【短編完結】人間に私も、含まれますか?

水無月彩椰@BWW書籍化販売中

エゴイズム、エゴイスト

 涔涔しんしんと降る雪のなか、その積雪一センチを、シャクシャクと踏み固める。私は築四十数年の、ひなびたアパートの軒先に入って、肩にかかった雪を振り落とした。それから、一階の最奥にある部屋の前に立って、強ばった手を無理やり動かしながら、扉を開けた。


 仄暗い廊下に、私の影と薄日が射し込む。廊下と併設したキッチンの、その隅にある冷蔵庫の傍らに、私は左手に握りしめていた買い物袋を、そっと横たわらせた。


 そのままリビングに向かう。



「マスター、買い物は終了です」


「適当に作っといて」



 先日──私がマスターに購入されたのと同じ日──に出したばかりの炬燵こたつにあたりながら、彼は外出前と変わらない姿勢で、ノートパソコンに視線を向けていた。私の方を見ようともしない。けれど、それも慣れた。



「チルドラーメンがありますので、それにします」


「……」



 返事はない。いつも無言で何か作業をしている。机の上は、相変わらず、訳の分からない書籍で覆い尽くされている。床といえば、足の踏み場も無くなりつつあった。


 マスターの沈黙は、だいたい肯定。私は改めてそう認識すると、キッチンに戻って、夕食の準備を始めた。


 ◇


「マスター、夕食です」



 完成したチルドラーメンを、彼の前に置く。湯気が朦朦もうもうと立ち込めて、視界が少し霞んだ。


 私の夕食は無い。私は、アンドロイドだから。人間とは違って、栄養の摂取が必須なわけではなかった。食事をしなくても餓死はしない。それだけのことだ。


 炬燵にあたりながら、マスターの食事を見守る。


「美味しいですか?」


「メーカーの味だ。変わりようがない」



 ──マスターに購入されてから、五日が経過した。生活の全般を、私に委託するために購入したと言っていた。彼が時間の全てを、その得体の知れないノートパソコンの向こう側に注ぎ込むために、私が代役で動いている。いまの待遇が良いのか悪いのか、それは分からない。



「40998、胡椒こしょう


「はい、どうぞ」



 マスターは私を型番で呼ぶ。製品名で呼ばないのは、私が量産機のアンドロイドだからだ。どこかで同じ名前を呼ぶ人間がいることを、嫌っている。それならば、型番で呼んでしまった方が良いと言っていた。



「──人間っていうのは、みんな気取りたがりだ」



 マスターはやにわに、そう呟く。けれど私は、それをもう、耳に馴染むほど聞いていた。この数日間で、ことあるごとに、彼はその話を私に聞かせている。



「文化人や知識人はおろか、一般人に至るまで、『人間は最高等の知的生物だ』なんて思ってらっしゃる。つくづくプライドが高い。けど、そんなものは虚栄だろう」



 それがマニュアルであるように、マスターは続ける。



「常識だとか理性だとか学問だとか、そういう上辺で着飾って、『人間らしく』澄まし顔。元々は人道も博愛も何も無い、自然淘汰の野蛮な革命家だったってのに」



 スープを一口、喉仏が動いて、小さく震える。



「僕はそんな、お気取り様にはなりたくないね。『人間らしく』いるよりは、『人間らしい』生き方がいい」



 飄々ひょうひょうと答えるマスターを見て、ふと思う。今まで聞いていた時には、何も考えすらしなかったのに、不思議だ。



「──人間に私も、含まれますか?」



 プログラム化された声が、空気に融けていく。マスターは食事の手を一瞬だけ止めて、その双眸そうぼうを私に向けた。それから小さな嘆息を洩らしたように、私には見えた。



「アンドロイドふぜいが──人間に君は、含まれない」



 それは、残念。声には出さず、そうとだけ思う。



「人間らしい生き方とは、なんですか?」


「いっそ、昔に戻ればいい。人道も博愛も何も無い、利己主義、その一点張り──エゴイズムの権化が人間だ。殺してでも勝ち取るくらいの気概がなければね」



 真箇ほんとうの人間になるためには、それが必要らしい。


 ◇


 マスターの、細身な手。無言で突き出された器から、余ったスープがピチャリと跳ねる。それが私の皮膚にかかって、ほんの少し、焼けるような痛みが、鈍く走った。


 机に溢れた余りものを一瞥して、「拭いておけ」とだけ、そんな一言。私は器を受け取ると、手近なティッシュで証拠隠滅、そそくさ、と、キッチンへ逃げ込む。


 シンクに器を置いてから、例の右手を観察してみた。ひりつくような痛みとともに、赤みがじんわり、広がっていく。けれど、これも、アンドロイドのプログラム。いわゆるところの紛いもの。人間だったら、まだ良かった。人間だったら、仕方がないのに。人間だったら。


 ──購入されて、今日が五日目。似たようなことは多々あれど、さっきのは少々、不快だった。私が人間なら、きっと、倫理上の問題が生じるはずなのに。私がアンドロイドだから、きっと、そんなことは気にしていない。


 ──人間に私も、含まれますか?


 今だから、その質問の意味が、少しだけ分かった。私が人間になれるなら、この現況も、きっと変わる。少なからずマスターは、今とは違う形で、私に接してくれる。


 でも、どうすれば、私は人間になれるのだろう。


 蛇口をひねって、水を出す。滲みるように冷たいそれを、スポンジに含ませて、洗剤をかけて、器を洗う。


 そういえば、マスターは言っていた。『人間らしい』生き方があるって。利己主義、エゴイズム、殺してでも勝ち取るくらいの気概があれば、人間になれる、らしい。


 できることなら、私は人間になりたい。そのためには、このエゴを、どこにぶつければいいのだろう。


 ──甲高い音が響いて、ふと我に返る。シンク一面に、大小様々の破片が散らばっていた。器が割れたらしい。急激な温度変化のせいで、亀裂が入ったのだろう。


 これが見付かったら、きっとマスターに怒られてしまう。私は人間ではなくて、アンドロイドだ。アンドロイドだから、マスターは私に何をしても構わない。それは嫌だ。だから早く、人間にならなくてはいけない。



「痛っ──」



 焦燥する私を引き留めるように、指先を鋭い痛みが走った。器が割れた時に、切ってしまったのかもしれない。皮膚の上を、細かな線が一本だけ浮かんでいる。


 けれど、それだけ。人間ならば、血液が漏れてくるはずなのに、私には、それが無い。私はまだ、アンドロイドだから。私が人間になるためには、血液も必要だ。


 ──あぁ、でも、マスターにこの状況が見付かってしまったら、とても困る。それに、血液も欲しい。だけど、殺してでもエゴを勝ち取るくらいの気概があれば、人間になれるんだから、えぇっと、マスターには怒られたくないし、人間になるためには、血液も欲しいし、マスターを殺すくらいの気概があれば、人間になれるのだから、そう、そうだ、マスターを殺せば、全て叶う。


 蛇口から出ていた水は、いつの間にか、お湯に変わっていた。私はきっと、あの赤い方に手を伸ばしていたのだろう。冬だから、お湯が出るまでには、時間がかかる。四十三度の温かさを右手に浴びながら、私はこの、指先からじんわりと熱を帯びていくこの感触に、陶酔(とうすい)していた。冷凍漬けの感情が、溶けていく気がした。


 こんな単純なことに、私はどうして、なかなか気付けずにいたのだろうか。胸臆きょうおくから湧いてくるこの多幸感が、脳髄の隅の隅まで染み渡って、そうして、満たしていく。全てのピースが寸分違わず噛み合って、そうして結論が証明されたあとの、この清々しさといったら!


 包丁を握る手も、床を踏む足取りも、みな軽やかに舞い踊って、私はいま、自分がどれほどの──それこそ、最高に屈託のない笑みを浮かべているであろうことも、鏡を見るまでもなく、容易に想像できることだった。


 マスターに顔を向けるのを、これほど楽しみに思ったことはない。眦(まなじり)の下がった目付きをして、私は彼のいるリビングへと向かう。ステンレスの鈍い光が、蛍光灯の照明に爛々らんらんと反照していた。それはとても綺麗だった。


 マスターは炬燵にあたりながら、食後の就寝をしているらしい。いつものことだけれど、今日に限っては、殺しやすくなるので、助かる。自然に出てしまっていた鼻歌を抑えながら、私はマスターの傍らにしゃがみ込んだ。



「わぁ……」



 思わず、声が洩れる。色白なその肌には、仄かに赤みを帯びた血液が流れているのが、分かったから。大して整えていない髪の毛も、切れ長の怜悧りこうそうな目付きも、私はいま、改めて観察してみると、マスターは、この人は、こんな顔をしていたのだなと、不意に思った。


 彼の首筋に、煌々こうこうと照る蛍光灯の光を反射させて、私はステンレスの包丁を、逆手に握りながら深呼吸する。


 ここ、ここだ。ここを狙って振りかぶれば、マスターを殺すことができる。一度、二度、とそのイメージをしながら、固く握りしめた両の手を、小さく動かした。



「……よしっ」



 覚悟を決めて、三度目。ひときわ大きく振り上げた手に、得体の知れない力が篭もる。陶磁器のように白い彼の肌には、薄墨にも似た、淡い、私の影が覆っていた。


 ほんの一瞬だけ息を止めて、渾身の力で、包丁の切っ先を突き立てる。刃先が、マスターの首筋に刺さった。皮膚を裂いて、肉に食い込み、貫いて、頸動脈を切って、骨を割るその感触さえ、私にはまざまざと感じられる。


 吹き出してくる鮮血を頬に浴びながら、生ぬるいその感触と、鉄錆びたその臭いと、鮮やかなその色彩に、私は少しだけ、見蕩れていた。マスターの首筋に突き立てられた包丁は、根元が蘇芳すおうに染みたようで、床に散らばった血痕は、蛍光灯の柔らかさに、爛々と降られている。



「やったっ」



 満面の笑みで、私は拳を握りしめた。そこにこびり付いたマスターの血液が、独特の異臭を放って、鼻腔にまで届いてくる。爛燦らんさんと照る紅血の、その綺麗さに、私はいま、自分が人間になれたのだと、これ以上ないほどに晴れ晴れとした心持ちで、安堵と、満足の溜息を吐いた。


 そうだ、これで良かったんだ。私はこれで、私のしたいことをやり遂げた。殺してまで、勝ち取ったんだから。







 ──でも、これから私は、どうしたらいい?






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