求めれば求めるほど、頭の中は乾いて真っ白になって、その白を塗り立てるようなまねばかりを繰り返さなければならないのか? どこまで求めれば頭は潤って、すべてに満足が行くようになるんだろう。彼女はそういう状況を想像した。だけどその想像は上手く行かなかった。すべてに満足が行くようになんて……

 あれ?

「………………」

 懐かしいにおいがする。彼女は顔を上げた。ゴトゴトと音が聞こえる。網代車の御簾の向こうから、真昼のような銀色の月の光が、彼女の眼前を捉えた。

 彼女は拳を握りしめた。汗が滲んで気持ちが悪い。装束に手のひらを擦り付ける。

 彼女は”そういう”状況を知っていた。以前にそういう場所に居たことがある。どうしてそれを忘れていたんだろう?

 あんなに良いところだったのに。どうしてこんな、不便で、きゅうくつで、苦しいことばかりで、目的も欲求もわからない、わけのわからないだけの場所に……

 いつの間にか、同席していた二人の女房は、すうすうと気楽な寝息を立てて眠り込んでいた。彼女は彼女の濡れ羽色の、艶々した長い髪を耳に掛けた。鼻をすすって、目をごしごしと手の甲で拭く。

 分かっていただかないといけない。

 彼女はそうおもった。今、彼女に必要なのは、絶対的な意志だ。その実際が飴細工でも、まがい物でも、何んでも良い。ただそれを他人にぶつけて、他人に受け入れてもらえるだけのものにするという絶対的な意志、どれほどそれを拒まれても……

 しつこいほど説明するべきだったんだ。すぐにくよくよして、ちょっときょぜつされただけで怯えて、すべてを否定されてしまった、ときゃんきゃん言って逃げ帰ってくるべきじゃなかった。私があの人のことをどのくらい、愛しているのか。必要だとおもっているのか。だって私はまだ、”彼女と何も話していない”!

 そういうことは、みんなあの人から教わったんだ。自分の考えていること、おもっていることを、それそっくりそのままを他人に伝えることは出来なくても、それを基軸にして、新たな考え方をこの世の中に創造できるということ。一人ならばだめだ、でも、二人で考えるのなら……そうすることによって新たな道を見つけることが出来るんだ。「お姉さんがそうやって、私に教えてくれたのよ」

 今ならまだまにあう、彼女はおもった。

 幸い女房たちはぐーすか眠っている。誰にも咎め立てられることなくこっそり抜け出せるのは今しかない、ああ、でもどうして、牛車というのは前からでないと降りられないようになっているんだろう? 牛飼い童に気付かれたら、後ろから警護しているものたちに再び取り押さえられてしまうだろう、どうすれば……どうすれば、このきゅうくつな”動くお城”から出ていくことが出来るんだろう?

「…………」

 その時彼女の頭にパノラマで蘇ったのは、過去の原風景だった。

 頭の中で彼女の姉の言葉が聞こえていた。一体彼女の頭の中で、その姉は何を彼女に焚き付けていたのか? ……ああ、そうだ、走ればいいんだ! 以前のように、昔のように走ることができれば、あるいは……ああ、なんでこんなかんたんなこともおもいつかなかったんだろう? 宮中での規則やしきたりや、女性としてあるべき、后としてあるべきという品格や決まりという名の迷信に頭をかまけさせて、ろくに自分で考えもしなかったせいで……あー、なんでこんなかんたんなことに?

 彼女はくすくすと一人で笑った。楽しくて楽しくて堪らなかった。

 走る! 走るというそのことだけで、すべての規則を破ってしまうというそのことだけで、すべてが叶うなんて! なんてたんじゅんなんだろう。なんてかんたんで……下らない……

 相変わらずコトコトと揺れる車内で、彼女は膝で立ち上がった。歩くときは、いざり足の方が望ましい。高貴な女性は立ち上がるよりも座っている方が望ましく、寝そべっている方が好ましい、特に御帳台の中などで、じっと男のことを待つように寝そべっているのが……

「止まって頂戴」

 彼女は御簾を自身の手で絡げて、牛車を動かしている牛飼い童に向かって後ろから命令した。

 牛飼い童も驚いただろう。なにせ彼が今現在乗せているのは、この世の春を謳歌する、都随一といっていいほどの、高貴な身分の姫宮なのだ。そういう、下にも置けない、普段であるならば衆目にさらされるようなことはない、彼などは一生お目にかかれないであろう高貴な人が、その全身をさらけ出している……彼には、都の決まりで全身をがんじがらめにされている彼などには、その事実だけで、もうもう気が動転してしまって、おもわず牛を引く手を止めてしまった。そしてそこを好機と捉えられて、彼女は牛車から逃げ出した。

 もう一度。もう一度、きちんと”対話”することが出来たら!

 そうしてあの人に分かっていただくんだ。私の本当の気持ちを、あなたが本当はどうすればいいのかということを。お互いの一方的な意見ではない、お互いに話し合うことによって、別の場所に結論を置くこと……それが、ほんとうの意味での会話……分かり合うということなんだ!

 そして彼女はその時、実に十数年ぶりに、おのれの足で地面を踏みしめた。夜露に濡れた土はしっとりとしていて、それは足裏にごく良く馴染んだ。それはとても気持ちが良いものだった。彼女はその気分の良さが、足裏から全身を伝わってくるのを知った。でもそれはとても短い快感だった。彼女は、そのとても短かった、もしかしたら彼女のその一生の中で、一番の快楽だった数秒のことを、ずっと覚えていたかったとおもった。実際には、もう二度とおもい出すこともなかったけど。

 彼女の快楽は、とても短いものだった。それは、彼女の足が地面に上手く接地し続けることができなかったためであり、そしてまた、彼女の足裏が地面の冷たさを、心地よさを、長く実感できなかったのは、彼女がその、他ならぬ土を蹴って、みずからのその足で、走り出そうとしてしまったせいなのだった。

「あっ」

 短い声を上げて、彼女はその場に転倒した。ただでさえ活動には不便な、体にまとわりつく、なよやかでしっとりとした萎え衣装をまとって、普段から必要があるのかないのか分からない、一歩、二歩としか歩くことのない足は、走るようには作られていなかった。というよりも、そのための機能であったものを、彼女は、自らの意志によって不全にさせてしまっていた。彼女には足がある。だけどしかし、彼女の足は、走るためには用意されていないのだ。だから彼女はまっとうな理由によって転んだ。それは、”モノの使い方を間違えたから”だった。

 痛い。彼女は片手で、袴の裾から飛び出した、なにやらぶよぶよとして、まっちろい棒のようなものを撫でた。

 撫でてみても、そのゴムのような感触は、自身が自身の一部に触れているといった感覚を彼女にもたらさなかった。何かもっと別の他人の、自身からは切り離された物体を触っているかのようだ。これはなんだろう? どうして、こんなにさわり心地が悪くて、変にぶよぶよしていて、指が沈み込んだら、そのまま、形がくぼんで残っていくかのような……

 歩けない。

 彼女はその物体に触れながら、そのように確実な事実におもい至った。もうこれ以上は歩けないし、立つことも出来ない。立とうとすれば、このぶよぶよとした、わけのわからないものに激痛が走り、また私は再び、役に立たない自動人形のように崩折れるだろう。そのような未来が容易に想像し得るのに、わざわざ実行に移さなくてはならない理由はなんだろう。それとも、実際にやってみなければ本当のところは分からない? まさか……

 彼女は満月に照らされた自身の青ぶくれした太い脚を見下ろした。

 これは本当に、私の体の一部なのだろうか? 

 彼女は、はっきり言って、生まれてはじめて、自らの足を、自らの肉眼によって見下ろした。青ずんだ、やわらかな曲線などは描きようのない、どう形容するのが適当なのかもわからない、それは奇妙な形状のものだった。

「なんて……」彼女は息をこらえて、月夜に照らされて蒼光する、その不思議な物体を見ていた。

 なんて醜い……

「姫……」

 彼女は声のした方へ目を向けた。

「どうなさったのですか。牛飼い童が騒いでいるので、妙とおもって降りてみれば……女房たちは何をしているのですか? このような場所に、高貴なあなたが座り尽くしているなんて……」

 そこには男が立っていた。

 顔に見覚えはなかったが、声に聞き覚えがあった。彼女は目を細めた。月の光がまぶしくて、上手く見えない。そこに男は居るはずだ。でもその姿かたち、輪郭が茫洋としていて判然としない。

 じゃり、と土を踏みしめる音がした。

 満月だ。それがとても、ごく近くにあった。それは男の背丈すべてを覆うようにして、男のまうしろにあった。

 彼女の視界に突然、にゅるり、と奇妙に短い手のようなものが伸びてきた。それには五本の短い指が付いていて、それが全部、まっすぐに彼女の方へ伸びていた。

「さあお立ちになって。私の手を」

 そして、その兵部卿宮と、まともに、”目が合った”。

 男は息を呑んだ。それから男はその場に片膝をついて、じっと熱っぽく彼女を見つめた。

「ああ、姫。あなたは」男は声を、恍惚に揺らして呟いた。

「なんてうつくしい……」

 彼女は笑った。楽しかったからではなくて、その途端に、何もかもが馬鹿馬鹿しく、阿呆らしく、この世界のすべてがろくでもないものだというのが分かったからだった。このような醜いものを、この男は、うつくしいという! 

「誰か助けて」

 こんなところはもう嫌だ。こんなところには、もう一秒たりとも居られない。早く帰りたい。早く帰って、こんな場所に居たことは、こんな私で居たことは、すべて、全部忘れてしまいたい……

 その時、世界は点滅した。

 それから世界はものすごい光りに包まれ、全てが真っ白に、漂白されて、何も見えなくなった。

 そして彼女はおもいだした。そしてそれに安堵して、しかしすぐにそのような感情も御無用になり、すべてのことを忘れてしまった。

 その時彼女がおもいだし、そしてきれいさっぱり忘れ去ったのは、こういう感情だった。

 ああ、やっと、帰ることが出来る!

 なんのために、こんなところにやってきたのか知らないが、やっぱり私には必要なかったんだ。こんな、感情などという、やっかいで、つまらなくて、なんのために存在しているか分からなくて、その上薄汚いものは。そして私はそこから開放されるんだ。ひどい気分の浮き沈みからも、絶頂を感じて有頂天になることも、この世で一番さいていで、みじめな生き物の気分でどん底を舐めることからも開放され、私はもとに戻るのだ。感情などという厄介なものを感じる必要がない、静かで何もない場所……私にはそもそも、何も必要じゃなかった。”何も必要としない場所”こそが、私の必要な場所だったのを、どうして今まで忘れ果てて、こんなに”必要ばかりがある、”必要のない場所で、ああだこうだと下らないことを感じ続けていたんだろう?

 でももう、そんな必要もない。嬉しくも悲しくもなかった。ただそこには、たったひとつの事実だけがあった。

 私はようやくそこへ帰れるんだ!


****


 ぽっくぽっくと蹄の音が聞こえる。狩衣姿の女は、白み始めた明空の、そのまた向こうの山際をながめた。

 いつの間にか馬上で眠ってしまっていたらしい。彼女の愛馬は場上の主を振り落とすこともなく、彼女を西へと運んでいてくれた。馬上で目覚めた彼女は何とはなしに馬の鬣を撫でた。そして、顔を上げ、しばらく山向こうを見るともなしに眺め、そこで彼女は気づいた。

「ああこれ、逆じゃないの?」

 彼女は独り言を言いながら自笑して、愛馬の足を止めさせた。「逆だよ、逆! こっちじゃなくて、あっちに行かないと」

 栗毛の馬は哀れっぽい目で彼女を見上げた。

 彼女は馬から降りると、近くの木の枝に馬の手綱を止め、その木陰に自身の体を休ませた。

 ムシムシと生え草を食む馬を横目に、彼女は朝露に濡れる大木の幹に凭れて、まだ完全には目覚めきらないような朝の景色を見ている。

 尻は多少痛かったが気分は悪くなかった。それどころか、爽快といっても良い気分だ。

 確かに彼女の行動は計画的に行われたものではなく、衝動的で無計画なものではあった。頭に血が上ったそのままで、取るものもとりあえず飛び出してきてしまったせいで、万全な旅支度とは甚だ言い難い有様、ついウトウトウカウカ船を漕いでしまったせいで目的とは逆の方向へ来てしまったし、短気は損気、衝動的に物事を運んで良い試しなどあるはずもない。

 それでも彼女は、そういう状況を楽しんでいた。なぜなら、それらは彼女にとってははじめての”体験”だったからだ。なんでも体験のうちは楽しい。それがただの生活になってしまえば、億劫そのものでしかなくなってしまうものなのだとしても……

 彼女は携帯袋から焼米を取り出してポリポリとそれを齧った。当座の間は空腹もそれで凌げるかもしれない。しかし水分補給は? 携帯食料が尽きたら? いや、どうとでもなるだろう。街道沿いに歩いていけば、宿場もある、民家もある……

 街道といっても勿論この頃はまともな整備が行われていたとはいえず、いわゆる宿場などもそれに似たものは点在しているがそれぞれがきちんと機能していたかといわれれば疑問だっただろう。関所などもあるにはあったが各地に然るべき人材を割いて居たともまた言い難い。無法地帯ともいえないが、それぞれの関所では、その場を本来管理すべき官僚ではなく各地に潜む盗賊、山賊の類が管理運営を勝手に行い、通行税などと称して銭子を巻き上げている場所もあるくらいだ。であるからして、朝廷の庇護下に無い単独での街道移動はどちらかといえば避けるべきではあった。

 実際、彼女が再び西を目指して街道沿いをポックリポックリとやっていると、国境あたりで、むくつけき男の集団とでっくわした。

 そのうちの主格筋らしき貂の毛皮をまとった髭面の男が、なにがしかの言葉を馬上の彼女に向けた。しかし彼女は涼しい顔で、馬上からそのものたちを睥睨し、言った。「私は朝廷からの使者である。またこの道中は帝の勅旨あってのものである。速やかに立ち去れば悪いようにはしない。それどころか今のうちに立ち去れば、おのれらにも住吉大社よりの加護があるだろう」云々。

 彼女の口走った言葉はすべてでたらめでお上に対する敬意もへったくれもない、おおよそ不遜なものに違いがなかったが、それでも彼女を見つめる山賊どもの目に、畏怖に似た感情が走った。彼女の言葉は実際にでたらめではあったが、その言葉には威厳があった。威厳と、自信と、それから何をもを顧みない、冷たい無関心があった。

 彼女の落ち着き払った態度とともに、彼女の身にまとう装束も、彼女そのものの権威を、見るものの目に印象づけた。光沢のある、さらさらとした鬱金色の狩衣姿の美丈夫の姿は、それだけでその言葉、行動に対する傾聴を配さなければならないような強制力を持っていた。それから彼女は少し笑った。するとなぜか、毛むくじゃらのその男たちは、怯えるような表情を浮かべた。

 彼女はポクポク馬に乗って歩きながら、その日の宿を探した。後年において、街道沿いには宿場町が栄えたが、この頃にはまだまだ宿と立派に呼べるような建物は林立しておらず、ぽつぽつと、馬を休ませる程度の賤屋が点在している程度。彼女は夕日が沈みかけた山際を遠くに眺めながら、一晩の宿を借りるために、厩に馬をつけてから、その苔むした茅葺きの小屋へ入った。

 小屋の中は外から見るほど古びているわけでもなく、人が寝泊まりする程度には充分な広さがあった。竈があり、人が数人寝転べそうな板敷きの間がある。梁からは干した魚だの大根だのが下がっていた。彼女は板敷きの端に腰掛けると、ほうとため息を付いた。

「……………」

 つい、大した考えもなく屋敷を飛び出してきてしまったことを、反省しなければならない。無計画に行動に移したところで、目当ての人の正しい居場所を知っているわけでもない。けれど、あのままあすこにじっとして、女の身のままとなって一生を棒を振るようなまねをするよりは、よっぽどマシだろう、たとえ再び彼と相まみえるために、数年を要することがあろうとも……

 私には、男に仕えるよりも、生き物を孕むよりも、もっとやらなければいけないことがある。彼女の頭の中には快い、なにか清々しいような快感があった。

 コトン、と音がした。

 彼女が入ってきた入り口とは別の、厩に通じる西の戸が引かれ、薄暗い室内に光が差した。彼女は顔を上げた。男と目が合った。その男は、長細く大きな黒塗りの箱を背中に背負っていた。男は彼女の存在を認めると、片手を動かして荷物を背負い直した。

「おい、じゃまだよ」

 男の後ろから、別の男の声が聞こえた。男と彼女は同時に、その声の主の方へと視線を走らせた。男が戸口を退いて、小屋の中に一歩入ると、それと一緒に、後ろに居た男が顔をのぞかせた。「あれ、先客かな……」

 その男と目が合ったので、彼女は立ち上がり、軽く会釈した。彼女の立ち姿を認めた男は、急に張り付いたような笑みを浮かべると、「あら、大変だ」と、持っていた鼓のようなものを地面に置いて、なにやらへりくだったような態度で、「まあ、こんなむさ苦しいところに」と、言った。

「お前の管轄じゃないだろう」箱を背負っている背高の男が低い声で言った。鼓の男は、それを無視して、彼女に話しかけた。「都からお出でで? 荘園の方へ御用か何かですか」「あ、いえ、私は……」「ご安心下さいませ、私達は他所へ移りますから。この家のものも無責任でね、山に山菜取りに一度出掛けると、なかなか戻ってこないんですよ。あたしらがよく言っておきますから」「他へ移る? 何故ですか」「だって都のお大臣様と、一介の芸人が同じ宿では何かと具合が悪いでしょう」「そんなこと。気になさらないで」「え?」男の動揺を他所に、彼女は続けた。「今からでは他の宿を探すといっても苦労でしょう。それに、私の見た限りでは、この近くに宿舎は見つけられなかったようですが……」「ああいや……でも、ねえ」

 鼓の男は確認を取るように、隣でぼんやりと突っ立っている箱の男を見つめた。「いいんじゃないの。あちらが良いと言っていられるんだから」「でも……」

 鼓の男は戸惑いの仕草をした。そして、戸口の向こうを窺った。

 鼓の男の行動とは別に、背高の男は背負っていた箱をその場に下ろすと、瓶から水を汲み、足を洗ったり、草履を軒に干したりとどんどん身支度を始めていく。「あれ? えー、どうする?」

 鼓の男は戸口の向こうの誰かに話しかけている。

 彼女は、無造作に置かれた細長い箱を眺めた。い草のにおいがする。彼女は目を細めた。

「開けてみますか?」

 低い、艶のある声だった。彼女は顔を上げた。新しい草履に履き替えた男が、土間に立っている。

 黒く鳥の巣のようにねじれた髪が首元辺りまで伸び、四角い顔には不精髭が散っていた。日に焼け、カサついた赤茶けた色の肌と、静かな光をたたえた目は、彼女がそれまでに、あまり目にしたことのない姿かたちをしていた。「何?」

「箱」

「箱?」

「いいから入れよ。もう、俺は知らないよ」

 戸口でガタガタと、男と女が口論している声がして、彼女は首を巡らせた。

「こっち!」

 男の声がして、彼女は再び首を正面に向けた。

「うわあ!」

 彼女はびっくりして、おもわず大きな声を上げてしまったが、男はそれが楽しかったらしくて、乾いた声を立てて笑った。

 彼女のめのまえに現れたもの、それは大きな毒々しい色をした振分け髪の、童型人形だった。それが、黒い髪を振り乱して、彼女の眼前に突然躍り出た。童型人形は左右に揺れた後、その横から男が顔を出した。「びっくりした?」

「……………」

「ほら、ご挨拶しなさいよ」

「……………」

 彼女が男の質問に答える前に、別の男が見慣れない女を引いて、彼女の前へ立った。麻のそまつな小袖姿をした、小作りの女だった。しかしその眼光はするどく、ぎらぎらと白目を濡らした目をして、その少女は彼女のことを見ていた。

「ほら、挨拶」ただ黙っているだけの少女の言葉を促すように、鼓の男がせっつく。

「……………」

「お前、挨拶くらい……、ああごめんなさいお役人様。挨拶も満足にできないで」

「いえ……」

 少女が黙ったままで居るので、鼓の男はむりやりその頭を下げさせた。それでも少女は黙っていた。彼女は少し笑った。「あの……。お気になさらず。私の方こそ、突然お邪魔をしてしまって。一晩で構いませんから、ご一緒しても構いませんか?」「とんでもない。もったいない。私らなどには気兼ねしないで下さいまし。私らなど土間でもじゅうぶんねむれるのですから」

 などと、言いつつ言われつつ、彼女は一晩の宿をそこへ取った。

 一行は三人組の傀儡師だった。普段は狩猟などで生計を立てているが、まつりの季節になるといそいそと出掛けてきて、街道沿いに各所の神社などで見物人の前で演芸披露と洒落込むらしい。彼女は宿の主人が取ってきた山菜料理を食べながら、彼らからそういう話を聞いた。

 酒もちょっぴり入ったその席で、彼らは一芸をお目にかけようとしてくれたが、彼女は手を振って、「いや、いや。それには及びません。そういったものはきちんと対価を払ってのち行われるべきものです。私は今、路銀もすくないし、あなた方の労に報いるほどの対価を払えるものともおもえません」「つれないことをおっしゃる!」

 鼓の男はにごり酒に酔った頬をして、ほがらかに言った。「お近づきのしるしに。ぜひ」


「とうとうたらりたらりら……」

 彼らの演芸はなるほど素晴らしかった。たった三人ぽっちで、よくもこれほどの立ち回りができる、とおもわれるほど、くるくるとそれぞれがそれぞれの役を全うし、二体、三体の人形を使って、その物語を進行させていくのだ。彼女は久々に、生きる快楽に酔った。なるほど世の中という場所には、それぞれに素晴らしいものが存在するものだ。たったひとつの場所のみに拘泥して、その場所でのみ与えられる価値観や快楽のみに終始するのでは、どうも生きる甲斐もないというものだ、と、彼女はおもった。「ああ、素晴らしい、素晴らしい。あなた方は本物の芸術家です」

 で、浮かれきった彼女は、平気でそういうことを言っていた。

 彼女はそれから傀儡師たちから色々と話を聞き(鼓の男は彼女同様、中央からの流れ人だった。数年前、受領連について下向してきた後、そのまま中央に戻らず任地へ居付いて数年を過ごしていたが、その判で押したような生活に嫌気が差し、土地を出てふらふらしているうちに、気がついたら傀儡子の仲間入りをしていたらしい。最近はそうやって、昔の彼同様に、入団を希望する者が後をたたないが、しばらくすると傀儡師としての生活の面倒に音を上げるらしく、朝起きたら居なくなっている、というようなのはザラで、結局元の三人に戻ってしまう、など)、自らも話した。事情あって都の生活に愛想を尽かし、その職務を捨てて流れ者になるべく行動したこと。それまでの都での生活、そこで作った物語のこと、現在の情勢のこと……二人の聞き手は興味深そうに彼女の話を聞いた。それで、近頃では手頃な話し相手に飢えていたこともあって、自然に彼女も饒舌になった。

「マッポーってなんですか?」

 いつの間にやら彼女お得意のブッキョー講義に座の話題は移っていて、しばらく二人は我慢をして彼女の話を聞いていたが、やはりよく意味が飲み込めないので、背高の男が代表して、疑問した。彼女は手振り身振りもまじえて、それに答えてやった。最初のうちは男の方も「はあ、はあ」と気のないような、しかし返事はしていたものの、再び黙るようになった。

「……つまり何をしたって結局むだだってことですよね。そもそもの話が、正しい法が隅々までにゆきわたっていないというわけで。これでは、こちらがどんなに正しいとおもうことをそのまま直接遂行したとしても、その正しさが決して流布するようなことはないんです。だって末法の世というのは、本来であるならば正しいとされることが悪に、本来であるならば正しくないということが善になるようなねじれが生じているということになるのですからね。人のことは蹴倒にしても出世しろ、弱きものがまったくの弱きものでいるのはその人の責任なのだから、まっとうなわれわれが手をこまねいてまでしてそれを立たせてやる必要はない。そんなものは人生と時間の浪費なのだから。……僕は宮廷生活において、様々に、そのような場面を目にしました。しかし、今の僕は、それらの悪をおのが正しいとおもう道へ指導してやろう、修正してやろうなどという、一種ゴーマンともとれる考え自体を諦めてしまっているんです。なぜって、根田から腐っているものはもはや修復など不可能なのですから。

 もともとが腐りきっているものを、どれほど漆喰や膠で塗り飾り立てたところで、その根本は、どうしても代えのきかないものであるというのは明白なんですからね。このような人たちに構いつけている時間こそ、本当の無駄な時間というものです……」

 女はしたり顔でそういうことをいつものとおりにべらべらとやっていたが、それを聞いている男たちの反応が、予想していたものより遥かに薄いので、オヤどうしたのだろうとおもって、彼女は開きかけた口を一度ぱくんと閉じた。

 彼らはなにか哀れなものを憐れみ、同情するかのような目で、彼女を見ていた。そしてそれを見た彼女は、その表情の理由を不思議におもった。なぜなら、彼女は、他人からそのような種類の視線で、おのが全身を眺められたということが、いまだかつて一度もなかったからだった。

「ちょっと、よく、わからないな。あなたの言っていることは……」男は悲しそうに首を振った。「それではまるで、あなたのほうが悪者みたいにきこえる」

 何を言っているんだ? と彼女はおもった。

「……自分さえそれらの濁流にのまれること、まきこまれることを回避できさえすれば、後の他人はどうでもいいという見解とも見受けられてしまうということでしょう」

 鼓の男が、背高の男の言葉を翻訳するように言った。

「いいえ、いいえ。それは違います」彼女はいくらか焦りあえぐかのように、「末法というのは、何処の誰であろうとも、そういった濁流にまきこまれることから逃れることが出来ない、ということです。この濁世でのあだ花を咲かせるものどもも救われなければ、その汚辱を良しとせず、みずからをこの濁世に咲いた一輪のけがれなき花としてその花実を散らすものもまた救われない。濁流のなかからのがれられたものは幸運であり、その濁流のなかで漂うものは不幸だというわけでもない。末法に生きるものは、その出自、環境の高低はあれど、みな平等に耐えざる不幸に耐えている。そしてこの私やあなたもまた例外ではないということです。私だけが特別で、その波から離れたところにいる、などということは、この世の中においてはとうていありえないことなのです」

「なんだかよく分からないようだが」男はしかし、少し口元を楽しそうに緩ませて、彼女の講釈を一段上から眺め下ろすような目をした。「弁の立つお役人様に、そうして滔々と言い聞かせられてしまったら、私など無学なものは、ハイそうですかと頷くしかありませんけれどもね」顎の髭あたりをざらざらと撫ぜ、「でもやっぱり、あなたは腐ってもお役人様ですね」と、言う。

「……僕が?」

 彼女はうろんな仕草で鼓の男を見た。男は、ちらりと彼女の方へ一度視線を向け、すぐに反らした。

「それは、そうでしょう。あなたはうつくしく、地位と名誉に一度はめぐまれて、その人生のすべての快楽を恣にしたことのある人だ。それで、そのうちにそれにも飽きて、このような下賤なものらと、今度は下賤な楽しみを恣としようとしている。これほどぜいたくの似合う人もいないでしょう。僕などつまらない、虫のようなものは、あなたのことを羨ましがることすら剥奪されているようなものですからね。何しろ差がありすぎる。差が開きすぎているということは、その距離の上下も、左右も、まったくつかめないということです。つまり、仰ぎ見たらいいのか、地平線の彼方を眺めたらいいのか、そのどちらかすらも、分からないようなんだな。これでは比較のしようがない。そしてそれはあなたも同じことです。あなたは僕も、あなたも、どっちにしろ末法とやらに生きているのだから結局は同じこととしてしまうが……それだって、明確な差異が分からないからこその放言でしょう。あなたとわたしが同じ生き物のはずがない。そんなもの、一度見れば……わかることではありませんか」

「あなたはほんとうに、理路整然とした人だなあ」

 しかし、彼女は鼓の男の軽蔑の言葉に何ら感じることのなかったかのように、それどころか、彼のその態度にまったく感心したというような態度すら見せ、彼を称賛してみせた。

「なるほどね。僕は悪人ですか」

「…………」

 彼は、青白い月に照らされた、彼女のまっしろなそのしろおもてを見ていた。

 それはとても恐ろしいものだった。うつくしいものとは、動かないものだ。なぜなら、うつくしいものというのは、大体において、人工的なものだからだ。自然界にはびこるものは、往々にしていびつだ。均衡を欠いている。どこかに存在としてのずれがある。例えばそれは、顔の部分の配置の不味さであったり、体全体を見たときの均整の崩れや歪みであったりする。ひとつの個体がある。その個体が個体としての全を為すことなく、一部に欠けやいびつが生じる。それによって観察者はそれが人造のものでないことを確認する。欠けたるわたしとおなじような、”生きている”生き物だと認識することが出来る。

 でも、すべてが満たされ、その個体が十全と、それだけで完成されている時、人はそれに生命を感じることが出来ない。自分と同じ生き物であることを認められない。僕はこれほどまでに様々なものが欠けているが、かろうじて生きている。このようにかろうじていることの出来るおれなどというものがそれでも”生きること”を現在進行形で可能にさせることができているのに(つまり欠けていても生命を持続させることは出来る)、この完全とした、超然としたものはなぜおれなどという、欠け者と同じくして”生きている”ことが可能になっているのだろう? 欠けていても生命であることは可能だ。しかし、欠けていないものもまたこうして、生命であることが可能になっているのなら、生命の満ち欠けとは何だろう? このような不平等が、同じ生命間のなかで行われ得るはずがない。欠けている俺が生きている。それならば、欠けていないあの人は、もっと”良く”生きることが出来なければ、帳尻のあわないことになってしまうだろう……

 この人には”ずれ”がない。絵に描かれたシミもシワもない虞美人のようにまっしろで余計なものが付着していないでうつくしい。その考え方や行動までも、どこまでも直情型で、おのれの欲望に忠実なさまは、うつくしいと形容しても適当におもわれるほどだ。

 だかそのうつくしさはとても冷たい。冷たくて、残酷で、目を背けたくなるほどだ。でもそういうものを、多分、人はうつくしいものと言うのだろう……

「あなたのような性質の人が、中央の生活に飽き飽きしたというのも分かるな。あそこにはひとつの正解のみに価値を置く人ばかりだから」

「……………」

「誰も彼もが、同じ方向の同じ場所にある何かをその都度得て、その得たものに各自で満足を得るなんてことは退屈だよね。退屈というより……虫みたいだ」彼女は言いながら笑った。「彼らにとっては火に飛び込むのも花の中に潜り込むのもみんな同じなんだよね。こっちの蜜は甘いぞ……と誘うもののところへ、ふらふらとついていって、死んだり、蜜をなめたり、しているんですからね」

 何がそんなに楽しいのか、知らないが、彼女はうつくしい顔の均衡を崩して、楽しそうに笑っている。「でも蜜を舐めようがみずから火に飛び込んでいって死のうがどっちにしろ最終的には同じでしょう。身分の上下も左右も、楽しみも悲しみも皆同じです。そういう考えが悪人のようだといわれてしまうのなら、きっとそうなのだろうが」

「それは……そうでしょう。あなたにとって、あなた以外の人というのはみんな虫のように見えるんだろうな」

「虫?」

 女と目が合った。彼は息を呑んだ。虫というより、今の俺は、蛇に睨まれた蛙みたいになっているな、と、ぼんやりおもった。

「あなたが?」

「僕も……みんなも。あなた以外は全部」

「虫か……」

 自分で言いだした話なのに、彼女は、つまらなさそうにその言葉を口から放ると、ふいと視線を外した。彼は、それを残念におもった。「もったいないことをした!」と、おもったためだ。

 確かに、彼女のきれいな目で自身を見つめられるというのには、ひどい嫌悪感が伴った。それは、そのきれいなものに写っている自身の姿が、果たして、そのうつくしいものの見るに値する対象になっていかどうかというのに、自信がないからだった。そのようなうつくしいものに見られているみにくい己の姿が恥ずかしい。しかし、その視線が反らされたら反らされたで、悲しい。もっとよく見ておくんだった。あのうつくしいものを。もったいないことをした……

次の日の朝早く、傀儡師一行と、彼女は最後の挨拶をするはずだった。

「どうかまた会いましょう。今度お会いしたらぜひ、あなたの以前描いたという物語を人形劇にして巡業したい」

「いや、でもあれは私ばかりが考えたのではなく、みんなで一生懸命になって考えたお話であるから、とても私一人の一存では」

「脚色すればよろしいでしょう。どうせ本どおりの内容になるはずもないのですから。人形の個体数もありますので」

「ああ、しかし、そうなったら楽しいだろうなあ」彼女はしみじみとして、「私はこれから西へ回るのです。差し支えがなければ……私も一緒に道中を共にするというのは、難しいことでしょうか?」と、つい言ってしまった。

 話をしていた鼓の男は、びっくりしたように息を呑んで、言葉を止めた。「それは。こちらとしても願ってもないことですが」うつむき、「しかし、僕たちはたった今まで、西を巡業して回ってきたばかりなのです。これから二月ばかりは、東の方へ行ってみようとしていたのですが……」

「ああ、困らせてしまったな」彼女は穏やかな様子で言った。「すみません。あなた方との一夜がとても楽しくて。つい、無理なことを申しました。忘れてください」「いや、とんでもない!」鼓の男は目を見開いて、「むしろこちらがお願いして、座付作者として着いてきてほしいくらいです。正直言って、たった一夜のことではあったが、私らはあなたのお話やその立ち振舞に、まったく魅了された。本人をめのまえにして、このような告白をするのはふらちめいているかもしれないが……」

 鼓の男は首のあたりを恥ずかしそうに撫でて、「あなたのような方といっしょにたくさんのお話をしながら旅を続けたら、飽きることがないだろうな。僕などは、どんどん質問ばかりをして……あなたを困らせる結果になるのは目に見えている」「別に、困るということは」「いいえ、僕などは。……駄目ですよ。とてもじゃないけど、あなたのお話相手を立派に務められるような才能の持ち主ではありません」「ただの会話に、才能も何も無いとおもうんだけど」彼女は苦笑して言う。

 それから彼女は、自身の身の上を短く話した。都を逃げ出したこと、少し不都合があって、都のものが彼女を探しているかもしれないということ。そして彼女には、西へ行く目標があるということ……「その目的のためには、私は途中で捕まってしまうわけには行かないんです」「捕まってしまう……って」そこで鼓の男は穏やかではない言葉の使用に怯えて、「なにか悪いこと……いえ、このようなことをお聞きするのは失礼だろうが」「ええ、まあ……」彼女はちょっと恥ずかしそうな素振りを見せてうつむき、「何と申しますか。お恥ずかしい話ですが」「はあ」「端的に申せば……」

 端的に申せば……何だろう?

「こちらが決して積極的にはなれない婚姻から、逃げてきたんです」

「あら、あら、あら」

 彼女のとっさの言葉は彼の理解の範疇にきちんと着地していたらしかった。彼女のもっともらしい理由は、実にもっともらしく理由として作用した。男は同情を込めた目で彼女を見た。嘘をついている? 嘘をついて彼の同情を買って、それでうまうまと道中の安全を確保しようとしている? でも、私は嘘を言った覚えはない。それに、あのまま唯々諾々としてあの男の言うなりに従っていたとしたら、一体どうなっていた? 好きでもない男のこどもを産み育て、それで詰まらない生活にその一生の花を散らすために、私は今までに生活をしてきた……とでもいうのか?

「それは……大変なことでしたね」男は深い慈しみのようなものを声に乗せて、彼女をじっと見つめた。「都での生活は一見華やかなようだが、その内実はそれぞれに苦労なことも多い。我慢できるようなものならばいいだろうが、よっぽど腹に据えかねる縁組だったのだろうな」「いえ、まあ」彼女は男から視線をずらし、「私が……我慢の効かない性分というか。早い話が我儘なんですよね。納得のできないものは納得できない。融通がきかない、頭の固い……どうしようもない性格が、こうした衝動的で短絡的な行動を引き起こしてしまった。そのせいで、こうしてあなたにもご迷惑を……」「迷惑、とんでもない」男は急ぐように首を振って、「迷惑だなんて、ちっともおもわない。それよりも僕は感謝をしているくらいです、あなたのその、無鉄砲な行動の結果を……」「無鉄砲」「あ、済まない。言葉が乱暴すぎましたね」「いいえ。実に的確だなと」彼女はそこで微笑んだりして、「やはりあなたは楽しい人だ。こうして少し話しているだけでも、私はとても楽しい気分になる」「それは、嬉しいな……僕もまったく、同じ気持ちです」

 などと、言い合って、二人でニコニコしあっていたが、そこへ横槍が入った。

「駄目だ」

 彼女は対面で話していた鼓の男の向こうを見上げた。そこには背高の男が、山際から上ってくる朝日を背にして、燦々と立っていた。

「東へ行くんだ。一度決めた目的を、途中でねじまげることはできない」

「でもさ、」鼓の男がとりなすように、「お役人様だってお困りの様子なんだし、そう無下にするようなことでもないだろう」

「駄目だ」

 それからニ三度の会話の応酬があったが、背高の男の意志の方が固かったために、彼女の同行の件はお流れとなった。


 荷支度をしている背高の男が小屋の中へ入っているあいだに、鼓の男はひそひそと彼女にだけ小声で話した。「こうなってしまえば、もう俺はあなたのことをひとりだけにして、このままはいさようならとしてしまうことはできません。どこかで落ち合おうことにしませんか? 偶然を装って……同じ旅空で、偶然の再会ともなれば、あいつも少しは頭の固いところを軟化させるでしょう」「いいえ、とても、そこまでのことは……」「いいえ、お願いします。どうか。これは俺からのお願いです。それに、どんな立場にせよ一人旅は危険だ。これはいくらあなたでも、きちんと自覚していなければならない」

「ありがとう」

 彼女は言った。

「それでは、運が良ければ……街道沿いのどこかの神社ででもお会いしましょう」

「俺は本気で言っているんですよ」男は多少言葉を荒げて、「あいつをもう一度説得するのでもいい。とにかく、一人でなど無茶だ」「ありがとう。本当に。しかし……」彼女は朝日のまぶしいのに目を細めて、「私は一日でも早いうちに、西へと足を進めたいのです。それを間違えて東の方へ粗忽にも来てしまったような体たらくで。勢い込んで話す話でもないが」「いっしょに西へ行ってもいい」「それは良くない。私はあなた方の利益を損なわせるために、こうして偶然の出会いにめぐまれたというわけでもないのですから」「でも、」「二月。その間別れ別れになりましょう。それからいっしょに傀儡芝居をしましょう。昨日話したお話なんかは、まだまだあるんです。あんな話を、あなた方の素晴らしい人形芝居と共に人々のお目にかけたら、どんなにかいいだろう。ああ、そんな想像をするだけでも楽しいですね」彼女は笑って、「二月したら、西へ続く街道沿いの宿場やなんかをお互い虱潰しにして、お互いを見つけ出しましょう。そしたらその後はお互いがお互いを利益し合える素敵な道中になりそうですね。それまでどうかお元気で。私も死んだりしないで、健康に暮らします」

 さて、彼女は今度こそ西へ。


 彼女はその宿屋に次の日も宿泊した。近くの市まで出掛けて、質の悪い麻や木綿の布を買い込み、一日中ちくちくとやっていた。それから狩衣のかかり糸をほどいて、それを布地に戻すとくるくるとそれを丸め上げた。

 きっと、というよりも当然のように、彼女は謀反者か何かとして、追手が手配されていることだろう。されていないのならばそれはそれで構わないが、用心に越したこともない。目的を妨げるものは、一つひとつ潰していくのが常道だ。彼女はその日一日掛かって、一着の水干と、それから女物の小袖を縫い上げた。次の日の出発の日、彼女は布地に戻した狩衣を市で売って、それぞれ必要なものを買い求め、ポクポクと西へ向かった。


****


「えっ。夜逃げ?」

「たりめーだ」男は言った。「おれたちを無意味に縛り上げる領主サマのトコいつまでも居たってらちあかねーべ? 三十六計逃げるが勝ちってもんですよ」

 宿屋がなければ民家に泊まるしか無い。それにしたがって彼女はその民家に一晩の宿を取っていたが、夜半になって家人が騒ぎ出したのでなにごとかと起き出してみると、これから夜逃げするとの由。

「えっ」なんで今日に限って、わざわざ。

「そんなことは知らないよ」彼女が尋ねると、家主はうるさそうに言った。「前々から計画していたことなんでね」

 その口調の余所余所しさの中に多少の後ろめたさのようなものが滲んでいたので、彼女は、おやもしかしてこういう機会、つまり宿客が来るのを待っていたのかなとおもったが、別にそれならそれで(どうだって)良かったので、黙っていた。

「でも、この家は?」

「こんなほったて小屋どーってことねえよ。カラスにでも住まわせておけ」

「はあ……」

「あなたもいつまでもこのようならちもないことばかりしてないで、早くこんな場所からは出ていったほうがいいですよ。こんなところに長くいたってろくなことにはなりませんからね」

 などと、言い残して、乳飲み子を抱えた一家は小屋を出ていった。

 一人残された彼女はあっけにとられつつも、はー、これがいわゆる善・美・利ってやつかとひとり納得していた。

 利益がなければ意味がない。この場所に彼が住んでいたのは、それによって彼が利を得ること多かったからに違いない。そしてたった今それが覆され、というよりも何らかの原因によって利よりも害のほうが重さを増してしまった。そしてその害というのは自らの力で覆すにはどうすることもできないものだ、それならば、そのような荷物はすべて捨ててしまって、今よりも利が重くなるような場所を探したほうが良い。下らない荷物など背負う必要はない。それによって益するのは、その背負い込んでいる本人に荷物を押し付けて楽をしている、収税人の方なのだから。なぜそのような人物をこちらが益してやらねばならないのか? それは賢く、正しく、そしてなによりもやはり「利」にかなっている。そしてその荷物を改めて背負う他人が居たとしても、それは当人にとっては関係のない話だ。他人が苦しんでいる? でもそれは”俺”ではないんだろう。俺が苦しまないのなら、誰が苦しんだって別に良いよ。だってそいつは俺ではないんだからな。なんという個人主義、それほど合理的な考え方は無いだろう……

 いやいや、どこぞのお役人よりも、よっぽど個人というものを大切にしているといっていい。賢くて利口な人など何も中央のみの特権というわけでもない。その一人ひとりと、酒でも交わしながらじっくり話し合ってみれば、きっと楽しいことだろう。そのような機会が、私の人生にきちんと用意されていればよかったのに……、いや、これからでも遅くはない? しかし、話そうにも、開け放たれた扉から、家主一行はすでにこの村から出ていってしまった……


 そして、季節は夏から秋へ、その間にも彼女はそれまで履いていた沓を履きつぶし、水干姿にわらじ履きで、ポクポクと街道沿いを歩く。

 どうせ男の格好をしていたとしても、中央の人間には既に、女の身だと喝破されているのだからと、彼女は男の格好のまま旅を続けていたが、何者かにその身を誰何されたことは、今のところ一度もなかった。いっそのこと、頭を丸めて、坊主のまねごとでもして托鉢を持って行脚すれば、誰にも不審がられることなく宿を借りることが可能になるのでは? と考えもしたが、真面目な性格の彼女からすれば、寺からの得度を受けているわけでもないのに、そのような不用意なまねはできない。しかし都から出てきた、着の身着のままの格好で、ふらふらしているわけにもいかない。ならばどのような格好で”ふらふら”しているべきなのか?

「とうとうたらりたらりら……」

 秋も深まり紅葉も風にとうとうたらたら揺れる頃、彼女は一夜の宿を借りた集落の近くで、襤褸をまとって歌を歌う女を見る。

 ちりん、ちりん、と安い鈴の音が短く聞こえて、それは女が歩くたびにキチキチと鳴った。空洞を強く振動させるような深みのある音ではなく、小さなゴミが、小さな空間の中を精々不均等に行き来するような、短く乾いた音だった。

 女の髪は乱れ、もつれ散り散りになり、その女の通った後には空気の濁ったようなかおりがした。女はどこを見ているわけでもなく、どこか焦点の定まらないような目をして、ゆらゆらとした足取りで、彼女のめのまえを通過した。

 そういう女を今までに、二度ほど目撃した。着物の破れ具合や髪の毛の長さから、別人というのは知れたけど、短い間にきみょうななりをした、しかし同じような女の個体を目撃したことに、彼女は疑問を持った。そして尋ねた。

「お役人様ってのは、ほんとお役人サマだね」

 尋ねられた相手は彼女を軽蔑したように見て、その愚問を鼻で笑った。「危なくなんかありませんでしょ。一体何に対して、危険を感じれば良いのですか」

「それは当然、野盗、男、獣」彼女は馬鹿正直に答えた。「女の身で……あのように、ふらふら、ふらふらと。まるで襲ってくれとも言わんばかりの無防備な様は、見ていてハラハラしてしまう」「私はいつもおもうんだけれども」

 以前に荘園の”所”で木っ端役人として働いていたと話すその杣人は、久しぶりの都の風に当てられたのか、言葉による他者との交流に幾分勇み足になりつつ、彼女に食って掛かった。

「お役人って、皆さんの生活を保証するためにいられるんでしょ? 私ら作人が額に汗して労働して、せっせせっせと労力になる代わりに、その基盤を保証……というよりも労力に足る環境であると証明するための国造りとやらが仕事なんでしょ。そうじゃないの?」「まあ、そのとおりでしょう」「花鳥風月を愛でることとか、都落ちして金策に走ることでもない。そうでしょ?」「まあ、そのとおりでしょう」「私も、すべての役人連中が不正を働いて、だらだらとやることもやらずに別のことにかまけているとは言わないよ。言えませんがね、しかし、お国を統べようとするお仕事をなさろうとするあなたがたが、そのような無知蒙昧ぶりではおおよそ心配になってくるな」「はあ、それはどうも」彼女は短く頭を下げた。その様子に幾分気を良くしたらしい男は、続けて、「つまりさあ、ああいうものは襲えない。そういう不文律になっているの」「……はあ」「そういう民衆に広く染み込んだような常識を、あなた方は知らなすぎる。第一恐ろしいとはおもいませんか。ああいった手合のものに無計画に触れて、その後どのような災が起こるのか、考えてみなくても想像くらいはできるでしょう。彼女らは神聖で、かつ汚れ果てている。そのようなものに危険を承知で、向かっていく必要はない」「神聖……とは神がかりのようなものですか」「まあ、そう言い換えてもいいでしょう」「あなたがたの共通認識として、女ひとりの身であっても、手出しは無用ということですね」「そうです、そうです」なぜか男はそこで、それ自体を誇るような言い方をした。彼女にはそのような声色の理由が、少し分かる気がして、男に同情を覚えた。

 女一人の身であっても旅は可能だ。つまり、神がかりの振りをすれば良い。元結を切って、髪をざんばらにし、襤褸をまとってふらふら歩く。その足取りは決して軽快ではあってならず、口にするのは意味不明のどこかで歌われたはやり歌……彼女も、中央からの捜索を逃れたいのならば、ぜひそのような扮装をすべきだ。男の身で奇妙な一人旅を演じて不審を買うよりも、よっぽど利口な行動だろう……「とうとうたらりたらりら……」

 しかしその杣人が都での生活を知らないようにまた、その男の共通認識の外側に存在する他者もまた存在する。

 女が死んでいる。まだ朝霧が出るような頃の、木のかおりで噎せ返るような、においたつ朝のことだ。

 野犬は女の、梢みたいに伸びた足を、真っ赤な舌で舐めていた。女の裸体は乾いていて、しかしそれにはしっとりと水滴が張り付いている。それは野犬の舌を潤すだろう。生は誰かの快楽のためにのみ効果を発揮するわけではない。死んでようやく荷が降りたと安堵する生の元保持者の意見もあるだろう。そして死んだとしても、その死体は誰かの役に立つ。それならば徒に永らえさせるような生よりも、もっと有効な死というのも存在するのでは? 

 だけど彼女には目的がある。それは、生の状態に我が身を置かないでは、達成できない類のものだ。いや、そうに違いない。そうでなければならない……?

 話がしたい。会って、もう一度だけ、話がしたい……

「とうとうたらりたらりら……」

 そして彼女は根城にしていた社から転び出て、駆け出した。

 正確には、二月とそれから半月ほどが過ぎていた。あの鼓の男は彼女との約束を守ってくれた。

街道沿いにある人の出入りがある土地土地の神社では、季節ごと、行事ごとに祭りの準備が行われ、活気が生まれる。そこへは旅のものが行商へ来たり、芸を披露したりとにぎやかなことこの上ないが、その活気に華を添えるようにして、旅の一座でもやってくれば、祭りの気分は益々高揚していく。

 彼女はその土地々々で宿を借りた神社で、時々そうやって芸事を披露する集団に出くわした。彼らはそれぞれにそれぞれの技術や力で持ってそれぞれの芸を披露していたが、彼女が東の国で出会った一団よりも上等な芸を披露していた一座は、彼女が目撃した限りでは一組たりとも居なかった。彼女は、彼らの芸を見聞きするたびに、記憶の中の一座の姿をおもい返して、それらと現実で起こっている芸とを引き比べた。そして、いつだって軍配が上がるのは記憶の中のそれで、それらは多少、時間を経ることによって美化され抽象化されていたのかもしれないが、それでも美化を補ってあまりあるほど、記憶の中の彼らの演芸はあざやかに、彼女の心のなかに残り続けた。

 どうせ共に旅をするのならば……彼女は考えた。

 どうせなら、一番良いものが良い。他から秀でるというのは良いことだ。それによって、われわれは、他と他を他ではないものと認識することが出来る……

 そして彼女は顔を編み笠だの布切れなどで顔を覆い、裹頭のまねごとなどしてみて顔を隠して歩き、結局僧侶と勘違いされて道端に立っていたらおむすびをお供えされたり、して、ようやくの再会と相成ったわけだった。

 しかしその再会は、誰にとっても偶然の奇跡として歓迎されるとは限らない。だから背の高い、丸太のような体格をした男は、ぬーと彼女を見下ろしながら言った。

「理由がないと一緒には行かない」

「ちょっと止めなさいよ」その隣の男がとりなすように、「お役人様がこれほど腰を低くしてお頼みしているのに……」

「私は……」

 それはそうだろう、と彼女もおもった。彼の反応は全く自然で全く正しい。共同体に異分子を取り込むことは、それを介入させることに依る利益の発生が生じないことには行われ得なくて当然だ。だから彼女は彼に対して自身を売り込まなければならない。その理由。理由……、そして、その理由を話そうと彼女は口を開きかけて、閉じた。

 理由? “彼”に会う理由は何だろう。それはただもう一度だけ会いたいからだ。でもそれでは正当な理由にはならないだろう。正当な理由としては薄いだろう。それならば、それでは……

「私は仏法を学びに」と、彼女は言った。「もうこんな世の中にはほとほと愛想が尽きた。ついては仏門に入って修行し、仏の道を極めたい。その教えを乞うための人物が、私の求めるものです。しかし私は許可もなく朝廷を飛び出してきて今は追われる身……無理を言っているのは承知です。そのうえで、僕を一緒に連れて行ってくれませんか?」

「坊主になるだけであれば何も、そのような苦労をしてまで旅をすることもない」背高の男は言った。「それとも、どうしてもその人でないといけない理由でもあるの?」

「その人でなければ意味がないのです」彼女は静かに首を振った。「その人の教えでなければ僧になる意味もない。僕は……本当なら、ただその人にもう一度会いたいだけなのかもしれないんだ。しかし、ただその人に再会したいという理由のみで、あなたがたに要らぬ荷を背負わせることはできないでしょう。

 私には私にとっての理由があります。しかし、それが万人を納得させうる理由になっているかどうかは、私自身でも甚だ疑問を抱かざるを得ないというのは分かっているんです。……こんな奇妙なお願いごとが、果たして叶えられる価値があるのかと問われても、それに正確に答えられる回答を持っているわけでもありません。それは皆さんの判断にお任せし、こちらは皆さんのご厚意にお縋りするしかもはや残された選択肢は存在しないのだと……こういうわけです」

 視線を落としてぐだぐだと語る彼女に対して、三人はおずおずと顔を見合わせた。

 三人のうちのひとりの少女が、鼓の男の服の袖を引いた。男は少しかがむと、彼女の話に耳を傾けた。そして、鼓の男が代表して、彼女のその告白に答えて言った。

 さて、ここにおいても、彼女の美貌、うつくしさは彼女の役に立った。数ヶ月湯浴みをしないせいで髪には油が浮き、頬はすすけ、装束は汚れていたが、それでも彼女がうつくしい、なにやら他人の目に映ってうるわしいさまは、充分に見て取ることができたからだ。

 実際、三人組の中の少女が鼓の男に耳打ちしたのは、そのような内容だった。

 人はうつくしいものにごく弱くできている。そこへ、傷つき果てた、自身ならば到底もちようのないうつくしさを有した他人が、”他ならぬ俺”接触してきて、何らかのものを乞う……そのときになってわれわれはどうするか?

 場に、みしらぬうつくしい人がいる。きれいだ、とおもう。話しかけたい、話しかけられたい、とおもう。するとそのうつくしい人が、あなただけに、微笑んで、突然、あなたに対して何らかの話を持ちかける……マルチか? ネズミ講!? 用心深い人はそう疑うかもしれない。しかし、話を聞くくらいなら、構わないのじゃないか……そしてわれわれはまんまと、騙されたり、騙されなかったりしてしまう、と。

 こんなにうつくしいひとが困っているんだ。助けてあげなきゃ。助けてあげる”価値のある”人なんだから。そして彼らは甚だ正当性に欠けるような、彼女の我儘を受理してしまった。特に三人の中にいたその少女は、彼女に微笑みかけられて、手なんか握られて、それだけでぼんやりしてしまい、すっかり夢見心地になって、そのまま彼女のことをうっとり見つめたりしてしまうのだった。

「はあ、まあ、それほど赤裸々に心中を打ち明けられてしまえば、こちらも応えるしかないというのが正直なところでしょうか」

「恐れ入ります」

「別に大したおもてなしもできませんよ。あなたの正直なお考えには敬意を表するが……」「私はあなた方にもてなしてほしいとは一言も申しておりません」彼女は言った。「ただあなた方のお役に立てるようにこちらも努力と敬意を払い、その道中を少しばかり共にしたい、と、こういうわけです」

「お役立ちったってねえ……」三人は再び顔を見合わせた。

「新しい人形芝居をしましょう。きっと皆さんも気に入るはずです」

 言いながら、彼女は鼓の男だけに分かるように、ちょっと意味ありげな目配せをして、口角を上げた。彼はその意味をじょうずにとらえてくれて、また微笑がえししてくれた。


 そして彼女と鼓の男の思惑どおり、その人形芝居は、着々と、全国津々浦々に広がっていった。

 彼女は自身の書いた物語と、彼女の妹の描いた物語を再構築したものを脚本として提出し、結果その両方が人形芝居として演じられることになったが、観客の好みや歓迎に適うのは、いつだって妹の作品の方だった。そして、それらは徐々に人々に親しまれ、いつしか定番化していった。

 何処の集落、どこの場所へ持っていっても、上演作は拍手喝采を受け、歓迎され、こんなにかんたんなことでいいのか? と演じるほうが多少疑問を抱いてしまうほどに、人々はその上演作に熱狂した。更にして人々は、その人形劇の劇中人物に一種の官能さえも抱いた。ある集落などでは、芝居にボウっとなった男や女が、一座が宿を借りている小屋に夜中、忍び込んできて、勝手につづらの中を開けて、男人形に頬ずりしたり、女人形を盗み出したり、ということもあったほどだ。「あなたとこうして合流することが出来て、本当に良かった」鼓の男は顎を撫でて、しきりに感心したふうに言った。「これほどの”当たり”をいまだかつて取ったことがない。何か狐につままれているような、夢を見ているような気分です。人がこれほど人形芝居に熱心になることがあるなど、考えてもみなかったことですよ」

「つかの間とはいえ、辛い現実を強く忘れることができるからでしょう」彼女は特にこだわりを持つ様子もなく言った。「物語とは人の手によって作られたもの。自然や、動物や、無機物など、それのみで自身の生を充足させることのできる高級なものどもからは、とうてい生まれさせる必要もないようなもの……物語とはそういう、人の欠けた場所を自らの手によって埋め立てるような、修復効果を生む力のようなものがある」「はあ。何だかよくわかりませんが」男は髭を撫で、「にしても、この結果はちょっと、異常ですね」と、少し首を傾げた。「どこへ行っても同じような反応が返ってくるのですからね。以前の私らのやっていた芝居内容じゃあ、とてもじゃないがこうはいかなかったわけで。今回こうして掛けている作品は、ちょいと栄えている地域でも、夜逃げが相次いでいるなんて地域に行っても、平等に良好な反応が返ってくるのですからね。こんなに立派に出来上がった本は、めったにはありはしませんわ。一体何処の地方に伝わる民話なのですか?」

 彼女は物語の出どころを話した。「はあ。御妹さんが。……女の身で、大したものだ」「そうです、そうです。私の妹は、本当に素晴らしい才能の持ち主なのです。天才とはああいった類の者をそう呼び称すのでしょう……」

 などと、いいながら、彼女は都にひとりぼっちに置き去りにしてきた、妹姫のことを簡単におもいだして、そのおもいで話をまったく過去のことして、扱って、その男に言って聞かせ、しみじみとしたような口ぶりをして、「今頃何をしているのかなあ」とか、のんきなことを言っていた。

「僕たちは一心同体、まったく同じものの一種類と二種類目でした。僕たちはある一定の頃まで……まったく同じだといってよかった。それが崩れたのはいつのことだったか……それは全く、性能の違い……というよりも……」

 彼女はそこで言葉を止めて、少しいたずらっぽい表情で、男の方を見た。「こんな話、興味がありますか?」

「ありますね」男は間髪入れずに答えた。「あなたの話すことは……誰からも聞いたことがない。そういう話に、興味を持たないという方が、不思議だ」

「それは、どうだか知りませんが」

「それで?」

「ええ、はい、だから」彼女は自身の二の腕あたりを撫でながら、「はじめは、同じ方向を同じ気持ちで眺めていたはずなのに、途中から、それが全然、お互いに違ってしまうようになった。第一には才能と気力と興味の多寡の問題ですね。彼女にとってはそれが多くあり、私にはもともとごく少なくしか備わっていなかったということ。早い話、私の才能の瓶はすぐに底をついたが、彼女の才能の瓶の底は果てしなく、あるいは底がすっかり抜けきっていて、いくら水を貯めようとしても底から流れていってしまう……だから彼女は瓶をいっぱいにしようと、やっきになって、おのれの才能を使って瓶を満たそうと精一杯になっているが、私にはもはやその必要はなくなってしまった。そういう差ですね」

「はあ」男はあいまいに頷いた。「なるほどね。それでは気の毒ではあるようだが」

「そうでしょう。あれはかわいそうな人なのです」

「ですけれど……そのお陰で、私達はその汲んでも汲んでも尽きないような瓶の水の恩恵を受けることができるのですね。なんだか大変なようだな……あなたの妹さんは」

「だけど……僕は時々、それに疑問におもうことがある」

 彼女は言った。

「別に、それは僕自身の問題ではなく、彼女個人のことなので、僕などがわざわざくちばしを挟むことでもないとおもっていたから、表立って口に出したことはないのだけれど」

「関係ないということはないでしょう」

「そうですか?」彼女はうろんな仕草で、「最終的に自身の行動に決着をつけるのは他人ではありませんからね。私の考え方は私のみのものであり、それは必ず彼女の方でも共有し同じ意見を持たねばならないということでもありませんから」

「まあ……それはそうかもしれないけど」男は歯に物の挟まったような口調を取りながら、言った。「だけどそれじゃまるで他人なんかいらないみたいだ。他人の言った言葉が、どんな影響をも他人に与え得ないのだとすれば」

「そんなこともないでしょう」彼女はそれにすぐに反論した。「他人が居なければ、こうしてあなたと私が会話することもない。ただ私が下らない繰り言を中有に向かって吐き出しているだけということになる、また、私のこのような考え方を、あなたが疑問におもうこともない。他人は必要です。そうじゃないですか?」

「ん、ん、ん……」

 何だかよく分からなくなって、男は黙り込む。「……で、あなたの妹さんに対する疑問というのは、どういうものなんですか?」

 男は尋ねた。

「はあ、どうですか」自分からその話題を口にしたはずなのに、なぜか彼女は気乗りしないような声で、「まあ、各々で、それぞれに、好きなことをやればいいと僕などはおもうのですが」と、うつむく。

「それは……まあ、そうでしょう」

「各々で、好きなことを出来る人は良いのです」

「はあ」

 視線を上げる。「たとえば、あなた方のようなね」

「……………」

「自身で自身がどういったときに一番快楽を得られるのかを知っている人は幸いだ。だけど世の中には、そうでない人たちもいる」

「……………」

「そういう人たちにとって……彼女の作ったものというのは、結局の所悪影響しか及ぼさないのではないか」

「悪影響?」

「僕はそれが心配なのです」

 なんだかよく分からないが。

「どういうことですか」

「あの人の話に出てくる善男善女というものは、素晴らしいものでしょう」

 彼女は特に表情を崩したり変えたりすることなく、ただ事実をただ淡々と述べるような言い方をした。

「好きにならずにはいられない。……そういう人たちばかりが出てきますね。健気で、勇敢で、意志が強く諦める心を知らない……それらはまったく汚れのない、うつくしいものです」

「それは……そうでしょう」その彼女の言葉は、彼にも理解できるものだったので、彼も簡単に同意した。

「僕は好きですよ。あの本に出てくる人たちみんな。けなげでね。おもわず応援したくなるような」

「そうでしょう」

「それと……悪影響と、どういう関係があるんですか?」彼は慎重に言葉を選びながら尋ねた。「どういう意図でそういう言葉を口にしているか知らないが……少なくとも、僕は、あの本を読んで、芝居として演じて、自分が悪影響を受けたとはおもってないな」

「僕から言わせれば、そういった考え方そのもの自体が、まるごと悪影響下に置かれているものの言動として聞こえてくるんですよ」

「……はあ?」

 その言い方が少し癇に障ったので(そもそも、自分が心から良いとおもったものを頭ごなしに否定されて、気分の良くなる者など居やしないはずだ)、彼の声も多少剣呑の音を孕んだ。

 しかし対話者は涼しい顔をしていて、その端正な顔は彼の声色によってもどんな変化も見られない。……うつくしく技工を尽くされた人形と喋っている? まさかね。

「ああいったものは……とても、良いものですね。良いものとして作られている。なぜか? そこに良いものが無かったからだ。人が欲しいとおもったもの、在ってほしいと望んだもの、それが現実として無い。だから想像した。そしてそれが人の手によって創造され、私たちのめのまえに顕現してしまった。そして、それは万人の心に良く映る、万人がほんのりと望み、しかし想像も、創造もしてこなかったような”無い”ものだった。しかし今めのまえに、その”無い”ものが”在る”! これは大変なことですよ。無いものが在るんだから。そしてそれは”悪い”ものではなくて”良い”ものなんだ。こんな魔術的なことが起これば、誰でもその現象に夢中になるのは当たり前のことでしょう」

「……はあ」とにかく、相槌を打つ。それから頭の中で彼女の言った言葉を考え直す。無いものが在る……

「たとえば、僕は、僕の生活に今までに無かった、あなた方の演芸というものに夢中になった。違いますか?」

「え? あー」

「何かに夢中になるということは素晴らしいことだ。なぜならそれは現在を忘れるということだから。現在というのは生命そのものだ。なぜなら生活というのはいつだって現在だからです。こうして話すのも、一語一語が口から飛び出してしまうのもすべて現在、現在の集大成が、過去未来現在のすべてを形作っています。夢中になるということは、その過去未来現在の順路を一緒くたにしてひとかたまりにし、時間を時間として処理せずに、ひとっ飛びに何もかもを飛び越えてしまうことが可能になるということなんだ。これはちょっとした時間旅行です。物事に夢中になるということは、それだけの力を持っています。それは素晴らしいことだ」

「それが素晴らしいことなのだと言うのなら……」彼は複雑な気持ちのまま尋ねた。「なぜそれを、悪影響などといって悪罵するのですか?」

「それは、夢中であるという状態そのものを、自身の生活の全てである、良いものであると勘違いしてしまうようになるからですよ」

 彼女は答えた。

「たまの時間旅行ならば楽しいかもしれませんが、それは結局旅行であって、命の洗濯に過ぎない。ほうろうそのものが人生というのならばそれも良いでしょう。木の葉のように自由な生活は、生活というものに縛られている者たちからすれば、自由気ままな素敵なものに見えるかもしれないがしかし、木の葉には木の葉の現実がある。他人の想像する他人の生活は所詮は他人の現実です。現実は現実に過ぎない」

「……………」

「そしてその現実からほんのつかの間でもいい、離れようと、われわれは”良いもの”を探し続けます。現実以外の”良いもの”をね。そして見つかった先で時間旅行をして、精々自身のくそおもしろくもない現実を”飛び級”して、少しでもみじめな現実から意識を飛ばそうとする」

「……………」

「それ自体は決して咎め立てられる類のものではありません。むしろ推奨されるべき……やはり洗濯というものは、定期的に行わなければ、着物などでも汚れ果てるだけでしょうからね。しかし飛び級ばかりしていればどういうことになるか。いくら現実がみじめなものでしかないとしても、飛び級先で見てきたものは、おのれのみじめな現実には決して存在しないものです(存在しないからこそ、”無い”を”在る”に無理やり書き換えて来たのですからね!)。だが、飛び級し続ける生活を続けるとどうなるか? 今度は飛び級そのものが、時間旅行そのものが、その者の日常、生活そのものになってしまう。するとどうなるか? おのれのみじめな生活、本来であるならばおのれ自身とでもいうべきその現実が、次第に非現実めいて、生活のし甲斐のないものに成り果ててしまう。もともと魅力に欠けるものです。それが連続性と娯楽性を失えば、それに対する欲求は、ごく少ないものとなっていってもなんら不思議なことではありません。楽園はすぐめのまえにある、目を瞑れば……しかし目を開けばそこにはくだらない現実しか無い。しかしわれわれは間違えようもなく、現実にしか生きる場所を用意されていません。あの人の描くものの楽園はとても危険なものだ。そこで遊ぶ人たちのことを、そこへ縛って離さない。空想で腹が満たされますか? 現実の自身のめのまえには、冷たい稗しか用意されていないからといって、空想の中の雉肉で腹がくちますか? 僕が言っているのは、そういうことです」

「……………」

 彼は、なんて答えれば良いのか分からず、開いていた口を取り敢えず閉じて、それから、開けた。

「つまり……僕らのやっていることは間違い?」

「いいえ、間違ってはいませんよ」男はうつくしく微笑んで言った。「これは、受け取る側の問題だから。しかし、そうやって受け取る側のやわらかな、差し出されたものを何の疑いもなく飲み込んでしまうひなどりのようなか弱い頭に付け込んで、何でもかんでも”良い”とおもったものを与えてしまうというのは、少し考え無しな行動だと言われてしまっても、仕方のないことなのかもしれませんね」

 彼は、自身のことを弱い頭のひなどりだと言われたことなど、あまり気付かずに、心のなかでは少し反省などをしてしまっていた。はやり、この人がこう言うのだから、おれは考えなしだったのかなあ、とかおもって。

「愛されるということは……とても恐ろしいことですね」

 そして、彼の内心の反省などには気付かず、あるいは構わずに、彼女は言った。

「……はあ?」

「本人の意志はどうであれ、その個体が他人にとって愛しやすいものを有していれば、その個体は自動的に愛されてしまう。それは時によっては辛く、かなしいものですね」

 彼女は、他人が居なければ会話というそれそのものが成り立たたないはずだと言ったが、彼は、自分が本当に彼女と会話しているのかどうかというのが、だんだん分からなくなってきた。

「彼女はたくさんの人に愛される。そしてそのたくさんの人たちの一人に引っ掛けられるような形で、私もまた彼女のことを愛しています。愛さずにはいられないんだ。あの人の才能と、そして想像するすべては……あなたもそうでしょう?」

 同意を確かめるような熱心さで、男にみつめられて、彼は顔を赤くしてたじろいだ。

「ああ、それは……そうでしょう。そうですね」

「そしてそれはとても強いものだ。他人に対してどうしてか強く作用してしまう。それは彼女の示した物語の中に含まれた欲望というのが、他人の潜在的な欲望と良く合致するからだ。彼女の示した善男善女。悪男悪女。それらは彼らの中に眠っていた欲望を、自身では掻きにくくて掻けなかった痒いところを掻いてくれるかのように、この世の中に生み出してくれた……だから人は彼女の作ったものにどうしても惹かれてしまう。だが彼女はそんなことを望んでは居ないんだ。人々に愛されることなんか望んでいない。望まない他人からの一方的な思慕などはね。彼女はただ描くことだけを……望んでいるかのような。そして、その結果人に愛されてしまう、どうしても愛しやすくなってしまうことに戸惑っているような……」

 男は、ほうと長いまつげを悩ましげにうつむかせて、呟いた。「ですから、僕くらいは……その環から離れても良いかとおもいます。要らない愛を突きつけられることほど、くるしいことなど、この世には滅多にはありませんからね」

「……………」

 彼は頭が痛くなってきた。そして、その頭の痛いままに、ふとおもいついたことを口にした。

「だからあなたはその愛を、別の他人への思慕として移動させたのですか」

「……移動?」

 今度は彼女が彼の言葉に首をかしげる番だった。彼はそれを見ていた。そして、その優越に震えた。このおれのつまらない言葉でも、彼女のことを不思議がらせることが出来るのだ。彼はその不透明性ゆえの優越に快感を覚えた。

「その僧侶のことを愛している。だからあなたはその僧侶に会いに行くことにした。そういうことですか」

「違います」彼女は、まったく的はずれな指摘を受けたかのような、びっくりしたような顔をして、彼の言葉を否定した。「私はあの人と、もう一度話がしたいだけ」

「話がしたい?」

 彼は、彼女のその答えに、「分っかんねえなあ」という顔をした。「どういうことですか。よく、分かりませんが」

「言葉そのものの意味です」しかし彼女には彼の疑問そのものが分からないらしく、平気な様子で悠然とした表情なんかを浮かべてみせて、再び彼からの奇妙な視線を買うことになるが、自身の感情を正確に言葉に変換し使用しようと奮闘している彼女には、彼の奇妙な視線もやっぱり全然目に入らない。

「話すだけですか」

「どういう意味ですか?」

「え?」

 彼らはしばし見つめ合った。そして、先に口を開いたのは鼓の彼の方だった。「いえ……他意はなくて。ただ、ちょっと予想外のことを言われて、びっくりしてしまって」

「そうですか」

「話すとはどういうことですか? 話すだけですか?」

「え?」

「え? ええと……そうじゃなくて。何だろうな……なんと言えばいいんだろう」

「はい」

「…………」

 俺がまちがってるのか? と彼は頭の中で一度自問する。確かに先程の質問は質問の体を為していなかっただろう。彼の発言に疑問を抱いたのなら、その疑問を他人にもきちんと通じる形で説明して呈さなければならないというのは当然のことだろう。俺は彼の発言のどこを疑問におもって、頭を混乱させているのか? あれ? 間違っているのは俺の方……だからこうして混乱しているのか? あれ……

 と、彼が思考を停止させて黙り込んでしまうと、それを助けるように、彼女の方が口を開いた。

「話すと言ってもそれだけではなくて、」そこで彼女はしばらく高説をぶった。彼はりちぎにそれに相槌を打ちながら大人しく聞いていたが、残念ながら彼女の高説に、彼の理解を補助するような要素は一切含まれなかった。「いやお説拝聴しましたが、凡夫には全く分からん境地ですね」「そうですか」「だって話を聞くためだけに都での面白おかしい生活や地位や名誉、そういうものを全部捨ててまで? 本当に話すだけ?」「あなたは何がそれほど疑問なのですか」彼女は彼の、歯に物の挟まったような煮え切らない質問そのものの方が疑問だ、というように眉根を顰めた。鼓の男はちらりと彼女の方を不審そうに、窺うように見つめて、それからすぐに視線を外した。「いや……、しかし、ただ会話するためだけのために山を越えて海を越えて、遠路はるばる彼方からやって来られても、向こうは困惑するばかりだろうな」「向こう?」彼女は首を傾けた。本当に、男の言っている言葉の意味も、その意図も分からない、といったような態度だった。だから男の方では、徐々に、彼女に教え諭してやるかのような気分になった。この人はうつくしくて賢いが、どこか人の感情の機微を解さないようなところがある。

「びっくりしませんか? 普通」

「何が」

「たとえば、ですよ」男は彼女のあっけらかんとした疑問の声に戸惑いながら、「一時的には知り合いだった他人と話したいというだけの理由で、あなたを追って都から一人の男が訪ねてきた、理由を問うたら『あなたともう一度話がしたかったから……』と言われたら……」「…………」「勿論それまでの関係性にも依るだろうが。でも、僕なら、少し反応というか、対処に困ってしまうかもしれない」「……なるほど」「いや、でも、お互いの熱量が一致していれば可能なのか……? もしかして、都では恋人同士だったとか」「まさか」彼女は目を丸くした。「恋人など。馬鹿な……僕と彼の関係は……いや、関係などとは呼べないだろう……少なからずでも双方に関係性があるとするのなら、昔なじみというだけのことです。もっとも、一方的に僕のほうが彼に教えを請うていたようなところもありますが」「それだけの関係性で、このような旅を?」「…………」「あ、いや、非難しているわけではないんですよ」

 あれほど雄弁だった彼女が沈黙しがちになったのを引け目に感じた男は、言葉をとりなして、「ただ純粋に疑問というか。不思議というか。ただの昔なじみでしかない人に、そこまでして会う理由……そこまで苦労を重ねてまでして、会いたい理由にしてはよく分からないというだけのことで」

「確かに」

 そんなこと人の勝手じゃないですか、などと機嫌を損ねられることは覚悟の上で、男はそういう言い方をしたが、意外に彼女はその言葉を吸収して、しかもあろうことか、つきものが落ちたかのように、気落ちしたような声で納得したような声を出したので男は少しギョッとした。「僕も、実のところそこが疑問だったのです。どうしてこれほどまでして彼の存在に執着してしまうのか……」彼女は視線を落として、口元に手を当てて考える仕草をした。「彼が都から居なくなった時……しまった! とおもったんです。僕はまだあの人に何も話していない。まだあの人と話したいことがたくさんあった。会って、お話がしたかったんです。それだけのために僕は、今までに、様々なことに興味を持って取り組んできた……全部、彼に話して聞かせるため、話して、彼の意見や言葉や反応を知りたくて……それができなくなってしまったと知った時、とてつもない喪失感が襲ったことを覚えています……だから、また彼とそういう時間を共有したいと……たったそれだけのことのために……でも、改めて問われると不思議なものですね。ほんとうに。あなたたちに要らぬ労を煩わせてまで、このような珍道中を。どうしてだろう? 何故私は、こうも彼本人のみに執着してしまうのでしょうか?」

 男は、あっけにとられて口をぽかんと開けていたが、しばらくそれをやっていて飽きたので、口の中を多少唾液で湿すと、ようやくになってその重い口を開いた。「だから、好きだからじゃないですか?」

 彼女がちらりと男の方を見る。

「え?」

「その人のことが好きだから」

「誰が」

「あなたが」男は彼女を指差した。「だから、執着してしまう。会いたいとおもう。話がしたいというのはその口実に過ぎないでしょう」

「まさか」彼女は大きく目を見張った。「そんなことが?」

「だってもうそれしかないでしょう。話がしたいからじゃない、それは口実に過ぎないんだ。好きだから、会いたいから、あなたはその人に会いに行くんでしょう」

「そういうものですか?」

「そういうものです」

「そういう……」

「そういうものならば、納得できますよ。会話がしたいとかいう言い訳ではなくね」

 男は、何でこんな簡単なことも分かんねえんだ、と、じゃっかん彼女のことを侮るような、そして多少の可笑しみを持って眺めるようになっていたが、彼女の心中はもっとまた別の疑問でいっぱいになってしまっていたらしかった。「好き、ならば……」そして彼女は言った。「他人を好いているという理由さえあれば、他者への過剰な執着は、何もかもが正当化し、万人の納得に足る理由に成り得るということですか?」

「……はあ?」

 男はおもわず、鼻にかかった、頓狂な声を出した。「なんですか?」

「僕が仮にでも……彼のことを好きだというのなら、あなたはこの無理矢理めいた道中も、納得の行くものだと理解してくれるということですか」

「…………」

 何だかよくわからないが。

「理解というか……そうですね。そうだな。なんというか……」男は考えながら、「愛の力というのは偉大だなあと。納得するかもしれないですね。どんなに双方の間の距離が離れていたとしても、どんなに困難な障害が待ち受けていようとも、それを乗り越えるだけの胆力の原因こそが、つまり愛……」

「第三者にとって、どんなに突飛に見えるような言動でも、その理由が他者による他者への愛情に依るものであれば、何にせよ言動の理由としては機能するということですね」

「まあ……」男はあいまいに頷いた。「なんだかそう断定して言われると、良くわからなくなるようだが」

「それならば」混乱している男を他所に、彼女は続けた。「僕のこの行動が、いわゆる、他人が他人に抱く恋心を言動とするものでないとするならば、僕のこの行動は理解し難い、あるいは共感することのできない、不気味で奇妙な、正当な理由を欠いた行動になってしまうということでしょうか」

「……………」

 何でこんな話になるんだ? と男はおもった。

「ただ、その特定の人物ともう一度話をしたいというだけで、遠路はるばる、また居場所も何も不確かな人に再見しようとするのでは、理由にならない。そんな表層的な、ごく薄らかな理由を口に出すというのは、その裏側に、もっと真実味のある、人には秘めていたいような、真実の厚い感情が眠っているに違いない。そういうことですか」

「まあ……」男は奇妙な圧力に気圧されるような気分になって、たじろいだ。「いや、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかった。あなたのお考えを否定するつもりは、無かったんです」

「勿論そうでしょう。そんなことは分かっています。あなたは親切な人だから。ただ私は、単純に疑問におもっただけなんだ。私の感情が……」彼女は詠うように呟いた。「恋ならば理由になる。恋でないならば、理由にはならない。理由にはならないわけではないかもしれないが、その発言の裏側に、もっと別の感情を有しているのだろうと推測されてしまう。これは一体どういうことなんだろう」

「どう? どうと言われましても……」

 すでにその時、男は彼女の”意味のわからない”疑問に戸惑っている。どうしてそんな、すべての人が分かっていることを、さも難問かのようにして、分かっていることを分からないことだと逆転させてしまうのか? そんな必要がどこにある……

「僕はずっと疑問だったんだ」

 しかし、男のそのような戸惑いにはまったく構わず、それどころか天恵を開かれたかのようになって、きらきらした目で、彼女は一人勝手に続けた。「なぜたった一人の他人にこれほど執着する気合いが訪れるのか。別に、誰にも話さなくてもいいような内容でも、その人の前に立てば、何でも話してしまう。きっと反応が気になるからなんです。その人が、私の口にした言葉によって、どんな反応を取ってくれるのかというのが見たい、聞きたい。その結果が失望であっても、希望が叶えられたとしても、どちらでも構わないんです。どちらでも……僕の話に耳を傾けて、それで、あの人が……それによってどんな言葉を僕に伝え教えてくれるかが気になる。そしてそれに飽きるということがないんです。それどころか、その反応そのものを、まるで日常のものとしてしまえたら、などと……しかし、僕にとっては、このすべての感情それこそが疑問だった。なぜ彼にだけ? 僕は……正直に言って……ごめんなさい、気を悪くされたら申し訳ないけど。あなたが私のことをどうおもおうと、最終的には、どうでも構わない。この道中を共にしてくれた有り難い人、だから最上の敬意は絶対に払いたい、だけどそれだけなんだ。こんなことを言ってしまってごめんなさい、あなたが私を憎もうが、無関心であろうが、迷惑な人間、厄介さんとおもわれても……そういうものも、私の一部なのだろうと認めることができる。でも、彼の前だと、だめですね。今ちょっと想像してみたけど、そういうのは難しい。あれ? おかしいな。だんだんだめになる。良く分からない。僕はあなたに対して失礼な、礼を欠いたことを口にしていますね。でも……おかしいな。

 だってそうでしょう?

 私などという木の葉以下の羽虫のようなもの、大した価値など無いというのは分かっていることなんだ。だから、羽虫をそれ以上のものとして装飾しようとする、本来の自分より良いものにおもわれようとして、しかし粉飾するというのがそもそもおかしな話ですよね。そんなことをしたって虫は虫なんだから。それにもかかわらず、私は彼のめのまえに立つと、積極的にそのような行動を取っている。あなたのめのまえにこうして立っているのなら、私は私という個人を羽虫そのものとして扱うことができる。つまり、厄介さんである、失礼千万である、他人に向かってそのような言葉を吐きつけてしまう面倒くさい個人としての自身の欠陥を認め、それを含め自身であるという認識を保つことが可能になる……にもかかわらず、たった一人の個人のまえに立つと、それが不可能になるのはどう考えても不健康じゃないですか?」

「……………」

 男は彼女の訳のわからない、しかし不思議に真に迫ったような言に煙に巻かれそうになったが、慌てて我に返ったように、「だから、好きだからでしょ?」と、若干嘲笑の混じった声を出した。「何をそんなに難しく考えているのか、分からないな。人が人に抱く感情というのは、実際のところはもっとずっとたんじゅんなものでしょう。そんな、理詰めで考えるようなことじゃないですよ。机の上で、感性的なものを、ぐちゃぐちゃと一人で考えてみても始まらないんだ。あなたは気位が高いから、自分の感情をうまく認められないだけなんだ。もっと素直になりなさいよ。自分の感情に素直になりなさい」

「素直とは?」

「だからさ、」男は少しイライラと、「あんたはその人のことが好きなんだよ。好きで好きでたまらないんだ。だからその恋心の強さによって、一度離れた縁をもういちど結び直そうと躍起になっているんだよ」

「恐ろしいですね」言われた彼女は、まるで他人の話をしているかのように、自身の二の腕を寒そうに擦った。「蛇のような執念だな。何だか末恐ろしいようだが」

「あんたの話でしょうがよ」

「怖いですね。人間の感情というのは恐ろしいものだ」

 何をのんきなことを、とおもいつつ、男はその発言者のうつむいた顔を改めて眺める。

 肌が異常に白い。そのつるりとした面は白磁器かなにかの表面に似ている。そこに居るだけで、所在しているだけで成立、完結してしまうような自己完結性がある。それ以上何も必要でない。付け加えるものなど何もない。これ以上何かを加えたらその均衡が崩れてしまうし、何かを引いたら物寂しくなる。端的にいえば彼女は美しい。美しいが、その完成された美の中には、どんな欠損もない。であるからこそ、その外観の中身であるところの感情に欠損が生じて、それによって按配が良くなっているのか? いや、まさか……

「しかし、そういう感情というのは、とても便利なものですね」

 そして彼女は、また突拍子もない、人の感情に釘を引っ掛けるような言い方をして、他人の感情を不快に似た感情でむかつかせる。「一つの強い感情が、そしてその感情が万人に共通する認識であるとするのならば、何もかもが正当な理由を伴った行動として理解されるのですね。他人に対する異常な、強い執着……しかしそれも、好きなものは好きだからしょうがない。誰もがその行動を、肯定しないまでも、納得はする。僕があの人のことを好きだったら……それを”素直に”認めさえすれば、僕は異常な行動者ではなくなるんだ」

「いや、別に、異常とは言ってないですよ」

「そうですね。異常であることがなぜ悪いのか、ということにもなりますからね」

「……………」

 つくづく、ああ言えばこう言う人だな、と男はおもう。こんな男の相手を四六時中続けるなどということは、随分骨の折れることだろう。

「あなたは……素晴らしい人だ」

 で、その男は言った。

「……は?」

「あなたは何もかもが清浄だ。何の曇りもない。私はあなたという状態の他人に憧れを感じます。僕もそういうものになりたかった。そうすれば私も、おのれのなかに流れる感情の血脈のようなものを、もっと自然に(きっとこれがあなたのいう”素直”ということなんでしょうが)、自分のものとして所有することができたでしょう」

「…………」

「しかし人には個人というものがあります。そうでなければあなたがいて、私がいるはずがない。私があなたであるのならば、私はこうして会話すら容易には行えないわけですから」

「…………」

「個人というのは……そういう、悲しいものですね。誰にも共有されることのない……とてもかなしい、寂しいものです」

 結局彼は彼女の言っている言葉の半分も理解出来ず(というより別に理解する必要もないとおもった)、しかし妙に好奇心の方だけは刺激されて、彼女の話を聞くのが、生活の中のひとつの楽しみになる。

彼女と話していると、どんな話をしていても楽しかった。彼女の話すそのすべてが理解できるというわけではなく、共感できるというわけでもなかったが、彼女の話は、常に彼の想像するちょっと上辺りに位置していた。少しわからないくらいが、一番おもしろいのかもしれない、と彼はおもった。わからないというのは余地だ。余りものであり、余白であり、未来であり未知である。その少し白抜きされた残り物部分を、ああでもないこうでもないと思案したり、埋め立てたり、掘り起こしたりするのは楽しいことだ。そういう余地を、彼女の話は彼へと提供してくれた。彼女と話すと心地よい疲労で、その晩を興奮でねむれないことなどもあった。彼女と相対するのは疲れる。しかし、それが嫌じゃない。それは不思議なことだった。

 さて一方、他人に臆面もなく講釈を垂れる彼女は、次第にその講釈を自らの身から剥ぎ取られ、それが頭の中からドロドロと、溶け出した脳みそのように垂れ流れていくかのような感覚を、次第に覚えていくようになる。

 季節は秋、日が暮れなずみ、篝火が焚かれ、ぱちぱちとした火の粉の爆ぜる音も心地よい黄昏時、村の神社では太鼓や笛の音がピーピードンドン鳴り響き、人々は火に群がる虫のように方方を踊り回って、日々の息災を祝福し、祭りの非日常を謳歌する。

「すさまじいものだな」

 彼女はほとほと感心したという声色を隠さず言った。「なんというか……圧巻! です」

「お役人様もきみょうなことをいうね」

 となりの鼓の男は自身の無精ひげなどを撫で、「もう慣れたでしょう。見慣れた風景だ」と、つまらなさそうに言った。「どこの地域へ行っても、どんな場所へ出かけても、みなやることは同じです。酒を飲んで太鼓を叩いて笛を鳴らして踊るだけ。こんなものは、もう嫌というほど……」

「それだからすばらしい」彼女は言った。「こんな様子はどれだけ見ても飽きないな。彼らの生命の輝き、生命に対する素直な称賛の姿勢は素晴らしい。何処までも明るく、ひねたところがない。彼らの輝く表情のそれぞれは、歌の素晴らしさのそれぞれはどうですか。すべてが生のよろこびにみちている。その風景は……」

「やつら、そんなことまで考えて行動してないですよ」

 鼓の男は彼女の興奮とは反対に、ちょっとうろんっぽい声で答えた。「ただ祭りにかこつけて飲んだり食べたり歌ったりしたいだけです」「おや、お客でもあるところの彼らのことを、そんなふうに言ってしまってもいいの」「どうせ聞こえちゃいませんよ。皆自分のやることにむちゅうになっているんだから」

「それが、だから、素晴らしいと言うんです!」

 彼女は彼の言葉をたたき台にするかのようにして採用し、また好き勝手なことを言った。「まさに、彼らには現在しか無い。今しか考えることがない。その簡潔さ、潔さ……朗らかさ。彼らは現在を楽しんでいます。でも、そういうことは、できない者にとっては……現在を過去にしないと楽しめないもの、つまり、あの時は辛かったが、振り返ってみると楽しいことばかりだった、とか、現在を未来に想像し、その想像の中で遊んだりしなければ、現在を認識できないものたち……そういう者たちからすれば、現在をそのまま楽しむものの目や耳というのは、何に引き換えても得たいとおもうもの。私は彼らの姿を眺めながら、そうやって現在というものの快楽に怠惰であった自分のことを、こうして反省したりしているんですよ」

「また、そうやって、わけのわからないことを言って」

 鼓の男はうんざりしたように、しかし仕方のないいたずらな動物をあやすときのような慈悲を含んだ目をして、「あなたは自分に無いものに対して、少し価値を置きすぎる傾向にありますね。実際には、あなたの想像するような、それほど善いものばかりでもないでしょうに」

「ああ、なるほど……」それで彼女は簡単に彼の言葉に納得するそぶりなどを見せてしまって、益々彼は彼女のことを憎からずおもわざるを得ないようになってしまう。「完全なる異物だから、人は人に対して称賛の声を惜しまないのですね。僕と彼らは全く違うものだから……ああ、やっぱり、あなたのおっしゃることもいちいち面白いな。その調子でどんどん私とお話してやって下さい」

 などと、胸肉もあらわに踊り狂う人々を他所に、彼女は優雅な様子で酒などを飲んでいて、少し酒に酔ったような彼女はそれらの人々を眺めるばかりだったが、ふいにその手を取られ、顔を上げると、そこへは見覚えのある背高の男。彼は無骨な様子で、しかし微笑んで言う、「さあ、こっちへ来て」

 彼女の手からかしゃん、と短い音がして土器が溢れ、彼女は腕を引かれたまま、おぼつかない足取りで彼に着いていく。

 篝火に男の顔が照らされて、その濃淡によって顔の印象が濃く映る。彼は楽しそうに笑っている。それを見て彼女は、いい顔だ、とおもった。彼の笑顔には、それを向けられた者の存在を祝福して喜ぶ、みたいな力強さがあった。顔の表情筋を緩ませて、明るい声を出して他人に向ける。それによって他人は、それを向けた側が、向けられた側の他人を憎からずおもっている(少なくとも、表面上は)というのを理解、または誤解する……と。

 ただそれだけのこと、声色の高低、口角の上げ下げの選択をするだけで、それは全く正反対の意味として他人に捉えられてしまう運命にあるもの、それを彼らはごく自然に選択し、他人との円滑な意味交流として使用している。…………

 市井の人というのは、なんて素晴らしいものだろう!

 彼らにはどんな無駄もない。対面している間は談笑していたにもかかわらず、相手が退席した後に、その人物に対して罵詈雑言を浴びせ、上げていた口角をこれ以上無いというくらいにひ曲げて悪態をつく者を見るなどということは彼女にとっては日常茶飯事だったし、笑顔というものは、その下に隠した本来の感情を覆い隠すための面に過ぎなかった。実際に彼女も、口角を上げて笑顔を作るなどというのはそういったことのための記号として自然と使用してきたのだ。彼女は彼の自然な笑顔を見ながら、そういう過去の自身の行動を恥じた。その屈託のなさの中には、どんな隠し立てもない。少なくとも彼女には感じられない。彼女は、ある道具をめのまえにして、本来の使用方法を改めて教えられたような、まあたらしい恥辱に似たものを感じた……

 感じた、が、その感情もまた短く終わった。彼女らは人の輪の中へと躍り出た。彼の手が、彼女の片手を取って、高く掲げた。ぱちぱちと篝火の爆ぜる音が聞こえ、太鼓や笛の音が遠く聞こえた。

「踊ろう!」

 彼女の腰に、男の分厚い手が掛かった。彼女は腰に掛かった奇妙な肌の温みと、確かな他人との接触に、首筋の辺りをじっとりと濡らすことになった。

 それは恐怖に似ていた。未知のものに出会っている、という認識があった。しかしそれとは反対に、遠い過去に、似たような体験をしているというような認識もあった。私はこれを知っている。しかし、それはただの誤認であって、真実ではない。私はこのようにして、他人と動作を対にしたことがない。このように人前へ躍り出て、平気な顔で体をくねらせたり、揺らしたりしたことなど、一度もありはしない……

 今や、そこへ居る人々の視線は彼女のその体にあった。男の手の回った腰が熱く、不快だった。頭の中で次第に、音が強く、大きく鳴り響き始めるのが分かる。誰かが音を強くしたのだろう、と彼女はおもった。笛や太鼓を鳴らす人の人数が増えたのだ、と。それで頭の中が、それらの音で、こうしていっぱいになっているに違いない……

 わあっ! と、おもわず彼女は目を瞑った。

 彼女のめのまえに降り注いだものは、とてもあまやかなにおいを放っていた。それが篝火の火に揺られて、それぞれの色も濃く、彼女の全身へと降り注いだ。

 それは花だった。たくさんの種類の、なまえも分からない花々の花びらが、舞い散って、それが彼女のめのまえできらきらと踊るのを見た。誰かが彼女たちに向かって振り投げたことによって、そのはらはらと舞い散る中で、彼女は背高の男の楽しそうな顔を見た。ただそれだけのことで、彼女は、現在の何もかもが、楽しくてたまらないような気分になった。

 彼の大きな手が、彼女の萎烏帽子にかかった。ぱたぱたと彼の手が烏帽子の上を払うと、それに伴って花びらがぱらぱらと舞った。それから背高の男は、まったく善意から、あるいは好意からによって、その言葉を口にしたのだ。「今日くらいは、見せてくれても構わないんじゃないか?」

 彼女は高揚して、幾分倦んだような頭で、ぼんやりと彼の言葉に返答した。「何が?」

「髪を……」

 そして彼は、まるで彼女のことを慈しむかのような目をして、言った。「あなたのうつくしい髪を見せて下さい。こんなに楽しい夜なのに。こんな夜にまで、隠し立てすることもないでしょう」

「かくしだて?」彼女は呆けたまま、ただ男の言葉を繰り返した。

 再び、はらはらと白だの、赤だの、橙だのの色をした花びらが舞った。村のわかいむすめたちが、籠いっぱいに詰め込んだ花びらを撒き撒き人々の間を通り抜けるのを視界に入れながら、彼女は彼の手の平が自身の肩に触れるのを感じた。

「ご事情があるのは分かる。知っている。でも、今日くらいは、構わないのでは?」

「構わない? 何が」

「あなたが女性であること」

 彼女は、その時、彼に自身の正体を喝破されたことを、とんでもないことだと認識しなければならなかった。けれど、今や彼女の頭の中は笛や太鼓の音でいっぱいで、それから後は認識できるものが何もない。人の視線もある、火の熱さもある、男の手の温み、いや熱さも、感じる、しかしそれ以上に、彼女は男と踊ることによって、”現在”という時間の檻のなかに、すっかり囚われてしまっていた。

 こんなことは……不思議だ。”今”以外に何も考えられない。現在のことにしかおもいを馳せることが出来ず、それ以外のことに頭が回らない。過去、私は何をしていた? 未来、私は何をなすべきか。何もおもいだせないし、何もおもいうかばない……これはどういうことだろう?

「どうせ、明日になればまた元の日常に戻るだけ。今だけはあなたと、女性としてのあなたと踊ってみたい。そういうことは、可能だろうか」

「女性? 誰が……」

 男は好意だけを口元に残して、そして彼女を見つめたまま、その首元に手を伸ばした。首元で結ばれていた細い紐が解け、音もなく烏帽子は土の上に落下した。男の指はそれだけでは足りず、彼女の髪を結っている髻を千切ると、それも土の上に放ってしまった。

 ああ、こんな屈辱的な行為が、果たして?

 彼女の髪は、普通の女ほどもあるわけではない。しかし普通の男よりは、確実に長く、どうしても光沢を持ってつややかに流れるそれは、彼女の白おもての対比とあいまって、黒々としてうつくしい。

「ああ、やっぱりそうだった。あなたはうつくしい人だったんだ」

 そしてそれを祝福、歓迎するかのように再び彼女の頭上に花が振り掛けられる。ぴーぴーと人々がそれを囃し立て、彼女は翠の髪を踊らせて、わけもわからないまま、自分が一体どういう現状に置かれているのかも、わからず、楽しそうに笑っている背高の男といっしょになって踊っている。

 でも…………

 男だとか、女だとか……そんなことは、どうでもいいことじゃないか? そんな、つまらない……さまつなことにこだわって、現在のたのしみをないがしろにするなんて……そっちのほうが、どうかしている。

 その時、彼女の頭の中にあるのは現在しか無い。音と温度と他人の顔。それが今現在の彼女のめのまえにあるすべてだ。それ以外は存在せず、また、存在しなくても別に良かった。踊りながら彼女はおもった、あー、これだ。こういう感覚なんだ。こういう感覚を得たいと願い、であるからこそ、それを容易に所有しているような人々のことを、私は称賛の目を持って眺めてきた……それに似た現象が、たった今自分の身に降りかかろうとしている。こんなに素晴らしいことが! そして現在に掛かりきりになっている彼女の頭の中からは、今まで覚えてきたことが全部溢れていく。でも溢しても別にどうでもいいじゃないか? そんなものはもともと要らないものだったんだから。こうして現在で頭が一杯になることが可能になるのならば……余計な知識や策略や、演技や仕草や会話が、一体何の役に立つ?


 彼女はそうやって、みずからのすべてを忘れ果てて、現在ばかりに掛かりきりになって、男と楽しく踊っていた。それは彼女に一時的に快楽をもたらしたが、また未来において、不快をもたらす理由にもなった。

 なぜか? 決まっている。おのれの裸面を衆目のうちに晒してしまったからだ。

 彼女にはそれが悔やんでも悔やみきれない。なぜなら、いつだって、自身に降り掛かってくる厄災というものは、ほとんどのばあい、みずからの手によって引き起こしたものに拠るからだ。

 不可抗力による厄災や不幸、災難というのは確かにある。上司の機嫌が悪くて一方的に強く当たられるとか。家が貧乏でまんぞくな教育を得られなかったとか。親から虐待を受けたとか、顔の造作が不味くてその一生をその顔面を貼り付けて生活をしなくてはいけないとか……

 しかし、自身の身に降りかかる不幸というのは、たいていにおいて、自身の手によってみずから手招きした結果というのが大半なようだ。

 仕事でミスを犯すのは、自身の注意が足りなかったから。出先で雨に降られるのは、自分で傘を持ってくるのを忘れたから。人に嫌われるのは人に嫌われるだけのことを自身が過去によって行ったから。不幸を招いたのは……

 しかし未来からそれを振り返ってみれば、「なぜあんな行動をしてしまったのだろう?」という後悔ばかりが残るだろう。未来から見れば容易に回避できるようなことでも、過去においての幼稚で、考え無しだった過去のおれは、それらに注意を払うこともできず、ただでくのぼうのように間違った選択肢をえらび、それによって自分の首を自分自身で締めている。このようなくだらない循環はないだろう。それにもかかわらず、過去の自分というのは、どうしてあんなにも頭が悪く、そして未来においてもまた、おなじようなあやまちを繰り返してしまうのか……

 深夜、その女……つまり結局は女の身であるところの彼女は、草木も眠る丑三つ時、みしらぬ男に組み敷かれている。

 それはもちろん、彼女にとっては最低な現象でしかない。しかしその行為がまったくの常識はずれの行為であったのか? というと、一度立ち止まって考えなければならないことになってくる。

 まず第一にその日は秋祭りだった。祭りは豊穣を祈念し生命そのものを祝福するために行われる、生きる者にとってのよろこびを、神に感謝し捧げるためにある。そこへ来て生命そのものが、尊ばれ、歓迎されるのは当然のこと、祭りの最中から終わりまで、集落のそこここでは男女同士での睦み合いが気楽に行われ、人々はそれを感受し豊楽する。それはそこへ暮らす彼らにとってはごく正しいことだ、ただの常識だ、ただの楽しみ、命の洗濯に過ぎない……

 彼女の身に降り掛かったものも、やはりその延長線上にあった。その男はそれを自身の常識に照らし合わせてそういう行為を行おうとしただけだ。しかし、その常識というものが、また別の常識と簡単に等号を結べるというわけでもない。

 その男の常識というのは、つまりこういうことだ。夜這いってのは、一種の嗜みだ。一種の男らしさを証明するための手立てだ。そしてそれが引き結ぶものは、将来的には、結果的には、その集団にとっての善となる行為なのだ。だから俺は正しいことをしている。俺は正しく、そして常識にあふれる、男らしく勇敢な、一種の……

 旅の者の血を集団の中に混じらせることによって、近親的欠陥を持った個体を生産することを避けることが出来る。薄弱児が生まれるということは、集団の存続にとって良いことか、悪いことか? その集団に余裕があり、すべてが潤いに満たされているのだとすれば、そういった子どもとの共存も可能だろう。しかし、どちらかといえばそうでない集団のほうが多いだろう。それならば、これから俺の行おうとしていることが、集団にとって正しいか、正しくないか? 大義名分は我にあり、俺は常識的な、正しいことをしている!

 しかしその集団の利益を、すべての人間が望んでいるはずがない。

 彼女はその時になってようやく知覚した。それは、おのれの体というのは産む体でも有りえてしまうということだ。

 その体験は彼女にとって、とても奇妙なものになった。何か、自分の役割をおもいだしたような気もしたし、また、それまで信じ込んでいた(あるいは自身を自身で騙し続けようとしていた)ものを他人によってめちゃくちゃに踏み潰され、今まで築いてきた自画像を焼き捨てられてしまったような気もした。

 彼女は今まで、侮っていたのだ。侮っていた、見くびっていた。自分だけは違う。自分だけはそういうものに作られていたとしても、そういうものから逸脱した存在で在ることが可能なのだ、と。だから今まで私は、女性という性別が強制されてきた詰まらない決まりごとから、逃げて、男の身に自身と他人を騙しつけ、好き勝手やってきたのだ。しかしそれはただ単純な逃避に過ぎなかった。性別を異にするものが、また性別を異するものに対してそのほかならぬ、”異”によって積極的に働きかけようとするとき、それは否が応でも強く作用してしまうということ。それによって、自身の性を自身に思い出させる。自分には無いとおもっていたものを、無理やり自覚されたという屈辱……

 どんなに自身を偽装しても、”そうでないもの”だと宣言しても、”そう”なものは結局”そう”なのだ。人はその人の自然を持って生まれる。しかしそれは自身の意に背くとして、途中でその自然をむりやり捻じ曲げて、その捻じ曲げた結果を自身の自然として平然とすることを望む……それは、誰かの手によって自然と決められてしまった自身の自然を、自らの手で作り変える行為にほかならない。しかし……それは自然ではない。だからどうしても不自然として残ってしまう。その不自然はそして、なぜ暴かれなければならないのだろう?

 隠しているからだ。

 隠しているから、隠れているから……天の岩戸の例を待たずとも、他人の中にほのかに宿る秘密のにおいは、他者の好奇心をとてもじょうずにくすぐって、個人への関心、希求を強くする。

 彼女はそのすべてを確かに隠していた。本当の性別も、本当の目的も、本当の欲望も、本当の所属も……、しかし、彼女にとってそれらは本当に自身によって認識できていたのか? と問われると、それはあやういようにもおもわれる。

 彼女には本来性が欠けている。どこへも一致しようとしないし、一致するつもりもない。それで、本人は本当の目的とやらがあるのだと勘違いをしていて、その勘違いのお陰で、これまで生きて来れたようなものだったが、それでもやっぱり彼女にはその自覚もない。だから、他者によってその不安定な生命を固定されてしまうと、混乱する。彼女は、彼女自身をふらふらとさせておくのが好きだった。それで、精々周りの人々のことを翻弄して、そのような詰まらないことで翻弄、混乱する方が悪い、などと、棚上げのようなことを考えていたのだ。

 しかし、そのようなふらふらが通じる場所と通じない場所がある。その違いとは何か? 

 言葉だ。

 人の大多数は、言葉によって他人との関係を作る。言葉によって他人との距離を測り、位置を知り、意味や意志を交換し合う。会話の応酬によって、人々はその対話者との意思疎通を計ることを可能にしてきた。言葉とは便利なものだ。それを上手く利用することによって、生き物の本来的な暴力性や短慮ゆえの悪的結果を防ぐことも出来るようになる、それは動物にはない、人間のみに特権された、とても便利なものだ……

 しかし、積極的にか消極的にかは、知らないが、その便利な道具の使用を選ばない人間というのももちろん存在する。その使い方を知らない、使い方を教えてもらったことがない、訓練したことがない、そういう人々をまえにして、言葉など、意味など、どんな価値を持つというのだろう?

 彼女を組み敷いたその男は、言葉こそは知っていたが、その使用方法は、彼女の知っている使用方法とは少し違っていた。所変われば品変わる、その意味は万国共通の意味記号を持つはずのしぐさ、たとえば”笑顔”などという頼もしいものとはかけ離れて、彼らの使用する言葉というのは、他者理解のためではなく自己主張のためのみに便利に使用される。

 男にとって、その行為は当然だったのだ。

 そして、その男にとって女とは、そういうふうに組み敷くに値する、あるいは組み敷くものであるという記号でしか無い。その記号にどれだけの装飾が施されているか? 彼女はその点においては素晴らしいものだ。彼女はうつくしい異邦の女だ。彼は彼の常識に従ってそういうことをした。彼の中の不自然を自然へと作り変えるために。でもそれは言葉によって双方の間に共通認識が結ばれないままに行われたものだったから、行為の対象となった他者であるところの彼女からしてみれば、自然が不自然へと歪められてしまったと認識したのは当然のことだ。

 彼女がそれに気づいたのは、何か生臭いような、いまだかつて知りようもなかった他人のにおいを、ごく近くに感じたためだ。

 彼女は薄っすらと目を開いた。そこにあった情景! それが恐ろしいものでなかったなどと、なぜ言えるのだろう? 彼女はその存在を認識した瞬間、全身に冷水を浴びせられたかのような、直情的な恐怖を覚えた。

 それは彼女の知っているものではない。なぜならにおいが違うからだ。そしてそれは、彼女が中央で嫌というほど嗅いできた、奥ゆかな、人を幻惑させるようなかおりでもなかった。それは人間のにおいだった。きっと、中央の人間も、何もつけないままで、人の住まう部屋へと偲んでくるようなことがあれば、このような不快なにおいを発するのだろう……それを知っていて……人々は自身の人間くさい、油臭い本当の匂いを糊塗するために、香を焚き染めたのではなかったのか……

 ということはどういうことか? 今ここにある、彼女のめのまえにいる男というのは、実のところ中央で彼女を組み敷いた人間と、何ら変わりないものということだ。

 中央の人間は、自身の生臭いものを知っている。だからそれを隠すという術も知っている。そして、隠すという術そのものが、中央では共通言語として作用している。その結果が香のにおいの充満に繋がった。その充満に鼻の慣れた、あるいはそれを生活そのものとして受け入れているその場所での生活者にとっては、それは最善のものとして作用する。しかし、ここではそのような共通言語の形成などは意味をなさない。文化として発達しない。だから男は生身のまま、生臭いままだ。つまり、彼のにおいは特別のものではない。誰もが持っているものだ。ただそれを隠そうとしていないだけの……

 同じなのだ。結局。

 中央でも地方でも、やることは皆同じ。どうしてこういうことになってしまうんだろう? 彼女は考える。夜、見知らぬ男が、見知らぬ女をその体の下へと組み敷く。そうすることによって、人々はいわゆる男女の関係というものを結び、縁故を結び、家族関係を結び、集団を形成する…… その過程の中で無効化されているものとはなんだろう。そして、大半の無効化されたものどもは、どの過程の最中に、どんなことを考えているのか? 何も考えていない。ただ、そうなってしまったものに対して抵抗を取り敢えず見せ、それが無意味なもの、どんなに望んでも達成できないものだと判断すると、思考という過程を取る余裕もなく、抵抗というはかない意思表示すら、相手に提示するのを止めてしまう。敵対動物に捕食される、あるいは狩猟される寸前の動物が、ぐったりと自身の動きを止めてしまうとき、その頭の中で何を考えられるというのか?

 玉鬘の例を待つまでもなく、何かを受け入れなければならない他者というのは、別に田舎だけに限られたことではない。だから、田舎に居ても、都会に居ても、彼女はこうして同じような目に遭遇する。事前に文を交わすことによってその忍んでくる相手の存在を知っているか、居ないかの違いはあれど、どうしてここまで似たような現象が、遠く距離を隔てたというのに行われ得てしまうのか……

 虫みたいだ、と彼女はおもった。虫みたいに、与えられた生存本能だけを行動原因として使用する。虫みたいなもの……そして私はその虫みたいなものに、その対であるという認識を持たれたまま、その絶対的におのれでしかないその体を、いいように扱われてしまうわけだ……

 彼女は笑った。こんなくだらないことのために! こんなくだらないことのために、私はおのれの生き物としての生活を永らえさせてきたのではない。このような恥辱を受けるだけのために……私は女になったのではない!

 彼女をその行為から遮断させたもの、それは単なる力とか、単なる偶然とかではなく、それは絶対的な意志だった。私はあなたのための自由動物ではない。あなただけのために作られた、性交可能機械などではない。彼女はそのものすごい力を持った腕に、満身の力を込めて噛み付いた。口の中にくだらない血のにおいと味が広がった。馬鹿馬鹿しい。こんなことはすべてくだらない。馬鹿馬鹿しい……詰まらないことだ……

「誰か、」

 彼女は口の中で生臭い血をぐるぐる言わせながら唸った。「誰か在る。誰か起きて。誰か起きて、ここへ……」

 ばん! と、耳元でものすごい音がした。髪を鷲掴みにされ、激痛が頭皮を襲った。彼女の視界はぐるりと回転した。耳が上手く聞こえない。靄のかかったように、しかし耳の中ではわんわんと空気のようなものがものすごい速さで回っているような感覚がある。

 殴られたのだ、と、その時彼女が分かったかどうかは知らない。叫ぼうとした彼女の口を、誰かの分厚い手が遮った。彼女は呼吸がうまく行えず、どんどんと足で床をめちゃくちゃに叩いた。また殴られるかもしれない。その果てには殺されてしまうかも? やっぱり体格差は如何ともし難い、結局のところ抵抗など無駄なことは止めてしまって、じっと大人しく審判の時を待つしか無いのだろうか? ……馬鹿な。仮にそのようなことになったとしても、死んだら化けて出てやるからな。お前みたいなろくでもないものに、いいようにされて、なぜこちらが被食者の名付けを受けなければならないんだ? お前などが接触してこなければ、そのような名札は付けずに済んだのに。お前なんか。お前なんかに!

 言葉が通じないというのは悲しいことだ。こちらがどのように工夫して、噛んで含めるような言い方をしても、その国語のいろはも知らなければ、やはりその言葉も意味不明の文字列、象形文字に過ぎない。言葉の通じない相手に、暴力を持ってこちらの意志を優先させるという方法は容易い。しかしその暴力を持ち得ないのだとすれば、その対話者足るべきものに対して、こちらは一体どのような身体的言語を使用すればいいというのか……

 彼女がその時幸運だったのは、彼女のそばに、彼女を襲ったその男とよく似た体格の他人が仰臥していたということだった。床がどんどんと踏み鳴らされ、真夜中に女の張った声が聞こえれば、さすがに近くにいるものは何事かと目を覚ますだろう。

 彼女のこと組み敷いた男は、その騒ぎによって起き出してきた二人の男に取り押さえられて、小屋の外へと連れて行かれた。それからしばらくして、一人の男が彼女のもとに戻ってきて、大丈夫だったかと尋ねた。彼女は小袖の襟を合わせながら素早く何度か頭を上下させた。「かわいそうに」

 その男は言った。

「あなたのうつくしさに……ついつい、幻惑されてしまったのですね。その欲望のみにしばられて……かわいそうに」

 その男は言った。

「ゆるしてあげなさいとは言わないが……」

 その男は言った。

「それにしても、驚いたな……、正直、僕も戸惑っていて。お慰めするべきか、それとも……」

 窺うように、彼女の方を見る。

 彼女は髪を振り乱したままうつむいて、襟元を握りしめたまま、その男の話を聞いている。

 人の善性に従えば……彼女は考えた。

 人の善性に従えば、いくらでも罪業を水に流すことが出来るだろう。人は善によって生まれついた。しかしその成長の過程で、その善が黒く染まろうとするような出来事が起こっただけ。そのような不幸な経験を経なければ、人間というものは、ヒューマンビーイングというものは、本来は清浄な生き物であるのだから……

 汝隣人を愛せよ。水清ければ魚棲まず……善人なお以て往生す況や悪人をや。私のようなものでもどうにかして生きたい。美しい日本の私。

 …………………

 彼女のいささか”過剰な”反応に、男たちはすこしびっくりしているみたいだった。このようなことは、何も祭りの日だけでなくても、日常的に行われているものなのに? 中央から来た人にとっては、多少刺激が強すぎたのだろうか? それにしたって、人の眠りを妨げるくらいに、大げさに暴れまわったりしなくてもいいのに……

 早く……こんなところからは”逃げ”なくては。

 このような非人道的な習慣がまかり通っている場所からは、一刻も早く逃げ出さなくてはならない。ではどこへ行こう? 決まっている。それは私の……かつて蒙を啓かれた唯一の人、あの人以外の場所に、どこがあるというんだろう?

 あの人だけが、たった一人あの人だけが、私のことを正しく理解してくれる。

 彼女はそして再び、空の白み始める前から無我夢中で手綱を取って、一心にその馬を走らせている。

 とにかく西へ……

西へ!


****


 彼はその崩れかけた朱色の門”だったもの”を見上げていた。

 それを、彼の従者は少し離れたところから見ていた。早くしてくれないかなあ。どうしてあの人は、いつだって”ああ”なんだろう。

 変化のあるものを観察しているのだとしたら、まだ理屈がわかる。たとえば野鳥とか。犬追いとか闘鶏とか。それらは生き物だからして、その刻々と変化する様を見学するという理屈がある。あるいはうつくしいもの、季節ごとの花々とか、月夜の静寂とか、うつくしい女とか……そういうものに時間を忘れて囚われて、ただそこへ立ち尽くすばかり、座り尽くすばかりというのだったらまだ話はわかる。

 しかし、その従者の主人であるところのその男は、奇妙なものに囚われて、その時間を優雅に食いつぶすことを良しとする。彼が見ているのは誰がどう見ても鑑賞には値しないかとおもわれるような、崩れかけた元城門だ。

 それは平安京の入り口に、ぼんやりとした様相を成して建っている。

 目ぼしいところは昔左大臣であったあるお殿様などに毟り取られて(ご自身の邸宅の修理に利用したり、ご自身の建立した寺の材料にと便利に使っていたようだ)、ほとんど門としての形を成していない。それに雨風にさらされて、ろくな修復も施されないままに何十年も放置されているせいで、当初は漆塗りにつやつやと輝いていたはずの朱色も色あせ、その貧しげな退色を隠せない。かろうじて残っている柱近くには浮浪者まがいの男やら女やらがたむろしていたが、彼ら一行が牛車で訪れると、蜘蛛の子を散らすようにそこから逃げていったので、門の周辺には彼と彼の連れてきた従者数人以外には、誰も居ない。

「この門は」

 半時ほど、馬鹿のようにぼんやりと朽ちた門を見上げていた彼は、誰に聞くともなしにその疑問を口にした。

「何んのために建っていたんだろうなあ?」

 当然のことそれに答えるものは居ない。それは、彼の疑問が独り言の範囲を出るか出ないかというのを、誰もが測りかねているためだった。彼と、従者の一人との目が合った。目の合ってしまった従者は慌てて、口を開いた。「遠い海の向こうの国の、城門を真似たものでしょう。敵に侵入されないようにと」「でもさあ、敵なんて攻めてこないじゃない」「…………」「門番も居ないしさあ。それに、城壁も無いくせして、門だけ立派に突っ立ってるってのもおかしな話だよね」「まあ……」「結局意味がなかったからこうやって崩れ掛けてるわけだし、本当にこの門の建っている意味がわからないな」

 彼はのんびりとした口調で、そういうことを言った。「やってる感の集大成みたいなことですよね」「さあ……私の口からは何んとも……」「でもさあ」

 それからその男は、やっぱりのんびりとした口調で言った。「なんか、いいよね」

 彼らが平安京の端っこくんだりまでわざわざ出掛けてきたのは、決して物見遊山な廃墟探訪というわけではなく、これも立派なひとつの職業的必然性からの来訪ではあった。

 敵が攻めてこない、と言っても、それは昔の話で、今では一概にはそうとは言い切れないような状態に、この都の情勢は傾きつつあった。

 時々は東国からの東夷とやらが近くで問題を起こしているという話もあるし、地方で財力とそれにともなう権力を得て武装し、中央に近づこうとしている勢力の噂も耳にするようになった。それに加え、折からの流行病でバタバタと人が倒れ、空き家同然になった元貴族の屋敷に盗賊だの浮浪者だのが住み着き治安の悪化に一役を買っているなどという話もザラで、とにかく近頃は一頃とは違って、景気の良い話は滅多に聞けないというような有様なのだ。

 紫宸殿の陣の座でも話題に上がるのは最近では専ら治安維持、警邏強化の話で、花鳥風月風光明媚などどこへやら、たまにはそのような話でもしないではやりきれないというのもあるから、歌会などは以前と同じように定期的に催されてはいるが、家に帰れば始終下痢をしてげっそりとやつれた小さなこどもだの、疱瘡に罹って顔に瘡が残りそれを隠すために厚化粧をするものだから鉛中毒になって結局病み伏している女だの、家財道具をまとめて夜逃げした端女だので構成された現実が待っているなかで、おちおちと「花の命は……」とか「命短し……」とか「君がため……」とかのんびりまったり恋に涙するような余裕、というよりそこまで面の皮の厚い者ならば両立できるのであろう、が、まともな神経ならば、現実の耐え難い酷さに、蝶よ花よなどと言っている余裕など無いというほうが自然なのでは、ということで、時折開催される歌会も、その盛況さはあまり捗々しくもないようなありさま。

 そのような折にやり玉に上がったのが件の城門である。過去にも何度か倒壊の憂き目に遭い、何度か再建もされたらしいが、暴風雨などで倒壊を繰り返すうちに、次第にそのまま放って置かれるようになったらしい。再建されずにどのくらいの月日が経ったのだろう、彼は部下に言ってそれを調べさせたが、公文書らしきものは一切見つからないらしく、結局年代は分からずじまいだった。

「いやー本当に建っている意味がわからない」

 彼は剥げかけた朱塗りの、中央からぽっきりと折れてそのまま倒壊している柱だったものを手のひらで撫ぜた。「こんなになるまで荒涼しているんだから、全部きれいに処分するなり新しく作り直すなりすればいいのにねえ。予算がないとか時間がないとかおウエの人は色々言ってたけど、あるところには金なんていくらでもあるんだし、こういうことにこそ使うべきだとおもうけどねえ」「まあ……」

従者はあいまいに同意のような仕草を見せるが、彼は相手の反応をあまり気にする様子もなく、やはり独り言と講演の中間のような口調で続けた。「面白いよね。人って、ただ自分の見える範囲のものが美しかったり楽しかったりと感じることができれば、それで全体を美しかったり楽しかったりするものだと認識することができてしまうというかね。今めのまえのことが楽しけりゃその他のところがどうなってようとどーでもいいんですよね。そこまで頭がまわらないというか、頭を回す必要がないとおもってんだか……知りませんけどね」「はあ……」「でもそういう怠惰な精神のおかげで得られるものもある、と。やはり先人というものはエライ。荒涼たる背景さえ、いやだからこそを美しめと。”荒れたる野こそうれしけれ”の精神ですよね」「はあ……」「再建なんてとんでもない。これは歴史ですよ。これを全部ぶち壊して無かったことにして、また新たなものを立て直すなんて野暮なことはできっこない。先人の知恵というものを台無しにする行為です、それは」「はあ、しかし……」従者は口の中でモグモグと言いながら、「大臣から仰せつかった任では、現地調査のあと、然るべき人夫を雇って……」「いや、いや、そうはさせません。そうはさせませんぞ。ここは数度の倒壊を経て作られた”歴史”なんだ。その歴史を、僕などの一存ですべてをなかったことになど出来ません。そんなものは、到底うつくしさを欠いた考えだと退けられるべきでしょう……」


「傷ついた都市はどうやって再生される? 建築によってだ!」

 都市はいつでも、元に帰ろうとする生きた力を持っているという。(丹下健三『明日の住宅と都市』)

 そういう視点に立てば、何もかもは儚く、すべてが永遠ではない。

 たとえば女の愛は永遠でない。おのれの権力もこれまた永遠でない。酒の刹那の快楽ほど儚く頼りにならないものなど他にない、など。

 それに比べてみれば、人の建てたものというのはどうだろう。先日の火事騒ぎや、この門のありさまを見ても分かるように、永続的に建ち続ける建物などはどこにもない。しかしその崩れた姿の、なんと素晴らしいことだろう、なんと決然としているものだろう!

 彼らは美しく、そして意味がない。理にかなっていないのだ。しかし理にかなっていないからこそ美しく、それだけで気高い。建物には、建てられた理由がある。そして朽ちる理由もまたある。その自己正当性が美しい。

 彼はそのように考えて、先程からウットリと一人、くずおれた柱を眺めていたというわけだった。

 これが、あの怪しの姫から生まれた例の第二子である。

 さて、ではその頃、彼女の産んだ第一子は、何処で何をしていたのか?

 彼は、彼にとっては無責任なはずの過去について耐えていたのだった。それはつまり、

「あなたのお母上は……」

 とかいう、例のあれである。

「あなたのお母様は素晴らしい人だった。僕は一時期、あの人の全てに狂っていた時期があってね」

 と、その男は言った。

「狂っていた……という言葉が正しいのではないとするのなら、あるいは……あの人のことだけを考えていられたら、とおもうことがあったよ。

 あれは確か夏だった。あれは確かとても暑い、夏の盛りのことだった」

「………………」

 とっとと帰れクソジジイ、と、彼はおもった。

「とても暑い日でね。じゃらじゃらした着物なんかとてもまともには着ていられないとおもうほどの……

 夕方近くになっても、まだまだ暑さが引かないで……不快な日だった。役所に行けば上からはやいやい言われ下からは突き上げられて面白いことなんてひとつもないし、家にいればいるで、家のものがあっちが壊れただの破れただのあれがないだのこれがないだのやいのやいのうるさいし、もうほんと、男に居場所なんてないんだよね。常識からして。それだから別邸を作ってそこへ簡易的な楽園を作ろうとする……というのは、もはや現代病なんじゃないかなあ。男の居場所がない。これは現代の病理を極めていますよね。

 僕はそれで、現世というものにもうほどんど見切りをつけて半隠居状態、というかね。どうせ現世など仮宿に過ぎないのだからと。そこであくせくしてろくでもないことに血道を上げるくらいなら、まあ適当に楽しんで、その後正しい蓮の上に生まれれば、それでいいんだと。そういう僕でした。そういう僕が、その頃知り合ったばかりの、かわいい人の家で、その巻物に出会ってしまったと、こういうわけです。つまり、あなたのお母様の作った巻物ですよね。

 ……圧倒されてしまってね。その巻物を眺めているうちは、夏の暑さとか、肌にべたべたと貼り付く鬱陶しい汗とか、それをとなりで扇いでくれている女の子とか、家のうるさいばあさんのこととか、みんな……忘れ果ててしまって。その巻物の世界それのみのとりことなってしまったんです。

 あなたのような境遇の方にこんな話をするのは釈迦に説法というか……まあなんだか面映いようなところもあるんですけれども。でもね。

 今更あの人の作品のことをとやかくするなどということは、それ自体が野暮で見当違いのことなのかもしれない。だって、彼女の作品に関しては言葉が言い尽くされている。そこへ、僕のような木っ端者が精々口を挟んだとしても詮無いことでしょう。それは分かっている。けれどなんらかの事物に接触した際に、接触者がそれに対して感想や感情を抱くのはごく自然なことだ。その自然をゆがめて、なかったことにしてしまうことこそが不自然なことじゃないか。違いますか」

「いや、そうでしょう。全くそのとおりだとおもいます」

「実にあなたの御母上は素晴らしかった。彼女が示してくれたのは、そのまま僕の望む世界でした。

 僕は人生に冒険を望んでいました。ちいさなころから。この箱庭のような世界で、決まりきった人々の間で、決まりきった家の家格に従って、然るべき地位へと自身の形を歪め、当てはめ、精々それを自身だと認識して一生をやりすごしていく、そういう生活に、飽きるという、倦むという、そういった積極的な自覚を持って居ずとも、いつのまにか僕は自身の境遇にへきえきしていたんですね。そのような生活を、肯定しないまでも、やさしく忘れさせてくれたのが、あなたのお母さんのお話だった。

 あなたのお母さんのお話には、いつだって勇敢で聡明なおのこと、気高くて孤独な少女が登場するね。僕がその関係性に、どれだけ憧れたか知れないよ。そのように孤独でさみしい少女が、いつか何処かで、僕だけのことを待っているのかもしれない……なーんてね。『雨夜の品定め』じゃないけれどもね。人妻がいいだとか賤屋に住む女がいいとか、そういうものはまったく飛び越えて、あなたのお母さんが僕たちに差し出してくれた女性像は、全く新しいものだった。

 それは”個人”というものでした。個人の女性というものの素晴らしさ……人妻だから、中流の女だから、田舎の女だから素晴らしい、といったような単純でくだらない種類別の価値観ではない……ただひとりの女の人の、その生き様、在り様……そのようなものを、力強い物語の説得力によってぶつけられたことによって、僕たちはそれらにめっぽう参ってしまったというわけなんです。

 ああ、こんな話をしていると言葉が尽きないな。つい、自分の持っている限りの、といってもそまつなものですが、すべてを駆使してでも、彼女の作品の素晴らしさを語り尽くしたいと願ってしまいますね。つまり……

 僕たちの世代は、彼女の物語に人生をほとんど狂わされてしまったんですよ。もちろんいい意味でね。彼女の創作した人物、物語、人生観、そのすべてにイカれてしまっている、そしてぜいたくになってしまったんだな。日頃から美味しいものを食べ付けているこどもが、おとなになって舌が驕ってしまうというのはよくある話でしょう。まったくそれと同じでね、最近のはやりの、何ですか、人が死ぬだの禁断の恋だのね、ああいう爛れた流行というのは、どうも受け付けない。舌が拒否するんですね。それに比べてあの時代は良かった。上品で、清楚で……すべてのものが洗練され、気品に満ちていた。それが、今は、どうです。矜持も何もあったものじゃない。皆、価値基準が定まらずふわふわとしているものだから、大勢の人が一つのものに対して大量の是を唱えると、それに引っ付いてああだのこうだの言いはじめ、また別のものが流行り始めたら蝗の大群のように西へ東へ、あっちこっちと跳ね回るばかり……こんな世の中では、紙魚が食ったカビ臭い巻物でも良い、過去に身を浸してそこに万全な満足を見出し、現代のドブ臭い中を逃げ回るのが良しでしょうね。ほんとう、まったく、昔はよかった。それなのに……」

 男はまだまだ言い足りないようにああだこうだと言っていたが彼はそれを殆ど聞いてはいず、ただひたすら頭の中で、死んだ後についてのことを考えている。


 物の本によると、人間というものには輪廻転生というのが義務付けられていて、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天とかいう六道をぐるぐると回らならければならない、と。

 彼はこの世に生命を受けてからこの方、その生命の持続に何らかの価値を見出したことがなかった。それはただ単調であり、いつまでも続くかとおもわれるほどの細くて長く、そして退屈でしかも苦痛を伴うといったようなろくでもない線でしか無い。その線の上をひたすら歩いていく。するとそのうちに線が途絶えて、後は暗闇、ハイそれまでョ……と。その線の上をただ歩いていれば、そのうちに線は勝手に途切れてそれとともに自身の体も落下するように消えてなくなるのだろう……というようなものが、大体の彼にとっての生命に対する認識だった。しかし、そのように短絡的に説明しようとおもえば説明できるものも、実際にそれを一日一日、刻むように生活するのでは、感じ方もまた違う。短絡的な生命を説明することは簡単だ。しかしそれを行う実行者にしてみれば、その短絡的な生命というものの長大さというものはすさまじい。実際のところいつまで続くのか知れない自身の生命の持続を、ただ持続させるということのために行う無意味さ、ろくでもなさ。そこへ意味などを付随させるのが、この長大さに少しでも抵抗する手段となるのは分かる。分かる、が、しかし、やはりそのようなことも無意味だ。

 意味というのは、無意味さという空虚な、なにもない場所に価値を想像し、無意味を無効化させる道具に過ぎない。例えばそれが件の六道輪廻だ。より良く生きれば輪廻転生によってより高次元の場所へ生まれ変われると。より悪く生きれば低次元に生まれ変わると。前者においては天界、後者においては阿修羅、餓鬼、畜生、地獄……など。しかし前者に生まれ変われるとしてもまた苦痛が伴う。それは天人五衰という表現で表される。つまり天界の心地よい場所に生まれても、いつかはその場所で老い、そして心地よい場所から追い出される時が来る、そのように快適な場所に慣れ親しんだ者が、その快適な場所から追われるということは、大変な苦しみを伴うものであると。ここにおいて、現世での六道輪廻という”現世を生きるための理由付け”の利益は不利益へと転化し、新たな意味付けが登場する。それがつまり、”生まれなくなる”ということである、と。

「生活をしていれば、それは膿も溜まります。苦しかったり、悲しかったり……そういうとき、あなたのお母さんの作った巻物を見るんです。もちろん写本ですけれどね。実際の親本というものは写本などよりもよっぽど素晴らしいものなんだろうが……それでもとにかく、写本でも内容は伝わりますから……

 その内容に、そして僕は心を慰められます。絶好の逃避場になっているんです。そこにいるときだけ、心が開放される……酷いときには、それを読み、眺めているときだけが、生命の実感を得られるときなんだ、などどね。考えてしまうこともあるんですけれども」

 生まれてこなければ、心を慰められる必要もない。

「ですから僕は……あなたと、そして他ならぬあなたのお母さんに、とても感謝をしているんですよ」

 生まれてこなければ、感謝をする必要もない。

 男はまだまだ何かを話している。

 あのような女さえ生まれなければ。

 この俺だって、こんなくだらない退屈を舐めずに済んだかもしれないのに。

「しかしあの人の描く物語に出てくる女の人というものは、奇妙なものですね……」

 男はそしてまだまだその最愛の人に対し言葉を連ねる用意があったようだったが、その、最愛の人の落とし種に対し口舌を打つ機会にめぐまれ、浮かれまろんでいる男に向かって、とうとう彼は、その重い口を開いた。

「何というか……過剰なまでに無邪気というかね」

「それがいいんじゃないですかあ!」

 すると、その男からはすぐさま矢のように、明るい肯定の言葉が返ってきた。

「あのような物語に登場する女人が、はたして現実の世界に招来することがあるでしょうか? 私は自信を持って否といいたい。つまりね? 僕たち男というものは、もはや現実の女などというものには、ほとほと愛想を尽かしているということをいいたいんですよ」

 自身の言に酔っ払ったような状態の男は、その言葉そのものに酩酊しているかのような調子で続けた。「現実の女はわがままだし、自分の立場、するべきことも忘れて、いいたいことをいいすぎる。そうやって好き放題にしているうちに、自身が言葉を操ることのできる存在であるというのに酔いはじめ、自分の言っていることこそが正当だ、それを阻害する男のほうが間違っていると、誤解を強めていくことから、言動は益々カゲキになっていく……でも、彼女たちは、勘違いをしているだけです。彼女らは自分自身に酔って言葉を操っているとおもいこんでいる。しかし実際にはその逆です。彼女らは使い慣れない言葉を口に出して、いつのまにか、言葉そのものに自身を操られているんだ。実際に、そういった勘違いをしている女人と相まみえることもありますが、正直を言って哀れを感じざるを得ませんね。まったく、そういうときの女人の顔といったら……もっとも、こんなことをするのは女房連中ばかりですがね。恐ろしいまでにシュウアクですよ。シュウアクという言葉はこんなときの女人の表情を垣間見たときに、ふと先人が抱いた真実の感覚であったのではないか……などとね。

 それでは、と、いわゆる働く女性というのを振り切って、ならば窓深くねむったように始終まどろんでいるような姫君たちの方では良いだろうなどとして食指を伸ばしてみても、この頃ではこちらの方も流行りませんね。

 なんと言ったらいいのかな……とにかく、ぶよぶよしているんです。水っぽいんです。倦んでいるんです。おっとりしているんですよ。そして、おおよそ……そう、不安になるんです。はたして、このようなあやうくて、不確かで不安定なものを、人間と呼び使わって良いものだろうか? それはもはやほとんど生命に対する侮辱なのではないか?……などと」

 彼は口を開こうとおもったが、男はそれを制して言った。「いや、いや、いや。これは決して言い過ぎなどではない。私は人間をアイします。清らかなもの、正しいもの、うつくしいものをアイする、一介の在人に過ぎません。しかし、そんな一般庶民的な、吹けば飛ぶよな男でさえも、このように考えるようになってしまうほど、昨今の、現実の女性像というものは”本来の”女性像とは、広く掛け離れてしまっているということなんだ。

 例を挙げましょう。ある女性は、こんなことをいうんですよ。“この頃の男という男は、概して軟弱になった。個室でふたりきりになっても、手の一つも握ろうとしない。牛車の中でふたりきりになって、手に手を取って愛の言葉をささやきあった清原の女の時代からは遠く離れた。今私は、現代の男の何にも期待していない”……冗談を言っちゃいけないというんだよ。あなた、こんな厚顔無恥な話が、まかり通るような道理があるというんですか。

 本来、女性というものはもっと良いものだ。僕は長年そうおもってきました。女性愛好家であったし、彼女たちが困っていることがあったら、どんなことでも飛んでいって助けてやろう、味方になってやろうとする気概があった。しかしそのような甘い考え方は、ついに水泡に帰しました。彼女たち……現実に生きてその醜態を晒し続ける女というものは、そのような情けをかけるに値しない存在だ。そもそも、それほどうつくしくもない、他人を良い気分にほころばせる用意もない女たちを、なぜ男ばかりが、せっせせっせと世話してやらねばならないのでしょうか? 僕はそのことにおもいが至ったとき、つくづく、現実の女というものが嫌になってしまったんです」

 男はそこで一呼吸置くと、再び言葉を続けた。

「これは何も、僕だけの意見ではありません。このような不穏な話は本当なら、自分の心の中だけに仕舞って、外には出さないでおく類のものであるというくらいの自覚はありましたからね。しかし、酒の席で一度、そのようなことをポロッと漏らしてしまったことがあったんです。するとどうですか、同席していた者たちが、口々に、僕の話に同意し始めてね。これには僕も驚いてしまったのですが……

 誰もが、多かれ少なかれ、女性に対しての一抹のやりきれなさを抱いているようですね。そして僕たちはそこにいた連中で、『本来の女性像を取り戻す会』を結成したわけです」

 呆気にとられている彼をよそに、男は舌で下唇を湿すようにすると、また続けた。「会の趣旨は、こうです。現実には何の望みもなくなった、であるからして、我々は我々の中のうつくしさ、正しさというものに磨きをかけ、それを鑑賞し、愛でようというものです。そこで白羽の矢が立ったのが、あなたのお母様の作品だったんだな」男はにっこりと、敵意のない笑みを浮かべた。「その物語の中で僕たちは、自由に想像の翼をはためかせ、本来のうつくしさ、正しさ、清らかさというものを知りました。ある男は、あなたの御母上の『幡随楽園記』に心底マイっていたし、ある男は『天上海上譚』にイカれてしまった。それぞれが理想とする世界を、あなたの御母上は、この現実の世に顕現させてしまった。それは恐るべきことでした。凄まじいことだった。僕は特に、お母様の最後の作品……『地上の天』に滅法参ってしまった。あすこにでてくる直姫というのは、僕の理想の女性です。あんな女性が……現実の世にいてくれたらなあ!」

 男は恍惚の人となって言いたいことを言い終わった。

「直姫のどこがそれほど良いのですか?」

 彼は特に男の長舌に惑わされた様子もなく、静かな調子で尋ねた。すると、男は、待ってましたとばかりに顔全体を明るくさせ、変に裏返ったような、奇妙に高い声で、「それは、あの純粋さそのものに決まっています!」と、いった。「男をまっすぐに信じ抜くことのできる強さ、清らかさ。疑うことを知らない純真、女としてのしとやかさ、やわらかさ……しかし作中において、若くしてその花を散らすことのできる潔さ。そのどれもこれもが、僕の心に一つひとつ響いてくる。あのような女性をなくして、僕の中の女性像は語れません。僕は女なら、あの人のような女性が好きだ。現実の姫君に、あのような強い意志はない。現実の働く女に、あのような気高いうつくしさはない。直姫は”理想の女”のすべてを持っている。だから僕は……その理想を少しでも現実のものとして表してくれたあなたの御母上に、感謝してもしきれないくらい……そうです、愛してしまっているんだ」

 男はいって、ポッとその頬を赤く染めた。

「なるほど」

 彼はともすればめらめらとした何かに燃えそうになる瞳を抑えて、低くなりそうな声をわざと明るくさせて、その色に社交性さえも滲ませて、弾むような声で、その口を開いた。「とても醜いな。あなたの称賛するようなその、”うつくしいもの”とは……」

「……はあ?」

 男は怪訝な顔をした。しかし彼は構わず続けた。「奇妙なものですね。他人のいううつくしいものというのは。それに同意できる他者にとっては、それは大手を振って歓迎できるものでしかないかもしれない。しかし他方、それを歓迎できないものにとっては、塩をまいて清め祓いたいくらいの禍々しさがありますね」「何が、」男は、まさか自身の(そして絶対的に否定を受けないであろうとおもっていた、否定するものなど存在しないとおもっていた)「善くて美しいもの」を否定されて、驚きよりも恐怖の表情を顕にし、彼のことをまるで、夷狄かなにかを警戒するような顔でながめまわした。「何が醜いとおっしゃった? 聞き違いですかな。にわかには信じられないような……冗談でいっているのでしょう。(今ならまだ間に合いますよ、)取り消しなさい。それは私と、それから他ならぬあなたの御母上に対する最大の侮辱です」「美しいものを作ろうとして、結果醜いものを作ってしまったという点においてすれば、僕の言葉は侮辱というよりもむしろ本来の正統へと戻しているんですよ」彼は真っ赤になった男の顔と対照的な、涼しい顔で続けた。「第一、本来の女性像って言葉の意味が、あんまり良くわかりません。言葉というものはそうやって不適切に使うべきではない。本来の女性というのは今現実に生きて生活をしている女性のことを指します。物語に描かれた光源氏が本来の男性でないことからも分かるように、本来の男性像というものも、あなたや、私や、そして光源氏の原型のひとつにもなったといわれる御堂関白のような者を、本来の男性というんですよ。それは現実に存在したという意味においてね」

「まったくキベンですな」男は口の端を歪めて笑った。「本来、という言葉の意味は、そもそも、元来……という意味において使用しておるのですよ。現実に存在するという意味合いじゃあない。つまり、本当の女性であれば、本当の男性であれば、ということです。そういう意味合いじゃあ、光源氏だって本当の男さ。僕だって、金と権力と美貌さえあれば、光源氏のようになりたかったですよ」「しかし本来のあなたは現実の女とやらに勝手に愛想を尽かして、わけのわからない、存在さえもしない女に懸想し現実を蔑ろにするばかりでしょう。光源氏とは程遠いものが、本来のあなただ。その本来のあなたが現実以外の場所に理想の女、本来の女性とやらを見出して、その結果不必要に現実の女を、その他ならぬ、現実性を理由として否定する……本来の男性とやらは、本当に奇妙ですね」

「あなただって男だろう!」男は、完全に敵意のあるぎらぎらした目をして、彼を睨みつけた。「あなたは、現実の女に幻滅の憂き目を見たという経験が一度もないのか? それほどまでに現実との接点が希薄なのだとすれば、こちらもそちらの御心中を理解して差し上げることもできる。現実の女を一人も知らないから、あなたはそのような浅薄なことを口走ることができるのだ」「僕は女性に幻滅したなんてことは、一度もありませんよ」彼は明るい声で言った。「その代わり何か余計な期待を掛けるようなこともありませんが」「…………」「女は甘やかなもの。そして男であるわれわれは、男であるということのみで、女性から歓待を、世話を受けるように生命を義務づけられた生き物だ……そのような誤解の元からは、さっさと縁切れているみのうえというだけです」

「フン、稚児趣味でしたか」

「あなたは短絡的な人ですねえ」彼は呆れた声で、「女に興味がないのならさしずめ男だろう、などと。そのような心の機微のみしかはぐくめなかったのは、情操教育の失敗でしょう。私の母親の描いたものなど、精々その程度の男を量産することにしか役に立たなかったようだ」

 男のこめかみに浮き上がった細い筋が動いた。「ひどすぎる。どういうことですか? ひどい侮辱です。このような……非常識な? 面と向かって。このようなことには耐えられない」「私の母親は、よくもよくも罪作りなようだなあ」彼は妙に演技掛かった仕草で、大仰に落胆してみせた。「たったこれ切りの面罵にも耐えられないような、なよやかな心根の持ち主を、この世に顕現することが、母の目的だったのですね。きっと。だとすれば母の意向は成功を結んだということになりそうだな。しかし、なんですか、母はなぜ、あなたのようならんぼうな考え方をする男を、みずからの手によって創造したがったのでしょうね? このような事業は、結局悪業を生むことにしかならないとおもうのだが……」それからちょっと間をおいて、「もしかしたら、母はこの世のことを心底憎んで、毛嫌っていたのかもしれませんね。それで、醜いものばかりがはびこる世の中を、これ以上に汚らしい場所にしてやろう、などと、悪趣味な画策をして……ああそれならば、母の一世一代を掛けたこの事業は、あなたのような人を結実として、みごとに花咲かせ、実らせた。おめでとう。あなたという人は、母の作った悪の華、立派に咲いた、母の魂の息子です」

 ああなぜ、ここまでのことを言われねばならないのか?

 だってそうだろう?

 男はただ、うつくしい、空想上の女を、ただそのままうつくしいと褒め称えた、ただそれだけのことだったのに。

 美しいものを美しいということを否定する馬鹿が居るか? そんな、ひねくれた、間違った反応を示す輩がいるのだとすれば、それはきっとその美しさに嫉妬か何かをしているんだろう。そうでなければ、ただ美しいだけのものを、美しいというだけの理由で、醜いと称することなど出来はしない。綺麗は汚い、汚いは綺麗、といったのは誰だったか……とにかくそのような言い方は詭弁に過ぎない。美しいものは、それがそのまま”在る”だけで、すべての証拠になる。ただ美しく在るものを、汚いなどと、ただいたずらに罵るなどということ……こんな馬鹿馬鹿しいことはない。僻んでいるだけだ。自らに、そのような美しさが無いものだから、他人がそれを称賛するのを、妬んで……

 俺がなにか、一つでも間違ったことを言ったか? それどころか、称賛したのに。その好意をねじまげられて、悪意で返されるような反応が、ゆるされるはずもない。せっかくこっちが下手に出て、お前たちのやったことを認め、褒めてやっているというのに?

 ここまで理不尽なことをいわれて黙っていたら男がすたる(?)というものかもしれないが、しかし悲しいかな平安男子というもの、これは、決闘と称して白手袋を相手に投げつけるような時代背景も持たず、「無礼者」などと叫んで抜刀できる時代にもなく、SNSで誹謗中傷してその対象者を精神的に追い込むことのできる時代にも生きない彼は、悲憤慷慨しつつもその場を言葉もなく去り、のちに陰陽師や祈祷師などを通じて呪詛に励むなどしたが、依頼料をケチったせいか陰陽師の位が低くて効果があまり発揮できなかったせいか、その呪術は上手いこと結果を出すことなく、「悪の華」と侮蔑された男が唯一恋した現実世界における女性から生まれた一人の公達は、まだまだ呪い殺されることもなく、しんしんと、たった一人で自身の生れ出づる悲しみについて考えている。


 彼は月夜の晩に、コトコトと網代車に揺られながら、狩衣に残った女の脂粉のにおいを嗅いでいる。

 彼はそれで、さっきまでいっしょにつんつく遊んでいた女のことをおもいだすべきだった。でもそれはできなかった。それは楽しいおもいでになったはずだった。だからそのおもいでの欠片を噛んで、帰路へと着く途中に、その甘い砂糖菓子の味をおもいだすのは、有意義なことであるはずだ。でも今の彼には、そのようなことも面倒くさい。億劫だ。そして彼は、特別考えなくてもいいことを、そしていつも考えていることを考える。そうしていれば、いくらかでも気が紛れる。幸福よりも不幸についての考えを巡らせることのほうが、心の安寧を呼ぶなどというのは、生命の不備ではないか? しかし、幸福なことなんかに頭を幾ら寄せたって仕方がない。幸福は一瞬のものだ。それが過ぎたら幸福でない地続きの不幸が続いていくだけ。それならば、生命の恒常、日常、通常というものは、果たしてどちらの状態において続いているのか、日常しているのか、ということだ。

 はっきり言って、もうめんどくせえんだ、なにもかもが。

 彼はおもいだしている。それはひとりの男についてのことだ。

 別に、あんなふうに悪しざまに、男のすべてを否定するみたいな言い方をする必要はなかったんだ。あの時は虫の居所が悪かった、というよりも、それまでに溜め込んでいた鬱憤が濃縮還元されて、口の中からでろでろと出てきてしまった。そのきっかけを作った男が、それを不幸にも引っ被ってしまった、と。

 彼にとって”それ”は強制された快楽だった。そういうものを楽しいもの、良いものとして提供され拒むこともしなかった。できなかったのだ。

 あなたのお母さんの描いたものは良いものだ。誰もがその物語の価値を肯定した。だからそれは、次世代へも良いものとして受け継がれ、ある程度の積極性を持って人々に提供された。

 こどもは親を選べない。同時に、親からまったくの善意とともに提供されるものも選べない。まだ好き嫌いや物事に対する良し悪しが分からない、いとけないこどもが、良かれと思ってひな鳥に与える親鳥からの善良なみみずを、どうして拒めるというのか? 

 彼はそれを、乳母に読み聞かされて育った。

 それらは確かに良いものだった。適度に好奇心が刺激され、適度な快楽を彼に約束してくれた。それはただ生活しているだけでは味わえない、不思議な経験だった。

 それは大勢の人が肯定するとおりの、”良いもの”だった。だから幼い彼も、それを”良いもの”として受け取った。

 その”良いもの”に違和感を抱いたのは、何時のことだったか? 彼ははっきりとそれをおもいだせる。

 あれはある初夏の、まだ肌寒さと、それから南からの熱風がにおい入り交じるような頃、彼は家の蔵の、ほこりにまみれて仕舞われた、崩れかけた厨子の中から、その巻物を取り上げたのだ。

 そしてそこには別世界。彼はそこで小旅行。それは不思議な、今までに見たこともない、感じたこともない、体感したこともない感覚、そしてまごうかたなき「経験」だった。

 その巻物に描かれた物語は、確かに空想上の絵物語だったのかもしれない。しかし、そこにいる人々は確かに生きていた。少なくとも、そういう実感を得ることのできるような印象があった。彼らは紙面上で生活をし、そして生きていた。彼はそれを、紙面上で眺め垣間見たに過ぎない。しかし彼はおもったのだ、きっとこの物語の登場人物は、この物語が終わった後も、それぞれの生活を続けていくのだろう。それが誰かの手によって空想上のものとして描かれないにしろ、彼らの生活は続いていく……

 彼はこっそりとその巻物(他に何本かあった)たちを取り出して、紙魚に食われた場所などを修理しながら、朝に夕にそれらの物語を読み漁った。誰が描いたかは知らない。そして、一度も見聞きしたこともない魅力的な筆使い、色使い、言葉遣い、そして登場人物の心の襞にまで触れる演出法に、彼はほとんど烏帽子を脱いでしまった。

 彼らはいわゆる道具ではないのだった。主人公の男を引き立てるための女とか、主人公の女を支えるために出てくる男とか、そういったちゃちなものではない。誰かの欲望をまんぞくさせるために、人は人と関係を結ぶのではない。そうではなくて、人は人という個人として生まれ、そしてその個人を限りなく充足させるために、他人とともにその生活を共同構築していくのだと。彼はそのごく限りない真っ当さに酔った。こんなものは、教わっていない。こんなものを”良いもの”として差し出されたことは、一度もなかった。どうして大人たちは、このような真っ当さを有した物語群をこどもに与えようとしなかったのか?

 そして彼は改めて、自身の母が描いたという絵巻物を紐解いた。そして、気分が悪くなった。そこへ出てくる人はみな美しい。美しい顔を持ち、崇高な思考回路を持ち、清らかな行動理念のもとに、人々の様々な欲望を満足させるような素晴らしい仕掛けが、幾重にも、幾つもちりばめられて、綺羅綺羅しい光を放っている……

 ああなんて汚いんだろう、人間の欲望の具現というものは?

 確かにそこへ広がる世界と人物は美しい。そして、美しいという、肯定しなければ、肯定せずにはいられないような状態を、わざわざその反対の感情を抱いて否定する理由は何か? つまり改めて、彼が抱いた感情とは何だったのか?

「気持ち悪い……」

 自然に生まれたうつくしさというものは、人間が自然を歪めた結果において生まれるのではなく、自然発生的に生まれる。月とか星とか花とか色のきれいな蛾とか。

 人はなぜ、美しいものが好きなのだろう?

 多分、美しくなければ”甲斐”が無いからだ。

 同じ生き物を育てるのなら、美しいもののほうが良い。美醜の違う、しかし同じ種類の動物が、二匹めのまえにいる。どちらか一方を選ばなければならない。どちらを選ぶ? 

 同じ生き物を眺めるのなら、美しいもののほうが良い。美醜の違う、しかし同じ種類の女が、二人めのまえにいる。どちらか一方を選ばなければならない。どちらを選ぶ?

 一体、どちらに接触している方が、その時間を占める快楽を増やすことができる?

 人間の生活の大半を占めるのは不幸だ、と、彼はおもう。息を吐くのも、吸うのも、朝起きて、夜眠るのも、みんな不幸だ。なぜ、毎日毎日、きちんきちんと起きたり、寝たりを繰り返さなければいけないのか? あんな面倒なことは無いじゃないか。起きちゃあ眠り、眠っちゃあ起き、毎日毎日、よくもみんな、あんな反復運動を続けていられるとおもう。生活というものに甲斐は無い。それでは、そのように甲斐のないものを繰り返し続ける理由は何か? 反復運動の結果、我々がそこから得られるものとは?

 美しさとはそういった反復運動の途中地点にある”甲斐”だ。恒常化した不幸のあいだにいちいち紛れ込む幸福のにおい。水の中に突っ込まれた状態で苦しみながらも、時々そこから顔を出して、呼吸を許される。そしてまた水の中に顔を突っ込まれる。苦しい。はやくここから出て、もっと楽になりたい。はやく呼吸がしたい。そこへ行けば、呼吸が楽になる、苦しかったことを、一時的にでも忘れることができる……

 しかし、今は太平の世だ。絶えず命の危険に晒されているわけでもなく、とりあえずの身の安全はある程度保証されている。水の中に身を隠していなくても、その体を外敵から狙われる危険性は、戦ばかりの世の中よりはごく少ないはずだ。そうするとどうなるか? 我々は陸での生活に甲斐を見出そうとする。生きているという充足感、息が苦しくないという開放感に見合った生活というもの……「ここで生活していれば、苦しくない。苦しくないということはつまり楽なはずだ。そうでないと、陸へ上がってきた”意味がない”」そしてその集大成としての、誰にでも分かりやすい、誰でも納得してしまう快楽、甲斐というものが、”美しさ”という概念である、と。

 では、そのような誰にでも分かる甲斐を否定しなければならない理由とは何か?

 地上に上がった我々は、水中に潜んでいたときのことをさっさと忘れる。まるで苦しみあえいだあの過去などは、一秒たりとも存在していなかったかのように。それで、楽だの、快楽だの、美だのと、言って、またそこへ天と地(苦、不快、醜)という落差をつくってやいのやいのやっている。陸の上にまた海中を作ってしまう。そしてそこで器用に溺れて、生命を生きている振りをしている……

 そして地上に生まれたくせに、苦、不快、醜を抱いた我々が、そこであえぎ求めるものとは何か? それがまごうかたなき楽、快楽、美ではないのか。しかしそれを求められてしまう、楽、快楽、美の所有者は? そして、それらを求めて当然とする、それがなければ「呼吸のできる場所にやってきた意味がない」とする我々の、傲慢なまでな自己正当化とは、どういうものか?

 彼の母親の描いたものは、持たざるものが、所有するものに憧れ、その半分を、その全身を分け与えてほしいと望むものだ。美の所有者を、そのものが美を所有する、愛すべき、愛さずにはいられない生き物であるという理由から、持たざる者はその美を要求する。それは簡単に受け入れられる。美しさとはそれのみで力だ。なぜなら、それは陸の生活上における、生命を持続させるということへの、暴力的なまでの理由になるから。なぜ陸上において呼吸を続けるか? なぜ毎朝毎晩寝て起きることを繰り返すか? それに対する”甲斐のある”理由がほしい。何かその面倒なことを続けるための、本当は無意味かもしれないものに対する、誤魔化しのための強い理由……

 こんな身勝手な話があるか?

 俺は生命が嫌いだ。生まれ、生き、生活し、労働し、”快楽し”、恋をして、女と乳繰り合って、嫌な男と会話して、夕涼みをして、御簾を巻き上げて香炉峰の雪を眺める……俺は生命を持続させることによって得られる、すべての苦楽が大嫌いだ。

 彼は母親によって、快楽の何たるかを知った。それは良いものだ。若くて美しい、清楚で純粋な女と苦楽を共にし、最終的に生命を滞りなく持続させていくこと。それがこの陸上における快楽の全てだと、そしてそれは当然のことだ。わざわざ、母親などに教わらずとも、我々のすべてがそういうことを知っている。それを上手く具現化したのが彼女の絵物語だった。それを彼は、幼い頃から眺め暮らす環境にあった。ただそれだけのこと、だけどもう彼は、生きているということは、もっと別のやり方であっても可能だというのを、もう知ってしまっている……

「それは……可愛そうな話だな」

 しかし、兄のそのような苛烈さとは反対に、弟の方は比較的おっとりとした様子で、彼の悲憤をまるで過剰と扱って、ひとつの大切な感情としては扱ってくれなかった。

 久しぶりで兄弟水入らずとなったその酒席で、もうすでにいい按配にできあがっている兄は弟相手に管を巻いている。

 それは、風も穏やかにそよぐ初秋の頃のことだ。秋ともなれば年中行事で高級官僚などは目が回るほど忙しい時期ではあるが、閑職に甘んじ名誉職しか与えられて居ないような彼らは(二人の母の突然の出奔の後、彼らは廃太子の憂き目に遭い、春宮が次に迎えた后の連れ子が新しく立太子した)中央でのあれこれに積極的に関わることもなく、弟は宮内卿としての地位には立っているものの、その殆どの時間を木工寮の連中と過ごし、普段なら誰も興味を示さない平安京周りの崩れかけた元大貴族の屋敷跡とか、もはや門の原型をとどめていない城門跡とか、そういうのを見て回って、自分でも趣味で邸宅の敷地内に念誦堂などを建てて、建築道楽に勤しんでいるといったふう。一方兄は普段の素行もあまり宜しくなく、何かというと人に突っかかるような行動を取るきらいもあってか人々からの評価も芳しくない。そこで与えられた職は現在では検非違使の台頭によりほとんど有名無実と化した刑部卿などという、本人の位よりもはるかに低い職を賜り、特段為すこともなく、日がな一日本を読んだり、詩作をしたりして、無聊をかこつような日々を送っていた。

「可愛そうでしょう。それは……その人の一番大切にしている、こころのやわらかいところにある熱心なものを、そうして打ち明けてくれたにも関わらず……そのように悪し様な様子で面罵するなど。それはその当人そのものを否定するのと同等の悪辣な行為ですよ。反省なさい」

 兄は弟をぎろりと睨んだ。

「僕は母が憎いんだ」

「またそのようなこどもっぽいことを言って」

「ろくでもないことを言うな。通り一遍の言葉などという言っても言わなくても同じようなことを口にするなどということは、自身という個を端から形成することすら放棄した怠惰な人間であることの証拠だ」

「まあ……そんなことはどうでもいいからあなたは他に甲斐を見つけるが良しですね」

「はあ?」

 弟はのんびりと口角を上げると、柱に凭れて、はたはたと扇で自身を扇いだ。

「兄者人は少し、人間に興味を持ちすぎですね」

「……………」

 兄は両膝に握った拳を置きながら、じっと弟を睨みつけた。

「世が憎い人が憎いと言いつつも、あなたはしっかりご自身の生活を謳歌していられますよ。詰まらない詰まらないと言いつつ、ご自身できちんと自身の生活が少しでも”詰まる”ように、工夫して毎日を過ごしていられる。それらの興味を詰まらせているあなたの原因材とはなにか? それは他人ですね。他人の行為の様々に、ご自身が様々な嫌悪や愛好を抱くことによって、あなたご自身の詰まらないを詰まるに変換させている……と。こういうわけです」

「フン、僕相手に大変りっぱな御高説、どうも痛み入ります」

「俺たちの母親が、沢山の人のこころのなぐさめになっているのですよ」

 兄の嫌味などまるで聞こえなかったかのように、弟は閉じた扇を自身の膝でぱちぱち言わせながら言葉を続けた。「それだけでじゅうぶんに素晴らしいことじゃないですか。その内容はともかくとしても。あなたの考え方は……なにか非常に嫉視を孕んでいるような。みんなと同じものを楽しめず輪に入れないから、すねているかのようにも聞こえますね」

「ああ、さいていだ」兄はきれいに撫でつけられている後ろ頭をガリガリとかきむしった。頭に冠っている烏帽子ががくがくと揺れて、不格好な形になった。

「だって、みんなが一様におなじ態度を、同じ言葉を使うんだよ。あなたの母親の書いたものはすばらしい。こどもの頃から何度も読んだ。何度読んでも飽きないから、ついつい何度も巻物を紐解いてしまう……同じ感情を抱いて、そこにどんな批判もない……そんな風景は不自然には見えないか? まるで彼女の物語を、信仰物か何かのように……」

「……………」

「ちょっとでもそれを否定すると、まるで自分自身が傷つけられたかのように過剰反応する。昨日なんか、ひどいものですよ。家に最近野良犬がやけに出入りするとおもって調べさせたら、床下から、あなた、腐った肉に五寸釘を刺した紙白人形が出てきたのですから。あの人の描いたものをちょっと批判しただけでこれですからね。本当に……どうしようもない。君は、僕の言ったことがその当人すらも否定する結果になることは火を見るより明らかだったかのような言い方をしたが、それだって不思議な話じゃないか。僕はその人本人を否定しているのではなくて……いや、否定していたのかもしれないが。坊主憎けりゃ袈裟までなんとかとも言うものな。が、しかし、僕がはっきりと否定していたのは彼女の作品そのものの態度ですよ。そして、その態度に全く何の疑問もなく追随してそこに絶対的な価値を置いてしまう愚昧な人たちについて」

「ほらやっぱり愚昧とか言う」

「ああ、じゃなくて!」兄はガリガリと首をかきむしり、「熱いなあ」と、首の赤くなったところを撫でる。

「飲み過ぎじゃないんですか。酒は飲んでも飲まれるなというでしょう」

「また僕の前で、常套句を使ったな」

「あー、すみません」

「思考の怠惰だ。自身で考えることをおっくうがるやつらはこれだから……」

 それから兄者人のぐだぐだとした説教がしばらく続いた。しかし弟はそれに慣れていたので、適当な場所場所で相槌を打ちながら、それらの言葉を右から左に聞き流していた。

「まあそれにせよ俺たちは比較的めぐまれていたほうですね」

 寄ってきた唐猫の喉を人差し指で撫でながら弟は言った。

 多少水をさされた形になった兄は、ぎろりと弟の方を睨みつけるようにみつめた。

「こうしてきょうだいみずいらずで、酒を酌み交わし、夜通し語り合える場所がある。本来から言えば、これはちょっとありえないことですからね。われわれの現状と、その出自から考えてみれば」

「……………」

「母は蒸発、その母親の両親の社会的地位も芳しくない(未だに隼人司だかどこかに居るらしいですが)。元は立太子した身でも、その後没落してそれ以後は消息すら分からない、というような目に遭っても何らおかしくない身の上で、こうしてお仕着せであっても役職を得て、その日の御飯に事欠かない生活を送れているのですから。今のお主上には、足を向けて寝られないなどという以上の恩恵と慈悲を……」

 兄は酒にもはや浅黒くなった顔をうつむかせて、その頬肌をじりじりと燈台の灯りに照らされている。

「……そんな話はしたくない」

「では、何んの話をしますか?」

「発生ということが……」

 彼は言った。「分かるか? 発生という罪のことが……」

 酔ってるなー、と、弟はおもった。が、黙っていた。

「分かりますよ」

「いや、分かっていない。あなたなどという極楽とんぼを地で行くような人には……」

「俺には分からなくても、あなたがそうおもっていることくらいは分かりますよ。実感ではなくあなたにとっての事実としてなら」

「それは分かっているとは言えないですね」

「そうですか」

 唐猫がゴロゴロと喉を鳴らした。

「僕たちはこうして会話をしている。なぜかというとそれはこの世に発生したからだ。違いますか」

「まあ……どうですか。発生という言葉もよく分からないようだが。ぼうふらじゃあるまいし」

「ぼうふらの方が高尚でしょう。あまり軽視するべきものでもない」

「発生したからといって会話をしなければならないということもないですけどね」

「僕は……何かを探しに来たとおもっているんです」

 酔っぱらい特有の、突然みゃくらくのない話をするという習性を遺憾なく発揮して、兄は唐突に言った。

「……はあ」あいまいに相槌を打つ。

「そうでなくちゃこの世に発生するはずがない。そうじゃないですか」

「さあ……どうですかね」弟は床の上のゴミなどを指先で摘みながら、「それじゃ、ぼうふらなんかも、何かを探しに発生しているんですかね」

「それは当然でしょう」彼はきっぱりと答えた。「そうでなきゃ発生するはずがない」

「……………」

 部屋の中の燈台の灯りがジジジと揺れて、部屋の中に居た彼も、その弟も、その弟の飼っている唐猫の影も、みんな同時に左右に揺れた。

「そういうものを一切考えさすことなくさせてしまう……ヒトとは考える動物です。それをあの人は……あの女は、人からみんな奪い取ってしまった」

「……………」

 弟はかりかりと自身の髭を掻いた。

「まあ。……でも、そんなに深く考えることないですよ。毎日朝起きて、仕事をして、恋をして、子供でも作って、時々美味しいものを食べて。時々眠れない夜があってもいいじゃないですか。どうしてそういうふうにむりやりみたいに何もかもを捻じ曲げて、意味のないものだと片付けようとするんですか。あなただって、せっかくのよろしい頭があるのだから、それを自身を励ます方向に使用しないでどうします」

「あの人がこの世に発生させたものを眺め称賛する人は、そういうものを自然に肯定しますね。そしてそれをひとつも不思議になどおもわない」

「おもう必要がないからじゃないですか?」

「そうでしょうね」

 彼は頷いた。

「必要のないものは発生しないんだ。自分が必要としているものって、ことさらうつくしく見えたり、魅力的に映ったりするものですよ。ある特定の人にそれはとてもよく作用した。母の作ったものはそうやって”必要とされた”んです。ただそれがすべての人に作用するうつくしさでないというだけ。それはあなたの態度を見れば分かることですが」

「信仰というのも、それほど悪いばかりのものでもありませんよ」

 弟はこめかみの辺りを指でカリカリと掻いた。

「……僕たちは幼少期から、グロテスクなものをうつくしいものだと信じ込まされ、強制的に与えられていたんだ!」

「ああ、まあ、泣かないで、泣かないで」

「泣いてませんよ!」

 それからしばらく兄はぐすぐすとやっていた。弟はその間、猫を撫でたり、椀の中のものを突いたりしていた。

「例えばの話……そこへ居る十人中九人が、ある一つのものを「善い」と決めてしまえば、そこへ残ったたった一人は、「そんなものかなあ」と納得してしまう、これはごく自然なことでしょう」

 弟は言った。そして、尋ねた。

「あなたはなぜ、十人中一人のものとなって、残りの人が善いとするものをそこまで毛嫌うことができるのですか」

「それは別の価値を知ったからでしょう」目の端を赤くした彼は、くすんと鼻を鳴らし、しかし居丈高に、嘲笑するかのように言った。「僕たちには伯母の描いたものがあります。そこには夢物語ではない、本当のことが描かれている」

「本当のこと……」

「あの人の創造したすべては、母の作ったものとはまったく別のものです。あの人の知見に比べたら、母の夢物語など……あれは現実そのものを見る目をゆがませる。彼女の作ったものは、創造の力が極端に強すぎる。とうてい現実では起こりそうもないことが描かれているはずなのに、どうしてかその想像の描写が真に迫っていて、まるで見てきたかのように描かれているから、みんな誤解してしまうんだ……ここには私の望んでいたものが望んでいたとおりに描かれている。そういうふうに。でもそれは巧妙に現実に似せて作られたまがいものです。そしてそのまがいものの夢に人々を縛り付けて、その理想を人に押し付ける。はじめに砂糖菓子の甘さに慣らされた生き物が、その後の現実で、野菜の煮たのだの、薄い味のなますなどを食べるだけで、我慢できるようになるか? 成長とともに慣れることはあるだろう。だが幼少期に受けた傷だの体験だのというのは、当人が得たいと望んだというよりも、まわりのものが強制的に良いものとおもいこんで、与える場合が主でしょう。僕はそういうものを与えられていた! そしてそれをまわりのものが満足するような態度で、それらを好意的に受け取っていたんだ。その行為が間違っていたと自覚したとき、僕は……」彼は震えるように首を振った。「世界がもろく崩れていくようでした。あるいは、急に視界がひらけたかのような……それはなぜだか分かりますか?」

「いや、分からない」

 弟は答えた。

「女だ」

 兄もまた答えた。

「女が……女が違う。母の描いたもののなかで、女は、望まれた行動を取る。それは、母が望んだ行動だ。こうしてほしいと望んだ行動を、その絵巻物に出てくる女は忠実に実行してくれる。

 そういう中で、彼女の作った舞台装置のなかに巻き込まれ、その巻き込まれることが可能になった人はそこに囚われ出てこられなくなるが(むしろそうなりたいと望むが)、その巻き込みに”巻き込まれる”ことが出来なかった人は、それを自身とつなげることができない。だから、その絵巻の中の登場人物がどうなろうとどうでもいい。

 母の描いたものでは、かならず若い男女が対になって出てきますね。そしてその大半の男女が、お互いのために甲斐甲斐しく駆け回り、それが結果として劇場を生む……つまり女がそこに存在するためには対の存在が不可欠であって、その逆もまた同じということです。そこにあるものとは何だ? 全部欲望なんだ。欲望でしかないと言い換えても良い……」

「はあ」弟はあいまいに頷いた。「でも、それのどこが悪いんですか?」

「悪いに決まっている!」幾らか自身の弁に興奮し始めたらしい兄は、血気盛んな様子で、「どうして、君がそんなことを疑問するかが分からないな……」

「だって、欲望があるから作るんじゃないですか。無いから作るんだよってよく言うじゃないですか」

「その欲望の描き方の問題です」

 兄はきっぱりと言った。

「母は……描きたいことがありすぎるんです。理想がありすぎる。そして、それが現実の方ではとうてい叶えられない類の理想だと気づいている。だからその余剰分を、過剰なまでに現実に寄せて、”空想の中で現実での理想を描い”てしまうんです。

 そうするとどういうことが起こるか? それはやけに現実感のある空想です。まるでそれを見ている時に、何処かで見たことがあるような風景だと錯覚してしまうくらいの……しかし、そのように完璧に現実に近づいている空想の中に描かれている女や男というのが、現実の世界ではとうていお目にかかれないような人物ばかりなんですよ。こんな、現実と空想がごちゃごちゃになった状態を現実でしか無い僕たちは、与えられて、それでそこでどんな判断を取ればいいというんですか。だから僕はおもったんだ。こういう状態は“キモチワルイ”と。

 女たちは確かに愛らしい。男心をくすぐることばかりを口にして、われわれが、“こんな女の子が、実際に居てくれたらどんなにいいだろう”とおもうような類の、女の子たちが、これでもかというくらいに出てきますよ。でもね。それが“キモチワルイ“んです」

「……はあ」弟は眉をひそめ、しかし頷いた。

「母の中に、絶対的な正しさがある……」

 彼は、何か思惑の中に思考を遊ばせるかのように、眉をひそめて考えるような仕草をした。「結局、登場人物はそれを上手になぞるだけですね。だから幾らかわいらしくても、幾ら勇敢でも……みな人形のようだ。人形のように、みずから思考することもうばわれて……」

「空想の人間は思考などはしないでしょう」弟は笑った。「思考とは俺たちのような生きた人間のみがすることです。違いますか?」

「母の描いたものはみな統制されている」

 と、兄は続けた。「みんな母の指示通りに動く。それ以外の動きは許されない。彼らは自由に、縦横無尽に紙面を駆け回っているが……それでも窮屈だ。なぜなら彼らは母の思考の外には出ていけないからだ。それ以外の行動が取れないからだ」

「……………」

 酔っ払ってるってレベルじゃねーなと弟はおもった。

「母の作った箱庭の中においては、彼女らの行動は絶対的に正しい」

 兄は続けた。「なぜなら母がそういうものが「正しい美しさだ」として描き出したものだからね。そしてその”うつくしい”言動に対する賞賛者が多ければ多いほど、彼女たちの”動き”は絶対化し、ひとつの価値になる。でもそうして”価値”になってしまった女の子たちはかわいそうだ。病弱であることが、低い地位にいることが、孤独であることが、年若いということが……すべての弱点が、”かわいらしいもの””愛すべきもの”として描写され、肯定的に描き出され、それが好意的に受け入れられてしまう。それを男や女が諒とする。そして、われわれはそういうものの総合を、たったひとつの”うつくしいもの””善いもの”として見るべきだと、見せつけられてきた……彼らはそういう欲望の成れの果ての結果として描き出されるしかなく、そこから出ていくこともできないのに」

「やれやれ、居もしない人間にそこまでの感情を砕くなんて」弟はため息をついて言った。「凄まじいものだな。感心はしますが」

「しかし、伯母の描くものの中で、人々は開放されている」

 兄は弟の疲労にも構わず、続けた。

「彼らは人間としての尊厳を保証されて、紙面に登場する。それを読んでいるものは、その人物がきちんとその紙面内での現実に根ざして、そして誰からもいやらしい視線に晒されていないことに安心を覚えるんです」

 彼は言った。

「伯母の作品の中で、登場人物の弱点は、誰か他の強者から付け込まれる……あるいは、ある種の理由付けに利用されるために設定されるものでは決して無い。それは自身とそれから周りの協力によって、乗り越えるべき『個人の壁』として登場する類のものなんです。

 母との違いはそれですよ。ああ、今、長年の不満がようやく分かった……

 母の描く女の子たちは、何かしらの弱みを持っています。そして、その弱みが物語の原動力となって、全体をじょうずに運転します。しかしその原動力の果てに待っているのは、男女の抱擁です。うら若い男女が最終的に抱き合うだけのために……すべては運転されます。それは一見平和の象徴のように、穏やかな大団円のようです。でも、女の子たちはどうして弱点を持っていて、男の子はそれを持っていないんだろう? それは女の子たちの弱点が描写されないでは、男の子が女の子を救えないからなんだよ!」

 弟が兄の剣幕にびっくりして手元の唐猫を撫でている手を強めてしまったので、猫はギャーと言ってその指を噛んだ。

「痛って!」

「伯母の描く女の子たちにも、もちろん弱点はある」

 兄は何も見えていないかのように続けた。

「それは人間だからね。強みもあれば弱みもある。でもその弱みは周囲の協力と、それからおのが……結局、個人で乗り越えていくものでしょう。自身の弱みとは他人の強みを強調するだけのために用意されるものでは決して無い。違いますか」

「まあ……」彼は指の傷口を土器の中の酒に浸しながら、「それを言っちゃあオシマイよ、という気がしないでもないですが」

「僕は……冒険や愛情という裏の、母の描いた欺瞞のようなものに、耐えられないんだ」

「うーん……」

「伯母の描いた作品を見たとき、それまでの自分を反省したんだ」

 兄は言った。

「すべてを教え直してもらっているような気分だったな。女は男だけのために居るわけではないし、男だって女だけのために居るわけではない。そんなことよりもまず個人だ。個人というのが、結局最後の問題なんだ……」

 それきり兄は黙り込んだ。黙り込んで、ちょっと口元に微笑を残したような形のまま、手酌でにごり酒を飲んでいた。

 しばしの沈黙の後に、再び兄は口を開いた。

「お前は知っているの? 母が監修をして……しかしその絵を伯母の工房の人たちが描いている巻物のことを」

「いや、知りませんね」弟は言下に答えた。

「フン……ふべんきょうな」

 軽蔑したように笑う兄を、弟は鬱陶しそうに、「ああ、そういう言い方をする人とはもうお話してあげない」と、虫でも払うかのように手を振った。

「フン、聞いてほしいだなんて言ってませんから」

「だからそれで何なんですか?」

「フン、見たこともない人に話したって仕方のないことです」

「ああそう」

 ニャーンと唐猫が鳴いた。

「……………」

 もったいぶった様子の兄はゆううつそうに脇息に凭れるとほうとため息をついて、言った。「僕はそこで開放された人々を見ました。そこで僕は、まるで掛けられた呪いが解けていったかのように、また人々と同じように開放された気分を味わったのです」

「大げさな」

「その物語の中での女性たちは、そうであってほしい姿から開放されている……彼女たちは母の押し付けられた理想からまったく自由になっているんです。そして、彼女たちは、母にそう在ってほしいと望まれた、強制された姿から自由になって、彼女たち、ほんらいの……監督の指図から開放された発言を、動きを。僕はそれを見て……泣いてしまったんだ。彼女たちはようやく支配者の人形状態を抜けて、あほみたいな顔をしたり、ぶさいくな表情をさらしてみたりして、誰かの理想を生きず、自分の望んだ……つまり、何らかの……だれかの欲望によって創造された理想じゃない、その人の人生を……」

「なんだかよく分かりませんが」

 弟は猫を撫でながら、「誰かに創造されたのなら誰かがそう在るように創造したんでしょう。その人の人生というのはちょっとね」

「巻物の中で人物の秘匿性はまもられる」

 兄は言った。

「母は伯母の作った『烏滸の姫君』が気に入っていました。特にその登場人物であるところの阿雅佐姫というのが」

「はあ」

「『烏滸の姫君』には主人公の女の子が居て、阿雅佐姫というのはその友人に当たります」

「はあ」

「伯母の工房の職人を借り入れて物語が作れる! そういう機会にめぐまれた母は、その好機を狙って、自身の手で新たに、阿雅佐姫を主人公とした物語を再構築しようとしたわけです」

「……………」

「母は、伯母の物語の中で阿雅佐姫を描いたという画工を起用して、自身の物語の主人公を描かせようとしました。伯母の物語の中で、阿雅佐姫は脇役に過ぎません。母はそんな阿雅佐姫を新たに咲耶姫と称して彼女を自由自在に自身の手で動かそうとした。でもそれは結局うまく行かなかった。なぜだとおもいますか?」

 挑戦的な目をされて、弟は鼻白んだ。「いや、知りません」

「その画工が首を縦に振らなかったからです」

 兄は言った。「その画工は絵の才能だけでなく、僕たちの伯母の元で培った矜持というものを持っていました。自身の中に断固とした方針があって、第三者から納得のいかないことを言われても、簡単には肯わない。自身の中にきちんとした美学があったんですね。そして、その美学は、母の持つような美学とは相容れなかった。しかし、どう反対されようと、母はその画工の線が欲しい。阿雅佐姫の頬の丸み、阿雅佐姫の瞳のゆらめき、そのようなものを正確に表現できるのはその画工しかいなかった。だから最終的に母は折れました。母の美学よりも、その画工の美学が優先された結果、紙面上に何が起こったか?」

 ベンベンベン。

「咲耶姫は母の欲望に汚されることなくその一生のほんの少しを紙面の中で見せるだけで終わりました。咲耶姫は画工の美学によって母の魔の手から逃れることができた。彼女はその物語の中で……誰の手に陵辱されることなく、彼女の人生を生き切ったんです」

「魔の手? 陵辱?」

 なんだか穏やかでない言葉が次々と出てきて、弟は笑うしかない。「やっぱりなんだかよく分かりませんが」

「咲耶姫はやりたいことをやったんだよ! 誰かが彼女に”やらせたいこと”じゃない、本人が本当にやりたかったことを……」

「まあまあ、落ち着いて、どうどう」

 弟がなだめるようにすると、興奮気味の兄はガリガリと頭を掻いた。不安定に烏帽子が揺れた。「だから、つまり……」ガリガリガリ。「母は阿雅佐姫のかわいいところが好きなんです。そして、阿雅佐姫のかわいいところが”見たい”んです。だからそういう書き方をしようとする。彼女の中に阿雅佐姫という理想の像があって、自身のそれを理想そのままで書き出そうとする。でも、それだと物語と合わないんです。そういう人物だと、その物語との整合性がつかない。おしとやかで、おとなしくて、無邪気で、可憐で、高貴な阿雅佐姫。その阿雅佐姫を、もう一度自身の手で創作し直したい。阿雅佐姫は演じてくれなかった理想の阿雅佐姫を、咲耶姫に転写して書き直したい……そういう欲望です。母はその理想を具現化するためのみの目的で、物語の方をねじまげてしまおうとするんです。理想の女の子がまずはじめにあって、その理想の女の子が活躍する世界が見たいために、そこから物語ができる。でも画工の望むことは違います。彼が望むのは、その女の子が世界の中でその女の子らしく生きることです。個人が、その個人として生きることです!」

 兄は拳を振りかざして熱弁した。汗が飛び散り、影が揺れた。

 弟は兄のそのような姿を、半ばあっけにとられて見ていた。弟はそれから土器を持ち、中身のにごり酒をちょっと見つめ、それからそれに口をつけることなく再び膳の上に置いた。

「うーんまあなんとなく分かりますが、でもね」

 土器の縁を指でなぞる。

「なぜあなたはそんなことを、まるでそれが事実であるかのように話しているのですか。なんでそんなことを知っているの?」

「僕は工房に出入りしていました」

 兄の突然の告白に、弟は目を丸くした。「工房の隅っこで、彼らの話を聞きながら絵を描いていました。母が自室で、御簾越しに女房を介して画工たちと話す時も、その隣で話を聞いていた……もっともこれは、元服前だったからこそできたことですけど。母が僕の絵を褒めたことはありません。別に恨みにもおもってないですけど」

「それは……寝耳に水というか。初耳だな」弟は直衣の上から自身の腕を撫ぜた。「なんだか怖いようですね。まるで母と話しているみたいで」「母がこんな話をあなたに聞かせるはずもないでしょう」「まあ、それはそうですが」

 呆けたように返答する。「そういうものを……見て育った僕です。次第に母親の作ったものに疑問を持つほうが自然というものでしょう。僕はその画工の作ったものを、伯母の美学の土壌ではぐくまれた、彼の美学を愛します。母の手垢のつかない、ひとりの女性としての女たちを……」

 兄は言葉を続けた。

「僕だって、言葉くらいは、自分の感情くらいは持ちますよ。母親に対しての反感だって持ちます。あの人はね、自分の醜悪さをまえにして、それに開き直っているんですよ。画工がいうんです。あなたの感情にも一理はある、まるごとすべて理解できないわけじゃない、しかしあなたの考えるそれでは、登場人物が救われない。私は登場人物の幸福を一番に考えたい……それに対して、母はなんて答えたとおもいます?」

「さあ……」

「そもそも、土壌がまったくの正しさをもっているとおもいこんでいる方が悪いんだ、と」

「……………」

「生み出すほうが、全くの善意からすべてを創造しているというわけじゃない。それを善意とおもいこんで、その実悪行になっている場合や、最初から悪意に満ちていて、意図的にそれを行っている場合だってある。だから生み出されたものすべてが幸福になるとは限らない……こうですよ。僕は、それを聞いた時に、ほとほと……あの人に愛想を尽かしてしまったんだ」

 言い終わると、くすん、と兄は鼻を鳴らした。

「まあ……でも」弟は指先を撫でさすりながら言った。「お兄さんはつまり、そういう母の価値観のようなものに疑問を抱くようになったと」

「まあ……そう」

「で、伯母の描くものによって蒙を啓かれたと。真実はあそこにはなく、ここにあったと」

「まあ……そう」

「ん、ん……」弟は何やら考える素振りをし、人差し指でぴたぴたと顎のあたりを突いた。「つまり、信仰の鞍替えですか」

「は?」

「一つの価値からまた別のものに価値を見出す、置くということは……」彼は続けた。「なにかに価値を置くということは、それだけで信仰と名を変えてしまってもおかしなことではない」

「……だから?」

「つまりあなたは信仰の対象を鞍替えしただけなんだ。母の作った宗教には相容れないから、別の人の作った、自分の納得できる教義を持つ宗派に鞍替えした……そしてそこでその宗派に価値を置いた。だから異教の者は受け付けない。ただそれだけのことだ。違いますか」

「違うね」兄は口の端を歪めて笑った。「あの人の描いた絵巻物と伯母の創ったそれとは全く別の作り方が成されている。あの人の描いたものは快楽で人を縛り、そこから出られなくさせる類のものです。でも伯母の作ったものは違う。あの人の作ったものは……」

 うつむく。

「そもそも、そこへ入ることの出来ない類のものだ。だから僕たちは端からそこからの締め出しを食っている。だから別の場所から登場人物を眺めることしか出来ない……それで同時に、自身の在り様も省みることの出来る類のものなんだ。そこへ出てくる登場人物に照らし合わせてね……僕はこの人物たちと比べて、善い生活が出来ているかどうか……誠実であることが可能になっているか……それは、ひとつのものに埋没している際には、決して叶えられない状態です。己自身を省みている状態のものが、信仰などという忘我に陥ってるなどとは言えないだろう。君の指摘はだから、間違っていますよ」

「だから、そういう状態こそを……」弟は楽しそうに笑った。「信仰と呼ぶのですよ!」

「……はあ?」

 兄は、怒りと呆れが混じったような声を出した。

「……お馬鹿さんだね君は」兄は片膝を上げて、「それともそもそもの根本が二人の間で違ってしまっているのかな? 少し用語のすり合わせをしたほうが良いようだ」

「いいえ、俺たちは同じ言葉についての同じ意味合いを共有していますよ」弟は穏やかに言った。「それにあなたは少し、その言葉について否定的な感情を持ちすぎているようなきらいがあるな。僕は別に、あなたのそれを批判的な目で見ているわけではありませんよ」

「当然だろう」兄は弟の不用意を嘲笑うような顔をした。

「お兄さん、信仰と搾取を一緒くたに考えてしまってはだめですよ」

 彼は言った。

「お母さんはあなたの言うように、誰彼から何かを毟り取ったり、掠め取ろうとしたり、狡い手を使ってあなたの何かを壊して奪い取ったりして、それこそがまったくの善なのだとしたかったわけじゃない。お母さんの作ったものにうっとりしている人たちだって、そういうことをされているという意志はないでしょう。あなたが……皆が見ているものとは違うものを見ているとは言わないが」

「夢や希望だとおもっていたものが、ただの欲望でしか無かったというのを知った気持ちが、お前にわかるか!」

「母のすべてを否定しているわけではないですよ」

「母の作品の最初の頃はまだ良かった。だが最後のあれはひどいものじゃないか。男の「うつくしさ」を「うつくしい」という状態に保つため、ただ一人の男の感ずるうつくしさを満足な状態に維持するというだけのために、すべてが用意され、お膳立てされ、少女は若いままで、うつくしく死んでいく……母はこの穢土に浄土を築いた! 他ならぬ女の手で、男の浄土を!」

「あなたは男じゃないですか」

 弟はただ事実を、そして当然の「空は青くポストは赤い」という事実を、「実はそうじゃないんだ!」などと言いだそうとしている人をめのまえにしたときのように、いささか物の認識がずれている者に対して哀れみ白けるような言い方をした。

「せっかく、母が、男のために……といったら語弊がありますが。結果的に男の夢と化したものが出来上がって、それがめのまえに差し出されたのだとすれば、すなおに受け取っておけばいいじゃないですか? それはどうせ摂取すればある程度気持ちが良くなるように仕掛けられているものなのだろうし」

「男だからといって、男の感ずる欲望を、いちいち快感として受け止めなくてはいけないのか?」

 兄はぎろりと弟を睨んだ。弟は仕方なさそうに肩をすくめて、「そういうものでもありませんけど」と、一応、言い、「しかしあなたという人は、ああ言えばこう言うというものを必ず用意している人ですね。

 いつもおもっていたことだが……それほど自身の中の指標に沿って、世の中の物事を何時でも精査しているというのは骨の折れることでしょう。そのような態度を身に課していて疲れませんか」

「あなたは話の腰を折る天才だな」兄は口の端を歪め、「今は、僕の態度の話などはしていないのに。そうやって話の枝葉を別のところへ広げて、本脈に沿った話を避けようとする。そういう方法を取ればご自身が僕などよりも優位に立てるとおもっているのですか」

「そんな気持ちで言ったのではなかったのですけれど」弟は鷹揚に、「気に触ったのならごめんなさい? 俺はただおもったことを口にしただけで、なにも、あなたの態度そのものを中傷しようなどということは……」

「…………」

「夢を見せてもらっているんだから、夢を見ていればいいじゃないですか」

 弟は(とうとう)面倒くさそうに言った。

「僕にとっては、夢は夢でも悪夢なんだ」兄はかえって叫ぶように言った。「君はこの兄に、強制的に見せつけられる悪夢に耐えろというのか?」

「かわいそうに」弟は同情のような声を込めて言った。

「第一……この国には、自分の頭で考えることのできる人が少なすぎる。そういう人ばかりが居るから、人に何でも考えてもらうことを良しとして、巨大な幹に寄り掛かるばかりが能という人ばかりが増えるんじゃないか」

「個人のそれほど良くない頭で一所懸命考えたところで、それが最善となるわけもないでしょうからね」弟は言った。「下手の考え休むに似たりとも言いますし……、それならばもっと利口な人に色々なことは考えていただいて、己はまったく別のことに取り組む、という方が時間と頭の有効な使い方じゃないですか」

「……信じられないな」兄は首を振った。「わが弟がこのような考え方をする人間だったなんて。ああ、悪酔いがしてきた」

「ご自身のか弱い頭では何も考えられないという、実に存在そのものがはかないような人々も、たくさんいらっしゃるのですから。そういう人たちの頭になって、誰かが彼らの頭の代わりをしてあげることも、必要なのではないですか」

「……それが母のしたことだということ?」

「まあ……それのみでしかないとは言いませんけれども」

「そうやって甘やかしてばかりいるから、皆が好き放題のことを言い出し、それらにいちいち発言と存在の権利を与えることになるんだ」

「え? あはは」弟は呆れたように笑って、「それが個人ということじゃないですか。何言ってんですか! お兄さんもう少し頭の中で言いたいことを整理してから話す癖をつけたほうが良いですよ。俺のところに通っている殿上童なんかのほうが、よっぽど自分の言いたいことを上手に口にしますよ。この前なんか、立て板に水とばかりにすらすらと、こちらの聞きたい話を説明してくれたものだから驚いてしまった。まったく優秀な若人を眺めるときの清々しさというのは何にも代えがたいような驚きと新鮮さがありますね」

「個人というものは、その個人のすべての我儘を突き通すために想像された状態では決して無いよ!」

「うーん」弟は顎を撫で、「俺にはその違いがちょっと分からないな。皆がそれぞれに心のうちに去来することを自由に発言できてこその個人じゃないんですか。お兄さんはそういうものを一番に望んでいるのでしょう。母はそういう個人を利用した……そしてそれが各個人のこころに受け入れられ、次第に大衆感情となっていった。個人が集まったものを大衆というのですからね。ああ……でも、そうか。そういうことだから……」

 弟は芝居が掛かったように、両膝をぽんと叩き、「個人は個人であるからこそ大衆に憧れ、大衆は大衆であるからこそ個人に憧れる。そういうことですね」

「……はあ?」

「えーと、待ってくださいね」弟はつくつくと考える素振りをしながら、「母の感情はごく個人的なものだったはずですよね。なぜなら母という一人の個人はたった一人しかこの世に居なかったのだから(まあもう居ませんけど)。個人的な意見として発表したものが……市民権を得る。ごくちっぽけだったもののはずが、いつの間にか巨大な一つの塊のようになってしまう。個人が大衆に変化するというのはそういうことですよね。そこで失われるのは何か? 確認するまでもなくそこで失われるのは個人、母自身である、と。だから大衆そのものになってしまった母は、永遠ともおもわれるほどの孤独を持った伯母に、常に憧れていると」

「………………」

「生前の母は、俺達に露ほどの注意も興味も払わないような人でしたけど、叔母の話はよくしていましたね。俺達が物心ついた頃には、すでに伯母は出奔して追われる身の人だったから、直接的な関わり合いはなかったけど」

 弟は続けた。

「だから、母はずっと個人に憧れていたんですね。他人に奪われてしまった……というよりも、吸いとられてしまった、同化されてしまった自身を取り戻すべく、母は頑張ったんだ。”ボクもお姉さんのように自由になりたい、個人に戻りたい”などとね。でももう時はすでに遅かった。お兄さんの抱いた違和感の正体というのはそれですね。もうすでに個人を使い切って、でがらしのようになった母の中には、もはや”個人”などという特別なものは残っていなかった……」

 弟は続けた。

「だからそこに残るのは個性的な一個人ではなくてただの欲望の見本市でしかなくなる。彼女が生まれ、その成長過程によって得て来たはずの個人というものは、それが大衆感情と一緒くたになるにつれ、次第に大衆感情そのものが個人感情を凌駕し、くるみ、同化させて、まったく混ぜ合わされてしまったわけです。だからすっかり大衆そのものと化した彼女の中から、今更個人だけを抽出しようったって、これは無理な話で。探せと言われてもそこには何にも残っちゃいないんだから。しかし母は意地でも個人を奪還しようとしたんですね。だから彼女の最後の作品内容は私小説的にならざるを得ないし、そもそも個人などという、本当はあるのだかないのだかわからないような状態を書こうとおもえば、勢い自身の過去に頼らざるを得ませんね。だって自分の過去というのは、間違いようもなく”個人の身に”起こったことなのですから。

 で、彼女は自身の過去にちょっぴり創意工夫を凝らして物語を作ったと。これが俺だ! これが個人だ! お前らの色に染まらない、生のままの俺だ! とね。しかしここからが誤算のはじまり、なんとなんと、そのたった唯一の個人が、他ならぬ大衆に、またしても受け入れられてしまったわけなんですねえ」

 弟は訳知り顔で髭をしごきつつ、続けた。

「混乱……ですよね」

 弟は言った。

「こんなに汚い個人を披露しているのに。俺は、今までみんなに楽しんでもらえるように、少し大衆に寄り添った書き方をしてきた、だけど今回は個人でやらせていただく、これには汚い俺も、醜い俺も含まれている。でも実は、これが俺自身(私自身!)、これが俺という個人なのだよ、と、提示したにも関わらず、哀れ自分の頭、つまり個人ですね、個人で考えられない、だからこそ大衆とおおざっぱに一絡げにされてしまう人々は、その個人を大衆感情として受け入れ、汚い俺もまたうつくしい、と。きれいは汚い汚いはきれいの境地ですね。こんなに汚い俺を、みんなはきれいだと称賛する……これじゃ八方塞がりだ。大衆の中に居ても苦しい、個人を披露して見せてもそれを真としてもらえない。これじゃあ母が可愛そうです。愛されすぎるというのもまた、この穢土の世における苦痛の一種ですね」

「それは……」

「だからこそお兄さんの憤懣は、実際には母にとって一番必要とされているものだったのでしょう」

 弟は言った。「お兄さんは母の個人を、個人として受け取ったんだ。大衆感情としてではなくてね。だからその個人という自由と自立を持ったものが同時に含んだ悪辣さ、下劣さ、手前勝手さ、みんな分かる。理解してあげられた。だからそれをうつくしさではなくただの欲望と嫌悪してしまう。母だって自虐的にそれを行っていたのだろうに。いや、あの人のことですからほんとうに自身の赤身の欲望を”うつくしいもの”と捉えていたのかもしれませんけど」

「あなたは……あなたもそうおもうのか?」

 兄は両手を膝について、身を乗り出すように、その場の空気を噛み尽くすみたいな声で言った。

「まあ……どうでしょうか」目を伏せ、「あの人の描いたものに育てられたと言っても過言でない私たちですからね。そこまで簡単に否定してしまっては自身の過去をも否定することになる……というのが、あはは、大衆感情の典型ですね。こういうふうにして同化されているので、お兄さんが喧嘩をふっかけた母の信奉者があなたを呪い殺そうとするのもまあ納得できないことではないんですよね。作品を否定されることで自身をも否定されたと同化してしまっているのですから」

「だから、どっち?」

「ええ? きれいかきたないか、ですかあ?」

 もはやすっかりこの話題に飽きの来ているらしい弟は箸で膳の上に転がっている米粒を摘みながら、「正直に申し上げれば、どうでもいいですね。きたないともきれいともおもいません。勝手にしやがれってかんじですね」

「無責任な」

「他人の趣向に責任持ちたくないですね。あなたは随分と個人ということに価値を置いているようだが、実際には俺のほうがよっぽど個人主義的見地に立っているような気がしてくるな」

「だから、身勝手と個人は同一ではないと言っている!」

「いいえ、身勝手というのは個人の中にふくまれるものですよ」

 弟は言った。

「俺は他人の美醜を感ずる感情についてにまで、責任なんか持ちたくない。でもあなたはその態度を無責任だという。あなたは他人の美醜を感ずる感情に責任を持ちたい。持つべきだとおもっている。それは明るく楽しく美しい共生の観念によるものですよね。大衆から千切れていないから、隣の人間の挙動が気になる。気にならなければならない。なぜならヒトという字はどんな成り立ちをしているか!? というところまで話の内容は下がってしまいますが。つまりあなたは母そっくりなんですよ。大衆一般であり、個人に憧れている元、個人なんですよ」

「決闘だ!」

 とは、ならないので(時代背景的に)、ただ兄はわなわなと体を震わせるだけだ。だから収拾は彼がつけるのではなく、弟の方でしなくてはならない。後々俺の名前の書かれた藁人形に五寸釘打ち込まれても嫌だからね。

「まったく愛しやすいひとというのはやっかいなものですね」

 で、弟は言った。

「こうやって、死んでからもいちいち話題に上がって、この世にたった二人しか居ないきょうだいの仲を裂く要因にもなる。ボクの愛し方が一番素晴らしいのに、などとね」

 彼は焼いた魚の食べ散らかしたのを箸で突きながら言った。

「たぶん彼女には……優秀な伯母には、人間というものがよく分からなかったのでしょう」

 唐猫が燈台の近くでぷぷうと鼻ちょうちんを膨らませている音がする。兄はそちらの方に目をやった。

「あの高貴な人は、才能のない一般大衆がどんなふうに生活上での苦痛を舐めているかも知らないから、その内容は“沓の上から足を掻く”ようなもどかしさがある。だから、描きながら、体験しながら、その生活の中で他ならぬ”他人”に触れることによって、その少しずつを知っていこうとした。が、ついに最後までその謎は解き明かせなかった」

 鼻ちょうちんがぱちんと爆ぜる。やっぱり兄はそれを見ていた。

「もっとも、俺から言わせて頂ければ、馬鹿みたいな話でね。生き物というのは、もちろん俺も含めて、自動人形的反応しかできない虫のようなものでしかないとおもうんです。

 単純なことです。見ず知らずの人に、例えばの話……バカと言われたら少なからずは腹が立つでしょう。内々の関係にある者同士が「バカだねえ。つくづくバカだねえ」とか「アホだなあ。つくづくアホだなぁ」とか言い合うのでは、それはまた別の意味合いが生じることもある。しかし言葉というのは何らかの反応、感情を引き出すための引き金、入力装置に過ぎません。そして入力された信号に従って、われわれは、感情そのものをあれこれ入れ替えるだけの、装置に過ぎない。しかし、装置ならば何らかの役に立つために、他ならぬそれに対する希求者によって創造される類のもののはず。ところが、われわれというものは、そういった装置であるにもかかわらず、それを創造したはずの希求者の、希求そのものが、ひどくあいまいであることが稀ではありませんね。

 それどころか、「周りの人みんなが作って(意味もなく)持っているから、私も一応持っておこう」などと希求を自ら作り出してね……理由にならない理由ばかりを並べ立てて、それで平気な顔をしているようですが。……しかし、伯母はこの世の春を謳歌したとおもいますよ。なにしろ伯母はこの世にはびこる退屈というものを一度も実感として得ることのない人だったのですから。その生涯を外側から伝聞しているだけの身なので、彼女の本懐としたところなどはもはや分かりようがありませんが……

 そして彼女の作った巻物類が、素晴らしいものであるにもかかわらず、この頃になってはわれわれ母の作ったものより親しまれることが少なくなったのは、必要がなくなったからでしょう。その必要というのは、他者にとってもそうですが、また個人……伯母自身にとっても同じことでした。彼女は本当は、そのようなことをする必要なんかなかったんだ。しなくても生きていけた。そして他人も、伯母の作ったものなど手に入れなくても、別に全然平気で生きていくことができたんです」

「意味がわからない」兄は首を横に振った。「そのような暴論はとても看過できるものではない。彼女の作品に意味はある! 彼女がそれらを創作したことも」「そうですか?」彼は静かに尋ねた。兄は、答えて、言った。「僕には意味があるからです。彼女の作った絵巻物は……他のどんな物語よりも優れている。あなたが何と言おうと、あの人の作品が、僕にとっては一番のものです」「それは」弟は兄のとっさの言葉を面白そうに聞くと、嬉しそうな顔をして頷いてみせた。「伯母も、作者冥利に尽きるでしょうね。たった一人でも、あなたのような読者を持てればね」「これは何も僕ばかりの意見ではありません。あのまぼろしの絵巻物の群に対する称賛の声は、僕以外にも――」「いや、結構」弟は兄の言葉を遮って、「あなたの気持ちはわかります」「いいえ、分かっていません」兄はとうとう口角泡さえも飛ばし、「あの人の絵巻物はそこらに十把一絡げになって転がっている、そんじょそこらのものとは一線を画している。たとえば、母の……あの歯の浮くような、すべての人の願望を満足させるだけの桃源郷的逃避、ああいったものは、一般的ななぐさめにはなるかもしれないが、また現実に目を戻したときに待っているのは、桃源郷的世界を下手にかいまみたことによってより相対化されてしまった貧弱な……おのれの現実、おのれの姿が残るばかりでしょう。みじめなものはいつまでもみじめ……」

「でも、そんなざんこくな現実を突きつけることこそが、もしかしたらあーいった類の作品の本来の……目的かもしれませんよ」

「伯母のそれはあたらしいものを見るときの好奇心で満ちている。それを見つめるのは赤子の目……何を見ても面白い。何を聞いても新鮮で、常にまあたらしい……こどもなどと一緒にいると、彼らは突然、突拍子もないことを言って、周囲のものを面白がらせたりすることがあるでしょう。ああいった状況の面白さ、たのしさ、うつくしさなにかほのぼのとしたあたたかいものが心の臓を浸すような心境……「ああ、今私は現在を楽しんでいるな」というような……こういった心境は、どうしてか、仮の欲望と接している時には得にくいものです。そういう、得難い体験を、絵巻物からとはいえさしてもらった身からすれば……そのような体験そのものが「意味がない」なんて、あんまりな……あんまりな言葉ですっ」

 兄は唇をぶるぶる震わせて何か目の端までぼんやりと潤んできたような有様だったが、弟は兄のそのような醜態を、もう笑うことはなかった。そしてやおら口を開いて言った。「ああきっと、そういうことですね。兄者人、それはあなたが正しい。伯母は、赤ちゃんだったんだ。これは俺の長年の疑問でしたが」彼はうつむいて、指先で下唇のあたりを撫でながら思案するように、「赤ちゃんだから、何もかもがおもしろい。赤ちゃんだから、何もかもが分からない。赤ちゃんだから、人々にああして愛された。わがままいっぱいでも、迷惑をどれほど掛けられ、被っても、”赤ちゃんだから……”だから人々は伯母と、そして他ならぬ伯母の作品そのものを愛したのですね」

 そこで弟はすっかり兄の意見に同意の念を抱いているらしかったが、自身の宝ともしていた彼女の作品群を、”意味のないもの”といわれてしまってすっかり頭に血の上っていた兄は、彼のしんみりとした声色の、真とするところに気づかなかった。

「僕たちの生活は、言ってしまえば、何の統制感も持たない、物語的示唆や、伏線や、教えなどを含まない、非常に……一つ一つが意味のない、決して点と点が繋がりようのない、総合性を欠いたものです。物語とは他人が、人が作ったものだ。だから最初があって、かならず最後というものがある。それは点と点が繋がりあって、一本の線になっているからです。その一本線の無駄の無さ、猥雑なもの、たとえばそれは現実の人間が生きる上で得られないものを擬似的にでも、物語によって得ようとする不気味な欲望です。しかし彼女の作品においては、そのような欲望の満足を得られるような機会がごく少ない。少ないように作られている。それらを持たない気高さ。あの人の手にかかると、猥雑さ極まりなく、であるからこそ人工物のように一本線になれない自身の生活を顧みて、かえって自己嫌悪に陥ることすらある。物語の中の人物はこれほど統制されたうつくしさと正しさを持つのに、それを見ている私は一体どういうものなのか……など。

 ああ、でも、おかしいですね。他人の作ったものを見て気分を悪くする、そしてそれが見ているだけで気分の良くなる物語よりも遥かに良い、などというのは……僕は、気分が悪くなりたいから、気分の悪くなるのを求めて、あの人のことを素晴らしいといっていたんだろうか?」

「ふ……、あは、は」

 兄の滑稽な自問をまえにして、弟はがまんが出来なくなったかのように吹き出した。「なんですか? それは。もっと自分の中でこれとした意見を決めてから、お話して下さい?」「ですから……、ですから僕は、」兄はあえぐように言葉を絞り出しながら、「ただ、僕は、いたずらに快楽を貪るような内容よりも、現実とは一風違った、しかし現実と呼応するような作品作りのうつくしさを、褒め称えようとしただけなのですが」頭を掻き、「すみません。つい、興奮して。わけのわからないことを」「いいえ、良いですよ」ひとしきり笑い終わった彼は、しかしなおもニヤニヤと口元に微笑を残し、「確かに、あの人の描いたものを読んでいると……私どもの住むこの世の中も、生くるに値するものではないかと、ふと感じさせてしまうような何かがありますね」「そうです、そうです」兄は顔を上げた。「たとえていうのならそれはまさに『草原の輝き』そのものです! 何気ない日常的な風景も、その横に、その風景をまあたらしい目で眺める他人が居て、「きれいだね」など一言口にしてしまえば、口にされた方は、「まあたらしく発見されたうつくしさ」を、嫌でも体感してしまう」

「大体から、意識して取り込もうとしているわけでもないのに、いつの間にか共通認識としてこうして、母や伯母の作品について云々できるというこの状況も……つまり、彼女らの作品を通らないでは日常会話もかなわないというのはちょっと恐ろしい気もしますね。誰もが日常語のようにして彼女の、特に母の作品を口の端に乗せるでしょう。そして誰もそれを不思議がらない。むしろ喜び勇んでそれを肴に日常的会話として使用している。

 われわれは年長者から与えられたものからは逃れることはできない。そうやって無防備でいるうちに自らのうちに彼女によって種が蒔かれ、良かれ悪かれ成長していく……

 ああ、彼女! われわれの母親というのはまるで不思議な種ですね。われわれ……畑であるわれわれの小さな土地に蒔かれた種が、一体どんな種類の花であるか雑草であるかも知らないのに」

「……………」

「実のところ、母の個人というのは、もっとものすごかったのかもしれませんね。あのまま内なる欲望をさらけ出し続けたら、もっと生々しい、御本人の本来からの肉声が聞けたかもしれません」

 弟は言った。

「残念ながらというべきか、幸福なことにというべきか……本人にとっては、その邪な欲望を隠したまま人々の間から雲隠れできてホッとしたといったところだったかもしれませんけど。

もちろんその邪な欲望をこれ以上提示する未来だってじゅうぶんに想像できたでしょう。彼女がまだこの世に未練をのこして、どうしても自分の頭の中をすべて開示してやると半分露出狂のような快楽に惑ってしまったとするのなら。まあ、そんな未来は回避できたみたいなんで、俺達のためにも、彼女個人のためにも、それはそれで良かったのでしょう」

「それでは……」兄は急に虚脱したように言った。「なんだか個人とは詰まらないようだな」

「そりゃあそうでしょう」弟は言った。「世の中が詰まらないとおもっているあなたのような”個人”が、どうして自分自身を楽しめるというんですか」

「僕は自身を楽しもうとか考えたことはないよ」兄は歯を噛みつつそのあいだから声を威嚇するように吐き出した。「できることならこのまま逃げ切りたい。逃げ切って、思考なんてくだらないことをするのはそれ以降止めてしまいたいよ」

「母は逃げ切ったんですね、この世から。そういう意味でもやっぱり、あなたは母という人の子だな」

「フン」

「母は夢の中で生きて、夢の中で死んだ。時折はそういう人物も出なくちゃ嘘ですね。不幸な一生を過ごす人物もいれば、幸福な一生を過ごす人物も居ないでは釣り合いが取れない」

「何の釣り合いですか」

 兄は不機嫌に言った。「そんな、悟りきったような言い方をしてもだめですよ。どうせ僕らは、不幸な一生で終わる側の生き物なんですからね」

「あら、お兄さんと一緒にしないで下さい?」

 弟は、ちょっと呆れたように軽やかに言って、笑った。「俺は幸福ですよ。美人な奥さんとかわいいこどもたち。好きな仕事。愉快な兄。こういう人たちにかこまれて、不幸であるはずがない」

 弟が言うと、兄はいやーな顔をした。

「あーやだやだ。これだから常識的人間っていうのは嫌だね」

「常識に沿って生きるの楽ですよ。お兄さんもじくじく言ってないで決めちゃいなさいよ」

「えー」

「こっちだって肩身の狭いおもいをしているんですよ。舅がせっついて仕方ないんです。あなたの兄御はいつまでもふらふらと、いつになったら身を固めるのかと」

「ああもう、帰る、帰る。そんなくだらない話をするなら帰る」

「ほらお兄さん、急に立つと立ちくらみがしますよ。ああほら転んだ。いい歳をして、弟にご自身の世話を焼かせないで下さい?」

「僕は絶対に生殖などはしないぞ。こんな……地獄のような世の中に、まあたらしい人間をむりやり産み落として、苦労させて、不幸にさせて、その一生を呪うような目に遭わせたいなんて」

 兄は酒に酔いつつ酩酊した頭で、そういうことをいいつつふらふらと歩き出した。弟は、それを支えつつ、まだ月の光に濡れる濡れ縁まで出て、酔っぱらいのこの兄を、自室まで連れて行ってやった。


 しかし……

 生殖行動からの離脱、あるいは拒絶の念を示すというのは、彼の立場からすれば、一体どんな結果を生むかというのが、兄は分かっているのかいないのか?

 婿取りをされ、その結果子を成さない限り、兄はそのうちに自身の職を追われるだろう。なぜなら貴族というものは、次世代に子を残すことによって、自身の生命や地位を安定させてきたからだ。

 『イエ』の存続に無関心なものに、それ以上の繁栄はない。宇治殿がなぜ、お父上の築いてこられたあそこまでの繁栄を、たった一代でむざんにも散らすような羽目になったのか? それは彼に後継者を育むという、貴族にとっては一番に考えなくてはならない理念が欠けていたからだ。

 僕は生命が嫌いだ、存続が嫌いだと幾らいってみても仕方がない。精々存続などというまねごとでもしてみない限り、その命を志半ばで散らすのは他ならぬ自分自身なのだから。

 彼は重くて酒臭くてまだまだ独り言をぶつぶつと呟いている兄者人の歩行を補助しながら考える。


 建物には言葉がない。だが、人間には言葉がある。

 建築は信じられるが、人間は結局信じられない。

 われわれは、一人ひとりが、少なからずの何かを信仰して生きている。それは個人が「私は信仰などしていない、私はごく普通な庶民で、ごくまっとうな常識を持ち合わせた、少女A、少年Aに過ぎないのだ」としてみても無駄なことだ。無神論者に対してよく言われるように、「信仰などしていない」という信仰、「常識人である」という信仰、「ごく普通である」という信仰に、われわれは日々のお勤めを繰り返しているに過ぎない。彼の兄が哀れなのは、そのどれの信仰も選ばない、私は一切を嫌悪するとして、せっかくまわりのものが工夫をこらして生命の遊びとして提供したものを、一切受け取らないでいる物知らずな中年であるということだ……

 せっかく、べんりでたのしいおもちゃを作ってあげたのに。そしてそこでは現世の詰まらないボクなどでは到底叶えられないことがたくさん起こって、日常生活では得られない冒険や、女や、地位や名誉を、あびるほど受け取れるというのに。

 多くの人々が”善い”とするものを受け取らず、それどころか”醜悪だ”としてうつくしいものを汚いものとして捉え、拒絶し、否定しなければならない理由とはなにか?

 勝手に何でも信仰すればいいではないか、と彼はおもう。信仰とは冷静な目で見れば、眉に唾をつけて立ち向かわなくてはならない、厄介なものではあろう、が、しかし、それがなければ人は生きてはいけないだろうし(単純な話、ある一人の邪悪な教祖に入れあげて、有り金をみんなやってしまったり、己の生活をそれによって破綻させてしまうというような結果を呼ぶもののみを信仰と呼ぶのではない。生きるのが善くて、死ぬのが悪いとか、死ぬのが善くて生きるのが悪いとか(これは最近流行りの浄土思想)、一族の繁栄を永らえ子を成すのが善いこととか、一族が没落するのが悪いとか、そういった大多数のものが是とするところをまた自身も疑うことなく是としてしまうこと、これもまた信仰だ)、ありすぎてもまた生活に破綻をきたしてしまうだろう。では一体、どういった態度で日々の信仰を全うするのがもっとも最善であるといえるのか?

 それは、信仰をそのまま生活としてしまうことだ。何も考えない。周りの価値観に従う。そしてその一連の行動や規範が、”信仰のもとに行われているわけではない”と”信じる”こと。つまり信仰していないという考えに身を置きつつ、実際のその行動そのものは、その信仰を採用していない第三者から見れば、信仰のもとにそれを行っているに違いない、という不自然を、自身にとっては全くの自然として行動すること。なにもこれほどく複雑に言わずとも、話はかんたんなことだ。

 たとえばの話、生命の基本形は女性であるという話がある。その頃女”性”であった物体が、われわれと同じように思考する動物であったら、「イエ」などというものを作り、そこでのみの生殖行動にあくせくし、それによって縛られる生活を”イエ信仰”と呼ばず”生活”として平然としているのを、首をひねりつつ眺めることだろう。

さて、それではなぜ、ひとつだけで済んでいたものが、もう一方の性を生み出すようなことになったのか? 以前はそれのみで事足りていたにもかかわらず?

 すべては、”必要だから”の一言に収斂する。必要だから、すべてのものは創造された。必要のないものは、必要でなくなればそのうちに淘汰されるだけだ。信仰も生活信条も生活必需品も、みんなそのような需要によって創り出された。そして必要がなくなればいずれ(見)捨てられる。

 生命に対する信仰、ルール、文化その他はそれだけのものに過ぎない。それでは、大多数が是とするそれに与せない、つまり大多数の必要とするものを必要としない人々は、どうすればいいのか。それこそ話は簡単で、自らの必要とする必要を、自らの手で作り出せばいいというだけのことなのだ。

 信仰などと大仰な言葉をわざわざ使用して、それを能動的に為そう目指さずとも、各人が自然と行っていることなのだから、勝手にすればいいと彼はおもう。各個人が勝手に信仰すればいいものを、その個人が別の個人に茶々を入れて、まぜっかえそうとするから戦争が起こり、洗脳が起こり、搾取が生まれ、待つのは破滅のみという結果が残るのではないか。

 みんな他人に興味を持ちすぎる。他人などという度し難く、何のおもい通りにもならない個体に対してあくせくし、自身の体力の殆どを捧げてまでして無駄に関わろうとするから、余計なことが生まれ、その余計ごとによって益々人生の貴重な時間を浪費し、あまつさえその浪費の総合を結局人生などと呼ばなければならないはめになる。そして、やれ浄土だ、やれ都合のいい女だ、男だなどと各人の実生活をないがしろにして、空虚な空想の世界に逃げ込まなくてはならなくなってしまうのだ。

 他人になんてかまっている暇はないんだよ、と、他人のためにあくせくばかりしている兄の弟であるところの彼はおもった。

 どうせ、個人というものはなにかしらに価値を見出し、信仰していかないでは、それに支えられないでは一人では立っては居られぬほどのはかなき生き物なのだ。どうせ何かを信仰しなければ生きていけないのなら、どんなときでも喋らず、ただじっと黙っている建物が良い。俺はそれに対して、唯一絶対的な価値を置きたい。そしてそれを健全に”信仰して”いたい。

それは堅牢なように見えて脆く、すぐにでも壊れそうにもないくせに、その実かんたんに壊れて、なかったことになってしまう。すぐに壊れてしまう羅城門のような存在もあれば、悠久の時を揺蕩うように存在する法隆寺のような存在もある(もっともあれも再建物ではあるが)。その絶対的な脆弱性の両方を持ち、またその内部に様々な細工を凝らした建築物というものの面白さ、頼もしさ、儚さ、気高さ。そのどれをとっても、彼にとっての”他人”とは比べ物にならない。

 兄者人もはやくおとなになって、そういう明るく健全な信仰物に出会えればいいのにとおもう。他人なんか、母親なんか、過去なんか、どうでもいいじゃないか。それよりも現世に生まれ、そこでのうつくしいもの、楽しいもの、甲斐のあるものに掛かりきりになる方が、どれだけ素晴らしいか知れない。全く兄者人というのは気の毒な人だ。

 まあ、別に、他人のことだからどうでもいいけど。

「あいつらは新しいものをつくりすぎる。モノや生き物を生むというのが全くの正しい行為であるかのようなすり替えを平気で行って……」

 弟に肩を担がれている兄は、酒に濁った息で、ぽつんぽつんと吐くように言った。

「もうこれ以上悲しみや苦しみや楽しみを作り出すのは止すべきだ。少なくとも僕は、僕だけでも、それを実行するぞ」

「お好きにどうぞ」

 弟は答えた。


****


 普通、彼女が帝に対して行ったような、信頼に対する裏切りに似た行為が、看過されるはずはない。天を統べる人に反旗を翻したということで、謀反者ならびにその家のものは一切を追われ、お家取り潰し、家財家屋地位名誉すべてをむしり取られて、浪々の身におちぶれるといったところが当然であったろう、が、今回のできごとに関しては、そのようなことも起こらなかった。

 起こらなかったどころか、何の変化もなかった。つまり、きれいさっぱり、その“裏切り”に対する処置は行われなかった。ただ一切が過ぎていくだけの日々に、それらのできごとは起こらなかったのである。

 それは他ならぬ、この世を統べる天子様からの、心づくしの結果ではあった。彼こそが、彼女と、その親族に対する不敬を許さなかったのだ。

 あのようにして徹底的に拒絶されたのにもかかわらず、彼はその高ケツさゆえに、あるいは臆病風に吹かれたが故か、知らないが、とにかく彼は彼女とその親族との名誉を守った。

 曰く、彼女は逐電したのではない、と。彼女は彼を拒絶し、その上に屋敷に火を掛け、沈没する船から逃げ逸るどぶねずみのように、この都をひとり抜け出したのではないのだ、と。

 噂というものはごく簡単に、流行り病のように人々の間に伝播する。墨のように流れたそれはするすると人々の間にゆきわたり、そのうちにはこんな会話が人々の口をついて出回るようになった。

 ――讃岐の少弁の君が言うことには、この世の春にはもう飽いた、ついては別の道を取るために頭を丸めたいと。それで讃岐殿はみずから仏の道をえらび、比叡の遠山へ入って、今では念仏ざんまいの日々を送っているらしい、と。

 彼は彼女の名誉を傷つけたくはなかった。それは、愛情から発した行動だったのかもしれないし、また、自身のともすれば自棄に似た衝動を抑えつけるためのものだったのかもしれない。

 あの人はきっと、私の元にまた舞い戻ってきてくれる。そのような未来を想像することがこれほど簡単にできるというのに、その想像図をみずからの手で壊して、みすみす、彼女の帰る場所を奪うような愚策を演じる必要が、一体どこに存在するというのか?

 彼女が彼の元に戻ってきたとき、その地位も名誉も既に剥奪され、一家はすっかりおちぶれて、待つものもいない、そのような場所に、どうして戻ってこれるというのだろう……などと。

 結局彼もひとりの、夢見る男の子であった、のか?

 つまり、彼も恋した人のことを、「そういうもの」として大切にしておきたかったのだ。

 私は一度、あの人にこばまれはしたが、それは彼女の本心からの行動ではなかった。というよりも、こちらが少し行動を急いてしまったのだ。もっと時間を掛けて、互いをよく知り、その内面さえも細かく照らし合わせてゆくことさえできていれば、あのような屈辱、かなしみをなめるようなこともなかった……

 あの人はうつくしかった。そのうつくしかったおもいでと、それから現在に、彼は泥など塗りたくはないのだった。

 かくして平安京は、今日も平穏無事、清涼殿の一角は燃え崩れたが、それとてことさら珍しいことでもない。過去においては何度も火が上がって、そのたびに再建してきたこの場所だ。

 それに、一度燃えてしまえばそこには新しい屋舎が建つだろう。新しいというのは良いことだ。まあたらしい色、まあたらしい光、まあたらしい風、空気、におい……そのどれもが素晴らしい。このような素晴らしい場所は、この日の本のどこにも存在しないだろう。このように素晴らしい場所から抜け出して、なぜ、草木も生え揃わないような、ひなびた、光も彩もない場所へ、あの女は飛び出して行ったのだろう? 彼にはそれが、考えても、考えても、理解の及ばないほど、彼自身のすべてはその身も心も、”この場所”へ縛り付けられ、囚われてしまっている。……

 ここはどこよりも良いところなのに。そして、彼女のような、この世のものともおもえないほどのうつくしい女人が、絶対的に君臨すべき唯一の場所であるはずなのに。どこかで掛けがねを違えてしまった。何もかもは当然のように収まるところに収まるはずだったのに。どこでそれらが掛け違ってしまったのだろう?

 人という生き物は、その対象になるものの高貴さ、下賤さに由来することなく、皆平等に自身とは違うものを求めてしまう。そして、その求めた結果得られたとおもうものを、容易に手放そうとはしない。彼が求めていたものは、そのものずばり、自身という性の成り立ちが、男であるということだった。それを彼女という存在が教えてくれた。だから彼は今もこうして、自身という像を崩すことなく、健康に、精神を保てている……

 なぜ、彼は彼女というものを求めたのか?

 それは、彼自身が「男」であるということを、女というカウンターを仮定してのみしかおもい出すことができないためだ……

 ので、彼らは自己があいまいになったり、他者からの肯定が身に注がれない日々が続くと、女を求めたくなる。おれが「男」であることを証明してほしい。社会という男が作り出してきたものの中で、立派に男というものを再演することが出来る、それまでの前例に従った形での自己であると、このおれ自身の体にもまた認めてほしい。それでなければ、おれはおれの中の「男」というものを支えきれない……

 このように「男性」というものはとかくやっかいで、甚だ獲得し難い。そこら中にありふれているようであって、しかし最も得難いもので有り得てしまう(もっとも、このような男性像をまったくの恒常として、そこに居座り開き直り、あまつさえ「これこそが真の、本物の男の姿なのだ」などとしてしまうのは、己の単純さの上にあぐらかくようなもの以外ではありえないというのはもちろんだろうが……)。

 さらに余計を付け足すのであれば、これはあくまでもこの平らかで、雅そのものであったような内裏でのことである。ことに、私どもの生くる現在のように、様々な要因が複雑に絡み合った現代においては、このような男性の自己正当化の減少も、決して男性のみに与えられた特徴などではなく、様々な性別の上に、様々に現れたり、浮かんだり、消えたりする類のものであるというのは言い添えておく必要があるだろう。

 けれど、彼という存在がそれらすべてを意識的に理解しているはずもない、そして、意識する必要もない。だから彼はおっとりとした面持ちのまま、うららかな日差しの中、ぼんやりと愛猫の唐猫を撫でている。

 ここにはすべてがある。うつくしい屋敷も、うつくしい女も、地位も名誉も金銀財宝も……それであるにもかかわらず、ここには決定的ななにかが足りない。彼はそれを知っている。足りないものを知っている。だけどそれが今、一体どこに在るのかというのを、彼は知らない。

「ここにはすべてがあるが、それが故に何も無い」

 しかし、豪華絢爛な平安京という場所は、そもそもがそういった性質を有している場所ではなかったのか。


 さて、人々はそうやって姉のかぐや姫の不在で嘆き悲しみしんみりしていたが、では実際のその人は、その頃一体何処で、何をしていたのか。

 人は時に勘違いをする。それは、きっとこの世界のどこかには、たった一人でも良い、僕を必要としてくれる人がいるだろうという勘違いだ。「日本のどこかでは、私を待っている人がいる」などと流行歌手がささやくのを待たずとも、そういった希望が一人ひとりの中に、ほんのりと明かりを灯していたとして、それを咎め立てるような法があるだろうか? しかし、そういったものを個々人の中に留めるのを認めるとしても、勝手に希望の対象とを他人から無理矢理決め込まれてしまうのは、誰にとっても迷惑なことでしかないだろう。

 社会、が認めるところの「男」であるために、別の生き物からの太鼓判を得たい……あるいは、社会、が認めるところの「女」であるために、別の生き物からの太鼓判を得たい……そのような身勝手な希求に付き合わされるそれぞれの性も、甚だ微苦笑を禁じ得ないところであろうが、それにしても、自己を自己のみで立脚させ、堂々と社会の矢面に立ち尽くしてきた性というものも、このながいながい歴史の中でも容易には見つけられない類のものであろうから、このような傲慢も、一口で否定できるものでもないだろう。

 しかし……

 誰も彼もがそうした自己補完に付き合ってやる必要もなければ、義務もない。その自己補完を異性(または同性)間ではぐくみ、両者がより良い環境にまでたどり着く過程として使用できるのなら、またこれに越したこともない。しかしやっぱり最終的に、誰もがそう単純に、その段取りを取れるというわけでもないのだ。

 で、あるからして、彼女は今、地の果ての、さいはてのうらぶれた荒野に一人立ち尽くしている。ああ荒野、ああ武蔵野、東山三十六峰静かに眠る丑三つ時……

 劇伴音楽(バック・グラウンド・ミュージック)には『マホガニー・モーニング』、あるいは『禿山の一夜』……といった雰囲気。


「ああ、こんなものははじめからじゃまものだったんだな」と、彼女はおもった。

 女はその丸い頭をつるりと撫でた。

 要るか、要らないかよくわからないものばかりを日常的に背負ってぶら下げて、今までは平気な顔をしていたが、もう今ではそういうこととは違う。それは、周りのものが”そうだ”と認めている基盤から全く自由になったものにとっての選択の結果の先に、どんなものが用意されているかということだ。

 つまり……

 女であるということに拘泥しているから、同じような価値観を持ったものにその姿を認められてしまう。分かるか? この面倒事を生じさせる原因というものが? 面倒だから、簡潔に言う。

 私はうつくしい。私はそれを知っている。なぜなら周りのものがみんな、私というものをそういうものだと称すからだ。

 それで私は、私というもののすべてが、うつくしいものだと称されるに足る生き物、女というのを知った。うつくしさというそれを呈す人物というものは、それを見るものの目に良く映る。良く映るから、それは見るものの目と心を和ませかつ高揚させる。つまり幸福になるということ。人間という生き物の最も求むる、生命としての最も最善な状態とは何か? 幸福を売る男はなぜ幸福を売るか? 人がそれを欲しいと望んだからだ。人はそれを常に望んでいる。そして私は、おのれ自身のうつくしさを材料にして、常にそれを人に与えてきた……

 しかしここでやっかいなことがひとつだけある。それはうつくしいということにどうしても付随してしまうじゃまものだ。そのようなものがあるから、時として美の所有者はそれによって他人に幸福を振りまくような善を成したにもかかわらず、危害すら加えられてしまうようなりふじんな羽目に陥ることになる。充分面倒な話になっている?

 簡略に、簡略に。

 つまり、分かりやすいということだ。

 うつくしいということは分かりやすい。一見即了解(見れば分かる)、それを理解するのはたった一秒あれば良い。特に私どもが棲まう現代社会においては。しかしこの世は平安の世。この時代においてのうつくしさに対する一見即了解とは何か……

 和歌での返答歌のみごとさ。これは時間にして十秒程度。名家出身であるかどうか? これは貴族であるならばそこらへんを歩いている同僚に訊けばいい。早くて二十秒ほどか。もっと分かりやすいものは無いか。万人が数秒程度で、学のあるものも、無いものも、すべてがその女の見事さをすぐさまに認め、その美貌のもとに降伏する……現代においてであればそれは顔面のバランスの見事さであったりスタイルの良さであったり、ともかく一目瞭然ではある……が……

 髪だ!

 これがあるから良くない。ぬばたまの、翠の髪のものすごさ、うつくしさ。これがあるから人はそれを女と認識する。認識されることによって彼女は彼女を見る観察者たちと同じ価値観を自然に共有しているということになる。髪の長いのとはそれすなわち女であるということだ。髪を長くしているということは、みずからを全くの女だと認めていることだ。だからこそ、他人も彼女のことを女とする。美しい翠の髪を持った彼女はそれであるからこそうつくしい女として他人に希求され昨夜のように余計な目に遭う。そのようなことをしている暇はないのに。私にはもっと、やるべきことがまだ残っているのに。それも果たさず、あのように、余計なことにかかずらって、時間を無駄にして……それはなぜ起こった? それは彼女が男に希求されるような、他人にごく”分かりやすく”映る”うつくしい女”のままだったからだ。

 余計なことをしていたからだ。いや、余計なままで、ぼんやりしていたからだ。

 確かにそのうつくしさは以前には役に立った。その美貌がなければ、身分もなにもないただの女が、あのように都の中央まで入り込めることはなかったはずだ。あそこでは”美”こそが最も強力な通行証になる。うつくしさそれそのまま力だった、権力だった、暴力にさえ、為り得たのだ。

 でも今は違う。それをもっとはやくに気づくべきだった。

 なぜああして男が彼女の髪を引っ張ったのか。上下関係を彼女に教えるためだ。長い髪を引っ張り、それによって体の自由を支配し相手の力を無効化してしまう。あの人たち、都の人々は、私の髪をうつくしいものと言った。それはとても得難くて、愛すべきものであると。しかしところ変われば品変わるなどというのは改めて言い出さなくとも当然のことで、それは、彼女がすぐにでも「そのこと」を実行してしまわず、ぐずぐずと過去の姿や価値観に、拘泥とまではいわなくとも、追従していたためで、そのような役に立たない、今更どうにもならないようなものは、さっさと終いにして、次の目的のための行動に移るべきだったのだ。

 で、「そのこと」とは何か? 髪を切ることだ。切るなどという生易しいものでもない、たとえば出家した女というのは生活するには邪魔だろうというような長い長い髪を(長ければ長いほどうつくしいとされてるんだ、今考えれば変な価値観だ、と彼女はおもった)切って、耳許あたりで揃える。それが女たちの共通のスタイルだ。つまり男の坊主のように頭を丸める必要などはどこにもない。髪を短く揃えている、それだけで「女でなくなる」という条件には足りる。しかし彼女は頭を丸刈りにしてしまった。それはもう二度と、男などに髪を引っ張られないためだ、イデアの中のうつくしかった自身の髪を、永久に心のなかに留めるためだ……としても良い、が、もう一つには、共通認識から逃げるためでもあった。

 なぜ女どもが、移動に不便、ただ重いだけ、めったに洗えずフケツ、にもかかわらず、その翠の髪を伸ばし続けたか?

 そういうものがうつくしいものだという共通認識があったからだ。

 認識を一にするから価値が分かりやすくなる。みんなが良いというものを良いというのには安心がある。ひょっとしてこの映画面白いって言ってるのボクだけ? みんなは……? あ、良かった。面白いって言ってるナ、安心。まあ、中には面白くないって言ってる人もいるけど……人それぞれだからな、などと。しかし平安貴族に人それぞれだからなどという個人主義に肩まで浸かったような価値観はない。坊主頭の女など存在しない。価値観を同一にするから、私は「うつくしい」女だと全身で証明してしまうから、その分かりやすい価値観によって同じ価値観を有した他人が、その価値観を盾にして彼女に近づいてくる。彼女の内実の是非などには構わずに。だから内実と外見をできるだけ合わせなくてはいけなかった。あなたと同じ場所に私は私の価値を置いていない、なぜならこれからさき、私にとっての女というものはじゃまもので、あなたがわたしの外見を観察することによって得た新規のうつくしい女というものは、この世には必要ないものだったから……など。

 で、彼女は頭を丸めた。そしてその見た目のもたらす作用によって、結局始めの頃は自身の高ケツさゆえにそれを拒んでいた、得度は受けていない野良僧として聖に化けるという行為を身に課し、喜捨によってその身を立てた。そして、そのままの姿で、彼女はその地に降り立ったというわけだった。


****


 屋根から竹が突き抜けている。彼女はその光景をぼんやりと眺めた。

 見覚えのあるような、無いような、不思議な気持ちだ。

 さく、と足元で音がする。彼女はめのまえの、太い竹が何本も何本も家の屋根やら土壁やらを崩してそびえ立っている、奇妙な家へと歩を進めた。

 幸い、戸は開いた。開いたというより壊れたと表現したほうが正しかったかもしれないが。彼女はその家屋の中に一歩足を踏み入れた。薄曇りの冬の日だ。時は未の刻をうろうろするような時刻、崩壊した屋根のあちこちのすきまから、雪の気配を十分にふくんだ、しかし昼間の長閑けさを滲ませたような、鼠色の空気が降りている。彼女はそのカビ臭い空間で息を吸った。

 太い根を張った巨大な竹が、幾つも立ち並んで、その家屋の地面から伸びていた。もう何十年も人の手が入らず放置されていたのであろうその家屋の倒壊を、まるで支えるみたいに竹は立ち並んでいる。雨風を避ける程度になれば何でもいいとおもったが、あちこちに穴が空いているせいで外気と室内にあまり変わりはないみたいだ。

 ふと彼女は、かまどの上に乗っている何かに視線を吸われた。それに近づくと、彼女はそれを手に取った。

 竹とんぼ?

 彼女はそれを指先でくるくると回した。それは冬の鈍い光に揺れている。しばらくそうしていると、彼女の指先に何か、冷たいものが触れた。

 彼女は穴の空いた天井から、鈍鼠色の空を見上げた。


 さて…………

 その頃だったか、確かなことは言えない。しかし実際に、それは起こった。

 全国津々浦々の竹林から、一斉にその花が咲き乱れたのは、確かその頃のことだ。

 たとえば桜前線などといって、ソメイヨシノなどが一気に咲き揃う現象があるが、竹の開花もそれと同じようなものだった。竹林というのは、地下で根がすべて繋がっているものだからだ。

 竹の花は、別にうつくしいともおもわれないような、とてもささやかなものだ。その開いた形や色は茗荷や稲穂に似ている。それらは数日だけ咲いて、その後はみんな枯れてしまう。

 竹の花が咲くのは不吉であるという。曰く飢饉や天災の前触れだと。

 『竹』そのもの自体が不吉なもの、縁起の悪いものであるという話もある。

 竹の中は空洞である。筒である。宵の明星はユウ“ヅツ”とも言う。これは「夕の神」の意であり、宵の明星、すなわち一頭明るく見える金星である。金星の神とは誰か? 天照大神は太陽の神、月読尊は月の神、須佐之男は嵐……金星の神であるとするならば、この傍迷惑な神様は、不吉な疫病神にまで言葉の意味が伸びていく。そしてまた、この竹というものも、不吉なものである……という話。

 そのように不吉とされる竹の花が咲いた。人々はそれを噂したが、人の間に何か特別なことが起こることはなかった。日々はそのまま続いたのだ。

竹の花が咲き乱れていた頃、ひとりの男が死んだ。ひとりの男が不審火を出して、その豪奢な屋敷を焼いた。ひとりの男が権力を追われ、しかしその交代劇が世に出ることはなかった。

 ひとりの女が歩いていた。舞台は奈良の山奥、もはや朽ちかけ忘れ果てられ崩折れた、誰の手ももはや入らない崩れかけの……

 その竹細工で結ばれた、そまつな庵に、その男は居た。それを彼女が見つけた。それは、彼女がずっと探していた男だ。

 後ろの山でザザザと花咲く竹の群れが揺れた。赤城の山も今宵限り……これで終いだ、何もかもの決着が。何かしらの……結事が。

「少し、歩きませんか」

 久しぶりで会ったその男は、彼女にというよりは、誰にいうでもなしというような簡素さで、彼女を屋外へ誘った。

 その山に彼女が出掛けたのも、旅の途中の気まぐれに過ぎない。

 山を登っていく最中に、鉢合わせた農夫と少し会話をした。以前この近くに住んでいて懐かしくて寄ってみた云々。すると農夫は健康に焼けた肌に白い歯を光らせ笑ってみせて、最近はここもひどい有様で、ここ数年はここらを住処にしていたものたちもどんどん土地を捨てて別のところへ行ってしまうとの由。

なぜか?

「竹が」

 曰く、竹の生長が凄まじいのだと。以前は住民が筍を掘ってそのその生長を抑える用意もあったが、人手が一人二人と居なくなるに連れその生育を邪魔立てするものは少なくなり、竹藪はその生域を徐々に広げていく結果になった。竹は根の張りも弱く土砂崩れなどを巻き起こしやすく、大雨が降ったときなど目も当てられない惨状になったという。

「だからここのところではほとんど人も寄り付かないんですがね」

 しかし彼は、人の出来る儚い抵抗ではあるが、時々おもいだしたときに筍を掘りに来ているという。

「以前より住み暮らしていた場所だからね。時々懐かしく、以前の風景をおもいだしては、儚く筍を掘ってみたりと、まあ、そういうことをしておるわけです」

 で、そのような不毛の土地に、最近庵を結んで住み始めたという、変わった気性の聖がいるという。

「なんでも以前は得度僧まで上り詰めた方だとか。そういう話ですけどね。都を追われたとかなんとか」

「それは何時頃のことですか」

「さあ? 詳しくは知らないけどね」

 などと、言いつつ、農夫はその聖についてたくさんのことを彼女に話してくれた。話題に事欠く田舎にとって、辺鄙なところに住み始めた聖などは格好の噂の種、話題の一番に輝くに決まっている。その話を聞きながら、彼女は次第に確信を強めていった。灯台下暗しというべきか否か? 青い鳥はごく近い場所に存在していたのだ。

「途中で恩赦があったとかの話ですよ。御上のりふじんな仕打ちを気の毒におもった上役が、島流しに合う前に逃してやったとかなんとか……どれがほんとのことやら知りませんけど。俺のかみさんなんかはね……」

 それから農夫は彼の妻の意見なんかを話してくれて、そのまま近くの座りやすそうな石に腰掛けて、彼女は彼の会話にたくさん相槌を打って、普段他人との交流に飢えているらしい彼の心を十分に満足させた。

 その噂話は本当だった。だから彼女は彼のめのまえに、こうして実際対峙しているわけだった。

「灯台下暗しとはよく言ったものですね」

 彼女は、途中で水浴びをしてきて良かったとおもった。そのほうが、余計なことに気を取られないで彼とお喋りできるからだ。

 その日は朝から曇っていた。彼女のすっかり乾いて固くなった皮膚には、風は冷たくもなく温くもない。彼女は着古したたった一着の、薄くなってもろもろになりかけている小袖を脱いで、川で洗った。

 それを河原に広げて火をおこし(こんな動作はもう手慣れたものだ)、それからゆっくりと冷たい川の中にその身を沈ませた。

心臓の音がうるさかった。別にあんな話を聞いたところで、その庵に住んでいるとかいう聖が、彼女のめあての人と決まったわけではない。そうでない可能性のほうが、じゅうぶんに高く、しかし彼女は知っていた。ここに居るのはあの人だ。別に明確な理由や証拠があるわけでもなかった。でも、彼女には、それが”分かって”いたのだ。

「風のうわさで、あなたのことは聞いていました」

 聖は言った。

 男は昔とちっとも変わっていなかった。そして、それを見たことによって動いた自身の感情にもまた、彼女は安心していた。

 つまり、何も変わらないということだ。彼の姿は以前とちっとも変わらないし、自身の中にずっと内在していた彼への感情も、やっぱり以前と何も変わらない。時間が少し過ぎただけだ。それ以外は、わたしたちの間のすべては、何も変わっていない……

「都を出てしまったそうですね。どんな理由があったのかは知らないが……あなたのことです、よくよくのご事情があったのでしょう。それでもこうしてお互い、変わることなく再会が叶って。まるで夢のようです」

 彼女は彼のそのような義務的な言葉も、夢見心地で聞いていた。人というものは、長年夢見ていたことがいざ、叶ってしまうと、案外それに強い反応を示すことなく、日常的に受け止め流してしまうものだ。そういう按配で彼女は太平楽に夢見心地していたが、それはすぐに壊された。

「それで今日は、一体どんなご用向で?」

「……………」

 彼女は彼のそういう冷たい”仕打ち”に、急に体中の熱が冷めて、それと交代で全身が廉恥による熱で苦痛に燃えるのが分かった。

「随分……冷たい言い方ですね」

 彼女は口の端を歪めて笑った。「久しぶりでこうして会えたのに。そんなふうに……義務的に言われると」

「義務的なんて、そんな」男は少し困ったように笑った。「そんなふうに聞こえたなら、ごめんなさい。お気を悪くさせるつもりはなかったんです」

「……………」

「ただ、僕は……」

 彼女は息を吸って、吐いた。それから顔を上げた。

「僕は罪を犯しました」

 と、彼女は言った。「僕はその話を聞いていただきたくて、こうして再び、……あなたに、ひとめでもお会いできたらと」

「罪?」聖は少し小首をかしげて、静かに微笑した。「罪とは一体、どういうことですか」

「僕は……私は」彼女は乾いた唇を感じて、それを無意識に舐めた。冷たい風が彼女の唇に触れた。さっきまでの桃色の、夢見心地の気分は何処へやら、彼女は背中にたっぷりと冷や汗をかいて、そして、焦っていた。

「つまり……私は」

「大丈夫ですよ」彼は言った。「僕はここに居ます。聞いていますから。焦らないで。ご自分の裁量で、あなたの言いたいことだけをおっしゃって」

「私は、あなたのことが好きになってしまった」

 で、彼女は言った。「しかしそれは罪なことです。つまり……つまり、あなた方というのは、そういう俗世間での男女間の関係とは無縁の、切れたところにある。しかし私は……あなたのことが、どうしても恋しくて。やっと分かったんです。この焦る気持ちがどういう理由で生じるのか……、私は、そればかりを夢見て」

「つまり、どういうことを?」

「あなたに同じ感情を抱いて欲しい」彼女は言った。「つまり私に対するあなたの感情をということです。私には重すぎる感情を、それだけで潰されてしまうようになる感情を、あなたにも半分背負って欲しい。このような……いや、分かっているんだ」彼女は苦痛に顔を歪めた。「こんな傲慢で、理屈も何もなく、非常識で我儘な願いや欲望が……まともな感情であるはずがない。そんな感情を、他ならぬあなたに? ああ、ごめんなさい。こんなことを言うつもりはなかったのに。どうしたんだろう? でも、口にしないと、くるしくて……でも、苦しいからとこのような悪態をあなたに浴びせかけるなんて。これが罪悪で無くして何でしょう? 僕はあなたに助けていただくて、それで、こんな……こんなところまで!」

「罪を犯すとはどういうことですか?」

 僧は静かに言った。「人がまた別の他人に恋することは、とても自然なことですよ。自然なものを、不自然なものとして歪めることはできません。それを、無理勝手にねじまげて、まるでそれ自体が悪徳であるかのように逆転した価値観をわざわざ付与する……そういう考え方をするから、悪徳は蜜のように甘くなり、人々がその逆転した価値に憧れるようになる。しかし、本来、人が人のことを対象としたいと望むことは、まったく自然極まりないことです。あなたの他人に向かった感情そのものが罪であるかのような言い方は、お止めになったほうが良いでしょう」

「私はあなたが好きだ」すっかり相手の前に降伏しきったような表情を浮かべて、彼女は彼を見た。「どうしても……だめだ。いくら考えても、そういうことになってしまう。そういう言葉にこの感情をあてはめないと、それ以外に、この言葉に決着をつける言葉が、私の中にはなにもない。僕はだめになってしまったんです。感情に対する適切な言葉をあてはめることさえも億劫がって……それで、私は……」

「ありがとう」

 明るく柔らかい声が聞こえて、彼女は頬を高揚させた。しかし彼女の希望に満ちた表情はすぐにまた壊された。「あなたの気持ちはうれしい。そして僕もあなたのことが大好きだ。でもそれはそれだけの話です。これから僕が話すのは、それとは別の話です」

 彼女は彼の言葉をぼんやりと聞いていた。しかし、その意味がいっぺんにすべて意味として頭に入ってきたというわけではなかった。好きだけど、別? どういうことだろう。

「僕はあなたに好かれる価値など無い人間ですよ。私はまがいもの、にせものなのです」

 聖は言った。

「以前の僕なら、あなたのまっすぐな感情に感動して、安易にそれを受け入れていたかも知れません。つまり、あなたのなかの正しいとされる感情に同調して、それに寄り添うことこそが善であり正しさである、などと自身に言い聞かせてね。それが正しさだとおもっていたんです。すべてに正しくあらねばならない。すべての人が平等に正しい道へと進んでいけるように、そのお手伝いができればなどと、勘違いをして……。でもそれはある道においての正しさでしかない。その正しさで救われる人と、救われない人がいる。ただひとつの正解を求め、そればかりを拠り所とすることは、その道では幸福になれない人のことを、正しくないものとして断罪してしまうことだ……ほんとうに、真からその人のことを考えるのなら、その人の中で正しいと感じているものを、こちらで、そうではないと否定してあげなければならないときもある。僕はあなたのことを好いている……良い人だとおもっている。だから、あなたが間違った道へ進みだそうとしているのを、ああそうですかと看過することはできない。あなたが私のようなものに恋を抱くのは、間違ったことですよ。今ならそう言ってあげることができます。中央から流れてきて、その間に得られたものというのがそれです。だから、僕は、流れてきて良かったんですよ。そのお陰で、僕は以前の過ちを正せるようになったんだから」

「それは……それは、おかしいんじゃないですか」

 彼女は震える声で言った。

「少なくとも私は、あなたの教えで救われた。でもあなたは、それが過ちだったという。だったら過ちによって救われた私も、あなたの過ちですか?」

「ああやっぱりあなたは」

 聖はそれを見るものをまったく寛がせるような柔らかい表情を浮かべて、彼女を見つめた。そういう顔をするから! と、彼女は余計なことを考えた。

「賢い人ですね。僕の考えていることは、みんなあなたに言って聞かせる前に理解されてしまう」

「そんなことはいいから」彼女は歯を噛んだ。「答えて下さい。あなたの過去が間違いなら、私が救済されたのも間違いですか」

「救済なんて、大それたこと」彼は畏れ多いように首を振った。「僕にそんな力はない。大体から、過去の僕など間違いだらけだったんです。そもそもの話、他人に対して自身の言葉を敷衍して理解させよう、知ってもらおうなんてこと自体が傲慢なことだったんだ」

「あなたが居なければ私はなかった」

 彼女は言った。

「あなたがご自身の過去を、言動を、間違いだったとしても別にいいでしょう。それも個人的なことです。それを他人がとやかく言ったって仕方がない。間違いなら間違いなんだろう。それでいいです。でも、あなたが個人なら私だって個人だ。だから私には私の個人的な過去がある。私の個人的な過去は、あなたが作ったんです」

 彼女は言った。

「私の体や精神は全部、あなたに作っていただきました。その責任を取って下さい。あなたには間違えた過去かも知れないけど、その間違いによってあなたに関わった他人がいるせいで、あなたの間違えた過去は完全に個人的な体験とは成り得ません。あなたには間違っていたかも知れないけど、私には正しかったんだ」

「あは、は」

 彼が笑った。彼女は、それを見ていた。

「本当に……理屈っぽい人だなあ、あなたは」

「別に、理屈が言いたいのではないよ」彼女は泣きそうになった。「ただ、自分の言いたいことを正確に口に出そうとおもったら、そうなってしまうだけ」

「なるほど」

 聖はニコニコとしている。「それならば、やっぱり私は何もかもを間違えていたんですね」

 そして彼は言った。

「私は間違っていた。……やっぱり、関わるべきではなかったんだ」

 彼女は呆然として、その言葉を聞いている。

「人というのは難しいものですね。人は人と関わることによって何らかの接点、執着が生まれる要因を作ってしまう。結局、あなたと接点を持ってしまったこと自体が私の間違いだったんだ」と、彼は言った。「ごめんね、接点なんか持ってしまって。そのせいであなたの心臓の中に何らかの火を灯してしまった。僕はそれに対して、あなたにお詫びしなければいけません」

 と、彼は言った。

「意味が……」彼女はぼんやりと言った。「意味が……よく分からない。よく分からないんだけど」

「僕はあなたが羨ましい」

 聖は彼女の疑問に答える義理はないとでもいうように、自分の言いたいことだけを続けた。

「あなたは僕のために、というよりも、なんだろうな……ひとつの目的のために、何もかもを投げ出してきたのですね。地位も、名誉も、この世でたった一人からの寵愛も、何もかもを投げ出して……それどころか、それまでの生活信条すら、全て投げ出してしまって」

「僕だって」彼女は口の端を歪めた。「まさかこんなことまでになるとは、おもっていませんでしたよ」

「こんなこと?」

「ひとりのことを好きになったばっかりに。ふらふらと全国あちこちをさまよって」

「ああ……」彼は理解の仕草をした。そして、言った。「それは、そうでしょうね」

 で、聖は目元の辺りを、それを見たものが心地よくなるように、緩ませて彼女を見た。まるで彼女の気持ちなどすべて理解できているというかのように。彼女はだから、そういう言い方をされて、そういう目をされて、すごく幸福な反面、ひどく傷ついていた。そういう顔を私に見せるくせに、どうして結局私のことを受け入れてくれないんだよ?

「だからこそ、羨ましいんです。理性的なあなたが、その我を忘れてひとつのことに掛り切りになるご様子がね」

「僕のことそうやって軽蔑しているんでしょう」

「いいえ、違います」聖は彼女の言葉をきっぱりと否定した。その、当然のことを絶対的な正当性の元に発言したというような、決然とした意志の強さのようなものに気圧されて、彼女はそれ以上皮肉が言えなくなった。

「捨てる……忘れるということは、元々のそれを所有していなくては叶わないものです。元々持っていないものを捨てることはできないし、持っていないものを何処かへ忘れてくるというのも、これまたできないことですからね」

 聖は続けた。

「それはあなたという個人です。あなたという過去の総体。そういうものを築いてきたという現在のあなた。そういうものを、あなたは持っている。持っていたから……あなたはこうしてここへ来た。過去で築いてきたあなたというものすべてを捨ててまでしてね」

「それの何が羨ましいの?」彼女は苦痛に眉をひそめて尋ねた。

「僕にはそういう総体が無いから」聖は言った。「そういう個人が希薄だから、おもいきって捨てることもできない。捨てる場所も無いし」

「私はその捨てる場所にならないのか?」

 結局、聖が何を言って(または言い繕って)彼女を説得してみても、無駄なことだった。

 だいたい切羽詰まっている彼女には、彼の話を聞く耳なんか端からの持ち合わせがないし、いくらそうやって羨ましがられても、嬉しくもなんとも無い。結局彼ら二人の言葉はお互いの感情をお互いにぶつけるだけで、そこに何の発展性もないのだった。

「私にできて、あなたにできないということは無いとおもうんだけど」

「うーん、ですから」聖は困ったように微笑む。「無い袖は振れないということです。これ以上のことは、もう僕にも言葉がないな」聖は言った。「これ以上言葉を作ってみても結局、お互いの主張をお互いが言い合うということにしかならない。もちろん、僕の方はそれでも構いません。でも、どうしてこのような堂々巡りのような状態が続いてしまうのだとおもいますか?」

「……………」突然尋ねられて、彼女は、呆けたままのようになって、あまり頭の中で考えずに答えた。「あなたが私を拒むから」「いいえ、違います」聖は(またしても)きっぱりと答えた。「お互いがお互いのことを理解しよう、理解してもらおうという気がないからです。結局のところ、われわれは個人でしか無い。であるからこそすべての制度、制約からこれほど自由で居られる。自由で居ても食いっぱぐれないで居られる。人というのは制度に守られているからこそ衣食住をそこで保証されます。人と関わり合うことができます。けれどそのような……村の掟から外れて、こうして山の奥深くに隠れ潜んで向かい合う”個人”同士は、自由でいるからこそ、その身に代償というものを引き受けなければなりません」

 聖は言った。

「それが孤独です。誰からもじゃまされず、誰からも干渉されない。それ故に誰とも関わり合いになれず、理解されることもない。理解されないでもいい。一つのもので完結している。だから誰からの感情も、誰かへの感情も、ひとつも必要じゃない。それは、要らないものだからです」

「私のことが好きなのに?」

 彼女のそれは彼女の頭の中での発言の精査も受けずに、するりと自然現象のように出てきた。「好きでも、必要じゃないんだ。私は。あなたには」

「ああ、あなた」彼はなぜか、名残惜しそうな声(少なくとも彼女にはそう聞こえた)で言った。「私はここへ、孤独になるためにやってきたんですよ!」

「私はその孤独を壊すから」彼女はふにゃりとその端正な顔を悲しみに崩した。「じゃまなんだ。だから私は要らない人間なんだ」「いえいえ、そうじゃありませんよ」男は穏やかな様子で、感情に乱れている女をなだめる。「どこかにあなたを必要としている人は必ず居ます。要らないなんて……そんな人間は、この世のどこにも居やしない」

「あなたに必要とされなければ、意味なんかない!」

「……………」

 今まで彼女が何を言っても、暖簾に腕押し柳に風といったふうに彼女の言葉に特別感情を動かされた様子も見せなかった彼が、多少感情を動かされたように、瞳を揺らした。彼女はそれを見ていた。それは見る人が見れば、睨みつけていた、のかもしれなかったが。

「意味、か……」

 彼女にとっては自暴自棄から飛び出した、ある種羞恥を伴った劣悪な発言でしか無かったのかもしれない。しかしここが他人と他人が交流することの醍醐味というか、面白いところというか、厄介なところというか……つまりそれを受け取った彼の方では、また別の作用が起こっていたようだった。

「僕はどうしたらいいの? あなたのことしか考えられない。あなから否定されて、僕は、私は、それではどこに行くの?」

「私が、あなたを否定したことなどありませんよ」

「それでは何故……どうして私をこばむの?」

「拒んでなんていません」

「それではどうして、僕に何も言わずに……どうしてこんなところに? どうして出て行けと言われて、理不尽な注文をされて、それをハイハイと簡単に受け入れてしまったんだよ。誰かに相談することも、でっち上げだと声を上げることもなく……それどころか、自ら進んで流れ者になるようなまねを……」

「でも、それとこれと、あなたに何んの関係があるの?」

「冷たい言い方をしないで」彼女は泣きそうになって言った。「そんな冷たい言い方。どうして……関係はあるでしょ? 無いの?」

「だって……僕の身がどうなろうと、どうでもいいことじゃありませんか!」

 聖はびっくりしたように言った。「私の身に起こることは私自身が処理する類のものです。それを他人にまで関係させて、それからどうすればいいというのですか」

「どうすれば? どうすれば? そんなことは決まっている、そんなことは……」

 決まっていないのだった。だから彼女はそれ以上言葉を継げなくて、言葉を失った。彼女は口を開き掛け、閉じ、それからまた開け、閉ざした。

 それにしても、個人が個人を所定の場所につなぎとめるというのは、どれだけの不条理を含んでいるものなのか!

 これがお互いに好き合っている者同士だとすれば別だ。片方が去ろうとする、片方が行くなという。そんなところへ行くよりも、私のところに居たほうが、どんなにあなたに徳が、益があるか……相手は相手をかき口説く。相手が相手に含む愛欲さえあれば、その欲求が叶えられた時、それを見た第三者の目にはどう映るのか? ああよかった、やはりお互いがお互いを好いている者同士が一緒になるのが一番だ。一方が一方の行動を制御しても、それが不自然に映ることはない。お互いの間に愛欲の含まれた相互感情が確認できるのなら。しかしこの二人の間に愛欲が含まれていなければ別だ。

 相手が去るという。言われた相手は行くなという。しかし相手は行ってしまう。そして、去られた相手には、その去った相手を繋ぎ止める決定的な言葉を持たない。「あなたのことが好きなんだ。だから、俺の傍から離れてほしくない!」そういう強い感情を持った言葉がない。そのような「権利」が、そして「理由」がないからだ。だから去り際にこう言うしかない。「さようなら、どうかお元気で」

 欲求の種類が違うということは、かくも残酷なことで有り得る。何故だろう? なぜ、お互いに愛欲に結ばれた者同士には一方の行動を制御できる「権利」が生じても不自然ではなく、それを含まず行動するものには、その権利すらも得られないとは?……

 分からない! どうすれば……どうすればこの大好きな人を、ひとつのところに、自分の手の届くところに押し込めておくことができるの?

 それで彼女はようやく、物語の中の男の胸中を知る。それはこういうことだ。

 ケッコンすればいいんだ。ケッコンという、人という生き物が採用した制度を悪利用すれば、恋しいとおもった人のことを縛り付け、身の近くに止めておくことが出来る。ケッコンとは人という生き物が恋する対象をいちばんべんりに繋ぎ止めておける、便利な、大変便利な一番の共同幻想だ! その集団錯乱の結果によって、人は人のことを、ひとところに……閉じ込めて……

「しかしそんなことにどんな意味が?」


「人々は女という幻想に囚われています」

 と、聖は言った。

「人は女というものを幻想としては知っているが、しかし女というものは……こうして私のめのまえにも、こうして存在しているわけです。あなたという一人の人間を、ただ私のめのまえにいるからといって、ひとくくりの「女」というもののなかに含ませてしまって、ごめんなさい? しかし私たちはそうして、めのまえの女性と、それから他ならぬ私たちの中の幻想の女をすり合わせ、そしてその他ならぬ幻想の女がめのまえの女によってみるもむざんにうちくだかれる経験を持つたびに、益々自己の中の幻想の女に傾倒していく……

 女というものは煩悩を呼び寄せる悪いもの。現実に存在する、女と名乗るものは常に僕たちのめのまえにいて、そしてその圧倒的な「存在している」という確かさで、「ボクの中の女の子」を無きものとしてしまう……もうほとんどここまで来れば、現実の女などというものは、おぼろで脆弱な理想と幻想の女を打ち砕こうと手ぐすねを引いている悪鬼のようなものだと嘯いて……しかし実際の話、あなた方はこうして「存在している」のです。これを全くのないものとすることはできない。もしもそのようにしてしまえば、僕は一体、このような繰り言めいたことを誰に向かって話しているというのでしょう? あなたという存在が存在しないのだとしたら……と、これはほんのジョーダンですけどね」聖はそこでちょっと笑って、「そしてあなた。あなたもまた、男女という区別を超えて、私という「存在」に執着している。これは珍しいことです。なぜって、僕はこうして存在しているのですから。不思議なことにあなたは、これはあなたが男でないからなのかもしれませんが……それとも関係がないのかな。とにかく、「めのまえにいる僕」に、恋着のようなものを抱き、かつそれを捨てなかったということです。男はすぐに、現実の女にゲンメツする。それは俺の求めていた「黄金像の女」ではなかったと言ってね。しかしあなたは違う。これほど僕という身が、執着を起こすような価値のある生き物でないことを、半ば鬱陶しいまでに打ち明けたとしても、あなたは僕のようなものをうつくしく、そしてまるで得難いものであるかのように扱ってくれる……なるほどあなたは女性でしょう。そして私は男だ。そしてあなたは私の肉体そのものに、めのまえにいる客体としての私を、求めているという……しかしそれは本当でしょうか? あなたは、他ならぬ私の、この薄汚い肉体の上に、「幻想の男」を付着させているだけではないのですか? つまり、あなたは……」

 聖は言葉を止めて、多少言いづらそうに言葉を継いだ。「私という現実の男の中に、あなたの中の幻想の男を見出し、作り上げ、それのみを追いかけている。そういう意味では、あなたは他の幾多も存在する、あまたの男たちと変わりがありません。理想ばかりを追って、何らめのまえのものを見ようとしない。あなたは男です。男と変わりないものですよ」

「違う!」

 彼女は言った。「あなたはどうして、そうやってりくつばかりを言うんだ。そんな理詰めなきもちで、あなたのことを好きになったわけじゃない。私のことが好きになれないというのなら、どうしてそうはっきり言ってくれないの」

「あなたのことは好きですよ」彼は穏やかな目をしたまま微笑んだ。「でもそれとこれとは全く別の話です」「意味がわからない……」彼女は額に手をやって、今にも崩折れそうになりながら、言葉を吐き出した。「どういうこと? 嫌いならそう言って。どうして私のことこばむくせに好きだとか、意味のわからないことを言うの」

「私の気持ちの向きはそうだ。けれどそれはそれ、それだけの話です」

 彼は彼女の態度には特に心動かされた様子もなく、自分の知っていることだけを淡々と述べるような口調を取った。「私があなたに好意以外の感情を持つはずがない。それは当然のことです。あなたは聡明で美しく、才気に満ち、生命の歓喜によってまったくしゅくふくされている。そのようにうつくしいものを、誰が心から嫌いになったり、拒んだり出来るでしょう? 私はあなたの生命を歓迎する大勢の人々の一員です。私はあなたの存在そのものに与している。”私は”そうです。しかし、あなたはそうじゃない」

「はあ?」

彼女は苛立ちをもう今ではほとんど隠さず、めのまえの男を睨みつけた。

「そのように正しいあなたが、私のようなものに恋着まがいの間違った感情を抱いて、みすみすその生命に与えられている大切な時間を、むだにするようなへまを打つようなことを、僕は決して、歓迎しないと、こういうわけです」

「そんなのは私の勝手だ!」

 彼女はほとんど叫ぶように言った。「なぜ……あなたに……私の感情まで押さえつけられなければならない? 私にはわからない……あなたの口にしていることのすべてが」

「それは当然のことです」彼は労りのしぐさを含んで、しかしきっぱりと言った。「今あなたのめのまえにいるこの私は、あなたの想像上の、幻想の男ではありませんから」

 女はその場で嘔吐した。男はそれを甲斐甲斐しく世話した。そのままぐったりしてしまった女はもうほとんど性も根も尽き果てていたが、ぎらぎらした目をしながら、尋ねた。

「あなたの目的とは何だ?」

「それは決まっています」聖は一つも悩む素振りも見せず、またしても機械がたった一つの正解を弾き出すかのような冷静さで言った。「あなたのような人を救うことです」「嘘つき」彼女は唾棄を込めて言った。「欺瞞者。大嘘つきの……きつね。天狗、古だぬき」「あはは」彼は楽しそうに、やわらかい声で笑った。「きつねにたぬきですか。やっぱりあなたは楽しい人だな」

 ひとしきり笑った後、彼はその陽気な調子を口元に残したまま言った。「それで良いのです。僕などにいちいち好意的な感情を持つのはお止しなさい」「殺してやる」「そうそう、それでよろしい」

 彼女は彼を恨んだ。彼女の、らんぼうな言葉でさえも、このようにいなされ(と、彼女には感ぜられた)、甘い言葉もまた否定されるのだとしたら……一体、どんな感情を”道具として”、彼に言葉を投げつければいいというのだろう? それとも、彼女には彼に掛ける言葉など全く無くして、彼の言う通り黙ってこの場を去る以外に行動は残されていないというのか? 何故、……何故だ? ただ他人のことを好きになっただけなのに! どうしてこのような不条理に、あえぎくるしまなければならないんだ?

「それでは訊くが」彼女はすっかりしょげかえって、力なく尋ねた。「私の目的とは一体何だったんだ?」

 それに対して、彼はやっぱり、この世の真理をただ機械的に告げるような形で、こう言った。「それはあなたご自身が考えることですよ」

 気がつくと彼女の視界は真っ赤に爛れたようになっていて、それで彼の首を絞めている。彼の首は枯れ枝のように細く、乾いていた。「殺す」彼女は言った。「一緒に、死んで」

 しかし彼はというと、ただ薄っすらと口元に笑みのようなものを浮かべているばかりだ。彼女はそれを見て、何だか泣きたくなった。彼が何か言いたそうにしていたので、彼女は手の力を緩めた。彼は言葉を感情に崩すことなく、淡々とした様子で言った。「それであなたの気が済むというのなら」「……好きでもない女と、心中するというのか?」彼女は口の端を歪めた。「とんでもない”目的”だな。あなたの一生をかけて求めたようなものがそのような下らないものとは、とうていおもえない……」「そうですね。理想があっても、こうして現実は……うまく行かないものですね」「あなたはそんな人じゃなかったはずだ」彼女は両手を再び彼の細い首に手を掛けた。ちいさな喉仏がぐりぐりと彼女の手の中で動いた。「女なんかに……他人の感情などというつまらないものに……左右されて……みすみすそのうつくしい命を散らすような……そんなものはあなたには似合わない」「ほらね」なぜか彼はそこで鬼の首を取ったかのように得意になって、しかしそれを小さなこどもに教え諭すような口調で、こう言った。「それは僕ではありません。そういう僕を、あなたは僕の体のうちに勝手に作ってしまったんですよ。あなたは幻想の中の私を見ているだけです。そうでしょう?」「ちがうよ」「本当の僕は、そうやって女の人に首を絞められて、そのまま息絶えてしまうような、かよわい、はかなく詰まらぬ凡僧、愚禿そのものなのです」「ちがうね」彼女は彼を見下ろして笑った。「それはあなたの幻想のあなただ。あなたが想像した、ただの幻想に過ぎない」「私の?……」「あなたはあなたの中でそうであるべき自身の姿を勝手に描いてそのとおりに行動しようとしているだけだ。なぜ必要以上に自身の姿を歪めて、自身よりも一段も二段も低いものとして他者にむりやり提示しようとする? それは欺瞞じゃないか。大嘘つきの偽善者め。私には分かる。あなたはもっと、そのままの人だ。凡僧でも、愚禿のものでもない。私はそういうあなたが好きだ。いくらあなたが私の感情を間違ったものとしても無駄なことだ。間違ったままでいい。あなたが私を間違いだというのなら、それでも私は別に構わない……」「……ああ、ははは」

 男が奇妙に笑い出したので、びっくりした彼女は手を離した。彼は額に自身の手を添え、そのまま右目をごしごしと擦った。「あなたは……すごいな! 素晴らしい……何もかもが……」「…………」「本当に、ああ言えばこう言う、少しも言葉が減らない。へりくつを並べ立てて……なんて素敵な人だろう!」

 彼女はぼんやりと、その聖を見下ろした。

「本当に僕は勉強が足りなかった」

 彼は上体を起こして、じっと彼女のことを見つめた。

「あなたのような人でも、結局情欲にまどいくるしむのですね。いっしょに呼吸の不思議について、お喋りできるようなあなただったのに」

 その過去を覚えているくせに、どうして? と、彼女は彼の言葉の意味をあまり鑑みる余裕もない。余計なことを考えている間にも、彼女と違って言うべき言葉を持つ彼の言葉は続く。「人と一度でも関わってしまえば、どうせ個人では居られないんだ。それを僕は、まずはじめにおもいだすべきでした。それを一種の利己主義として、間違いとし、その上に万人が救われる方法など求めたから、すべてがまた間違ってしまった。ああ、関わらなければ……関わらなければ、あなたと私は、もっと別のものになれるはずだったのに」

 聖はかなしそうに言った。

「関わったから、」

気分が悪かった。頭が割れるように痛いし、喉の奥には酸っぱくて喉を焼くようなものがまだまだ出口を求めているようだったし、これ以上彼の言葉を聞いていたら、どうなってしまうか分からない。だから言葉を口にしなくてはいけない。頭の中に溜まっているものを……くだらないものを溜め込んでいるから、具合が悪くなるんだ。吐き出さないと。言いたいことを、言いもせずに溜めていたからこんなことになる。人と関わらないでいたから……「関わったから、私はあなたに出会えたんだ。関わったから色々なことを知って、楽しいという感情を、幸福というのを知ったんだ。それを教えてくれたあなたなのに。どうしてその幸福だったことを全部間違いみたいにいうの。あなたは、私と関わったせいで、それが不幸だったから、だから、間違いだったというの?」

「まさか」聖は目を丸くして言った。「不幸だなんて。私が?……とんでもない。私はあなたという人に出会えて幸福でしたよ。あなたとおしゃべりするのは、他のどんな人とおしゃべりするよりも何倍も楽しかった。でも、幸福だからって、楽しかったからといって、それがお互いの善になるわけではない。正しさになるわけではない」

「どういうこと?」

「僕は……つまり、目的の違いです」

 彼は言った。

「あなたは結局、幸福を求めているのでしょう。その生の総合を、結果を、人との関わり合いの果てを、その最終を幸福に結実するものとして扱っている。でも、僕は違う。幸福は素晴らしいものです。でもそれは目的じゃない。それは不幸や苦しみ、快楽や穏やかさといった状況と同じ、ひとつの状態に過ぎない。幸福は僕にとっての生の総合の希望的結果ではなく、ただの……過ぎていく時間の、一つの状態でしかありません」

「……………」

「そして、すてきなあなた。僕の好きなあなたは、私の素敵な業です」

 彼は言った。

「私はもう二度と生まれないのです。それが僕の目的なんです。つまり、あなたの最終的な目的と、僕の最終的な目的というのは、別のものなんです。だから、幸福を目的とするあなたと、二度と生まれないことを目的とする僕は、その最後で手を繋ぐことは決してありえない。だから、あなたが僕に思慕を寄せるというのが間違っている、と、こういうわけです。業を断たなければ私はまた生まれてしまう。そうすると私はすべての意思に背いたことになってしまう。それでもあなたは、私の意志を阻害しますか?」

 彼女の視界が揺らいだ。ああ倒れそうだ。というか、倒れて、そのままもうそこから二度と動きたくない。

「あなたは私の愛着、現世に私の魂を縛り続ける執着の元だ。私はあなたに恋着している。そういうことにしましょう。すると、そのためにまた輪廻を繰り返してしまうということになる。私はそうならないためのみにこの生を今まで全うしてきたのに。あなたによってそれがたった今、不可能になりつつある。あなたは私の目的を妨げるために生まれてきたのですか。違うでしょう。あなたがここにいる意味は……もっと崇高な、特別なもののためだったはずだ」

 そして彼女は泣いている。

 彼は、そういう彼女を微笑を含みながら見ていた。

 私の感情の負けだ、と彼女はおもった。

 私の感情は、彼ほど明確な意思があるものでもない。ケッコンして解決する類のものでもなければ、行かないでといって繋ぎ止められる類のものでもない。彼の崇高な、個人的なことを阻害できるほどの強さも持たなければ、理由にもならない。

 私の中に、彼の自由を阻害できる理由なんて、一つもないんだ。私の感情が、”間違っているから”……

 でも、こんなに好きなのに。


「あなたは僕をどうしたいの?」

 聖は静かに言った。

 彼女は白い息を、ゆっくりと吐き出した。「それを言えば、あなたは僕の気持ちを受け入れてくれるの?」

「私に出来ることならば」

 聖はやっぱり静かに言った。

 だから彼女たちは聖の棲まう崩れかけた庵の中で肌を重ねてしまったが、彼女はそういう行為に没頭しながら、違う、こんなことがしたかったんじゃない、とおもっている。

 何がしたかったのか? その男に触ってみたかった。触ってどうする? 触って、その男が本当に存在しているのかを確かめたい。男の肌は想像よりも少し荒れていて、骨ばっていた。でもそれは触ってみなければ分からなかったことだ。彼女が想像していた彼の肌は、もっとやわらかくて、しっとりしていた……

 だから、実際の生き物に触るということは、そういう確認を取るという意味がある。かもしれない。だから彼女が抱いた欲求はある意味では正しい。しかし、だからなんなんだよ? 男の肌がきたなくたって、きれいであったからって、それで何が違っていると言うんだよ? それを知ったからといって何になる? 何に……何にもならない。何にもならないくせにしかし欲求だけある。なぜだ? 体全体が、すべてが、別のなにかの生命体に乗っ取られてしまったみたいだ。こんな男に触りたくない。触られたくもないし暖かさも冷たさも何も感じたくない、こんなことをするだけのために、こんな下らないものを目的とするために、私はあの人のことが好きになったわけじゃない……

 で、だから彼女は行動が終わってしまったときに、すべてが終わってだめになってしまったとおもってしくしく泣いている。

「私は汚いことをしてしまった」

 彼女は言った。「あなたはそのようなものではなかったのに。私が欲望であなたを汚した。私は欲望によって汚された。こんなもののためにあなたを好きになったわけじゃない。こんなものが欲しかったわけじゃない」

「では、何が欲しかったの?」

 彼は彼女を労り慰めるように、むきだしの肩に手を置いた。彼の手のひらはかさかさで、乾いていて、ちっとも、肌と肌が重なり合ったような水っぽいうるおいがない。彼は一本の、年老いた枯れ木みたいだ。

「あなたが欲しい。もうどこへも行かないで。ずっと一緒にいて。それだけでいいの」

「居ますよ、ずっとそばに居ます」

 彼は彼女を励ますように言った。彼女はその言葉に安心して、そのまま眠りについた。しかし朝起きてみるとそのとなりに聖の姿は無くて、で、あるからして、彼女の望みは結局叶えられない。

 それからまた彼女は彼のことを探したが今度こそみつけることはできなかった。そして彼女は現世を、彼を探しつつさまよいつづけた。でもやっぱり、どれほど時間を重ねても、彼に会うことは二度となかった。

 そして、千年が過ぎた。


****


 彼女はその千年目の朝に、万年床のせんべい布団から、むっくりと起き上がった。

「……………」

 彼女は上半身を起こしたまま、またしばらく目をつむった。そして、まぶたを上げた。

 めのまえには昨日と全く同じ風景が広がっている。

 四畳半風呂なしアパートの部屋の壁はくすんでいる。窓を挟んで右側の壁には、角の画鋲が一つ取れたままの太田裕美のポスター。右端の下だけが丸まっているが、直すのが面倒でそのままになっている。机の上に置かれた赤いラジカセと、積み上がったテープの山。昨日その山が山崩れに遭って、人に借りたものと自分のものが混ざってしまった。面倒なのでそのままにしておいたけど、今日はそれを返しに行く日だから、きちんと仕分けないといけない。少し斜めになったままで不安定な机の横には、積み上げられた雑誌の山。今度資源回収に出してトイレットペーパーと交換してもらわなくちゃ。薄く、しかしホコリをたっぷり吸った重いカーテンの向こうからは、午後二時の怠惰で夏の名残みたいな日が、ぼんやりと気だるく差し込んでいる。

 彼女はしばらくそうして、部屋の中に漂う埃の流れを見ていた。それは午後の光にきらきらと照らされて、宝石のように幾度も点滅した。

 彼女がそうやってぼんやりしていると、窓の外から町内放送が聞こえてくる。光化学スモッグにご注意下さい……光化学オキシダントが……本日は気温が高く風も弱いため……云々。


 夏が終わろうとしていた。

 ガタガタとうるさい扇風機を一生懸命掛けた蒸し暑い部屋で、彼女は遅めの朝食を取った。それからパジャマを脱いで、おままごと程度に備え付けられた洗い場から水を取り、タオルに含ませて全身を拭いた。

 着古したTシャツとハーフパンツに着替え、髪を一つにくくると、財布と文庫本をハーフパンツに突っ込み、サンダルをつっかけ、ドアノブをひねり、外へ出た。

 近所の本屋で三十分ほど昨日の続きの『あしたのジョー』を立ち読みし、店員の咳払いの回数が頻度を増してきたところで店を出て、その近くの喫茶店に寄ってアイスコーヒーを飲みながら、持ってきたジイドの『狭き門』を読んだ。喫茶店ではヴィヴァルディの『夏』が延々と流れていて、さすがにうるさかったので、コーヒーを飲み干すと、外へ出た。それからスーパーマーケットで何を買うこともなく冷やかしながら涼を取り、適当な頃合で目的地へ着くと時刻は午後の三時半。

「サキちゃんいらっしゃい」

 八百屋のおかみさんはアルバイトの彼女が定刻通りにやってくると、どっしりとしたお尻を持ち上げて、頬の肉を上げて挨拶してくれる。

 彼女は座敷へ上がってエプロンを付け、そこから遅番の仕事に入る。

 まるおか青果店は夜の七時までやっている。彼女はそこで野菜を売ったり野菜に集ろうとするハエを退治したりして、毎日三四時間程度働くのだ。

 彼女がいつもの定位置に着くと、奥さんは座敷の方へ下がった。奥座敷の方では朝早くから野菜の仕入れをしていた旦那さんが昼寝をしている。座敷では、奥さんが昼食のきつねうどんを食べている。

 テレビでは元首相の保釈騒ぎを一日中やっている。彼女は座敷と店の間の上り框に座って顔をうちわで扇ぎつつそれを聞くともなしに聞いていたが、すぐにチャンネルは、甲高い声の、早口で話す女優がホストを務めるところのトークバラエティに変えられてしまった。

「サキちゃん、そんなところに座ってないでおいでよ」

 奥さんに呼ばれて、彼女は履いていたつっかけを脱いだ。


 つくづく、世の中というのは不思議なところだ、と彼女はおもった。

「適度に楽しめれば良いね」

 彼女の友人は言った。

「いや今日は実に嬉しい」

 ピョヨヨーンと音が鳴った。彼女はあぶったするめを噛みながらそれを聞いている。

 点けっぱなしの赤いラジオからはナイター中継が聞こえている。友人はギターを抱えたままコップで二級酒をあおった。「君が同意してくれてよかった。いや、ぜひ今度来て下さい。たいくつだけはさせませんから。退屈ったって、まあ、ものすごく愉快だということでもないんだけれども。とにかくみんな一所懸命やってますから」

 髭で顔の半分が隠れてしまっているようなひげもじゃの、着古したアロハシャツをよれよれさせている男が言う。

「ぜひあなたにも来てほしいな。そんなにかしこまったようなというかね、むしろくだけたかんじなんだな。みんな手ぶらで来てね、ふらっと来てふらっと帰れるような、そんな気軽な雰囲気を目指しています」

「なるほど」彼女は口の中のするめを飲み下しながら相槌を打った。

「いや、でもこんな話をするのでも緊張した」

 男はもじゃもじゃの髪をかきむしりながら言った。「サキさんにけいべつされたらどうしようなど」

「軽蔑?」彼女は首を傾げた。

「いや、連中テキトーにやってるんですよ」

 男はニコニコしながら答えた。

「みんなそんな……プロになりたいとかね。そういうことではなく。ぎすぎすした雰囲気ではなく、みんながその場を楽しめる場所づくりをしようと」

「いいんじゃないですか」

「とにかく音を楽しもうと。それだけでね。集まっている連中なんですが」

「いいんじゃないですか」

「だから、そういうところにね……サキさんのような本格派をお呼び立てするなど、気がひけると怯えていたやつも居たくらいなんですが。あ、これはここだけの話ね」

「本格派?」

「誰がどう聴いても、サキさんの音楽というのは素晴らしい」

 彼は言った。

「だからね、そういう本格派を仲間に引き入れて。こっちのスタンスというか態度がね。弛んどるとか怠惰であるとか、おもわれてしまったら、情けないというか恥ずかしいというか」

「とんでもない」彼女は少し笑って、言った。「買いかぶりもいいところです。……僕のものなど、とても大勢の皆さんにお聞かせするような……」

「ほら、そういうところなんだ」男は膝を進めて、「美意識が為すものか……その謙虚なところが僕たちには欠けているんだな。とにかく楽しけりゃいいと。それも適度にね。高みなど目指しちゃいけないと、どっかそういうふうにおもっているところもある。もちろん上を見ればきりがない。そういうところと下手に張り合うよりもね。なんて、あなたの前では全部言い訳めいて聞こえてしまうかな」

 男は頭をガリガリと掻いた。

 彼女はちいさな七輪のうえであぶられた乾いたイカを見ていた。ナイターの音が大きくなった。アナウンサーの興奮して割れた声が聞こえてくる。松原打った、プロ通算二百五十号…………

「結局、そういうのが一番素晴らしいんじゃないですか」

「また、そんな」

「いや、本当に」お世辞だと言いたげな相手の言葉を抑えて、彼女はちょっと口角を上げた。「そういうことを日々の楽しみとして、明日の活力、今日の清涼剤として使用する。音楽はそのまま音を楽しむと書くんですからね。音を楽しんでいる連中が間違っていて音によって高みなんぞを目指そうとしているのが正しいなんて、これこそおかしな話で」

「そう、そうなんだ。俺もそれを言いたいんだよ」

 男は膝をぴしゃりと打って言った。

「適当に……その日一日一日を。無事に過ごせればいいと言うかね。もっとも、適当なんて言葉はネガティブな意味を孕んで使用されることも多いが、適切な量、という意味で使用すればそれほど悪くもない、むしろ健全でしょう」

「そうでしょう、そうでしょう。そうやってごまかしごまかしやっていくのが結局一番いいんですよ。あ、こんなことを言ったらまた軽蔑されてしまう」

 二人はそれで多少笑いあった。沈黙が降りて、開けていた窓から夏の風が入ってくる。埃っぽいカーテンがはたはた動く。プーンと弦の鳴る音。

「適当に楽しめればね」

 プーンプーンと弦を鳴らしながら彼は言った。「それでいいですよ。それがいいんですよ」

「………………」

 だけど、そうやって一日一日を適度に楽しんでいれば、ここへ来た目的を忘れてしまいそうだ……


 その後彼女は週に一度の銭湯に出かけて、普段は濡れタオルで全身を拭く程度の体にシャボンをたっぷりつけて洗い、髪も持参した粉シャンプーで洗って、湯気で剥げかけた赤富士を見つつ浴槽に浸かる。洗い場を走っていた子どもが転んでぎゃああああんと火がついたように泣いているのが見えるが、誰も声を掛けるものは居ない。そのうちにこどもは自力で起き上がって、体を洗っている母親らしき女性のところへ掛けていって、「近くに居ないと駄目って言ったでしょ!」と言われて尻をぴしゃんとやられまたぎゃああああんと泣いていた。

 帰り道、彼女は金盥を持って夜の道をコトコトと歩いた。空にはところどころに薄雲が張り、煌々と照る月を隠している。

 彼女の向かう先には誰も居ず、後ろを振り返っても誰も居ない。まだ夕飯のにおいの残る住宅街の、明かりの灯った家々を通り過ぎる。人影はない。彼女は空を見上げた。雲の切れ間からうつくしい満月が見えた。彼女は少し楽しくなった。

 この世には彼女以外には誰も居ないようで、しかし誰かの存在は絶対に存在している。その自由な気持ちと、それから他人という存在の頼もしさによって、彼女は良い加減に開放された気分になった。久々で洗った洗い髪も清々しているし、洗濯したてのTシャツとハーフパンツ、それに下宿先からつっかけてきた蛍光ピンクのビニール靴も、なにやら彼女の高揚した気分を下支えしてくれた。彼女は陽気な気持ちになって歌を歌った。


 ………………

 その日は九時頃帰路について、読みさしの本を読んでいるうちに眠ってしまった。二時頃目を覚まして小用へ行き、ライトを消して、眠った。

 さて、明日は友人に借りたカセットを返しに行かなくてはいけない。


 翌日は、どこか爽快感すら感じさせるような、真っ青な青空だ。

 気温は特別暑くもなく寒くもない。吹き付ける風は強くもなければ弱くもない。時々気がついたように吹く風は、彼女の肌に心地よく馴染んですぐに消える。そのせいで、彼女には、今は風が出ているとか、出ていないとかの認識もない。ただ心地よい色で彩られた青空に、岩に染み入るような蝉の声、それから通りを歩いていく金魚売りの男の濁声。きらきらとてんめつするように光る風鈴の群れをひらひらさせて、金魚売りは荷車を運んでいく。シャラシャラと風鈴が揺れ、高く澄んだ音がそれに混じって響く。路地のかき氷屋では、日陰になった軒先で、おかみさんと氷売りの男が世間話をしている。「当接の物価高には参るね。何でもかんでも値上げ値上げで賃金の方はちっとも上がらないんだからね。これで公害はひどいスモッグはひどい、首相は汚職で逮捕されて、まあ世も末ですよ」

「かみさんが言うんだよ。こんなめちゃくちゃな世の中で子ども産むなんて残酷なことできないって。まあ分かるんだけども。分かるんだけどもさ」

「でも今更そんなこと言われてもさ。こっちにだって計画があるんだし、そういうの込みで結婚したというかさ。なんかもう、分かるんだけどね。言いたいことは。でもさ」

「目的というかさ。そういうのってあるじゃない。誰でも何でも、大きさはどうあれ、なんというか、将来においてというかね。そういう目的みたいなのを否定されちゃうと、ちょっとこっちだって頭にくるというか、情けなくなるというか。そういう気なら、結婚する前に言えっていうんだよ」

「………………」

 ここへ来た目的?

 何処かから催馬楽が聞こえる。

 いや、これは催馬楽でなくてただの流行歌だ。

 彼女は奇妙な不思議を感じて、ぱったりと歩くのをやめた。そして、店先のラジオから流れるフォークミュージックに耳を傾けた。


「……あー~~~」

 私は、旅に出ていたはずだったのに!

 そして私は”個人”になるために、それを探すために、ここへ来たのに。それを忘れて、旅に出たことさえ、おもいだしもしないで……そして個人というものを勘違いし、否定し、あまつさえ拒んだ……自らの手で。

 あそこは退屈だった。すべてが満たされていて、欠けたところがなかった。欠けがなければ埋めることができない。隙間がなければ入り込める場所はない。そこには全体だけがある。しかも泰然としている。そこに個人はない。個という感情は存在のしようがない……

 あそこに、個人はいなかった。孤独はなかった。あそこにはすべてがあった。そして、私は、あそこで、全てが在る、在るという理由だけで、その生を満足させていなければならなかったのだ。だけど、それに満足が行かず! 退屈で! 私はあそこから出てきたのではなかったのか……

 こんな話がある。たとえばそれは天人のはごろもとかいう、べんりなアイテムの話だ。それを羽織っていると、生き物にとってのやっかいな、自我というものが全くなくなると。喜怒哀楽を感じなくなり、何が起きても、何があっても、感覚は凪いだように動かない。ある日、その天人は散歩をしていて、そのはごろもというのを、崖の下に落としてしまった、と。そこから私の退屈は始まった。私の”個人”が始まったのだ。

 何を見ても、何を聴いてもうつくしいだけの、快楽慣れした退屈な生活を離れて、私はもっと”快楽”できる場所を探していた。そうだ私はものすごく、贅沢なんだ。天人の用意した程度の弛んだ快楽などでは、とうてい満足できなかったんだから!

 そして私はそこへやってきた。何を見ても、何を聴いても面白い。私はうまれたての赤ん坊のようになって、はしゃぎまわった。そして人間”個人”の、喜怒哀楽を、噛んで噛んで噛みつくすために、この地上に降りてきたのだ。

 私は個人になった。一人前の、その内実に喜怒哀楽を持つ、幸も不幸も楽しくて仕方がないという個人になった。そうおもっていた。そう勘違いした。つまり、結局のところ、私は個人などではなかったのだ。そのような高尚なものに、結局私は成り得なかった。それだけのことだ。

 私は……私は、個人などではない。私は、ただの制度だ!

 私の目的は”個人”だった。それは、自己である個人、他者である個人、という意味のはずだった。が、私は結局、自己という自らの手で、他者という個人を求めた際に……その他人という個人を、個人という次元ではなく、”男である”という次元にまで、貶めて扱ってしまった。だから私はやっぱり個人ではなく、制度に過ぎなかったんだ。(分かるか、分かるか?)

 つまり……私は彼個人というものを求めたのではない。私(=女)は、”彼”が”彼だから”彼を求めたという理由だけでは”足りず”(彼が彼自身だったから好きになった、という理由ですね)、彼が男である、女の対になるものであるという理由も含めて、彼(=男)を私(=女)という次元にまで、自身と他人との価値を落とさなければ、愛情を持てなかったということだ……

 こういうのを説明するのに手っ取り早いのが西洋だ、と1976年の彼女は考えた。つまり……単純な話、きちんとエロスをアガペーに変えていたか? と、それだけの話なんである。

 エロスという、生きる息吹、高揚、肯定のみで、私は彼という個人を(いや、やっぱり個人以下だ。だって個人というものは、その一生の中で一人ひとりが苦労して作っていかなくてはならない状態であるが、生まれてきた時点ですでに獲得している何らかの性別というものは、その個体そのものが苦労して会得した物ではないからだ。もっとも、そこからまた新たな性別を会得するには苦労が伴うかも知れないが……)、私は脳天気な、動物にはごく自然に備わっているだけのつまらない欲のようなものによって、まったく彼が男であるからという理由であの時私は、彼のその肉体を求めてしまった。……でも、それの何がイケナイコトなんだ? そういうことをしたって、しなくたって、やっぱりそこに正しいとか正しくないとかいうジャッジは下せないのではないか? あるいは……

 あー、千年生きても何もわからない。

 肉体の欲望をエロスの次元に留めるだけで、感情を昇華できていないとして軽視するのは簡単なことだろう。しかし人間、木の俣からはどうしても生まれない。(と、現世に竹から生じたこの竹姫様はおもった)”彼”だってきちんと立派な親があって生まれたのだろう。そうでなければああして出会うこともなかった。そうなれば、ここでこうして益体もないことを延々考えて、風の出ない夏の終りに、こうして当て所もなく、友人に返すべきカセットをポケットの中に仕舞ったまま、ただデクノボーのように突っ立っている、或阿呆の姿もこれまた無いわけだ。

 個人というのは大衆の一つであり、大衆というのは個人の総合である。

「……………」

 彼女はばりばりと頭を掻いた。そして、おもった。ああ、僕はばかだ。大馬鹿だ。千年経っても、こんな簡単な事実も知らない。それで、平気そうな顔をして、歌ったり、踊ったり、物乞いをしたり結婚をしたりこどもをつくったり家を建てたり壊したり、建てたり壊したり、借りたり返したりを繰り返し……そしてその生活の総合を、ただいたずらに消費して……

 生活というのはつまり、馬鹿でもできるということだ。何を知らなくても、知っていても、ただなんとなく大衆の中で、大衆としての意識すら持たず、ふわふわとくらげのように漂っていてば、その内実の幸福や困難や行き詰まりがどうであれ、”時間”さえ過ぎてしまえばそれらは過去に、生活に、そして人生にと名が与えられてしまうものなのだ。ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリと個体は同じなのに大きさによって名前を別個に与えられてしまう魚のようなものだ、いや、そんなへたな例えをわざわざ持ち出さずとも、その個体はずっと変わらないのに、赤ん坊→こども→大人→老人と変わってしまう自分自身のことを顧みれば済む話で……

「……………」

 そこまで考えて、この長寿の竹の姫は、耳に染み入る蝉の声をバックに聞きながら、焼けたアスファルトの上に落ちている、自身のまっくらな影を見下ろした。

 世界が動き出した。通行人が彼女の隣を通り過ぎて、金魚屋のだみ声も今や遠くなっている。蝉の声が大きくなり、ジワジワと、頭の天辺からつま先まで、残暑の蒸し暑さが駆け巡っていく。しかし彼女はブルリと体を震わせて、そしてとうとう自身の不思議におもい至って、ゾッと肝を冷やした。

 私はどうしていつまでもこんなに生きているんだ?

 私は……いつまでも、不自然に、長々と生きて、それにも関わらず、その時間を有効活用することなく同じことを繰り返していたんだ。強制された快楽に飽き飽きして……それが嫌であそこから出てきたにもかかわらず……けっきょく、「日がな一日ぶらぶらしているのが一番良い」などと、虚勢を張って……でも、それじゃあ、ここでしたかったことって何だったんだ? だからそれはつまり……

「あー、分からない。分からないぞ」

 夏の終りの下町の、ジワジワ流れる蝉の声、背中に滲む汗の色、舗装されたるアスファルト、そこへ濃い影を落としたその女は、言いながらしかし笑っている。

 分からないというのはさいていなことだ。それを自身は知らないが、他人は分かっている。そのみじめさ、哀れさ、戸惑いや羞恥、焦り、苦しみ。なんでこんなこともわからないんだ? 他人には常識であるその知識が分からない。生活を他人と共有するというのはお互いの常識をすり合わせるということだ。それに少しずつ時間を掛けて軌道修正を試み、結果として快適な相互関係を創造する……それが”分かる”ということだ。理解し合うということだ……しかし、”分かる”ということの前には、”知る”ということが必要だろう。たとえばのはなし、蝉でも、かぶとむしでも、何でもいいが……その”蝉”という名前を持った虫のことを知らないでは、蝉のことは”分からない”。まずは分からないものの入り口に立つことが必要だ。知るというのは、分からないそのものの入り口にまず立ち、その事象そのものの存在を認識しなければならないということ……つまり……

 私にはまだ、知らないものがある!

 花を眺めて歌を作ったり、呼吸の不思議におもいを馳せたり、ブッキョーだの漢学だのといってみたり、叶わない恋に酔っ払ったり、こどもをつくったり家を建てたり壊したり建てたりをしているばあいじゃなかったんだ。どうしてこんなろくでもない、どうでもいいことに血道を上げて、まるでそれらだけが生きることのすべて、それらをすること自体が生きることの内容だなんてことを、信じることもなく、”そうだと決め込んで”居たんだろう……本来、私はそんなことをするためにここに来たんではなかったのに。でもそうだとすれば、私はここへ何をしに……

 ああ、分からない。ちょっと待ってくれ。今いいところなんだ。何かが掴めそうな……千年経って、ようやく分かったんだよ。つまり、分からないということが分かった。だからこれから私は更に、知らないことを知り、そして知ったことを分かるようにならないと。それはきっと今回以上に骨の折れることだろう。だけどそうじゃなくちゃ甲斐がない。せっかくこんなに面白いところに来ているのに……遊び尽くさなければ意味がない……

「あ、あ、あ、ヤバい。駄目だ。来る来る来る」

 彼女はその場で立ち止まったまま、ばりばりと頭を掻いた。

 その時、バラバラバラバラ……とけたたましい音が上空から聞こえ、彼女は顔を上げた。

 八百屋だの肉屋だの花屋だの魚屋だのが軒を連ねるその商店街の上空には、すでにして小型ヘリコプターの姿があった。なんだなんだと様子を見に来た八百屋だの肉屋だの花屋だの魚屋だのその客だので商店街はてんやわんやの大騒ぎ、ヘリコプターの開け放たれたドアの向こうから、黒服に黒眼鏡を着けた人物が、黄色いメガホンを持って何かを叫んでいる。ヘリコプターのバタバタバタバタ……という音にかき消されて、その人物が何を叫んでいるのか分からない、が、何かを言っているのは分かる。彼女は片耳に指を突っ込んで天を仰ぎ、「えっ、何っ?」と声を上げた。

「時間ですよー………」

 バタバタバタバタ……

「もう、帰らないとー……」

 バタバタバタバタ……

「われわれも、もうずいぶん待ちました。もう勘弁して下さい。これ以上は、とてもじゃないけど待てませんよー」

 バタバタバタバタ……

 ああ、待ってくれ。こんなのは、「もうご飯だからうちに帰りなさい」じゃないか!

 まるで夏休みの小学生のような気分だ。”今”が一番楽しいのに。午前中からずっとともだちと遊んでいたのに、今が一番楽しい。「もう帰らなきゃ」という時間になればなるほど、その空間への名残惜しさが強くなり、いつまでもそこへ居たいとおもってしまうのはどうしてなんだろう?

「もう少し待って」

 彼女は天上を見上げて哀願した。しかし彼女の言葉はヘリコプターのバタバタバタバタ……という音にかき消されて、全然、誰にも聞こえなかった。駄目だ、もう時間がない。

「ひさみちくんにカセットも返してないし、これから返しに行くところなんだ。借りたものは返さないと」

 バタバタバタバタ……

「八百屋のおかみさんにもバイト辞めるって言ってないし。予備校の後期のお金も払っちゃったんだよ。僕は大学に行くんだ。大学行って外国語を学ぶんだ。もう少しだけでいいんだ。あとほんの少しの時間があれば、いや、やっぱりもう少しじゃ足りないな。あと五百年、千年、そのくらいあれば、ここで本当にしたかったことが分かる……」

 バタバタバタバタ……

「あと千年だけ。お願いだから、あと千年だけ、待って下さい!」

 バタバタバタバタ…………


****


 川が流れている。

「そんなところで何をしているんだ」

 彼女は尋ねた。すると、尋ねられた彼女は振り返って、そして言った。「お姉さんを待っていたの」

 風もなく穏やかな様子で、川は滾々と何をすることもなく流れている。「ずっとしてみたかったことがあるんだけど」

 彼女はそれを、とても素直な気持ちで話している。こんなことは、生きているうちではできなかったことだ。

 どうしてあんなに素直に言いたいことを言えないでいたんだろう、と彼女はおもった。

 はじめのうちは、ただ話しているだけで良かった。話すのが楽しかった。理解してもらえるのが嬉しかった。やっと出会えたんだとおもった、つまり、言葉の通じる相手と。話せるだけで良かったんだ、本当は。それ以上のことを、というよりも、それ以外のことを求めるような不純が生じたから、それに伴って感情は複雑に入り組んで、一番最初にそうしたかったことを忘れてしまう。あそこには人の心を夢中にさせる、たくさんのものに溢れていたから。でもここは違う。ここには何もないし、彼女もなにか手持ち無沙汰のように、ぼんやりと川を眺めていただけだ。

「散歩がしたい。ちょっとそこまで歩かない?」

 空にぽっかりと黒い穴が空いている。川のそばの砂利道に注がれている青い光の中で、二人の影はどこまでも長い。

「ずっとこうしたいとおもっていたの。でも言い出せなかった」

「何が?」

「お姉さんとふたりで歩きたかったの。夜の散歩がしたかった」

「そんなこと……すればよかったんじゃない?」

「女が? 深夜に? 自らの足で? 徘徊を?」

「あの時代としては気狂い沙汰だったかもしれないけど」

 彼女は歩きながら天を仰いだ。「時代は変わるよ。女が、ふたりきりで夜の散歩をしていても可笑しくはない。多少危険であることには変わりないけども」

「私とあなたが女同士でなかったら」

 彼女は言った。「危険ではなかった? 深夜に散歩しても、変じゃない?」

「それは、変じゃないだろう」彼女は顎を撫でた。「みんな平気でそういうことをしているだろうし」

「死んでからなら、変じゃない」彼女は言った。「誰も私たちを邪魔する人なんか居ないんだから。ここでだったら誰も私たちの噂をしないし、私があなたにどんなことを口にしても、聞いている人だって居やしない」

 彼女は言った。「だからずっとここで待っていたの。ここでなら全部話せる。私がほんとうにしたかったこと、あなたが……」

「散歩、如きのこと」彼女は呆れて笑った。「死んでからじゃないとできないものなのか?」

「私はお姉さんとお散歩がしたかったの」

 彼女は言った。

「私の目的はたったそれだけのことだった。でも、たったそれだけのことでも、叶えることができなかったから、ほかのことにあくせくして、それを目的としてすり替えて、仮の満足を、本物の満足に仕立て上げていただけ。でもずっと悲しかった。いちばん……ほしいものが、手に入らなかったから」

 彼女の手が、彼女の手に触れた。

「手を繋いでもいい?」

「………………」

「握手をしたこともない……この手ですけど」

「どうでもいいけどね」

「繋いでいいですか?」

「………………」

 彼女はその冷たい指に、自身のそれを絡めた。彼女はとても幸福だった。ずっと、それだけを望んでいたから。

「ああ、それにしても、クソッ」

 だけど幸福で居る彼女のとなりで、もうひとりの彼女はまた別のことを考えている。「駄目だ、もう一回行かなくちゃ」

「もう、いいじゃあないですかあ」

「駄目だよ。まだだめだ。くやしいよ、みすみす。もうすこしで分かりかけたところだったのに……」

「ほら、川の流れがきらきらして。きれいですよ」

「そうだよね。そういうものもある。分かっているんだ。でも……」


 おや(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら。


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不思議の国のかぐや姫 島波春月 @summerbaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ